はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

終盤探検隊 part37 阪田三吉 “夢の角”

2015年09月14日 | しょうぎ
 「夢角の局」と呼ばれる1920年「金易二郎-阪田三吉(香落ち)戦」の140手目の図。
 これが敗着となって、金は敗れ、149手で阪田が勝った。7日間、65時間を要した激闘であった。


    [冴えた心に月宿る]

 心というやつはコロコロと転げるので、ココロやそうだが、全く妙なもので、瞬くうちに鬼にもなれば、仏にもなる。瓢箪から駒が出たり、地獄、極楽から人間界を転がり廻ってやっと落ち着くことができた。そのうちにだんだん心が澄んでくる。濁った米のとぎ水をきれいな流れがスーッと洗い清めていくように、心のうちが冴え冴えしてきた。冴えた心に月宿るで、心が冴えてくるにつれて、不思議に先の手が読め出した。何百手の先の先まではっきりと。
 妙手というものは、自分で考えたものと違う。そんなよい手は自分で打てるものではない。口ではたやすく言うものの、妙手が二日や三日考えて考え出せるものではない。一代考えても、妙手というものを考え出せずに死んでいく将棋指しすらあるのに、仮にも何十手、何百手という先の先の詰め手まで、一夜のうちに考えられるのは、自分の力じゃない。
                                        阪田三吉   
                            (中村浩著『棋神 阪田三吉』より)


 上の図面は、140手目金易二郎(こんやすじろう)が、この勝負の敗因となった「6八歩」と打ったところ。下手の玉の“詰めろ”を受けた手だが、7八金、同玉、6七歩、同玉、5八角からの寄せがあった。こういう結末で、149手で、7日間65時間にわたる対局が、阪田三吉の勝利で終わった。
 この140手目、金は7九金打と受けるべきだった。それで下手が勝っていた将棋だった。
 この将棋は119手目に自陣の守りのために打った119手目「7一角」が、阪田自画自賛の「名角」であり、それを夢を通じて天から授かったというので、「夢角の局」と呼ばれている。

 それでも、最後に勝負を決めたのは、「夢の角」ではなく、この140手目に「6八歩」を打った易二郎の“ポカ”であった。

 この「140手目6八歩の図」をあらためて眺めるてみると、なんだか「名月」を眺めている気持ちになってきた。最終盤の、勝負のさ中の激しい局面のはずなのに、下手と上手の駒の調和がとれていて穏やかな美しさを持った図のように思えてきた。
 下手の「8八玉・7八金・6八歩・7七桂」の並びと、上手「8二玉・7二金・6二香・7三桂」の並び――。下手の5三角と、上手の4四角――。

 我々は終盤探検隊として、ソフト「激指13」の力を借りて、この「金-阪田戦」を調べてきた。
 あの“夢の角”は、どの程度の「名角」なのか、というのがテーマなのだが、また、そもそもが「7一角」が阪田三吉のいう“夢の角”なのかさえ、阪田三吉の残した言葉が矛盾だらけで、確定してはいない。
 謎だらけである。

 謎は、金易二郎の側にもある。
 この対局、金易二郎は「一手に8時間」の大長考をしたという。それにもまた、どうやら二つの説があって、確定されていない。(この話は後でまた)
 140手目、「6八歩」が“ポカ”で、金は敗れた。
 なぜ、「6八歩」と金は指したのか。なぜ7九金打と指さなかったのか。これこそが最も重要な“謎”なのだが――
 ――と、それを探ってみても、そこに理論的な答えはないのだ。“ポカ”は“ポカ”、正しい答えなど、存在しない。
 そして、だから、面白い。

