(荒宿の信号)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/99/47ba17fd024152601fd8d4a6988e2927.jpg)
(聖福寺の石塔)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/f1/4e907aad2114ee0c03918b0f6257d360.jpg)
(幸手宿4)
街道を進むと、(荒宿)の信号があり、
次いで左手に(聖福寺)の石塔が見え、
奥のほうにいかめしい山門が見える。
山門前に聖福寺について(埼玉県、幸手市)の説明板がある。
(聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺(ぼだいさんとうこういんしょうふくじ)
と称する浄土宗知恩院の末寺で、
本尊は阿弥陀如来で観音像は運慶作と伝えられて言う。
徳川三代将軍家光が日光社参の折、
御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを初めとし、
天皇の例弊使や歴代の将軍が十八回にわたり休憩した。
将軍の間、例弊使の間、菊の紋章の入った勅使門があり、
左甚五郎作と伝えられる彫刻も保存されている。
また、ご朱印状により十石を賜っていたことが判る。―後略)とある。
勅使門の前に来ると、説明にあった「御殿所勅使門」の石碑があり、
菊のご紋の入った扉が付いている。
往時は、徳川将軍や日光例弊使が来た時しか門を明けることは無かったそうであるが、
将軍と間違えたわけでもないと思うが、ボクが訪ねた時は開いていた。
(勅使門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/1b/affa2d918002330494763d6a7aaeaab8.jpg)
(菩提山の扁額)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/b6/45712dd147e7a8cbddcc48e1c5b37dae.jpg)
(御殿所勅使門の石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/8c/6a9444a488d2a580b7b7a327e88848dc.jpg)
(門扉にある菊の御紋章)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/e2/2b13da48a6d91d698d3469caf69e8b70.jpg)
(鐘楼と本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/95/21b06cfc90cdd75fa0745b9eb9c52075.jpg)
勅使門右手に鐘楼があり、奥に本堂がある。
通りからは奥まっていることもあり、静寂に包まれていた。
聖福寺参道の右横に、芭蕉の句碑が建てられている。
・幸手を行ば栗橋の門 焦
・松風をはさみ揃ゆる寺の門 良
句碑左下の解説によると、
(江戸時代、門前の通りの日光街道は、将軍の日光社参をはじめ、
さまざまな旅人がゆきかい、その中には奥州へ向う文人、
芸術家も多くあったことであろう。
『奥の細道』の旅を終えた俳人松尾芭蕉は4年後の元禄6年9月13日、
江戸深川、芭蕉庵で十三夜連句を催した折、奥州の旅を思いおこし、
同行した弟子曽良と並んで右の句をよんだ。
時を経て、昭和62年4月10日付の新聞紙上、
埼玉の俳人鈴木一郎氏は、右2句を紹介しながら、
芭蕉に続いてよまれたこの曽良の句の門を
聖福寺の勅使門として間違いなかろうと説を示された。
平成13年、日光街道400年を迎え、同14年、山門の改修工事が成り、
併せてこの句碑を建立し、往時をしのぶものとする。
平成15年 秋彼岸
聖福寺第二十八世 静誉康隆
石碑の書体は、『芭蕉袖草紙』の原本を拡大複写して刻んだものである。)
とある。
(芭蕉句碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/19/483ba1e9ef400a962107f631c979cd9b.jpg)
聖福寺を出て街道を進む。
道路正面に大きな石灯籠が見え、奥にお寺らしきものが見える。
旧日光街道はその石灯篭の前を右へ緩やかに曲がって行く。
石灯篭の奥に香水山正福寺(こうすいざんしょうふくじ)がある。
(大きな石灯篭)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/9a/8c0da4b45b6fed36d0dc165c39d61a57.jpg)
(正福寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/9a/a15ad79e0009ec346f560a3dd27cce66.jpg)
正福寺(しょうふくじ)は、先ほどの聖福寺(しょうふくじ)と字は違うが、
読み方が同じで地元の方は呼ぶのに困るだろうと思う。
いずれにせよ、埼玉県と幸手市が紹介する説明では、
(正福寺は、香水山楊池院(こうすいさんようちいん)正福寺と称する
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王である。
当山は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する定法談林であり、
当時この寺は、四十九ヶ寺の末寺を持っていた。
また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っている。
境内には、県指定史跡の「義賑窮餓の碑」がある。
天明三年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、
冷害も重なって大飢饉となった。
この時、幸手町の有志二十一名が金品を出し合って、
難民の救援に当った。この善行が時の関東郡代伊那忠尊の知る所となり、
顕彰碑を建てさせたという。
また、樹齢四百五十年、根回り五メートルもある槙の大木があり、
県の天然記念物に指定されていたが、惜しくもかれてしまった。
―後略)とある。
