楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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小山宿へ(旧日光街道・奥州街道を歩く 47)

2016年06月04日 05時38分31秒 | ひとり歩き旅
前回千駄塚古墳上の浅間神社をご紹介したが、このあたりから小山宿に入って行く。

国道4号線を進むと(粟宮南)の信号に出る。
交差する道路は県道33号線で、信号を渡ると左手に立派な酒造会社の前に出る。
醸造するお酒は「若盛」地酒である。

最近酒造業だけでなく、どこもレストランなどを併設して好評を博している。
ついでにお酒の宣伝もできるというものだ。

(雨宮南の信号)

(地酒「若盛(ワカサカリ)」の看板)

(歴史を感じさせる酒造業の建物)


酒造会社を探している訳でなく、
このあたりに有る筈の「大橋訥庵(おおはしとつあん)」の旧居跡を探しているのだが、見当たらない。
資料上には、このあたりと思われるが・・・・

しばらく歩くと表札に「大橋」なるものが出てくるが、
攘夷運動の中心人物の旧居らしくない佇まい。
何よりも旧居跡と言うから標柱だけかもしれない。

そう考え直して後戻りしたが、植木屋さんがいるばかりで、
それらしい標柱は無い。
よくよく目を凝らして歩くと、それらしい看板があった。
植え込みの中に(大橋)の看板が無造作に置いてある。
が、これも歴史を物語るに足りない。どうも違うようだ。
それでも見当たらないからこれと決めて、通り過ぎることにした。

(大橋訥庵の旧居跡か?)


大橋訥庵(おおはしとつあん)は、江戸時代後期の儒学者で、
幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした人物だ。

しばらく歩くと、国道四号線は左へ曲がって行き、
県道265号線(旧日光街道)は直進する案内看板が見える。
そして案内にあるように約300mもすると、
その交差点(粟宮/あわみや)に出る筈だ。

しかし、その手前に「安房(あわ)神社参道入り口」の看板があり左折する。

(国道四号線左の案内看板)

(「安房神社参道入り口」の看板)


間々田商工会によると、
(この神社は、平安時代中ごろの「延喜式」に記載されている古い神社で、
崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている。
遠い昔、安房(あわ)の国(千葉県館山市)の安房神社を祀る人々が、
よき土地を求めてここに永住し、神を祀り、
粟(あわ)を栽培したと言われている。――後略)とある。

そんな所から地名の粟宮(=安房宮)になったのだろうか?
やや眉唾な説明に思える。

国道四号線を左折して、参道に向かうが、
出たところは安房神社参道の中間地点、
左の「一の鳥居」と右の「二の鳥居」の間であった。

(一の鳥居が見える参道)

(二の鳥居が見える参道)


二の鳥居をくぐるとすぐ三の鳥居と御手洗場があり、
大きな龍が水を吐いている。
三の鳥居の正面が安房神社の神殿。
右側に由緒ありげな神楽殿がある、祭礼などには氏子で埋まりそうである。

(三の鳥居と御手洗場)

(神楽殿)


手と口を漱ぎ、神前で旅の安全を願い、帰りは三の鳥の前を左折すると、
なんのことはない国道四号線に出て、ここにも鳥居がある。
小山駅方面から来た人たちの参道になる。

(小山方面からの参道になる鳥居)


左折すれば、すぐ(粟宮)の交差点である。
国道四号線は左折し、旧日光街道は直進する県道265号線である。

(粟宮の交差点)


265号線を直進する。
かなりの間ご説明するような場所はない。
やがて国道50号線と交差するところまで来る。

(国道50号線との交差点)


この交差点で信号を見て驚いた。
交差点には土地の名前が入っているのだろうが、
なんと「神鳥谷(東)」と書いてある。
土地の方は読めるのだろうが、初めて見るボクには読めない。
「かみとりや(ひがし)」?「しんちょうや(ひがし)」「かみとりたに(ひがし)」?
この時ボクは読み方を考えることをギブアップした。

皆さん読めますでしょうか?

信号機の地名にローマ字の仮名が振ってある。
「Hitotonoya―East]とある。「ひととのや」と読むらしい。
ボクはこのローマ字をみて唖然としました。
何処をどう読めば「ひととのや」と読めるでしょう。

(「神鳥谷(東)」の「Hitotonoya―East」の信号機)

(Hitotonoya―ひととのやの信号機)


この難解な読み方の地名の信号機のある交差点を過ぎると、
左手になんの変哲もないごく普通の「天満宮」がある。
どうしてこんなものが名所なのか?

(天満宮)


この天満宮について、氏子の総代が残した説明を要約すると、
(この天満宮の創建についてはあまりにも古く分かりません。
現在は、天満宮、稲荷神社と雷電神社が合祀されているが、
天満宮より新しく祀られた稲荷神社の棟板(むないた)に、
明和四年(1767)十二月、社殿の落慶式の祭主は、
東醍醐山 持宝寺の住職であった。
もともと天満宮は持宝寺の末寺である、青蓮寺の和尚が祭主を務めており、
こうした落慶式のような大きなお祭りには、本山の住職が導師となっていたからです。

この青蓮寺は今はありませんが、江戸時代末期、
徳川御三家の水戸斉昭公が、大砲製作のため、
領内のお寺に釣鐘を供出させた時、
青蓮寺の和尚さんは、
「人殺しに仏様の釣鐘を使うてゃ何事か」と反対し、
一夜のうちにどこかへ隠してしまった。―後略)とある。

しばらく旧日光街道を進むと、左手に持宝寺が見えてくる。

(持宝寺)


「新義真言宗 持宝寺」と石柱にあり、門柱左には「弓削道鏡根本開基寺」とある。

(*)新義真言宗=空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の一つで、
   高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。



コメント (12)
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