熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

林真理子著「六条御息所 源氏がたり 一、光の章」

2017年10月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   源氏物語を、六条御息所の視点から語る林真理子の本だと言うことで興味を持った。
   源氏物語に登場する女性の中でも、この御息所に一番興味を持っており、それに、男女の物語については、独特な感性を持った作家なので、面白くない筈がないと思ったのである。
   この世の者ではなくなった私には、沢山のものが、あの方の今も、過去も様々な景色が目の前を通り過ぎて行くのです。と言う御息所の源氏がたりである。

   三巻本で、まだ、一巻目の「光の章」を読んだだけだが、この章は、第一帖桐壷から第十帖賢木までをほぼ踏襲している。

   この第十帖の「賢木」は、最もエポックメイキングな帖だと思うのだが、
六条御息所が、野宮で最後の源氏との逢瀬を過ごして、斎院となった娘とともに伊勢へ下り、
   桐壺帝が重態に陥り崩御し、源氏は、里下がりした藤壺への恋慕激しく迫るも、藤壺に強く拒絶され、事が露見し東宮の身に危機が及ぶことを恐れた藤壺は、誰にも知らせず桐壺帝の一周忌の後突然出家してしまって、高貴で最も素晴らしい女性二人を失う。
   尤も、この時、15歳になった紫の上を強引に女にして、裳着を執り行い、紫の上は実質上の正妻となる。

   その前に、源氏は、弘徽殿女御の妹である東宮への入内が決まっている右大臣の六の君(朧月夜)と出逢い契りを交わして、この件で格下げで尚侍となっての入内後も愛を重ね続けており、これが引き金となって須磨に隠棲せざるを得なくなるのだが、
   それにも拘らず、東宮が桐壷帝の実子ではなく源氏の不義の子だと言うことが露見すれば、大変なことになるにも拘わらず、藤壺の御簾に侵入して迫り続けると言う常軌を逸した無軌道さ。

   いずれにしろ、六条御息所の立場から、と言うよりも、御息所の視点を借りて林真理子が激しく迫る光源氏像であるから、死霊になっても取り憑いて源氏の最期を見届けたいと言う執念を感じて面白い。

   例えば、紫の上との初夜について、
   姫君にとっては、ただ苦痛と暴力が通り過ぎて行っただけで・・・紫の上は、この時の破瓜の屈辱と恨みを、生涯お忘れにはならなかったのではありますまいか。心のどこかで、決してあの方を信用していなかったのではないでしょうか、ですから、あの方より先に逝くことで最大の復讐を遂げたような気がいたします。と御息所に語らせている。

   光源氏が、北山で幼い紫の上を見初めて、強引に手元に引きとって、自分好みの理想的な妻に仕立て上げた手法は、正に、和製ピグマリオン。
   ギリシア神話のキプロス島の王であるピュグマリオン(Pygmaliōn)が、自ら理想の女性・ガラテアを彫刻して、この自らの彫刻に激しく恋をして、次第に衰弱していく姿を見たアプロディーテーが同情して、ガテリアに生命を与え、ピュグマリオンは妻に迎えた。
   恋焦がれて禁断の恋を犯して子までなした藤壺の姪であるから絶世の美女なのであるが、これを並びなき高貴な源氏が慣れ親しみ愛しんで育てたのであるから、光源氏は、いわば、映画『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ博士と言うところであろうか。
   しかし、最も理想的な伴侶であった筈の紫の上に、屈辱と恨みを与えて、信用されずにいて、最後に復讐されたと言うこの悲劇は、物語の底流で、光源氏の理想像をぶっ壊しにしていているのが面白いと思った。

   さて、この小説で一番興味を引くのは、林真理子が、語り手である六条御息所をどのような人物と考えてどのように源氏語りを行なうかと言うことである。
   随分前に源氏物語を読んでいるので、記憶は定かではないのだが、この六条御息所については、それ程詳しい記述はなかったような気がする。

   林真理子によると、抑々の二人の馴れ初めだが、未亡人となった元東宮妃の御息所は、邸で、若い人々が集う歌や管弦を披露しあう会を催していて、その一人の17歳の源氏が、侍女中将の導きで御帳台の中に押し入ってきて、甘く低く息苦しくなるほどの切実さで口説かれ、契られたのだと言う。病弱であった東宮と比べて、・・・私の体は骨ごとしびれて蕩けていくのでした。と言う出会いである。
   
   美しく気品があり、教養、知性、身分ともに申し分なく、はるかに人より優れている元東宮妃であるから、光源氏は、
   年上の優しいものわかりのよい女、聡明さで定評のある身分の高い女は、決して嫉妬せず、自分を柔らかく居心地よく包んでくれると思って女にした光源氏だったのだが。
   こうなる定めだったのですと口説かれ、屈服させられ辱められ、息も絶え絶えにされた甘美な屈辱に溺れて、
   御息所がどうしようもなく激しく愛してしまったことを知った源氏は、愛すれば愛するほど、愛してくれなくなっていく、愛情をもらえない屈辱、男が去って行こうと言う屈辱に、御息所は必死に耐え抜いたと言う。

   女の鏡であり手本だと称賛される自分、あの光源氏の永遠の憧れであった藤壺に劣るのは若さだけだと思っている自分をないがしろにして、
   源氏が、受領の妻空蝉に入れ込み、あばら家に住む夕顔にうつつを抜かし、象のような赤鼻の常陸宮の姫君末摘花と言ったどうしようもない女を愛するなど許せないと言う心境であるから、このあたりの描写は、辛辣を極める。
   
   例えば、夕顔について、
   女はそれ程の美貌と言うわけではなく、教養や才気があると言うわけではないのだが、物腰が柔らかくとても可憐で、幼いと言っていいほどあどけないのだが、男とと女の中を知らないわけではなく、閨のなかでは、驚くようなことが多々ある。と述べている。
   この夕顔の舞台で興味深いのは、源氏が夕顔を連れ込んだ廃院が、御息所の一族のものだったと言う設定で、屋敷に蠢いている先祖の女性たちの亡霊が二人の逢瀬に怒って御息所を生霊にして苛むと言うことで、一般には、この生霊が誰だかはっきりとしないところなので面白い。

   「葵」の帖の、葵の上との車争いや葵の病床を襲う生霊の話などは、林真理子の機知と詩心が冴えて面白いが、能「葵上」との落差とその現出する世界の差が面白い。
   源氏と御息所の最後の別れ、能「野宮」の舞台だが、林真理子になると、
   ”あのような神聖な場で、契ることの恐ろしさにおののきながらも、私もあの方も、夜が明けるまで体を離すことはありませんでした。・・・することはただひとつ、汗と涙で体を濡らした激しい愛撫が繰り返されたのです。どれほど寛大な神でも・・・”となるのだが、これも、能とは大違いで、能にはならないであろう。
   
   とにかく、源氏物語の原文や翻訳本を見ても、よく分からない微妙なところを、紫式部の意図は兎も角、自由に羽ばたきながら独自の視点で展開する、この六条御息所 源氏がたり は、非常に面白い。

   
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