楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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家康天下分け目の決断―小山評定(旧日光街道・奥州街道を歩く 48)

2016年06月11日 05時18分57秒 | ひとり歩き旅
しばらく旧日光街道を進むと、左手に持宝寺が見えてくる。
小山市内の中心部に入ってきた。

右手には小山宿の一里塚跡が有る筈であるが、見当たらない。
一里塚らしきこんもりとした木が生えている場所があるが、
ここかどうかは疑わしいが、写真だけ乗せて置く。

(小山の一里塚らしく思える場所)


この先の信号左手に持宝寺が見える。
石柱には「真義真言宗 持宝寺」とあり、門にかかる板には、
「弓削道鏡根本開基寺」とある。

(持宝寺の鐘楼門)

(門前の石柱と門にかかる板)


持宝寺は宝亀3年(772)弓削道鏡による開山とされていますが、
かっては御殿付近(*)にあったのを本多正純の小山城改築により、
現在地に移転された。
享保13年(1728)徳川八代将軍吉宗の日光社参の際は、この寺で休憩しました。
小山市指定文化財で市内唯一の江戸時代の梵鐘が保存されている。

(*)御殿とは、家康亡き後日光社参の際の将軍家の宿泊所となったところ。
   1633年徳川家光が最後で、しばらく中断していた。
   1728年吉宗が日光社参を再開するまでの間に御殿は取り壊されている。
現在は小山市役所になっている。

(持宝寺の美しい本堂)

(江戸時代の梵鐘)


小山市教育委員会の説明によると、
(寛政四年(1792)に佐野の鋳物師が鋳造した梵鐘で、
先の戦争中に金属の供出命令から唯一免れた梵鐘で、
免れた理由は、鐘の銘文中に
「当寺は人皇四十六代孝謙天皇弓削道鏡廟塔」と、
天皇の文字が刻まれていたため。)とある。
道鏡の廟は見当たらない。

日光街道を進むと、左手に「須賀神社会館左折」の看板と
灯篭があり、小山市の案内板も見える。
左折しようと道路を見ると、右手に
「須賀神社」の石柱があり、石の鳥居も見え、
さらに奥に二の鳥居も見える。
道路の両脇には欅の古木が立ち並んでいる。
須賀神社の参道で二の鳥居まで500mあろうか、
長い参道である。

(須賀神社左折の案内)

(須賀神社の石柱と一の鳥居が見える欅の参道)


参道を歩いて、二の鳥居に近づいて驚いた、
国道四号線の向こう側に須賀神社はある。

(ケヤキ並木の美しい参道)

(国道四号線上で見る須賀神社)


鳥居脇に、何やら新しい石碑が建っている。
表題を見ると「徳川家康公小山評定之碑」とある。
中身を読むと、ボクの様な歴史音痴が沢山いると見えて、
(小山評定)って何だと役所に聞きに行く輩が多いらしく、
いちいち答えていると本来の仕事の邪魔になるのか、
ここに碑を建てて勝手に読んでもらう様にしたのであろう。

(家康公小山評定之碑)


ところがボクの様な横着者が出てきて、
今度は神社に、あの碑は何が書いてあるのかと、
聞きに来るものが出るので、神社では、その碑の内容をコピーして
碑の脇に封筒に入れて置くことにしたらしい。

このブログをお読みの方は、歴史にお詳しいのでしょうが、
我慢していただきご覧願いたい。

とりあえず、ボクの歴史知識を確かなものにするため、須賀神社作制の一部を紹介する。

(徳川家康公は慶長五年(1600)、上杉景勝討伐のため江戸から会津に向かう途次、
当地小山において、石田三成が家康公打倒のため挙兵したとの報を受け、
急遽会津への進軍を中止し、
七月二十五日、当地に諸侯を集めて軍議を開いた。
これを後に「小山評定」と言う。
参集した諸侯は、秀忠公はじめ、福島正則、結城秀康、黒田長政、本多忠勝、
井伊直政、山内一豊、浅野幸長、細川忠興、堀尾忠氏、池田輝政、藤堂高虎、
松平忠義、加藤嘉明、寺沢弘忠他である。―以下省略)とある。

かいつまんでご紹介すると、

この小山評定は、後の江戸幕府成立の道筋をつけた会議と言える。
「このまま上杉を討つか、反転して石田三成を討つか」を問うたのは、
家康に従う上杉討伐の諸将の殆どは豊臣家譜代の武将で、
大阪に妻子を残してきており、その去就が家康にとっては攻防の境目だった。
このとき、尾張清州(愛知県)城主の福島正則が家康のために命を投げ出すことを誓い、
続いて遠江国掛川(静岡県)城主の山内一豊が、
「家康に城を明け渡してまでもお味方します」と進言。
この一豊らの建議が並み居る諸将の気持ちを動かし、
家康支持に固まり、この時の一豊の建議を
「古来より最大の功名なり」と家康が絶賛したことは有名です。

そこで打倒三成に向かい、
関が原の合戦で大勝利をおさめたのはご存知の通り。
以上が小山評定のあらすじだったのです。

今年のNHK大河ドラマ「真田丸」で小山評定のシーンが出てくるかもしれません。

話が前後しますが、間々田の小山市博物館に入場するや否や、
武将の鎧兜六体がお出迎えして不審に思ったが、
この小山評定を知って、この評定に列席した主な武将の鎧兜だということが解った。

(小山博物館の六体の鎧兜)


脱線してしまいました。
話を須賀神社に戻します。

奥に神社の立派な門があるが、その手前参道中間に古びた鳥居がある。
日光東照宮の鳥居に次いで古いと言われる鳥居である。

また、神社の「神門」の扁額には「神明照覧」とありますが、
神門両側にある隋神像について、
普通、神社の神門におまつりしたご神像の多くの隋神像は、
剣を帯び、背に矢を負い、両手に弓矢を持つ衛門の姿であるが、
須賀神社の神像は平和な世を祈念して祭祀の最高服である束帯を着用し、
両手で正面に笏(しゃく)を持つ白木の座像となっていると言う。

(神門までの参道中間にある古い鳥居)

(立派な神門、扁額に神明照覧」とある)

(神門の剣を持たない隋神像左)

(神門の剣を持たない隋神像右側)


さて、肝心の小山評定が行われたのは、小山城であるが、
現在は小山市役所があり、小山評定の跡地と伝えられる場所が、
市役所の中庭に残っています。

(小山評定跡の碑)






コメント (14)
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