国立能楽堂の公演で、狂言だけ3曲、大蔵流「墨塗」、和泉流「野老(ところ)」、大蔵流「髭櫓」の公演会である。
夫々、25分くらいの小曲なので、2時間弱で終わるのだが、結構中身が濃くて面白い。
まず、最初の京都茂山家の大名狂言「墨塗」。
シテ/大名 七五三、アド/太郎冠者 千三郎、アド/女 あきら
訴訟のため都に滞在していた大名が,無事勝訴して帰郷することになり,太郎冠者を連れて、在京中に馴染んだ女に暇乞いに行く。
別れを告げられて、女は悲しげに泣くので,大名も、涙を誘われる。
実は、女は鬢水入れの水で目をぬらして泣き真似をしていて、それに気付いた太郎冠者が、大名に告げるも信じないので、そっと、水を墨に取りかえる。
それを知らずに、女がなおも墨を目の下に塗って泣くので,その顔を見た大名は、女の不実を知り,恥をかかせようと,形見に手鏡を渡す。
女は鏡を覗いてびっくり。男たちの悪意を知った女は、怒り出して、二人を追い駆けて墨を塗りつける。
狂言の大名は、家来が1人か2人の小名ながら威張り散らすのだが、この大名も、自分から女に暇乞いが言えなくて、太郎冠者に告げさせる。
それに、ゾッコン女が惚れ込んでいると信じているので、太郎冠者から、女の涙が水涙であると言われても信用しない。
このあたりの大名の滑稽さ気の良さを、七五三が実に威厳と風格を装いながら、コミカルタッチで演じていて上手い。
弟の千三郎が、極めて真面目実直な太郎冠者を演じていて、その対照の妙が秀逸で、従兄弟のあきらの演じる女が、また、面白い。
後見の逸平が、舞台とは打って変わった真面目さで介添えをしていた。
この狂言の女の心境は良く分からないのだが、遊離の女ではなかろう、男としては、嘘でも、こんな状態で泣かれると、嬉しいもので、色々な思い出が走馬灯のように頭を駆け巡るのであろう。
私が太郎冠者なら、水と墨を入れ替えるなどはせずに、嘘でも、二人の別れを感動的に演じさせてやるのだが、それでは、狂言にはならないのであろう。
しかし、怒った女が、憎く思ったのかどうかは分からないが、追っ駆けて来て、顔に墨を塗りたくると言うことを考えると、一寸、興ざめではあるが、面白い。
次の「野老」は、狂言らしくない狂言である。
能のように、地謡が入り、ワキ/旅僧 萬、アイ/所の者 住吉講が登場し、シテ/野老の精 万蔵が囃子に合わせて登場して、舞を舞う。
山芋の亡霊と言うのが面白いのだが、世阿弥の夢幻能のような感じである。
野老(のとろ)と言う山芋が、主人公で、近所の者に食べられてしまったので、夜な夜な幽霊になって現れるので卒塔婆を立てて供養したと言うのだが、僧が経をあげて弔っていると、野老の霊が登場して、最後の状況などを舞って演じ語ると言う、私などには理解を越えた物語が展開される。
人間国宝萬の旅僧の台詞回しも、日頃の狂言とは違って、重々しくて荘重な雰囲気で、万蔵の舞も、三番叟とは違ってはいるが、舞ながら物語を演じると言う仕方話のような感じで、私には、新鮮な狂言鑑賞であった。
最後の大蔵流狂言「髭櫓」は、山本東次郎家の面白い狂言で、囃子方が登場し、アド/ 妻 則孝 が語らって集めたわわしい女集団が、シテ/夫 東次郎に、後妻打ち(うわなりうち)模様の攻撃を仕掛けると言う話である。
都に住む男は、大髭の持ち主であったために、禁中の大嘗会で犀の鉾の役を与えられたので、妻に、祭の衣装を作るように頼むが、赤貧芋を洗うが如き生活故に衣装どころではない髭を剃れと批難される。
怒った男が、妻を打擲したので妻は家を飛び出す。
しばらくして、男アド/告げ手 凜太郎 がやって来て、妻が近所の女房たちを集めて、武器を持って押し寄せてくると告げる。
夫は、髭を守るために髭の周りに櫓を建てて、妻たちを待ち受けて奮戦するも、多勢に無勢で、押し倒されて髭を剃られてしまう。
5人の女たちが、武装して長い武器を突き立てて、勇壮な勇ましい謡にのって、進軍して来て奮戦、一時は、橋懸りに追い詰められるが、盛り返して、とうとう、夫の髭を防御する櫓を崩して、髭を剃り落とし、勝鬨を上げる。
この時、夫の東次郎は、切り戸口から、こっそりと退場するのが面白い。
狂言には、からっきし、生活力がないのに、人並み以上に趣味や嗜好に入れ込んで、見栄を張りたがって、妻に無心をするダメ男が登場するのだが、わわしいと相場が決まっている狂言の女どもが、色々と反撃して、遣り込めるのが面白い。
この頃、能や狂言を鑑賞する機会が多くなったので、何となく面白い話題性に乏しくて暗い感じなので、殆ど興味を持たなかった室町時代の歴史や文化に、少しずつ関心を持って学び始めている。
