(旧岩崎邸洋館)
旧岩崎邸庭園へ行きました。
三菱の岩崎弥太郎の関係するお屋敷と言うことで敬遠していたのですが、
カミさんが素晴らしい建物だと言うのに惹かれて行ってきました。
まず上野で電車を降り、不忍通りを不忍池にそって進みますと、
池の端一丁目の三差路信号にでます。
そこで左折すると「旧岩崎邸庭園」は左と矢印に沿って進む。
最初の路地を右折し左手に庭園入り口が見える。
(不忍池に沿って歩く)
(池の端一丁目交差点)
(「旧岩崎邸庭園」の案内に沿って歩く)
(最初路地を右折した所の案内看板)
明治29年(1896)に岩崎弥太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造られました。
往時は約1万5千坪の敷地に20棟もの建物があったと言う。
現在はその三分の一の敷地となり洋館・撞球室・和館大広間の3棟です。
邸の敷地はレンガ塀で囲まれている。
(レンガ塀)
(旧岩崎邸入場門)
(旧岩崎邸庭園)
(家までの長い道のり)
(左折して更に先に入口)
長い道のりの洋館まで馬車か車の乗り物で入ったのか、
相当長い道のりで、しかも砂利の坂道になっている。
(旧岩崎邸 洋館の正面)
(横手の石造りの塀)
(この建物はジョサイア・コンドルの設計により完成しました。
17世紀の英国装飾が随所に見られ、
イギリス・ルネサンス様式やイスラム風のモティーフなどが取り入れられている。
洋館南側は、列柱の並ぶベランダはコロニアル様式で、
一階列柱はトスカナ式、二階列柱はイオニア式の特徴を持っている。(中略)
二階の壁には金唐革紙の壁紙張られた部屋もあります。
外国人を招いたプライベートな迎賓館として使用されました。)(東京都)
(中から見た洋館入り口)
(ホール左)
(ホール右手は和室への通路)
(ホールから階段を見る)
(階段前の柱)
ホールの天井は亀甲型に模様がつけられている。
また階段前の柱の模様をイスラム風と言うのだろうか、
模様が柱に張り付けてあるように見えるが、
この模様をよく見ると丸い柱に浮き彫りにしてある。
右側の柱に縦に割れ目が入っているが、
その割れ目が模様も共に綺麗に直線に入っている。
(柱のクローズアップ)
天井と言い柱と言い、お金に糸目をつけず造ったと思われる。
階段を上がって二階の客室から集会室、お手洗いを見る。
一階にもあったが、二階にも各室に暖炉が置かれているが、
奥行きがほとんど無い。
不思議に思たので係りの人にあとで聞くと、
途中で燃料をガスにした為奥行きを埋めたということが分かった。
その暖炉がある壁は、暖炉はないところの壁と比べると、
異常に厚くなっている。
以前の暖炉は、どうもペチカのように壁を温めて部屋を暖めていたようだ。
そのため屋根には見えるだけで6本も煙突があった。
(一階ホールの各部屋の暖炉)
(各部屋の暖炉)
(二階の各部屋の暖炉)
(金唐革紙と暖炉)
(二階の椅子とテーブル)
(夫人客室のイスとテーブルと暖炉)
(二階のサンルームから見える庭)
(二階のサンルーム)
(ベランダ)
さて、二階で驚いたのはお手洗い。
男性の小用便器だけしか見えないが、奥を覗くと大便器が置いてあり、
しかも西洋式であった。
仕切りは模様入りのスリガラスであった。
明治29年(1896)に完成したものとして、
このころすでに西洋式の便器があったことに驚いた。
もちろん水洗でないだろうから、
用を足すと一階にある肥溜めに落ちたのであろうが、
それにしても和風のしゃがむ方式の便器でなく、
椅子に腰を下ろす式の便器であった。
以前、旧中山道を歩いて、皇女和宮が宿泊するからと、
お手洗いを模様替えをした本陣があったので、見学したことがあった。
この時は畳を新調しただけのことであるが、
当時、高貴な方の排便は、御典医がついていて、
絶えず健康に気を配っていたから、
大であれ小であれ御典医が「おまる」を抱えて差出し、
用が済むと色や匂いで健康を判断したというから、
お手洗いも畳の上で済んだ。
ボクの子供のころ、我々下々の者は、大きな肥溜めの甕の上に板を二本渡して、
その上に両足を乗せてしゃがみ、用を済ませたものだ。
それから考えれば、陶器でできた金隠しのある便器なら、
まあこんなものと考えるが、
西洋式の座して用を足す陶器造りの便器では驚きを通り越す。
(トイレの角に作られた陶器の男性用小便器)
次回は和館とお庭をご紹介の予定です。
