青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

「屋久島の植物~大和と琉球と大陸の狭間で PartⅡ」第一巻

2024-07-12 14:04:11 | 「現代ビジネス」オリジナル記事



「屋久島の植物~大和と琉球と大陸の狭間で PartⅡ」第一巻(240頁)が完成しました。前書きをブログに掲載しておきます。



はじめに



昔、TVで「アップダウンクイズ」というのがあった。正解するごとに椅子が登っていき、全問正解するとてっぺんでクス玉が割れて、ハワイにご招待!という趣向である。仲間内で都市伝説になっている回がある。当時アマチュア蝶研究者の第一人者(図鑑を沢山出していた) W氏が挑戦した。あと一問、というところまで漕ぎ着けた。番組側も出場者が蝶研究のオーソリティであることを知っているので、最後の一問は忖度して、蝶に関した(チョウ好きなら誰でも答えられるであろうはずの)問題を出した。曰く、「毛虫になるのは蝶ですか?蛾ですか?」 W氏、う~ん、と唸ったまま答えられずに時間切れ、あえなくハワイ行はおジャンになった。何処までが本当なのかは知らないが、まあそんな話である。



著者も、屋久島の植物のオーソリティであると自負している。けれど、「屋久島に固有種は何種?」と尋ねられたら、答える自信はない。敢えて言うなら、「△△大学のxx教授の見解では00種(自分は必ずしも賛同しないけれど)」と答えるしかない。「じゃあ、貴方は何種だと考えていますか?」と問われても、分からないとしか言いようがない。



野生の生物の世界は、とてつもなく多様で複雑だ。人間の都合で、そう易々とカテゴライズ出来るものではない。場合によっては、曖昧であることこそ、より責任を持った答えになることもある。屋久島の最大の魅力は、「多様性」ではなかったか? なのに、表向きは「多様性」を標榜しながら、ステレオタイプの(「縄文杉」「もののけの森」等々)対象に一極集中していく。「多様性」は、まるでファッションの一部のように、いかにも分かりやすく説明されて、深い考察は為されないままでいる。勿体ない限りである。



というわけで、本書では「固有種」という表現を出来る限り避けた(分布北限・南限の表現も曖昧に行った)。教科書的に決めつけた解釈を行うことは、「思考停止」と同義語である。様々な角度から光を当てることで、時には答えが逆転することもある。答えを示すことではなく、深く考察することに意義があると思っている。



一言で「固有」と言っても、概念は様々だ。例えば、島に隔離された生物に、多かれ少なかれ変化が齎されることは、当然ともいえる。たかだか数万年、いや、数千年、数百年、場合によっては数十年でも、安定的な形質の変異が起こることもある。そのような外圧に拠る2次的な変異集団であっても、その空間にしか存在しなければ「固有」ということになる。「固有」(他の空間の存在との相違)の程度に関わらず、厳密に「屋久島だけに固有」となれば、大いなる評価が与えられる、



一方、数百万~数千万年前から、祖先形質を引き継いだまま、他の集団との交流が為されず、現在に至っている生物もある。ただし、そのような生物の多くは、屋久島だけに固有と言うわけではなく、近隣島嶼と共通の「地域固有種」、あるいは本州や北海道、台湾や中国大陸など飛び離れた地に共通分布する「隔離分布種」である場合が多い。厳密な意味では「固有種」には相当しないわけである。



ネットで資料を調べていたら、こんな例に出会った。屋久島ではなく奄美大島なのだが、この島の(他に近縁な種が存在しない)究極の固有種であるヤドリコケモモ。確か環境庁のリストだったと思うが、カテゴリーが「広域分布種」となっていた。実は最近になって台湾の一角で、同一種と見做される集団が見つかった由。それでもって「固有種」から除外されてしまったわけだが、台湾と共通分布することに拠って価値が薄らぐわけではない。むしろ、興味が倍増するのだが、お役所的には、そのようにして「優劣」の答えを示さねばならぬのである。







台湾と共通と言えば、屋久島に於ける究極の固有種ヤクシマリンドウもそうである。この種の近縁群は、中国の奥地や東南アジアの山岳地帯に数種が分布しているが、ヤクシマリンドウとの間には形質上相当の差異がある。ところが、台湾最高峰の玉山頂上の岩壁に、ヤクシマリンドウそのものが生えている、という情報がある(筆者も写真を確認したが、答えを出すのは控える、様々な意味で、様々な可能性が考えられる)。それについては現時点で全く検証されていないのだが、場合によっては、究極の固有種から、広域分布種に転落(?)してしまうわけだが、むろん、そのことで存在の意義がこれっぽっちも薄らぐわけではないのは「ヤドリコケモモ」の場合と同様である。



堀田満(1935~2015)は、それらをひっくるめて「固有的植物」という表現をしている(それと対応すると思われるのが「雑草的植物」)。捉え方に拠れば、屋久島産の在来植物(その判断はかなり難しいけれど)は、全てが何らかの意味で(次元の異なる)「固有的」な存在ではないかと思える。



分布南限・北限についても同様。極端な話を言えば、解釈の仕方(種全体の中での屋久島産の位置付けの切り取り方)次第で、全く逆の答えが示されること(視点Aからみれば南限とされていたものが、別視点Bからみれば北限となるなど)もあり得るわけだ。それらの可能性も踏まえて、こちらも大雑把に「南限的」「北限的」という表記をしておく。



ちなみに初島住彦(1906~2008)は、南西諸島のフロラの区分を「北琉球(屋久島・種子島・トカラ火山列島)」「中琉球(奄美群島・沖縄本島)」「南琉球(宮古諸島・八重山諸島)」に三分割した。非常に理にかなった区分であり、筆者もそれに従う(詳しくは第4巻で述べる予定)。



さて、カテゴライズは避ける、と先に記したが、全く示さないでおくのも読者に対して不親切なように思える。そこで、大雑把に、(上記堀田満氏の私的提案に拠る「~的」表現を含み)独自の判断でおおまかな基準を設置してみた。



太字種:

固有的植物/純在来種/遺存・隔離的植物/重要分布(北限域・南限域の一部)種など、人為の影響に基づくことなく屋久島に生育している種。

細字種:

雑草(雑木)的植物/新帰化種/史前帰化種/国内帰化種/広域分布種(の一部)など、人為に拠る影響を基に、屋久島に存在する種。



高:高地帯/森:山地帯(中腹)=ヤクスギ林/照:低地帯、照葉樹林/里:人里周辺/渓:渓流沿い

/海:海岸沿い/逸:園芸・栽培植物またはごく最近の帰化(逸脱?)植物



(例)カンツワブキFarfugium hiberniflorum 渓 【(APG分類に拠る)キク科サワギク連】



形質の記述は原則として割愛した。草(樹)高、花(または装飾花・頭花・密集花序)径、開花期などについては、第4巻のチェックリストに、おおよその目安で示す予定でいる。



和名は、

原則としてより古くから利用されている名を優先表記=例:ヤクザサ(ヤクシマダケ)。

主な異名を()内に示す=例:ムラサキムカシヨモギ(ヤンバルヒゴタイ)。

著しい地域特徴を示す集団には新たな和名を冠する=例:アズキヒメリンドウ(ヘツカリンドウ)。

下位分類群を優先表記した場合は〈〉内に上位分類群名を示す=例:アマクサギ〈クサギ〉。

上位分類群を優先表記した場合は[]内に下位分類群を示す=例:オオジシバリ〔アツバジシバリ〕。





科の分類はAPG分類(分子生物学的解析に拠る分類方式)第2版を基に構成し、一部第3版の情報を取り入れた。掲載順は、基幹的分類群から進化的分類群の順に為されたAPG分類とは逆に、(あくまで便宜的な事情から)進化群→基幹群の順に遡って配置した。ただし、頁構成の都合上、必ずしも厳密にAPG分類順に沿わず、適時順を組み替えながら行った。



第1巻は、被子植物中最も新しい時代に出現・繁栄したと考えられる所謂「キク類Asterids」で纏めた。

キク科やキキョウ科から成るキク目と、周辺のマツムシソウ目(スイカズラ科など)、セリ目(セリ科、ウコギ科など)、モチノキ目(モチノキ目など)。シソ科やゴマノハグサ科から成るシソ目と、周辺のナス目(ナス科、ヒルガオ科など)、リンドウ目(リンドウ科、アカネ科、キョウチクトウ科など)。および、両者の基幹的位置にあるツツジ目(ツツジ科、サクラソウ科、ハイノキ科、ツバキ科など)とミズキ目(ミズキ科、アジサイ科)が含まれる。第2巻の所謂「バラ類Rsides」との移行群として位置づけられるナデシコ目(ナデシコ科、タデ科、ヒユ科、イソマツ科など)とビャクダン目(ツチトリモチ科など)は、便宜上、第2巻に編入した。



シソ目の多くの科はAPG分類によって大幅な組み換えがなされ、本書でもそれに従ったが、科の再編(分離・併合)は為されたにしろ、(一部を除いては)目単位での移動はなく、大雑把に見れば同じ一群(単一系統上)に置かれたままである(スイカズラ目やリンドウ目、ツツジ目に於いても同様)。従って、あまり拘る必要はないものと考える。



多くの種を紹介するキク科に関しては、連ごとに纏めて示した。コウヤボウキ亜科とアザミ亜科は単独連、タンポポ亜科はタンポポ連のほかショウジョウハグマ連が含まれる。その他の各連がキク亜科に併合されることは従来の分類と基本的に変わらないが、メナモミ連、ヒマワリ連、ダリア連などに於いては幾つかの組み換え(連の新設を含む)が為されている(文献ごとに見解の相違がある)。



