青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(30)

2011-10-24 22:04:45 | アメリカン・ポップスearly60’s


You-tubeは、どこに何が収められているのか、さっぱりわからない。さっきあったはずのが、一度見失ってしまうと、どこに行ったのか分からなくなってしまいます。まるで手品みたいにどこかに紛れ込んでしまう。それを延々と探しているうちに、今度は別の、レア映像が突如出てきたりします。

Johnny Tillotson(前々回話題に挙げた)最後から2番目のC&Wチャート・ヒット「Toy Hearts」(1977年Billboard Hot Country Singles第99位)。が突然出てきました。初めて聴くことが出来た曲です(まさかこの曲が聴けるとは思ってもいなかった)。You-tube上から消されてしまわないうちに、紹介しておきます。

Johnny Tillotson「Toy Hearts」



Johnny Tillotsonの米チャートヒットは、BillboardHot100に、Bubbling Under、C&W、CashBoxTop100を加えて、計36曲有りますが、その35曲目がこの曲。これで、僕がまだ聴いたことのないチャートヒットは、1968年Billboard C&W第63位の「I Can Spot A Cheater」1曲を残すだけとなりました。







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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(29)

2011-10-23 12:43:49 | アメリカン・ポップスearly60’s


You-tubeというのは、一体どこまで増殖するのでしょうか?Johnnyの曲だけでも、今月に入って7つか8つは増えているようです。毎週ひとつぐらいの割合で増えているみたいですね。

Johnnyの曲で、数多く張り付けられているのは、もちろん「ポエトリー」と「涙ながらに」ですが、その2曲よりも、さらに多く張り付けられているのが、「Why Do I Love You So(こんなに愛して)」と「Judy, Judy, Judy」。(日本を除く)アジア各国で大ヒットしたらしいこの2曲が、いつ頃どこの国でヒットしたのかを調べたいのですが、なかなか具体的な情報が得られません。ご存じの方がいらっしゃったらご教示いただきたいです。

これはだいぶ前で去年の年末にアップされたものですが、僕の好きな“ジョニーズ・ガール(「Judy, Judy, Judy」ラインダンス版)”も、しばらくチェックしていなかった間に、新しいのが加わっていました。全部で10パターン近くあるので、聞き(見)比べると面白いです。フィリッピンなのか、タイなのか、マレーシアなのか、、、、(「こんなに愛して」のほうは、どうやらミャンマーでもヒットしていたみたいです)。

前回アップしたのにも、僕の好みのタイプの女の子が映っていたけれど、今回も、好みのタイプが映っていました!真ん中で踊っている娘です。

Johnny’s girl


「こんなに愛して」のほうも、一つ紹介しておきます。今度の「Out Take」にも収録されていない不思議なヴァージョンです。この“不思議”ヴァージョンは2種類張り付けられていて、紹介するのは「Porque te amo tanto」のタイトルで4年前から張り付けられているもの。

Johnny Tillotson 「Why Do I Love You So(Porque te amo tanto)」

同じバージョンは、最近、もう一種類投稿されています。これに付随した動画レスポンスに、「Tears On My Pillow」(1969、AMOSに移籍後最初にリリースされ、スモール・ヒットを記録)が紹介されています。どうも市販されているものと、違うような気がする(もっとも長い間聴いていなかったので実際は同じなのかも知れませんが)。登校日の2011年10月13日といえば、10日しかたっていない。なのに再生回数870、コメント71というのは、johnnyの曲としては異常に多い(早い)ように思います。

Johnny Tillotson 「Tears On My Pillow」

追記:今気づいたのだけれど、どうやら3種類づつの「Why Do I Love You So」がYou-tube上にアップされているようです。


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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(29追加)


今朝8時に寝て、お昼すぎに起きてネットを開いたら、一眠りしていたうちに、10数個増えていましたよ!(ほかに偽物も幾つかあり、笑)。

消されてしまわないうちに、いくつかを紹介しておきましょう。

Johnny Tillotson 「The Outtake(“Judy, Judy, Judy”ほかメドレィ)」
ベアー・レコードの宣伝ですね(高価なので僕はまだ買っていない)。

Johnny Tillotson 「Song Of Hank Williams(例の「John Edward Beland」との共作?品、1973年)」
最初にラジオからJohnnyの「Lovesick Blues」が流れてくるという、、、。


Johnny Tilottoson (with Genevieve)「I’m Never Gonna Kiss You」
「Outtake」にも収録されている幻の1958年リリース盤(第2ボーカルです)。


Johnny Tilottoson 「Cabaret」
ラディオショーのテーマ曲?。

ほかに、satintearsさんの投稿には「Sandy Kind Of Woman」とか「If I Were A Rich Man」とか、CD化されていない後期の曲が
沢山アップされています(音が著しく悪い)。たぶん、すぐに消されてしまうのではないでしょうか?

Paul Evans 「Rose Are Red(エヴァンスが自分で唄っている?)」
なんてのもありました。

あと、1987年オーランドでのライブ(DVDで市販)も、25分間が丸々張り付けられているので、そのうち紹介しましょう。



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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(28)

2011-10-22 11:30:04 | アメリカン・ポップスearly60’s



まず、前回の続きで、Kris Jensenの曲を紹介します。

Kris Jensen 「Please Let Me Love You Tonight」 


Kris Jensen 「Poor Unlucky Me」

なぜ、2曲目以降のヒット曲が出なかったのか?

Ricky Nelsonと、Everly Brothersと、Roy Orbisonと、Johnny Tillotsonと、Brian Hylandをブレンドしたような、とても“質のいい”声だと思います。あるいは、そこにブレイクが続かなかった秘密があるのかも。あまりに平均的で、いわば個性に欠ける。そういうことなのかも知れません。

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特集 RICKNELSON 69

Ricky Nelsonファンのかた、申し訳ない、リッキーとは全く無関係の話です。でも「Ricky Nelsonに恋して」のmarierenさんは先刻承知ですよね。

Malielenさんが尊敬しているという、米国「ricknelson69」氏(たぶん男性?)がYou-tubeに張り付けた、Johnny Tillotsonの曲の特集です。

You-tubeのJohnnyファンと言えば、ダントツに「ILoveJenny47」さん(たぶん女性)が有名ですが、「ricknelson69」氏も、負けずにJohnnyの曲を張り付けています。なんといっても、選曲のセンスが素晴らしい!

以前、marierenさんのところでやっていた“Ricky vs. Johnny”が終わった時に、まだほかにもあったら教えて、という問いかけに、断然「Hello Walls」が素敵です!と答えようと思ったのだけれど、Johnnyの「Hello Walls」はYou-tubeになかったので、リクエストをあきらめたのです。その曲が「ricknelson69」氏の手で張り付けられていました。

それを紹介するとともに、「ricknelson69」氏によってYou-tubeに張り付けられたJohnnyの曲を、いくつか選んで紹介しておきます。

Johnny Tillotson 「Hello Walls」

ジョニーが敬愛するという、C&Wシンガー、Faron Young(ファロン・ヤング)1961年の大ヒット曲(Pop12位、C&W 1位)。Johnnyは62年夏にリリースされた、2枚目のアルバム「涙ながらに/It Keeps Right On A Hurting」の締めくくり(B面6曲目)に、この曲を置いています。Johnnyお得意(?)の“明るい失恋歌”の面目躍如といったところでしょう。

Johnny Tillotson 「Your Memory Comes Along」


僕のNo.1Fauborete-songは、「恋はつらいね/Heartaches By The Number」なのですが、それと並ぶJohnnyのBest-songが、この「君の面影/Your Memory Comes Along」です。Johnnyの自作品(Paul Tannenとのゴールデンコンビ)の中でもNo.1の出来ではないかと。1965年 「Heartaches By The Number」のB面、最強のカプリングなのです(2曲とも65年夏リリースの6枚目のアルバム「That’s My Style」に収録)。

Johnny Tillotson 「One Red Rose」

Johnny Tillotson 「Just As Long」

1965年末にリリース(Johnnyはこの年3枚のアルバムをリリースしています)された「Johnny Tillotson Sings」から2曲。通算8枚目のアルバムで、それ以前の7枚に比べてファンの間の知名度は劣ると思うのですが、今聞き返してみると、これがなかなか素晴らしいのです。殊にA面の6曲。その流れがとてもいい。

本来トップに来るべき「Our World」が6曲目で、トップは以前に発売されたシングル盤のB面曲「One’s Yours One’s Mine」(Johnny自身の作品では、全述の「Your Memory Comes Along」、このあと紹介する「Just As Long」と並ぶ出来)。

2曲目が、この「One Red Rose」。作者の一人Paul Evans(1938年生まれ)は、Bobby Vinton「涙の紅バラ」の作者として有名なソングライター、60年代初頭に、自らの歌唱で数曲の大ヒットを放っているテーンアイドル歌手の一人でもあります。彼のH.P.のリンク欄には、いの一番に「僕の相棒」として、JohnnyのH.P.が紹介されています(JohnnyのH.P.にも、真っ先に彼のH.P.がリンクされている)。

3曲目が、Johnny自身、Johnnyの最初の奥さんのLucille(来日コンサートの時、僕とルシルは「キューティー・パイ」に合わせて、舞台裏で一緒にダンスをしたのです)、それにPaul Evansが共作した「Just As Long」。Paul EvansがJohnnyと共作した曲は余りないので、貴重な一曲です.

4曲目の「I Never Loved You Anyway」のイントロは、そのうちに紹介しようと思っている、Johnnyたち“狭間の世代の歌手”の先輩格にあたる50年代トップ女性シンガーの一人、Teresa Brewer/テレサ・ブリューワーの「He Understands Me/ヒー・アンダスタンズ・ミー」(JohnnyのShe Understands Me、Bobby VintonのDam De Daと同じ曲)の出だし部分にそっくり(Andy Williams/アンディ・ウイリアムスの大ヒット曲「Can’t Get Used To Losing Of You」のイントロにも似ている)。「One Red Rose」同様、Paul EvansとPaul Parnesの共作。

5曲目は、Johnnyのもう一人の相棒の、Paul Tannen(1曲目の「One’s Yours One’s Mine」ほか多数の曲をJohnnyと共作しています、1966年に来日した時に、僕はTannenに「日本人形」をプレゼントしたのです)が単独で書いた「Strange Things happen/不思議なことが起こった」。日本語タイトルの謂れについては以前「青山潤三ネーチャークラブ」に記したので、そちらを参照してください。Paul Tannenは、Johnnyとの共作時より、単独作品の方に、より素晴らしい曲(「どうしようかな?」など)があると思うのですが。

そして6曲目が「Our World/アワーワールド」(Paul EvansとPaul Panesの作)。ちなみにアルバムのB面一曲目が、シングル「Our World」のB面曲でもある「My Gidget」で、当時毎週放映されていたT.V.ドラマ「ギジットは15歳」の、タイトルバックに使われていた曲です(たぶん次回の「あやこ版」で紹介するはず)。

Johnny Tillotson 「Island Of Dreams」

Johnny Tillotson 「Willow Tree」

1965年初頭にリリースされた、6枚目のアルバム「She Understands Me」からも2曲。僕は、このアルバムが、Johnnyの最高傑作だと思っています。そのうちに詳しく紹介する予定です。

Johnny Tillotson 「This Ole House」



1964年夏にリリースされた、5枚目のアルバム「Johnny Tillotson Touch」から。このアルバムは、Johnnyとしてはかなり実験的な作品で、従来のC&Wタッチの曲と、それとは別編曲者の手になるジャジーなスタンダードナンバーに、2分されています。Jonnyのスタンダードポップスも、それなりに聴きごたえはあるのですが、C&Wタイプの曲が出てくると、ほっとした気分になります。やはり彼には、こちらのスタイルの方が合っているようです。Stuart Hamblen/スチワート・ハンブレン作のカントリー・ロック、50年代初頭に、作者自身のほか、当時の人気女性歌手Rosemary Clooney/ローズマリー・クルーニの唄で大ヒットした曲のリメイクです。

Johnny Tillotson 「Come Softly To Me」

1963年秋発売の3枚目のアルバムから。62年の初頭と夏にリリースされた、1枚目の「Johnny Tillotson’s Best」、2枚目の「涙ながらに」が、ともにアルバムとしても一つの作品たるべく、考え抜かれた曲の配置が成されているのとは対照的に、ケイデンス倒産(およびJohnnyのMGMへの移籍)が決まってからリリースされたこのアルバムは、これまでのアルバムに未収録の曲の“寄せ集め”の感が否めません。その中で、唯一光っているのがこの曲。日本では、アメリカでのヒットから4年遅れでリリースされた「Poetry In Motion/ポエトリー」に次いで、64年初夏に発売、人気絶頂時ゆえ、単調な曲調ながら、それなりにヒットしたようです。

むろん、The Fleetwoods/ザ・フリートウッズ1959年の大ヒット曲のリメイク。フリートウッズの曲は、リアルタイムでは日本で全く知られていなかったといっても良いのですが、2大ヒット(ともに59 年Billboard Hot100第1位)の「Come Softly To Me 」と「Mr.Blue」が、5年後の64年になって、それぞれJohnny TillotsonとBobby Vintonのアルバムから日本独自でシングルカットされ、ヒットしたというのも、何かの縁かも知れません。