(義賑窮餓顕彰碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/f9/b1a1a807c0c09dd392e69b37f3b46a32.jpg)
(史跡義賑窮餓の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/a2/2256faac26f538322576734df4369e02.jpg)
(道標の馬頭観音供養塔 左側面に見える左日光道中)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/e2/c4bd17f37c7e2cdd35b3e27e1ab58f86.jpg)
(枯れてしまった元天然記念物の槙)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/be/e35fc393e46e88d977f499791325ba87.jpg)
説明板にもあったように、正福寺は古い寺院であるため、
無縁になった墓が多くなり、寺の経営にも影響するのであろう、
無縁の墓を一箇所に集め、新しい墓地を売り出したに違いない。
無縁になった供養塔を境内入り口に山のように積み上げて供養してある。
(無縁仏となった供養塔の数々)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/c1/0bede4e8169a5242f9839616b599a135.jpg)
(左へ曲がる旧日光道中)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/db/b815f91a5db5ca0ddcd12230f83c161a.jpg)
正福寺を出て、旧道を行くとまもなく国道四号線に合流する。
その合流点の交差点を(内国府間)という。
権現堂川(中川)を挟んで手前が内国府間(うちごうま)、
橋を渡ると外国府間(そとごうま)になる。
奇妙な地名であるが、公民館などで訊いても、土地の年寄りに聞いても、
この変わった名前の由来を知っている人はいなかった。
(内国府間の信号で四号線と合流)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/fc/5f1537128a6bd1fe57690b7594566035.jpg)
(信号機 幸手 内国府間 Uchigomaと読む)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/1a/9a5ac95a4912815bd13a9beb7e3f5aa8.jpg)
この(内国府間)の信号を左折して、しばらく歩くと右手前方に、
ものすごい量の桜が見渡す限り続いている。
その量たるや圧倒的という意外に言葉を知らない。
さすが埼玉県随一の桜名所である。
(権現堂桜堤の圧倒的な桜)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/70/e7bc5cd8546e4ec8d90e35827bd56ac2.jpg)
桜に見とれて歩くと、左に八幡神社参道の石碑があるのに気づく。
参道の方へ左折すると、右手に神社の鳥居と本殿が見える。
この神社は、幸手城主一色宮内大輔の家臣、
遠藤石見清吉が帰農して開発したと言われている。
庚申信仰の対象となっていたという。
(八幡神社参道の石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/68/b8ed02e748bd68dc8c1f40ca87db4945.jpg)
(八幡神社の鳥居と本殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/9d/90de64a52958d583c9744e508246f259.jpg)
(神社脇の庚申塔の数々)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/b1/097ff9a6333d9ab2c3c7fa447b1ec2e7.jpg)
(石碑には庚申塔と書かれている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/3d/179bee7830dcd53053f6aa044551a09a.jpg)
旧街道に戻って、少し歩くと、中川をまたぐ橋に出る。
行幸橋(みゆきばし)という。
行幸橋の少し下流で権現堂行幸湖(みゆきこ)が、
権現堂桜堤にぶつかる様にして、中川に合流して流れていく。
橋の袂に信号があり、右手が権現堂桜堤で奥までつながっている。
国道四号線(日光街道)は橋を渡って直進する。
右手には権現堂行幸湖が川のようにあり、それに平行して進む。
この四号線は権現堂行幸湖が氾濫しないように、
住民によって造られた土手であった。
ここから栗橋まで長い道のりを行く四号線は、
右手に見える権現堂行幸湖の堤であったようである。
(行幸橋みゆきばし)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/6a/3cad7708501ff0cadea48829693e7904.jpg)
(行幸橋から撮った中川)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/85/48219f17002b06d8c86e3d68a487278f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/99/47ba17fd024152601fd8d4a6988e2927.jpg)
(聖福寺の石塔)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/f1/4e907aad2114ee0c03918b0f6257d360.jpg)
(幸手宿4)
街道を進むと、(荒宿)の信号があり、
次いで左手に(聖福寺)の石塔が見え、
奥のほうにいかめしい山門が見える。
山門前に聖福寺について(埼玉県、幸手市)の説明板がある。
(聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺(ぼだいさんとうこういんしょうふくじ)
と称する浄土宗知恩院の末寺で、
本尊は阿弥陀如来で観音像は運慶作と伝えられて言う。
