青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

遺書 5

2020-07-31 20:46:44 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



僕の関心ごとは

1 野生アジサイ

2 セミ(主にヒグラシ)

3 蝶々

4 アメリカン・ポップス(60年代初頭)

5 可愛い女の子








ランク外 「香港デモ」「新型ウイルス」ほかの世間の出来事

の順なのですが、、、、

1は、修復HDD内に全ての資料が入っているので、それを取り戻すまでは、どうしようもない。

2は、中国でしか携帯電話は使えず、鳴き声の録音が出来ない。来年の夏を待つしかない。

3は、とりあえず手許にある資料で「ハンディガイドブック中国の蝶」制作中も、現在中断中。

4は、沢山資料が溜まりすぎて(未発表大作記事多数)、どう処理して良いか分からない。

5は、、、、三世に、“30歳ぐらいの可愛くてセクシーなジプシーの未亡人とかを探しておいて”と頼んでいるのだけれど、返事なし。

そんなわけで「興味のランク外」の「香港」とか「コロナ」とかの話題に取り組んでいるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中国滞在中の今年1月23日から、その後半年間余、「SARS-Co.V.2」(急性重篤呼吸器症候群に関連するコロナウイルス属の一種の2019年度発生型)について、ずっと一貫した見解の許、書き続けています(最初は無視していたのですが、三世がぜひ書いて欲しい、というのでしぶしぶ書き始めた)。

発生源とされる(現時点では疑問を持っています)中国との深い関わりがあること。

自分自身の健康問題(長い間、ウイルス性肺炎らしき症状に感染し続けている)。

「SARS-Co.V.2」(“コロナ”の語の乱用は、本来の該当対象に申し訳ないという想いがあるので、文脈の流れの上で使用せざるを得ない場合を除き、今後できる限り慎む)についての見解。

●「ウイルス」の一つである。
●人類にとって大きな脅威である。
●しかし大きな脅威は他にも多数ある。
●それらも含め、敵対し(科学・文明の力で)排除しようとしていることへの疑問。
●「マスク必着用」「三密回避」は、必ずしも本質的な解決策ではない(ことに前者)。
●ワクチンは一時凌ぎ。それに頼ることは長い目で見ればマイナス。
●国・地域で、状況があまりにバラバラ。
●日本での感染者が少ない理由。第一に「分母=被検者」の少なさ。濃厚密接の機会が少ないという文化。本来持っている人種的な体質。
●日本に比べて圧倒的に衛生環境・公共道徳の劣悪な中国が、現時点で(マスクもしないで)へ平常を保っている事実(「隠蔽」等の指摘を否定するわけではないが、現実に平常であることは認めざるを得ない)。非常に不思議なことだと思う。
●僕は、この30数年間、何度も「未知のウイルス」に感染し続けてきた。医師の言うように「ぐっすり眠って十分な栄養を取る」ことで、切り抜けてきた。
●僕の結論。「SARS-Co.V.2」は、敵対する存在ではない、共存すべき(必要なのは“無償の愛”です)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
統計によると、最近の日本では、肺炎で毎年12万人前後の方々が亡くなっているそうです。(成人のうち)約1/3は、ウイルス性の肺炎です。ということは、これまでにも年間3~4万人が、様々なウイルスに関与した肺炎で亡くなっているわけです。

今年に入って、いわゆる「コロナ」(SARS-Co.V.2)に関与すると判定された死亡者数が、約1000人。単純計算で年間2000人のペース。

これまでにもそれなりの脅威をもつ様々なウイルスと関わって、肺炎死者が出ているわけですから、全体としては数%の割合でしかないだろう「新型ウイルス」の関与が、なぜ特別視されるのか? 他のウイルスの肺炎への関与と、基本的にどこが異なるのか? 僕と同じように素直な疑問を持つ人は、少なからずいるのではないでしょうか?

いや、「新型コロナ」は特別だ、他とは違う脅威だ、と多くの人は言うことでしょう。

しかし、どのウイルスも、それぞれに「特別」なのです。それぞれに「脅威」の種類や程度が異なるとはしても。今回の(「特別さ」が突出している?)「新型コロナ」だけが「他とは違う」とは言えない。だったら、他のウイルスも、それぞれに「他とは違う」わけですから。

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「コロナ」(この言葉、流れで使わざるを得ないのですが、本当に嫌!出来るだけ使いたくない)のおかげで、良かったことも、いくつかあります。

日本に帰るたびに嫌な想いをしていたのが、JR青梅線の「手動ドア」。それについては何度か書いてきた(自己中心的な行動を否定する自己中心的な人の行動の典型)ので割愛しますが、「コロナ」のおかげで「自動」に戻りました(案内放送がそのまま流されいるのは滑稽としか言いようがありません)。

逆に「それでも反省改善されていない」、嫌なこともあります。トイレ関連です。

僕は、日本のトイレが嫌いです。いや、素晴らしいことは素晴らしいですよ。たぶん世界一清潔でしょう。そして完璧(故障しない)。

スタバであろうが新幹線であろうが、(なぜか豪華で、しょっちゅう新しく作ってて、掃除人がずっと掃除してるにも関わらず)どうしようもなく汚く、かつ日常的に壊れている中国のトイレと比べれば、圧倒的に(100倍、1000倍、いや、10000倍くらい)素晴らしい。

でも僕は嫌いです。

例えば、トイレットペーパーの設置スタイル。なんであんな複雑で使い辛い様式にわざわざしているのか。もっとシンプルな作りに出来んのでしょうか?

何と言っても腹立つのは、三角折り。日本人の持つ、他人への思いやり、持て成しの心(自己中心的な行動を非難する自己中心的な行動)、、、が、見事に現れています。

それに、この「コロナ災」の折、異常に神経質になって、人の触ったドアノブは絶対に触らない、とか、消毒液で消毒必須、とか言いながら、トイレの紙は(三角折りにするために)触りまくり、という、無用に訳の分からん潔癖さなわけです。

ウオッシュレット(中国の衛生状況下では設置不可能な存在)なんて、必要あるのでしょうか?(殊に水を流す擬音、、、)

確かに、清潔で完璧なことは認めますが、僕は嫌いです。

むろん、中国のトイレも嫌いです(日本にいると懐かしさを覚えますが、笑)。

中国と日本(韓国も含めていいかも知れません)、互いに止めどもなく極端な方向に向かっているように思えてなりません。どっちもどっち、と。

これまでにも何度も書いてきましたが、トイレに関しては、東南アジアの田舎のスタイルが好きです。

中国からボーダー渡った途端に、限りなく見すぼらしくなる。

でも、僕は好きです。

地面に穴開けて、山の斜面から水を流して、衝立を立てて、ホースからの水で、勢いよく尻の穴を洗い流す。

それで十分なんじゃないかと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

照ノ富士関係のニュースで、秀逸コメントを見つけました。

「明日の“朝の山×照ノ富士”、今から楽しみ」というコメントが並ぶ中で、全く場違いの、 「サンズの大ファン(人柄も素晴らしい)****」さんからの、
>記録上4失点だけれど今日の藤浪投手は近年では一番良かったんじゃないですか。それだけに北條選手の実質3失策は罰金ものだし、申し訳ないけれど当分見たくないです。あれでは藤浪投手があまりにも可哀そう。
というコメント(そう思う1、そうは思わない13)。

バッシングの嵐です。
>サンズの大ファン?あなた退場しろ!まったく関係ないだろ!(そう思う6、そうは思わない1)。

そこで僕も(サンズの大ファンさんが大バッシングを受けるのは当然だと思いますが)参戦しました。

milk****
>そう責めないであげましょう。たぶん入れるところ間違えたんです。確かに今日の藤浪は可哀そうでしたが(笑)。

そう思うも、そうは思わないも、ゼロ。野球と相撲両方に興味がある人は、余りいないみたいですね。








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遺書 4

2020-07-31 08:32:06 | 香港デモ、新型ウイルス、日記




「国際ウイルス分類委員会」の分類基準に基づく(以下同)ウイルスの種数は、2019年時点で6590種(むろん、生物の場合同様に研究者ごとに見解は異なるはずです)。

「種」の表示が「二名法=属名+種小名」からなる「生物」(植物・動物*)との場合とは異なり、種名に属名を含む必要がなく、表現方式にも厳密な規定がありません。
*植物と動物でも規約は異なります。

「コロナウイルス」は、コロナウイルス科(実質的には、その大多数を占めるオルトコロナウイルス亜科の各種を指すことが多い)の総称です。

コロナCorona(ギリシャ語起源)の本来の意味は、太陽冠(宇宙現象)、王冠(歴史)、内花冠(植物形態)で、多くのウイルスの形が、それらに似ていることから名付けられたものです。

*2009年7月22日の、皆既日食時における、太陽コロナの写真を紹介しておきます(本来は“門外不出”としている鳥葬写真)。中国四川省理塘県、標高4100m付近。


2009.7.22 am10:17 四川省理塘alt.4100m 1


2009.7.22 am10:19 四川省理塘alt.4100m 2


2009.7.22 am10:19 四川省理塘alt.4100m 3


2009.7.22 am10:21 四川省理塘alt.4100m 4

コロナウイルス科は、5属26亜属46種に分類され、近年の知名度が高いものとしては、MERS-Corona Virusと、SARS-Corona Virusがあります。

MERSが属する、Merbecovirus亜属は、次の4種で構成されます。
◆Hedgehog Corona Virus 1。
◆Middle East respiratory syndrome-related Corona Virus(それぞれの単語の頭文字を繋いでMERSコロナウイルス)。
◆Pipistrellusbat Corona Virus(アブラコウモリコロナウイルス) HKU5。
◆Tylonycterisbat Corona Virus(タケコウモリコロナウイルス) HKU4。

一方、SARSが属するSarbecovirus亜属は、今のところ「一亜属一種」とされています。
◆Severe acute respiratory syndrome-related Corona Virus(それぞれの単の頭文字
を繋いで「SARSコロナウイルス」)。

「症候群に関連する」となっていることからも分かるように、「急性で重度の呼吸器症候」という共通項を持つ「一つの種」ではあっても、関与する症候はウイルス(の個体や集団)ごとに様々な表現が為されているはずです。それらをウイルス学的にどう把握・認識するのか。

ということで、2つの異なる次元での分類群の名称があるわけです。
◆◆全体として捉えた「種」として。
>SARSコロナウイルス。
◆◆その一部に含まれる可能性がある、今現在(2019年以降に)世界で症候が展開している「暫定的分類群」として。
>SARSコロナウイルス2(疾患としての名称はCOVID-19)。

両者は、対置する(個別の)存在なのか?
それとも、後者は前者の一部を成すものなのか?

地球上には、無数と言って良いほどの、様々なウイルスが存在しているはずです。それらの中には、今みんなが「コロナ」と呼んでいる「SARS2」のように、私たち人間の前に姿を現して重度の急性疾患を齎す(そのことを表だって示す)ものもあるでしょうし、姿を隠したままのものもあるでしょう。

SARSにしても、「2」(いわゆる新型)だけではなく、様々なタイプが表には現れずにどこかに潜んでいるのかも知れません。透明人間のごとく、実は「悪行」をあちこちで繰り返しているのだけれど、「見えない」故に、そのことが知らされない。

生物の場合は、例え同じ種ではあっても、集団(時には個体)ごとに、成分とか性質が異なる、という例は、ごく普通にあります。

以前、U氏に送った「ジンチョウゲの謎」の原稿のことは、当然忘れちゃってる(というか読んでない)でしょうね。

野生の原種群のうち、ある産地の集団は人間に心地よい花香を齎し、別の産地の集団には薬用効果が知られてきました。そのため、人の手で改良育種され、「早春の象徴」として長い間人々に親しまれてきたのです。

ところが、ごく最近、それらに隣接した産地の個体に、人体に悪影響を与える成分が含まれている、というデータが示されました。「悪い」集団と「良い」集団は、どうやら連続またはクロスオーバーしているらしいのです。その情報はほとんど表だって知られることはなかったのですが、どこからか漏れ伝わったのでしょう。「沈丁花」が日本の街角から突然消えてしまった、、、。

リスクが判明したものが身近に存在することは許されません。徹底して敵対・排除され、(その可能性を有した)全ての自然の産物は、遠からず人類の前から消え去っていくのでしょうね。

人々は、「多様性」という言葉を、ごく当たり前のように使っていますが、どれだけ「本気で」認識しているのでしょうか?