旧岩崎邸庭園へ行きました。
三菱の岩崎弥太郎の関係するお屋敷と言うことで敬遠していたのですが、
カミさんが素晴らしい建物だと言うのに惹かれて行ってきました。
まず上野で電車を降り、不忍通りを不忍池にそって進みますと、
池の端一丁目の三差路信号にでます。
そこで左折すると「旧岩崎邸庭園」は左と矢印に沿って進む。
最初の路地を右折し左手に庭園入り口が見える。
(不忍池に沿って歩く)
(池の端一丁目交差点)
(「旧岩崎邸庭園」の案内に沿って歩く)
(最初路地を右折した所の案内看板)
明治29年(1896)に岩崎弥太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造られました。
往時は約1万5千坪の敷地に20棟もの建物があったと言う。
現在はその三分の一の敷地となり洋館・撞球室・和館大広間の3棟です。
邸の敷地はレンガ塀で囲まれている。
(レンガ塀)
(旧岩崎邸入場門)
(旧岩崎邸庭園)
(家までの長い道のり)
(左折して更に先に入口)
長い道のりの洋館まで馬車か車の乗り物で入ったのか、
相当長い道のりで、しかも砂利の坂道になっている。
(旧岩崎邸 洋館の正面)
(横手の石造りの塀)
(この建物はジョサイア・コンドルの設計により完成しました。
17世紀の英国装飾が随所に見られ、
イギリス・ルネサンス様式やイスラム風のモティーフなどが取り入れられている。
洋館南側は、列柱の並ぶベランダはコロニアル様式で、
一階列柱はトスカナ式、二階列柱はイオニア式の特徴を持っている。(中略)
二階の壁には金唐革紙の壁紙張られた部屋もあります。
外国人を招いたプライベートな迎賓館として使用されました。)(東京都)
(中から見た洋館入り口)
(ホール左)
(ホール右手は和室への通路)
(ホールから階段を見る)
(階段前の柱)
ホールの天井は亀甲型に模様がつけられている。
また階段前の柱の模様をイスラム風と言うのだろうか、
模様が柱に張り付けてあるように見えるが、
この模様をよく見ると丸い柱に浮き彫りにしてある。
右側の柱に縦に割れ目が入っているが、
その割れ目が模様も共に綺麗に直線に入っている。
(柱のクローズアップ)
天井と言い柱と言い、お金に糸目をつけず造ったと思われる。
階段を上がって二階の客室から集会室、お手洗いを見る。
一階にもあったが、二階にも各室に暖炉が置かれているが、
奥行きがほとんど無い。
不思議に思たので係りの人にあとで聞くと、
途中で燃料をガスにした為奥行きを埋めたということが分かった。
その暖炉がある壁は、暖炉はないところの壁と比べると、
異常に厚くなっている。
以前の暖炉は、どうもペチカのように壁を温めて部屋を暖めていたようだ。
そのため屋根には見えるだけで6本も煙突があった。
(一階ホールの各部屋の暖炉)
(各部屋の暖炉)
(二階の各部屋の暖炉)
(金唐革紙と暖炉)
(二階の椅子とテーブル)
(夫人客室のイスとテーブルと暖炉)
(二階のサンルームから見える庭)
(二階のサンルーム)
(ベランダ)
さて、二階で驚いたのはお手洗い。
男性の小用便器だけしか見えないが、奥を覗くと大便器が置いてあり、
しかも西洋式であった。
仕切りは模様入りのスリガラスであった。
明治29年(1896)に完成したものとして、
このころすでに西洋式の便器があったことに驚いた。
もちろん水洗でないだろうから、
用を足すと一階にある肥溜めに落ちたのであろうが、
それにしても和風のしゃがむ方式の便器でなく、
椅子に腰を下ろす式の便器であった。
以前、旧中山道を歩いて、皇女和宮が宿泊するからと、
お手洗いを模様替えをした本陣があったので、見学したことがあった。
この時は畳を新調しただけのことであるが、
当時、高貴な方の排便は、御典医がついていて、
絶えず健康に気を配っていたから、
大であれ小であれ御典医が「おまる」を抱えて差出し、
用が済むと色や匂いで健康を判断したというから、
お手洗いも畳の上で済んだ。
ボクの子供のころ、我々下々の者は、大きな肥溜めの甕の上に板を二本渡して、
その上に両足を乗せてしゃがみ、用を済ませたものだ。
それから考えれば、陶器でできた金隠しのある便器なら、
まあこんなものと考えるが、
西洋式の座して用を足す陶器造りの便器では驚きを通り越す。
(トイレの角に作られた陶器の男性用小便器)
次回は和館とお庭をご紹介の予定です。