前三回にわたって、大原三千院のお手洗い横の石灯篭からはじまって、
茶室の路地にあった織部灯篭が、隠れキリシタン灯篭であると、
考えてきた。
しかし隠れキリシタンは現在でもその行動を伝えて、
長崎の一地方で実行されている方々がいらっしゃると伝え聞いている。
その隠れキリシタン研究の第一人者の田北耕也氏の研究によると、
この信仰が現在も継承されているという。
しかし現在も継承されている隠れキリシタンの崇拝物は、
このキリシタン灯篭とは全く関係が無いようだ。
(織部灯篭、またはキリシタン灯篭)(板橋区の延命寺)
それでは、現在のキリスト教徒は、この「キリシタン灯篭」を、
どのように考えているのか、日本キリスト教大辞典を見てみよう。
(以下は、日本キリスト教大辞典「織部灯篭とキリシタン宗門」松田毅一より)
『さて、問題の「隠れキリシタン灯篭」と言われるもの、
またはその一部に対する誤った呼称、織部灯篭は近世初期から愛用され、
茶室のみならず、寺社、庭園、墓地など、その使用は全国各地に分布している。
通常、竿石上部が横にふくらみを持ち、
下部に人像が刻まれている点が大きな特徴とされる。
(人物像)
(人物像2)
この種のものがあたかもキリシタンと関係があるかのように、
世間で言われるようになったのは、大正12年(1923)頃からで、
静岡の某氏が宝台院の一基の下部に人物像があることに注目して、
同地の教会のフランス人司祭に見せた所、カトリックの聖人像で、
服装はローマの法服であると認定したと言う。
(目黒の大聖院のキリシタン灯籠)
この種の灯籠と同型の石造物はどこにでもあり、
それがキリシタンと関係があるかのように言われ始めると、
大正末期から昭和初期にかけてキリシタン研究が活況を呈し、
高槻山中や長崎などキリシタン遺物が紹介され、
人々のキリシタンに対する関心がにわかに高まった事と相まって、
各地で騒ぎ出すようになった。
昭和23年(1948)に西村貞は「キリシタンと茶道」において、
織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけよう論証に努めたが、
今日に至るまで織部灯篭をキリシタン宗門と関係があると、
立証したものは誰も居ない。
もとより古田織部その者もキリシタンではない。
竿石のふくらみや仏像の彫刻を含め、その灯籠そのものも、
笠塔、卒塔婆、五輪塔など、中世以前から存在した仏教関係の
古い石造文化財の影響を受けている。
(上部の記号)
殊に竿石上部の記号は、灯籠とは別に、
17世紀中期から供養塔、墓標、庚申塔が急に造立されて以来、
そこに刻まれるようになったものが、竿石にも印刻されるに至ったようだ。
以上述べたように、織部灯篭は隠れキリシタンの灯籠ではない。
隠れキリシタン灯篭と言うことにすることで、
世間の人たちの興味をそそるだけの事である。』と述べている。
(切支丹灯篭の説明板)
目黒区教育委員会が「切支丹灯篭」として、説明しているように、
キリシタン灯篭と考えるのもよし、
あるいは、キリシタン灯篭とは全く違っており、
茶の湯にわび、さびを伝えるだけの石造物で、
上に火袋を乗せれば「灯籠」で、手水鉢を乗せればつくばいにと考えてもよい。
茶室の露地の置物と考えれば、それだけで心休まる。
以上四回にわたって、述べてきたが結論としては以上の通りである。
皆さんいかがだったでしょうか。
やはり謎が解けない方が良いのかもね。
でも小説や歴史書の世界では隠れ切支丹が
明治まで生き延びた方が面白いのかな。
五島列島とか教会だらけですね。
ホッとしています。
不思議な文字は「侘び茶」の極意のようにも
感じられますね。
楽しいし未知の世界への興味が深まりますね。
しかし今でも隠れキリシタンの影響は残っているようですから、むやみな事は言えません。
戦国大名の中でも、戦に明け暮れる人の性に飽き飽きしていた人もいたのでしょう。
茶の湯の静寂の中に身をゆだねたのでしょうか。