いずれにしろ原則APG分類に従ったが、あくまで暫定的なものであり、必ずしもその結果に拘泥するものではない。



学名は、異なる諸見解の中から、臨機応変に選択した(原則「北琉球の植物」初島住彦に従い、新たな見解を随時取り入れた)。特に基準はなく、その結果には拘泥しない。屋久島産のそれぞれの植物が、「固有種」「固有亜種・変種・品種」「広域分布種」のどの段階に相当するかについては、対象ごとに独自の判断を下した。広義の種に編入するか、独立の分類群とするか、どちらかに振り分けたが、前者の場合、原則として下位分類群(亜種・変種など)については敢えて触れないでおいた。いずれにせよ、あくまで暫定的・便宜的な処置であり、異論を排するものではない。



和名についても、複数の名(異名や上下分類単位)がある場合、上記のごとく臨機応変に選択した。

これもまた異論を排するものではない。



使用した写真は、(2006年度のデジタル撮影品を除いて)大半がポジフィルム撮影時のものである。

大量の保管ポジフィルム(そのうちの半分ぐらいは度重なるアクシデントによって失われてしまった)をデジタルスキャンし、1987年に本が完成しながら正式出版に至らなかった「屋久島の花と自然」、および2007年に刊行を予定していたが保留したままになっていた新たな企画(それに代わって2008年に岩波ジュニア新書「屋久島~樹と水と岩の島を歩く」を刊行)を基に、全面的再編を行なった。一部の写真は存在はするが見つけ出せないでいるため、既刊の拙書からのコピライト(そのため画質が極めて劣る)または写真空欄として構成した。また、写真データに関しても、別に書き写していたメモが見つけられず、「撮影データ確認中」「撮影場所確認中」「撮影年月日確認中」と空欄にした。概ねの場所や年月日の特定は可能なのだが、慎重を期して保留した。将来機会があれば、追加を行いたい。





第一巻で紹介した各種の中で、殊に重要と思われる種を無作為的にピックアップしてみた。

カンツワブキ

イッスンキンカ

ヒメキクタビラコ

ホソバハグマ

ヤクシマシオガマ

シマセンブリ

ヤクシマリンドウ

アズキヒメリンドウ

ヤクシマシャクナゲ

アクシバモドキ

ヒメヒサカキ

ヤクシマコンテリギ

等々。

興味深いことに、それら重要種の中には、和名に「ヤクシマ」の名が冠せられていない種が多い。そして、意外に低地産の種ほど、より深く複雑なアイデンティティを有しているものが多い様に思われる。

それらの実態を知るためには、周辺の地域や、大陸産の集団との関わりの解明が不可欠である。今後の研究過程の中で、漠然とでも良いので、そのことを念頭に置いて頂ければ、幸いである。



本書を、その低地産重要種であるヤクシマコンテリギ(野生アジサイの一種)で締めくくった。加えて、末尾に筆者のライフワークである、南西諸島と中国大陸産のヤクシマコンテリギ近縁種群について、特別に項目を設けた。



第二巻は、「バラ類Rosids」

第三巻は、「基幹被子植物(所謂単子葉植物を含む)」+裸子植物(シダ類とコケ類は屋久島の生態系の中で非常に大きな魅力ではあるが、その紹介は別の機会に譲る)。

第四巻は、「フィールドガイド」を中心に、屋久島および南西に於ける幾つかの生物種群について、過去報文からの転載を行った。



著者の屋久島に関する著作としては、平凡社新書「世界遺産の森屋久島~大和と琉球と大陸の狭間で」(2001)、岩波ジュニア新書「屋久島~樹と水と岩の島を歩く」(2008)がある。前者の副題「大和と琉球と大陸の狭間」の概念に、著者の屋久島に於けるコンセプトが集約されている。本書でもそれを副題として採用し、そのPartⅡと位置付けた。ほかに候補に挙げた「屋久島はどこにある?」「海の向こうの兄妹たち」の副題も、それぞれに意味を持つものと考えている(前者は「沖縄は何処にある?」「台湾は何処にある?」も準備中、後者は中国大陸産の主に蝶類について、既に3作品を上梓)。



著者は、1960年代の初めから1980年代前半にかけての約20年間屋久島をメインフィールドとし、1980年代後半から2000年代半ばにかけての20年間は屋久島周辺地域と中国大陸を行き来、2000年代半ば以降の20年間近くは中国大陸にフィールドを絞って屋久島には足を向けていない(先月18年ぶりに屋久島を訪れた)。そろそろ屋久島に回帰する時が来たのではないかと思っている。



本書は図鑑ではない(むろん教科書でもない)。従って形質の記述は原則として行っていない。それらの事や固有種や北限・南限種の種数を知りたい人は、他の書物を参照頂きたい。本書は問題提起の書である。「学びたい人」にではなく「考えたい(調べたい)人」に読んで頂ければ、と思っている。



2024年盛夏、クマゼミの声が降り注ぐ朝に、著者記す。









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中国大陸(附:日本列島)のハマウツボ科(シオガマギク属を中心に) 4

2024-05-24 13:42:09 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


Orobanchaceae (mainly Pedicularis) from China (and Japan) 4



1-1-2-2-1-1-2 嘴状上唇は立ち上がり先端は2‐3分する

1-1-2-2-1-1-2-1花色は赤

〖8〗Pedicularis przewalskii ssp.australis 南方普氏马先蒿

根叶群 Grex Rhizophyllum 根叶亚群 Subgrex Rhizophyllum 低矮系 Ser. Pumilliones






雲南省白馬雪山alt.4200m付近. Jun.14,2009

〖1〗~〖7〗同様に通常5~10花が隣接し、地面に接した萼筒(合着した紡錘状で上縁に数個の小さな葉状鱗片が生じる)から高さ3cmほどの細長い花筒が直立する。花径は約2㎝。花色は一様に濃ピンク。下唇の3つの裂片は縁が重なることなく平開、中央裂片は側裂片より小さい。嘴状上唇は、一度立ち上がった後、中央付近で上下に膨らみ、先半は2本の細い管状となって下方に伸長し、その間から雌蕊の柱頭が顔を覗かせている。*〖9〗と同一種の別亜種。



1-1-2-2-1-1-2-2花色は白

〖9〗Pedicularis przewalskii ssp.micropiton 矮小普氏马先蒿

根叶群 Grex Rhizophyllum 根叶亚群 Subgrex Rhizophyllum 低矮系 Ser. Pumilliones














四川省巴朗山alt.4600m付近. Jul.31,2010












四川省雅江~新都橋(臥龍峠)alt.4400m付近. Jun.6,2010

概形や大きさは〖8〗Pedicularis przewalskii ssp.australisに似るが、下唇の各裂片はより幅広く、全体が純白の円盤状となる。嘴状上唇の形状も〖8〗に準じるが、立ち上がった部分の基半は純白、中央の膨れた部分から先は、濃い鮮紫色を呈する。〖8〗ともども、葉は余り大きくならず、羽状片の切れ込みもごく浅く、裂片先端は尖らない。萼筒の形状も〖8〗同様で、花筒基部を紡錘状に覆い包む(臥龍峠産の写真個体は濃紫色の条線がある)。花筒、萼筒、葉ともに、軟毛を密生する。両撮影地とも、背の低い草を交えた高山礫地。*種レベルでは〖8〗と同一種とされる。








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中国および日本のユリ科(狭義)植物 Ⅴ テッポウユリLilium longiflorum

2024-04-29 08:17:27 | 「現代ビジネス」オリジナル記事



一平氏の話題など(「白鵬と大谷」)は、原則として、別ブログ「社会の窓から~いい日朝立ち」のほうに回します。

「いい日、朝立ち」 “Good day. Leaving in the early morning to a strange country, far away,,,,,” - 社会の窓から (hatenablog.com)

そちらの方へのご訪問もよろしくお願いします。



少しでも大谷選手にネガティブなことを言う人間は許さない…そんな空気に警鐘を鳴らしたい(立岩陽一郎)(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース



水原一平氏の通訳能力、米でのリアル評はどうだった? 在米プロ通訳者が分析「水原氏は憑依型」「並の通訳ではない」後任との最大の違いは…―2024上半期 BEST5 (msn.com)



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初夏になったですね。風が爽やか、大好きな季節なのですが、同時に苦手な季節の到来でもあります。全ての空間を締め切って、一斉の冷房が始まります。せっかくの爽やかな風、素敵な季節が台無しで、ウンザリです。

でも東京から福岡に移って(生活パターンの変化も有りますが)屋外の風に触れる機会が多くなったような気もします。

この季節、樹々の緑は一斉に展開し、草花が爛漫と咲き誇ります。ただし草花は、そのほとんどが外来種。視覚的には素敵ではあるのだけれど、複雑な気持ちにもなってしまいます。

自宅から徒歩5分の、絶滅危惧種シルビアシジミの発生地をチェック。去年偶然見つけたのが6月の下旬、おそらく第2化の個体と思われます(その後10月初めまで継続して発生)。今年は第1化(春型)を確かめねばならないのですが、まだ発生していないようです。

もう少し後(5月に入ってから)になるのでしょうか?春型は発生せず、6月にスタートということも考えられます。

それともいなくなってしまった?