Johnny Tillotson 「Oh. Eine Tolle Frau」



1964年春の、MGM移籍後2曲目(通算19曲目)のヒット、「ナイスガイ・ジョニー/I’m A Worried Gay」(Paul Evans & Paul Hart作)の、超レア・ドイツ語録音盤。実は、この曲は日本語でも録音されていて、日本コロンビアから、64年夏に発売予定だったのです。ところが、その直前に、米MGMが日本コロンビアと契約解消、すぐ前に旧レーベルのCadenceも、日本キングレコードと契約を解消していたため、人気絶頂時にあって、再び日本では一曲もリリース出来なくなる、という事態に陥ってしまいました。




当時、「日本Johnny Tillotson Fan Club関西支部長」(笑)をしていた僕は、この日本語のテスト盤を、今も何枚か所持しています(紹介した写真がそれ)。これこそ“超”が3つほど付くレア盤だと思います。B面の「Please Don’t Go Away/ドント・ゴー・アウエイ」(ジョニーとルシルの作)も、Under Bubbling 112位と小ヒット。こちらも日本語で歌われています(こちらをA面に予定していたようです)。さらに、次のシングル「君に心を奪われて/I Rise, I Fall」b/w「恋のいらだち/I’m Watching My Watch」も、漣健児さんの訳で日本語録音が成されていたはず。しかし、いずれも発売されることなく、お蔵入りになってしまいました。

Johnnyの次の日本でのリリースは、(米MGMの販売権を獲得した日本グラムホンから)翌65年春の、日本語表題を変えての「恋のウルトラC/I Rise, I fall」、正式な日本語初歌唱は、65年秋の「涙くんさよなら/Good-by Mr, Tears」 を待たねばならなかったのです。幸い、この2つの曲は大ヒットに結びつき、日本でのJohnnyの代表曲の一つになったのです。もし、日本コロンビアから、順当に“最初の日本語盤”「ナイスガイ・ジョニー」と、“最初の日本語タイトルのままのI Rise, I Fall”「君に心を奪われて」が発売されていたなら、果たして「恋のウルトラC」や「涙くんさよなら」のようなヒットに結びついていたかどうか、、、。

Johnny Tillotson 「Blowin’ In The Wind」

最後の一曲は、あやこさんへのプレゼント(笑)。あやこさんが大好きだという「風に吹かれて」です。64年初頭MGMからの初アルバム(通算4枚目)の、B面最後の曲。PPMの唄で63年に大ヒットした、いわばディランの出世作です。JohnnyとBob Dylanは、どう考えてもミスマッチだと思うのですが、、、、。まあ、こんなDylanナンバーもあっても良いでしょう。

ジョニーとディランは、“年齢”はさほど違わない(ディランが2歳下)のですが、“年代”は(イメージ上)大きく異なります。まあいわば、Johnnyは旧世代の代表、Dylanは新世代の代表ですね。そのことについては、また別の機会に(C&W音楽評論家・高山宏之氏の当時の評論記事などとともに)紹介したいと思っています。

以前にも何度も触れたように、「ロック音楽」や「アメリカン・ポップス」の歴史を述べた本は、どれもボブ・ディランに多大な分量を割いています。そして数百ページに亘ってDylanについてに述べられている、それらの本のなかには、“狭間の世代”の歌手については、ほとんど述べられていません。Johnnyに至っては、一言も触れられていない、というのが通常です。両者の実績は、月とスッポン(むろんJohnnyが“いつものごとく”後者)ですから、仕方はないでしょう。

でも、ちょっと待ってください!そう言い切ってしまって良いのでしょうか? Billboardの1999年版「Top-pop singles」をチェックすると、Johnnyは148位、Dylanは176位。Hot100登場曲数は、Johnny26曲、Dylan23曲。トップ40に限れば、14曲と12曲。ベスト10は、ともに4曲(ともに最高位は2位)。Adult contemporaryで、ジョニー9曲(全てトップ20以内、ベスト5に5曲)、ディラン4曲(4曲ともトップ20以内、ベスト5に1曲)。C&Wは、ジョニー6曲(ベスト5に1曲)、ディランはゼロ。

時代が10年前後ずれるとはいえ、実に拮抗しているのです(しかも大半はJohnnyが上回っている)。

むろん、あくまで(シングル盤のチャートにおける)数字の上の結果ですし、これをもって“月とスッポン”の立場が変わるわけではないことは、言うまでもありません。アルバムでの実績や後年の評価などは比べものになりません。でも、「数百頁の記述」対「記述ゼロ」ということはないと思うのです。
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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(27)

2011-10-20 11:27:09 | アメリカン・ポップスearly60’s






今日は、昨日の話の中に登場した、“栄光の一発屋”Kris Jensen(クリス・ジャンセン)を紹介しましょう。

Kris Jensen 1942年4月4日 コネティカット州生まれ。

1959年6月Colpixレコードから「Staying Up Late/Bonnie Baby」でデビュー。Leader→Kappとレーベルを移り(偶然かどうか、同時期のBryan Hylandと全く同じ航跡です)、さらにHickoryに移って、1962年5月リリース(Johnnyの「涙ながらに」と同じ月です)の通算6枚目のシングル「Torture」でブレイクします(Billboard Hot100第20位、11週間ランク)。その後、1964 年末までに計12枚のシングルをリリースします(アルバムも発売されています)が、2曲目のHot100チャートはなりませんでした(63年初頭に「Don't Take Her From Me」がUnder Bubbling 112位を記録)。

今日紹介するのは、唯一のヒット曲「Torture」と、64年6月にリリースされた11枚目のノン・ヒット・シングル「Come Back To Me (My Love)」です。

お分かりの通り、Roy Orbisonの“日本限定”(初)ヒット曲で、Orbison自身の作。「Torture」の作者John D. Loudermilkだけでなく、Evarly Brothersに数多くの曲を提供しているBoudleaux & Felice Bryant夫妻、Roy Orbison &Joe Melsonのコンビといった、最高の布陣で彼を支えていたわけです。今更ながら“一発のみのヒット”が不思議でなりません。

You-tubeには、数多くの曲がアップされています。不思議なことに、肝心の「Torture」が見当たらない(ひどく音声再生の悪いのが一つ有りますが)。下に張り付けたのは、“音楽”のコーナーでないところから引っ張り出してきたものです。なぜか、かつての映画スター「ゲイリー・クーパー」のスライド・ショーの、バック・ミュージックとして、アップされているのです。Kris Jensen「Torture」と、ゲイリー・クーパーが、どのように結びつくのかは、全く不明です。

面白いのは、Kris Jensenの曲には、ほかにも結びつきがよく分からないのがあります。当時の大統領ジョン・F・ケネディの奥方“ジャクリーヌ・ケネディ”のことを歌ったノベルティ・ソング「The Jackie Look」。これはまた大変に楽しい曲です。You-tubeで見つけ出して、ぜひ聴いてみてください。

Gary Cooper「Torture」【=Kris Jensen「Torture」】 

Kris Jensen「Come Back To Me (My Love)」 

クリス・ジャンセンの「カンバック・トゥ・ミー」。どうしてこの曲がヒットしなかったのか、不思議でならないほど、素敵な曲だとは思いませんか!




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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(26)

2011-10-19 12:59:50 | アメリカン・ポップスearly60’s



You-tubeを“はしご”していると、時々“不思議な”というか、“とんでもない”というか、、、意外としか言いようのない曲に出くわします。いつの間にやら消えてしまったりするので、早めに報告しておかねばなりません。

Johnny Tillotsonの、未リリースの曲がアップされていました。

「Tell Laura I Love Her」
言うまでもなく、Ray Peterson 1960年の大ヒット曲(Billboard Hot100第7位、、、もう一つの彼の大ヒット曲は、フィル・スペクター作品「Corrina, Corrina」同年Billboard Hot100第9位)で、Mark Dinningの「Teen Angel」(同年Billboard Hot100第1位)と並ぶ、Tragedy-song(交通事故で恋人を亡くした歌)の定番です 。

ジョニーがこの曲をカバーしても不思議ではないのですが、彼のディスコグラフィーには、全く示されていません。

聞いてみることにしました。声は、、、ジョニーの声、と言われれば、そう聞こえなくもない、でも違うような気もします。一年365日四六時中ジョニーの曲を聴いている僕ですから、彼の声かどうかを判別出来ないわけがありません。ところが、いざ“不明曲”を目の前に示されると、断言する自信が無くなってしまうのですね。

以前(2年ほど前)you-tube上に、Johnny Tillotson「Only Love Can Brake A Heart」がアップされていました。むろんGene Pitney最大のヒット曲(1962年Billboard Hot100第2位、AC第1位)。こちらもジョニーがカヴァーしていても不思議はないのですが、やはり彼のディスコグラフィーには見当たりません。

コメントの欄を見ると、「これはJohnny Tillotsonではなくて、Bobby Vintonではないのか?」「いや、Bobbyのサウンドではない、Johnnyの唄だろう」と、結構盛り上がっていたのです(むろん英語で)。

Johnny Tillotson とBobby Vintonの声の区別がつかないわけがありません。世間では“似ている”と言われることもあるようですが、それはBobbyに失礼千万!月とスッポンです(もちろんJohnnyが後者)。

僕は両者の声の区別など、100発100中で当てる自信があります。ところが、、、、自信が無くなってしまった。ほぼ間違いなくBobbyだとは思うのですが、Johnnyだと言われれば、そうも聞こえなくもない。いずれにしろ、70年代~80年代の録音でしょうから、両者とも60年代の声の特徴はだいぶ失せてしまっているのです。

Bobbyは間違いなくこの歌を歌っています。それどころか、シングル盤でもリリースしていて、しかも彼のほとんど最後のポップチャートヒット(正確には最後から2番目、1977年Billboard Hot100第99位)ともいえる重要な位置づけの曲。しかしまあ、“99位”というランクポジションですから、一般に流布しているとは言い難いでしょう(ちなみに、Johnnyの最後から2番目のC&Wチャートヒットも、同じ1977年Top Country Singles第99位の「Toy Hearts」で、いまだ聞くことが叶いません)。

Johnnyのほうは、前記のごとく公式には録音していないことになっています。でも、70年代中期には、60年代初期のポップヒットを積極的にカヴァーしていたことですし、どこかで披露されていても不思議ではありません。ネットをサーフして調べていくと、確かに何かのT.V.番組かライブだかで、演奏したことにはなっています。

といっても、ジョニー盤を聞くことはまず不可能でしょうから、とりあえずボビー盤をチェックしてみましょう。99位とはいえ、立派なHot100チャート曲です、根気よく探せば見つかるでしょう。

と思っていた矢先、肝心の「Johnny Tillotson/Only Love Can Brake A Heart」が、ネット上から消えてしまっているではないですか? おそらくはアップした当人が、間違いであることを悟って、削除したのでしょう。それとも、やはり“本物”で、また別の問題が生じて削除した、と類推することが出来るかもしれません。そのしばらく後にyou-tubeでアップされていた、1983年のシングル「Crying」のB面曲「You're A Beautiful Place To Be」も、突然削除されてしまったことですし。

「Johnny Tillotson/Only Love Can Brake A Heart」の真偽は、永遠に“謎”のままになってしまったのです。

ちなみに同じ頃、Tommy Roe「Let’s Dance」というのがYou-tubeにアップされていて、これは100%間違いなく、Chris Montez「Let’s Dance」の間違い。Tommy RoeとChris Montezは同時期に初ヒット(Tommyは「Sheila」、Chrisは「Let’s Dance」、同じ日にHot100に登場、前者はNo.1に、後者も第4位に上り詰めたあと、同じ日にHot100から姿を消しています、イギリスでは、「Sheila」3位、「Let’s Dance」2位、2人揃って英ツアーを行い、その時の前座が、まだアメリカでは芽の出ていなかったビートルズ)、取り違えるのもむべなるかな、という気がします。こちらは、その後も削除されることなく、長い間(もしかしたら今も?)そのままYou-tubeに貼り付けられていました。ともに有名大ヒット曲ゆえ、“99位”の曲のように、紛らわしい問題とはならなかったのです。

ということで、今回の「Johnny Tillotson/Tell Laura I Love Her」も、充分に疑う必要があります。

しかし、はっきりと、“Johnny Tillotson” の「Tell Laura I Love Her」と示されていることですし、しかも、You-tubeのみならず、複数のサイトに登場します(Mp3での販売までが成されている)。簡単に否定するわけにもいかない。

で、You-tubeに登場する「Tell Laura I Love Her」を検索していたら、「Ricky Nelson /Tell Laura I Love Her」というのが出てきました。Rickyがこの曲をカヴァーしているとは知らなかった。もちろんカヴァーしていたとしても不思議はないのですが。「Ricky Nelson Sings Rare Tracks」というアルバムに収録されているそうで、ご丁寧にもアルバムの写真も示されています(実際は、このアルバムには収録されていない?)。