 “ポカ”こそ、実は将棋の「華」なのである。どんなに追いかけてみても、たどり着けない“謎”がそこにある。

 だから、この「140手目6八歩の図」は、この名局の味わい深いハイライトシーンなのである。



 今回の報告が、この対局の棋譜調査の最終回であるが、もう一度この将棋を眺め、補足と修正をし、まとめとしたいと思う。

夢の角69手目6二角まで
 下手の金易二郎が4五歩と仕掛けたのは60手目。この図は、下手の金が4六銀と銀を前進させた手に対し、阪田が6二角と応じたところ。
 次の手、70手目で、下手の金易二郎は、「4四歩」と指した。
 「4四歩と突き出したのは、指す手がわからなかったからだ」という金の感想が残っているそうだ。
 ここに補足しておくべきと思ったのは、内藤国雄著『阪田三吉名局集』では、この70手目4四歩に、金易二郎が8時間考えたとしていることである。
 〔ここで金七段が深沈と考えだした。 そして、なんと一手に八時間という大長考で▲4四歩とした。〕、とある。
 すでに本報告「part33」で書いた通り、東公平氏は、「8時間の大長考は、124手目3二竜の一手」と考えている。
 内藤国雄著『阪田三吉名局集』と東公平著 『阪田三吉血戦譜』とは、同じ時期に出版されているが、その文章の初出はそれよりも前で、どちらが先だったかはわからない。この「一手8時間の長考」について、おそらく、どちらも決定的な根拠があるわけではないのではと思う。しかし双方とも、この手であると断定しているのだから、何かそれなりの考えがあるのだろう。
 これも本局の謎の一つである。

夢の角98手目3五歩まで
 中盤の小競り合い(阪田三吉の得意とするところ)が続き、上手ペースになっている。
 ここで内藤国雄本は、上手3四歩と歩を合わせるのがよい、以下手順を示し、そう指せば「上手十分」だったと解説している。なるほど、3四同歩なら、同飛で、これが1四香取りにもなっているから、この歩は取れない。
 内藤の『阪田三吉名局集』では、この将棋の序・中盤を細やかに解説している。そこらへんの攻防の中身を知りたい方は、これを読まれることをお奨めする。(終盤に関しては本報告のほうが詳しい)

 図で、阪田は1三歩と指し、「香車」を取りに行った。取った香車を「4三香」と打つ構想を思いつき、それを指したかったということだろう。
 が、結果的には、進んでみると、逆に金易二郎側が「十分」の局面になっていた。逆転したのだ。

夢の角69手目6二角まで
 そしてこの110手目4四角打。
 この手について、内藤国雄著『阪田三吉名局集』は次のように書く。
 〔 阪田はこの手を、楽観気分から軽視していたのではないか。〕

 こうなってみると、上手に有効な手がなかった。
 阪田三吉が旅館に帰って弟子の佃にどうですかと聞かれて「負けや」と答えたというのは、あるいはこのあたりの場面かもしれない。
 そうして、風呂に入って寝床に就き、夜中に目覚めて、将棋盤の上になぜか一枚の「角」があり、電灯の光に冷たく光っていた。「角、角、角と、心にそれを考えながら寝た」
 そうして、翌日、“あの手”を指したのである。

118手目4一飛まで
 <一>6九銀
 <二>5七成桂
 <三>4六角
 <四>7一桂    <一>~<五> 下手良し
 <五>8一桂
 <六>7一銀       上手良し
 <七>7一角(夢の角)  上手良し

 119手目、阪田三吉は、“天から降った角”(7一角)をここで打った。
 本報告「part36」で、我々は、「ここは7一銀でも上手が良いのではないか」、という研究結果を導いた。

 ここで少し付け加えておくことがある。
 7一角に対して、実戦は4七飛成だったが、我々は「part33」で、4五桂、5七成香、5三成桂、同角として、そこで8一金か9三銀をねらうのも勝負手としてはあるのではと、その研究を書いた。
 しかし内藤本を読めば、4五桂に対しては、(5七成香と攻めを急ぐのではなく)5二銀打が示されていた(次の図)