驚くことがあります。

この蝶は、食草のミヤコグサに強く結びついていて、ミヤコグサの生えているところの半径1m程の所だけで見ることが出来ます。

去年は、ごく限られた範囲に、ちらほら見ることが出来るだけでした。そこにシルビアシジミが発生していたのです。

そのミヤコグサが、今年は大量に見られます。シルビアシジミの発生ポイントだけでなく、あちこちに咲いている。殊に、発生地に行く手前の、公団アパートの庭や土手には、びっしりと一面に咲いている。

ミヤコグサだけでなく、今年は例年以上に、様々なカラフルな花をつける雑草(ほとんど帰化植物)が咲き競っているように思えます。まるで、ギリシャのアテネ郊外にいるような錯覚を覚えます。



2年前の5月はじめ、ギリシャから日本に戻ってきました。その年の夏、東京滞在中は行政(青梅市/東京都)から理不尽な醜い仕打ちにあって悲惨な思いをした後、秋に福岡に移ってきたのです。

ギリシャの春は、郊外のいたるところに花が咲き乱れています。

日本の常識からすれば、都市の近郊に於いて、在来種の花が草原一面に咲き乱れる、と言ったことは有り得ません。当然アテネ近郊でも、本来の在来種ではなく、どこからか移入してきた外来種ではないかと思われます。

ただし、ギリシャでは在来種自体が、もともと乾燥した気候の開けた環境に結びついているわけですから、ネイティブたちが一面のお花畑を形成していても、不思議ではないのかも知れません。

お花畑を構成しているそれらの植物は、日本とは全く面子が違い、広い意味でのこの地域(地中海東南縁~中東)に特有の種です。厳密な意味での原植生ではないにしろ、それに準じる植生環境と考えて良いと思います。

ちなみに、現代文明は(キリスト教なども)、中東からギリシャを経てヨーロッパ全土に広がってきたのですね。森林に覆われたヨーロッパの内陸部はともかくとして、中東から地中海東南岸にかけての地域は、温暖な乾燥気候で、剥き出しの草原が植生環境の基本と成ります(樹木はコルクガシやオリーブなどの硬葉低木樹)。

北へ向かうと、高木の森林(主に常緑針葉樹)と、林床に広がる草原の組み合わせになり、そのパターンの植生環境は、ぐるりと北極海を取り囲んでいて、ユーラシア大陸の東南端では日本の北海道に及びます(その延長は本州中部山岳まで)。

そこから南は、ガラリと環境が異なり、ヨーロッパでは南のアフリカに至って更に乾燥の極と成るのと対照的に、熱帯アジアの湿潤な鬱閉した熱帯雨林に連なります。

その狭間に日本列島があるのですね。

森林は、いわゆる中間温帯林。見かけ上は変化の少ない北や南の林と違って、四季による劇的な変化を繰り返します。その時間変動が齎す要素を、人為に拠って空間に凝縮・再編したのが、里山・雑木林です。

そこでは、ユーラシア大陸西部に於けるような草原は発達せず、広々としたお花畑などは望むべくも有りません(上記した周北極海要素の南縁である高山帯にのみ出現)。

草花は、森林のギャップや、林縁、疎林、山の急斜面、渓流沿い、人間居住地では、雑木林林床、路傍、集落や耕作地の周辺などに、面(草原)ではなく、点や線状(草地)に生えています

日本の在来草本植物は、ヨーロッパのように広い草原に咲き乱れるのではなく、それぞれの種の特性に応じた狭い環境に、ぽつぽつと疎らに咲いているというのが、本来の姿なのです。

それはそれで、赴きがあって、魅力的だと思うのです。

ところが、近年になって、その状況が一変しつつあります。

まるでインベータに侵入されたごとく、あらゆるギャップに帰化植物が蔓延り、場所によっては、日本らしからぬ、一面のお花畑を形成している。

ヨーロッパの草原とは、構成種のメンツが異なります。ヨーロッパと中東との関係と同じ前提で考えれば、韓国や中国から進出してきた、ということになるのでしょうが、(旧い時代や有史以前の交流は別として)そうでもなさそうなのです(中南米を含む世界各国が供給源)。

普段私たちが野外で見ている花は、おそらく9割以上が、園芸植物+帰化植物なのではないでしょうか?あとで述べる「出戻り在来植物(国内帰化植物)」を加えれば、ほぼ100%が、ネイティブではないのだと思います。

見た目は確かに美しいです。でも、これで良いのだろうか?という思いもあります

昨今、特定外来植物の駆除などが実施されているわけですが、特定というところに僕は引っ掛かります。(その是非はともかく)公平を期すならば他の大多数の帰化雑草も駆除しなくてはならないのではないか、と。

もとより、園芸(栽培)植物はO.K.(大歓迎)、帰化雑草はNo(忌避排除)、というのもおかしな話です。ともに人間の都合で日本にやってきたことには変わりがないわけですから。

あと、「出戻り在来植物」(「国内帰化植物」に近い概念ですが、置かれた次元がやや異なります)の話をしなくてはなりませんね。でも、(「史前帰化植物」の概念ともども)非常に大きな問題を含んだ話になるので、今回は割愛します。

先日のブログで紹介した、レンゲソウとかヒガンバナ(シロバナマンジュシャゲ)なども、「史前帰化植物」「出戻り在来植物」を組み合わせた例と言って良いでしょう。

ミヤコグサも、そのような意味では、著しく複雑な様相を示しています。それと“絶滅危惧種”シルビアシジミとの関わりも、更に複雑な要素を内包しているだろうことは、想像に難くはありません。

とにかく、(供給源や経路はともかく)新参の植物が、恐ろしい勢いで増えつつあるように思えます。毎年毎年、次から次へと加速度を増して。

今日の「ユリ科の話」の主役はテッポウユリ。紹介する写真は、ちょうど25年前の今日、1999年4月28日の撮影です(屋久島春田海岸隆起サンゴ礁)。

その当時は思いだにしなかったことなのですが、今や、東京でも、福岡でも、至るところでテッポウユリが咲き競っています(屋久島よりも4~5か月後)。信じられないほどの勢いで繁殖を続けているのです(正確には、南西諸島原産のテッポウユリと台湾原産のタカサゴユリとの交雑由来だと思われます)。



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ユリ科の話

Wallichianum clade テッポウユリLilium longiflorumほか



ユリは、古くからヨーロッパに於いて重要な植物として(主に宗教面で)位置づけられてきました。

ユリ属の大半の種は東アジア(および北米大陸)に分布、ヨーロッパに在来分布する種は僅かで、マルタゴン・リリー(L.martagon/Martagon clade)やマドンナ・リリー(L.candidum/Candidum clade)が、その代表種で、特にキリスト教と強い結びつきを持っていたのがマドンナ・リリーです。

多くの種が集中して分布しているのは、中国大陸西南部山岳地帯と日本列島、殊に日本列島には、ヤマユリ、ヒメサユリ、ササユリ、カノコユリなどの美麗な固有種が目白押しで、それらの種の球根が大量にヨーロッパに移出されました。

それらにも増して珍重されたのが、南西諸島原産のテッポウユリです。純白のユリとして、それまでのマドンナ・リリーに代わって、キリスト教を象徴する花に君臨します。

興味深いのは、日本原産でヨーロッパに移出され品種改良が行われ、世界的にポピュラーな園芸植物となった(

日本にも逆輸入)例に、ユリのほか、アジサイやシャクナゲがあります。

それらの原産地は、日本本土ではなくて離島なんですね。

アジサイ(ガクアジサイ)は、伊豆諸島。

シャクナゲ(ヤクシマシャクナゲ)は、南西諸島北部の屋久島。

ユリ(テッポウユリ)は、南西諸島全域(三島列島~八重山)。

ちなみに、日本国内で園芸植物化されて身近な存在になっている、サクラ(ソメイヨシノ)の片親は伊豆諸島産オオシマザクラ。代表的園芸ツツジのサツキも、片親が三島列島~トカラ列島産のマルバサツキ。

お寿司の中仕切りとして知られ、かつ街の中のどこにでも植えられているバランも、やはり南西諸島北部(宇治群島、三島列島黒島、トカラ列島諏訪瀬島)原産。

何かを示唆しているように思われますが、それについては場を改めて検討することにしましょう。

テッポウユリは、(猛烈な勢いで拡散中の現在はともかく)「南西諸島全域固有種」という、興味深い分布パターンを示しています。僕にとっては、屋久島安房春田浜の、まるで花だけが隆起サンゴの上に直接咲いているかのような群落が、印象に残ります。

台湾には近縁種のタカサゴユリL.formosanumが分布。低地帯から山上部まで見られるそうですが、僕が撮影したのは、いずれも3000mを超す高山帯(合歓山道路最高地点の周辺と阿里山~玉山間の登山道)、いかにも高山植物然とした風格を備えていて、それと低地の集団との関係はよくわかりません。最近になって、台湾の海岸にもテッポウユリそのもの自生しているとの報告がありますが、タカサゴユリとの関係を含め、詳細は未詳です。



テッポウユリのグループ(Longiflorum節、あるいは「中国植物志」に於ける百合組Sect. Lilium)は、永らく、日本の南西諸島のテッポウユリ、台湾のタカサゴユリ、中国四川省岷江沿いに生えるリーガル・リリー(テッポウユリとともに欧米での白花ユリの主流原種)の3種からなる、とされてきました。

しかし、「Biosystematic Studies on Lilium」のDNA解析に拠ると、リーガル・リリーは、テッポウユリ・タカサゴユリとは、極めて遠縁であることが示されています(次回紹介)。

それに代わって、この一群に含められたのが、中国で最も広域に亘って分布する白花種の野百合(日本名ハカタユリ)L.browniiです。中国で単に「百合」と言えば、本種を指します。

「Biosystematic Studies on Lilium」のWallichianum cladeの模式種はL.wallichianumで、ヒマラヤ東部に分布し、テッポウユリに似た白い大きな花が咲きます。このcladeには、ほかに2種(L.wenshanense雲南省南部/L.philippinense台湾-ルソン島)が含められています。



それにしても、本来南西諸島固有種であるテッポウユリの、最近になっての日本の各地での爆発的な繁殖には、驚くほかありません。東京のアパート周辺でも、福岡のアパート周辺でも、夏~秋(西南諸島よりも数か月遅れ)はテッポウユリに埋め尽くされてしまう、と言っていいほど。

正確には、どうやらテッポウユリとタカサゴユリの雑種由来らしいのですが、どうしてこんなに急激に繁殖しているのか、謎ではあります。
















テッポウユリ 屋久島春田浜 Apr.28,1999














野百合 四川省青城山山麓 Aug.5,1991














タカサゴユリ 台湾阿里山 Sep.2,2006






テッポウユリ×タカサゴユリ? 東京都青梅市自宅アパート付近 Sep.28,2022






テッポウユリ×タカサゴユリ? 福岡県飯塚市自宅アパートの階段下のコンクリートの隙間に生育。花が開く前の蕾の時、誰かが枝を折ってしまった、、、、。不憫に思ってペットボトルに水を入れて折れた枝を差し、元の茎の隣に置いていたら、花が開いた。Aug.29,2023

