山岳アジトでのリンチ殺人などの連合赤軍事件(71~72年)で死刑が確定した元連合赤軍最高幹部の永田洋子(ながた・ひろこ)死刑囚(65)=東京拘置所収容=が5日夜、死亡した。
支援グループなどによると、永田死刑囚は84年7月に脳腫瘍と診断され手術を受けたが、その後も頭痛を訴え、06年2月に弁護士を通じて拘置所に治療を要 求。同3月には東京拘置所で卒倒し、同5月に八王子医療刑務所(東京都八王子市)に移された。約1年後に東京拘置所に戻されたが、脳萎縮の状態だったとい う。
確定判決によると、永田死刑囚は71年12月~72年2月、群馬県の山岳アジトで「総括」と称し、仲間を殴打したり厳寒の戸外に手足を縛って放置するなど して計12人を死亡させた山岳アジト事件や、グループから離脱した男女2人が絞殺された印旛沼事件などで殺人罪などに問われた。永田死刑囚は72年2月に 逮捕されたが、坂口弘死刑囚(64)ら残ったメンバーがあさま山荘事件を起こした。
1審・東京地裁は82年、「犯行は規模、回数、残虐性について比類がなく、損害も甚大」として、永田、坂口両死刑囚に死刑を言い渡した。最高裁は93年、1・2審の死刑を支持し、判決が確定。永田死刑囚は01年に再審請求したが、06年に棄却された。
毎日新聞 毎日jp 2011年2月6日 1時28分 更新:2月6日 2時43分
死刑と決まった者が、死刑を執行されないまま放置され続け、その間に病気を発症し、結局、最後を医療刑務所で終えたことには、う~むである。。
この件では、永田だから、どうのこうのという以前に、私的には「死刑制度」そのものが、またしても等閑にされていることへの危機感や怒りを感じてしまう。。
「山岳アジト事件」といっても、おそらく今の人たちは、殆ど知らない人が多いと思われる。亡くなった12人については、気の毒といえば、気の毒に違いない が、・・・当時の多くのモノの認識としては、所詮は過激派内の「内ゲバ」に過ぎず、冷たいようだが、死んで逝った者らには自業自得という側面もあり、この 件で涙を流す気にはなれない。。
ただ・・・「ゴットファザー」など、血の結束で知られる、あのマフィアでさえ、ここまで非情になれるものかどうか?・・・追い込まれていたとはいえ、その辺に「連合赤軍」のもつ冷徹さが色濃く感じられて、国民に底知れぬ「恐怖」を植え付けた。。
永田洋子(ながた・ひろこ)は、そんな「連合赤軍」の中心にいて、司令塔として、その「総括」に中心的な役割を果たしたとして死刑判決を受けることとなる。。
思い起こすと、事件が起きた1970年代初頭というのは、正にベトナム戦争が激しさを増す時期にあった。あのアメリカが追い込まれてて、勝つために「なりふり構わぬ」姿勢に傾いていた。。
当時、戦場カメラマンらから送られて来る写真を見て、戦場で何が起きているかに気付き、それにより世界中で「反戦ムード」が湧き上がるのである。。
何とかしなきゃいけないと考える者も多く、世界中の学生たちの間で、口々に「反戦」を掲げたデモやコンサートが繰り広げられた。。
忘れもしないのが、後に一人の戦場カメラマンにより撮影され、1973年に「ピューリッツァー賞」を獲得した「戦争の恐怖」という写真。ここでお載せすることは出来ないが、ナパームを受け、泣きながら逃げ惑う少女の姿に、世界中が息を飲んだものだ。。
私も学生の頃、そうした世の中のムードに流され、一時期「マルキシズム」に興味を持ったことがあったが、やがてそれらは幻想と気付き・・・どうにか事なきを得て今に至ってる。。
まぁ、今思うと・・・あれは一種の「熱病」だったと気付く。。
今日、ジャーナリストとされる人の多くには、それ以来「反米思想」に傾注してしまい、未だそのトラウマから抜けだせない人も多いのではなかろうか・・・
まっ、永田洋子も、重信房子もそうした時代に生き、触発された者たちだったといえる。。
いずれにせよ。イデオロギーの対決というのが、その根本軸にあったのは確かだが、問題は、それを武力でもって世の中を変えようとしたところに、革命家を目指した当時の者たちの、悲劇性なり、傲慢さなり、愚かさがあったと言える。。
その後、時代は大きく変わり、どちらのイデオロギーに優位性があるか否か、ようやく決着が付くことになる。。
その背景となったのは、皆さんご承知の通りだから、ここでは省くとして、それらを見せつけられ、人生を掛けた闘争に虚しさがよぎったのか、海外に脱出し指名手配されていた過激派が次々と日本に戻り始める。。
今回、死刑囚の身である永田洋子についても、「病気により獄中死した」ということについては、到底納得がいかぬものを感じるが、いずれにせよ。これにより「また一つ昭和が遠くなっていった」という想いを抱かせるのも事実である。。\_(-_- 彡