聞いてみると、どうもRickyの声とは違う? Rickyも後年はだいぶ声の質が変化したので、Rickyだと言われれば、そうかも、という気もしないではないのですが、やっぱり絶対に違う。でも、ジョニーの場合同様(それ以上に)、“Ricky Nelson” の「Tell Laura I Love Her」として、多くのサイトで紹介されています(やはり堂々とRicky Nelsonの曲として販売され、購入した人も疑っていないみたい、そしてなんと、Wikipediaにも「Ricky Nelsonがカヴァーした」と記されています)。

答えは次の通り。

「Johnny Tillotson/Tell Laura I Love Her」は、
「Johnny T. Angel /Tell Laura I Love Her」 の間違い。

「Ricky Nelson /Tell Laura I Love Her」は、
「Ricky Valance /Tell Laura I Love Her」の間違い。


「Tell Laura I Love Her」 Johnny Tillotson MUdotcom www.youtube.com/watch
「Tell Laura I Love Her」 Ricky Nelson kingrhyslewis www.youtube.com/watch

「Tell Laura I Love Her」 Johnny T. Angel 57memorylaned www.youtube.com/watch
正「Tell Laura I Love Her」 Ricky Valance snapshotofharlech www.youtube.com/watch

まず、後者から説明していきましょう。
RickyやJohnnyと同世代のポップ・シンガーとしては、なんと言っても「Ritchie Valens(リッチー・ヴァレンス)1941年生まれ、1959年、Buddy Hollyらとともに、飛行機事故で死去)」です。「Ricky Valance(リッキー・ヴァランス)」とは微妙に違う。でも、「Ricky Valance(リッキー・ヴァランス)」のほうも、同世代のポップ・シンガーです。ただしアメリカではなくイギリス。1960年に「Tell Laura I Love Her」を英チャートのNo.1に送り込んでいる、(イギリスでは)超有名シンガーの一人なのです。

アメリカでの「Tell Laura I Love Her」ヒットホルダーRay Petersonとは、同じ1939年4月生まれ(Ricky=4月10日、Ray=4月23日、ちなみにJohnnyは同年4月20日、アメリカのRickyは翌年5月8日、Ritchieは翌々年5月13日と、皆完全に同世代人)。

Ricky Valanceの、英チャート3曲目のヒット曲が、アメリカにおけるJohnny Tillotsonのヒット曲「Jimmy’s Girl」のカバー、というのも、何かの縁だと思います。

さて、「Johnny T. Angel」のほうです。こちらは難敵。結論から言うと、「正体不明」です。

いわゆる“栄光の一発屋”、いや ちょっと違いますね。「一発屋」の定義は「初ヒットが、Billboard Hot100の40位以内で、2曲目以降、一曲もHot100にランクされず」ということになっています。真の“一発屋”は、オールデイズファンには、ある意味尊敬の念でもって迎えられているのです。

その典型が、Kris Jensen(1942年生まれ)。1962年、Billboard Hot100の第20位まで上った「Torture」(John・D・Loudermilk作)で幸先よくデビューします。しかしその後、Hot100にも、他チャート(C&W、R&B、AC)にも、一度として登場することはありませんでした(Under Bubblingの112位に1曲)。ルックス良し、声良し、曲良し(なにしろ全面的にJohn・D・Loudermilkが援護)、スタートも良し、やる気もあり(その後、何枚ものシングル盤をリリース)、、、、なのに、なぜ一発で終わったのか? 謎としか言いようがありません。そして月日が流れ、今や「一発屋界」の大スターとして君臨しているわけです。「栄光の一発屋」とは、このクリス・ジャンセンのような歌手を指して言うべきでしょう。

いわゆる一発屋とみなされている歌手でも、実際は2~3曲はHot100にランクインしていることが普通です(よって「三発屋」と呼ぶのが正しい?)。キュウ・サカモトでさえ、「スキヤキ」のあとに、もう一曲「支那の夜」58位を、チャートインさせています。真の「栄光の一発屋」になるのは、至難の業なのです。ちなみに、日本人では、ただ一組、真の一発屋が存在します。ピンク・レディー「Kiss In The Dark」1979年Hot100第37位。むろん一曲のみで後続なし。真偽の程はともかく、聞くところによると、バルブ真っ最中の日本のこと、湯水のように金を使って、放送局に売り込んで曲をかけさせ、レコード屋でレコードを買い占めて、それなりの(数字上の)ヒットに結びつけた、ということらしいのです。金にあかせてプッシュすれば、このランクまでは可能ということでしょうか?

話がだいぶ逸れてしまいました。
ジョニー・T・エンジェル、1974年、「Tell Laura I Love Her」Billboard Hot100第94位。
一発ヒットとは言っても、94位とは、しょぼくれたポジションです。しかし、Hot100チャートインには違いありません。ネットで検索をかけると、「ジョニー・T・エンジェル1974年“Tell Laura I Love Her”Billboard Hot100第94位」で、いくらでも出てきます。全部「Tell Laura I Love Her」がらみで、ほかの説明は一切なし。それだけHot100登場の威光は凄いのです。最初に紹介した、同じ70年代、ボビー・ヴィントン最後から2つ目のHot100チャートイン曲の99位、ジョニー・ティロットソン最後から2つ目のC&Wチャートイン曲99位、と比べれば、94位でも大したもの、と言えなくもないかも知れません。

ということで、改めてこの曲を聞いてみると、オリジナルのレイ・ピーターソン盤と何ら変わるところなし、実にオーソドックスな歌いぶりです。(事故のクラッシュ音やパトカーのサイレンを入れて臨場感を出しているのは新鮮?と言えるとはしても)こんな古めかしい曲が、70年代末の新時代に、94位というポジションを、よくまあ獲得し得たものと、驚いてしまいます。

気になるのは、“そう言われれば”ジョニーの声に似ていること。ジョニーの曲を日がな聞いているとは言っても、(後年のライブ映像は別として)せいぜい67年録音の曲まで(飛んで2010年の「ノット・イナフ」)。70年代の彼の曲は、ほとんど知らないのです。60年代末には、まともな声が出なくなってしまっているように思えたのですが、(僅かな情報を基にすれば)70年代中期以降は、それなりに張りのある声を取り戻しているようにも感じます。

もしかするとJohnny本人ではないだろうか? ちらっと、そんなことも頭をよぎります。でも当人としては「キャリアに一曲でも多くチャートヒットを付け加えたい」と思っていることでしょうから、まずそんなこと(自分のヒット曲の存在を否定すること)はしないでしょう。交通事故をテーマとした、いわば不吉な曲、ということが、何らかの意味を持つ? そういえば、リッキーは、本人が飛行機事故で亡くなっていますし、ジョニーは、娘さんを交通事故で亡くされています。74年よりずっと後の話ですから、時間軸が噛み合わないのですけれど、なにか因縁のようなものは感じます。

リッキーの場合は、もう一人のリッキー「リッキー・ヴァランス」という人気歌手の存在が原因ですので、間違いである事実は、くつがえしようがありません(それにしても気になるのは、いろいろなサイトで「リッキー・ネルソン」がこの曲を歌っている、と明記していること、、、、もしかすると、どこかで歌っている?)。

ジョニーの場合は、もう一人のジョニー「ジョニー・T. エンジェル」が正体不明ゆえ、もしや、ということも考えられなくはありません(「Billboard Top Pop Singles」で検索すると、ただ一言“Canadian Singer”と記されているだけ、もっとも、カナダの歌手というからには、ジョニーとは別人には違いないでしょう)。

70年代初頭の録音盤のうち、「All I Have To Do Is Dream~夢を見るだけ」などは、声の雰囲気がかなり似ているように思う。残念ながらジョニーのこの曲はYou-tubeに見当たらないので、70年初頭録音と思われる他の2曲を紹介しておきます。
「ジョニー・T.エンジェル」の「Tell Laura I Love Her」と聴き比べてみてください。

「Can’t Help Falling Love With You」 Johnny Tillotson goeling www.youtube.com/watch
「Susan」 Johnny Tillotson ILoveJenni47 www.youtube.com/watch
*「Can’t Help Falling Love With You」の画像は60歳代のJohnny。


別人には間違いないと思います。でも、“サウンド”は非常によく似ている。T.AngelはTillotsonのファンなのかも知れませんね。T.Angelは本名でしょうか? Tillotsonには、“Angel”の名がつくヒット曲が2つあります。「Earth Angel(1960年Billboard Hot100第57位)」と、「Angel(1965年Billboard Hot100第51位)」。気のせいか、よりサウンドが似ているような、、、。

「Earth A ngel」 Johnny Tillotson cesare1972 www.youtube.com/watch

「Angel」 Johnny Tillotson mezskr4 www.youtube.com/watch
*ジョニーの「Earth Angel」は、You-tubeで何パターンもアップされていますが、ちょっと捻って、変わった画像のものを張り付けておきます。


付記
こんなのもYou-tubeにアップされていました。

「Tell Laura I Love Her」Johnny T. Agent tataxa86 www.youtube.com/watch
Johnny Tillotsonならぬ、Johnny T. Angelならぬ、Johnny T. Agentの「Tell Laura I Love Her」。
当然誤植だと思ったのですが、曲を聞いたら全く別人です(歌い方はやはりオーソドックスでRayのオリジナルに近い)。
一体、これは何なのでしょうか? たまたま偶然が重なっているだけなのか? ジョークなのか?

そのJohnny T. Agent盤You-tubeの画像が、これまた謎。東洋(?)の女性5人が露天風呂(?)に浸かっているところ。
あれれれ!この髪形は、、、、。僕が先々週までいた、広西荘族自治区の少数民族の女性ではないですか???
偶然だらけで、なんだか、変な気持ちです。




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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(25)

2011-10-17 17:37:05 | アメリカン・ポップスearly60’s



今年になって、45年ぶりに再会(まだメールのやり取りだけですが)した、元・日本ジョニー・ティロットソン・ファンクラブ会長の、O氏より、ついこの間(今年9月28日)のジョニーのライブ映像がYou-tubeにアップされているとの情報を得ました。

さっそく、あやこ版でも紹介させていただきます。


Johnny Tillotson at The Villages - Poetry In Motion


Johnny Tillotson - Dreamy Eyes/Earth Angel


Johnny Tillotson at Norman's Rare Guitars


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以前にもお伝えしたように、この10月18日から6日連続で、アメリカの6都市においてJohnny TillotsonとFreddy Cannonのジョイント・コンサートが開催されます。

それでもって、Johnny Tillotson・Freddy Cannonでyou-tubeを検索したところ、なぜか出てくるのは、Johnny Tillotson、Freddy Cannon、Brian Hylandの3人セットのライブ(?)の案内ばかり。たぶん最近はこの3人でライブをやる機会が多いのだろうけれど、今回はブライアンは加わっていないはずです。

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日本の音楽界の話題を。

柳ジョージさんが亡くなりました。1948年1月生まれというから、僕と同じ年(3か月兄貴)。日本のポップ/ロック歌手は全く評価していない僕なのですが、柳ジョージと忌野清志郎だけは認めていたのです。2人とも、早世してしまったのは、残念としか言いようがありません。日本の音楽シーンにとって、大きな損失。

でも、最近の若者たちの音楽には、彼らに劣らぬ、素晴らしい才能と魅力を感じることがあります。身近なところでは、ジン君たちのトリオ「集団パラリラ」(ジン君のボーカルは無論、ベースの男の子と、ドラムの女の子が素晴らしい)や、石垣島のガンケ・オンムさんの息子さんたちのグループ(チャック・ベリーを演ります)。今後に期待しましょう。


柳ジョージの冥福を祈って、この曲も聴いてください。(あやこ)

"青い瞳のステラ, 1962年夏・・・" 柳ジョージ&レイニーウッド - YouTube


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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第111回)

2011-10-16 09:17:45 | 雑記 報告



パソコン内の収録内容を『中国の自然』『四川雲南の花』『アジサイ』『屋久島はどこにある?』『蝉』『蝶』『サパ』『中国を旅する』『アメリカンポップス』「スケジュールほか」「現在進行作業」に大別整理しました。

*『中国の自然』は読み物的内容、「麦菜」「レンゲソウ」「イチゴ」など、および「アジサイ」「蝉」「蝶」の一部を纏めたものなども、これに含まれます。
*『四川雲南の花』はビジュアルを主眼に置いた、図鑑・ガイドブック的内容。
*『中国を旅する』は、四川・雲南以外の地方(西安・恩施・桂林など)を含む、風景・風俗が主体。
*「スケジュールほか」は、「スケジュール」「原稿予備」「通信予備」「受信メール」「送信メール」など。

一度、すべての内容をハードデスクに移し替え、その中から改めて上記項目に配分していくという作業です。

これは大変な作業で、客観的に考えれば、いったい何年かかることか、、、、。でも、これをやらない限りは先に進めません。

この“将来に不可欠な”「基本的作業」と、“今すぐ必要とされる”「プレゼン作成」は、完璧に相反するものです。後者の進行は、前者の進行の多大な妨げになりますし、前者に絞れば、後者は出来なくなってしまいます。でも、後者を行うためには、前者がなされていなくてはならない、また、前者を行うには、後者を遂行して(じっくり作業に取り組むための)資金捻出をしなくてはなりません。