*このあと、9月~10月になっても、階段下のコンクリートの隙間から次々と茎が伸び、花が咲いて行った。



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「ユリ科の話」は、リーガル・リリー、ヤマユリ、ユンナンベニユリ、尖弁百合、小百合、クロユリ、ウバユリ、ギボウシモドキ、カタクリ、アマナとチシマアマナ、ツバメオモト、タケシマラン、ホトトギス、と続きます。











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甲南中学校生物研究クラブの西井君に。

2023-11-19 22:00:08 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


2023.11.17記

甲南中学校生物研究クラブの西井君に。
連絡をください。
junzoua@gmail.com

10月18日にパソコンの写真調節機能が消失、翌19日には突然ワード機能も消失し、仕事が出来なくなってしまいました。途方に暮れていたところ、更に決定的な追い打ち。20日になって、これも突然パスワードが変更されてヤフーのアドレスが凍結され、全ての人々と連絡が取れなくなってしまった(ブログのコメント欄も見ることが叶いません)。

必至になって努力を続けているのですが、アカウントは取り戻せず、連絡を受け取る携帯電話もないことなどから、全ての作業が出来なくなってしまっている状況です(このままでは元婚約者のスーリンとも永久に連絡が取れなくなってしまうことが一番堪えます)。

ワード機能が復活できない(知人に頼み込んで1万5000円を借用し対応するワードソフトを購入してインストールを試みようとしたのだけれど、旧アカウントや携帯電話がないことから利用が出来ない、のみならず無料ソフトのインストールも不可)ため、仕事を進めることもできません。

連日、警察署や市役所に赴いて(各位への電話連絡などを代行して貰うべく)助けを求めているのですが、「公の機関は、そのような個人的な案件には協力できない、知人友人に頼みなさい」と言われるばかりです。しかし日本には友人などほとんどいません(なかんずく九州には)。往復2200円のバス代を捻出して何度も博多のヨドバシカメラやビッグカメラに赴き、方法を請うているのですが、一度の相談料が3000円~4000円かかります。そして、結局は、(電話での連絡などは)個人的な知り合いに助けてもらうしかない、ということになります。

途方に暮れています。

せめて、スーリンの連絡先だけでも、という思いで、あや子さんに伝えている可能性を考えて連絡を取ろうとしたのですが、連絡方法が分からない。そうだ、「青山潤三の世界・あや子版」にコメントを入れれば、あや子さんに連絡が取れる、と思い立ち、コメントを入れようとしたのですが、入れ方が分かりません。それでこれも知人に頼んで、(臨時に作成したグーグルアドレスに連絡してほしい旨)コメントを入れて貰いました。しかしいくら待っても返事がありません(普段ならコメントがあればすぐに連絡があるのですが、開くことが出来ない旧アカウントに行ってしまっている?)。

昨日、やっとあや子さんから連絡が来ました。思いもしなかったことに、60数年前、甲南中学時代の生物研究クラブで一番仲の良かった西井君から、コメントが入っていた。「11月12日に60年ぶりにクラブ会を開くので連絡ください」と。まさに「渡りに船」。でも既に時遅しです。

もし、もう少し早く連絡がついていたなら、僕にとっては現時点では唯一ともいえる「個人的な知り合いたち」に相談して、様々な局面に対応することが出来たのです。それを考えると、悔しい限りです。しかし考えようによっては、究極の困惑の最中のみっともない姿を、60年ぶりに会う学友たちに晒さなくて済んだ、と捉えることも出来るかと思います。

ということで、せめて西井君に会って、今後の模索(アカウントを取り戻す、それが出来なければ、せめて元婚約者のスーリンの連絡先を探し出す/並行して、仕事を再開するために、ワード作成機能、写真整理機能を取り戻す)に於ける協力を請いたいのです。






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遺書 50

2020-09-05 20:48:28 | 「現代ビジネス」オリジナル記事

 

 

深圳の日本料理店で、日本人の店長が中国人従業員に殺害された、というニュース。

 

mak****さんという方のコメント

>これが何かの兆候で無いよう、祈ります。
>ただ、日本人が人質になる前に、皆、引き上げた方が良い。
>または、他の安全な国に、間に合う内に移動した方が良い。
>中国が日本に凶暴になったら、どんな言い掛かりをつけて、何をし出すか分らない・・・・そんな国だと思うから。

 

tskさんという方のリコメント

>いろんな国に行ってみるべきだな!
>中国人も約6億の人はええ人やで!
>韓国も3割の人は親日家や!
>どこの国も1割強のやつが悪さして足を引っ張りよる! 
>あまりマスコミに洗脳されんほうがええで!

 

僕(milk)のリコメント

>tskさんの言う通りですね。
>深圳には、かれこれ30年ほど行っていて、確かに危険な目にも何度か会いましたよ。でも、そうでない部分も沢山ある。中心部は、日本で言えば、新宿みたいな感じです。
>韓国も、個人的には好きではないですが、良いところも沢山あります。
>アメリカだって、怖いところには違いないですが、全体として捉えれば、良くも悪くも、日本と大差ないです。

 

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青山潤三日記 2020.6.14

2020-06-14 21:04:59 | 「現代ビジネス」オリジナル記事



以下、「現代ビジネス」編集U氏に送信したメールです。結構気に入ったので、ブログにも紹介しておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ヤフーコメントは、通常翌日には総数が減っていく(今回も90台から一度80台に減った)のですが、なぜか少しずつ増えている(129)みたいで、今日は2度チェックし、ついでにコメントに参戦しておきました(笑)。

相変わらずボロクソコメント(それはそれで楽しい)が大半ですが、「そう思う」「そう思わない」は一定数のバランスが取れているようで、興味深いです。

新しいものから、自分の返信コメント2個(うち一個は今リコメントしたばかり)を含め、いくつかピックアップしておきました。

[2時間前:テンダリー隊二等兵さん]
インフルエンザより弱毒性で症状が出ない軽症者もいるのだから、インフルエンザと同じ扱いで良い。早い話が騒ぎすぎ。肺炎になるのは?ごく一部。マスクは感染者が飛沫を咳で撒き散らすのを防ぐ効果がある。それと顔に触らないという効果もあるな。ただマスク信仰も行き過ぎの感があり。
/そう思う 2
/そうは思わない 0

[2時間前:yasさん]
この青山氏の述べていることに、幾つか疑義あり。
1 大人でジャーナリストのようにものを書くならば、民主主義の立場か、独裁的な立場をとるのか明らかにせられよ。立場をグレイにして、逃れている。
2 日本のマスクの着用は、季節による花粉症や、インフルエンザなど、公衆衛生上にやっているのであり、好きでやっているのではない。
3 家庭内でのマスクの着用をしないのは、家族のものが感染していないことを前提にしているからだ。もし、家族で感染していたら、その罹った家族だけマスクをしてもらうかもしれない。それは常識である。
4 今回、中国での感染者が押さえられたのは、都市封鎖を行ったこともあるが、普段からPM2.5などの煤塵をふせぐためにマスクの着用が常態化されていたからである。
5 マスクは感染対処の絶対的なものではないが、予防には多いに効果があった。その後の対処はマンパワー、総合的な医療体制にある。
/そう思う 1
/そうは思わない 0

[僕(milk)のリコメン:10分前]
1ジャーナリストならば、民主主義の立場か、独裁的な立場をとるのか、明確にせよ。
>ジャーナリスト(僕はバイオロジストですが)は、そのような特定の立場に立つべきではない、というのが僕の信念です。
2 日本のマスクの着用は、公衆衛生上にやっているのであり、好きでやっているのではない。
>他の国ではそうじゃないですし、、、、結局、好きでやっているのだと思います。
3 家庭内でマスク着用をしないのは、家族が感染していないことを前提にしているから。
>どうすれば感染の可否が分かるのでしょうか?
4 中国での感染者が押さえられたのは、普段からマスク着用が常態化されていたから。
>僕は中国在住ですが、そのような話(常態化)は初めて聞きました。
5 その後の対処はマンパワー、総合的な医療体制にある。
>「医療(科学)でウイルスを退治する」という考え自体、人間の傲慢さの表れです。
/そう思う 0
/そうは思わない 0

[5時間前:mhさん]
ネットで誰しもが意見を公表できる時代だが、こういう愚かで、かつ、自分が愚かだと自覚できていない者が書いたりする。そんな低レベルのものをマスメディアが伝える、だからマスメディアがすたれていくわけだ。「青山潤三」、こういうレベルのライターとして記憶しておく。こいつが書く他の文章を読んで時間の無駄にならないように。
/そう思う 5
/そうは思わない 2

[僕(milk)のリコメント:4時間前前]
mhさん
ご意見有難う。「青山潤三」です。
おそらく「現代ビジネス」の大多数の読者は、日々「お金儲け」に勤しんでいて、「時間」を無駄に出来ないのですね。
僕は「愚かで低レベル」な人間なので、「無駄な時間」も大切だと思っています。
これからもmhさんが「愚かで低レベル」とされる文章を、信念を持って書き続けます。よろしく。
/そう思う 3
/そうは思わない 0

[6時間前:gpsさん]
同調圧力とコロナヒステリーという見解には賛成です。もし感染対策なら自家製の薄い布の夏向けマスクなど気休めです。他人に非難されたくな日本人特有の現象です。だって何か触った手ですぐマスク触ってるじゃない。その時点でアウトです。つい1世紀前までは、肺結核(これはコロナなんか比じゃない空気感染する)で滝廉太郎も正岡子規も、多くの日本人がなくなりました。でも、みんなマスクしてましたか?当時から空気感染は知られてました。だから、生死観が変わってしまった。この四半世紀で「いつまでも生きられる幻想」が我々を取り巻いた。病院で、もっと生き続けたいと、治療にクレームつける患者の多くが後期高齢者ということもよく聞きます。
/そう思う 4
/そうは思わない 0

