はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

終盤探検隊 part78 第十代徳川将軍家治

2016年01月10日 | つめしょうぎ
 九代大橋宗桂作『将棋舞玉』第三十番。29手詰の傑作である。


   [月影黄金城]
 青円はじっと見据えて日円のいう気配を探った。
「淫らな気配を感じます」
「そうだろう」
 日円は鋭い目で山をみつめた。
「胎動のようなものを感じてならん」
   (中略)
 理屈ではなかった。何か二人の理解を超えるものが、直接体にそう思わせているのである。
「燃える燃える」
 日円はたのしそうであった。すでに老境に達したその体には、若い日に燃えさかった血の感覚が蘇ることは、ここちよいことなのであろう。
「黄金城が近いのでしょう」
 青円の声はうわずっていた。
「この手でその扉をあけてやるぞ」
 大声で叫んだ。
                     (半村良『妖星伝』(四)黄道の巻より)



 本シリーズは徳川家治が将軍だった時代(1760~1786年)を中心に、将棋を調べている。

 詰将棋に関していえば、三代伊藤宗看、伊藤看寿の兄弟の時代(1728~1761年)が“黄金期”で、久留島喜内も江戸時代の代表的詰将棋作家だが、この人もこの時代の人物である。
 その宗看・看寿時代の詰将棋が作品として完成度が高いので、次の時代以降は“衰退期”などと呼ばれることもある。宗看・看寿のレベルが基準レベルになってしまい、どの詰将棋も物足らなく感じられてしまうのだろう。

 「家治時代」の詰将棋作家といえば、まず徳川家治、そして、八代大橋宗桂、九代大橋宗桂、桑原君仲である。

 今回は、九代大橋宗桂(印寿)の『将棋舞玉』第三十番、および、その父である八代大橋宗桂の『将棋大綱』から第七番、この2つを選んでこれを鑑賞することにした。

八代大橋宗桂 『将棋大綱』 第七番


 九代大橋宗桂作 『将棋舞玉』 第三十番
 
 九代大橋宗桂(1744年~1799年)は1789年に名人(八世)となったが、名人として必要な八段に昇ったのは1785年、献上図式はその翌年1786年である。それが『将棋舞玉』である。 

 ≪注意≫ 以下、解答を眺めていくので、自力で解きたい方は読んではいけない。

問題図
▲5一桂成 △同玉 ▲4二銀成 △同玉 ▲3三と △5一玉 ▲4二と

 この作品、問題図から“気品”を感じるが、いかがだろうか。

 この詰将棋の主役は、盤上の5九角と、持駒の二枚の香車である。
 5九角をいかに使うか、それがこの作品のテーマとなる。

 まず5一桂成、同玉と桂馬を捨てる。
 そこで9五角とする手があるが――

失敗図(3手目9五角)
 それは8四歩(図)で防がれて失敗。玉方の5七の角が8四に利いている。
 ここで持駒の「香香歩」でなんとかなりそうな気もする(たとえば4二銀成、同玉、4四香とか、5三香とか)が、詰まない。

 そういうわけで9五角はここでは駄目なのだが、この攻めが基本になる。

 左から攻めるのはダメだったので、それならと右から攻める手を今度は試行する。
 4二銀成(3手目)、同玉、3三と、5一玉、4二とで、次の図。 

7手
△4二同玉 ▲4六香

 盤上の攻め方の桂、銀、と金が邪魔駒だったわけだ。
 さあそれで、4二と、同玉となった時、4六香(9手目)が正解手で、“ねらいの一手”である。

9手
△4六同角成
 
 この4六香に代えて、1五角で詰めば世話がないが、これもまた敵の5七角の利きがあって、2四歩で止められてしまう。

 そこで、4六香である。この瞬間、5七角の後ろ右(こっちから見て右)への利きが止まっているので、たとえば4五歩合などでは1五角から詰むし、4六香を同竜も同じ。(この4六香に代えて4七香は4五歩で不詰。つまり4六香は限定打)

 ということで、4六香には同角成。
 これでこれであの「5七角」が、「4六」に移動した。“移動させた”のだが、それにどういう意味があったのか。

10手
▲3三歩成 △5一玉 ▲5五香

 ここで3三歩成、5一玉、9五角としても、今度は7三歩で止められてしまうから、「4六香、同角成」は意味のない捨て駒にも思える。

 しかしこの図で、3三歩成、5一玉の後の、13手目を見れば、なるほどと、その意味がわかる。

13手
△5五同龍 ▲9五角

 13手目の5五香。この作品の主眼である。
 9手目の4六香と、この5五香を決め手にするために、この詰将棋はつくられている。

 「4六」に角を呼んで、そして5五香と打てば、この瞬間に5五竜のタテへの利きと、4六馬の後ろへの利きが同時に止まっている。
 “焦点の香打ち”である。
 玉方はこれを竜で取っても馬で取ってもどっちかの利きはストップする。