両者を並立しようとすれば、“虻蜂採らず”の結果になってしまうのは目に見えています。でも、両者を並立しないことには、先に進めないのです。

この際、開き直って、水と油の「基本的作業」と「プレゼン作成」を並行して取り組む覚悟でいます。失敗の確率99%ですが、残り1%に賭けましょう。

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小沢一郎氏の話。この後ブログで展開していきたいのですが、、、、、。やはり、上記した2つの作業を優先しなくてはならないように思います。

僕が(あやこさんの反対を押し切って)『朝と夜のはざまで』を統一テーマとしたことと、今回の小沢氏の問題は、無関係ではありません。(小沢氏個人の問題ではなく)今まさに日本の将来を左右する時が来ているのです。国家~権力~司法(法曹界)と、市民と、個人に纏わる問題です。国家(権力・司法)V.S.市民&個人と、あやこさんをはじめとした多くの人は思っているのでしょうが、それは大間違いです。本質は、国家(権力・司法)&市民V.S.個人なのです。

中国は、とんでもない国、中国人は、どうしようもない人種です(いつも言ってるように“蛆虫以下”、笑)。ノーベル平和賞を受けた革新活動家を逮捕監禁し、代わりに中国独自の(ノーベル賞を模した)国際平和賞を設立、第一回の受賞者に台湾の政治家を選んだ(まさにブラック・ジョークです)のですが、当然のことながら受賞者は完全無視(代わりに何の縁も所縁もない中国の少女が花束を受け取ったという)、世界の物笑いの種になったのは記憶に新しいところです。それに懲りずに、今年もまた「第2回孔子世界平和賞」が開催されるとのこと。

新聞に、中国の若者のコメントとして、このような記事が紹介されていました。
「恥ずかしいから、やめてくれ!」
今や、中国の一部の若者も、自分たちの国家の進む方向が“なんだかおかしいのでは?”ということに、薄っすらとはいえ、気が付き始めているのです。

翻って日本。あからさまに“国家の刷り込み”が浸透していることがわかる中国と違って、無自覚な“国家の刷り込み”によって社会の構築が成り立っている、、、、ほとんどの国民が、実は国家からの多大な擁護を受けることによって、(本人たちはそうは思っていないのだろうけれど)贅沢な生活を満喫している、、、、まるで“羊の群れ”(石垣島のガンケ・オンム氏の言)のように、権力に従順な、日本国の市民。

中国の街には、違法売春がまかり通っていて、いわゆる赤線街が繁華街に野放しに蔓延しています。その中には多くの「交番」もあるわけで、お巡りさんも、しょっちゅう“客”として接待を受けているのです。そしてたまに、そのお巡りさんたちが、一斉検挙を行う(おおむね、お巡りさんの虫の居所で、検挙対象を決めるのでしょう)。検挙される(さすがに今はそういうことはないでしょうが、些細なことで検挙されて、“即死刑”というパターンが、ついこの間まであった)人間は、“運が悪い”ということで、“されなかった”人々は、“他人事”として、自分は検挙されないように、“社会の空気”に浸りきって、従順に生活を続けていくわけです。

今回の検察(上は国家に支えられ、下からは“市民”に支えられた)の横暴を、どれだけの“市民”が理解し得ているのでしょうか? 検察(権力)と市民が、同じ穴の貉とするならば、嘆くだけ無駄なのかもしれませんが。

中国のT.V.番組では、一日中、第二次大戦前後の日本兵の悪辣さをテーマにした大河ドラマを、これでもか!と放映し続けていて、それをもって中国国民は、「中国は善、日本は悪」と刷り込まれてしまっているわけですが(もっとも、先ほども言ったように、一部の人は、「なんだかおかしいのじゃないの?」と気付き始めている)、ある意味、日本も全く同じ。軽薄限りないT.V.ほかのメディアからの報道刷り込みによって、「水戸黄門」の悪代官のごとく、小沢一郎=悪人、と、何の疑いもなく(いわば尻馬に乗って)信じ切ってしまっている(小沢一郎が実際に悪人なのかどうかとは、別次元の問題、、、一般市民にその判断がつくなど、ありえません)。

「(世界の人々に対して)恥ずかしいから、やめてくれ!」と言いたくなってきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「朝と夜のはざまで」の究極のテーマは、僕(青山)と日本国家(権力~法曹界~検察~市民)との“対決”です。

友子さん(一族全員が法曹界関係者)と最初に出会った1981年の春、裁判官で浄土真宗住職でもあった彼女の叔父さん(母上の弟)に、「14歳年長の君が、友子と交際することは許せない、もし続けるようなら、君を社会から抹殺する」と宣言され、けれども父上(家庭裁判所書記官で反体制の闘志)の擁護のもとで、18年間かろうじて交際を続けてきたのですが、1998年の夏、突如、文字通り“葬られて”しまったのです(母上の様態悪化を期として)。

「検察官」(「弁護士」もおおむね同様)を一言でいうと、“バカ”であるとしか言いようがない。人生の半分を、ひたすら“受験合格”のための暗記にだけ費やしてきた人々です。壊れたテープレコーダー。その人々が、(人の生死までを左右する)「権力」を手にしている。「権力」のバックボーンにあるのは、(自分たちも権力と勘違いしている)「メディア」であり、(羊の群れのような)「市民の声」です。

すべてが(権力者&市民にとって有利な)「規定路線」にのっとって、進められます。事実がどうであるかは二の次。「嘘をつく」「騙す」「暴力をふるう」何でもありです。自分たちが“正義”と信じて疑わない人々ですから、当然の権利と、それはもう(あやこさんには)とても信じてもらえないだろうほどの「やり放題」。

たとえば、あやこさんを嫌っている法曹界実力者がいるとすれば、あやこさんを「死刑」にすることだってできるのですよ。それが“日本”という(羊の群れのごとき“市民”をバックボーンに配した)国家の実態です。

千明さんの問題も、それらのことと深くかかわってくるのですが、ここでは割愛します。友子さんの問題も、千明さんの問題も、どうしようもない国家権力者・法曹関係者の中で、それぞれ「千明さん側のK弁護士」「友子さんの父上」という、“掃き溜めの中の鶴”ともいうべき、まっとうな人物が、公平な立場で間に立ってくれている(K氏は解任されてしまったのですが)というのが、唯一の救いです。

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関川夏央・谷口ジロー著『坊ちゃんの時代/凛冽たり近代/なお生彩あり明治人・五部作(「坊ちゃんの時代」「春の舞姫」ほか)』

第1巻と第5巻は夏目漱石が主人公。第2巻は森鴎外。漱石は全巻を通じての主人公でもあり、鴎外や二葉亭四迷、正岡子規といった同時代人も、全巻を通じて頻繁に登場します。

第3巻「かの碧空に」の主人公(そのほかの巻にも準主役的役割で登場)は、彼らより年代が一回り以上下の石川啄木、漱石の“手下”のような役割で登場しますが、実は漱石や子規の陣営(?)“ほととぎす”や“あららぎ”の一派とは対極にある、鴎外配下“スバル”の一員、漱石と啄木が、師弟関係にあることは事実に反するのです。ただし、両者とも(立場が全く異なるとはいえ)同じ時期に「東京朝日新聞」社員だったわけで、繋がりがなかったわけではありません。斉藤茂吉・島木赤彦ら、“アララギ一派”大好き人間である僕は、対極の存在の、与謝野晶子以下“明星一派”の短歌には、どうにも親しめないのです。中でも、啄木の歌の良さは、全く理解できない。はっきり言って、嫌いです。でも、この作品(サブタイトルたる「借金王・啄木」の行状は、まるで僕そのまま、笑)を読んで、なんだか身近に感じられるようになりました。

第4巻「明治流星雨」は、幸徳秋水以下の大逆事件。ああ、日本は100年経っても変わっていないのだな、と思い知らされます。
「日本は滅びる」漱石『三四郎』明治41年
「日本はまだ普請中だ」鴎外『普請中』明治43年
、、、、「これから百年経っても日本は普請中なのだ」

『普請中』の末尾の一節、
まだ八時半ごろであった。燈火の海のような銀座通りを横切って、ウェエルに深く面(おもて)を包んだ女をのせた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。
「坊ちゃんの時代・5部作」には、この場面を描いた画が何度か登場しますが、涙が出てくるほど素敵です。



追記

まだアップされていないようなので、今日付けの新聞ニュースから追加記述します。

検察による(小沢一郎側近)石川代議士取り調べの、録音テープの一部が、公開されました。検察の正体が垣間見えてきます。上記したごとき、「無知蒙昧さ」に加えて、「品位のなさ」は、目を覆うばかりです。僕も録音しておけばよかったのに、と後悔しています(笑)。

メディアの意見は、「読売」「産経」「新潮」「サピオ」だけではないのですよ。

「日刊ゲンダイ」はちょっと過激すぎる(モロに小沢一郎応援団)けれど、一応、10月13日付け1・2面見出しと小見出しの一部を、抜粋しておきましょう。
「この国は民主主義国でも法治国家でもない」
「私刑にかけられている小沢一郎の運命」
「民主主義を標榜するこの国で、暗黒裁判が強行され大マスコミが有罪を求めている、政治実力者抹殺の信じられぬ蛮行」
「戦前は天皇制絶対の憲法下で、お上はやりたい放題だった。戦争に負けて平和憲法が制定されたが、60年も経った今ではその内容も運用も主権者の国民のためではなく、為政者の体制維持のために存在している」
「体制反対の若者たちのデモが世界中で起きているのに、お上の言いなりになって“がんばろう”とか言っているこの国の絶望的状況」
「戦前と同じ道を歩みつつある日本」
「一連の小沢事件は何から何まで憲法違反だ」
「せっかく勝ち取った憲法の精神を捨てるのか」

ずっとソフトなところで、今日10月15日付け「日刊スポーツ」には、前記した検察取り調べ「録音再現」が掲載されていますが、それを読めば、明らかに検事の側の異常性・独善性を見て取ることが出来ます。また、同一紙面の、江川詔子氏のコラムには、「有罪突き崩す重要証言」という見出しのもとに、「検察の取り調べに威迫や誘導があるとして、多くの調書が証拠不採用となった」「すでに検察のストーリーに沿った調書は出来上がっており」等々の、疑問が呈されています。

この「小沢裁判」を機会に、上掲「日刊ゲンダイ」記事中にもある「日本はどこか狂っているのではないか」という疑問を、少しでも多くの日本の“市民”に感じとってもらいたい、と願うばかりです。


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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第110回)

2011-10-13 20:43:58 | その他の植物

★朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第108回)に載せていた記事ですが、小沢一郎氏に関する記事と、分けてほしいと青山さんから指示がありましたので、こちらに移動しました。(あやこ)

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東洋のレタス“麦菜”の謎 Ⅱ⑨



以下の文章は『朝と夜のはざまで(106)東洋のレタス“麦菜”の謎Ⅱ⑦』の末尾に付け加えるつもりだったのですが、うっかり送信を忘れていました。独立の項目⑨としてアップします。

【帰国後の追記】

『世界有用植物辞典/堀田満代表編集(平凡社)』の「Lactuca」の項に、日本に於けるアキノノゲシ(var.dracoglassa=龍舌菜)の利用は、食用・家畜の餌として併記されています。また、インドネシアのジャワ島では、「Kuban kayu」の名で食用野菜とされている由、アキノノゲシを食用とする具体的な記述に出会ったのは、これが初めてです。

これとは別に、『食べられる野生植物大辞典/橋本郁三著(柏書店)』という本の中に、沖縄(石垣島)で、アキノノゲシを食した感想が記されていました。「本土産は苦味が強いが、沖縄産は苦味がない、沖縄ではゴーヤなど苦味の強い食料が普遍化しているため、苦味に慣れ親しんで余り感じないのかも知れない」、というような要旨です(“苦味食文化圏”と“苦菜”類の普及の相関性については、僕自身も前に触れましたが、興味深いテーマだと思います)。

野菜の種研究家の野口勲氏に頂いた販売種子のうち、「白かきちしゃ」の袋には、「日本古来の掻きちしゃ、原産地ははっきりしないが、奈良時代から日本にあり、江戸時代までは日本でチシャ(レタス)といえば、このカキチシャのことを指した」旨が記されています。もしかすると、この古い時代に日本に伝来した「カキチシャ」が、現在の中国の「油麦菜」に相当するのかも知れません。中国で購入した「油麦菜」は2品種とも黒い種子色、頂いた「白かきちしゃ」はレタス類一般と共通の白っぽい種子色ですが、レタスの種子には白黒両方があるようなので、色彩の相違は、さほど意味を持たないのではないかと思います。むしろ、同時に頂いた沖縄古来のチシャとされる「島ちしゃ菜」のほうが、種子に幾らか丸味があり濃色を帯びていて、他のレタスとは幾分雰囲気が異なるように感じられます。

『世界有用植物辞典』の同じ項目のレタスの解説では、野菜としてのレタスは、L.serriolaに、L.salignasが交配されて作出された、となっています。L.serriolaはアレチヂシャ(トゲヂシャ)で、前掲の付録リストでは、レタスのひとつ後の⑨に、また、L.salignasは、地中海周辺地域などに分布し、レタスのひとつ前の⑦に記述されています。

思うに、レタスの“種(species)”を考えるに当たっては、稲をはじめとする野菜・果物・園芸さらには家畜など、人間の手によって改良作成された様々な“有用生物”共々、野生生物の“種”とは一線を画した、全く別の次元での“種”を定義づける必要がありそうです。

