SEEギフトセット、仕事から帰ってからでも余裕で予約できたと思ったのですが、夜には完売してしまったそうで。いやー、結構危なかったんだなあ・・・(汗)予約できて良かったです。
TTTの時も完売したそうですが、TTTのギフトセット買ったって人、私の周囲ではきいたことなかったんですが(汗)今回は皆買うと言ってましたし・・・前回と同じ5000セットは少なすぎだったのではないでしょうかねえ(汗)
さて、今日のお題です。
常々不思議に思っていたことがあります。トールキンは割りと人種差別的な面とか(汗)保守的な物語の描き方もしていると思います。そのあたりには「古さ」も感じたりするわけですが、一方で、女性の登場人物像が、当時の作家としては画期的なくらい新鮮だと思ったりするのです。
何が新鮮かというと、女性の視点から見て魅力的な女性というか・・・いや、女性の視点から見ても「不快でない女性」だというのが正しいのかも・・・
エオウィンは女性にはとても人気があると思うし、ガラドリエルも人気があると思います。と言うか、この二人を「嫌い」という女性読者ってあまりいないのではないでしょうか。
男性作家が(小説に限らず、映画でも舞台でも)女性を描いた時に、「男に都合の良い女性」として描いている場合というのはとても多いと思います。私はそういうのを見ると非常に腹が立つ方なんですが(笑)誰とは言いませんが浅○○郎とかね・・・(汗)
かと言って、フェミニズムの意識バリバリで描かれた女性というのもそんなに魅力的ではなかったり。最近は映画なんかでも男顔負けに「強いヒロイン」が多いですが、そういうのにもちょっと食傷気味ですね(汗)強かったり目立っていればいいと言うわけではないと思います。映画のアルウェンが女性にすこぶる人気がないのを見てもわかるような気がしますが・・・(汗)
トールキンに話を戻しますが、まず、トールキンは女性を非常に敬意を持って描いていると思います。トールキンの作品に出てくる女性は男性の欲望の対象では決してなく、男性にとって都合の良い存在でもありません。ある意味騎士物語に出てくる姫君のような存在ではあると思います。男性が敬愛し、命を賭けて戦った末にようやく辿り着ける相手であるような。
それでいて、ただ人形のような存在なのではなく、(アルウェンはちょっとそうかな~と思いますが・・・)特にエオウィンなど、不思議なくらい女性の(というか少女の、かな)心理のある面を巧みに描写していて、新鮮な驚きでした。今でも読み返す度に驚いています。
不思議なのは、そんな風に女性を描きながらも、女性の登場人物がとても少ないということでした。トールキンの女性観ってどんなものなんだろうと気になっていました。
その答えのヒントを与えてくれたのは、「J.R.R.トールキン~或る伝記」と「終わらざりし物語上」に載っている「アルダリオンとエレンディス 船乗りの妻」でした。
「或る伝記」を読むと、トールキンがエディス夫人と引き裂かれても忘れることが出来ず、ほとんど強引にエディス夫人をカトリックに改宗させて結婚をしたこと、それでいて男性同士の付き合いが面白くてしばしば夫人の存在を重しのように感じていたこと、がよくわかります。
それでもトールキンはエディス夫人を深く愛していて、晩年エディス夫人のためにボーンマスに転居するあたりなどにはそういった愛情と償いの気持ちがうかがえます。
「アルダリオンとエレンディス」にはそういうトールキンのエディス夫人に対する気持ちの一端が描かれているように思えて、私としてはとても興味深く読んでしまいました。
この物語のなかでトールキンは、大地(=家庭?)に根ざした暮らしを望む女性と、
世界に旅立ちたいという気持ちを持ち、大きな視野で物事を見る男性との根本的な大きな相違、を描いています。この相違があるから、根本的に男性と女性は理解しあえないのだと。
それでいて、女性側の気持ちも細やかに描写されていて、エレンディスもまた哀れであることもきちんと描いています。
それでも、最終的にはやはり「広い視野で物事が見られる男の方が偉い」みたいなニュアンスになっているのですが・・・(汗)それでも、かなり頑張って女性側の気持ちも描いていると思いました。
この物語、私にはどうしてもトールキンがエディス夫人との結婚生活で考えたことが書かれているように思えてなりませんでした(汗)エディス夫人への謝罪の気持ちと、でも同時に自分への言い訳も含まれているような(汗)
まあとにかく、私は「或る伝記」と「アルダリオンとエレンディス」を読んで、トールキンの描く女性像についてなんとなく納得できたような気がしました。