徳川三代将軍家光が日光社参の折、
御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを初めとし、
天皇の例弊使や歴代の将軍が十八回にわたり休憩した。
将軍の間、例弊使の間、菊の紋章の入った勅使門があり、
左甚五郎作と伝えられる彫刻も保存されている。
また、ご朱印状により十石を賜っていたことが判る。―後略)とある。
勅使門の前に来ると、説明にあった「御殿所勅使門」の石碑があり、
菊のご紋の入った扉が付いている。
往時は、徳川将軍や日光例弊使が来た時しか門を明けることは無かったそうであるが、
将軍と間違えたわけでもないと思うが、ボクが訪ねた時は開いていた。
(勅使門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/1b/affa2d918002330494763d6a7aaeaab8.jpg)
(菩提山の扁額)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/b6/45712dd147e7a8cbddcc48e1c5b37dae.jpg)
(御殿所勅使門の石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/8c/6a9444a488d2a580b7b7a327e88848dc.jpg)
(門扉にある菊の御紋章)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/e2/2b13da48a6d91d698d3469caf69e8b70.jpg)
(鐘楼と本堂)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/95/21b06cfc90cdd75fa0745b9eb9c52075.jpg)
勅使門右手に鐘楼があり、奥に本堂がある。
通りからは奥まっていることもあり、静寂に包まれていた。
聖福寺参道の右横に、芭蕉の句碑が建てられている。
・幸手を行ば栗橋の門 焦
・松風をはさみ揃ゆる寺の門 良
句碑左下の解説によると、
(江戸時代、門前の通りの日光街道は、将軍の日光社参をはじめ、
さまざまな旅人がゆきかい、その中には奥州へ向う文人、
芸術家も多くあったことであろう。
『奥の細道』の旅を終えた俳人松尾芭蕉は4年後の元禄6年9月13日、
江戸深川、芭蕉庵で十三夜連句を催した折、奥州の旅を思いおこし、
同行した弟子曽良と並んで右の句をよんだ。
時を経て、昭和62年4月10日付の新聞紙上、
埼玉の俳人鈴木一郎氏は、右2句を紹介しながら、
芭蕉に続いてよまれたこの曽良の句の門を
聖福寺の勅使門として間違いなかろうと説を示された。
平成13年、日光街道400年を迎え、同14年、山門の改修工事が成り、
併せてこの句碑を建立し、往時をしのぶものとする。
平成15年 秋彼岸
聖福寺第二十八世 静誉康隆
石碑の書体は、『芭蕉袖草紙』の原本を拡大複写して刻んだものである。)
とある。
(芭蕉句碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/19/483ba1e9ef400a962107f631c979cd9b.jpg)
聖福寺を出て街道を進む。
道路正面に大きな石灯籠が見え、奥にお寺らしきものが見える。
旧日光街道はその石灯篭の前を右へ緩やかに曲がって行く。
石灯篭の奥に香水山正福寺(こうすいざんしょうふくじ)がある。
(大きな石灯篭)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/9a/8c0da4b45b6fed36d0dc165c39d61a57.jpg)
(正福寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/9a/a15ad79e0009ec346f560a3dd27cce66.jpg)
正福寺(しょうふくじ)は、先ほどの聖福寺(しょうふくじ)と字は違うが、
読み方が同じで地元の方は呼ぶのに困るだろうと思う。
いずれにせよ、埼玉県と幸手市が紹介する説明では、
(正福寺は、香水山楊池院(こうすいさんようちいん)正福寺と称する
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王である。
当山は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する定法談林であり、
当時この寺は、四十九ヶ寺の末寺を持っていた。
また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っている。
境内には、県指定史跡の「義賑窮餓の碑」がある。
天明三年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、
冷害も重なって大飢饉となった。
この時、幸手町の有志二十一名が金品を出し合って、
難民の救援に当った。この善行が時の関東郡代伊那忠尊の知る所となり、
顕彰碑を建てさせたという。
また、樹齢四百五十年、根回り五メートルもある槙の大木があり、
県の天然記念物に指定されていたが、惜しくもかれてしまった。
―後略)とある。
(義賑窮餓顕彰碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/f9/b1a1a807c0c09dd392e69b37f3b46a32.jpg)
(史跡義賑窮餓の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/a2/2256faac26f538322576734df4369e02.jpg)
(道標の馬頭観音供養塔 左側面に見える左日光道中)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/e2/c4bd17f37c7e2cdd35b3e27e1ab58f86.jpg)
(枯れてしまった元天然記念物の槙)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/be/e35fc393e46e88d977f499791325ba87.jpg)