[7時間前:soaさん]
現代ビジネスってまともな記事かける人が居ないんだな。
/そう思う 0
/そうは思わない 2

[8時間前:kakaさん]
マスクは飛沫を直接防ぐことができることは誰でも分かる。同調とかじゃなくて自己防衛ですわ。
シンプルなことをこねくり回して考える、それも低いIQで。不毛な記事です。
/そう思う 2
/そうは思わない 0

[昨日:sosさん]
この時期に同調圧力で仕方なくマスクをつけてる人はやむを得ないけど。本当にマスクが健康に良い、必要と思っているなら、正直、自分の頭で何も考えてない人だと思うけどな。
/そう思う 3
/そうは思わない 2

[昨日:mauさん]
日常取り戻すには来春まではマスク着用必須でしょう。飛沫を飛ばさないこともですが、口を手で触らない効果は大きいです。子どもと接してて1メートルの距離は無理。全員が忘れ物しないなんて無理ですよ。マスク着用と消毒とドア解放と冷房。
/そう思う 3
/そうは思わない 2

[昨日:nxyさん]
この記事に同感します。多くの人々は日和ってマスクして安心なんだそう。そういった方々は、アンチマスクに対して少し攻撃的ではないでしょうか。
/そう思う 4
/そうは思わない 4

[昨日:yutさん]
これ書いてる人馬鹿なの?
/そう思う 2
/そうは思わない 2

・・・・・・・・・

ニュースピックは29コメント
セロンは22コメント
概ね(殊にセロンは)好意的なコメントが多いですね。






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青山潤三日記 2020.6.8

2020-06-08 14:11:52 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


今日、「現代ビジネス」の新しい記事がアップされました。

「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感
ただの「同調圧力の象徴」になっていないか


ついでに、オリジナル記事を掲載しておきます。

日本と中国の感染者数が、欧米諸国などに比べて(相対的に)少ない理由の、考えられる可能性。
① 分母(検査数)の問題。←それぞれの国の取り組み方針に関与。
② 「感染」の定義付け、あるいは検査方法、関連死の範囲、ウイルスそのものに対する解釈の違いなど。
③ マスク着用が功を奏した(中国での着用命令、日本における元からのマスク好き)。一定期間の移動禁止(中国)制限(日本)の効果。
④ 多くの東アジア人には、既に新型ウイルスに対する抗体がある。

常識的には③なのでしょうね。でも僕は、直感的にですが「違う」と思っています。その前提で書きます。

追記を三つ加えました。ⅠとⅡは、中国における具体的な話。しかし、2~3カ月前頃ならばともかく、今になっては取って付けたような不自然な形になってしまうので、とりあえず割愛しておきました。

案外、Ⅲが重要なポイントを示唆してるかも知れません。むろん「現代ビジネス」の記事としては不適切ですが。

>湖北省(長江中流域)周辺地域同様、日本列島もまた遺伝子の宝庫である。東アジアの生態系のエキス(「動き続ける極相」の原型)が、意外に身近な空間に残っている。ウイルスも然り。ひいては、(日本発祥源という可能性も絶対拒否はできないということも含めて)「日本人には特別の抗体が備わっているのかも知れない」という問題に、、、。

↓記事はここからです

「マスク」と「風」と「新型コロナウイルス」

世の中には、「そんなことは誰でも知ってる、いまさら言う必要性も価値もない」と、誰もそのことについて深く探索しないまま、有耶無耶にされていく「大事な案件」があったりします。「新型コロナウイルス問題」の、(本質的な部分での)成り行きに対しても、みんな、「なんかおかしい」と感じているのではないでしょうか?でも、正面から向き合うことなく、ただただ空気に従って、やみくもに「出口」を目指している、ように思えます。

例えば、マスクの集団に対する違和感。

昨年の、ちょうど今頃、香港で中国本土政府の行政支配に抗議する大規模デモが勃発し、ほぼ半年間に亘って、世界を困惑させ続けてきました。今年に入ってそれと入れ替わるように、中国を発信源とする新型コロナウイルスが、世界を震撼し始めたのです。

アジアの民主主義にとってのマスクは「同調強要空気」形成の象徴的存在

香港デモは、一見した限りでは、最近勃発した米ミネソタ州に於けるアフリカ系市民の抗議運動(一部暴動化)と、重なって見えます。怒りの対象が「警察」に向けられていることは、双方同じです。

でも、根本的な性格は、まったく異なります。筆者は、大規模デモ発生の当日(2019.6.12)から数か月間にわたり、デモの周辺をチェックし続けてきました。スタートの時点で「容疑者とされる黒人青年」を殺害したミネソタの警察官とは違って、香港の警官は自分たちが能動的に何かをしたわけではありません。

(思想的な訴えを拠り処に)暴徒と化した若者中心の香港市民に対し、少なくても暴動が人的被害を及ぼすようになるまでは、警察は、一般の市民や自分たちを危険から防ぐ最低限の防御しか行っていません。

しかし、一部の(といっても膨大な数の)香港市民たちは、「警察は悪」と世界中にアピールするべく、(メディアを通して)徹底的なパフォーマンスを続けました。「中国共産党の手先である香港警察は、民主主義・香港市民の自由の権利を剥奪しようとしている、ひいては、我々を殺そうとしている」という名目で、警察官達に(当然の権利であるかのように)一方的な暴力を奮い、あるいは、各国の報道陣の前で、膝まづいて、そこに居もしない警官に向かって「どうか私を殺さないでくれ」と懇願するなど、パフォーマンスを行なったりしてきました。いわば警官を「仮想敵」と位置付けたわけです。

そして、そのパフォーマンスのために利用された小道具(同時に主役的役割も持っていたように思う)が 「マスク」です(「現代ビジネス」記事参照)。香港デモは、「民主主義=正義」「共産主義=悪」という大前提の上に成り立っています。その是非は、政治音痴の筆者には分かりません。でも、香港市民の大半と、日本の多くの大衆が、疑いもなくそれを信じているらしいことは確かなようです。

アジアの民主主義にとってのマスクは、実に都合のいい、「同調空気」形成の象徴なのだと思います。

許より、日本人のマスク好きは、海外ではお笑いの種になっていたり、軽蔑の対象とされてきたりしました。
ある意味、日本人の「平穏志向」(あらゆる波風を嫌う風潮)の象徴でもあります。何もない時でさえ、ひたすら「保身」を心がける。

筆者は(国外在住機会が多いこともあって)、普段から飛びぬけて高いと思われる日本人のマスク着用率が、不思議でなりませんでした。この御時世なので今に関しては当然の事と理解していますが、それでもマスクの集団は、筆者にはどうしても異様な光景に映ってしまいます。

顰蹙を買うことを承知で敢えて言いますが、ともすれば「日本は初期からのマスク徹底着用効果によってコロナに打ち勝った」 と内外で理解されてしまっているかも知れないことに、一抹の危惧を感じています。本当にその認識でいいのでしょうか? 今後、何らかの「アゲインスト」がやってきたとき、再び「マスク」で切り抜けることは出来るのでしょうか?

マスクの着用が全く意味がないとは思いません。飛沫唾液の防御など、一定の効用はあるはずです。むろん筆者も、人との対面時や密封空間(近くに人のいる室内や車内)では、基本的にマスクを着用しています。でも、そうでないところではしません。

なんか変ではないでしょうか。例えば、外に出歩くときは常時マスク着用しているのに、家庭内では着用しない。そのような人たちも少なくないと思います。通常は、家族の誰かが家族外の人々とも接触しているでしょうから、もし一人が感染してしまったら、別の家族から第三者へと媒体してしまうことになります。本当に感染を警戒しての「常時マスク着用」ならば、家庭内でも常にマスクをしたまま対面していないと、意味がありません。

結局、確たる根拠もなく、「人にうつすのも人からうつされるのも嫌だし、していないことで後ろ指を指されたくないから」当たり前のようにマスクをしているわけです。

筆者は、マスク着用は、結果としてむしろ弊害のほうが大きいと思っています。きちんと「三密」(必要な時以外は、むやみに集まらない、距離を保つ、密閉しない)を守ることを前提に、その上でのマスク着用ならば意味があると思います。でも、それらがきちんとなされているとは思えません。なのにマスクだけは皆が着用。それで安心してしまうことで、本来の感染防御が疎かになってしまうとしたら逆効果です。

いずれにせよ、どうやら、今のところ日本は「ウイルス防御」に、概ね成功している、と内外で思われているようですね。その要因の一つがマスク効果であると。でも本当にそうなのかどうかは分かりません。効果があったとも、効果がなかったとも証明出来ないわけですし。

この「新型コロナウイルス」の問題点、ひいてはそれに対して人類が採らねばならない姿勢は、もっと次元が違う所にあるのではないだろうか、と筆者は思うのです。具体的なことはここでは触れませんが、「こうだから、こうなった」という、単純な因果関係で説明可能な次元とは、全く異なった道筋の上に成り立っているような気がします。

不可解なことは、幾つもあります(以下、付記したⅠの部分を割愛)。

前回の筆者の記事には、予測違いが一つありました。「確かなことは、余りにも衛生概念が低い中国のこと、ウイルスの蔓延が起こっても当然」といった旨の意見を述べたことです。日本と中国の衛生に対する概念や環境は比較になりません(むろん日本のほうが桁外れに素晴らしい)。

その実態をもってすれば、人口比率も含め、大げさではなく、日本での10人や100人のカウントが為されれば、中国ならば10万人、100万人単位でカウントが為されても、おかしくないレベルだと思います。次元が異なる結果が表れても、不思議ではないのです。 

にもかかわらず、実際の両国の被害状況は、「比較のできる範囲」で収まっているように思えます。それは、なぜなのか?

それに世界を見渡せば、膨大な感染者数の国々がある一方、一人も感染者がいない国があったりします。
例えば、欧米と東アジアを見比べると分かり易いですね。なんで、中国や日本は、(相対的に見て)こんなに感染者数が少ないんだろう。 

>そりゃあ、日本は優秀だからでしょ。マスクだって皆してるし、他の国々とは道徳的レベルが全然違う。

じゃあ、何で中国も少ないの?