在来野生生物の場合は、“種”は単一の(野生生物の“特定の種”の範囲内に含まれる単系統上の)の分類群なわけですが、人為的に作出された“有用生物”の場合は、複数の(野生生物の)“種”に跨っての遺伝子交流が成されているわけで、特定の種(レタスならL.serriola)を中心に、なんらかの形で別の種が関与した、遺伝的に非常に雑多な集団であるのです。

改めて、苦麦菜と油麦菜の種子の構造を、比較検証してみましょう。アキノノゲシ&苦麦菜の種子は、極めて平たく卵形に近い楕円形で、両側に幅広い翼を持ち、中央に太く明瞭な1肋が走ります。冠毛柄は明瞭に存在しますが、レタスのように長く伸長することはありません。

ちなみに、6で示した九万大山(汪洞鎮)のヤマニガナ類似種(おそらく日本産のヤマニガナと同一種またはごく近縁の種)の種子は、鮮オレンジ色、アキノノゲシ&苦麦菜に比べて小型で、やや幅が狭く、(色はともかく)全体としてはアキノノゲシとレタスの中間程度の印象です。肋はやや不明瞭に3~5本、アキノノゲシ&苦麦菜ほど幅広くはありませんが左右に明瞭な翼を持ち、冠毛柄がごく短いことなど、どちらかと言えばレタスよりもアキノノゲシに近いように思えます。

一方、アレチヂシャ&レタス&油麦菜の種子は、細長くて両側に翼を持たず、多数の明瞭な肋(10本前後)を有し、極めて長い冠毛柄を持つことなど、アキノノゲシ&苦麦菜との間には、かなりの有意差が認められます。種子の形状の差をもとに、アキノノゲシやヤマニガナを狭義のLactuca属から分け、Pterocypsela属に分割したのも、なるほどと頷けるのです。

ちなみに、レタス&アレチヂシャ、アキノノノゲシの染色体数は、共に2N=18(レタスには2N=36の個体もある由)。アキノノゲシ(ヤマニガナ)属と、狭義のレタス(チシャ)属の間の交雑の可否について知りたいものです。

油麦菜は、花や種子の形態から見て、レタスそのものと言って良いかも知れません。次のような可能性を考えておきます。

●① (極めて可能性は低いでしょうが)東アジアにも在来分布していたのかも知れないアレチヂシャ、またはごく近縁の種(レタスやアレチヂシャにごく近縁の狭義のLactuca属は、雲南省を含む中国に4種が分布)から、非常に古い時期に(ヨーロッパのレタスとは別個に)全く独自に東アジアで作成された野菜。あるいは、ヨーロッパ産のアレチヂシャをもとに、東アジア(中国)で改良。

●② ヨーロッパにおいて野菜としてのレタスが成立する初期段階で、東アジア(中国)に渡来。古い形質を保ったまま、ローカルな野菜として、現在に至る。

●③ レタスと東アジア(中国)産の何らかの在来種(アキノノゲシなど狭義の別グループの種を含む)種との交配。

いずれにしても、マイナーな野菜として古い時代から存在していたにもかかわらず、最近になって急速に普遍化(人気復活)し出したのは、確かなようです。

●④ 別に①~③のような謂れがある(=中国独自の野菜)わけではなく、単に調理法などが異なることから漠然と違う存在と思われているだけで、実は一般のレタスの品種(コスレタスやスティムレタスなど)と相同である。

●⑤ ①~④の可能性も含め、既存のレタスの品種の一部、中国で独自に作出された品種、さらにはL.serriola以外の遺伝子が混ざり合ったものまで、様々なパターンでの由来をもつ、(典型的“レタス”以外の)中国での栽培Lactucaを、一括して“油麦菜”と呼んでいる(欧米で作成されたL.serrateが関与する栽培品種を、全て“レタス”と呼ぶように)。そう考えれば、(系統が全く異なる)苦麦菜を油麦菜の一品種とすることも、あながち否定は出来ないかも知れません。

「苦麦菜」はアキノノゲシ由来。これはほぼ間違いのないところ。しかし、広く東アジア各地に在来(?)野生分布するのにも関わらず、特定の地域でのみ野菜としての育種改良が成されるに至った過程と、その理由は不明です。

「油麦菜」は原則としてレタスと考えてよいでしょう。その由来、系統上どのような位置付けにあり、いつ頃から中国で普及しだしたのか、近年の人気のきっかけは、等々、数多くの未解明な点が残されてはいますが。

日本でチェックし得た、野菜に関する書籍には、(7年前チェックした際と同様に)「レタス」の品種については数多くの記述があっても、(数百ページに亘る詳細な解説が成されている場合でも)「油麦菜」に関する記述は全くありません。それどころか、「中国野菜」についての専門書でさえ、(「苦麦菜」はむろん)「油麦菜」のことは一切触れられていないのです。

何だか、狐に抓まれたような思いでいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

写真は、中国と日本で入手したレタス類の種子の袋。

(日本の2つを除く)種子の写真は、第 回と第 回に紹介、改めて種子の比較写真を載せたいところですが、帰国後カメラを質に入れてしまったので、撮影が叶いません。もうしばらくお待ちください。





左から、苦麦菜(甜麦菜)/広東陽春[図はアブラナ科の蔬菜?]、油麦菜/広西梧州、油麦菜(甜油麦菜)/広東佛山。


左から、レタス(イタリア生菜)/広西梧州、レタス(かきちしゃ)/日本、レタス(島ちしゃ)/日本沖縄。












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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第109回)

2011-10-12 20:44:23 | 雑記 報告

★この記事に関しては、私と青山さんの意見の相違で、また揉めたのです。
結果、私の意見を取り入れていただき、今まで実名を記載していた2人の名前を、■■と●●●●に変更しました。さらに、金額も×印にしてありますので、ご了承ください。
次回の記事に関しては、双方でよく話し合い、決めていきたいと思います。(あやこ)

あやこさんの意向で、
「登場人物の実名は避ける」
「お金の金額は示さない」
ということで、
■■と●●●●に変更されています。
僕(青山)としては納得できない点が多々あるのですが、“人権”の問題は、最大限慎重に対さねばならないということも確かです。
暫定的に、とりあえず、このような(不自然な)形でのアップとなってしまったことを、ご承知置き頂ければと思っています。(青山)


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アモイから来た■■(そのⅢ)



「藍天夢翺翔」
「ラン/ティェン/メン/アオ/シャン」
この響きが、たまらなく好きなのです。Tとは、それで、ずっとメールやり取りをしている、と言っても良いのかも知れません。

「夢 翅ひろげ 藍天を翔ける」「夢 翼をひろげて 藍天に翔(はばた)く」

「藍天」「夢」「翔」は説明不要、問題は「翺」の字ですね。左の旁は上に「自」真ん中は「二」が左右に2つでその間を「十」が突き抜けます。右は「羽」です。この文字自体の意味が分からなくても、前後の語との繋がりで、何となく把握出来ると思います。

発音は「アオ」ですが、日本語読みでは「コウ」「かける」、「翔」とほぼ同義で、重ねることでイメージを強調していると考えれば良いでしょう。手許にある辞典では、「翺」は「翼を広げて飛ぶ」、「翺翔」で「(鷹などが)空に輪を描いて飛ぶ」となっています。

「翔」と同義語ですから「藍天夢翺翔」は「夢 藍天を 翔ける」で良いのでしょうが、「翺」のイメージを取り入れたいと「夢 翅ひろげ 藍天を翔ける」(「夢 翼をひろげて 藍天に翔く」)としたわけです。

ただ、どこかまだるっこしくて、もう一つ爽快感・透明感が出ない。すっきりと「夢 藍天を 翔ける」とした方が良いかも知れない。しかし「翺」が持つ、大空高くを舞う“遥けきイメージ”が出ていないように思えます。ならば「夢 藍天を 舞う」のほうが良さそうなのだけれど、でも、こんどは、疾走感に欠けるような気がする。

やはり「藍天夢翺翔」「ランティエンメンアオシャン」でないと成りません。ともかく、この言葉に、たまらなく惹かれるのです。

この語は、いわばTのペンネーム(ハンドルネーム)な訳ですが、■■(それにしても変わった名です、最初は本名だとは思わなかったのだけれど、身分証明種にもちゃんと「■■」で示されています)がどこからか引用してきたのか、自分で作ったのかはともかく、それだけで彼女の今の気持ちの在り方が解るように想うのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「お金のことは全く口に出さないんだよ、不思議だろ?」ジン君にそういうと、「後で纏めて要求するとか、日本に連れてってくれとか、そういうことじゃないですか?」と。それは当然あり得るでしょう。でもそれにしては、、、それだったら、もっと巧妙に、というか確実にその方向に向かわせるように仕掛けて来ると思うんだけれど、全然中途半端なんですね。

中国に支社を持つ日本企業支配人でアメリカ人と日本人のハーフ(日本の血は4分の1?)の知人は、「中国の女性は100%金目当てで日本人に近づいてくるのだから、絶対に気を許しちゃ駄目!」と口を酸っぱくして説教を垂れます(笑)。この上もなくハンサムで金持ちで若く独身の彼でさえそう断言するのですから、侮男貧乏老人の僕などにとっては、当たり前田のクラッカー。

昔、中国に留学した際も、中国をよく知る知人に、「女性に対しては、絶対にガードを堅くしておかないと、大変なことになっちゃうぞ、向こうは一族全員で狙いを付けてくるのだから」とアドバイスされ、頑なに守ってきたわけです。

●●●●とは、最初からきちんと結婚するつもりだったので、話は少し違ってきます。上記の知人への反論になるけれど、女性が収入目当てに男性と付き合う、ということは、(女性が安定した生活を望む)日本人同士の普通の結婚生活でも同じなのじゃないかと。

●●●●には、総額×万円を貢いでいる(笑)のですね。最初の2年間の本人の学費(学校で勉強することをこれほど喜んだ人間に初めて会った)、両親への仕送り、弟の学費の一部、お兄さんの離婚・再婚の費用、、、。月×元=約×万円(なぜかその当時収入はあったのです)でトータル約×万円。

その後、両親の反対で(一番のネックは年齢)婚約は一応解消したのですが、その一年後(2005年春)僕の実家を売却した時に入ってきた収入を、いの一番に●●●●に報告。彼女が「半分寄こせ!」というのを、結局5分の1ほどの×万を渡しました。未だにそれが不満で、あの時、全部(せめて半分)私に寄こしてれば良かったのだ(青山がアメリカや中国を飛びまわって、交通費だけであっという間に無くなってしまったのだから)、×万あったら、センツエンか桂林にマンションが買えてたのに(その後に土地代が急騰、今では×万や×万円では手が出ない)。

傑作なのは、お母さんが言うに、「婚約を解消したのだから全額を貰ってはいけません、半額にしておきなさい」。また、土地売却の収入を、真っ先にDさんやKさんにも報告したと言うと、●●●●の怒ること怒ること、「なぜ他人に言うのか、黙って秘密にしておくものである」。もっとも、●●●●も親友の天風に報告した由、それをお母さんから、「他人に言っちゃダメじゃないの!」と叱られたという、、、、中国人は、何を考えているのでしょうか(笑)。

あと、●●●●語録で圧倒的に凄いのは、「私以外の中国人とは親しく話してはなりません、中国人は、全員、泥棒と思いなさい」。それは正にその通りだと思うけれど、でも、自分は何なんだと(笑)。

とにかく、中国人にとって「人の金も自分のもの」という思考経路は、当たり前。ハチャメチャなのです。

なんだかんだ言っても、僕と出会ったことで、●●●●は、望んでいた(一家揃っての)農民からの脱出が出来たわけです。いつもいつも僕をぼろくそに言うわけですけれど、感謝はしてくれているみたいなのです。

●●●●には早く結婚してほしいと願っているのですが、なかなかその気配はありません(結婚が決まれば半年以上前に僕に報告することになっている、なぜなら僕が結婚資金のカンパをしなくてはならないのだそうで、予算捻出の準備期間として)。以前は、遅くとも35歳までに、と言っていた年齢に、あと数カ月で達します。最近は「結婚よりも社長になるのが先」とのたまい、さらなる金儲け(衣類などの販売と生命保険勧誘、、、後者はアルバイトだそう)に励んでいるようです(しっかり貯金しているはず、今では僕よりずっと金持ちだと思う)。

失敗したのでは、と思う時もあります。もし、(集団就職先の企業を相次いでクビになり、結婚を前提で付き合っていた彼氏とも理不尽な理由~湖南省出身者というのがキーポイントなのだそうです~で別れざるを得なかったという、失意の只中にあったらしい25歳の時に)僕に出会わねば、今頃は都会での生活は諦め、田舎に帰って普通に結婚し、(本人が毛嫌いしているとはいえ)農村での平穏な生活を送っていたかも知れません。彼女にとっては、そのほうが幸せだったのではないかと。ある意味、申し訳ないという思いがあるのです。