トールキンの描く女性が女性にとって不快ではない理由、それは、トールキンのエディス夫人への気持ちとリンクしているように思いました。トールキンにとって女性とは男性が敬愛を捧げるべき存在であって、男性に尽くしてくれるような「都合の良い存在」ではなかったし、そういう存在を必要としたり、理想としたりはしていなかったのかもしれません。
そしてその一方で、女性には所詮男性の気持ちはわからない、という考えからか、旅の仲間たちは男性だけで強い友情を結び、女性の登場人物はとても少ないのかもしれない。なんてことを考えてみたのですが・・・
それにしても不思議なのはエオウィンの存在です。今まで書いて来たような、エディス夫人との関係だけでは収めきれないような、不思議な存在だと思います。男性が敬愛すべき姫君であることなどは共通すると思うのですが、自分の現状に閉塞感を感じ、高みに上ろうとすることで脱出しようとしていたエオウィンのキャラクターは、とても珍しい女性像だと思います。
そのエオウィンがファラミアによって癒される?ところもすごいなあと思うのですが・・・。普通、勇ましい女性が恋をして剣を捨てて女性らしくなる、なんてシチュエーションは好きではないのですが、エオウィンの場合はそうは思わなかったのが不思議でした。これは、ファラミアがエオウィンに最大の敬意を持って口説いてくれた(笑)からかもしれませんが。
エオウィンがトールキンの頭のどこから出てきたキャラクターなのか、というのが今とても気になっていることです。
TTTの時も完売したそうですが、TTTのギフトセット買ったって人、私の周囲ではきいたことなかったんですが(汗)今回は皆買うと言ってましたし・・・前回と同じ5000セットは少なすぎだったのではないでしょうかねえ(汗)
さて、今日のお題です。
常々不思議に思っていたことがあります。トールキンは割りと人種差別的な面とか(汗)保守的な物語の描き方もしていると思います。そのあたりには「古さ」も感じたりするわけですが、一方で、女性の登場人物像が、当時の作家としては画期的なくらい新鮮だと思ったりするのです。
何が新鮮かというと、女性の視点から見て魅力的な女性というか・・・いや、女性の視点から見ても「不快でない女性」だというのが正しいのかも・・・
エオウィンは女性にはとても人気があると思うし、ガラドリエルも人気があると思います。と言うか、この二人を「嫌い」という女性読者ってあまりいないのではないでしょうか。
男性作家が(小説に限らず、映画でも舞台でも)女性を描いた時に、「男に都合の良い女性」として描いている場合というのはとても多いと思います。私はそういうのを見ると非常に腹が立つ方なんですが(笑)誰とは言いませんが浅○○郎とかね・・・(汗)
かと言って、フェミニズムの意識バリバリで描かれた女性というのもそんなに魅力的ではなかったり。最近は映画なんかでも男顔負けに「強いヒロイン」が多いですが、そういうのにもちょっと食傷気味ですね(汗)強かったり目立っていればいいと言うわけではないと思います。映画のアルウェンが女性にすこぶる人気がないのを見てもわかるような気がしますが・・・(汗)
トールキンに話を戻しますが、まず、トールキンは女性を非常に敬意を持って描いていると思います。トールキンの作品に出てくる女性は男性の欲望の対象では決してなく、男性にとって都合の良い存在でもありません。ある意味騎士物語に出てくる姫君のような存在ではあると思います。男性が敬愛し、命を賭けて戦った末にようやく辿り着ける相手であるような。
それでいて、ただ人形のような存在なのではなく、(アルウェンはちょっとそうかな~と思いますが・・・)特にエオウィンなど、不思議なくらい女性の(というか少女の、かな)心理のある面を巧みに描写していて、新鮮な驚きでした。今でも読み返す度に驚いています。
不思議なのは、そんな風に女性を描きながらも、女性の登場人物がとても少ないということでした。トールキンの女性観ってどんなものなんだろうと気になっていました。
その答えのヒントを与えてくれたのは、「J.R.R.トールキン~或る伝記」と「終わらざりし物語上」に載っている「アルダリオンとエレンディス 船乗りの妻」でした。
「或る伝記」を読むと、トールキンがエディス夫人と引き裂かれても忘れることが出来ず、ほとんど強引にエディス夫人をカトリックに改宗させて結婚をしたこと、それでいて男性同士の付き合いが面白くてしばしば夫人の存在を重しのように感じていたこと、がよくわかります。
