goo blog サービス終了のお知らせ 

熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立文楽劇場・・・通し狂言「仮名手本忠臣蔵」(1)

2012年11月26日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   私は、文楽でも歌舞伎でも、出来れば通し狂言で鑑賞すべきだと思っているので、今回の大阪での「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」公演は、願ったり叶ったりの舞台であった。
   これまでに、歌舞伎で1回、文楽で2回、仮名手本忠臣蔵の通し狂言の舞台を鑑賞する機会があった。
   文楽での最初は、90年代の後半だったか21世紀に入ってからかは忘れたが、玉男の大星由良助で、丁度、全編NHKで放映されて録画したのだが、ソニーのDVDレコーダーが壊れてダビングできなかった。
   2回目は、玉男が逝去した月の公演で、簑助が由良助を遣った感動的な舞台で、幸い、このブログで記録を残している。

   今回は、無精ながら怠っていたので、浄瑠璃集を紐解いて、竹田出雲たちの仮名手本忠臣蔵の原本を読んだ。
   文楽が、最も原文に忠実で、次に、上方歌舞伎で、一番脚色が進んでいるのが江戸歌舞伎だと言う感じはしていたが、文楽でも、かなり忠実に筋を追っているのだが、ところどころ違っていて、その違いの差が興味深い。

   この仮名手本忠臣蔵は、太平記に準えて舞台を室町時代に設定しているのだが、赤穂浪士による仇討事件を題材にしているので、本望を遂げようとする武士たちの忠義やその苦痛が主題であることには間違いない。
   しかし、今回原文を読んでいて、その背景に、一つの倒錯した愛と二つの純愛に近い男女の愛と、それに絡んだ人々の人間としての思いが、サブテーマとして色濃く流れていて、このことが、この浄瑠璃の魅力と価値を増しているのではなかろうかと言う気がしている。

   倒錯した愛と言うのは、当然、師直(玉也)の顏世御前(和生、勘彌)に対する横恋慕だが、刃傷後の「花籠の段」で、顏世御前が、はっきりと、家来たちの面前で、事件の原因は、自分が師直の恋を拒絶したからだと明言している。
   このことは、師直と塩谷判官(和生)が渡り合う舞台を見ていれば分かるのだが、あの時代に、勅使が切腹の沙汰に来る直前の死活の混乱状態に、判官を慰めようと桜の花籠を飾った座敷で、恋歌の意趣返し発言をする凄さである。
   中村歌右衛門が、顔世が美しかったからこそ忠臣蔵が成ったのだと言っていたが、この顏世だが、”花籠に活けられる花よりも、活ける人こそ花もみぢ。”とあるからには、相当なもので、冒頭の鶴岡の場で、”をなご好きの師直・・・”と語るなどは蛇足であろう。 

   ところで、もう二つの男女の愛は、加古川本蔵(勘十郎)の娘小浪(一輔)と大星力弥(文昇)、そして、おかる(勘彌)と勘平(清十郎)の愛である。

   まず、歌舞伎でも文楽でも、大体、小浪が登場するのは、「道行旅路の嫁入」から「山科閑居」の場である。
   しかし、原文では、「諫言の寝刃(松切り)」の場で、(今回の文楽では「桃井館本蔵松切の段」の前半で省略されてしまっていたのだが、)若狭助(幸助)が本蔵に、師直切捨ての決意を吐露する前に、力弥が、判官の伝言伝達の使者として訪れるので、気を利かせた母・戸無瀬が病気だとして、小浪に使者供応を任せる。
   ”日ごろ恋しゆかしい力弥様。逢はばどう言をかう言をと。娘心のどきどきと。胸に小浪を打ち寄する。” ”じっと見かはす顔と顔。たがひの胸に恋人と。ものもえいはぬ赤面は。梅と桜の花相撲に、枕の行司なかりけり。””・・・水を流せる口上に。小浪はうっかり顔見とれ、とかう。答えもなかりけり。”
   二人の初々しい嬉し恥ずかしい狼狽ぶりが、実に爽やかである。

   このシーンが分かっておれば、道行での小浪のはしゃぎ様や、籠から降りて門口に立った小浪が、”ほほゑがほ、・・・わしゃ恥づかしい」となまめかし。”の様子や、切羽詰って”力弥様よりほかに余の殿御。わしやいやいや」と一筋に、恋を立てぬく心根を。””母親の手に掛けて、わたしを殺して下さりませ。早う殺して下さりませ。」”と言う必死の恋心が分かるのである。

   もう一つ感動的なのは、大石の妻お石に、祝言許す代わりに本蔵の首を差し出せと言われて、本蔵は、力弥の槍に倒れるのだが、本蔵が、死を賭して述懐する、”一生の誤りは、娘が難儀としらが(知らず・白髪)のこの首。婿殿に。進ぜたさ。」””約束のとほりこの娘。力弥に添はせて下さらば 未来永劫御恩は忘れぬ。手を合わせて頼み入る。忠義にならでは捨てぬ命。子ゆゑに捨つる親心 推量あれ由良殿。”血を吐く様な娘への思いである。
   私も二人の娘の親なので、この本蔵の心根は痛いほど良く分かる。

   おかるの勘平へ思いも一途であり、両方とも、女性の方から積極的で、近松門左衛門の描く大坂女を彷彿とさせて面白い。
   おかる勘平の話は、次にしたいと思っており、また、この文楽でも省略されている「天河屋の義平は男でござるぞ。」と言う「発足の櫛笄(天河屋)」の場など、原文の浄瑠璃と実際の歌舞伎や文楽との違いの微妙な面白さについても考えてみたいと思っている。
   
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 久しぶりの関西の秋(4) | トップ | 国立文楽劇場・・・通し狂言... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

観劇・文楽・歌舞伎」カテゴリの最新記事