井伊家墓所は、豪徳寺の一角を成しており、かなり広い。
入口左には世田谷教育委員会の案内板が立っており、
井伊家墓所の案内図もあり、誰のお墓か見分けるのは容易である。
(豪徳寺内にある井伊家墓所の入口)

(墓の案内図)

初代直正は関ヶ原の戦いで近江に十八万石を与えられ、彦根藩の礎を築いた。
二代直孝は大坂夏の陣で功績をあげ、
近江、下野、武蔵国世田谷と合わせ三十万石の譜代筆頭格となった。
この世田谷が井伊家所領となったのを機に領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられ、
直孝没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英居士」から豪徳寺と改めて現代にいたる。
入口を入ると墓所までの通路が延び、左右には紅葉をちりばめる景観が広がる。
井伊家でもっとも有名なのは、桜田門外で暗殺された井伊直弼であるが、
ここ豪徳寺では、二代直孝が特筆される。
(初代直正は彦根城近くの天寧寺に墓がある。)
墓石は、通路に沿って入るとつき当たりがそれである。
この墓石に刻まれているのは
「久昌院殿正四位上前羽林中郎将豪徳天英大居士」とある。
(墓所までの通路)

(墓所の紅葉)

(二代直孝の墓碑、法号に「豪徳」が見える)

さて、豪徳寺門前あった、「都史跡 井伊直弼墓」とあった直弼の墓と言うと、
この二代直孝の墓を左に突き当たる手前の左側にある。
そこには東京都教育委員会の案内板が立っているので分かり易いが、
案内板そのものは風化して読み取りにくい。
その案内板を要約すると、
(勅許を待たずに日米修好条約など安政五カ国条約に調印、
十三代将軍の後継者を家茂に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑え強硬策を実施、
さらに安政の大獄を断行するに及んで、
桜田門外において水戸・薩摩の浪士らに暗殺され、
世田谷の豪徳寺に埋葬された。
墓石正面には「宗観院殿正四位上前羽林忠郎将柳暁覚翁大居士」とある。)
(井伊直弼の墓)

(井伊家の墓石群)

(井伊家の墓石群2)

終わりに、療養中の友人に見せる、豪徳寺の紅葉をもう一度ご覧ください。
(三重塔と紅葉)

(鐘楼と紅葉)

(仏殿前の紅葉)

(仏殿前の紅葉2)

(仏殿前の紅葉3)

入口左には世田谷教育委員会の案内板が立っており、
井伊家墓所の案内図もあり、誰のお墓か見分けるのは容易である。
(豪徳寺内にある井伊家墓所の入口)

(墓の案内図)

初代直正は関ヶ原の戦いで近江に十八万石を与えられ、彦根藩の礎を築いた。
二代直孝は大坂夏の陣で功績をあげ、
近江、下野、武蔵国世田谷と合わせ三十万石の譜代筆頭格となった。
この世田谷が井伊家所領となったのを機に領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられ、
直孝没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英居士」から豪徳寺と改めて現代にいたる。
入口を入ると墓所までの通路が延び、左右には紅葉をちりばめる景観が広がる。
井伊家でもっとも有名なのは、桜田門外で暗殺された井伊直弼であるが、
ここ豪徳寺では、二代直孝が特筆される。
(初代直正は彦根城近くの天寧寺に墓がある。)
墓石は、通路に沿って入るとつき当たりがそれである。
この墓石に刻まれているのは
「久昌院殿正四位上前羽林中郎将豪徳天英大居士」とある。
(墓所までの通路)

(墓所の紅葉)

(二代直孝の墓碑、法号に「豪徳」が見える)

さて、豪徳寺門前あった、「都史跡 井伊直弼墓」とあった直弼の墓と言うと、
この二代直孝の墓を左に突き当たる手前の左側にある。
そこには東京都教育委員会の案内板が立っているので分かり易いが、
案内板そのものは風化して読み取りにくい。
その案内板を要約すると、
(勅許を待たずに日米修好条約など安政五カ国条約に調印、
十三代将軍の後継者を家茂に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑え強硬策を実施、
さらに安政の大獄を断行するに及んで、
桜田門外において水戸・薩摩の浪士らに暗殺され、
世田谷の豪徳寺に埋葬された。
墓石正面には「宗観院殿正四位上前羽林忠郎将柳暁覚翁大居士」とある。)
(井伊直弼の墓)

(井伊家の墓石群)

(井伊家の墓石群2)

終わりに、療養中の友人に見せる、豪徳寺の紅葉をもう一度ご覧ください。
(三重塔と紅葉)

(鐘楼と紅葉)

(仏殿前の紅葉)

(仏殿前の紅葉2)

(仏殿前の紅葉3)
