熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「鐘の音」・能「橋弁慶」

2019年12月24日 | 能・狂言
   今月は、先月に続いて◎演出の様々な形の2回目、
   演目は、同じ狂言「鐘の音」能「橋弁慶」で、次の通り、
   先月よりは、凝縮されたシンプルな曲で、狂言25分、能50分弱の短い舞台であった。

   狂言 鐘の音 (かねのね) 野村 万蔵(和泉流)
   能 橋弁慶(はしべんけい)替装束・扇之型(かえしょうぞく・おうぎのかた)金剛 永謹(金剛流)

   先月の大蔵流の「鐘の音」は、金を鐘と間違えた太郎冠者に、仲裁人が入ると言う少し物語性が加わった舞台であったが、今回の和泉流の舞台は、太郎冠者が自分で鐘を突き、響き渡る鐘の音の表現や、間違って鐘の音を聴いてきて主人から怒られたので、その様子を仕方話にして、小舞を見せて主人の機嫌を直そうとする太郎冠者の芸が魅せ処であろう。
   箸にも棒にもかからない惚けた調子の万蔵の太郎冠者に、呆れ果てて渋い顔をして対する主の萬の表情が秀逸なのだが、
   小舞で、夫々の寺の鐘の音に、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と言う涅槃経の偈をあてた謡が謡われていると言うことで、かなりの教養がないと、太郎冠者の良さが分からないと言うところが面白い。

   能「橋弁慶」も、前回のように、「笛之巻」の小書のある常盤御前が登場して、牛若丸に説教するシーンがないのだが、詞章に、「・・・母の仰せの重ければ、明けなば寺に上るべし、今宵ばかりの名残ぞと、・・・」とあって、この曲でも、千人切りは牛若丸であって、弁慶は、挑戦者であることが分かる。

   金剛流のこの舞台は、「替装束」「扇之型」がついていて、先月の演出のように、弁慶は直面で、袈裟頭巾の姿ではなく、「長霊癋見癋見」の面に長範頭巾を被った姿となり、こうなれば、歌舞伎の勧進帳で見慣れている弁慶のイメージとは全く違ってくるのだが、永謹宗家の偉丈夫で堂々とした貫禄のある姿を観ていると、この方が、本当の弁慶のように思えてきて不思議であった。
   「扇之型」は、弁慶との対決途中に、牛若が、弁慶に扇を投げつけるのだが、半ば開いた奇麗な扇なので、絵になって面白い。

   同じテーマの曲でも、流派によって、小書や演出、それに、詞章などの変化によって、演出の形が、様々に変化して、ハッとするようなシーンが展開されるなど、興味深い。
   名能楽師の著作などを読んでいると、結構、他流派の演出に触発されたり、影響を受けることがあるようだし、歌舞伎や文楽など、異業種の古典芸能との関りなど、純粋培養の世界にも、外界の影響があるようで面白いのだが、
   イノベーションと同じように、新規の発明などはなく、
   茂木健一郎氏が、言っているように、
   クリエイティビティにとっては、脳に記憶された経験と知識の豊かさが大切で、その記憶の豊かな組み合わせの多様性が創造性を生む。経験や知識は、必ずしも新しいものではないのだが、脳に知識として内包された経験と知識がお互いに触発し合って生み出す無限の組み合わせが、新しい発想や発明・発見を生み出し、無限に新しいものが創造される。
   しからば、芸の世界であっても、伝統を固守しすぎて、純粋培養であるよりも、脇目を振るのも、芸の肥やしになるではないかと思うのだが、どうであろうか。
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