>むろん、隠蔽工作してるから。

それを言えば、日本だって、例えばアメリカに比べれば圧倒的に検査数が少ない。最初から計上しないのと後で減らすの違いはあっても、似たようなものです。都合が良すぎだと思うけれど。

日中どちらか一方が、世界的に見て(相対的な)感染者・死者数が少ない、というならば、まだ答えの探りようがあるのでしょうが、同じようなレベルに収まっている、というのは、どう考えても不可解です。

ちなみに中国では、1月23日、国家の独断で全国民に外出時のマスク着用令が出され、次いで14日間の移動禁止と、移動後14日間の再隔離の命令が出された。全ての国民は、有無を言わせず従わざるを得なかった。しかし、14日+14日の隔離解除後は、(一部の公共機関利用時を除いて)大半の市民はマスク無しで生活している。中共独裁政権による自由の締め付けがある代わりに、日本のような「無意識に為される同調空気への強要」はないのである(日本人から見れば、「自由」ではなく「自分勝手」ということになるのかも知れないけれど)。

幻影としての「新型コロナウイルス」

なんか、この新型コロナウイルス騒動自体が、おかしいところが有り過ぎなような気がします。少なくても、単純ではない。理屈で答は割り出せない。でも大衆は答えを欲しがる。それが出来ない、というジレンマ。その結果が、マスク着用の功績へのすり替え。でも、そこで終わらせてしまっていたら、後で大変な展開が待っているような気がします。

はっきり言えることは、「“新型コロナウイルス”は“大きな脅威”ではあるとしても“特別な脅威”ではない」と言うことです。「脅威」を広く捉えれば、種々の病気はもとより、「交通事故」とか「自殺」 といった例も含まれるでしょう。それら他の全ての「脅威」も、単純ではないはずです。それぞれに複雑多様な、時には不可解な要素によって構成されている。

さらに、これを言ってしまえば身も蓋もないことですが、そもそも「新型コロナウイルス」(問題)は存在するのか?

早い話、未だに「SARSやMARSのような一般的な固有名称」が付いていないのですよ(あえて言えば「SARSⅡ?」)。そのことには、思いのほか大きな意味合いが含まれているのかも知れません。

一般的に言って生物(ウイルスは生物ではないという定義も出来るようですが、自然界に存在し自ら動きを示す多様な実体、ということでは同じです)の種(species)の形成は、100万年以上の単位で為されます。人間社会が成り立つ時空における「新種」は、「新たに出現した種」ではなくて、「新たに見つかった(事務的に記載された)種」です。

中国の奥地で長い間昆虫や植物の調査を続けてきた筆者にとっても、調べれば調べるほど、途方もなく多様で複雑で混沌としたそれぞれの「種」の実態は捉えようがなく、肉薄出来ないままでいます。平たく言うと、同じ種(遺伝的なレベルで同一種)であっても、集団(ときには個体)ごとに、まったく性質が異なったりするのです。

「新型コロナウイルス」も、それに準じると考えて良いでしょう。例えば、SARSの無数のタイプの一つ。それが、華々しく人間社会にデビューしたのです。換言すれば、まだデビューしていない「無数の新型」が存在するわけですね。いずれにしろ全てに対応することは不可能でしょうし、一部は(見つかったとしても)意図的にスルーされているものもあるかも知れません。

筆者自身のことを少し書きます。中国を主要フィールドにしてから、今年で33年目になります。この1月の「新型ウイルス」発覚時にも、中国に滞在していました。今回の滞在中は湖北省には行かなかったけれど、武漢とは日常的に大勢の人々が交流を持つ、広州に滞在していました。

2月に入って日本に帰らざるを得ず、(中国に身の周りの物やアシストしてくれる人々を残したまま)今も日本で心細い一人暮らしを余儀なくされています。

帰国時の時点から、今に至るまで、感染検査は受けていません。今回は湖北省に行っていないこと、37.5度以上の熱がないことから、検査を受ける資格がないのです。

我慢しがたいほどの肺と気管の圧迫感、猛烈な吐き気、頭痛と眩暈、味覚の完全消失、、、それがずっと続いています。主治医の見解(肺や頭部のCTスキャン、心電図、血液検査などには異常なし)では、「きっとウイルス性でしょうね、それが新型かどうか分かりませんが」「青山さんは抗体出来ちゃっているだろうから大丈夫ですよ(その場合他人にはうつりません)」。

呑気・無責任なように思われるでしょうが、それなりのわけがあります。それらの症状は、今回現れたものではなく、ずっと以前から長い間続いています。33年間に亘る中国滞在中も、何度も現地(中国各都市)の病院で検査を受けています。結論は大抵「ウイルス性」。「新型だろうから対処の仕方は良くわからない」「衛生に留意して、充分な栄養と睡眠をとり、体調維持を続けること」。まあ、それが正解でしょうね。

「新型コロナウイルス」は、人類にとっての「脅威」ではあるのでしょうが、あくまで数ある「脅威」の一つにすぎません。突き詰めれば、自然界に存在するものは、全てが人類の脅威に成り得るわけです。そして、すべての脅威は、固有の性格を持っている。

本来、知らなくてもよかったのかも知れない「何か」を見てその存在を知ってしまったとき(いわゆる「“パンドラの箱”を開けてしまった」ということ)、見てしまった、知ってしまったからには、対応しなくてはならない。それが人類に「脅威」を与える存在であれば「排除」「退治」ということになります。

*ちなみに、ポジティブな意味合いでは、「科学」もその一つだと思います。無限の素材の中に潜む新たな方法論を見つけ出すことで、人類にとってより有益な世界を構築していく(筆者はそのこと自体ネガティブに捉えていますが、ここでは触れないでおきましょう)。

邪悪な存在(「新型ウイルス」)がわかったけれど、その実態は見えて来ない、ということで、見えない敵を退治しようとしているわけですね。シュワルツネッガーの映画だと、敵は最終的に姿を現し、多大な犠牲を伴ったうえで退治が為され、人類の勝利となるのですが、コロナウイルスに関しては、そうはいかない。続編は延々と続くはずです。

車窓からの風の心地よさ

「新型ウイルス」は、実は「敵」ではないのです。

本来なら人類と共存しなければならない「現象」の一つです(地震とか台風とかと同様に)。

もしウイルスを「敵」と見做すならば、突き詰めて探っていけば、自然界に存在するあらゆる対象が、「敵」に相当してしまうことになりかねません。

全ての生物は、他者に対する「忌避機能」を有しているはずです。自然界の全ての食材は、人類の健康に何らかの害を及ぼす、ということが、追々分かってくるのかも知れません。そうなると、人類は自然界から齎される食材を、何一つ食べることが出来なくなってしまう。

ついでに言うと、「新型ウイルス」(以前のSARSの時も含めて)は、「コウモリ主犯(媒体)説」が根強くあるようですね。筆者も、そうかも知れないとも思います。中国の田舎では、野生のコウモリはごく身近な存在で、その料理もポピュラーです。でも、コウモリがウイルスの媒体の一因を担っているとはしても、責任を全て被せてしまう(「だからコウモリを排除しよう」とか)のは、なんだかなあ、、、という気がします。

科学の力でもって「人間にとって有益」なものだけを発展させ、そうでないものを排除していく。科学、文明(その基盤を成す)民主主義社会、、、それらを絶対的な「善」として他を排除し続けて行くならば、いつか予期しないクライストが襲ってきたときに、制御不能になって、人類の未来は「詰まって」しまうのではないでしょうか?

でも結局のところ、世間は自分たちにとって有益なものだけを受け入れ、すべての悪を許さないのですね。戦って全部潰す。正義が悪を撲滅する。

ことに日本人は、良くも悪くも、「清濁併せ飲む」ことは出来ない民族だと思います。「善(人類)」と「悪(ウイルス)」が共存することを良しとしない。一方を肯定し、他方を否定する。皆が納得する答えを求める。

とりあえずの、容易でかつ目に見える答えの象徴が「マスク」着用です。(「ウイルス」とか香港における「共産政治の介入」とかを含めた)外部の空気を拒絶排除し、内側だけの同調空気の形成。マスクをしていれば、個人の自由(防御)も保てるし、周囲との(常に安定した)同調空気も共有できる。

筆者が試験問題出題者なら模範解答だとは思はないので、別の答えを用意します。「マスクなんて(よほどの事態でない限り)日常的に着用し続けるのはやめよう」「外部を受け入れ、自然の風との共存をしよう」

ひと時とは言え、新型コロナウイルスは(皮肉にも)私たちにマスクとは対極のプレゼントをしてくれました。「外からの風」です。いったい何年ぶりだろうか?電車の車窓を思いっきり開けて、外からの心地よい風を楽しむことが出来たのは。

でも、収束(勝利?)に向かうにつれ、「風」は再び追いやられてしまいそうです。冷房を生かすためには「密封」することが必要ですから。

今回のコロナウイルス騒動の被害が(世界レベルで見て相対的に)少なかった事は僥倖です。三密対策とか、移動制限とかも、被害を抑える意味はあっただろうし、多くの人が、その窮屈な生活を受け入れた、努力の賜物です。

ただ、それは 根本的な解決(最終答案)ではないと思うのです。せっかくの機会です。次の選択肢は、全く異なった次元から選んでも良いのではないでしょうか。(コロナウイルスも含めた)自然との共存。

人間の都合だけの、見せかけの共存ではなく、(少々便利さや快適さを放棄しなくてはいけないとしても)自然の側に身を委ねた、積極的な取り組みを。

筆者は、別に、原始への回帰を推奨しているわけではありません。とりあえず、少し戻ろうと。山で道に迷った時の鉄則、もと来た道をとりあえず戻ってみる(先に進むよりずっと辛いですが)。

まもなく、熱中症の季節がやってきます。「室内冷房」と「密閉」。どう折り合いをつけるのでしょうか?