モンシロチョウでもなんでも良いのですが、紛い無き「1つの種」に属してはいても、個体ごとに、集団ごとに、その表現様式は「多様」なのです。モンシロチョウを、100や1000の種に分割する見解があったとしても(ないですが、笑)、否定はできません。何をもって「種(ある特定の時空の中に実在する安定的特性を維持した集団)」を認知するか、誰にも答えは出せないと思います。

というわけで、(そのことを逆方向から考えれば)、「新型コロナウイルス」は、「SARS」で良いのだと思います。サースの再発です(バースの再来は、ボーアとサンズ、、、、とはちょっとパターンが違うか、笑)。

2003年度に起こった前回のSARS騒動よりもずっと以前から、地球上に何度も姿を現していたのかも知れません(誰も姿を見ることがなかったとしても)。そして、そのたびに、少しずつ性格を変えながら、今回の出現に至った。

僕は、6590種の(多分その数よりも圧倒的に多数の)ウイルスは、地球の同胞だと思っています。必要なのは、敵対ではなく、愛を注ぐことです。

都合の悪い対象だけを、ピンポイントで排除しようとしても、問題は永久に解決しないでしょう。

ウイルスそのものに問題があるのではなく、「捉え方」に問題があるのです。

「新型コロナウイルス」についての記事は、「現代ビジネス」に2度掲載(3度目は不可とのこと)したのですが、最も伝えたかった次の話題は、頑なに掲載を拒否されてきました。

>僕は30余年間の中国滞在中に、たぶん何度も“未知のウイルス”に感染してきている。診察してくださった医師たちのアドバイスは、皆同様に「良く寝て栄養を取って良い環境で暮らす、それに尽きる」。僕もそう思う。

マスクの着用を徹底し、三密回避はほったらかしにして、ワクチン完成を待つ。

そんな、自己中心とは思っていない自己中心的な人々(正義の味方)ばかりで構成されている日本民族は、早晩滅びてしまうしかないのだろう、、、、、その人たちから見れば、自己中心の塊の大悪人であろう僕は、そう思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・

照ノ富士、11勝。明日は、新大関朝の山と「割り崩し」対戦です。(コメント主のsaさんの言う)「衆目の認めるところの“ルール”に従わない」自己中心人間の僕は、楽しみにしています(これに対しては、どうやら大半の人が僕と同じく“自己中心人間”であるようですが、笑)。



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遺書 3

2020-07-30 20:32:43 | 香港デモ、新型ウイルス、日記





びっくりした。昨日の大相撲(照ノ富士、奇跡の復活)の記事のコメントに、こんなのがありました。

>17枚目の照ノ富士と、白鵬、朝の山戦とかは辞めて欲しい。悪い前例になってしまう!幕尻と横綱大関は、星が同じでも現格が違う!ルールがあって熱い戦いがある。そう思わない人はエゴイスト、自己中人間です。自分が楽しければそれでいい、という人です。人間性を疑います。

milk
>>人間性ねぇ~。saさん(コメント主)が、自己中心的な人間ではないことは、分かりました。価値観が違う人は、エゴイストなんだ、ということで。「規格」で基準を決める。現在の日本の民衆を覆う空気が、よく表れていますね。

↓勿論、僕と同じ考えの人もいます。
pirさん
>>今勝ち続けている強い人が対決出来る、というのが「格」というものだと思うけどね。当ててはいけないというルールはないし、横綱だろうと幕尻だろうと幕内であることに変わりは無い。少なくともそれは絶対化することに何の意味も無い規格だと思うけどね。勝手にルールを作る方が自己中心的なエゴイスト。

「上」と「下」は分けなくてはならない、同じ幕内であっても対戦するべきではない、、、となれば、横綱は15日間相撲取れないですね(なんのために「幕内」というカテゴリーがあるのでしょうか?)。

「有名な人が立派な人」
「一番が全て、二番はダメ」
「国民皆平等、でも“優劣”は決める」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



いつの間に?様変わりした京都の「セミ」 アブラゼミ減り、クマゼミばかりに… 記者の独り言(京都新聞)

という記事への僕のコメント(前からずっと言ってる内容ですが)。

milk****

>クマゼミは、必ずしも「南方」の種ではありません。日本固有種。地域により、形質の特徴があります。大きく分けて、4つの集団に分かれます。形質の移行順に、沖縄本島周辺→関東から九州→八重山諸島→与那国島。屋久島産は各形質が混在し、なぜか奄美大島には在来分布していません。台湾や中国大陸には分布せず、近縁別種に入れ替わります。非常に謎の多い種です。本州の中~西部で増えている集団は、「南」からやってきたのではなく、もともといたものが増えているのです。温暖化とは別の要因の環境変化によるものと私は考えています。




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遺書:2

2020-07-29 21:36:15 | 香港デモ、新型ウイルス、日記




三世に、「インターネット開けるとヤフーニュースの広告ばかりどさっと来てるので、もう気が狂いそう」というメール送ったら、(どういう関連か分からないけれど)次のようなメールが来た。

>もうハードディスクを忘れて、都会を離れて山で暮らした方が青山さんは幸せになれるんじゃないですか?社会は腐っています、汚い人間だらけです。汚い人間の為に青山さんの人生無駄にする必要ない気がします。人間、山にいればお金なんかいりません。データより、リアルな蝶やセミに触れて生きていく方が有意義だと思います。

僕の返信。

>それは違うよ。僕にとって、一生をかけて取り組んできた野生アジサイの資料は、三世にとっての、ジョージやお子さんたちのようなものだから。

別に、今さらセミや蝶に触れなくても良いです。50年間たっぷり触れてきたんで、取り戻したHDDの資料を整理するだけで良いです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まだ、2週間は余裕がありそうなので、落ち着いて考えます。HDDの廃棄を免れ、12月に確実に受け取る方法。廃棄を免れる=「5か月分の生保金全額を当てる」ですから、(生保金を受け取るためには)それまで生きている必要があります。

2つ究極の方法を思いつきました。どなたか、知恵を貸してください。冗談とかではなく、本人は必死ですので。

① 刑務所に入る。おそらく、その間も生保金は受け取ることが可能(「コロナ騒動」以降は振込方式になっている)と思うので、12月までの全額をHDD修復費用に当て、食費は刑務所内で面倒を見てもらえる。問題は、どうすれば入れるか?これは、かなりの難問と思います。少々の犯罪では、刑務所には入れてくれないでしょう。執行猶予が付かず、半年ほどの実刑になるには、どうすれば良いのでしょうか?もちろん、物理的精神的に人を傷つけない方法で。

それとなく、アドバイスしてくださる方がいれば、ありがたいですね(本当に、冗談ではなく、深刻極まりない状況なので)。

② 一昨日、主治医F先生の配慮で、「栄養剤」を2瓶(4日分)貰ってきました。水だけで生きる覚悟なら、とりあえず2週間ほどは可能、残り2週間は最低限何か食べる手配を行っておく。それを12月まで繰り返す。といって、水だけで2週間は相当にきつい。「栄養剤」(月2回診察とすれば5か月で10回20瓶40日分)を3日に一度ぐらい飲むことで、かなりの補助になると思う。でも、モーレツに不味いですよ、と、、、笑(まだ飲んでません)。

それで思ったのですが、「栄養剤」というのは、結局点滴の成分ですよね。それなら、毎日点滴を打ってもらう。病院に通うのは、電車賃(往復340円、5か月で約5万円)を考えれば不可能です。入院することは出来ないのだろうか? 不慮の事故・疾病とかなら、生保でも入院可能と思います。例えば、「コロナ」に感染する(検査さえして貰えば、ほぼ確実に陽性だろうし、、、抗体が出来てれば駄目なのかな、、、イオンやジョナサンはゴホゴホ咳してるオッサンだらけなので、簡単に感染しそうだけれど)。

もう一つ考えたのは、例えば、転んで大怪我をする。でも、入院のためには、どのくらいの怪我をしなくてはならないのでしょうか。マクドナルドに改めて懇願し、無理を承知で深夜作業をやらせてもらい、倒れて入院、というのが手っ取り早い気もします。でも、再解雇され、入院もできず、そのまま野垂れ死んでしまう、という可能性も考えられます。

それやこれやで、とりあえず自分で考えたのは、①は「銀行強盗未遂」、②は「気が狂って精神病院」ですね。第三者からすれば、「なにアホなこと考えているのか」と思われることでしょうが、それは「第三者」だから言えるのです。当人は必至です。極めて真面目な選択肢です。このあと2週間、(役場やハローワークの方や、病院の先生たちにも相談しながら)じっくり慎重に考えます。




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遺書:1

2020-07-28 21:04:15 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


遺書:1

今日から、表題を「日記」ではなく「遺書」に変更します。

「あや子版」のほうには、これまでも「遺書」らしきものを何回か載せたように記憶しています(笑)。確か、これで3回目(4回目?)だったような、、、。役に立つかどうかはともかく、書いて置くに越したことはありません。詰まる(笑)まで、まだ2週間ぐらい猶予があるし、ちょこちょこと、一日7~8個発信していけば、50や100は書けそうですね。いつものごとく支離滅裂に、「牛の涎」「落ち葉の掃き寄せ二籠目」(ともに二葉亭四迷)スタイルで記していきます。

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え~と、改めて遺書書きを思いついたのは、昨日病院の待合室で「遺書の書き方」のTV番組を見たからです。いやもう、猛烈に腹が立ってきた。余りにアホらしいので、それ以上の感想は言いません。
まあ、遺書作るのも、貧乏人には出来ん、ということです(大衆にとっての「遺書」は、単にお金の事務的引継ぎ方の方法、ということらしいですし)。

世の中、「正式」でないものは全て「偽物」で、逆に言えば、「偽物」でも「正式」に認められれば「本物」になるわけです。中国を笑ってられません。日本の社会は、「正式な偽物」だけで構成されているように、僕には思えます(「偽物」とすぐわかる中国の社会よりも、日本のほうがずっと質が悪いと)。

・・・・・・・・・・・・・・



モニカとの昨日今日のメール遣り取り。

>「東京は毎日雨」

>>「こっち(広州・深圳)は快晴だよ!」(写真1)

>「太陽が見えない」

>>「暑いので、海水浴行った」(写真2)

誰もマスクしてないそうです(写真3)。

嫌味ですね(笑)。

遣り取りの途中、ちょっとした僕の勘違いがあって、、、。

モニカからのメールに、突然こんな大きなアピールが張り付けられていました。

「日本は素晴らしい国」「中国と韓国はとんでもなく悪い国」「われら日本人は、一致団結して彼らと戦い、排除しなくてはならない」(産経新聞)

おいおい、なんでわざわざこんなの張り付けてくるの?こいつら、右翼の愛国者、まともに相手しちゃ駄目だよ。産経新聞も(まあ、以前連載して原稿料を貰った恩はあるけれど、笑)。

すぐ返信があった。「私たちは、別に政府にも権力者にも、もちろん特定の外国にも媚びているわけじゃないので、いちいちそんな押しつけがましい指摘なんてしないよ、なんかの間違いじゃない?」

で、すぐに気が付きました。ずっと前から、ネット画面にしつこく現れる、三橋ナントカさんという保守愛国応援団の方が書かれた本の、広告です。

僕は、とにかく「広告」という存在が嫌いで、、、。大抵の「広告」は「オレオレ詐欺」と本質的に変わらない、と思っています。

毎日、メール欄を開くと、「ヤフー」からの広告がドッサリ来ている。ヨドバシカメラのスタッフに手伝ってもらって、受け取り拒否の設定をしたはずなのだけれど、一向に減りません。

僕は、「ストレスはない」というのが自慢(?)なんですけれど、唯一と言っても良い例外が、ヤフーのデリカシーのかけらもない、無駄な広告攻勢、滅茶ストレスを受けます。そのうち、ヤフーからのコマーシャルの洪水に苛立って、自殺や殺人する人も出てくるんじゃないかな、と思ったりします。

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人間歳重ねると、価値観とか信条とか感性も変わってきますね。

ついこの間、「人を殺したり自死したり出来る人の気持ちが分からない」と書いたばかりなのですが、改めて考えると、なんかちょっと分かるような気もしています(まあ僕は絶対にしないという自信はありますが)。

というのは、自ら命を経った若手俳優や、「安楽死」殺人を依頼した難病を持った女性の気持ちは、ちょっと分かるような気がするのです。というよりも、羨ましい。

正直な気持ちを言うと、早く楽になりたいですね。HDDの件さえなければ。結局は、鶏/卵の問題になってしまいますが。

僕がいなくなっても、心から悲しんでくれたり、「可哀そう」「残念」とか思ってくれる人は、ほとんど
いないでしょうね。表面的な哀悼は、断りたいです。「面倒な人間がいなくなってくれてよかった」、で十分です。

心から悲しんでくれる「資格」があるのは、モニカとスーリンだけです(チエちゃんとあや子さんは、ちょっとだけ資格があるかも知れませんが、笑)。

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今日のニュースから。
死亡の女児は無戸籍か…室内放置の女「自宅で出産、出生届出してない」(読売新聞オンライン)

そのトップコメント(tamaさん)
>少し手間ひまかかるけど、社会には頼って良い手があるのに。そんなことも思い付かないほど追い込まれていたのかも知れないけど。残念。

それに対する僕のリコメントです。
>>コメントをされている方々に言っておきますけれど、本当に行き詰まっている(そこに至ったのは人それぞれに理由がある)人は、どうにもならないのですよ。外野は「助けを求めればいくらでも方法はある」というけれど、助けてもらえない立場にあるひとは、国からも個人からも助けてもらえません。
仮にですが、誰かが、コメントをされている方々に助けを求めたとしても、きっと無視をされるのだろうと思います。社会全体の価値観が、根本的な部分で変わらない限り、無理だと思います。

おそらく、圧倒的な数の「そうは思わない」が押されるだろうと予想していました。実際、僕以外のリコメントのほとんどは、コメント主の意見に賛同するものです。でも結果は、(現時点で)「そう思う75/そうは思わない28」、、、むしろ僕の意見に同意する人が多い。これはちょっと意外でしたね。「非
共感」の立場にあっても、思っていることを口に出せない人が、かなりの数いるのだと思います。

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こいつだけは、許せない、という人間。フル・ネームで書きます。岡田太陽さん。どんな(職業・年齢など)人なのかは知りません。たぶん、セミの研究者か愛好家です。

