はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

ちひろの『草穂』

2007年11月20日 | はなし
 夜をこめて
 七つ森まできたるとき
 はやあけぞらに草穂うかべり
                     宮沢賢治  1917年7月

 賢治にしては平凡なこの作品は、賢治22歳の作である。この時期、このような定型の歌をたくさん書いている。まだ童話の創作もしていない。
 賢治の詩に、独特の才能のきらめきがあらわれるのは、1922年詩「屈折率」以後である。いったん爆発した才能は、定型詩におさまりきれなくなってゆく__。
 だが、この短歌にも賢治らしさの一端がみえる。「夜中に明け方まで山を歩く」というのが、いかにも賢治だ。とにかく、この男は、山を歩いた。


 いわさきちひろが没したのは1974年。
 『草穂』とタイトルがつけられたちひろの手帳が母の実家で発見されたのは、それから3年後だった。
 前にも書いたように、戦争が終わりラジオから玉音放送が流れたとき(1945年8月15日)、26歳ちひろは長野県安曇野の山の里にいた。『草穂』は、その翌日から記されている。

[八月十八日
 きのうから宮沢賢治の事で夢ごこちだ。先日から少しばかりはそうであったけれど、いまは熱病のようになってしまった。前に詩集をよんだ時、もっともっとよく読んでおけばよかった。
 アカシアの葉がチカチカ輝く八月の高い熱のように私のこころは燃えている。年譜を見ただけでなみだぐみ度くなるし、焼いてしまった法華経の経典がいまはほしくてたまらない。なくなった湖おばさまことも忍ばれる。そしてもう一つ大事な事がたえまなく私の心に去来する。]

 ちひろは、石川県で生まれ、東京で育った。

 信州・松本市にはちひろの母・文江の実家がある。『草穂』が見つかったのはここである。
 母・文江は女ばかり四人姉妹の長女として生まれた。文江は松本女学校を卒業し、見合い結婚をした。文江は、岩崎家の長女として家を継ぐ立場にあったから、婿養子に来てくれる人というのが条件であった。こうして文江と正勝は結婚した。初めて相手の顔を見たのは結婚式の当日だった。そのように結婚した二人の夫婦仲は、とてもよかった。
 こうして長女知弘(ちひろ)が生まれた。続いて妹がうまれた。三人姉妹である。やはり女ばかり…。
 男が稼いで女が子育てをするのが一般的なこの時代に、夫婦が共に十分な収入を得ているわけだから、ちひろの家庭はずいぶん裕福であった。三姉妹は小さいときから洋服を着て育った。(大正時代に洋服の少女__ずいぶんあか抜けている。)
 そして、ちひろは健脚でもあった。絵を描くのが大好きなこの少女は、妹達にくらべておとなしかったが、スポーツは万能であった。夏にはかならず北アルプスに登山をしていたし、冬はスキーに行っていた。
 少女時代、まだ戦争は、身近なところにはなかった。

 20歳のときにしたちひろの結婚は失敗だった。
 「もう結婚はしない」
と、ちひろは考えたようである。しかし「では、今後どう生きるか」などと思い悩む暇もなく、戦況はきびしくなっていく。ちひろは妹たちと一度満州に渡っているが、危険だということで戻り、東京で就職するが空襲に会い、長野へ疎開。そして、とつぜんの終戦__。


[思わぬ時に国が降伏したという事は  こんなにも一人一人をクタクタにする]
 
 どう生きるか____?
 突然、ちひろは考えなければならなくなった。たまっていた宿題がつきつけられたのである。
 そういう時に書き始めたのが『草穂』である。
 気になりはじめてきたのが宮沢賢治である。


 結婚。 戦争。 親しい人の死。 洋服。 東京。 山。 法華経。 父と母と妹たち。 絵。


 この手帳には、山のスケッチ、洋服のデザイン画、妹らを描いたクロッキー、詩や歌や思いが綴られている。この時期、ちひろは宮沢賢治に深く傾倒して、父母とともにこの田舎に住む決心をしているようだ。
 ところが消せない「火」がじぶんの中にある…。 「文化」の光への憧れ、「東京」への憧れがくつくつともちあがってくる。それが「洋服のデザイン画」に表れている。その思いを九月六日[南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経…]とくり返し書いて打ち消そうとしている。そして、また洋服を描きかけて___そこでこの『草穂』は終わっている。


 なお、いわさきちひろは左利きであーる。

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