(群馬県:東光院山門の扉の裏側にある天狗の面)
(水戸天狗党)
和田峠を越えて、
下諏訪宿に入る手前に「浪人塚」なるものがある。
水戸浪士のお墓である。
水戸徳川家の侍は、二つに分かれた。
一つは王室尊崇の尊皇攘夷派を誠党、
他方の徳川将軍家擁立派を奸党と呼んだ。
誠党を天狗連と呼ぶ。
水戸浪士天狗連は、軍馬150頭、兵糧方、賄い方、雑兵、歩人等
千人越えの人数であった。
これが幕府へ意見すべしと、
京都方面に向かって中山道を進軍し始めたことが幕府方を狼狽せしめた(慌てさせた)。
和田宿から下諏訪宿の間の木曽街道の一部を戦闘区域と定め、
峠にある東餅屋と西餅屋(共に地名)に住む住民を退去させた。
ここ和田峠で水戸浪人千有余人と諏訪藩と松本藩が迎え撃つ段取りを取る。
幕府から援軍を要請された上田藩、松代藩、小諸藩は、
要請に応じたが間に合うように発進しなかった。
また、水戸よりの追討軍は発信していたが接触を避け、
一定の距離を置いて追尾したので援軍とはならなかった。
それほど幕府の権威は地に落ちていた。
水戸浪士組と接触した諏訪藩と松本藩は、
水戸浪士の奇襲に遭って退却、
この戦で水戸浪士隊戦死者17名、
諏訪・松本藩戦死者十名という。
浪士隊が西下すると言うので、
住民は、女子供はもちろん、
家財は戸障子まで土蔵にしまいこんだ。
浪士隊の面々は、幕府のいう賊徒・不忠者で、
脱走者・浮浪の徒と噂されたが、
下諏訪宿で一夜を過ごした時、
宿場で定められた旅籠銭一人当たり
弁当用ともに250文ずつ支払い、
規律正しく通行した。
時に元治元年(1864)11月19日であった。
下諏訪からは斡旋するものがあり、伊那へ抜ける間道を通り、
在来の各藩、高遠藩・飯田藩その他の藩との無用な接触を避けた。
最後は徳川将軍に意見を申し入れること叶わず、
金沢藩に囚われの身となり、
その殆どは水戸に送られ、処分される憂き目に遭った。
後に高島藩(*)はここに塚を造り浪士軍の戦死者を祀った。
それが浪人塚である。
(史跡 浪人塚の碑)
(*)高島藩とは、近江高島藩のことで、諏訪に飛び地として領地を持っていた。
以上水戸天狗党について「夜明け前」第一部第八章を読んでの要約です。