国葬を国葬儀とあえてぼかしたAさんの葬儀がありましたが、当町では町葬がありました。前々町長の谷口さんでした。
私たち黒松内ぶなの森自然学校が開校した当時の町長でした。そのいきさつをちょっと書き残しておくと・・、
もう25年くらい前になるんでしょうか・・。 当時の環境庁(現省)が、「ふるさと自然塾構想」という施策を展開しようとしていました。 これは、「国立公園にかからない市町村で環境教育や自然教育に熱心な自治体を支援補助しよう」というものでした。これは、これまで政策が地域に落ちてゆく過程(国⇒都道府県⇒市町村⇒民間、そして逆をたどって決定)と違って、民間の日本環境教育フォーラムという全国ネットワーク団体に照会がゆき、該当する地方自治体を推薦するという逆過程が踏まれました。当時そのフォーラムの構成団体であったNPOねおすは、北海道の自治体を紹介する役割をもらいました。 どのような環境・自然に関わる施策をどのくらいの財政予算で実施しているかなど提出資料がありました。 当時ねおすは、黒松内町、弟子屈町、東川町において拠点づくりをして当該町との関係性を構築(中)でした。 それぞれの町に資料作り提出をお願いしたのですが、それまで国の補助事業について、直接通達がなくて、それが民間からアプローチされたのですから、どこの自治体行政も???懐疑的でしたが、黒松内町はいちはやく資料を用意してくれました。 財政支援補助といっても、特別交付税を増額するという特定事業への交付補助措置ではないので、「ほんとうか?」との疑問は拭えなかったのですが、当時の環境庁長官(自民党から連立政権に代わった村山政権)であった社会党の岩垂長官が自ら役人を従えて来町されたのです。「これは本当の話か!!」ということになり、それからが早かった。あっという間に設立集会となり、黒松内ぶなの森自然学校が設立されたのでした。 その前年だったか、町内に廃校となる学舎が複数あり、その利活用について提案するワークショップや企画づくりを直接ねおすが町より受託していたということもあり、一気に現実化しましたが、時の谷口町長と若見教育長の即断即決でした。
黒松内の官民によるまちづくりは、それよりもさらに10年近く前から「北限のぶな里構想」という施策があり、行政立で宿泊施設、ビジターセンター、食品加工施設や温泉などが設立され、第三セクターの振興公社による経営がなされていました。 その民間の中核でまちづくりをリーディングしていた茂尾さんも同じくお亡くなりになりました。
黒松内町のまちづくりの大きな功労者おふたりが亡くなれて、次代に引き継がれる大きなできごととなりました。
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