今日の写真は、モーダレンカレッジのルイスの部屋があったニュービルディングの裏側です。アディソン遊歩道から撮りました。
さて、今日も原作の話です。
私が初めて「指輪物語」を読んだ時は、トールキンがかなり熱心なカトリック教徒だという事実は知りませんでした。知らずに読んで、最初の印象からは、特にキリスト教的なものは感じませんでした。むしろ、ヴァラールの存在でわかるように、多神教の、異教的な雰囲気を感じていました。
登場人物たちの、少々浮世離れしているかもしれない清廉潔白なところや、深い思いやりの精神なども、宗教的には感じず、一般的な道徳的?な考え方によるものだと思いました。実際、キリスト教徒ならぬ私自身がその登場人物たちに感動したのですから。
なので、トールキンのカトリックへの妄執的とまでいえる(!?)こだわりを知った時はかなりびっくりしてしまったものです。
トールキンとカトリックの関係(?)を知ってから改めて読むと、なるほど、「指輪物語」の中にはキリスト教精神が貫かれているなあ、というのが納得されたのですが。
でも、だからと言ってマーク・エディ・スミス著「指輪物語の真実」のように、無理やり聖書の教えと「指輪」の中のエピソードを結び付けられて解釈されてしまうと、やっぱり非キリスト教徒な私は違和感というか、反発を覚えてしまうのですが・・・
思うに、「寓意」を嫌ったトールキンは、自らのキリスト教徒としての宗教観をそのまま表すのは嫌ったのではないかと思います。もちろん、自分の作品を通して、キリスト教の精神を説こうとするなんてもってのほか、だったのではないかと想像されます。
トールキンがC.S.ルイスが書いた「ナルニア国ものがたり」を気に入らなかったという理由もなんとなくわかります。実は私自身、あまりにもキリスト教よりすぎて、ちょっと引いてしまうんですよね(汗)アスラン=イエス・キリスト、という構図が、比喩でもなんでもなくてそのままだった、とわかったあたりから・・・(汗)
それでも、もちろんトールキンもキリスト教的なものを「指輪」の中で書いていると思いますが、それはキリスト教徒ではない私にも美しいと思えるものでした。
例えば、私は物語の中で、登場人物たちが何か大いなる存在に導かれているような感じを受けます。特にサムがそうなのですが・・・
「王の帰還」終盤のサムは、それまでの素朴なホビットからは考えられなかったような力を見せます。それは、サム自身が持っていた資質が姿を現した、とも考えられますが、私には、サムは「何か」に導かれているように思えました。
オークの塔で、絶望的な状況にいるにもかかわらず、サムの口をついて出た、西の国の春の歌。夜空に輝くエアレンディルの光を目にして、全ての苦悩を一時は忘れて心安らかに眠ることができたこと。サムがガラドリエルに「光と水を」と願ったら本当に水に出会い、空が少し明るくなったこと。
私にはこういうことが、サムが何者かに見守られている証のように思えるのです。
もしかしたら、見守られていたのはサムではなく、サムが助けなければならなかったフロドなのかもしれませんが・・・いや、両方なのかも。
ひとつ間違えばご都合主義の偶然になりかねないこういったことが、不思議と美しく思えるのは、もしかしたら神を信じていたトールキンだからこそなのかもしれない、と最近は思っています。
そして、サムが最後までやり通せたのは、サムが何者かに見守られていたからだ、と思うことは、「サムが偉かったからやり通せたのだ」という、「サム英雄説」(!?)に対する私の違和感も説明してくれるような気がします。
こうして考えると、「指輪物語」が、影響を受けた後続のファンタジーと決定的に違う点もまた、キリスト教的な視点にあるのかな、と思えたりもします。
ここでは、トールキンが描いた「キリスト教的なもの」について書きましたので、そういう描写が最も現れているサムとフロドのことを書いています。
このところ、映画の原作からの改変について考えていて、一番ひどい改変はやはりフロド、サム、ゴラムについてだったと思うので、そのあたりを中心に日記も書いてますね。
メリーとピピンの改変にも色々言いたいことはありますけど・・・(特にメリー(汗))