話が逸れてしまいました。

僕は、「中国人総幼稚園児説」を提唱しています。一言で言えば、彼らはバカであると。中国人は、お金のことしか頭にありません。どうやって(大方は悪事を働いて)金を儲けるかで、頭がいっぱいです。知能は全て悪知恵に向い、他のことに関しては、まるっきり無知なのです。

それを全面的に認めた上で、なにか、それ以外の、説明の仕様のない“特性”を、中国人の中に感じる時があります。全てのことをお金中心に考える、と同時に、それとは対極にある“何か”。

中国人のお金への執着の仕方が余りに極端で、日本人には到底理解し得ないわけですが、同時に、その反対方向の“何か”も、日本人には理解出来ないような気がします。いわば、日本人にとっての、「紫外線」と「赤外線」の併存。

■■に話を戻しましょう。

ジン君の言うように、「後での計画を立てている」というのは、大有りでしょう。でも、それなら、もっと上手く立ち回るはず。お金の援助は、一度だけ口にした(メールでの打診が来た)ことがあるだけです。

家族が×万円の負債があるけれど、自分は一切関係なく、その責務はない、今の仕事に就いているのは、その返済とは無関係、という説明を受けていました(では、なぜ今の仕事を続けているか、そこのところが分からない、前にも言ったように何らかの形で家族との関わりがあるのだと思う、最近聞いた、伯父さんが恩施に来て自分を監視?している、という話も気になります)。

8月に帰省した(というか上海の両親の許に立ち寄った)際、メールの中に「実家の負債の件は無事解決した!」という報告がありました。「良かったね」とメールを返しておいたのですが、その数日後、「実は、トラブルが生じて、改めて大金が必要になってしまった、もし出来れば幾らかを借用出来ないか?」というメールが届きました。こちらは滞納家賃の捻出に途方に暮れている真っ最中、どう返事して良いものやら。

ところが、僕が返事をする前、前回のメールから5分と経たないうちに、前言取り消しのメール。

「青山さんに頼むべきことじゃなかったです、他の人に頼める見通しもついたので、心配しないで下さい(なにしろ、僕が超貧乏でいることを知っているわけですから)」。

僕の返信。「今は無理だけれど、時と場合によっては協力するよ、いついくら必要なのか、一応教えておいて下さい」。

「×元(×円強)を年内に、でも、幾らかは見通しが付いた、心配しないで下さい」。

再返信。「帰国後に考えて見ます、仕事の成り行き次第では、一部可能かも知れません」。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最初に■■に出会ったのは、恩施で一文無しになって、Fさんに電話で送金の打診をしていた時。日本大好き(その後、好きな国は、アメリカ、フランスへと変遷しているのですが、笑)という彼女に食事を御馳走して貰って、「そんな仕事は辞めなさい、“愛のない〇〇〇”などやってはいけません」という説教を垂れたわけです。まあ、このような職業の人達にとっては、もっともお節介な説教であることは承知の上なのですけれど、言わずにはいられない。で、「シャングリラ連れてって」「次回にね」ということに。

数日後、康定に着いた時、誰か解らない人物からメールが。「一人旅、寂しいでしょうけれど頑張ってね!」。送り人の名が無いので、誰なのかは解りません。「貴方は誰ですか?」と聞く訳にも行かないし、当たり障りなく、返事をしておきました。僕が今一人旅をしているのを知っている中国人で、僕のメールアドレスを知っている人物となると、ごく限られます。タイミングからして、■■である可能性は強いのですが、彼女はパソコンを持っていないはず。

その後、本人と電話で話をする機会は、何度もあったのです(メールが当人かどうかは未確認のまま)。その都度、「今の仕事は辞めなさい」と相当強い口調で繰り返し言い続けて来ました。「辞めるなら、シャングリラに連れて行ってやる」とも。でも、「今はシャングリラに行きたくないし、時間も無い、(仕事に専念せねばならぬので)行けない」「次回恩施に来ても、時間がないので逢えない」。相当疎ましく思われていることは、間違いありません。メールを次々に寄こす「藍天夢翺翔」は、Tとは別人でしょう。

しかし、緊急帰国後も、老若男女が全く不明な「藍天夢翺翔」から、度々メールが届きます。その都度、適当に話を併せて
返信をしておいたのです。

ある時、ふと思いついて、電話番号を訊ねて見ることにしました。■■には2つの電話番号(仕事&プライベート?)があり、帰国後その双方に何度か電話をしたのですが、両方とも繋がりません。もしTなら、そのどちらかの番号を改め伝えてくれるはずです。

すぐに返信が来ました。記されていた番号は、どちらでもありません。まず■■ではなさそうです。「藍天夢翺翔」は、老若男女、どこの誰かは全く不明ということになってしまいました。電話をかけて「貴方は誰ですか?」と正すのも億劫です。

やがて、「你看不到の悲泣(戻って来ないので、悲哀に暮れている)」という大袈裟なメールがやってきた頃、中国再訪の機会が訪れました。7月5日、センツエンに着いてすぐ、あちこちに電話連絡を入れたので、その一環として、メールに示された「藍天夢翺翔」の電話番号にも連絡してみたのです。「藍天夢翺翔」は、やはりTでした。

「恩施には5日後に行く」と伝え、融水(九万大山)で“ヤナギバハナアジサイ”の調査を済ませたあと、そのまま(最初の予定では、湖南省を縦断し恩施に向う予定だったのですが、南北の交通事情が非常に悪く、それだけで3~4日を擁してしまいそうだったので、武漢回りの夜行列車で)北上、予定通り5日後に恩施到着。

恩施での目的は、もちろん今回の中国行の“第二の目的、マルバギンバイソウの探索”(当初は■■に案内を頼もうと考えていた)。でも、恩施では今回も資金欠、数日中に追加予算の見込みが立たねば、“マルバギンバイソウ探索”は、来年回しにするしかなさそうです。

恩施のバスターミナルに■■が迎えに来てくれるものと思っていたのですが、姿が無いので電話をしたところ、仕事が忙しくて今日は行けない、明日の午前中に、という返事。翌日、本来ならば、時間を惜しんで“ギンバイソウ”の探索に向いたい所なのですが、資金もないことだし、今日はTが来るのを待っていようと、終日部屋にいたのだけれど、いつまで経っても現れません(仕事場を訪ねて老板にただしたら、体調を崩してここのところ休んでいる、との答え)。夕方近くになって、やっと現れました。食事に行こうと誘ったのですが、これから仕事があると、そそくさに出て行ってしまいました(仕事を辞めなさい、との忠告が、よほど迷惑で疎ましいのでしょう)。

翌日は■■には逢わずに、早朝のバスで重慶に。せっかく恩施まで来ていながら、“ギンバイソウの探索”をパスして通り過ぎてしまうのは、勿体ないことこの上もないのですが、“第一の目的”であった“ヤナギバハナアジサイ”の発見は、首尾よく実現出来たことですし、ここは無理をせずに、(交通費が残っているうちに)次の目的地、四川・雲南に転身したほうが賢明でしょう。

すると、また「藍天夢翺翔」からのメールが届きだしたわけです。

7月0日に届いたメールは、不思議な内容。
「我现在在福建,最近遇到了超级倒霉的事.所以来散散心」
(とんでもない災難に会ったので、気晴らしのためアモイに戻っています)

「とんでもない災難」というのは何なのか、訊ねても曖昧な答えしか返って来ません(もしかすると、僕に出会って“仕事を辞めろ”と諭されたことが、「災難」であったとも取れそうな、、、)。

何が目的なのか、何を考えているのか、良く分からないのです。

でも“藍天夢翺翔”だけは、解る気がする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今、ふと思いました。現在の境遇から逃げたいのかも知れない。

“逃げる”といえば、数年前、不思議な出会いがありました。

梅里雪山とメコン河を挟んで対峙する白馬雪山に、徳欽からバスで往復しようとした時のことです。峠頂(といっても、4000m超の稜線が20㎞以上続く)でバスを乗り捨て、撮影を終えて下りのバスを捕まえようとしたのですが、乗車を拒否されてしまいました(運転手によって気持ちよく乗せてくれることもあれば、無慈悲に拒否されることもある)。あとはヒッチしか方法がありません。夕方になると滅多に車も通らなくなってしまうし、日が暮れれば極寒の世界です。歩いて戻る訳にも行きません。必死で車を止めるしかないのです。

4000m超の山道には不相応な、黒塗りの車がやってきました。運転手と後ろの席に40~50代と思しき品の良い女性。止まってはくれたのですが、「乗せられません」ときっぱりと断られてしまいました。ここで乗り損ねれば、夜になってしまうかも知れません。必死で食い下がります。日本人のカメラマンであることを説明(夫人は片言の英語を喋る)し、何度か断られたのち、どうにか便乗を了承してくれました。

「乗せられない」といった理由は、今、“逃亡中”だから。自分は、広東省の娼婦で、訳があって、この後チベットの某都市に逃げる途中なのだそうです。運転手は自分の部下で、送り届けたあと広東に帰る、今現在自分の連絡先は未定なので、もし機会があれば、広東の運転手氏宛てに連絡してほしいとも。

途中、お菓子や果物を頂きました。その食べ粕をビニール袋に納めるのを見た夫人は、運転手氏に中国語で、「見なさい、日本人はゴミを捨てずに自分で持ち帰ります、私達も見習わねばなりません」と。

中国という国、中国人、、、。まだまだ、理解不能な(理不尽さと懐の深さが一体になったごとき)様々な側面があるのだと、改めて思ったのです。

再度、■■Tの話に戻ります。

「借金は家族にはあるけれど、自分には返済の責務は無い」と言います。ならばなぜ、このような仕事をきっぱりと辞めないのか。この仕事が“好き”ということもあり得るでしょう。でも、見知らぬ不特的多数の人々を、一日に何人も相手にしなくてはならないのは辛いに違いありません。“辛い”と言っていたのは、本心だと思う。

結局、家族(一族)がらみの、いわば人質のような形で今の職に就かざるを得ないのかも知れません。伯父さん(?)がやってきて監視されている、というのも、そういうことなのかも知れない。

返済の責務は無いけれども、仕事は完遂しなくてはならない。稼いだお金(一日20人、一人×元だと、×元の収入、日本円で×円余、中国の物価に照らし合わせれば、×円近い“日当”ということになります)は自由に使えるわけ
ですから、僕よりもずっとお金持ちみたいです。急に必要になった×元も、なんとかなりそう、というくらいですから、少なくともお金に困っている、ということではなさそう。

漠然と、今の境遇から逃げたいと、、、、。でもどうにもならない。

そう考えれば、「藍天夢翺翔」も、より現実味を帯びた言葉として、意味を持ってくるのです。























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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第108回)

2011-10-11 22:29:59 | 雑記 報告



小沢さん、頑張って!

検察当局が、いかに汚く、出鱈目であるかという事(平気で人を騙したり、暴力をふるったり、、、市民のため、という名のもとに、合法的な悪事が許されている)を、僕は身を持って知っています。

負けないで下さい。


★私は青山さんとは正反対な考えです。小沢さんには、一刻も早く、議員を辞職してもらいたい。(あやこ)


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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第107回)

2011-10-10 15:33:59 | 雑記 報告

アモイから来た甜甜(そのⅡ)


甜甜は、不思議な美少女。数日置きに“藍天夢翺翔”の名で欠かさずメールが来ます。



●9月12日受信 「今日は中秋、お祝いしましょう!」(原文は中国語です)
返信「中秋節快楽!」(こちらは出鱈目の中国語)


●9月28日受信 「今どこにいるの?どうしているの?」


●9月30日受信 「なぜ返事をくれないの?」
返信「上一次星期、我去了広東河源市、那里不可以操作電脳」(なんとか通じてはいるはずですが)



●10月1日受信 「寒くなってきた、、、、沢山服を着てね!」
返信「香港天気好、不是寒冷。但是、回日本東京、冷一点。我又重要衣服」
返信「回来了日本」


●10月4日受信 「体に気をつけて、、、」
返信「你也照願好自」



●10月6日受信 「今度逢う時は、一緒に香格里拉に行こうね!」
返信「是的、我也很期待!」



先刻、辛いことがあったらしいのです。気晴らしに住み慣れたアモイに逃避行。
そのあと両親と弟の住む上海に寄って、故郷の山東省「渚城」で友達の結婚式に出席。
そして再び恩施に戻って“仕事”に復帰中。

18歳の娼婦。
ゼロの日もあれば、一日20人以上の日もあるのだそう。
「辛くないの?」
「辛い」
「だったら止めなよ」
「止めるわけには行かないの」

彼女の思考が、どうしても読めない。

でも、(読めはしなくても)僕には解るのです。



ラン/テェン/ムー/アオ/シャン
夢 翅ひろげ 藍天を翔ける



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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第106回)

2011-10-09 21:48:05 | その他の植物


東洋のレタス“麦菜”の謎 Ⅱ⑦


広東省センツェン市2011.10.2


翌朝の帰国に備え、センツェンのY.H.の隣にあるスーパーで、お土産の「麦菜」を買って置くことにしました。
「苦麦菜」「油麦菜(屋外栽培)」「油麦菜(温室栽培)」「生菜(レタス)」の4点セットです。


