万博と言えば、私には、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会。
今でも跡地に岡本太郎のシンボルタワーが建っているが、77カ国の参加のもと6400万人を超える入場者によって好評のうちにその幕を閉じた。
ところが、今、喫緊に迫ってきた大阪万博2025について、コストが異常に高騰したとか、外国の意欲後退で準備が遅れているとか、批判が噴出して、逆風が吹き荒れている。
しかし、ここに至っては、万難を排して、絶対に前向きに対処して成功させるべきだと言いたい。
本来、文化文明の発露、お祭り騒ぎのイヴェントなどと言うものは、金に糸目をつけない贅沢の象徴のようなものであって、セコイ商業主義が跋扈する事業なら、最初から手を上げるべきではなかったのである。
ルネサンス時代のフィレンツェでの、ダ・ヴィンチの壮大な遊び心の開花やその後の文化文明の礎となったメディチ・エフェクトの爆発を見れば、このことが良く分かる。
税金の無駄遣いだとオウム返しに唱える分かったような物言いをする賢しい人が多いが、もう、ここまで来たら、愚痴をこぼさずに、当初の目的通りに完遂して、国際的信義を果たすべきである。
さて、私自身の万博の思い出だが、
丁度、1970年の大阪万博の頃、会場直近の高槻に住んでいたので、何回も出かけ行ったので、かなり記憶に残っている。後半の何度かは、割安だったし人ごみを避けられたので夜間入場で通った。
バスだと、会場から高槻駅、高槻駅から最寄りの団地駅、これを乗り継げば会場通いができたのだが、万博客に加えて通勤通学の路線バスなので始終混んでいて、1歳の娘を抱えての往復は大変であったのを覚えている。
月の石を見るために、何時間も並んだりして結構苦労したが、異国情緒や外国の文化文明に直接触れる魅力には抗しがたく、楽しかった。
私は、特に高校時代に、ギリシャやローマ文化などに惹きつけられて、世界史や世界地理を意識して勉強していたので、まさに、願ったり叶ったりの格好のチャンスであった。
ところが、そのすぐ後に、期せずして、会社から留学命令が出て、アメリカのフィラデルフィアのペン大のビジネス・スクールで勉強して、そのクリスマス休暇に、パリ経由でヨーロッパ各地を訪れており、夢が実現して海外行脚がスタートした。
しかし、最初に万博を見て、前哨戦と言うべきか、万博会場で受けたカルチャーショックと新鮮な感動には、比べようがなかった。
帰国するととんぼ返りのように、すぐにブラジルへ赴任、
弾みがついたように、東京勤務になってからも、海外業務を担当して世界中を走り回ってきており、その後、ヨーロッパに赴任して、アムステルダムとロンドンで過ごし、
都合、14年間の海外生活を含めてほぼ20年以上も海外を行き来して、その後も、かなり頻繁に海外旅行に出ているので、ずいぶん昔の話にはなるのだが、私にとっては、外国はそれほど遠い世界ではない。
日本でも、筑波や名古屋などで、万博が開かれたようだが、興味が薄れたのか日本に居なかったのか、行っていない。
その後、一回だけ、ロンドンから、スペインのセビリャ万博に出かけて、かなり、エキゾチックなイベントを楽しんだ記憶がある。
いずれにしろ、私に取っては、大阪万博1970は、世界へ飛躍への原点であった。
今、日経小説で、辻原昇の「陥穽」が掲載されている。幕末から明治維新にかけての日本の文化文明の躍動、文明国への台頭が、非常に鮮やかに活写されているが、当時の日本のリーダーや為政者たちが、如何に多くを、欧米との接触で啓発されて指針としてきたか、如実に語っていて、欧米化・近代化がなければ文明開化も富国強兵もなかったであろうことが良く分かる。
最近では、若者の海外留学が激減して、海外雄飛を忌避傾向だという。日本人ノーベル賞学者の殆どが米国経由である。
しかし、グローバル時代でありながら、世界から距離を置く日本人の現実を思えば、日本が、世界での政治経済社会的地位を落として、先進国の下位集団に落ちぶれてしまって、G7の位置確保も怪しくなってきたという憶測も、よく理解できる。
文化文明の十字路に位置し、異文化異文明の触発を受けて新陳代謝を遂げない限り、世界の潮流から取り残されて、歴史の発展、国家の成長は、間違いなしに止まってしまう。
Japan as No.1の時代、日本が破竹の勢いで驀進して、日本人が地球狭しと世界中に雄飛し、欧米人と対等以上にわたり合って切った張ったの激戦に明け暮れていた若かりし頃の猛烈ビジネスマン時代が懐かしい。
死ぬまで、そんな凋落した日本を観たくないと言っていた日銀の友人がいたが、現に「茹でガエル」状態の日本を観ている。
