楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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間々田八幡宮(旧日光街道・奥州街道を歩く 46)

2016年06月01日 06時30分54秒 | ひとり歩き旅
寝起不動尊の龍昌寺を後に、
日光街道を進んで(間々田)の信号を越える。

(間々田の信号)


信号の先に間々田宿の問屋場跡の案内板があるが、今は駐車場になっていて、
国道4号線上東京から72km地点にある。

(間々田宿の問屋場跡の案内板)


案内を要約すると、
(間々田宿は、五街道の一つ日光街道の江戸から十一番目の宿場で、
江戸と日光のちょうど中間にあたる。
天保十四年(1843)の記録では、
家数175軒
人口974人
旅籠50軒
本陣・脇本陣 各一軒
であり、幕府の定めで、人足25人、馬25頭を備え、
幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引き受けていた。
(中略)
参勤交代などの荷役、配送などの手配一切を取り扱って、
その業務をつかさどるのが問屋で、間々田宿の上原家が名主職を兼ね、
代々世襲で幕末まで続いた。)(間々田商工会)

その少し先に間々田宿の本陣跡がある。
今は何も残っておらず、ただ案内説明番が残っており、
本陣跡は駐車場になっている。

(間々田宿本陣跡の案内板)


本陣は大名の参勤交代の宿泊場所で、いろいろな決まりがあった。
玄関には、駕籠を乗り付けられる広い式台が必要であり、
大名が泊る上段の間が必要で、
万一の事があればさっと逃げ出せる裏道が必要なこと、
高張提灯は当たり前、上段の間の床の間の裏側には、
いつでも飛び出せる警備の武士の間が必要なことは言うまでもない。
詳しくは、中山道馬篭宿の島崎藤村の小説「夜明け前」を参照されますよう。

日光街道はその先の信号に、「八幡宮」の石碑と一の鳥居が立っており、
左折すると鳥居をくぐって間々田八幡宮の参道につながる。

(八幡宮の石碑と一の鳥居)


一の鳥居をくぐり間々田八幡宮の参道を進む。
道路は右に大きく弧を描いており、
およそ5分もすると間々田八幡宮の森と二の鳥居が見えてくる。

(間々田八幡宮の森と二の鳥居)


鳥居を過ぎると本格的な神社の森の中に石の参道が伸びて、
参道は下り坂になっている。
鳥居右脇には、三代目であるが源頼朝が戦勝祈願をして植えた松の巨木がある。

(頼朝お手植えの松)

(下り坂の石の参道)

参道を下り切った右手に弁天池があり、途中に厳島神社の分社があり、
赤い橋を渡った向こうに芭蕉の句碑がある。

(弁天池)

(厳島神社)

(赤い橋の向こうに句碑が)

(古池や・・・の句碑)


参道の右手に弁天池を眺めて、正面に目を移すと、
階段があり、その先に神殿がある。
これが間々田八幡宮である。
江戸時代に焼失して後、およそ五十年かけて再建されたという。

(階段の上の間々田八幡宮)
(間々田八幡宮の神殿)


境内には八幡古墳群と呼ばれる大小様々な墳丘が点在する敷地約2万坪に及び、
一部は間々田八幡公園として開放されている。
神殿隣の森には、古木が生い茂り中でも天然記念物に指定されている三本のコナラ、
根元部分がつながる夫婦杉は、夫婦和合や縁結びのご利益で親しまれている。

(コナラ)

(夫婦杉)


間々田八幡宮をあとに、国道4号線に戻り進むと、
右手に行泉寺が左手に浄光院が見える。

(行泉寺)

(行泉寺の石柱と門)

(ようこそ行泉寺)

(行泉寺の本堂と池のカエル)

(カエルの親子)


この行泉寺は慶安元年(1648)白鳥村から移転してきたと伝えられる。
左手の浄光院は、以前は阿弥陀寺と称したと言われ、
境内にはその名残の観音堂があり、現在の本堂は安永四年(1775)に再興されたと言う。

(真言宗浄光院の門前と鐘楼門)

(本堂)

(観音堂)


日光街道を進むと(千駄塚)の信号がある。
道路わきには、読みにくいが、
「栃木県指定 史跡 千駄塚古墳」と刻まれている。
左折道路の右脇には、「村社 浅間神社」とある。

左折すると、突き当りが小山になっていて、
鳥居があり浅間神社とあるが、
鳥居脇には「史跡 千駄塚古墳」の石柱が立っている。
つまり千駄塚古墳の頂上に浅間神社があるのだ。

(千駄塚古墳の石柱)

(村社 浅間神社の石柱)

(浅間神社の鳥居と千駄塚古墳)

(頂の浅間神社)


間々田神社でも大小古墳群があったが、
思川流域に古くから文化圏が在ったことが窺がえる。


コメント (8)
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