楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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脅迫と強請(ゆすり)藤村の「夜明け前」より(旧中山道を歩いて気づいた事15)

2013年02月21日 09時06分10秒 | つれづれなるままに考えること

(高山陣屋)

(脅迫と強請「夜明け前」と「ならかわの民話」から)

街道には脅迫と強請(ゆすり)が横行していた。

山中に山賊は言うに及ばず、
権威ある宿泊者の威を借りた従者たちが、
ちょっとした事に因縁をつけ強請(ゆす)る。
それを表ざたにしないからといってご祝儀、
ご酒肴代をせしめるのが常であった。

ならかわ村には、
「家康の命日4月17日に、朝廷より日光へ幣帛をお供えすることが慣わしであった。
この使いをする人を日光例弊使と言い、
贄川宿を常宿と決めていた。
天皇の使いを良いことに、無銭飲食、無銭宿泊や献金、
献品を強要する厄介者であった。
この例弊使は権威ばかりで、
「やれ、泥をはねた」
「やれ、触れた」とか
難癖をつけて、その都度迷惑料を巻き上げた。
村人はそれを知っていて、例弊使が来ると、
宿場の人は戸障子、雨戸を閉めて居留守を使ったと言う。
触らぬ神にたたりなし、と言うことか・・・」
(ならかわの民話より)
いずれも木曽路の馬篭宿と贄川宿の話として残っている。
木曽路だけが強請りやすかったわけでもあるまいに・・・


(馬篭宿にある鉤の手の水車)

日光例弊使は日光までを中山道を使い、
帰りは京都まで、東海道を使ったと言うから、
東海道にも同じような話が残っているに違いない。

「夜明け前」では、
『そこで「実懇(じっこん)」という言葉が生まれた。
「実懇になろう」とは「心やすくなろう」という意味であって、
その言葉を武士から掛けられると、
旅館の亭主はご祝儀をねだられるのが常であった。
街道の人足が駕籠をかついで行く途中で、
「実懇になろうか」と武士風の客から声をかけられると、
心づけ1分(=一両の25%)とか1分2朱(=一両の37.5%)とか
ねだられることを覚悟しなければならなかった。
貧しい武家や公家衆の質(たち)の悪いのになると、
京から江戸との間で一往復して、
少なくとも千両の金を強請し、
それで2~3年は寝食ができるといわれた。

一方で賄賂の公然と行われていたのも不思議は無い。
「将軍のお召し馬は焼酎を一升も飲む」といって口取りの別当が凄んだ。』
程である。(宿場の苦労:「夜明け前」より)

昔も現代もお金について、
人間の心根は変わらないのであろうか?
「夜明け前」の時代では、徳川将軍の権威も地に落ち、
参勤交代の制度を廃止すると、
江戸にとってあった人質の大名の女房も、
それぞれ国許に帰り、地方の大名が力をつけ
将軍の命に背くものも出てくる。

(白川村の合掌造り)

政治は天皇を中心に進める尊皇派と
徳川幕府の将軍を中心に政治を行う佐幕派(幕府を佐(たす)ける)に
大名たちは分かれていく。
薩摩、長州の尊皇派、徳川幕府擁立の水戸、会津藩などの佐幕派。

両派とも主張を一歩も譲らず、生死をかけて自分の主張を通そうとする。
日本は二つに分かれて、戦争になる。

260年の長きにわたって君臨してきた徳川将軍派と、
将軍を任命する側の天皇を有する朝廷派が激突する。

そこで浮上したのが、苦肉の策の公武合体。
つまり、天皇家と徳川家に縁戚関係を持たせようと言う策――
天皇の妹を徳川将軍に嫁がせる策――を取った。

ご存知、皇女和宮の降嫁である。

(白川村2)
コメント (8)
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