「大阪万博2025」が、少しでも、日本再生の起爆剤となることを祈っている。
今でも跡地に岡本太郎のシンボルタワーが建っているが、77カ国の参加のもと6400万人を超える入場者によって好評のうちにその幕を閉じた。
ところが、今、喫緊に迫ってきた大阪万博2025について、コストが異常に高騰したとか、外国の意欲後退で準備が遅れているとか、批判が噴出して、逆風が吹き荒れている。
しかし、ここに至っては、万難を排して、絶対に前向きに対処して成功させるべきだと言いたい。
本来、文化文明の発露、お祭り騒ぎのイヴェントなどと言うものは、金に糸目をつけない贅沢の象徴のようなものであって、セコイ商業主義が跋扈する事業なら、最初から手を上げるべきではなかったのである。
ルネサンス時代のフィレンツェでの、ダ・ヴィンチの壮大な遊び心の開花やその後の文化文明の礎となったメディチ・エフェクトの爆発を見れば、このことが良く分かる。
税金の無駄遣いだとオウム返しに唱える分かったような物言いをする賢しい人が多いが、もう、ここまで来たら、愚痴をこぼさずに、当初の目的通りに完遂して、国際的信義を果たすべきである。
さて、私自身の万博の思い出だが、
丁度、1970年の大阪万博の頃、会場直近の高槻に住んでいたので、何回も出かけ行ったので、かなり記憶に残っている。後半の何度かは、割安だったし人ごみを避けられたので夜間入場で通った。
バスだと、会場から高槻駅、高槻駅から最寄りの団地駅、これを乗り継げば会場通いができたのだが、万博客に加えて通勤通学の路線バスなので始終混んでいて、1歳の娘を抱えての往復は大変であったのを覚えている。
月の石を見るために、何時間も並んだりして結構苦労したが、異国情緒や外国の文化文明に直接触れる魅力には抗しがたく、楽しかった。
私は、特に高校時代に、ギリシャやローマ文化などに惹きつけられて、世界史や世界地理を意識して勉強していたので、まさに、願ったり叶ったりの格好のチャンスであった。
ところが、そのすぐ後に、期せずして、会社から留学命令が出て、アメリカのフィラデルフィアのペン大のビジネス・スクールで勉強して、そのクリスマス休暇に、パリ経由でヨーロッパ各地を訪れており、夢が実現して海外行脚がスタートした。
しかし、最初に万博を見て、前哨戦と言うべきか、万博会場で受けたカルチャーショックと新鮮な感動には、比べようがなかった。
帰国するととんぼ返りのように、すぐにブラジルへ赴任、
弾みがついたように、東京勤務になってからも、海外業務を担当して世界中を走り回ってきており、その後、ヨーロッパに赴任して、アムステルダムとロンドンで過ごし、
都合、14年間の海外生活を含めてほぼ20年以上も海外を行き来して、その後も、かなり頻繁に海外旅行に出ているので、ずいぶん昔の話にはなるのだが、私にとっては、外国はそれほど遠い世界ではない。
日本でも、筑波や名古屋などで、万博が開かれたようだが、興味が薄れたのか日本に居なかったのか、行っていない。
その後、一回だけ、ロンドンから、スペインのセビリャ万博に出かけて、かなり、エキゾチックなイベントを楽しんだ記憶がある。
いずれにしろ、私に取っては、大阪万博1970は、世界へ飛躍への原点であった。
今、日経小説で、辻原昇の「陥穽」が掲載されている。幕末から明治維新にかけての日本の文化文明の躍動、文明国への台頭が、非常に鮮やかに活写されているが、当時の日本のリーダーや為政者たちが、如何に多くを、欧米との接触で啓発されて指針としてきたか、如実に語っていて、欧米化・近代化がなければ文明開化も富国強兵もなかったであろうことが良く分かる。
最近では、若者の海外留学が激減して、海外雄飛を忌避傾向だという。日本人ノーベル賞学者の殆どが米国経由である。
しかし、グローバル時代でありながら、世界から距離を置く日本人の現実を思えば、日本が、世界での政治経済社会的地位を落として、先進国の下位集団に落ちぶれてしまって、G7の位置確保も怪しくなってきたという憶測も、よく理解できる。
文化文明の十字路に位置し、異文化異文明の触発を受けて新陳代謝を遂げない限り、世界の潮流から取り残されて、歴史の発展、国家の成長は、間違いなしに止まってしまう。
Japan as No.1の時代、日本が破竹の勢いで驀進して、日本人が地球狭しと世界中に雄飛し、欧米人と対等以上にわたり合って切った張ったの激戦に明け暮れていた若かりし頃の猛烈ビジネスマン時代が懐かしい。
死ぬまで、そんな凋落した日本を観たくないと言っていた日銀の友人がいたが、現に「茹でガエル」状態の日本を観ている。
「大阪万博2025」が、少しでも、日本再生の起爆剤となることを祈っている。