120手目4五桂の変化 5二銀まで
 なるほど。確かにこれは上手にスキがない。これは上手が十分だ。
 2一飛成と飛が逃げれば、そこで5七成香でよい。7一飛成が勝負手だが、同金、4四角に、6二角と受けられて、攻め切れない。
 だから、「7一角」に120手目4五桂は、この手5二銀があるから、下手としてはこれを選べないということになる。

125手目5九角まで
 125手目、阪田は「もう一つの角」を5九に打った。
 “夢の角”と阪田三吉の話には、一致しないところが色々あって、そのために本当にその「天から降った角」というのが、「7一角」のことなのかどうか、怪しくなっている。しかしそれでも、定説は119手目「7一角」が“夢の角”とされている。
 「7一角」と、それからこの125手目の「5九角」と、二つの角打ちを合わせてそれで“夢の角”ということでいいんじゃないか、とも思う。

 また、内藤国雄の解説も、東公平著『阪田三吉血戦譜』の中で本局の解説役をした加藤一二三も、5九角に対し、下手は、(実戦は4五桂としたが)8七金打が良かったのではとしている。
 本報告書「part36」で、それを検討した結果を書いた。これは互角にちかい攻防となるが、一応、「上手良し」となったのであった。

127手目4四角まで
 上の図から4五桂、4四角と2手進んだ図。
 もう一度、考えたい場面がここからの数手である。
 この将棋は阪田三吉の「夢の角」として有名な将棋である。この棋譜をさらっと並べると、4四角と角を好所に出たここから先、上手の“快勝”だったような印象を受ける。だが、実際は、そうではないのである。
 ここから139手目まで進んで、そこで例の140手目、下手の金易二郎が6八歩と失着し、「金が勝ちを逃した将棋」になった。7九金打なら、易二郎が勝って、阪田三吉が負けていた。
 もし、この図(127手目4四角まで)がすでに「阪田良し」なのであれば、いつ、“形勢逆転”したのであろうか? この手から139手までの間に、“阪田の失着”があったということになる。
 ところが、東公平の『阪田三吉血戦譜』にも、内藤国雄の『阪田三吉名局集』にも、“阪田の失着”はまったく示されていないのである。それは、勝負の解説としては、整合性に欠ける。4四角で優位だった阪田が、139手目では負けになった、その理由を示していないのである。
 その前、下手金の指した126手目4五桂を、東公平『阪田三吉血戦譜』では「失着」とし、「8七金打なら…」と書いてある。内藤本では(4五桂を)失着とは断定してはいないが、「8七金打なら――優劣不明だった」というニュアンスで書いてある。
 ということは、4五桂、4四角と進んだこの図では、「阪田良し」と見ているということなのであろう。

 しかし、実戦の棋譜を並べていき、139手目までいくと、「下手勝ち」の図が待ち構えているのである。

 この将棋、「夢角の局」として、阪田三吉が勝利した名局として紹介される。そしてこの将棋は100手近くまでが序・中盤という将棋である。
 そういうこともあってか、東公平本も、内藤国雄本も、終盤解説が淡泊である。終盤はあの「夢角エピソード」も書かねばならぬということもあって、手の解説が少なくなっている。

128手目5五歩まで
 128手目の金易二郎の着手は5五歩。
 もし、阪田にここから後の指し手になんの失着もなかったとしたら、この5五歩と突いた時からすでに下手が優勢で、そのまえからも、わずかに「下手良し」の将棋だったということになるはずだ。
 そうであれば、4五桂(126手目)も、失着ではなく、好手だったかもしれないではないか、この先140手目に金が正しく7九金打と指せば勝っていたわけだから。
 それならば、東公平『阪田三吉血戦譜』も内藤国雄『阪田三吉名局集』も、ここら辺を阪田有利の雰囲気で書いているのだが、それ自体が間違いか、ということにもなってくる。