左から、苦麦菜、油麦菜、温室油麦菜。各500gの値。1元ずつ高くなります(レタスは500g約3元)。



左から、生菜(レタス)、温室栽培油麦菜、油麦菜、苦麦菜(2束)。質感や光沢を表したかったので、自然光撮影とストロボ撮影を並べて紹介しました。油麦菜の茎の切り口が緑色なのは、店長さんが新しく切ってくれたごく新鮮なものだから。


左から、生菜(レタス)、温室栽培油麦菜、油麦菜、苦麦菜[上・自然光、下・ストロボ同調]。



(左)温室栽培油麦菜、(右)苦麦菜。

さて、Y.H.に持ち帰って、一応ベンチで撮影しておきます。ロビーにいた宿泊客達が、なぜ野菜を撮影しているのか?と次々にやって来て質問を浴びせます。普段は、日本人や欧米系の宿泊客と会話を交わすことはあっても、中国人の宿泊客とは、まず積極的に話すことは無いのですが、この機会に彼らの意見も聞いておかねばなりません。地元広東省の男性「どれも美味しいよ!最近人気が出たのかって?そんなことは無い、昔から食べていたもの」と。山東省からの旅行者男性「“苦麦菜”というのは存在は知っているけれど、食べたことは無い、油麦菜は以前から食べていた」等々。

今回の中国での活動は、これで終わりです。苦麦菜・油麦菜の実態は、8割がた見えてきたような気がします。あとは油麦菜の花と、実際の栽培地で得た種子の写真を撮ること。種子があるということは、どこかに塔の立った株に咲く花を残して栽培している所があるはずです。種子の販売店で聞けば分かるかも知れないので、今日はそれにトライしようかとも思っていたのですが、短い時間と少ない予算では、充分な活動は出来ません。それに、皆「花を見るのは難しいし、いずれにせよ今は花の時期ではない」と口を揃えて言います。今回はここまで。麦菜の花の撮影は、次回です。ところが、、、、、。

僕のテーブルの隣で、読書をしていた大学生らしい女性が、ずっとこちらに注目して、聞き耳を立てていたようです。一通り撮影が終わり、テーブルに戻ると、話かけて来ました。

《“麦菜”の話、とても興味があります。私は先月大学を卒業したばかりで、生物学・農園学を勉強していました。レタスや麦菜のことも、ある程度は分かります。“油麦菜”の花の生えている場所も知っています。よろしければ、ご案内しましょう。いろいろとお手伝い出来れば、と思っています。》

とても有難い話です。でも今日はもう夕方だし、明朝の帰国便搭乗に向けて、香港空港に移動せねばなりません。丁重に“お申し出は有難いのですが、時間がありません、次回に中国を訪れた時は、何かレクチャーをお願いするかも知れませんので、よろしく”と今回は辞退し、その張さんという方に、メールアドレスを渡しておきました。

香港国際空港に到着して、ネットを開くと、張さんから、写真が転送されて来ていました。

これぞ“油麦菜”の花。最後の最後で、はじめて確認出来た、油麦菜の花です。もう一日早ければ、その場所に案内して貰うことも可能だったのに、と思うと、少し残念ではあります、、、、、でも、楽しみは、次回にとっておきましょう。



張さんです 


張さん自ら撮影の“油麦菜”の花。バリエーションが、かなりあるようです。左端は苦麦菜の花に似ています(苦麦菜かも知れない)。3枚目はレタスそっくりだと思う。

僕は、油麦菜はレタスそのもの、あるいは限りなくレタスに近い中国独自の作物で、苦麦菜&アキノノゲシとは、没交渉なのかも、と最近思いかけているのですが、張さんの意見では、「油麦菜はレタスよりも苦麦菜に近いと思う」とのこと。やはり、一筋縄ではいかない、様々な問題が含まれているようなのです。


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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第105回)

2011-10-08 09:00:27 | その他の植物

東洋のレタス“麦菜”の謎 Ⅱ(付録)

■=種(黒字表記)、●=Grope(または亜種・変種/青字表記)、▲▼=Type(褐色字表記)とし、それぞれにナンバーを付しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

MULTILINGUAL MULTISCRIPT PLANT NAME DATABASE
Sorting Lactuca names
http://www.plantnames.unimelb.edu.au/new/Lactuca.htm
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
という、チェックリストを見つけました。Lactuca属(アキノノゲシ属)276種(Wikipediaのレタスの項目に全種が紹介されています)のうち、レタスLactuca sativaを中心に、近縁種を含めた15種17下位分類群(下位分類群は、ほとんどがレタスに帰属)についての、各国言語ごとの列記リストです。

Lactuca sativaの下位分類群については、亜種ssp.や変種var.として示さず、あえて(一見非科学的な)「グループ」および「タイプ」として記述していますが、この(将来に様々な含みを残す)姿勢は大いに賛同出来ます。

そのチェックリストを基に、以下のように手を加え、縮小再編(辻褄の合わない部分などは変革)してみました。

○各国語ローカルネームのうち、中国語、英語、日本語のみを表示。
○( )内数字は、紹介されている各国言語の総数。
○日本語表記については、学名をそのまま片仮名で示した例を除外し、さらに一部修正・追加を行いました。
○■=種、●=Grope、▲▼=Typeとし、それぞれにナンバーを付しました。

栽培種を中心としたリストと思われるので、野生種についてはごく簡単にしか述べられていず、その分布や、形態の比較なども行われていませんが、どの国(言語)にローカルな呼称が存在するのかということと、その名称の意味などを知ることで、レタス種内の下位分類群および近縁分類群の全体的な相関性を把握することが出来ると思います。

Lactuca属276種のうちから、どの様な根拠でレタス以外の14種をピックアップしたのかは不明ですが、一応取り上げられた全種を紹介し、( )内に簡単なコメントを付しておきます。

■①Lactuca canadensis L. (1)
ENGLISH:Canada lettuce/Florida blue lettuce/Wild lettuce.
(北米産の野生レタス)

■②Lactuca indica L. (5)
ENGLISH:Indian lettuce.
JAPANESE:アキノノゲシ
(日本を含む東アジア~東南アジアに広く分布)

■③Lactuca intybacea Jacq. (1スペイン語)
(南米Nicaragua産、ネット検索で写真を見た限り、全体のイメージはオ二タビラコを思わせます)

■④Lactuca muralis (L.) Gaertn. (8)
ENGLISH:Wall lettuce.
(ヨーロッパなどに広く分布、花は小花数が少なく、ニガナに似ている)

■⑤Lactuca perennis L. (6)
ENGLISH:
(ヨーロッパ中~南部に広く分布する紫花の種)

■⑥Lactuca quercina L. (8)
CHINESE:裂葉萵苣Lie ye wo ju.
ENGLISH:Wild lettuce/Oak-leaved lettuce/Wild oak-leaved lettuce
(ヨーロッパ南部から中央アジアにかけて分布、小さな黄花の種で、オ二タビラコに似た雰囲気)

■⑦Lactuca saligna L. (10)
ENGLISH:Least lettuce (UK)/Willow-leaf lettuce (USA).
(ヨーロッパ南部・北アフリカ・中央アジアに分布、前種に似て、いかにも雑草然とした小さな黄花の種)

■⑧Lactuca sativa L. (26)
CHINESE:莴苣Wo ju/萵苣Wo ju (Taiwan)/生菜Sheng cai.
ENGLISH:Garden lettuce/Lettuce.
JAPANESE:チシャ/レタス.

■⑧●①Lactuca sativa L.(Angustana Group) (20)
CHINESE:大葉萵苣 Da ye wo ju,/Jing wo ju,/莖用萵苣Jing yong wo ju,/Nen jing/Wo ju,/莴笋Wo sun.
ENGLISH:Asparagus lettuce/Celtuce.
JAPANESE:カキチシャ/ステムレタス/茎レタス.


■⑧●①▲①Lactuca sativa L.(Angustana Group/Stem type) (5)
ENGLISH:Celtuce/Chinese stem-lettuce.
(グループ全体に添附された各国語名称は、本来このタイプに相当するものと思われます)。

■⑧●①▲②Lactuca sativa L.(Angustana Group/Leaf type) (2)
CHINESE:油麦菜You mai cai(yóumàicài).ENGLISH:Chinese leaf-lettuce.

(一応、これが“油麦菜”が帰属するタクサ。茎を食べるタイプのものは▲①に入るのでしょう。▲②は“「茎レタス」の「葉タイプ」”と言うことになります。呼称が中国名と英名しか無いということは、世界的にはまだ普及していないということなのだと思います)。

■⑧●②Lactuca sativa L.(Capitata Group) (26)
CHINESE:结球莴苣Jie qiu wo ju,/Juan xin wo ju.
ENGLISH:Cabbage lettuce/Head lettuce/Heading lettuce/Iceberg lettuce.
JAPANESE:タマチシャ/結球性レタス


■⑧●②▲①Lactuca sativa L.(Capitata Group/Butterhead type) (6)
ENGLISH:Bibb lettuce(USA)/Boston lettuce(USA)/Butter-head lettuce/Butter lettuce

■⑧●②▲②Lactuca sativa L.(Capitata Group/Crisphead type) (9)
CHINESE:皱叶莴苣Zhou ye wo ju.
ENGLISH:Crisp lettuce/Crisphead lettuce/Iceberg lettus.
JAPANESE:チリメンヂシャ

■⑧●②▲②▼①Lactuca sativa L.(Capitata Group/Crisphead type“Red Iceberg”) (1)


■⑧●③Lactuca sativa L.(Crispa Group) (27)
CHINESE:San ye wo ju,/皱叶莴苣Zhou ye wo ju,/Wu tou wo ju.
ENGLISH:Curled lettuce/Cut lettuce/Cutting lettuce/Leaf lettuce/Loose-leaved lettuce/Vietnamese lettuce.
JAPANESE:チリメンヂシャ/カキチシャ
(“チリメンヂシャ”や“カキチシャ”の名は、幾つものグループに跨って冠せられていると解釈して良いのでしょうか?)

■⑧●④Lactuca sativa L.(Acephala Group) (7)
CHINESE:皱叶莴苣Zhou ye wo ju.
ENGLISH:Batavian lettuce/Crinkled leaf lettuce/Loose-headed lettuce/Non-heading cut lettuce/Wrinkle-leaved lettuce
JAPANESE:チリメンヂシャ/サニーレタス/リーフレタス/葉レタス

■⑧●⑤Lactuca sativa L.(Secalina Group) (9)
ENGLISH:Criolla lettuce/Italian lettuce/Italian leaf lettuce/Latin lettuce/South American lettuce/Tall leaf lettuce


■⑧●⑤▼①Lactuca sativa L. (Secalina Group“Lollo Rossa”) (3)
ENGLISH :Laitue italienne“Lollo Rossa”


■⑧●⑥Lactuca sativa L.(Longifolia Group) (27)
CHINESE:Zhi li wo ju.
ENGLISH:Cos lettuce/Romaine lettuce.
JAPANESE:コスレタス/ロメインレタス/タチチシャ
(大多数の文献では、「油麦菜」はこの分類群に含められています。アメリカ産のレタスの1/3はこれ)

■⑧●⑦Lactuca sativa L.(Quercifolia Group) (2)
ENGLISH:Cultivated oakleaf lettuce/Cultivated oak-leaved lettuce


■⑧●⑦▼①Lactuca sativa L.(Quercifolia Group“Radichetta”) (3)
ENGLISH:Italian oakleaf lettuce“Radichetta”


■⑨Lactuca serriola L. (23)
ENGLISH:Prickly lettuce/Wild lettuce.
JAPANESE:トゲチシャ/(青山追加)アレチヂシャ
(レタスの原種と見做されています。ヨーロッパ南部原産?世界各地に広く帰化。Wikipediaによると“Chain lettuce”の英名も)

■⑩Lactuca sibirica (L.) Benth. ex Maxim. (3)
ENGLISH :Siberian lettuce.
(紫花、シベリア産)

■⑪Lactuca taraxacifolia (Willd.) Schum. et Thonn. (1フランス語)
(黄花種、熱帯アフリカ産)

■⑫Lactuca tatarica (L.) C. A. Mey. (3)
ENGLISH :Blue lettuce/Chicory lettuce.
JAPANESE:(ムラサキハチジョウナ)
(紫花、北半球に広く分布)

■⑫●①Lactuca tatarica (L.) C. A. Mey. ssp. pulchella (Pursh) Stebbins (3)
ENGLISH:Blue lettuce/Russian blue lettuce


■⑬Lactuca tenerrima Pourr. (1フランス語)
(紫花、南ヨーロッパ~モロッコ産)

■⑭Lactuca viminea (L.) J. et C. Presl. (5)
(特異な花序の黄花種、小花は5弁で④に似る、地中海周辺域に分布)

■⑭●①Lactuca viminea (L.) J. et C. Presl ssp.chondrilliflora (Boreau) Bonnier (1)


■⑭●①Lactuca viminea (L.) J. et C. Presl ssp. viminea (1)