私たちが為すべきことは、マスクの常時着用による平穏の維持、エアコン頼りの文明からの恩恵に安住すること、、、、ではないように思うのですが、、、。(自分たちの世界が作り出した)一か所に漂う空気に浸るのではなく、絶えず流れゆく自然の風を受け入れる時が来ている、のではないでしょうか。


JR青梅線にて


中国泰嶺山地にて


中国南嶺山地にて




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現代ビジネス最新記事

2020-03-22 20:30:07 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


そもそもなぜ中国・武漢は「新型コロナの発生地」になったのか?




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推薦記事の紹介

2020-01-28 09:22:37 | 「現代ビジネス」オリジナル記事




↓素晴らしい記事です。ぜひ読んでみてください。


ゴーン氏を逃がしたのは誰か?「チーム・ゴーン」驚きの正体と実力
佐藤優




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現代ビジネス 「天安門の記事」

2019-08-19 16:13:08 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


私が目撃した「天安門事件」あの日、中国の若者に訊ねられたこと
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現代ビジネス最新記事

2019-08-19 10:17:18 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


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香港デモで「正義の香港市民」に暴行されかけて抱いた悲しみと違和感
「正義」とは何なのか?


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「現代ビジネス」なぜ中国の地図には「国境線」が書かれていない場所があるのか

2018-12-17 21:20:11 | 「現代ビジネス」オリジナル記事
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日中の最前線「琉球弧」の島々をゆく






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現代ビジネス最新記事

2018-12-02 16:06:30 | 「現代ビジネス」オリジナル記事

「メンドンとボゼ」世界が認めた謎多き「来訪神」の正体はなにか


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世界遺産になる前に「奄美・沖縄」について日本人が知るべきこと

2018-11-08 19:53:58 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


☆「現代ビジネス」南西諸島2
最新オリジナル記事です。


世界遺産になる前に「奄美・沖縄」について日本人が知るべきこと


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現代ビジネス:アメリカ記事

2018-07-07 08:41:50 | 「現代ビジネス」オリジナル記事


ミズバショウや杉も?日本の植物がなぜか「北米大陸」で見つかる謎

U氏への私信 Ⅲ 2018.7.6

仕事とは無関係の、全くの個人的な話です。
(心情をすぐに伝えられる相手が日本には限られているので)

全く、意味が異なるということを承知のうえです。
どうしても「大逆事件」を思い出してしまいます。
繰り返し言いますが、全然意味が違うし、彼ら(オウム信者たち)のやったことは、死を持っても拭えないことです(まあ、それを言えば安倍さんだって、、、、この話はやめましょう、笑)。
でも、僕の思いは「大逆事件」に重なる。

非常に仲のいい友人が、オウム(それも幹部)にいました。僕を全面的に信頼してくれていました。むろん(といって良いか)死刑囚の人たちには含まれていません(実行犯ではないので、、、でも彼女と一緒にいる時は僕も尾行されたのですよ)。

彼女の人柄は、「真面目」「物事に対し真剣に向き合う」「自分中心ではなく常に他人の事を考えている」「素直」「質素」「明るい」「頭が良い」「それなりに美人」、、、、いいとこだらけですね。友達として、少なくともU氏よりは(僕自身よりも)ずっと上です(笑)。

サリン事件があった後、しばらくして連絡が途絶えました。それっきり会っていません。最後の電話での短いやり取りが、今も頭にこびりついています。ずっと以前から彼女にしていた質問の答えです。永い間、ずっと考え続けてきたことなのだそうです(敢えてここには書かない、笑)。

話しが飛躍します(むろん僕の中では直結しているし、人によってもそう~空白部を埋める能力がある~と思いますが)。貴兄からすれば「支離滅裂」で「幼稚極まりない」ということは、理解していますけれど、、、。

僕は、死刑は、いかなる場合でも、絶対に反対です。僕の唯一の信念です。




U氏への私信 Ⅱ 2018.7.5

これ、送信しようかどうか迷っていたのです。立て続けにメールして、これ以上貴兄に嫌われたくないですし、、、(笑)。

でも、もう一つ言っておきたいことを突然思いついて、メールすることにしました。そのもう一つ、とは。

貴兄へ訂正願い。僕に「余生」はありません。全て「人生」です。貴兄も僕の年になれば分かると思います(分からない人もいるかも知れないですけれどね)。もう、一日一日が勝負なので、早めに言っておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なぜアナゴはウナギの代わりにならないのか、その違いは?


非常に失礼な表現になるでしょうが、、、。そして、こんなことを書くと、貴兄に益々嫌われる(バカされる?)結果になるだけなのかも知れませんが、、、。

むろん自分の為でもあるのでしょうけれど、貴兄の将来、そして日本のメディア(ひいては日本人)の為を思っての、意見です。僕は貴兄の友人だと思っているので、はっきりと言います。

貴兄や、その所属するマスメディアという背景が、今更ながら恐ろしく思えてきました。重ね重ね言いますが、失礼に当たるようならば、どうかお許しください。

前にも同じような質問をして「否」という答えを頂いたのですが、、、上の記事は、貴兄が執筆されたのですか? そうであれば、ホッとするのですけれど。もし、本当に“そうでない”ならば、非常に怖いです。

僕から見れば、論調や言葉使い、話しの進め方が、余りにも酷似している(というか、全く同じ)。これが貴兄の筆によるものなら、「個性」で一件落着です。

しかし、別人の筆によるならば、、、、まさにクローンの世界ですね。「良い文章の書き方」というものが、それこそ「クオリティ・コントロール」され切っている。

(本人でないとすれば)U氏ご自身は気付かれないだろうど、いつの間にか「正しい文章の書き方」というのが「教科書的」に定義・構築されてしまっている。中にいる人間には分からないだろうけれど、外(現実的には、好むと好まざると、日本の社会の仕組みの「外」にいることの出来る日本人は、ごく少数派)から見ると、異様ですよ!

逆説的な意見になりますが、このような記事が、「理論の飛躍と矛盾のない」「具体例が示され」「一定の水準に達した」文章として(個人の個性としてではなく)共通認識されているとすれば、もちろんのこと、僕の書くような文章は「矛盾だらけの飛躍した理論」に基づく「具体例の示されていない」「公に発表出来る一定水準に達していない」記事として、全否定されてしまうわけです。

繰り返し言うけれど、自分を守ろう(自分の文章なりを正当化しよう)と思って言うのではありません。また、この文章や記事の内容自体を批判するつもりはありません。それなりに面白く、単独で見れば好意的に受け取りたいです。

でも、まるで金太郎飴のような、「飛躍と矛盾のない理論」「具体例の提示」による“いかにも”な構築で成された記事ばかりが、横並びで示される現状に対しては、つくづくウンザリするしかありません。

「一定の水準に達した文章」を言い換えれば、ある意味、自己保身を過剰に纏った文章であるような気がします。そして、想像力に欠けた、形通りに収まった思考パターン。僕を含め、全体からすれば少数かも知れないけれど、たぶん少なからず数の読者は、そのような記事によって発せられる、メディアの吸引力に辟易し、未来を危惧しているのです。



U氏への私信 Ⅰ
2018.7.4

> 「天安門の話、そう卑屈にならずに書いてみたらいかがですか?」というU氏からの提案を受けて。

天安門事件の話は、たしか「逮捕」の記事のコメント欄の中で、当時北京の大学にいらした「不倒翁」さん共々、お互いの体験談をかなりの分量(一回400字なので互いに7~8回)書き記しています。

ただ、お送りしたメールにも書いたように、「体系的な知識がなく、稚拙な表現しか成し得ない」(別に卑屈になっているわけではなく、半分くらいは誇りです)僕には、貴兄の望むような文章は書けないと思います。おそらく、たまたま一般人が遭遇した、どうでも良い、つまらない(重厚さに欠ける)話、としか受け止めてもらえないことと思います。僕自身や(一部の読者は)、そのような「重厚さに欠ける、さりげない(つまらない)部分こそ、深遠部分に繋がる」と信じているわけですが、大勢はそうではないわけですから。

天安門事件との関りについては、これまでも何度か貴兄にお伝えしている(はず)です。繰り返し言うけれど、「重厚さに欠ける、さりげない(つまらない)話」でしかありません。

●留学生たちは、ひと月ほど前から、ある意味「今か今か」と事態の展開を待ち構えていた。毎日のように、その話題で議論を交わしていた(それ以外はゲームと相当に乱れ切った男女交際)。僕は、全くその輪に入れてもらうことが出来ず、連日、山に調査に向かっていた。

●北京で事件が起こった当日、僕は終日、(日本人以外の数人の欧米人や中国人学生と共に)成都最大のホテル「錦江賓館」屋上のレストランバーにいた(日本人学生たちがどこにいて何をしていたかは知らない)。

●非常に緊張・高揚した空気が、町中に漂っていた。僕は、錦江ホテルの向かいにある、もう一つの高級ホテル「ミン山飯店」との間に挟まれた、町(地方都市と言っても人口1000万人を越す東京並みの大都市)の中心の広場を兼ねたメインストリート(東京で言えば銀座4丁目)を見下ろしていた。

●午後になると、刻々と人が集まってきた。まるで甘いお菓子に集まる蟻のように。その数は膨れ上がり、やがて膨大な黒山の人々の群れとなった。

●正直、僕は政治のことなど何も知らない。2か月前までは重慶にいて、仲の良かった中国人日本語学科学生たちに、何度も何度もこう尋ねられた。「日本の昔の学生は素晴らしい、我々は手本にしなくてはならない、60年安保、70年安保の時の状況を、何でも良いので教えて欲しい」と。、、と言われても、完璧ノンポリの僕には、その頃何が起こっていたのかも知らないでいた(70年代末には東大の弥生の校舎内に寝泊まりしていたので、朝晩パトカーがやってくること、有名歌手のご主人という人からの電話をいつも取りついていたこと、、、などから、以前“そういうこと”があったのだな、という空気だけは知っていたけれど)。