 我々の調査結果は、すでに「報告part34」に書いたように、ここで阪田三吉の指した次の「129手目6五歩が失着」と見ている。

 4四角(127手目)の図では、形勢を「上手阪田良し」と我々もみるのだが、それは、次に金易二郎が指した5五歩(128手目)以外で有効手が下手に見つからないことと、その5五歩を同角と取ると、「上手の有利が拡大する」と判断するからである。
 この 「5五歩を同角と取ると上手有利」 というのが重要なところで、我々が発見した事実である。これ以外には上手の勝ちはないと考える。それが我々の意見である。

 だから、上手(阪田)の次の129手目6五歩を、「失着」とするのである。(このことは東本、内藤本いずれにも書かれていない)。坂田が6五歩と指したので、そこまで優位だった形勢が、逆に「下手優勢」に転じた。
 調査の結果、我々はそういう答えを得たのであった。

129手目6五歩まで
 ちなみに内藤国雄『阪田三吉名局集』は、この辺りをこう書いている。
 〔△4四角と調子よく出て、角が攻めに働いてきた。▲5五歩は手筋。△同角には▲5八香がある。が、阪田の△6五歩が急所。△7七角成から阪田は寄せに入った。〕

 6五歩が好手であるような書き方になっている。この雰囲気からいくと、当然上手の阪田が勝つ、という流れである。6五歩に同歩なら、同桂で、これは上手が良い。実戦は6五歩に、6四香と進む…。
 実際に阪田三吉が勝ったのだけれど、ほんとうは、「負け将棋になっていたけれど相手のポカで勝った」という内容なのである。
 (ちなみに、東公平『阪田三吉血戦譜』は、この部分についてはなにも書かれていない)

 プロの眼から見れば、下手5五歩に、上手6五歩というこの手のながれは、ごく自然に見えるのであろう。

 しかし、理論的に精査すれば、真実はこの「6五歩が失着」(もし阪田が負けていたらこれが敗着になったという手)で、それで逆転したのである。
 「正着は5五同角」と、我々はそう見ているが、それについて後でもう一度検討し直したい。ここは重要なところなので、もう一度確認したいから。

 阪田は6五歩。そして、6四香、7七角成、同桂、6六歩、6三香成、同銀、5三角、6二香、6六銀、6七金、6八歩と進むのである。

140手目6八歩まで
 金易二郎の指し手は冴えていた。阪田の6五歩を“失着”にしたのは、金がそこから完璧な指し手を続けたからである。
 (このあたりの研究検討は「報告part35」で詳しくやった)
 そしてこの図である。金易二郎が「敗着6八歩」を指した140手目。
 「勝ち」がこぼれていった…。 

投了図
 阪田三吉、勝利。149手。


 阪田三吉と金易二郎の次の対戦は、19年後第2期名人戦リーグでの対戦になる。例の「南禅寺の戦い」で阪田が将棋界に復帰した後の話である(坂田の年齢は69歳)
 これは今でいうA級順位戦リーグだが、名人の資格を有する八段同士なので「平手」の対局である。2年をかけて先後1局ずつを指すというリーグ戦で、この時の対局は、今度は持ち時間に制限はあったが、各12時間(二日制)という、やはり今では考えられない設定だった。(今は最も持ち時間の長い名人戦でも、2日制持ち時間各9時間である)
 その名人戦リーグの「阪田vs金」の対戦結果は、1勝1敗である。
  (→『坂田三吉の横歩取り』)
 この第2期名人リーグでの対局を最後に、阪田三吉は引退した。
 金易二郎は大戦後発足した順位戦制度その第1期のA級リーグに参加した後、56歳で引退した。


【研究其の六;129手目5五同角の研究】

(129手目)変化5五同角図1
 下手の5五歩に、「5五同角」(図)が正着である。実戦はこの手を逃して、そこからは「下手有利」の将棋となっている――というのが、我々終盤探検隊の探査研究の成果である。
 その研究は「報告part34」に記しているが、訂正し、再考を必要とするところがあるので、以下に追記として書いておく。