 5五同馬は、5三竜で簡単に詰み。
 よって、取るなら5五同竜。

 それが正解手順になるのだが、しかし図の5五香に、合駒もある。それはどうなるのだろう。
 以下、それを考える。
 合駒するなら、「5四」か「5二」。

 しかし「5四歩合」は、5三竜以下簡単。

変化図1(14手目5四金)
 よって5四合なら「5四金合」だが、それには9五角(図)。
 以下、6二歩に、同角成、同玉、6三飛成、5一玉、5四香、同竜、4二金まで詰み。

 「5二」に合駒する場合を次に検証しよう。

変化図2(14手目5二歩)
 まず「5二歩合」には、やはりここでも9五角。5五香のおかげでこの角が働く。
 この図の9五角に、6二歩合は、同角成、同玉、6三飛成から、これも簡単な詰み。

変化図3(14手目5二金)
 「5二金合」と「5二銀合」がちょっとたいへん。

 まず「5二金合」(図)から。
 やはりこれにも9五角で、6二歩に、同角成(次の図)

変化図4
 6二同玉、5二香成、同竜、6三金(次の図)
変化図5
 5一玉、5二金、同玉、4二飛以下、29手駒余り詰。

変化図6(14手目5二銀)
 「5二銀合」にも、9五角で問題ない。最短の詰め方は、以下、6二歩に、同角成、同玉、6三歩、5一玉、8一竜(香車を取る)、6一歩、6二歩成、同玉、6三香、同銀、7一竜(次の図)


変化図7
 14手目「5二銀合」は27手詰になる。


15手
△9五同龍 ▲5三飛成

 正解手順の14手目5五同竜にも、やはり9五角。4六の馬の利きが止まっているからこれが有効になる。6二歩なら、同角成、同玉、6三銀成、5一玉、5二歩以下。
 9五角には、同竜が正解手順になる。

17手
△6一玉 ▲6二歩 △7二玉 ▲6三龍

 以下、5三飛成から収束。

21手
△7一玉 ▲6一歩成 △8二玉 ▲8三銀成 △9一玉 ▲9二成銀 △同玉 ▲9三龍

 あとはむつかしいところはないが、4六馬の利きが今は生きているので注意しながら詰ます。

詰上がり図
 まで29手詰。

 この詰将棋は、主眼である9手目4六香と13手目5五香のところ以外は、無駄にゴタゴタした変化がないところがとても良い。そのことが「5五香」という“焦点の遠打ち”を、より鮮やかに印象付ける効果をもたらしている。

 なお、7手目に5五香とし、同竜に、4二と、同玉、4六香と、“手順”を入れ替えるとどうなるか。
失敗図1
 これを同角成だと、3三歩成、5一玉、9五角で、正解手順と同じになって詰む。
 しかし図の4六香を「同竜」で詰まない。そこで1五角なら4一玉で、他に3三歩成も、8六角も、やはり4一玉で、4六竜が後ろに利いているので詰まないのである。
 よってこの順は成立しない。(正解手順9手目4六香に「同竜」の場合には、1五角に4一玉なら、香車をもう一枚持っているので、そこで4三香があって仕留めることができるのである。うまく出来ている)

 また、5手目から「3三と、5一玉、4二と、同玉、4六香」のところを先に「4六香」に代えると――
失敗図2
 5一玉で詰まない。この“手順前後”も成立しない。良く練られている。


 図式『将棋舞玉』が献上されたのは、1786年。この年は徳川家治十代将軍が没した年である。
 前年に、九代大橋宗桂は「八段」に昇っており、この数年前から宗桂の名人襲位は準備されていたのであろう。この時代まで、図式献上は名人になるための必要条件であった。
 
 『将棋舞玉』は他にも、傑作がたくさんある。たとえば8番。 → 動画『将棋舞玉』第8番を北浜健介が解説


八代大橋宗桂作 『将棋大綱』 第七番

将棋大綱7番
 この詰将棋は玉方の「8一桂」が「四段桂跳ね」をするところが注目である。これは八代宗桂(宗寿)の兄三代宗看も弟看寿もやっていない新技であった。
 
 八代大橋宗桂(宗寿)は、九代大橋宗桂(印寿)の実父である。
 元々伊藤家の生まれで、五世名人二代伊藤宗印(鶴田幻庵)の三男である。兄に三代宗看(二男、七世名人になった)がおり、弟に看寿(五男)という天才兄弟にはさまれた環境で生まれてきている。
 数え11歳の時に、大橋家に養子に行き、大橋家の家督を継ぎ、「八代目」となったのである。
 兄の三代宗看は23歳の若さで名人になったが、その時は八代宗桂は15歳、ライバルになりようもなかったが、その七世名人の宗看のその“次の名人”を決める闘いは熾烈だった。八代宗桂(大橋家)と看寿(伊藤家)と四代大橋宗与(大橋分家)の三つ巴の“次期名人候補争奪戦”である。実弟でもある看寿は宗桂の4つ年下、分家の四代宗与は5つ年上。