説明板にもあったように、正福寺は古い寺院であるため、
無縁になった墓が多くなり、寺の経営にも影響するのであろう、
無縁の墓を一箇所に集め、新しい墓地を売り出したに違いない。
無縁になった供養塔を境内入り口に山のように積み上げて供養してある。
(無縁仏となった供養塔の数々)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/c1/0bede4e8169a5242f9839616b599a135.jpg)
(左へ曲がる旧日光道中)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/db/b815f91a5db5ca0ddcd12230f83c161a.jpg)
正福寺を出て、旧道を行くとまもなく国道四号線に合流する。
その合流点の交差点を(内国府間)という。
権現堂川(中川)を挟んで手前が内国府間(うちごうま)、
橋を渡ると外国府間(そとごうま)になる。
奇妙な地名であるが、公民館などで訊いても、土地の年寄りに聞いても、
この変わった名前の由来を知っている人はいなかった。
(内国府間の信号で四号線と合流)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/fc/5f1537128a6bd1fe57690b7594566035.jpg)
(信号機 幸手 内国府間 Uchigomaと読む)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/1a/9a5ac95a4912815bd13a9beb7e3f5aa8.jpg)
この(内国府間)の信号を左折して、しばらく歩くと右手前方に、
ものすごい量の桜が見渡す限り続いている。
その量たるや圧倒的という意外に言葉を知らない。
さすが埼玉県随一の桜名所である。
(権現堂桜堤の圧倒的な桜)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/70/e7bc5cd8546e4ec8d90e35827bd56ac2.jpg)
桜に見とれて歩くと、左に八幡神社参道の石碑があるのに気づく。
参道の方へ左折すると、右手に神社の鳥居と本殿が見える。
この神社は、幸手城主一色宮内大輔の家臣、
遠藤石見清吉が帰農して開発したと言われている。
庚申信仰の対象となっていたという。
(八幡神社参道の石碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/68/b8ed02e748bd68dc8c1f40ca87db4945.jpg)
(八幡神社の鳥居と本殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/9d/90de64a52958d583c9744e508246f259.jpg)
(神社脇の庚申塔の数々)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/b1/097ff9a6333d9ab2c3c7fa447b1ec2e7.jpg)
(石碑には庚申塔と書かれている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/3d/179bee7830dcd53053f6aa044551a09a.jpg)
旧街道に戻って、少し歩くと、中川をまたぐ橋に出る。
行幸橋(みゆきばし)という。
行幸橋の少し下流で権現堂行幸湖(みゆきこ)が、
権現堂桜堤にぶつかる様にして、中川に合流して流れていく。
橋の袂に信号があり、右手が権現堂桜堤で奥までつながっている。
国道四号線(日光街道)は橋を渡って直進する。
右手には権現堂行幸湖が川のようにあり、それに平行して進む。
この四号線は権現堂行幸湖が氾濫しないように、
住民によって造られた土手であった。
ここから栗橋まで長い道のりを行く四号線は、
右手に見える権現堂行幸湖の堤であったようである。
(行幸橋みゆきばし)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/6a/3cad7708501ff0cadea48829693e7904.jpg)
(行幸橋から撮った中川)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/85/48219f17002b06d8c86e3d68a487278f.jpg)
すごいし調べたのもすごいです。
桜に見とれて、肝心な道路標識を見損なったので・・・
難民救援顕彰碑というのは、大飢饉がリアルに伝わってよいですね。
見渡す限りの桜並木!圧巻です!
桜に見とれて道路標識を見落とすのもわかります。
「内国府間」は、”うちごうま”ですか、読めませんよねえ。
あちらこちらに桜の名所がありますね。
名所と言われなくても、どこでも桜をみることができますね。これも、見事な桜並木ですね。
何か謂れがありそうですが、見当たりませんでした。
この先に、小右衛門の一里塚と言うのがあるのですが、
小右衛門村というのが有って、
この村の名主さん小右衛門が、村の人たちに尊敬されるお人柄であったからだそうです。
権現堂がどこかにあるのかと思いましたが見当たりませんでした。
私も京都などで勅使門は良く見かけますが
開かれているのは一度も見てませんから。
権現堂堤の桜は流石に埼玉一だから見事ですね
一度は見たかったのでありがとうございました。
先週から咳と痰がひどくなり二度目の病院通い
アレルギー性の軽い喘息だって。
花粉症を放置しておくと歳を取ったら抵抗力が落ちているので
アレルギー性の肺炎や喘息になることもあるんだって。
別に寝込んではいませんのでご心配なくね。
抗生物質の薬を貰って飲んでますので
連休明けには治したいと考えてます。
肺炎の予防接種をされておくことをお勧めします。
板橋区では、毎年時期が近づくとインフルエンザの予防接種の費用を一部負担してくれます。(但し65歳以上)
また、75歳以上になると、肺炎の死亡率が高くなるので、
肺炎球菌の予防接種を一部負担してくれます。
予防接種は五年の有効ですので、次回は80歳になると、
予防接種を一部負担してくれます。
どうぞお大事になさってください。
予定を立てても、妻がついてくるわけでもなく。。。