能は、私には、まだ、難しい世界なので、狂言の笑いの世界を通じて、当時の庶民文化から、始めようと思っている。
夫々、25分くらいの小曲なので、2時間弱で終わるのだが、結構中身が濃くて面白い。
まず、最初の京都茂山家の大名狂言「墨塗」。
シテ/大名 七五三、アド/太郎冠者 千三郎、アド/女 あきら
訴訟のため都に滞在していた大名が,無事勝訴して帰郷することになり,太郎冠者を連れて、在京中に馴染んだ女に暇乞いに行く。
別れを告げられて、女は悲しげに泣くので,大名も、涙を誘われる。
実は、女は鬢水入れの水で目をぬらして泣き真似をしていて、それに気付いた太郎冠者が、大名に告げるも信じないので、そっと、水を墨に取りかえる。
それを知らずに、女がなおも墨を目の下に塗って泣くので,その顔を見た大名は、女の不実を知り,恥をかかせようと,形見に手鏡を渡す。
女は鏡を覗いてびっくり。男たちの悪意を知った女は、怒り出して、二人を追い駆けて墨を塗りつける。
狂言の大名は、家来が1人か2人の小名ながら威張り散らすのだが、この大名も、自分から女に暇乞いが言えなくて、太郎冠者に告げさせる。
それに、ゾッコン女が惚れ込んでいると信じているので、太郎冠者から、女の涙が水涙であると言われても信用しない。
このあたりの大名の滑稽さ気の良さを、七五三が実に威厳と風格を装いながら、コミカルタッチで演じていて上手い。
弟の千三郎が、極めて真面目実直な太郎冠者を演じていて、その対照の妙が秀逸で、従兄弟のあきらの演じる女が、また、面白い。
後見の逸平が、舞台とは打って変わった真面目さで介添えをしていた。
この狂言の女の心境は良く分からないのだが、遊離の女ではなかろう、男としては、嘘でも、こんな状態で泣かれると、嬉しいもので、色々な思い出が走馬灯のように頭を駆け巡るのであろう。
私が太郎冠者なら、水と墨を入れ替えるなどはせずに、嘘でも、二人の別れを感動的に演じさせてやるのだが、それでは、狂言にはならないのであろう。
しかし、怒った女が、憎く思ったのかどうかは分からないが、追っ駆けて来て、顔に墨を塗りたくると言うことを考えると、一寸、興ざめではあるが、面白い。
次の「野老」は、狂言らしくない狂言である。
能のように、地謡が入り、ワキ/旅僧 萬、アイ/所の者 住吉講が登場し、シテ/野老の精 万蔵が囃子に合わせて登場して、舞を舞う。
山芋の亡霊と言うのが面白いのだが、世阿弥の夢幻能のような感じである。
野老(
人間国宝萬の旅僧の台詞回しも、日頃の狂言とは違って、重々しくて荘重な雰囲気で、万蔵の舞も、三番叟とは違ってはいるが、舞ながら物語を演じると言う仕方話のような感じで、私には、新鮮な狂言鑑賞であった。
最後の大蔵流狂言「髭櫓」は、山本東次郎家の面白い狂言で、囃子方が登場し、アド/ 妻 則孝 が語らって集めたわわしい女集団が、シテ/夫 東次郎に、後妻打ち(うわなりうち)模様の攻撃を仕掛けると言う話である。
都に住む男は、大髭の持ち主であったために、禁中の大嘗会で犀の鉾の役を与えられたので、妻に、祭の衣装を作るように頼むが、赤貧芋を洗うが如き生活故に衣装どころではない髭を剃れと批難される。
怒った男が、妻を打擲したので妻は家を飛び出す。
しばらくして、男アド/告げ手 凜太郎 がやって来て、妻が近所の女房たちを集めて、武器を持って押し寄せてくると告げる。
夫は、髭を守るために髭の周りに櫓を建てて、妻たちを待ち受けて奮戦するも、多勢に無勢で、押し倒されて髭を剃られてしまう。
5人の女たちが、武装して長い武器を突き立てて、勇壮な勇ましい謡にのって、進軍して来て奮戦、一時は、橋懸りに追い詰められるが、盛り返して、とうとう、夫の髭を防御する櫓を崩して、髭を剃り落とし、勝鬨を上げる。
この時、夫の東次郎は、切り戸口から、こっそりと退場するのが面白い。
狂言には、からっきし、生活力がないのに、人並み以上に趣味や嗜好に入れ込んで、見栄を張りたがって、妻に無心をするダメ男が登場するのだが、わわしいと相場が決まっている狂言の女どもが、色々と反撃して、遣り込めるのが面白い。
この頃、能や狂言を鑑賞する機会が多くなったので、何となく面白い話題性に乏しくて暗い感じなので、殆ど興味を持たなかった室町時代の歴史や文化に、少しずつ関心を持って学び始めている。
能は、私には、まだ、難しい世界なので、狂言の笑いの世界を通じて、当時の庶民文化から、始めようと思っている。
ところでちょっと気になったのですが、野老は(ところ)と読みます。書き間違いだと思いますが。