●そのような、全く「無知」な人間としての感想。裏付けなどないわけだから、感じたこと、としか言いようがない。

●広場に波のごとく押し寄せてきた人々は、とても「政治的」思想を持った人々とは思えなかった。どう見ても、ただの一般市民。それらの人々が、まるでお祭りのごとく、(まるで無関心な僕でさえ高揚した気持ちでいたほどだから、その時点では、政府に対する学生や民衆の動向も、変則的な形であるとはしても、随時報道されていたようである、、、、“事件”後は、全く報道されなくなったが)ストリート・ファイトを始めた。ものすごい人数。それはもう、世界の終りのような光景。

●その夜、(静寂に包まれた)大学の宿舎の個室に戻った僕に、日本から電話がかかってきた。日本のメディアからである。日本人学生が一人もいず(何処に行っていたのだろう?)、守衛さんが仕方なく僕に電話を回したのである。僕はまともな感想は何も言えず、(日本人)学生たちは非常に高揚していること、構内は安全地帯であること、日本人にはまだ帰国勧告は出されていないこと、および昼間見た光景、などを短く伝えた。

●翌日、改めて町へ出た。まだあちこちでファイトは続いていた。数多くの車が焼き討ちにあったりひっくり返されたりしていた。一目で、多くの死傷者が出ているだろうことが見て取れた。「ミン山飯店」に行ってみた。ホテルの玄関は破壊されていた。馴染みの受付嬢たちに会おうと思ったのだけれど、フロントには誰もいない。「誰かいる~?」と声をかけたら、フロントディスクの下から彼女たちが顔を出した。まだ怖くて、普段は隠れているのだと。

●僕が最も感じたことは、、、この町でも実際に血生臭い大暴動が起こったのにも関わらず、市民たちは(多くの学生も)誰一人としてその話題に触れようとしなかったこと。テレビの画面では、朝から晩まで、延々と「首謀者学生」たちの顔写真が流され続けている。それが全て。この時ほど中国の「不気味」を感じたことはない。

●数日後(事件の翌々日だったかも知れない)、いつものごとく僕のフィールドの都江堰(のちの四川大地震の被害中心地)にバスで向かった。中間地点で公安が乗り込んできて、僕と連れの中国人学生は、バスを下ろされた。中国人学生が自分の身分を証明し、僕についても詳しく説明してくれた。僕としては、その後の対応が印象に残っている。公安が、僕ら二人を、横に座席が付いたパトカーにそれぞれ乗っけてくれて(一度乗りたかった!)、目的のチョウやセミの観察地点まで送ってくれたこと。

●諸外国の留学生には、次々と母国からの帰国勧告が出たようだが、日本は最後まで出されなかったように覚えている(僕の帰国はひと月ほど後)。

●僕は、日本人学生たちからは、いじめと言っても良いほどの差別待遇を受けていたが、それでも自分からは積極的に話しかけるなりしていた。中年の日本人教師の一人が、常に僕の部屋にやってきた。彼は非常におびえていた。一刻も早く日本に帰りたい。勧告が出されるのを待っているわけにはいかない。どうか、一緒に日本に帰ってくれ、と。それとは別に、彼は日本人の留学生たちとは全く接点がなかった。可愛い女子学生がいる。自分が話しかけるチャンスはない。どうか橋渡しをして欲しい。結果は、代わりに話しかけた僕自身が(今でいう)セクハラ扱いを受け、悲惨な思いをした。結局僕は(成都を離れるも)中国には後一か月ほど滞在したのだが、彼は帰国の準備が整うと、いの一番に逃げ出したようである。そして、笑ってしまうことに、帰国後すぐにあちこちでインタヴューなどを受け、事件当時の自分の振る舞いを、武勇伝として本まで出版した。

●成都における天安門事件時の印象を纏めれば、、、。

●ひと月ほど前からの、日本人留学生たちの政治談議(中国人学生による決起が近く起こるだろうという予想)が、異様なほどに盛り上がっていたこと。

●成都に於いても大暴動があった。報道は成されないが、多くの(一般市民の)死傷者が出たと思われる。

●ただし、少なくても成都における暴動の「主体」は、(引き金になったのはそうであるとはしても)「政治的」な思想に基づく人々によるものではない。巨大な「野次馬」の塊だったように思う。

●そして「血生臭い現実」と、それを「全く口にすることのない市民」の対比。

●その数日後、僕は一人で、その当時はまだ今のような巨大な観光地化とはされていなかった、九賽溝に向かった(路線バスを何度も乗り継ぎ)。そこで出会った、スロバキア、イギリス、ドイツ、スイス、アメリカ、イラクの人たちとの旅行。ちょうど20歳の誕生日を迎えたイギリスの“自称パンク”の女の子との、悲惨極まる(全ての公共バスへの乗車拒否、困難を極めたトラックのヒッチハイク)帰路。その話は前に書きました(ボツにされたけれど、笑)。

●日本へは一月近く経ってから、上海経由で戻った。上海では数日間「師範大学」宿舎に滞在した。以前から仲の良かった、有名歌手と同姓同名の田園調布出身の女子学生が残っていた。彼女における傑作な話。日本に、婚約者がいたのである。しかし、天安門事件勃発の恐怖(上海でも大変だったらしい)から、親切にしてくれた近くにいたイスラム系の学生と出来てしまった。時間が経って冷静に考えれば、これは「大失敗」なのではないか、と。

●その年、一度日本に帰ったあと、再び成都を訪れた。重慶の大学にいた時、最も仲の良かった男子学生と、山際の町(例のパンダ棲息地の近く)で再会した。彼の名は「戦」。父親が、抗日運動の闘士で、バリバリの共産党員、日本と戦うため、息子に「戦」の名を付けた。彼はそのことが嫌でたまらず、父親に対する反感からか、猛烈な親日家になった。僕は30年間に及ぶ中国滞在中、彼ほど日本語が堪能で、日本文化を理解している中国人に、未だ出会ったことがない(日本を訪れたことはない)。なにしろ、北原白秋の詩を、空で延々と、淀みのない日本語で読み続けることが出来る。

●重慶を離れる前(すなわち天安門事件の前、、、前述した60年安保、70年安保に非常な興味を持っていたのは彼である)、日本に帰ったら買ってきて欲しい、と頼まれていた、岩波じゃないほうのコンパクトサイズの「漱石全集」と「鴎外全集」の各一部を携えて、彼に渡した。

●その時、彼は康定で採れたマツタケを如何にして日本にスムーズに輸出することが出来るかを思案していたのだが、別れる時、意外な話を持ち出された。自分は、天安門事件に関わっている、と。僕自身は、天安門事件には何ら興味が無かったので、詳しい話の脈絡は忘れてしまった。首謀者の一人の女子学生が友人である。彼女が(たしか香港経由で?)米国に逃亡するのを手伝った。その際に、手記を手渡された。それを日本のメディアで発表してくれないだろうか?もし引き受けてくれるところがあるならば、その時に写しを渡す。

●帰国後、確か週刊朝日の記者に、そのことを伝えたのだが、端から相手にしてくれなかった。その後、彼には会っていない。

まあ、そんな話です。

どれも、たまたま一般人が遭遇した、どうでも良い、検証しようもない、文字通り重厚さに欠ける、非体系的な話です。僕の稚拙な筆力では、読んでもつまらない話にしかなりません。ただ、時代の(全く側面からの)傍観者のリアルな感想として、貴兄に伝えておくことは、(将来何かのきっかけに)意味を成さないとも限らないだろう、と思っています。

>> U氏からの返信概要。
結構面白いですが、おそらく青山さんと僕では面白いと感じるポイントが違うので、これもやはり僕がインタビューして書くほうが(僕や上司が満足する原稿を作るには)話が早いでしょう。なぜいま天安門なのかという疑問はありますが(来年なら30周年です)。

<< 僕の想い。
安易に記事にはしたくないし、もしするならば、僕の想いを、そのまま伝えるだけ。それが読者に受けないのであれば、止めるしかないでしょう。ただしU氏に提供したわけですから、U氏の判断でどのように利用して頂いても、それは構いません。





小笠原返還50年「かつての自然を取り戻す」プロジェクトへの違和感





ネットニュースへの感想[1]



「ホームレスが路上生活を始める意外過ぎる事情」。これは、とても良い記事だと思います。



ネットニュースへの感想[2]

北朝鮮に拉致された田口八重子さん(当時22歳)の長男(母親拉致当時一歳)の方の記事が載っていました。

僕自身は、日本と北朝鮮の問題に関しては、まず関係を回復させることから始めねばならない、拉致問題への言及・交渉は、その後に行うべき、という意見で一貫しています。

日本の(特に若者の)多くの市民が、安倍さん(および周辺の右寄りの人たち)の巧みな尻尾に乗っかって、「和解」ではなく「戦争」に向かうことを望んでいる。“意識して”ではなく、“無意識的に”だからこそ、怖いのです。

自分たちは「右」ではなく、「中道」「正義」だと信じているわけです。最近あった、有名歌手の「日の丸」に関しての歌詞の問題(それに対する当人の見解)も、この上もなく悍(おぞ)ましく感じます。

しかし、下に記した読者のコメントの遣り取りについては、深く考えさせられるものが、、、、。

(読者の一人のコメント)
>たった数人の為に戦争しろと? 帰って来られたとしても、親の面倒を見れないのでは? 生活支援のため国が面倒見ろって事になれば、また税金でしょ、、、、。拉致被害者を帰国させるまでに、莫大な税金が掛かるんじゃ?

(それに対する別の読者の返信)
>たった数人の為に戦争しろと?
そういうこと。それが国のプライドだと思うよ。被害者救出にかかる税金云々は、たいした問題じゃない。

上の二人の遣り取りに関しての僕の気持ちは、「ダブルスタンダード」ということになってしまいますが、後者の方を支持します。

気骨のある「右」、情けない「左」、、、現状は、悲しいかな、そういうことなのだろうと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記:僕もちょうど30年前、中国重慶の大学で、北朝鮮の工作員に拉致されかかったことがあるのですよ。それに関してはどっかに書いたっけ? たぶんまだ書いていないと思うので、いつか詳しく書きましょう。




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