「あや子版」のコメント欄を通じて、僕が以前「あや子版」に発表した蝉の本(記事や資料)を、「素晴らしい、感動した」と褒め称え、それを買いたいので、いくら払えばいいか?と連絡してきた。

もう、(様々な人から)同じような目に数えきれないほど会ってきてるので、無視を決め込もうかな、と一瞬思ったのですが、も一回だけ信じて見ることにしました。

「値段はついていません」「(金額の多少を問わず)協力して頂いた方に差し上げています」と書き添えて、デジタル化した冊子を含む様々な資料や写真原版をお送りしました。

いつもと同じ、金太郎飴です。

「(内容の良し悪しに関わらず)正式な形で為されていない報文は、一文の価値もありません、私は(乞食のような人には)一銭も払えません」

蔑まれるのは慣れっこですが、心が折れます。僕にお金あったら、名誉棄損かパワハラで訴えます。

あや子さんは「私は青山さんの価値は知ってるので、挫けないでください」と言って励ましてくれる(それは凄く嬉しい)けれど、そんなこと言っても、「あや子版」にしろ「社会の窓から(およびその前身の“チエチエブログ”の僕のコーナー)」にしろ、これまで全力で取り組んで来て、一銭にもなっていないわけで(あや子さんだって、これまでに多大な時間と労力と経費をかけてくれている)、、、、。 

そりゃ、「価値」だけなら、それを自分で知っていれば十分だし、白水先生や柴谷先生や堀田先生や下野先生(下野先生以外は皆故人ですが)分かってくださっているし、柏原氏も林正美氏(この二人、犬猿の仲らしい、笑)も分かってくれているはず。

でも結局は、いくら頑張っても「正式な“形”でなければ、一円にもならない」となれば、野垂れ死にするしかありません。悔しいです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・



香港デモの、正義の一斉大アピールの中心地では、「尖閣問題」「(隣の国と同調しての)慰安婦問題」のアピールも、少なからず為されています。でも、日本のメディアは、一切報道しない。そりゃ「日本は正義の国」だから仕様がないのでしょうが、、、。

尖閣問題関連の話は別の機会に述べます。慰安婦問題。彼女たちは、金儲けで、あるいは好きでやってただけ、それに、日本は、あなたたちの“たかり”の要求には、もう十分に応えてきたではないか、というのが「正論」なのでしょう。一面から見れば、そうかも知れない。

でも、別の側面から見れば、全く別の問題です。誰かが言っていました。「“謝れ”と言われたならば、いくらでも謝り続けるべき」と。僕もそう思います。それだけのことをしたのだから。日本がアジア諸国に対して、どれだけ悪どいことをやってきたか、否、今でもやってるか。

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三世への恨みつらみです(モニカには優しく、三世には厳しいのです、笑)。「やる」と言ったことを、(ほぼ)一つもやってくれてないじゃないですか。「やるやる詐欺」(ツイッターとかフェイスブックとかインスタグラムとかノートとか、そのほかいろいろ)です。まあ、お金払ってないから、大きなことは言えんですが(笑)。

我ながら未練がましいことを言いますが、(去年の夏)虎の子の8000円は、HDD購入のため大事に取っておくべきだった(「そんなの私が買ってやるから」の三世の言を信じて、イカの脚など食いに行ったのがマズかった、笑)。出費7000円のはずが、45万円になってしまったわけだし。

それ以前に、自分自身で反省しておくと、もっと早くいろんなこと諦めて、そのうえで最低限の仕事だけは完結しておくべきだったです。そして、70歳になった辺りで、おさらばしとけばよかった。

「青山さん生きてますか?」「死なんといて下さいね」などの言葉を鵜呑みにして、ずるずる(いろんなことに未練を持って)引っ張ってきたのが間違いです。45万円必要になって、死ぬにも死ねなくなったじゃないですか(いろんな人に迷惑もかけちゃうし)。

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そこへ行くと、モニカは正しかったです。(能力の有無は別として)「ノー」と言いながら(そりゃないだろ、というぐらい無慈悲に「ノー」を言う)、でも、(大抵「ノー」を撤回して)やることはきちっとやってくれる(ドジが多すぎるとしても)。

U氏が言うように、僕は「モニカ大明神」で、三世には辛く当たっても、モニカには甘いのです。一応ちゃんと理由があって、言葉の遣り取り(全部英語)が不自由な分だけ、(言葉に)責任を持って対応しよう、と常に心掛けているのです(真っ黒になった英語の辞書を肌身離さず持っている)。

で、モニカが、この2-3年間、僕にず~っと言い続けてたのが、とにかく、「野生アジサイ」を早くやれ、ということ。英訳も中国語訳も(今)やらなくてもいい、ジュンゾウの終生のライフワークなのだから(命がけで取り組んでいることは知っているから)、日本語のままで良いから、とにかく早くアジサイを完成させろ、と。

僕はその都度、「完成するには大変な時間がかかる、もうちょっと待ってくれ」、と言い続けてきたわけです。

で、伸ばし伸ばしにしているうちに、全てを収録したHDDがクラッシュしてしまった(45万円が必要になっても、消えずに済んだことは、僥倖に思わねばなりません)。

蝶だとかセミだとかギリシャだとか香港デモだとか、あちこち浮気(蝶と蝉は「本妻」の一人でもあるのですが)する前に、「野生アジサイ」を終わらせておくべきだった、と、今さらながら後悔しています。

安心して、向こうの世界(この表現は、モニカが異常なぐらい気にするので、軽々しく言えない)に行くことが出来ません。

まあ、ポジティブに考えますが、、、、。

//////////////

ええええ、、、、!!!!!

ボーア、サンズが、アベック・グランドスラム!!!!

日本のプロ野球史上、こんなのあったでしょうか?

「バースの再来」が、二人も来ちゃったです。今年は、まさかの阪神優勝ですね。










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青山潤三日記 2020.7.27 ② 追悼 弘田三枝子

2020-07-27 20:28:23 | 香港デモ、新型ウイルス、日記





先週、弘田三枝子(73歳)さんが亡くなられたそうです。僕とは一歳違い。でも、子供の頃から聴いていました。「和製ブレンダ・リー」と言われていたのですが、実際に多くカバーしていたのは、コニー・フランシスのヒット曲です。


63'「悲しきハート」 弘田三枝子 「キューティ・パイ」伊東ゆかり 「女王蜂」園まり 「バイ・バイ・バーディ」中尾ミエ

この映像は、1963年の紅白歌合戦(翌年の東京オリンピックへの賛歌)。弘田三枝子、伊東ゆかり、園まり、中尾ミエの、メドレーです。伊東ゆかりは、Johnny Tillotsonの「キューティ・パイ」を唄っています。彼女の同時カバーがあったので、ジョニーが日本でやっとブレイクできたのです。ちなみに、僕のタイプは、園まりですが、、、。

今日7月27日は、伊良部秀輝投手の命日(2011年)でもあるのですよね。高野光投手(2000年)といい、なぜ自死を選ばなければならなかったのか、、、、。ともに原因が「鬱病」らしいとはいえ、やるせない思いです。

でも、多くの人々の心に残っている。




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青山潤三日記 2020.7.27 ① 「植松被告とオウム事件」

2020-07-27 20:25:10 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



昨日と今日(病院の日)は、スタバからの発信です。どうやら往復電車賃340円に一日の食事代を含めたトータルで考えれば、ジョナサン、イオン、スタバ、さほど出費は変わりません(携帯Wi-Fiの購入は不可能なので、他に選択の余地がない)。居心地が良いのは、スタバの窓際テーブルコンセント席、ここが最も落ち着きます。ドアを開放しているので、外から風も入ってくるし。

仕事(収入が見込めるもの)、したいですね。市役所、ハローワーク、シルバーセンター、マクドナルド、病院、などいろんなところとの交渉や相談をしてるのだけれど、一般の仕事以外を受けるためには、体調、保証人、クレジットカード、携帯電話、がネックになります。これをクリアするのが、ほぼ不可能と言えるほど難しい(姫路、岡山の住所でギリシャ在住の三世と、中国在住外国人のモニカが、ともに保証人を引き受けてくれることになっていますが、事務手続き的にはアウトのようです)。

8月5日から一文無し生活が始まるので、ネットを使っての(様々な方向に関する)仕事の待機は諦めて、部屋に籠って「何もしない」(でも、たぶん餓死はしない)生活に切り替えることが一番なのかも知れません。ネット見なければヤフーからの執拗な広告送信(大体、僕は「広告」という存在自体が嫌いです)も見なくて済むので、ストレス(いちいち広告をゴミ箱に捨てる作業)もその分減るでしょう。

仕事(原稿執筆から便所掃除まですべてひっくるめて)へ意欲を見せれば見せるほど、窮地に陥る。だったら、仕事をすること自体を諦めたほうが、マシなような気もします。なんか、「卵が先か鶏が先か」という話ですね。最終的にHDDさえ取り戻すことが出来れば、他に望むことはないし。

*三世へ、「クラウドファンディング」ほか、僕との連絡は当分取れなくなってしまうかもわからないので、ケンさんへの対応よろしくお願いしますよ(「インターネットTV電話」は現実的に不可能、三世の顔は昔写した写真で見れるし、それで十分、僕の写真もどっかにあるでしょ)。

今日は、朝いちばんにモニカから、昨晩送信した「東京は毎日雨」への返信が来ました。「広州は毎日快晴」。快晴なら、どっかに撮影に行け、と言いたいところだけれど、また日射病にかかると困るし、自主性に任せた方が結果が出そうに思うので、言うのは止めました。毎日雨空の東京、僕としては「撮影に出かけないという最悪感」を免れるので、助かります。

天気予報ですが、、、旧いのがごっちゃに入り混じっていて、どれが今日のか分かんない。何週間も前から「明後日は晴れ」「来週には梅雨明け」のコピペ状態。

でも(多くの方々のコメントとは違って)僕は、天気予報士を責める気持ちはありません。7月は梅雨。8月は酷暑。9月は台風。昔から、それで当たり前です。

それにしても、ちょっと雨続き過ぎるようには思いますが(笑)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ボーア復活弾。中谷、初打点。ほっとしました。あとは江越(でも今日は2得点)と高山、頑張ってね。大山、近本、やればできるじゃん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下、本題に移ります。

前々回あたりに再掲載した去年の夏の報告に、こんな話題がありました。

「新しいブログを作って応募しましょう、上手くいけば広告料が入ります」と三世。三世が提案する「ウマい話」は、ハナから信じていないのですが、まあ、とりあえず言うこと聞いて、新しいブログ「社会の窓から」をスタートしたのです。

それとは別に、仕事を探さねば、と(アテネのインド人経営レストランの皿洗いは反故にされてしまったので)、何人かの(会ったことのない)日本のメディア関係の人たちに、プロフィールや、これまでのブログ(「あや子版」)の記事などを纏めて、プレゼンテーション送信することにしました。

その一つが、いつもネットコラムで読んで、非常に感銘を受けている、「創」編集長の篠田博之氏。年齢は僕の方が上だけれど、凄い方だと尊敬しているのです。

で、上記の「応募」の締切日直前、三世に「篠田さんにも僕のプロフィールなどを送信しておいてください」と伝えたら、「審査員の方が、その篠田氏みたいですよ!」という、まさかの事態に。

それはちょっとヤバい。当選可能性ほぼ0%のプレゼンテーションを、本人宛に送る前に重複して晒すわけには行かない。

そこで、急遽応募を取り消すように三世に指示し、急いで篠田氏本人に、「応募」とは全く無関係である旨を明記して、プレゼンテーション資料(「香港デモ」や「青葉容疑者」や「植松被告」などに関しての 僕の文章)を送信してもらったのです(僕自身からの送信の仕方はわからない)。

篠田氏の身になれば、忙しい時に、訳の分からない(頭のおかしな?笑)読者からの売り込みメールなど、さぞや迷惑だろうと思うのです。でも同じプレゼンテーション内容でも一応目を通さねばならんでしょう「公式応募」と違って、プライベートのメールなら、無視することもできます。当然、何の返事もありません(三世がきちんとメール送信したかどうかも怪しい、笑)。それは織り込み済みです。

その後も篠田氏は、「津久井やまゆり園」(植松被告、19人の入所障碍者殺害)事件に関して、記事を発表し続けています。

『「最後の晩餐」に同席した大学後輩女性の証言』
相模原事件・植松聖死刑囚が犯行前に「最後の晩餐」をした女性と ...
という記事が、特に強く印象に残りました。刮目して読ませて頂きました。

いろいろと思うところがありました。それに関連する僕の想いについて書いて行きます。

その前に、僕の中では、「京都アニメ事件」の青葉容疑者と、「津久井やまゆり園事件」の植松被告は、
セットで捉えているんですね。

昨日のブログにも記したように、青葉容疑者は、「共感」の空気の外側に置かれた代表的存在、「植松 被告」は、人々の「共感」の空気を、煎じ詰めた行きつくところとしての存在。

僕自身の心は、青葉容疑者に近い、と思っています。もちろん彼自身に対する想いではなく、36人の命へ慎祷と、「青葉容疑者」を作り出した、のうのうと生きている「善良な人々」に対する怨念。その闇の部分をどう解釈して良いのか、青葉容疑者は自分にもよく分からないだろうし、僕も分からない。もちろん、大衆は全く分かっていない。