それでもトールキンはエディス夫人を深く愛していて、晩年エディス夫人のためにボーンマスに転居するあたりなどにはそういった愛情と償いの気持ちがうかがえます。
「アルダリオンとエレンディス」にはそういうトールキンのエディス夫人に対する気持ちの一端が描かれているように思えて、私としてはとても興味深く読んでしまいました。
この物語のなかでトールキンは、大地(=家庭?)に根ざした暮らしを望む女性と、
世界に旅立ちたいという気持ちを持ち、大きな視野で物事を見る男性との根本的な大きな相違、を描いています。この相違があるから、根本的に男性と女性は理解しあえないのだと。
それでいて、女性側の気持ちも細やかに描写されていて、エレンディスもまた哀れであることもきちんと描いています。
それでも、最終的にはやはり「広い視野で物事が見られる男の方が偉い」みたいなニュアンスになっているのですが・・・(汗)それでも、かなり頑張って女性側の気持ちも描いていると思いました。
この物語、私にはどうしてもトールキンがエディス夫人との結婚生活で考えたことが書かれているように思えてなりませんでした(汗)エディス夫人への謝罪の気持ちと、でも同時に自分への言い訳も含まれているような(汗)
まあとにかく、私は「或る伝記」と「アルダリオンとエレンディス」を読んで、トールキンの描く女性像についてなんとなく納得できたような気がしました。
トールキンの描く女性が女性にとって不快ではない理由、それは、トールキンのエディス夫人への気持ちとリンクしているように思いました。トールキンにとって女性とは男性が敬愛を捧げるべき存在であって、男性に尽くしてくれるような「都合の良い存在」ではなかったし、そういう存在を必要としたり、理想としたりはしていなかったのかもしれません。
そしてその一方で、女性には所詮男性の気持ちはわからない、という考えからか、旅の仲間たちは男性だけで強い友情を結び、女性の登場人物はとても少ないのかもしれない。なんてことを考えてみたのですが・・・
それにしても不思議なのはエオウィンの存在です。今まで書いて来たような、エディス夫人との関係だけでは収めきれないような、不思議な存在だと思います。男性が敬愛すべき姫君であることなどは共通すると思うのですが、自分の現状に閉塞感を感じ、高みに上ろうとすることで脱出しようとしていたエオウィンのキャラクターは、とても珍しい女性像だと思います。
そのエオウィンがファラミアによって癒される?ところもすごいなあと思うのですが・・・。普通、勇ましい女性が恋をして剣を捨てて女性らしくなる、なんてシチュエーションは好きではないのですが、エオウィンの場合はそうは思わなかったのが不思議でした。これは、ファラミアがエオウィンに最大の敬意を持って口説いてくれた(笑)からかもしれませんが。
エオウィンがトールキンの頭のどこから出てきたキャラクターなのか、というのが今とても気になっていることです。
エントもそうなんですよ。「秩序と豊穣と平和を欲した」エント女たちは庭をつくって住みつき、エントたちは「ほっつき歩くことをやめなかった」ために両者はあいまみえることがなくなってしまいました。そうなる前になんとか解決策をみいだせなかったんだろうか、などと近所のオバさん風なことを考えさせるトールキンっていったい・・??
しかし、やはり彼の視点は男寄りだと思います。エント女についてもシニカルな言葉で語らせていたりします。
(かの女たちの意味する平和とは物は置いたところにいつもちゃんとなければいけないということなのよ)-二つの塔上1-より
だああー、そのかの女たちがどれほど平和を保とうと努力していることか!(つまり、せっせと拾い、集め、しまい、小言を言っているということですね)それなのに、それなのにそんな風に言ってしまうわけ??絶対、家で原稿とか本とか散らかしたまま、さっさとクラブやパブや大学に逃げてしまったのねトールキン!
など、妄想と私憤が入りこんでしまいましたが、「指輪物語」のこんなところに反応してしまうのはワタシだけかも・・・。底が深いぞ「指輪物語」
彼の女性観については、言い出すと長くなりそうです・・・エオゥインとか。そういう考察、論文出版物でありそうですけど、ない・・ですかね。とりあえず伝記は読まなくではだめですね。
まあ、ちゃんと買い物したり、芝刈りしたり、エディス夫人の愚痴を聞いてあげたり、子供の面倒をみたりと、一般的な亭主関白よりはずっと優しい旦那様の面もあったように思いますが・・・(イギリス人ってそんなもん?)