 「5五同角」(図)に、ここで5三歩なら、6五桂打で上手勝ち。その結論と研究に変更はないが、この図で“5八香”の場合を訂正しなければならない。
 「報告part34」で我々の研究は、5八香には、4六角、5三歩、5五桂、同香、7七角成、同桂、6八金で上手良し、と書いている。
 ところが、内藤国雄『阪田三吉名局集』では、上に紹介したように、「▲5五歩は手筋。△同角には▲5八香がある」として、だから5五歩に6五歩と指した阪田三吉の指し手を当然のように書いてある。
 それを読んで、我々はもう一度この「変化5五同角図1」から5八香以下を、調べ直したのである。
 すると、新しい手が見つかった。

変化5五同角図1
 5五同角に、5八香、4六角――そこで「5三桂成」という手があるのだ。これが“新発見の手”だ。(前の検討では5三歩を検討し上手良しとしていた)
 5三桂成に5五桂だと、この場合は6三成桂とこちらの銀を取る手がある。以下、同銀、6二金で、後手玉は寄り。よって、5三桂成は、同銀しかない。
 「5三桂成」、同銀に、4一竜(次の図)

変化5五同角図2
 この4一竜が、4六の角取りと、9三銀、同玉、9一竜という攻めの、2つの狙いがある。
 これで、下手良し。
 ということで、結論がひっくり返った。

 ということなら、内藤説「▲5五歩は手筋。△同角には▲5八香がある」が正しく、だから5五同角はないということか。しかしもしそうであるなら、これは根本的に形勢判断の見直しが必要になる。その前の阪田三吉の4四角(127手目)のところですでに下手良しだったと考えるしかなくなるし、するとさらに前の5九角(125手目)のところでも下手良しということになるではないか。
 本譜を進むと「阪田負け」に行き着くのだから。

 我々は、しかし、再検討の結果、5五同角、5八香には、7七角成、同桂、6五歩で上手良し、という結論に辿り着いたのであった。

変化5五同角図3
 5八香には、「7七角成、同桂、6五歩」(図)。 これで上手良し。
 それをこれから示す。

 この図で、下手何を指すか? 
 候補手は、[A]5五香と、[B]5三桂成[C]6五同桂。([D]5三歩は、6六歩で上手良し)

 まず[A]5五香。 6六歩、同銀、6七金、7九金打(次の図) 

変化5五同角図4
 「千日手」なら(当時のルールでは)下手勝ち。
 なので、上手は6六金とする。そこで下手がどうするか。
 攻めるなら(m)6四歩、受けるなら(n)6八歩。
 
 (m)6四歩には、ここで上手に好手がある。

変化5五同角図5
 この6五桂打(図)があるので、上手良しになる。
 6八銀の受けに、7七桂成、同銀、同金、同玉、6五桂、8七玉、7七銀(次の図)

変化5五同角図6
 これで上手勝ち。

変化5五同角図7
 (n)6八歩と受けた場合。
 ここで上手6七歩も有力だが、この図では、7七金と、ここをすぐに攻めていくのがわかりやすい。
 以下7七同金に、6五桂打、8七金、7七銀、同金、同桂成、同玉、6五桂打、8七金、7七金、9八玉、6八金(次の図)

変化5五同角図8
 細い攻めに見えるが、これは受けにくい。5五の香を補充する手もあり、上手良し。
 図から8八金なら、7八金で下手は困っている。
 今の手順の途中、9八玉に代えて9七玉には、1七飛成、6七桂、1九竜とし、6九銀、同竜、同金、8八銀、9八玉、5五歩(香を取る)で寄り。

変化5五同角図9
 5八香に6五歩としたところまで戻って、そこで[B]5三桂成とする場合。
 対して6六歩なら、6三成桂、同銀、6二金で、逆転して下手が勝てる。
 [B]5三桂成には、だから同銀だが、6一銀、7一金打、7二銀成、同銀、6三金、6六歩(次の図)

変化5五同角図10
 7二金、同金、6三銀、4二金(次の図)

変化5五同角図11
 これでなんとか受けきって、これは上手良し。
 図以下、7二銀成、同玉。 以下3一竜、4一歩が予想されるが、下手からの攻めの手段が息切れするので、この図は上手良し。
 ただし、7二銀成、同玉の後、そこで7一角という勝負手がある。これを同玉と取れば、6三金、8二玉となるが、これは形勢不明である。
 7一角には、しかし、6二桂が安全な手(次の図)

変化5五同角図12
 ここで5五香と角を取る手が上手玉の“詰めろ”になっているが、7一玉で問題ない。以下、3一竜、4一歩、6三金に、7二銀で、下手の攻めはそれ以上続かない。
 上手は、6七歩成が楽しみだ。 上手優勢。

変化5五同角図13
 上手の6五歩に、[C]6五同桂(図)を3つめに調べよう。
 これは同桂、5六金と進む。(下手6八金打と受けるのは、8五桂、同歩、8六桂があって、上手が良くなる)
 これはなかなかの手で、上手も正確に指す必要がある。
 3七角成だと、6五金。これは下手良し。
 だから7七金、同金、同桂成、同玉、3七角成が有力だが、8五桂が好手で、以下5九馬、6八金、6四桂、4六角と進めると、これは下手良しの調査結果となった。

 この図で上手に好手があった。7五桂である(次の図)

変化5五同角図14
 この7五桂(図)がなければ、この変化は下手良しとなるところだった。
 7五同歩に、7六桂と打つ。同銀なら、7七金、同金、5八竜、7八金、7七香で寄る。
 よって、7六桂に、9七玉だが――素晴らしい決め手がある。
 ここで7七桂成、同金、1九飛成が決め手となる。(次の図)
 
変化5五同角図15
 上手勝ち。以下、9八香には、8九竜、7六銀、9五歩で上手勝ち。
 5五金には、9九竜、8七玉、7五歩で、まだ少しあやはあるが、上手の勝てる将棋である。
 (この変化は、きわどい変化だった)

変化5五同角図15
 これは5五同角に、5八香、7七角成の図。これを「同桂」を本筋として調べてきたが、「同玉」ならどうなるか。この変化も気になるところだ。
 以下、5七金、6九金(次の図)

変化5五同角図16
 6九金が粘り強い手。(代えて5七同香は6五桂打~5七桂成で上手良し)
 対して6七金、同金、6五歩は、5五香、5八銀、同金、同飛成、6八金打となるが、これは「互角」の形勢。
 ここでは5八金が好手。同銀(同金は6五歩で上手良し)に、6五香がある(次の図)

変化5五同角図17
 この手では6五桂打もあるが、この6五香が優る。ただし、6五歩ではまずい、それは5六金があるから。6五香に5六金は、6六香、5五金、6九香成、同銀、5五歩で、上手が良い。6六香~6九香成があるのが、6五香の意味。
 よって、6五香に6七銀打と受けるが、6六香、同銀、6五桂(次の図) 

変化5五同角図18
 6七玉なら、6六角、同玉、4八飛成。8七玉には、6六角、7七香、4八角成。
 「上手良し」。

 ということで、やはり結論は次の通りになる。

変化5五同角図1
 「金易二郎-阪田三吉戦」は、129手目、上手は5五同角が正着だった。これ以外に、ここでは上手が良くなる手はない、というのが、我々の得た結論である。

 しかし実戦は129手目6五歩だったので、すんなり上手の阪田三吉が有利のまま勝ったという将棋にはならなかった。「勝ち」はいったんは下手金易二郎の手に渡ったのだった。それが、下手の“ポカ”(140手目6八歩)で再逆転、結局勝利は阪田に―――という将棋であった。
 下手の金易二郎の128手目の5五歩が良い手(勝負手)だったのである。ここはそれほど微妙な形勢だったわけで、5五歩、6五歩の瞬間に、形勢逆転して「下手良し」に変わったのだ。

 あの7一角(119手目)が“夢の角”だとして、なんとなく、その“角”によって、終盤は阪田三吉が圧倒したような、そんなイメージのあったこの将棋の最終盤の20手の中身は、これほどの「コク」のある濃い内容だったのである。


 時は流れて―――

中原誠-内藤国雄 棋聖4 1970年
 中原誠(十六世名人)は金易二郎の孫弟子である。金易二郎―高柳敏夫―中原誠というライン。
 あの1937年「南禅寺の決戦 木村義雄-阪田三吉戦」の記録係を務めたのが、高柳敏夫少年であった。
 そして内藤国雄は、阪田の孫弟子である。阪田三吉―藤内金吾―内藤国雄のライン。
 その二人がタイトル戦で激突したのが、1969年度後期棋聖戦五番勝負。(当時の棋聖戦は前後期の二期制)
 これはその第4局。図の7五歩で内藤が優位に立ち、そのまま後手が押し切って、内藤国雄が3勝1敗で初タイトルを奪取したのだった。
 先手中原の敗着は、どうやら図の前で、7九玉~5八金とした手だったというから、この後手の戦法の優秀さがわかる。図の7五歩が、中原の見えていなかった攻めだった。同歩なら、5四角で、以下、6六歩、2六歩、2五歩、同桂、2六飛に、3七桂成で、後手が良い。
 内藤国雄の「横歩取らせ3三角戦法」。 この戦法そのものは内藤の創始ではないが、内藤はこの戦法にいろいろな工夫を加え、攻め筋を開発し、ファンを魅了した。このシリーズ以来、それは「内藤流空中戦法」という名前をもって呼ばれるようになった。
 図の2三銀型からの2六歩以下の攻め筋、7三銀から7五歩~6四銀という攻め筋、そして横歩取りでの5四飛という手、それらはすでにこの頃、内藤国雄が指していたのである。


谷川浩司-中原誠 名人1 1985年
 金易二郎の孫弟子、中原誠と、その中原に次ぐ、十七世の永世名人の資格者となる谷川浩司との対戦が、1985年名人戦七番勝負で実現した。
 谷川浩司は、阪田三吉―藤内金吾―若松政和―谷川浩司というラインで、阪田のひ孫弟子ということになる。
 この七番勝負は、4-2で、挑戦者の中原誠が名人位に復帰するという結果となった。谷川浩司は、第1局、第2局に、いずれも形勢の良い将棋を築きながら、相手中原の玉を仕留めきれず落としたのが痛かった。
 図は、第1局の将棋で、次の手が159手目になる。何度か寄せを逃して捕まえそこなったが、これがその最後のチャンスだった局面になる。
 谷川はここで5五角とし、中原は1九銀。これでもう、中原の玉は寄らなくなった。そこから谷川も入玉を目指したが、わずかに「駒数」が不足し、中原の勝ちとなった。
 ここは9一角なら、まだ谷川に勝ちがあった。これなら、1九銀には、3七角成がある。谷川は9一角には6四銀で面倒とみたのだろう。谷川浩司は入玉将棋が苦手と言われるが、それはこの将棋から始まったのかもしれない。このあたりはもう嫌気がさしていて読みが雑になっていたのではないだろうか。
 9一角、6四銀、6三角成、5五銀打、5六歩、3八飛、7七玉、3九飛成――、まだまだたいへんな将棋だが、以下、5五歩、7九竜、7八桂、9六桂、2七馬なら、先手が勝ち将棋だった。
 この第1局の内容と結果が、シリーズに大きく影響しているように思われる。
 また、この名人戦の決勝局となった第6局は、歴史に残るあの「相掛かり中原の4五桂!」の将棋である。
     (参考→ 『中原の、桂』)


 以上で、1920年「金易二郎-阪田三吉(香落ち)戦」の終盤探査を終了とする。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 終盤探検隊 part36 阪田... | トップ | 終盤探検隊 part38 升田... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

しょうぎ」カテゴリの最新記事