「植松被告」は、ある意味よく分かるのですよ。(僕の価値観とは対極にある存在なので)客観視出来すぎて、どう対応して良いのか分からない。上手く言い表せないけれど、彼は余りに純粋なのですね。自分は当然のことをした、と思いながら、刑に処するのでしょうし、大衆も、根源的な部分では、彼は「間違ってはいない」と思っているはずです。

「創」篠田氏の素晴らしいところは、植松容疑者(ら“猟奇的犯罪者”)の持つ、「ごくごく当たり前の心」に、世間とは違った角度から、ズバッと切り込んでいることです。“猟奇的犯罪”のもつ問題は、“猟奇的”な部分ではなく、“ごく当たり前の部分”にあるのです(「津山30人殺し」などは、その最たる例)。当たり前のところから引き起こされているから、難しい。

植松被告が「自分は、当然のことをした、間違ってはいない、と思いながら、刑に処する」。そこまでは、オウムの死刑囚の人たちと同じだと思います。「社会」の反応が、正反対ではあるとしても、、、。

青葉容疑者は個人の怨念。特定の一人か二人を目標としていたのでしょう。おそらく、思ったよりも大量の被害者が出て、後悔しているものと思われます。

植松被告は、正義感。ある意味自分を犠牲にしてまで、確たる意思を持って正義を遂行した。

オウム教団も、正義感に基づいての行動であることは、植松被告の場合と共通します。しかし、植松 被告が、社会(大衆)の代弁者立場にあるのに対し、オウム真理教は、社会への反発(攪乱再構成)という思想に基づく行動です。その点では、青葉容疑者との共通部分があります。

上に挙げた「やまゆり園事件、大学後輩女性の証言」記事を読んで、すぐ感じたのは、「デジャブ」。僕のある体験と、構図がそっくりなのです(男女逆の立場ですが)。

僕のほうは、オウム事件に関する話です。

もっとも、オウム事件に関しては、すでに資料も検証も出尽くしているし、(容疑者側が)植松被告一人で完結した「やまゆり園事件」と違って、関わった人間が桁外れに多く存在します。

また、江川紹子氏を筆頭に、真相に迫ろうと、非常に多くの人々が、様々な資料を掘り起こし、検証を行って来ている。今さら僕のちっぽけな情報など、何の役にも立たないでしょうし、創の「友人女性の証言」とは、重要さの程度が、まるっきり違うということは、当然です。それは承知の上で、という前提で、記していきます。

僕は、「オウム事件」の周辺の、そのまた周辺の、事件とは全く無関係といってよい存在です。遥かに離れたところから、ほんの少し「接点」があるだけです。逆に考えれば、これだけ多くの人々(被疑者側/被害者側双方)が濃厚に関わりながら、本質的な部分では、なんら解決が為されていないように思われるこの事件に対して、案外、遠くから「うっすら」眺めてみることが、今後の示唆になるのではないか、という想いもあります。

思い出して、つらつら書いていくことにします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

書こうとして気が付いたのは、余りに記憶が漠然として、定かではないこと。

まだ4半世紀しか経っていません。そして、その友人とは、結構頻繁に会っていたはずです。なのに、正確な時期がいつだったかも、当人の名前さえも、全く想いだせない。

幾つかの場面場面(ことに、最初の出会いと、最期の電話、それに、その間に交わされた、様々な、本当にありきたりな、日常的会話の断片)だけが切り取られて、つい昨日のように鮮明に浮かびあがるのに、、、。

1年間だったか、2年間だったか、3年間だったか、あるいはそれ以上の期間だったか、、、それさえもはっきりしません。その頃は、毎日のように友子さんと会っていたはずです。でも、3人で会った記憶がない。多分会っていない。それも不思議だと思います。まあ、友子さんは、彼女に限らず、僕の知人友人と会うことを、18年間、極度に嫌がっていた(直接会ったことがあるのは朝日新聞のK記者ぐらい)、それを考えれば不思議なことではないのかも知れませんが、、、。

改めて記憶を辿ってみました。いろんな状況を照らし合わせてみると、中国に通いだしてからしばらく経った1990年代の中頃の数年間であったことは、間違いなさそうです。地下鉄サリンが1995年3月。その前だったのか、後だったのか、あるいは時期を跨いでいたのか、、、それがはっきりしません。

僕は、今でこそ、天安門事件とか、香港デモとか、コロナ騒動とか、人種問題とか、、、執筆の方向が人文的な分野に傾いていますが、本来は人間社会のことは全く無知で、興味もないのです。でも、その割には(以前から)週刊誌フリークだったわけですね(最近は全く読んでいない)。と言っても、お目当ては、小さなコラムや、サブカルチャー的な記事とか、スポーツとか、意外に芸能ニュースとかで、その時々の事件の記事などは、あまり読んではいませんでした。オウム事件に関しても、さほど関心はなかったのです。

概要は(週刊誌を読んでいるので)多くの人より良く知っていたと思います。でも、専門の記者や論客たちに比べれば、知識は皆無に等しい、と言ってよいでしょう。

メディア通して、あるいは彼女を通して知った、オウム信者たちの考え方(むろん両者は正反対の結論を導いているわけですが)には、非常に「共感」していました。「共感」という言葉が嫌いな僕が、この言葉を選ぶほどに。

ここでは、そのこと(「共感の具体的内容」)自体を述べるつもりはありません。彼女からも、オウム教団の(思想はともかく)活動に関することは、ほぼ全く聞いていません。

彼女が話すのは、将来の世界のあり方に対する自分自身の想いや、日常的な出来事の断片。僕は、中国での活動の報告など。

ちなみに、勧誘を思わせる言動も、最期まで一切なかったです。教団外部の「一個人同士」としての関係を、貫き通したと思います。

・・・・・・・・・・

彼女(本当に名前を覚えていない、不思議としか思えません)に出会ったのは、渋谷駅東口から歩いて10分ほどの、港区との境の辺りにある、コダクロームの現像所、、、ではなく、富士フィルムの現像所です。確か、使用フィルムを、コダクロームからフジクロームに切り替えのが、1992年頃だったように記憶しているので、それよりも以降だと思います。

今調べたら、教団事務所の渋谷撤退が1996年3月、となっていました。その間のどこか、ということになります。いずれにしろ、「オウム騒動」の真っ最中です。

その現像所には、日本帰国時に、鎌倉から頻繁に通っていました。現像申し込みや受け取りの為の待ち時間が結構長く、そこでしょっちゅう顔合わせたのが彼女でした。

ある時、会話をしました。

「私、オウムのスタッフ、すぐ近くに事務所があって、広報をしているので現像所に通っている」(自分のアパートは東長崎と江古田の間の付近)。
「僕は、中国奥地で野生生物の調査や撮影をしている、それで帰国時は、写真を現像するため、鎌倉から渋谷に通っている」。

彼女は、僕の活動に、非常に興味を持ってくれました。それから、度々会って話すようになりました。

男女関係は一切なし、思い浮かべたことすらありません(いや、今振り返れば実に勿体ないことしたものと、笑)。

三世と僕の関係と似たようなもの、と思ってもらえればいいですね。

ちなみに、僕は当時40歳代の後半、彼女は20歳代の前半だったはず。

非常な美人で、可愛らしく、スレンダーかつ健康的で、聡明で、真面目、、、。何人かの高位のオウム女
性信者に共通する印象だと思います。

あるとき、興味深い話を聞きました。何の脈絡もなく、突如話し出したのです。

「自分は性欲が強すぎる」と。それを抑えることに、非常な努力をしている。性欲は凄い力(パワーの素)になりうる。それを外に出さずに、内にためておく。人類にとって何かが必要になった時、自分の体内に貯めたそれが、巨大なエネルギーとなって、自分も救済に関与することが出来る。

ただ、こんな事も付け加えました。

尊師(麻原正晃)には、何度か(パワーの素ようなもの?)の注入儀式を受けた。それは性行為とは別のものだと思っている。

余り詮索するのも悪いと思って、ヘぇ~、そうなんだ、、、ぐらいで、その時は聞き流していました。今思えば、もう少し詳しく聞いておくべきだったかも知れません。

尊師は個人的には嫌いだけれど、考え方には心酔している、とも言っていました。ちなみに、上祐氏は大嫌いとのこと。

鎌倉の僕の部屋にも、何度か訪ねてきたことがあります。僕にヨガを教えてあげる、と。ことに、体の中をきれいにする方法。単に水を飲むだけなのですが、その飲み方の習得が、意外に難しいのです。

別の目的の一つは、当時、僕が毎週いくつもの週刊誌を買ってたので、その(以前の号の)記事を読んで、「オウム真理教」が世間がどのように思われているかを、知りたい、ということ。この機会にそれをきちんと把握しておこうと、僕の部屋に来るたびに、一心不乱に何冊も本を読んでいました。

最初の頃から何度も繰り返し話した彼女との会話。

彼女の意見:日本の社会の在り方は間違っている。地球の進もうとしている方向は間違っている。私たちはそれを阻止しなくてはならない。

僕の意見:僕は、あなたたちの考えが分かるし、実行しようと努力していることに、凄い敬意を表する。
ただひとつ、注文。殺人だけはしてはいけない。理由は僕にはわからない。無理矢理こじつければ、何らかの答えらしきものは出せるだろうけれど。例えば生物学的な視点から、同種同士の殺し合いは、種にとって(幾つかの例外を除いて)プラスの結果は齎さない。でも、そんな簡単な話じゃない。僕には、「分からない」としか言えない。そして、理由は分からないけれど、確信持って言える。人を殺してはいけない。

彼女:青山さんはそういうけれど、、、。権力者たちは、(様々な意味の)戦争を通じて、沢山の人を殺しているじゃない。私たち庶民も、自分たちの暮らしを豊かに保つため、間接的に世界の多くの人を不幸にしている(殺している)のかも知れない。それに、人はやがて死ぬ。生きているということだけが全てに勝るものではないと思う。

この話題は、最初の頃度々したのだけれど、結局平行線を辿るだけになってしまうので、やがて話題に上らなくなってきました。

一度、面白い出来事がありました。都心の喫茶店でのことです。
>あそこのテーブルにいる男、公安だよ。ずっと私を付けまわしている。

喫茶店を出て、品川駅から鎌倉(大船)に向かう東海道線の車内。結構込んでいてドアーの横に立っていました。彼女が言いました。
>隣の車両に別の公安がいるよ。ちょっとからかってみよう。一度一緒に降りてね。彼も降りるよ。そして発車直前に飛び乗りましょう。

本当に言ったとおりになりました。見事に巻いたわけです。さすが鎌倉の僕の部屋までは(更に別の公安が)尾行してこないとは思うけれど。

そんな事情もあってか、僕が中国と日本行ったり来たりしている間に、住所を度々変えていたようです。名古屋に移っていた。

それで僕は、西日本に向かうときは、名古屋で途中下車し、駅前のホテル一泊することにしていました。彼女は、そこに訪ねて来る。僕は、彼女のために、わざわざ何冊もの週刊誌をリュックに詰めて持っていくのです。

珍しく、教団の話題を話したことがあります。本人が言うに(初めて会った頃はともかく、今は)、自分はかなり地位が上、であるとのこと。ホリーネームとかも教えてくれた(もちろん、忘れちゃった)。部下が何人もいて、とても忙しい。青山さんのことはみんな知ってる。内部では結構有名人。だから、忙しくても、青山さんと会う時だけは、いくらでも時間を使わせてくれる。

僕も日本滞在中は、かなりの頻度で西日本と東京行き来していたので、名古屋でも何度か会うことができました。市内の事務所とやらの近く(同じビル?)の喫茶店で話をしたこともあります。でも、本人以外とは、一人も会っていない。それも、不思議と言えば不思議です。

最期の会話は、鮮明に覚えています。何度かの中国行きの後、日本に戻ってきて久しぶりに会うことになりました(繰り返し言うように、それが「地下鉄サリン事件」の前だったか、後だったかが、思いだせない)。

浜松町の駅で待ち合わせたのですが、大失態。時間を一時間間違えてしまった。彼女の姿はありません。焦りました(なんか、ついこの間のように焦った記憶が蘇ります、ちなみに友子さんとの待ち合わせでは、日常的に一時間遅刻を繰り返していたので特に罪悪感もないのですが、、、それもどうかと思うけれど、笑)。

慌てて、公衆電話を探して、電話を掛けました。

「ごめん、時間を間違えた。」

「私、行かなかったの、青山さんに会わないことを決めた、、、、/一つだけ言っておくね、考えに考え抜いた答えなのよ、、、/やっぱり、殺人が絶対悪だとは思わない、、、地球の将来のために(場合によってはその人のためにも)殺さなければならないことがある、と思うの。」

その後2度ほど、江古田の(緊急連絡時用に教えておいてくれた?)電話番号に問い合わせたことがあります。

ぼそっとした(いかにも貧相な聞き取るのがやっとな掠れた)声の、年配らしい男性が応答に出てきました。「知らない」。「連絡もとれない」(「岐阜にいるかも知れない」と言ってたような気もします)。

なんか、凄く寂しいというか、暗い気持ちになって、その後は、全く連絡を試みていません。今思えば、そのこと(あっさり連絡を断念したこと)自体、何か不思議な気がします。

そして、たまにオウムの話題が出る度に、彼女のことを想いだします。



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青山潤三日記 2020.7.26 ②

2020-07-26 08:43:41 | 香港デモ、新型ウイルス、日記




「植松被告とオウム事件」を書き終えれば、ブログはやめて、「中国蝶類図鑑」作成に取り組む、と宣言?したのですが、もう少し続けます。

(津久井やまゆり園事件の)植松被告や今回の「委託殺人」の2人の医師は“「共感」の代弁者”、(京都アニメ事件の)青葉容疑者は“「非共感」の体現者”、と僕は理解しています。そのような視点から、問題の本質を探って行きたいと考えています。

でも、「生きる権利」と「死ぬ権利」、、、、難しいなぁ~~~。

今回の「医師委託殺人」事件に対して、自らも闘病の身にある舩後参議院議員の、

>「“安楽死を法的に認めてほしい”というような反応が出ているが、(中略)、こうした考え方が難病患者や重度障害者に“生きたい”と言い難くさせ、生きづらくさせる社会的圧力が形成していくことを危惧する」

という、「死ぬ権利より生きる権利を」の発言がありました。僕もその通りだと思います。

しかしそれとともに、この発言に対して為されたあるコメントが、気になって仕方がありません。

>「この方は支援者も多く、社会的地位もあり、年収も何千万円とある。そうでない方々の方が遥かに多い。一個人のお考えを押し付けないで頂きたい。」

そうなんですよねぇ~。同じ状況に置かれてはいても、「富」や「立場」など、背景が異なると、向かうところは違ってくる。「上」にいる人たちは、「下」にいる人間のことを、本当に分かっているのだろうか、、、。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下、「新型ウイルス」関連。同じことを、繰り返し述べていきます。まるで、駅のプラットホームで、延々と独り言を呟いている、おじいちゃんやおばあちゃんみたいです(笑)。

一人でも、読んでくださる読者の方がいることを信じて。

昨日、三世と、こんなメールの遣り取りをしていました。

昭恵(←パソコンでこの字がなかなか出てこない)さんの友人の鎌倉の医師曰く。
「コロナを愛すれば、その瞬間に消え去る」

三世:やっぱり「愛」ですね。でも「愛」をはき違える人もいるし。

僕:そうだね「愛」は難しいよね。

といった、中学生のような会話です(笑)。でもね、中学生(小学生)の思想で良いのです。少なくとも、勉強(概ね受験勉強)が出来て、方程式に乗っかった上での言動しかできないエリートたち、金儲け、 自分の利益、既得権主張という自由に則って、皆が皆、流れ(空気)の中でしか生きていけない大人の思想よりは、マシだと思っています。

「流れ」がらみで言うと、僕は「川の流れのように」という歌(いかにも共感ソング)が大嫌いです(これは、たぶん大半の人には共感してもらえないだろうなぁ~)。

僕は、美空ひばりの歌が大好きです(いや、好きとは違いますね、どっちかというと嫌いなほう、笑、、、でも、歌手として最大級の評価をしています)。そして、この曲作ったオッサン、結果として美空ひばりを侮辱している(「空気」を通してでしか対象を理解できない大衆は、そのことに気が付いていない)。

この、いかにも「ステレオタイプ」な歌は、それで「共感」を得ること知っている(大衆を「無意識強要同調空気」の中に放り込むことで、容易に騙せる技術を身に着けた)、この醜く太ったオッサンの、金儲けの道具でしかありません。今も、女の子たちや、それを取り巻く人々を「空気」に取り込んで、(合法的な)詐欺行為の限りを続けている、クズの中のクズです。人のことを悪く言っちゃいかんということは重々分かっている(だから悪口言うときも一応どこかフォローしている、笑)のですが、こいつだけは心底嫌いです。

話がちょっと逸れてしまいました。

僕は、「新型ウイルス無視」論者ですね。非常な脅威であることを認識し、最大限の注視を伴った「無視」です。

「無視」と言っても、「経済を回すため」の「無視」とは対極に位置します。むしろ「回さない」ための「無視」です。ワクチン作成期待に代表される、目先の利益、平和、安定を、懸念しての「無視」です。

ワクチンを開発しようが、(一時凌ぎにはなっても)事の本質は解決しません。むしろ長い目で見れば、「見かけ上の勝利」は、マイナス要因になってしまいます。必ずや「倍返し」で次がやってくる。

それは災害への取り組みや差別問題や政治的対立に対しても、同じことが言えると思います。

今、人類が択るべきことは、全く別の道です。進むことだはなく、やり直すことです。自然・地球・宇宙が、人類に警告してくれている今こそ、それが可能なのだと思います。

「あなたは科学を否定しているのか?」と問われれば、敢えて「そうだ」と答えます。「原始に戻れと言ってるのか?」と問われても、「そうだ」と答えましょう。

そんなことできるわけがない、お前の幼稚な考えなどに付き合っている暇はない、と言われるでしょうが、決断しなきゃいけないのです。まあ、原始まで戻らなくても良いでしょう、一度、一歩でもいいから、戻る。一歩引いた立脚点から、根本を徹底して見つめ直す。

あのグレタさんにしろ、僕にしろ、考えは幼稚ですね。でも、その幼稚な考えを、メディアや科学者や有識者や論客や大衆は、誰もまともに論じようとしない(グレタさんはお金持ちに利用されているみたいですが、笑)。

「新型コロナウイルス」に関しては、規制を緩くして経済を回そうが、徹底防御&敵対しようが、結局翻弄されてしまいます。唯一の解決方法は、「共存すること」、それだけです。

「共感の無意識的強要」(「共感できない対象の排除」)をキーワードとして猛進を続けている今の世の中に必要なのは、「共感できない対象との共存」です。

「共感」ではなく「共存」。新たな風を入れること。ちなみに、物理的にも、「新型コロナウイルス」への対策は、風さえ入れれば済むと思います。全てを解き放てばいい。簡単なことです。でも、「既得権厳守の自由」に基づく「民主主義社会」は、それを出来ないのですね。

「徹底防御」「積極経済」、共通するのは、「今が良ければいい」。世の立派な人々は僕のことを子供じみた存在と思ってることでしょうが、目先のことしか我慢できない彼らこそが子供です。まわりまわって、僕の方がずっと大人であるような気がしています。

U氏が絶賛するところの、「現代ビジネス」記事。

北海道釧路出身の、U氏の東大のO.B.仲間らしい「社会文化学者」による

『「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由:知られざる「文化と教育の地域格差」。』

中国深圳の現状について日本の若者が言及した

『日本が中国に完敗した今、26歳の私が全てのオッサンに言いたいこと:勝手に「終わり」とか言ってんじゃねえ。』*

昨日再掲載した(U氏からボロクソに言われている)僕の「反・一票の格差」論、あるいは、(これまで何回か「現代ビジネス」に発表してきた)「中国のトイレの話題」などと読み比べて貰いたいです。

個人的には、「釧路」の話も、「深圳」の話も、作品としては好感を持っているし、執筆者の人間味も感じて、嫌いではありません。

でも、中学生(小学生?)レベル?の僕から見れば、危うげなシャボン玉(共感世界)の中から出ることのできない、頭だけいい幼稚園児の思想のように感じてしまいます。

この程度の、なんだか物事を分かったように勘違いしている、「(僕から見れば中途半端に)頭の良い人たち」の考えが、(事象を奥深く考えることのできない)大衆の支持を受け、そして、このような人たちが、世界を引っ張って行くわけです(実際、「ワクチン作成が人類の共通目標」とか叫んでいるビル・ゲイツのような人が)。

たぶん(僕と同じで)IQが低いので、(このコロナ騒ぎの中)何していいかわからず、「じゃあ、とりあえず10万円を何人かの方に配りましょう」なんてアホなことを言っているZozoの社長さんのほうが、よっぽど、人類の将来に貢献していると思います。

*中国に対し、共産主義全面否定(民主主義的自由の絶対視)の許、忌み嫌って蔑み、敵対し壊滅・排除の立場に立つ人々/現実に為されている急速な近代化・経済成長(僕から見れば実は砂上の楼閣)に驚愕し、それに乗り遅れずに、日本人の技術や思想を輸出することで、おこぼれに与ろうという立場にたつ人々。

どっちも「空気」を通してだけの対応。上手くいくはずがない。

必要なのは「共感」でも「反発」でもなく、「分かってあげること」「分かってもらうこと」「寄り添うこと」。

愛とは、そういうことじゃあないのかな?






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青山潤三日記 2020.7.26 ①

2020-07-26 08:41:31 | 香港デモ、新型ウイルス、日記




しんどいなぁ~、つらいなぁ~~~、と思い続けている今日この頃です。三浦春馬さんが羨ましい。死ねるものなら死んじゃいたいです。でも今死んじゃったら、HDD廃棄されちゃうだろうから、、、。

三世はいいなあ~。ジョージがいて、一応ご両親もお子さんたちもいて。ジョージも三世がいるし、お母さんたちもいるし、、、、羨ましい。まあ、それ言いだしたら、僕にとっては大抵の人が羨ましい存在ですかね。

逆に、僕よりもずっと苦しい、つらい思いで生きてる人もいるだろうから(僕は、三世とか、モニカとか、あや子さんとか、友子さんの父上とか、、、心の支えになってくれる人がいるだけ、マシかも知れない)。

三世のお子さんたち(姫路?岡山?)は、元気で暮らしてますか? ときどき、ふと、そのことを考えます。

僕の母は、いわゆる鬼親でもなかったし、ネグレクトでも過保護でもなかったけれど、早い話、交流はほぼ全くなかった。

弟一家とは、母の葬儀の日に絶縁していて(友子さんを葬儀会場から追い出された)、以降23年間、一度も会ってません(2年ほど前、パスポート更新に必要な資料チェックのため弟に電話したら、結構元気そうだったので安心しました)。昔、姪っ子(数年間、最低限の連絡は取っていた)がポツッと言ったことがあります。お婆ちゃんが死んだとき、日記が出てきた(ほぼ文盲に近いので、子供のような片仮名字しか書けない)。その中に書かれているのは、おじちゃんのことばかり。父は相当に落ち込んでいた、と。まあ、出来の悪い子ほど可愛い、の典型ですね。

僕の唯一の自慢は、、、、母親が亡くなるほんのちょっと前に帰省した時、車椅子に乗せて、近所をぐるっと一周してきた。生涯一度だけの親孝行です。母は物凄く嬉しかったと思う。

嬉しかった、、、といえば、僕の最初の記憶は、(どっちが先だったかわからないけれど)たぶん3歳の頃。一つは、母の背中で爆泣きをしていた記憶(なにか凄く怒られた、確か、デパートの食品売り場で、積んであったキャラメルとかを、母の背中越しに掴んで持ち帰ったのを見つかった)。もう一つは、浴槽で膨らんだお腹を見せて「もうすぐ弟が出来るよ」と嬉しそうだったこと(僕もきっと嬉しかった)。
人の記憶には、辛いことと、嬉しいことが、焼き付けられるのだと思います。

話は全く変わるけれど、、、。一昨年の夏のことだったかな。福生駅前の公衆電話で電話をかけようとしていた時、(たぶん80歳をかなり超えた)お婆ちゃんが、手押し車につかまって、よろよろと電話ボックスに近づいてきた。一目見て、尋常じゃぁない体調であることがわかりました。電話を掛けたいのかな?と思って、代わってあげることにしました。凄く、嬉しそうでした。

でも、受話器を取ることすらできません。「どこにかけたいのですか?代わりにかけてあげましょうか?」。おばあちゃんは、一生懸命、僕に電話番号を伝えようとするのですが、数字が途中までしか出て来ません。そのうち倒れてしまいました。カンカン照りです。10mほど先の日陰のある場所まで負ぶって移動し、他の通行人に助けを求めました。中国人の女の子と、欧米人の男性が応じてくれました。一人は119番に電話をかけ、一人は駅の反対側の交番に通報に行ってくれました(非番中でした)。

二人にお礼を言って、お婆ちゃんに付き添って救急隊を待ちました。なかなか来ません(それ以前に、電話での救急要請が非常に難しかった、お婆ちゃんの状況や、通報に至った経緯、お婆ちゃんと僕の関係、等々を根掘り葉掘り聞かれ、受諾をしてくれるまでにメチャ時間がかかった)。お婆ちゃんは、すでに意識を無くしているみたいです。

10数分経って(もっとかかったような気がする、その間、タオルに浸した水を飲ませたり、負ぶってより安全な場所に移動したり、僕なりに懸命に頑張った)、やっと救急車が到着しました。お婆ちゃんを救急車の中に移して、緊急の延命処置を始めました。かなりの危険な状態にある、とのことでした。改めて僕とお婆ちゃんの関係を聞かれました。

僕:「無関係です」

救急隊員:「じゃ、あなたは帰ってください」

僕:「いや、心配なので結果がわかるまで待っています」

スタバにパソコンなどを置いたまま電話を掛けに来て、早く戻りたい、とも思うのですが、お婆ちゃんが心配で、そんなことは言っていられない。

やがて、搬送の病院が決まりました。僕も付き添います、と言ったのですが、断られました。それじゃ、どこの病院か教えてください、と言ったら、それも断られました。

この時点で、お婆ちゃんの身寄りは判明していないようです。だったら、猶更、一緒にいてあげたいです。「電話を替わってあげましょうか?」といった時の、あの嬉しそうな顔が頭に焼き付いています。どうにか助かってほしい。でも、もしもの時は、最期に会って会話した人間は僕です。横にいてあげるのは、人間としての責務だと思っています。

救急隊員の方は「どうしても結果を知りたかったら、福生消防署の救急センターに電話をかけて聞け」と言います。

一時間ほど後に、電話を掛けました。やはり、搬送先の病院名も、結果も教えて貰えません。それどころか、せせら笑うような受け答え。

猛烈に腹が立ってきました。スタバのスタッフに聞いたら、消防署は駅の反対側、5分ぐらいのところにある、というので、直接行ってみることにしました。

ここから先は、話すのも躊躇うほど、信じられないような対応。このブログを読まれるかたは、「福生消防署・救命センター(正式名は違うかも知れない)の所長」の存在を、覚えておいて欲しいです。

露骨に人を見下す態度、言葉。まるで僕を精神異常者のクレーマー扱い(その露骨さの程度は、所長が引っ込んだ後、周りの方々が僕に「いくら何でも酷すぎますね」と同情してくれたことでもわかります)。

お婆ちゃんの回復、心安らかに、、、と、願うばかりです。救急隊員の方々(特に所長さん)は、許せません。「正義の味方」(自分でそのようなことを言っていました)かも知れないけれど、貧しい心を持った人たちだと思います。

*あとでU氏にその話をしたら、今の世の中、それが当然なのだそうです。仮に僕が倒れてU氏に連絡が行ったとしても、すぐに駆け付けることはできない。よしんば可能だとしても、僕との関係を証明するために、様々な手続きを経てからでないと、実行できない。

貧しい世界です。まあ人々が(結果として)その貧しさ(ワクチンとか冷房とかに頼ることも含めて)を求めているわけですから、仕様がないですが。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

関連する? 話題を追記しておきます。

米中で、互いの領事館閉鎖。

僕の理解での、大使館・領事館の役割。

その国に滞在する自国民の手助け・便宜を図ること。

自国にとって有意になるように、対外国との関係を築いていくこと。

ざっくり言えば、そんなところではないかと思います。

でも、最初の一つについては、(これまでにも何度か書いたように)多くの人が誤解しているように思います。

「完全な個人」は、助けてもらえませんよ。(たとえ不可抗力で)何が起ころうとも、「身元引受人」がない限り、相手にしてくれません(せいぜい電話連絡ぐらい)。

パスポートの最初に記されている、「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。」は、対外国への要請であって、自国の大使館・領事館員に向けての指示ではない、ということ。

二つ目。主たる役割は「情報を得る」ことでしょうから、見方を変えれば、「スパイ活動」と、似たり寄ったりと思うのですが。もちろん、合法か非法かの問題はありますが、それぞれの国で法解釈は異なるわけで。「国際法」とかも、すべての国が共通認識しているのでしょうか?

(もちろんメチャ幼稚な考えであることを承知の上で言いますが、笑)、スパイ活動云々について、「あまり目くじらを立てなくてもいいのではないか」というのが、無知無能な僕の想いです。

個人情報にしろ、国家機密にしろ、そんなに大事なものなんですかねぇ~。みんなで共有すりゃ良いでしょうに。








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青山潤三日記 2020.7.25 ②

2020-07-25 20:31:57 | 香港デモ、新型ウイルス、日記




来月5日から、年内いっぱい、一文無しの生活がスタートします。最悪、餓死です。

正直、(その心配で)この一か月パニック状態になってて、精神状態も最悪です。といって、鬱になったり、他人に迷惑かけたりすることはないので、その心配は無用ですが。もっとも、矢継ぎ早のブログ投稿で、あや子さんと三世は大変でしょうし、、、それと、半ば鬱憤の標的とされている(笑)U氏をはじめ、読んでくださる読者の方々も辟易としていることと思いますけれど。

ひと月前までは「中国蝶類図鑑」の作成に没頭していたのですが、、、丸一か月間滞ったままです。一文無し生活突入を控えての恐怖心で、集中が出来ない。それと、モニカの梅里雪山探訪で「中国の蝶図鑑」に新たな資料を追加できると期待していたのが、ご破算になってしまったのもショックです(モニカのせいじゃないので、、、)。更に、某セミの愛好家(研究者?見知らぬ人)からの心無いヘイト。心が折れます。

早く、「中国蝶類図鑑」の作成に没頭したいです。

主治医の先生の話では、「水だけで一週間は生きられる」との事だったので、8月中旬ぐらいまでは水だけ飲んで部屋に蟄居し(自室内では使用不可能になってしまうインターネットでの外部との連絡も経って)「中国蝶類図鑑」の作成に没頭しよう、とかも考えています。

とりあえず、「社会の窓から」スタート一周年ということで、そこに紹介できなかった(「あや子版」だけに紹介した)去年の夏のギリシャ滞在記を、再紹介しておくことにします(オリジナルの写真は一部しか手元に残ってない、それと、「社会の窓から」には写真の貼り付けが出来ないかも知れない、その場合は、やっぱり「あや子版」のほうをご覧ください)。

「エーゲ海のほとりで~老人と美女」-1 (8月2日)

「エーゲ海のほとりで~老人と美女」-2(8月3日)


「エーゲ海のほとりで~老人と美女」-3(8月4日)


「エーゲ海のほとりで~老人と美女」-4(8月6日)










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青山潤三日記 2020.7.25 ①

2020-07-25 20:09:59 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


青山潤三日記 2020.7.25 ①

例えば(あくまで「例えば」です、笑)、某雑誌編集者のU氏(彼の編集する記事の読者の大半、および周辺の人々)は頭が良くて、僕(の作品の読者、およびその周囲の人々)がバカであることは、事実だと思います。だから、仕事は貰えないし、野垂れ死にするしかないわけです(そこに至る詳細は略)。

でも、僕は、青葉容疑者のようなことはしないし、三浦春馬さんのようなこともしません。理由は、僕にその資質が備わっていないからです。ということは、そういった資質を持ったうえ、僕と同じ境遇にある人々が、多数いるかも知れない、ということです。そのことを、社会やマスメディアが(無論個人個人も)真摯に考えるべき時が来ていると思うのです。

「あや子版」「社会の窓から」旧記事の再掲載の機会に、U氏が頭からバカにして(「余りにもクオリティが低すぎる」と)見向きもしてくれない、しかし僕自身はある程度「自信」と「責任」を持って執筆した、2つの作品を再掲載(一つは再々掲載)しておきます。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

総選挙「一票の格差」について
「青山潤三の世界・あや子版」2010.1.12-14 掲載
(1990年代に記述したオリジナルの縮小型、2010年代後半にも再掲載したと思う)

20年以上も前から、たまらなく不思議に思い続けていることがあります。そのうち誰かが言いだすだろうと、自分で発言することは控えていたのですが、いつまでたっても誰も言及する気配がありません。政治の話です。政治音痴の僕が言っても、誰ひとり耳に留めてはくれないでしょうが、、、。

“一票の格差”についてです。人口比率と議員定数の問題。人口の多い自治体(大都市圏)と少ない自治体(地方)で、議員定数が同じであったり、大幅な格差があったりする場合が少なからずある。その不公平を是正しよう、という動きです。これが僕には分からない。

“対面積比率”では、どうしてダメなのでしょうか?

僕の地元の兵庫県で言えば、人口過疎地域の丹波・丹後・淡路の一部は、阪神・播磨の人口集中地域に、僕と縁の深い鹿児島県なら、屋久種子や三島十島や奄美諸島は、県本土の各都市部に、それぞれ選挙区が編入されてしまっている。つい先日の新聞には、人口の少ない鳥取(60万人)島根(70万人余)両県を、併せて“定数1”の選挙区にしてしまおう、それでも同じ定数1の滋賀県や沖縄県より人口が少ないのだから、という意見が掲載されていました。

個々の選挙区における政治家の存在意義は、突き詰めて言えば、その選挙区に住む人間一人ひとりの要求(欲望と置き換えても良い)に、どれだけ多く応えられるか、ということなのだと思います。そのためには、「地域の人口と政治家の数の関係」が問題になってくるでしょう。

しかし、人間を育むのは、人と人の関係だけではない筈です。人の住む“空間”そのもの、それも人の生活とは直接関係のない、“ただの山野”(おおむね“自然環境”と置き換えても良いでしょう)の重大性を、忘れてはいないでしょうか?人間の思惑とは切り離して、人間の住む“空間”のあるべき姿を考えていくことが、究極的には、一人ひとりの生活の“向上”に還元される、それを司ることこそ、政治の使命ではないのか、と僕は考えるのです。

“人と自然環境との共存”といった言葉を、近頃よく耳にしますが、「政治=対人間」といった概念が、全ての人々の念頭にあるらしき現状では、すぐ目の前に見える自分たちにとっての利益だけを考えた、嘘っぽい掛け声としか、僕には感じられません。「人の少ない広い空間に、国政の財力・労力を注ぐのは、税金の無駄使いである」と。でも、本当に“無駄”なのでしょうか。物事全て、長い目で見れば、直接の成果や利益とは切り離した、(一見意味がなさそうに感じる)基本的な対応が重要になってくるはずです。

それ以前の問題として、過疎であることは、悪いことなのでしょうか?

話が少々逸れるかも知れませんが、「人間としての幸せは“家族”の存在を抜きに考えられない(“女性の使命は子供を産むことにある”といった話とも直結するでしょう)」とか、「引きこもりは良くない、もっと社会に順応しなくては」とか、、、、。本当にそうなのだろうか?と頭を捻ることが多すぎます。
「“障がい者”の“害”は、ネガティブな印象を与えかねないので、その漢字を使うのは自粛しよう」など、差別に対して病的なほど過敏・過剰に反応する日本の社会が、根本的な部分での差別意識に対しては、余りに敏感であること、呆れるばかりなのです。形として現れた、意識に上る“差別”は、本当の意味での差別ではないと僕は思っています。形に現れざる、部外者(少数者)に対する“無意識的な排除意識”こそが、問題なのではないかと。

話を元に戻し、かつ100歩譲って、過疎の地に活気を取り戻そう、という意見に耳を傾けるとしましょう。ならば、広い面積に人口の少ない自治体にこそ、政治家の“数”と“労力”を注ぎこみ、様々な方向から考えを練り、その土地に適応した企画を導入し、独自の発展に結びつけていかねばならぬのではないでしょうか?

僕は自分自身が人間ですから、“人が大事”という概念を全面否定するつもりはありません。それならばこそ、“人と自然”の、眼前の利益とは切り離しての、根源的な次元での関係性(無意味であることの大切さにも繋がります)を、もっともっと真剣に見つめなおさねばならぬと思うのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本人への警告。私たちは一体何処に行こうとしているのか?
(2018年8月6日にU氏に送信した、ボツ原稿の最初期型)

3日間ほど日本に滞在するため、香港から深夜の飛行便で早朝空港に着きました。電車で移動し、スタバでインターネットのメールなどをチェック(その6時間余り冷房の効いた空間にいたわけです)、さあ久しぶりに自分の住むアパートに戻ろうと昼過ぎにスタバを出たとたん、強烈な日差しと熱気に、倒れそうになってしまいました。「そうか、これが噂の熱中症なのか、、、、」不覚にも納得してしまった。

最寄りの駅から部屋(冷房、扇風機なし)までタクシーで帰るとき、よほど恥を忍んで病院に直行しようかと考えたくらいのダメージです。冷房を拒否し、猛暑による「熱中症」の否定記事を書いている本人が“「熱中症」で死んでしまった記事”などが出れば、みっともないことこのうえありませんから。

もちろん、徹夜が主原因であることはわかっていたので、部屋に戻ってひと眠りして、ことなきを得ました。

この体験で、2つの事実を、改めて確信しました。

一つは、日本中が冷房漬けになっていること。そりゃあ、これだけ冷房漬けの日常の中にあれば、夏の外気が堪えるのは当然です。むろん国外(中国南部や東南アジア)でも要所要所に冷房はありますが、日本は極端で徹底しています。

もう一つは、確かに暑いこと。いや、暑いのは夏だから当たり前です。気温だけならば、筆者の主要行動圏の中国南部やタイやベトナムのほうが、上だと思う。

ただし、うまく言い表せないのですが、日本の(殊に大都市圏の)暑さは「質」が異なるような気がしてならないのです。

それは(あくまで筆者の感覚ですが)今に始まったことではないと思います。筆者が1980年代前半に拠点にしていた屋久島の南部平地の夏は、気温だけで言えば東京を遥かに凌駕する暑さでした。でも、決して不快な感じではなかった。東京や関西都市圏の暑さは、(少なくとも筆者にとっては)体に馴染まない、不自然な暑さのように、その当時から感じていたのです。

「熱中症」の要因を、「冷房漬けの日常」+「不自然な暑さ」と仮定してみましょう。

まず、冷房の普及率についてチェックしてみました。
http://www.garbagenews.net/archives/2058711.html

1961年に、市販のクーラーがスタートします。70年代後半になって普及率は急上昇し、80年代初期には50パーセントを超えます。そして2000年代以降は、90パーセント台を保っている。

1960年以前は、クーラーはなかった訳ですから、現在60歳代以上の人は、多少なりとも幼少時に、クーラーなしでの生活を経験していることになります。

言い換えれば、60歳以上の人でも、(仮に50パーセントを普及がなされたという一つの基準に置けば)この40年間ほど、例えば60歳だと20歳頃から、80歳だと40歳頃から、すなわち、人生の半分以上を、好むと好まざると、身近にクーラーのある生活を、強いられていることになります。殊に、この20年は、普及率9割前後ということなので、クーラーを完全拒否して、クーラーのない部屋に籠りきっている人は別として、通常生活を行っている限り、クーラーを避けることはできません。

次いで、暑さ(気温)の推移をチェックしてみましょう。
http://zatutisiki.com/1606.html

30年前(1980年代)と現代(2010年代)の10年間の、東京における8月の気温の比較です。

確かに、全体として捉えれば、やや高くなっているのは事実です。「最高位気温の平均」が、1.4度高くなっています。この数字を、「大した差ではない」と見るのか、「凄く暑くなった」と見るのか。

様々な測り方が示されていて、この10年は、「最高気温の最高」が高くなった年が多いのですが、全体としては、10年間平均で見れば、ほとんど変わっていません。

年によりばらつきがあり、1980年は記録的な冷夏だったので、それを除外すれば、さらに平均値は近づいてきます。

また、最も新しい資料のある2017年と、その30年前の1987年の比較では、「最高気温の平均」は、むしろ昨年の方が30年前よりも低く、「最高気温の最低」も、昨年の方が低いのです(10年間平均でも2010年代の方が低い)。去年も、「異常な猛暑」と言われていたように思うのですが、数字の上では、そんなことはないのですね。

この記事を書かれた方も、最近の夏は30年程前とくらべると暑くなっているけど、気温だけを見ると思っていた程ではない と、強調されています。

明らかに言えることは、2つだと思います。
●「最高気温の最高」は、最近の方が、かなり高い。
●全体として見れば、気温的には、昔も今も大した差はない。

①をどのように捉えるか、によって、判断は異なってくると思いますが、巷に言われているように、「近年の夏は異常な高温」とは思えません。

「全体として僅かな上昇」と「最高気温の突出傾向」。その2点で、異常なまでの猛暑体感を得、実際に熱中症にかかる人が増えている(亡くなる方も少なくない)という事実(データへの意見 後述)。

近年の猛暑の正体=冷房による体感的差+暑さの質の違い。

後者については今のところ謎としか言いようがないのですが、まさか、冷房が生み出した要因と、案外同じ根っこで繋がっている?

暑さの阻止のための手段としての冷房の発明と普及。
→それによる不自然な暑さの増殖。
→さらなる冷房の需要と徹底。
→さらなる不自然な暑さ。

実際、命に係わる事態まで来ているわけだから、今更冷房をやめよう、というわけには行かないでしょう。

でも、日本人のみんなが、「近年は異常なほどの猛暑」と感じているのでしょうか?

少なくても、筆者は全然そのようには感じていません。昔も今も夏は暑いです。それだけ。

ほとんどの人が「昔と比較して異常な猛暑」だと感じていることは事実であるとしても、同時に「数字上は大した変化はない」ということも事実です。そして、筆者もそのような変化は感じていない。

筆者と多くの日本人の違いは、どこにあるのでしょう? 筆者は、昔から、冷房大嫌い人間です。夏は団扇と打ち水と木陰。せいぜい扇風機を使うくらい。

それと、毎年屋外で昆虫や野生植物の調査・撮影を行っていて、70歳になった今年も、ずっと炎天の下を歩き回っています。

中国や東南アジアの田舎の僕の生活圏の周辺では「熱中症」なんて言葉は聞いたこともありません。

永い間クーラーに慣れ親しんで、クーラー無しの生活は出来なくなってしまった、現代日本人特有の現象ではないでしょうか?

痛み止めを多く飲み続けていると、いつの間にか少々の量では効かなくなって、そのうちに、にっちもさっちもいかなくなってしまうことと、似ているような気がします。

藤部文昭氏という方の、興味深い論文があります*。
https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/2013/2013_05_0015.pdf

「熱中症」に関する時代ごとの傾向について、非常に詳細なデータが示されています。ここでは全部についての紹介はスペース的にむつかしいので、とりあえず「表1」に注目してみましょう。

一つの顕著な傾向が読み取れます。1909年から2011年にわたる100年余のうち、1960年頃を境に、その前後の50年間で、対照的な傾向が示されているのです。

クーラーが出現した1961年以前には、子供(14歳以下)の死者が、老人(60歳以上)の死者数を大きく 上回っています。クーラーの出現以降、子供の死者はほとんどなくなり、老人が主体を占めます。

というよりも、1960年代から1990年代半ばにかけては、熱中症による死者数自体が、ごく少数のまま推移していきます。

しかし、クーラーの普及がほぼ完全に定着した1990年代半ばから、熱中症による死者数が、一気に増えて行きます。増えた分は、老人です。

*↑注(2020.7.25):僕の原稿はボツになったのですが、その後、「現代ビジネス」に、この教授による執筆記事が発表されました。僕はU氏に「だったらその前に“青山さんの原稿は載せずに、この教授に原稿を頼んで載せる”と一言報告してくれればいいのに」と言ったのですが、「いや、まったく偶然、青山さんからの原稿を受け取った翌日に、この教授の書いた論文の存在を知って、別個のルートで原稿を頼んだ」と。、、、、、全くの偶然ね。信じるしかないのですかねぇ。

一方、気温自体は、この100年間に(少なくても数字上は)わずかな上昇しか見られません(傾向として、後半50年は、高い年と低い年の振れ幅が大きくなっている)。

夏の暑さは、100年も昔から(おそらく特に生まれつき虚弱な体質の)子供達にとっては大敵だったはずです。クーラーの普及によって、それが救われたのです。

1990年代半ば頃までは、必要最小限なクーラーの利用によって、冷房も、自然の風も、その時々に応じて、自由に選べる状況だったのです。そのことで、熱中症自体の発症も、最小限に抑えられていた事になります。

ところが、この20年間の、ほとんど完全に義務付けられたごとき、クーラーの完備。好むと好まざると、「クーラーのある日常」から、「外気の異常」に接したとたん、体に変調をきたしてしまう。本来ならば、 前者が「特殊な状況」、後者が「日常」のはずだったのが、現実的には立場が逆転してしまっているのです。

今や、都市(生活空間)の構造事態が、クーラーの完備を前提として構築されている。加えて、おそらくは クーラーの使用(その排出熱気)に基づく、数字には出にくい気温の質の変化。クーラーを拒否する老人達は、行き場がなくなってしまいます。

将来、今の若者たちは、もし何らかの原因で、クーラーがなくなるような事態になれば、生きていけなくなってしまうでしょう。

子供たちは、夏に昆虫採集などをすることが、出来るのでしょうか?
大人たちは、本物の「大自然」に接する旅行などが、出来るのでしょうか?

「コンパクトクーラーを持ち運びながらの大自然の探検」、、、滑稽な状況になってしまいそうです。

それ以前に、夏は戸外には出ず、クーラーの効いた室内で大人しくしていることが、常識、いや日本人としての義務みたいになってしまうのかも知れません(もしかすると、もうなっている?)。

考えてみれば、とても怖いことだと思います。

「熱中症」の問題は、別の角度から見た、日本の危機でもあるのです。



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青山潤三日記 2020.7.24 ④

2020-07-24 19:48:35 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



あや子さんとチエちゃんに申し訳ないので、阪神ネタはやめるつもりでいたのですが、中谷選手、待望の今シーズン初先発です。「祝い」ということで、、、。

それで、デイリースポーツのネットコラムにコメント入れようと思っていたのだけれど、他の方々が僕の思いを代弁してくれています、、、。どうなることやら、楽しみです。

tohさん
>一番を陽川にしたのは、8番の植田からスタートして出塁、盗塁してからの青柳バントで三塁までいって、犠牲フライで点取るというシナリオのために見える。ハマると止まらなくなるけど、一番の問題は植田が塁に出られるかだ。

hirさん
>陽川が長打で出塁。北條の右打ちでまず1点。そしてサンズ大山ボーアの連続アーチ。動揺した投手から梅野がヒットを放ち、とどめは中谷の出会い頭。植田には何を求めればいいのか。エラーで出塁か。

yahさん
>いやーぁこの阪神打線は、ハマれば一発攻勢で大勝、下手したらポップフライの凡打の山。ポジティブに応援するしかないか。

upoさん
>陽川、北条、中谷、植田、とりあえず3連戦通して使ってみてほしい。このチャンスでもしダメならそれまでの選手と言うこと。今後はもう使わなくていい。半分でもモノになってくれれば…。

atlさん
>中谷と植田というしっかり少ないチャンスでアピールした選手にスタメンの機会を与える意図が見えて、久しぶりに観戦がワクワクするオーダー。

kenさん
>糸井と福留がスタメンに入らなかったことで中日がほっとしてるかもしれない。陽川、中谷という名前を見た時に大丈夫かなというのが最初の印象だ。打線はともかく青柳に踏ん張ってもらいたい。

morさん(↑上への返信)
>>本当にホッとしてるなら間違いなく負けるよ。あまり舐めない方が良い。

hdcさん
>うまく行くのかどうか、まったく未知だが、こういう打線を、一度、見てみたかった。

saiさん
>こりゃあ繋がらん。これなら全員ホームラン狙った方が良い。

dpsさん
>阪神ファン待望の、陽川&中谷じゃないですかぁ。矢野監督はよく分かっていますねぇ。

staさん
>中谷を使って欲しいと思ってたから、良かった。

kstさん
>一番センター江越使え。

criさん
>こりゃまたなんとも言えない打線だこと(笑)。

改賊グースさん
>今日スタメンは、個人的にはありですね。陽川もずっとヒット打ってるし、中谷、海ちゃんもヒット打ってるし、はまれば面白いことになりますよ。

三日月さん
>中谷、スタメンチャンスをモノにしてくれ!

frwさん
>中谷! たのむぞ!

、、、、、、どうなりますことやら、、、、。


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青山潤三日記 2020.7.24 ③

2020-07-24 15:17:00 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


青山潤三日記 2020.7.24 ③

人類、詰まってますね。

南西諸島の一つで、そのほぼ中心に位置する「与論島」。小さな平坦な島(南西諸島中、面積で21位、標高では40位前後)ですが、観光地(マリンレジャー)としては最も有名な島だと思います。それゆえ、幾つかの無人島を含め、南西諸島の大半の島に行ったことのある僕も、この島にだけは上陸したことがありません(乗った船は度々寄港しているけれど)。 

こんな記事、ヤフーニュースのトップコラムに見つけました。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6366333

コメント読んでて、なんか、ため息がでます。

言ってることは、みんな「正論」だと思いますよ。でも、そうじゃないんだ、と。

ここにコメント寄せてる人たち、どうすれば良いと思っているのでしょうか?

多分「偉い人たちが (ワクチンを作るなどして)“コロナ”に打ち勝ってくれる」ことを前提で、すべてを描いているのでしょうね。

僕は、go to賛成派ではないです。反対派でもないです。田舎に(理由もなく)ノコノコ出かけるべきではない、と思いますが、出かけてはいけない、とも思いません。

一言で言えば、僕の主張は、「“コロナ”なんて無視しろ」ということになるんでしょうね(まあ、無視はいかんでしょうが、ほかの「脅威」と同程度の注視で良い)。

といって、それは「経済を回すため」ではありません。正反対の立場です。

無視をする(視点を全く変える)ことで、本質、ひいては、我々は何をすべきか?が、見えてくる。

僕の意見に一番近いのは、安倍昭恵さんの鎌倉の友人の医師の言(↓要旨)。
「コロナを愛してください、その瞬間、消え去ります」
ということに尽きます。
それを、「スピリチュアル」という観点でないところから、捉えること。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

今年一年間の日本の死亡者率の統計が出たとき、「新型」肺炎ウイルスは、どれだけ、どのような形で 関わっているのか。他の要因の死亡者率への関わり方との比較の上で、きちんと示してもらうことは、できるのでしょうか?

/////////////////////////

全く別の話題。

中国成都の米国総領事館閉鎖、のニュース。もちろん、米国ヒューストンの中国総領事館閉鎖の報復措置です。このあたりの日本の総領事館は重慶にあるのですが、アメリカは成都だったですね。

成都はチベットへの入り口なんで、いろいろと大変でしょう。僕は、どっちの味方をすれば良いのかな?





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青山潤三日記 2020.7.24 ②

2020-07-24 15:13:27 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



「路上生活者はコロナ*にかかりにくい」
という記事がありました。
(↑一度閉じたら、次に見つけだすことが出来なくなってしまったので、あとで紹介)
個々の指摘は僕の意見と相違するところもあるのですが、頷ける部分も多々あります。

*僕は自分ではこの「肺炎ウイルス」に対して、「コロナ」という語は(単独では)使いません。通常全く別の意味に用いられてきた普通名詞を、(独自の固有名詞を作ることなく)あたかも公に認められた固有名詞のごとく使用することに、この問題の、まやかしの象徴を感じるからです。

僕の持ってる辞書
コロナ=Corona
① 【天体】コロナ《太陽の光冠》
② 【電気】コロナ放電
③ 【建設】蛇腹の上部
④ 【植物】内花冠
僕が通常使っているのは、①と④です。

話を進めます。

「路上生活者」ではなくても、本質的な部分で彼らと親和性があるのは、まず僕です。

「ウイルス」の脅威に最も晒されそうな状況に置かれている。しかしなぜか「感染」していない(「検査をしてもらえない立場にあると」いうことも関与しているかも知れませんが、笑)。

このことは、以前から僕の言っている、「僕はすでに何年も前から、様々なウイルスに罹り続けていて、その都度抗体が出来て、それを繰り返しているので大事に至らない」(←医学的にはこの表現が正しいのかどうかは知りません)ということと関連性があると思います。

また、これも以前からずっと言っている「中国での状況」について。

「中国は(政府が)情報を隠蔽しているから信用できない」と言いますが、仮にそうであるとしても、実態はいくらでも伝わってきますし、中国と行き来している人間にとっては、隠蔽、あるいは偽の報道が溢れていることを込みで、ある程度の実態は把握できます。

不思議に思えてならないことがあります(上記した「路上生活者」や「僕自身の話」と相呼する話です)。

最初に、武漢での「人-人感染可能性」が発表されたときに、まず思ったのが、「中国の余りに低い衛生概念・環境の許では当たり前」「おそらく、あっという間にとてつもない数の感染者が中国全土に広がるだろう」ということです。中国の衛生概念・環境を知っている人からすれば、そう思って当然です。

しかし実際は、(他国との相対的な比較では)意外に抑えられている。たとえ、「隠蔽」したり「数の操作」が為されているとしても、です。本当は発表の10倍100倍の感染者がいる(それを言えばたぶん日本も同じでしょう、笑)のかも知れないけれど、見た限りそう(中国が突出して酷い状況に置かれていると)は思えないし、仮にそうであっても、「余りに酷い衛生」からすれば、(武漢の医療機関などを別とすれば)被害の程度が少なすぎる。

僕の感覚では、(比喩的にですが)日本での感染者1万人、死亡者100人と仮定すると、日本と中国の衛星上のバランスを考えれば(それに人口比を加えて)中国では、感染者10憶人、死亡者1000万人ぐらいになっていなければ、おかしいと思うのです。人との密接接触の回避、清潔(マスクや手洗いや各所の消毒など)を保つことなどで、本当に感染を防げるのならば、、、、。

日本との比較ではなく、アメリカやヨーロッパ(ギリシャしか知りませんが)と比べても、中国の「衛生」の酷さは、それはもう圧倒的です。

極論ですが、どうも、極貧生活者(をはじめとする悪条件下に置かれた人々)よりも、どちらかというと恵まれた環境にある人々のほうが、ウイルスの標的になっているように思うのですが、、、、?

ビル・ゲイツ氏曰く。

「ワクチンを完成し、ウイルスに打ち勝つことが、人類にとっての究極の目標」

そんなこと言ってると、早晩、間違いなく人類は滅びます。

僕は、(バカの一つ覚えで、笑)何度でも繰り返して言います。

自然災害対策(予知、防御の徹底)。

熱中症対策(冷房の完備)。

差別・自由の束縛への対策(批判、抗議)。

全部、間違っていると思います。少なくとも、それらを第一義に考えることは、、、。





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青山潤三日記 2020.7.24

2020-07-24 08:16:49 | 雑記 報告




読者の皆さんと三世(チエちゃん)に。

ブログ「社会の窓から」をスタートさせて、ちょうど一年が経ちました。

僕は、人の意見を結構まじめに聞くし、それをもとに取り組むときは、何も疑わずに全力で対していきます(皆さん信じようと信じまいと、笑)。

パソコンの利用を始めた2004年以前は、アナログ的手法で原稿やプレゼンテーションを作成し、直接メディアの方々と対面して仕事をもらっていました。例えば、その直近に刊行した単行本を例に挙げると、1997年に一冊(平凡社「世界遺産屋久島」)、1998年に2冊(白水社「小笠原の自然」/東海大学出版会「中国のチョウ」)、1999年に一冊(八重岳書房「屋久島花めぐり」、2001年に一冊(平凡社「新書:屋久島の自然」)、2003年に一冊(平凡社「図鑑:山の植物」)、、、と、曲がりなりにも仕事を続けてきました。またその期間、「毎日新聞」「朝日新聞」「東京新聞」「神戸新聞」などでの連載記事も書いてきました。

しかし、インターネットを使うようになった2005年以降は、そのような仕事が、パタッとなくなってしまったのです(この15年間の単行本刊行は2008年の岩波書店「新書:水と樹と岩の島屋久島」、新聞連載は2014年の産経新聞「青山潤三の写生」だけ)。

その分、インターネットを使ったブログと、パソコンによる「自主制作本」に力を入れだした。ブログに関しては、パソコンを使うようになった2005年度より、広島の神垣健司氏を通じて、あや子さんの手で、「青山潤三の世界・あや子版」を続けてきました。僕の意図は、何らかの収入に結びつけることだったのですけれど、結局のところ、それは叶いませんでした。「ブログを続けていれば、いつか支援者が現れる」という思いで全力で取り組んできたのだけれど、15年経つ今も、ほとんど誰一人支援者は現れません。

5~6前頃から「これではヤバい」と焦りだしたわけですが、時すでに遅し。結局、「虻蜂取らず」になってしまいました。

そのような状況の許、昨夏、三世が、「新しいブログやれば広告料が入る、すぐ始めましょう」と言い出した。

「そんなの駄目だよ、今まで散々失敗してきてるし、うまくいくわけがない」と僕。

しかし三世の言うに、「ひと月続けていれば広告料が入る」。デジャブのような気もするのですが、、、まあ、15年前とは状況が違ってきているかも知れません。と思って、再度、一から取り組んでみることにしたのです。原則、欠かさずに毎日続ける。

結果、一年経ったのですが、一銭も入ってきません(笑)。

僕はね、三世には感謝してるのですよ。バンコクでもアテネでも、ひと月間食わせてくれたし(一宿一飯の恩義×100ぐらい)、往復の飛行機代まで出してくれた。むろん、僕のほうも不満(約束が違う、という想い)は山ほどあるのだけれど、まあそれ言いだすと水掛け論になるので、やめましょう。

なんだかんだ言いながら、今年で4年間(それを考えると、モニカの9年間=継続中、それぞれ立場は違うけれど、あや子さんが13年間ブログを続けてくれていることや、以前友子さんと18年間ほぼ毎日会ってたことも、凄いと思う)見捨てずにいてくれることには、素直に感謝している(もっとも、僕のほうも三世を見捨ててないので、それなりに感謝して貰わねばなりません)。

「約束が違う」というのは、具体的に言えば、「仕事」に対する考え方・取り組み方の違いに収斂されます。「言うのはやめましょう」と書いたけれど、少しは言わして貰う。

例えば、三世からの最新のメール(昨日)は、「新しいパソコン買って、テレビ電話しましょう、一緒に話もできるし、イベントすると小遣い稼ぎになります」。

金ないのに買えるわけないでしょうが。

それに、今まで(特にこの一年間)いったい何度、三世提案の「取らぬ狸の皮算用」を繰り返してきたことか(まあ、僕が三世に「丸投げ」してしまってることが、そもそも悪いのかも知れませんが)。

「ブログ」「ツイッター」「フェイスブック」「インスタグラム」「ノート」「ギリシャの蝶観察ツアー」「クラウドファンディング」、、、、どれも、始めたままほったらかしで全く機能していない(「ユーチュブ」は三世の天敵K氏主導なので手伝ってくれないし)。

「テレビ電話イベント」による小遣い稼ぎ、、、、、デジャブです(笑)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まあ、それはともかく、「ブログ:社会の窓から」スタート一周年です。ここらで、改めて方向性を考える必要があります。

毎日、ジョナサン(たまにイオン、スタバ)でパソコンに向かって何をやってるかというと、7~8割方「中国の蝶」の作成への取り組みと、その資料のチェック(ただし、この数週間、いろいろと落ち込むことがあって、進んでいない)。1割がアメリカン・ポップス(100頁を超す「大作」が幾つも出来上がってるのだけれど、どれも99%完成の段階で最後の〆を怠って放置のまま)。残りの時間で、インターネット・ニュースを見たり、ブログ記事を書いたりしているわけです。

それ以前に、(既述したようにクレジットカードがないと自室ではWi-Fiが使えないので)、いくつか仕事を打診している出版社などからの連絡待ち、というのが、本来の目的です。連絡があったときに、すぐに対応できるようにしておかなければならない。

でも、それ(連絡)がいつまで経っても来ないのですね(笑)。その代わり、ヤフーからの広告が毎日どさっと来る。一回一回「迷惑メール」の指定して(ヨドバシカメラのスタッフに教えて貰った通り)来ないように操作しているのだけれど、一向に減らない。これは結構ストレスかかります(広告以外のメール、例えばチエちゃんからのメールが来たりすれば、精神的にすごく助かる)。

いずれにしろ、もうちょっと有効的に一日の時間を使わねばなりません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ブログ「社会の窓から」の一年間を、振り返ってみます。

スタートの回は、一年前の7月24日、日本から香港経由でアテネに行くのに、モニカが間違えて韓国経由香港行き(それもよく知らない町の空港で一日滞在)のチケットを買ってしまったという、悲惨物語でした(ちなみに、実質僕の韓国初体験、70歳過ぎて、韓国もヨーロッパも初体験という、なんだかなぁ、、、の「世界中を駆け巡っているのが売り」のライターの話です、笑)。

*三世へ。「勧告食道」→「韓国食堂」は未だ訂正されてませんよ!

その後、香港、中国、ギリシャ、香港、、、という順なのですが、8月1日から一か月間のギリシャ滞在中の記事は、「社会の窓から」のほうには、全く発表していません。簡単な纏め(「エーゲ海のほとりで~老人と美女:全8回」)を、「あや子版」のほうのみに紹介してあります。「社会の窓から」のほうでは、三世の顔出しNGみたいな雰囲気だったので、、、。

今はもう(たぶん)解禁になっているはずですから、改めてこちら(「社会のまどから」)でも再掲載しておくことにします(ジョージに関しては名前を出すのもNG?みたいな雰囲気だったのですが、どうやら今はO.K.みたい、だったら「ジョージ写真集」みたいなのをアップしたいのだけれど、写真は例のHDDに入ってるので、それを受け取ってからでないと出来ません)。

*あと、ジョージには、酒を飲んでのドライブだけは止めて貰いたい(少量なら良いですが)。どれだけ心配しているかを、しつこいぐらいで良いので、伝えておいてください。

そんなわけで、去年の夏の「社会のまどから」の記事は、ギリシャから香港に戻るところ(「中東の上空で香港デモを考える」)から再スタートしています。そして、その後しばらく、香港デモの話題をアップし続けたわけです。

去年の暮れごろからは、「あや子版」と「社会の窓から」に、全く同じ内容のブログ記事をアップし続けています(少しでも多くの読者に伝えたいという思いで)。

ということで、「社会の窓から」のほうにも、改めて去年の夏の「ギリシャ滞在記」を再掲したいと考えていたのですが、オリジナルの大半は修復HDDに収納されているので、難しい。でも、手元にあるHDDの中をあちこち探したら、幾つか(2/3ほど)出てきました。

それらを再構成して、明日、アップする予定です。

逆に「あや子版」のほうには、帰路の「上空で思うこと」の、写真だけを取り上げて紹介しておくことにします(文章は長いので割愛、興味のある方は昨年9月の「社会の窓から」の記事をご覧ください)。こちらも明日以降予定。

*「社会の窓から」のほうには、写真張り付けるのが(もしかすると)困難かも知れないので、一応「あや子版」を再紹介しておきます。

「エーゲ海のほとりで~老人と美女:第1回」 2019年8月2日
https://blog.goo.ne.jp/gooaojyun/e/aa415cdf1b5bdd12fc74c336b25f2fd3

「エーゲ海のほとりで~老人と美女:第2回」 2019年8月3日
https://blog.goo.ne.jp/gooaojyun/e/90d84c8ef37b76f56c44cf18f7d6b9f9

「エーゲ海のほとりで~老人と美女:第3回」 2019年8月4日
https://blog.goo.ne.jp/gooaojyun/e/69287470493468ec2ec376fb171075ec

「エーゲ海のほとりで~老人と美女:第4回」 2019年8月6日
https://blog.goo.ne.jp/gooaojyun/e/c63238865cdeca7863a665c2339dedd0

「エーゲ海のほとりで~老人と美女:第7回(並びを訂正)」 2019年8月8日-10日
https://blog.goo.ne.jp/gooaojyun/e/07eeddb28eea9cf25065788c4a798dd1

「エーゲ海のほとりで~老人と美女:第5回」 2019年8月11日
https://blog.goo.ne.jp/gooaojyun/e/85bf02dcc85b2c2cd3672bf533650d5b

「エーゲ海のほとりで~老人と美女:第6回」 2019年8月12日
https://blog.goo.ne.jp/gooaojyun/e/dc9b992027a1279e1dc9c1e6262be025

「エーゲ海のほとりで~老人と美女:第8回」 2019年8月14日-29日
https://blog.goo.ne.jp/gooaojyun/e/96624f00c59ddafb5b28ec708531ba16


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藤浪、ピレラに痛恨の満塁ホーマー食らったけれど、5回まで良く投げた、合格だと思います。

糸原脱離(小指骨折)は痛い。さんざん貶してきたけれど、本心では応援してたのです。大した事ないように祈ります。

なんだかんだ言って、大山は凄いですね。見直しました。エラーなんか気にせずに。

サンズ思いのほかの大活躍。ボーアも戻ってきて、マルテも戻ってくる。もしかすると優勝もありかも知れんですよ!(今日は負けたけど)

中谷4割、陽川3割。あとは高山と江越ね。






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