でもエディス夫人からしたら「まだまだ足りない」部分はあったのでしょうね。そのあたり、自分が家庭に縛られてないので、ちょっとトールキンの肩を持ちたい気持ちもあったりして(笑)家のことをしないで物を書いていたい気持ちはわかります(笑)
確かにエントとエント女の物語にもトールキンの女性観は出ていますね。「指輪」だけ読んでいた時にはあまり気がつかなかったのですが・・・
相容れなくて理解できない・・・だから別れてしまったけれど、それでも会いたいとどこかで求めている。そういう男女観が現れているように思います。
お互いに今持っているものを捨てることができた時に会えるような気がする、と木の鬚が言っていたように思うのですが(今手元に原作なくてうろおぼえですが(汗))、それってつまり現世では分かり合えないということなのかな・・・。宗教的なものも感じますが。
トールキンは確かに男性からの視点で女性を描いていると思うのですが、なんと言うか、「ありのまま」の女性を描いてはいると思います。それで「不快感」を感じないのかなあと思ったりします。まだはっきりと解析できてはいないのですが。
でも、そういう女性の描き方をしているのは、逆に、自分の人生に女性を必要としていなかったからかな~とも思ったり・・・(汗)
ちかさんのエオウィン観、ぜひお聞きしたいです! 私自身はエオウィンには非常に共感するところがあって、(そういう方結構いると思いますが)初めて読んだ時に、こんな女性キャラクターが描けるなんてすごい! と思ったものです。
最近はめっきり冷え込みがキツくて、おかげで風邪をひいてしまいました(涙)。
遅ればせながらの感想を書き込みさせていただきます。
>トールキンは割りと人種差別的な面とか(汗)保守的な物語の描き方もしていると思います。
それは私も感じました。やはり、ぐらさんもそうでしたか。
ただ、彼の生まれた時代は大英帝国全盛時代でしたからね。
現代でもトールキンの時代よりあからさまでなくとも、欧米優位思想は明らかでしょう。
>男性作家が女性を描いた時に、「男に都合の良い女性」として描いている場合というのはとても多いと思います。
それは言えてます。池波正太郎もその傾向が強いな~。もっとも私は池波ファンですが(笑)
女性作家が男性を描く際も、「女に都合のよい男性」が結構多いですね。
>トールキンにとって女性とは男性が敬愛を捧げるべき存在であって
私は『指輪』と『ホビットの冒険』以外の本はまだ読んでないので(汗)、トールキンの女性観を知りませんが、古きよき時代の騎士道精神が根底にあるのでしょうか。現代は女性の地位が向上したのはいいのですが、この種の感情は消えつつありますね。
トールキンの保守的な描き方は、時代を考えたら仕方ない部分もありますよね。そのあたりはわかっていても、それ以上に心を掴むものがあるからこそ、世界中で愛されているんですよね、「指輪物語」は。
そんな中で、単に「保守的」ではない女性を描いていたのはすごいなあと思ったりして・・
某アニメ監督がトールキンの保守的な部分を批判しているのを読んだことがありますけど、そういうあなたの女性キャラクターにはトールキンほど魅力を感じないんですけど・・・とつい思ってしまいました(笑)
トールキンの女性観には騎士道精神のようなものもあるのでしょうね。ガラドリエルとギムリなんかまさにそのもので。もっとも欧米ではレディー・ファーストの精神は今でもありますけど。
確かに彼のアニメ自体はいいですが、女性キャラは皆同じようなパターンで私もあまり魅力を感じません。
映画本編には出ませんが、『指輪』の女性キャラで面白いと思うのはフロドの敵役ロベリア夫人です。
ガラドリエルやエオウィンはあまりにも立派過ぎますが、嫌われ者のこの人はかなり人間臭く思われます。かなりの年なのに傘一つで他のホビットが恐れてるならず者に立ち向かうなど大変気丈な面がありながら、一人息子には大変甘く過保護にしたため、息子はひ弱なダメ男になってしまう。トールキンの周囲にこんな人がいたのでしょうか?
エオウィン観、リクエストに答えていただいて(笑)ありがとうございます!
確かに、あの時代にああいう女性を描いたというのはとても珍しいというか、すごいことだと思いますよね。
でも、とても「女性の解放」なんて考えて書いたとも思えないし(笑)
だからなおさら、トールキンがどういうつもりでエオウィンというキャラクターを生み出したのかが気になって仕方ないんです。「書簡集」読んだら書いてあるでしょうか・・・なんかあまりそういう話聞かないんですよね。
>れんばすさん
某アニメ監督・・・ええ、そうです(汗)ファンの方読んでたらごめんなさいですが・・・(汗)
脇役にはいいキャラクターもいるんですが、ヒロインはたいてい私にはダメですね・・・(汗)ヒロインに限らず、男性の主人公も好きじゃない場合が多いので、女性が、というよりは主人公が好きじゃないだけかもしれませんが・・・
ロべりア婆さんも魅力的ですよね! 最後はカッコいいし。
ヨーレスも好きですし(笑)ロージーも出番少ないながらいいなあと思うし、「指輪」に出てくる女性キャラはやっぱり皆魅力的だなあと思います。
寓意を嫌ったトールキンがはっきりと誰かをモデルにキャラクターを書いたとはあまり思えないのですが、(ルーシエン=エディス夫人は別として)トールキンが描く女性像にはトールキンの周囲の女性の影響が少なからずあるだろうとは思います。ロペリアみたいなおばあさん、いたのかもしれませんね(笑)