将棋大綱7番 問題図
▲7三桂成 △同桂
 攻め方の基本的ねらいは8五金、同玉、7七桂、同と、8九竜、8七香合、8六歩、7四玉、8五角という詰め手順。ところが――そううまくはいかない。(というか、それでは詰将棋にならない)

失敗図
 8五金、同玉、7七桂に、7四玉(図)で詰まない。ここで7三桂成や7五歩もあるが届かない。
 この失敗図で、6五桂がいなかったら――ということで、初手7三桂成が正解である。


▲6五金寄 △同桂
 7三桂成、同桂で、この図。これで桂馬が1回跳ねた。
 ここで8五金はどうか。同玉、7七桂に、8四玉で――

失敗図
 王手で8九竜と角が取れるが、9三玉があって不詰。
 6二角の利きが7三桂で止まっているので8四玉とされ、9三へと逃げる道ができてしまっている。

  
▲8五金 △同玉 ▲7七桂
 ということで、3手目は6五金寄とし、同桂となってこの図。
 これであの桂馬が2回跳躍した。
 ここでねらいの8五金の筋を決行する。同玉に、7七桂。


△同桂不成 ▲8九龍
 これなら7四玉には6五金の1手詰だし、8四へは逃げられない。
 7七同桂不成(8手目)で3回目の桂馬の跳躍。そして8九竜で、同桂成となって、「玉方桂四段跳ね」が実現した。史上初の快挙である。

 ただし、実は問題があって、図の7七桂に同桂成の手があって、それには8九飛、8七香合となるが、以下9五角成、同歩、9四角から、本手順とまったく同じ手順で詰む。これは作者が意図したはずの正解手順と同じ33手詰。つまり変化同手数である。これは「7七桂不成、成、どちらも正解」ということになり、そうなるとせっかくの快挙の「玉方桂四段跳ね」がぼやけてしまう。残念なところである。


△8九同桂成 ▲9五角成
 ここはしかし“人情”で、7七桂不成~8九同桂成としてほしいところ。
 8九同桂成の後は、後半になる。どう攻めていくか。
 9五角成が正解である。


△9五同歩 ▲9四角 △8四玉 ▲8三角成 △8五玉 ▲8六歩 △同と ▲9四馬
 9五同歩と取らせて、開いた9四の空間に9四角と打つ。
 以下は「見てもらえばわかる」という内容。


△7四玉 ▲7五歩 △7三玉 ▲8三と △6二玉 ▲8四馬 △6一玉
 ただし、本譜は9五角成として、後で8六歩と歩を打っているが、そこのところ先に8六歩と打つ“手順前後”も成立する。(これを修正するのは困難と思われる)


▲5二銀成 △同玉 ▲4四桂 △5三玉 ▲6二馬 △同玉 ▲5二金
 最後には馬を消して収束。

詰め上がり図
33手詰。

 このようにこの八代大橋宗桂『将棋大綱』7番は、八代宗桂の代表作であり、労作といえるが、欠陥もあるとわかった。
 とはいえ、「玉方桂四段跳ね」は、江戸時代ではこれが唯一の作品。これがあったからこのアイデアを完全作で実現させようという人も出てくるわけである。
 今では、「玉方桂四段跳ね」の詰将棋作品は完成品がいくつか出来ている。 (調査した方がおられるようだ→こちら

 1760年に看寿が死んだ。兄三代宗看(七世名人)が1761年に、その2年後に四代大橋宗与もこの世を去った。
 八代宗桂一人、生き残った。 四代大橋宗与の死後、八代宗桂は「八段」(名人資格をもつ段位)となり、図式『将棋大綱』を献上したが、しかし、名人になることはなかった。名人位は「空位」のままだった。
 『将棋大綱』を鑑賞すると、たしかに、宗看、看寿の図式とくらべると、素人目にもゆるい印象はする。宗看、看寿の詰将棋作品のような、“迫力”が足らない感じだ。
 八代宗桂は1774年に没した。

 そして才能豊かな、息子、印寿が大橋家九代目を継承したのである。
 図式『将棋舞玉』の献上も済ませた九代大橋宗桂は、1789年に名人位を襲う。1728年に三代伊藤宗看が七世名人になって以来、61年ぶりの新名人の誕生であった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする