人間文化研究機構が、非常に興味深い表題のシンポジウムを開催した。
今回は、京都にある総合地球環境研究所の担当で、京大グループが、食について、その生物多様性と文化多様性をテーマに、石毛直道教授の基調講演を皮切りに、環境問題との絡みも含めて現在文明を語った。
雑食動物ゆえに、世界中の異なる環境に進出した人間が、食用植物の栽培化と動物の家畜化、そして、料理をすると言う文化を持ったことによって、民族文化の枠を超えた普遍性が食文化にもあらわれ、更に、食材の多様性と料理方法の交流による多様性が著しく進展して世界中の食文化を豊かにし、大きく変えて来た。
それは、和洋中の料理法の折衷とも言うべき日本の家庭料理が進化した新日本料理を見れば良く分かることだとして、石毛教授は、トンカツやラーメンが、既に、オリジンとは様変わりの立派な日本料理となっていることを語った。
パン粉を使って炒めたようなカツレツが、日本では、天麩羅の技法を使って油で揚げたトンカツと成った。
昔、ウイーンで、トンカツのつもりで、シュニッツェルを食べたのだが、全く美味くなかった。
天麩羅は、ポルトガル人が、何かの宗教儀式の時の特別食として油で揚げた料理らしく、テンプル(寺院)が訛って伝わったと聞いたことがあるが、天麩羅料理をこれ程までに洗練された料理に仕上げた日本の食文化は大したものであると思う。
石毛教授は、人間は、料理をする動物であると同時に、共食する動物であると語った。
近代社会で発展したのは、外食と食品産業だが、やはり、ヒトの食事の基本集団は家族であり、この家族と言うヒトの社会の集団単位が消滅することはないであろうが、しかし、文明が都市化して、人工的な環境でヒトが生活すればするほど、社会の食と家庭の食の調和をはかることが大切だと言う。
生活の中で、環境の産物ともっとも関りの深いのが食であり、人々は、栽培植物や家畜のように限られた種であっても、食材を通じて植物の種類や季節の認識をしてきた。
ところが、現在の日本の都市民は、畑の作物を見て大麦と小麦との区別さえ分からず、魚は店頭の切り身でしか知らないので魚の名前を当てられなくなってしまっているのは、正に、食の社会化と環境離れの典型であり、ヒトの自然認識に関る由々しき問題だと指摘する。
最近、朝日新書「コシヒカリより美味しい米」を著した佐藤洋一郎教授が、食文化を考え直すとして次の提言を行っていた。
自分でとごうコメくらい
おいしいものは当地で
安かろう悪かろう
考え直そうダイエット
要するに、食べると言う人間にとって大切な行為をもっともっと大切にしようと言うことのようで、夕方帰宅途中で、百貨店のデパチカによって夕食の用意をしたり、何千キロも食材を運んで来て握られた寿司をニューヨークで食べたり、無茶苦茶な価格破壊の外食で昼飯代を浮かせたり、無理に食事を抑えたり、と言った愚行は止めて、食べることを楽しもうとと言うことであろうか。
アメリカ文化の象徴のようなファーストフードよりも、イタリア文化の香りがするスローフードを、と言うことであろうが、あまりにも世の中の生活テンポが速くなり過ぎて、悲しいかな、現代人は、食を楽しむ余裕がなくなってしまったのであろう。
さて、石毛教授の話だと、縄文遺跡時代には、日本人は、哺乳類70種、鳥類35種、魚類71種食べていたようだが、現代人は、家畜の牛、豚、鶏が大半で、他に、羊、馬、小鳥など極僅かで限られた肉しか食べていないし、穀物に至っては、大半が、小麦とコメで、更に、佐藤教授の話では、コメの70%は、コシヒカリとその子孫のコメだと言うから、文明が進めば進むほど食材の多様性から遠ざかって行く。
以前に、このブログで取り上げたマイケル・ポーランの「雑食動物のジレンマ」には、何万年何十万年と人類が自然環境の中で食べ続けて来た自然の中の食材には、慣れているので体が適当に対応して病気に罹りにくいが、人工的に作り上げた食材や食べ物は危険であると書いてあったような気がする。
毎日、30種類の食べ物を取るべきであるとお医者さんが言っていたが、食の多様性は、人間にとって必須なのであろう。
しかし、美食と言わないまでも、豊かで美味しい食を満喫するためには、それ相応のヒマとカネがいる。
それに、もうひとつ歳の問題もある。
昔、若かりし頃、ヨーロッパで頑張っていた頃には、ミシュランの赤本を小脇に抱えて、あっちこっちを旅しながら、星つきのレストランを渡り歩いていたのだが、このあたりになると、食は、文化であると言うことが痛いほど良く分かるのである。
今回は、京都にある総合地球環境研究所の担当で、京大グループが、食について、その生物多様性と文化多様性をテーマに、石毛直道教授の基調講演を皮切りに、環境問題との絡みも含めて現在文明を語った。
雑食動物ゆえに、世界中の異なる環境に進出した人間が、食用植物の栽培化と動物の家畜化、そして、料理をすると言う文化を持ったことによって、民族文化の枠を超えた普遍性が食文化にもあらわれ、更に、食材の多様性と料理方法の交流による多様性が著しく進展して世界中の食文化を豊かにし、大きく変えて来た。
それは、和洋中の料理法の折衷とも言うべき日本の家庭料理が進化した新日本料理を見れば良く分かることだとして、石毛教授は、トンカツやラーメンが、既に、オリジンとは様変わりの立派な日本料理となっていることを語った。
パン粉を使って炒めたようなカツレツが、日本では、天麩羅の技法を使って油で揚げたトンカツと成った。
昔、ウイーンで、トンカツのつもりで、シュニッツェルを食べたのだが、全く美味くなかった。
天麩羅は、ポルトガル人が、何かの宗教儀式の時の特別食として油で揚げた料理らしく、テンプル(寺院)が訛って伝わったと聞いたことがあるが、天麩羅料理をこれ程までに洗練された料理に仕上げた日本の食文化は大したものであると思う。
石毛教授は、人間は、料理をする動物であると同時に、共食する動物であると語った。
近代社会で発展したのは、外食と食品産業だが、やはり、ヒトの食事の基本集団は家族であり、この家族と言うヒトの社会の集団単位が消滅することはないであろうが、しかし、文明が都市化して、人工的な環境でヒトが生活すればするほど、社会の食と家庭の食の調和をはかることが大切だと言う。
生活の中で、環境の産物ともっとも関りの深いのが食であり、人々は、栽培植物や家畜のように限られた種であっても、食材を通じて植物の種類や季節の認識をしてきた。
ところが、現在の日本の都市民は、畑の作物を見て大麦と小麦との区別さえ分からず、魚は店頭の切り身でしか知らないので魚の名前を当てられなくなってしまっているのは、正に、食の社会化と環境離れの典型であり、ヒトの自然認識に関る由々しき問題だと指摘する。
最近、朝日新書「コシヒカリより美味しい米」を著した佐藤洋一郎教授が、食文化を考え直すとして次の提言を行っていた。
自分でとごうコメくらい
おいしいものは当地で
安かろう悪かろう
考え直そうダイエット
要するに、食べると言う人間にとって大切な行為をもっともっと大切にしようと言うことのようで、夕方帰宅途中で、百貨店のデパチカによって夕食の用意をしたり、何千キロも食材を運んで来て握られた寿司をニューヨークで食べたり、無茶苦茶な価格破壊の外食で昼飯代を浮かせたり、無理に食事を抑えたり、と言った愚行は止めて、食べることを楽しもうとと言うことであろうか。
アメリカ文化の象徴のようなファーストフードよりも、イタリア文化の香りがするスローフードを、と言うことであろうが、あまりにも世の中の生活テンポが速くなり過ぎて、悲しいかな、現代人は、食を楽しむ余裕がなくなってしまったのであろう。
さて、石毛教授の話だと、縄文遺跡時代には、日本人は、哺乳類70種、鳥類35種、魚類71種食べていたようだが、現代人は、家畜の牛、豚、鶏が大半で、他に、羊、馬、小鳥など極僅かで限られた肉しか食べていないし、穀物に至っては、大半が、小麦とコメで、更に、佐藤教授の話では、コメの70%は、コシヒカリとその子孫のコメだと言うから、文明が進めば進むほど食材の多様性から遠ざかって行く。
以前に、このブログで取り上げたマイケル・ポーランの「雑食動物のジレンマ」には、何万年何十万年と人類が自然環境の中で食べ続けて来た自然の中の食材には、慣れているので体が適当に対応して病気に罹りにくいが、人工的に作り上げた食材や食べ物は危険であると書いてあったような気がする。
毎日、30種類の食べ物を取るべきであるとお医者さんが言っていたが、食の多様性は、人間にとって必須なのであろう。
しかし、美食と言わないまでも、豊かで美味しい食を満喫するためには、それ相応のヒマとカネがいる。
それに、もうひとつ歳の問題もある。
昔、若かりし頃、ヨーロッパで頑張っていた頃には、ミシュランの赤本を小脇に抱えて、あっちこっちを旅しながら、星つきのレストランを渡り歩いていたのだが、このあたりになると、食は、文化であると言うことが痛いほど良く分かるのである。
このブログの中でも栽培日記が記されているトマトにも多くの品種があり、様々な用途にあったものが売られているのが豊かな社会だが、スーパーで買えるのはごく一部でしかない。ものは大量にあるのに選べないというのでは豊かではないというのです。確かに働いているとなかなかスローフードのようなことができなくなることを実感しています。
実家の母親(義母)の用意してくれる料理が少しその新鮮で多様性のある食材を補ってくれる程度です。