■⑮Lactuca virosa L. (20)
ENGLISH:Acrid lettuce/Bitter lettuce/Butter lettuce (as weed)/Garden lettuce (as weed)/Great lettuce (as weed)/Hemlock lettuce/Opium lettuce/Poison lettuce/Prickly lettuce/Wild lettuce.
JAPANESE:トゲハニガナ
(葉に棘が多い黄花種、ヨーロッパ原産で世界各地に帰化。和名は、これまで「トゲハニガナ」で通っていましたが、ニガナ属Ixerisではなくアキノノゲシ(チシャ)属Lactucaであるため、近年「(マルバ)トゲチシャ」に変更されたとも聞きます。実になさけない話で、一部の研究者の、ほとんどバカと言って良い頭の固さを思い知らされます。ちなみにIxerisとLactucaはごく近縁の関係にあり、もし将来属の組み換えが成されれば、そのたびに和名を変えることになるのでしょうね。)

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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第104回)

2011-10-07 11:05:39 | その他の植物

東洋のレタス“麦菜”の謎 Ⅱ⑤


広東河源2011.9.29-30


前記の、シェンツェンの食堂の料理長のアドバイス、「栽培している油麦菜(の花)を見たければ、河源市に行けばいい」に従って、今、その河源市(センツエンからバスで3時間)に来ています。ホテルの向いに日本料理店があり、そこのスタッフたち(日本語を喋れるのは一人もいない)およびホテルのフロントに訊ねてみました。

まず、わざわざこの町に「油麦菜」の花の撮影のために来た、という事を、呆れられてしまったです(そりゃそうでしょう、何もここだけで油麦菜を栽培しているなんてことは無いはずですから)。

スタッフの方々が言うには「うちの店では生菜(レタス)を使っているけれど、油麦菜も苦麦菜もとても美味しい! ともに昔から食べていた様に思う、苦麦菜はどこにでも生えている、油麦菜もどこかで見られるはずだけれど、今は花の季節ではない」。

■香港のJTB代理店(日本人スタッフを通じて)、及び日本料理店(日本語を喋れるスタッフはいない)の従業員。「油麦菜は普通に食べている、昔から食べてはいるが、確かに近年急速に人気だ出てきたようだ、苦麦菜は食べない(きっぱりと断言)」。

■センツエンや香港など、大都会の人々にとっては、レタスがブランド品、苦麦菜? そんなの食べるわけないでしょう!ということなのでしょうか。

それに比べ、陽春にしろ梧州にしろ河源にしろ、中国南部の地方中心都市では、苦麦菜の人気は、意外に高いのです。

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9月29日

タクシー代600円を奮発、ホテルのフロントで(今は油麦菜の花は見られないと思うが、との注訳付きで)教えて貰った郊外の農場に行ってきました。畑作業中の人々に“油麦菜の花を写したいのですが”と中国語で書いたメモを見せると、“油麦菜の花は無い”という返事が返ってきます。それで引き下がるわけには行きません。「緑田蔬菜生産基地」という所を教えられたのでそこを訪ねてみました。

事務所の方々は大変親切で、「日本から、油麦菜の花を写しに来ました、苦麦菜の花は、これまで何か所かで写したのですが、油麦菜はスーパーや市場には沢山出ているのに、生きた実物には出会えません、センツエンのレストランで、“河源市に行けば見ることが出来る”と教えて貰ったので、昨日この町にやって来ました、花の撮影は無理でも、せめて畑に植えられている油麦菜を見ておきたいのです、どこに植えられているか、教えて頂けないでしょうか?」と訊ねたところ、丁重に次のように答えて頂きました。

香港やセンゼンの市場に出ている油麦菜や生菜の多くは、北京や上海をはじめとした、中国各地から搬送されてきたものである(膨大な消費量に特定の生産地域では対応できない)。この辺りは、油麦菜の生産は余り盛んではない。主要生産地は、雲南省の昆明である。花はこの時期には咲いていない。冬から春にかけてだが、見るのは非常に困難。今はごく小さな、芽生えたばかりの葉しか見ることが出来ないだろうが、それでも良ければ、近くの農場に車で案内してあげる。

という事で、連れて行って貰ったのが、上の写真の畑。バナナとパパイアで囲まれた畑一面に、油麦菜と生菜(レタス)が植えられています。この町の付近を北回帰線が横断していて、すなわち亜熱帯と熱帯の境界地域です。バナナとパパイアとレタス。何だかピンと来ない組み合わせ。

もう一つ別の畑にも行ってみました。こちらは、油麦菜、生菜に、苦麦菜も栽培されています。(梧州など他の地域と同様)苦麦菜だけが、塔が立った株が、畑のあちこちに見られます。おおむね一か所に固まって生えているので、“残っている”というのではなく“残されている”のでしょう。種子の採取が目的なのでしょうか? 油麦菜は、塔の立った個体は一つもなく、刈り取った後が見られるだけ。花が残っていると、なにか具合の悪いことがあるのかも知れません(タンポポ亜科の種は自家受粉のはずなので、交雑する心配はないと思うのですが)。





(写真上と下左)左が油麦菜、右が生菜。背景はパパイアとバナナ。(下右)油麦菜。市場に出荷されるのはもう少し先?



(写真左)油麦菜だそうです。花が咲く前に刈り取ってしまうのでしょう。(写真右)苦麦菜の塔立ち個体。右半は「甜麦菜」。



油麦菜の若い株と、苦麦菜の塔立ち株。



苦麦菜。右写真は「甜麦菜」と呼ばれる品種。



(下から)苦麦菜、油麦菜、生菜(レタス)
 

生菜、油麦菜、苦麦菜



(左写真、下から)苦麦菜、油麦菜、生菜 (右写真、左から)生菜、油麦菜、苦麦菜



花が咲いているのは、もちろん苦麦菜だけ。

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●油麦菜も苦麦菜も、最近になって品種改良され、一般に広まった、というのは僕の思い込みで、案外古くから知られていたようです。

●とはいっても、苦麦菜の場合、広い地域において「食用」として市民権を得たのは、ごく最近のことだと思います。油麦菜も以前から「食用」として利用されてはいたのでしょうが、急速に人気が高まったのは、比較的最近のことのようです。

●(苦麦菜はともかく)油麦菜が(ほとんど全くと言って良いほど)日本に紹介されていないのはなぜでしょうか?

●苦麦菜がアキノノゲシ由来であることは、ほぼ間違いないでしょう。油麦菜の由来は分からずじまい。単純にレタスの一品種と考えれば良いのか、もっと複雑な問題があるのか。油麦菜はアキノノゲシとは直接の関係はなさそうなのですが、全く無関係とも言い切れない。何らかの程度で、「レタス×苦麦菜」由来と考えるのが、座りが良さそうです。ただし今のところ実証する術はありません。

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以上、河源の畑での検証は、一応想定内の結果だったのですが、予想外の事実が一つ、むしろそちらのほうが、今回の収穫だったようにも思えます。

タクシー下りて、目を疑ったのです。農園周囲の路傍の一面に、アキノノゲシが生えている! 別に驚くことではないのかも知れません。梧州をはじめ、これまで訪れた広西~広東西部の苦麦菜栽培地の周辺では、見慣れた光景です。しかし、これまで目にしてきたのは“アキノノゲシそのもの”というよりも、明らかに“苦麦菜”の逸出由来と想定される個体です。それに対し、ここで見られる個体は、どれも紛いなきアキノノゲシそのものなのです。

どう解釈すれば良いのでしょうか? 一応、次の様な答えを考えてみました。

広西~広東西部一帯では、苦麦菜栽培化の歴史が古いため、在来自生するアキノノゲシと、品種改良が成された逸出苦麦菜が交雑、苦麦菜の性質に収斂し、苦麦菜に近いタイプの帰化雑草として存在している。一方、苦麦菜栽培の歴史が新しい広東東部一帯では、在来アキノノゲシと逸出苦麦菜との間に遺伝子交流がまだ進んでいず、そのままの形で在来アキノノゲシが残っている。

正反対の考え方も可能かも知れません。広東東部一帯では、より古くから苦麦菜の栽培化が成されていたことから、逸出し雑草化した集団は、永い時間の経過と共に、本来の野生アキノノゲシの性質に戻った。











この辺りの路傍で見られるのは、明らかに野生アキノノゲシそのものと思われる印象の個体です。










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最後に、
レタスとは?
アキノノゲシとは?
について考えておきましょう。

レタスと、世界中に帰化繁栄しているアレチヂシャ(トゲヂシャ、学名種名はレタスとは別)の関係については、ネットでの検索ではほとんど触れられていません(せいぜい「似た花が咲く」程度の記述)が、まともな図鑑類などでは、後者は前者の原種である可能性が強い由、記述されています。しかし、アレチヂシャは“野生種”とは言い難い分布の様相(帰化雑草状)を示していることから、アレチジシャそのものを「原種」と言いきって良いのかは、疑問です。

したがって、各地で見られるアレチヂシャからレタスが作出された、というよりも、原種が育種改良されレタスとなる過程で、逸出帰化雑草化し、原種の性質に戻ったのが今見られるアレチヂシャ、とするのが妥当なのではないかと思われます。原種とアレチジシャは形質が相同でも、今に至る時間レベルでの相違があり、全く同一とは言えない、と考えます。

アキノノゲシも似た問題を抱えていると思います。

以前の図鑑類などの記述では、日本の在来分布種となっていたのですが、最近の(ネット)記述を見るに「史前帰化種」とされているようです。むろんその可能性は大いに高いのでしょうが、そうでない(というか、そう簡単には括れない)可能性もあります。どの様な根拠で「自然帰化植物」とされているかについては、ほかの多くの人里に生える“雑草的広域分布植物”共々、「人里的環境(極相状態ではない環境)に生えているから、よって二次的な分布」ということなのでしょう。しかし、原的環境自体が、二次的に出現した人里的環境に類似していたため、人里的環境に収斂された形で今に至った、という形も否定できない。人里的環境に収斂され拡散繁栄する「遺存的植物」と考えることも出来るのです。「史前帰化種」との結論を下すのは、そう簡単ではないと思います。

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河源を離れる前日の夜、ホテルの食堂で「苦麦菜」「油麦菜」がメニューにあるか?とたずねたら、もちろん!と答えが返ってきました。ともに炒め物。いずれも一皿(一人ではとても食べ切れません、3~4人分)15元(180円ほど)。スープにも、卵などに加え、茹でた「苦麦菜」「油麦菜」がセットで入っています。

油麦菜は品種の「香麦菜」だそうです。苦麦菜のほうはいわゆる「甜麦菜」でしょうか。味はほとんど区別が付きません。それと分かって慎重に吟味すれば、油麦菜のほうは、何となく独特の“香り”がします。苦麦菜のほうも、うっすらと野生の風味(青臭み)が感じられるような気がします。いずれも、レタス同様のしゃきしゃき味とトロ味があり、大変に美味しいのです。こんなに美味しい野菜が、どうして日本に紹介されないのか、今更ながら不思議に思えます。




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[現時点での結論]

苦麦菜(甜麦菜) Lactuca indica var.?

アキノノゲシLactuca indicaの一栽培品種

アキノノゲシは、アジア各地に広く分布(どの地域の集団が在来分布なのかについての検証は成されていない)。多くの地域で家畜の飼料として具されるほか、(主に薬膳料理として)中国南部の一部地域では古くから食用とされてきた。近年、品種改良が進むに伴って人気が高まりつつあり、中国南部を中心に、ポピュラーな野菜となっている。

葉に強い苦みをもつことから一般受けし難い半面、その苦味が人気の要因ともなっているようである(苦味の少ない甜麦菜などもある)。原則として生食はせず、主に炒めて食べることが多いようである(炒めると苦味は消える、茹でて食べることも?)。

葉の色は艶消し状。深い切れ込みのあるものが主体だが、全縁で幅広いものも多い。頭花は比較的大きく(径2~2.5cm)、舌状花は淡い卵黄色でほとんど白色に近いが、雄蕊が鮮やかな黄色のため、離れて見ると頭花全体が黄色のように感じる。種子は、左右に幅広い翼を持った楕円形で、濃黒褐色。

栽培地では、生葉の収穫後、塔の立った株を残し、そこから種子を採取して畑に撒く。栽培地(広東・広西など?)の周辺には、野生化した逸出株を多く見かける。



油麦菜(香麦菜、甜油麦菜、春菜?) Lactuca sativa var.?

レタスLactuca sativaの一品種?

学名上は、コスレタスやロメインレタスの名で呼ばれるL.sativa var. longifoliaとされたり、ステムレタス(茎ヂシャ)L.sativa var. angustanaの葉食品種(カキヂシャ≒莴笋)とされたりするが、それらと相同であるか否かについては未検証。

レタス(チシャ)またはその原種と目されるアレチヂシャ(トゲヂシャ)L. serriolaから、中国で独自に改良された野菜である可能性も。さらに苦麦菜(あるいはアキノノゲシ)との間の何らかの関わり(遺伝的交流?)も考えられなくはない。それらを含めた発祥の由来についても未検証。

中国では古くから各地で食用として利用されてきたが、近年急速に人気が高まり、アブラナ科の青菜類と並ぶ、メジャーな野菜となっている。通常生食はしないが、苦味はほとんど無く生食も充分に可。茹でて食べたり、炒めて食べたりすることが多い。薫りのある香麦菜をはじめ、様々な品種がある。

茎は中実で太く(食用の「莴笋」とする)、葉は通常全縁、色はレタスに似て明黄緑色の艶がある。頭花については未検証だが、レタスと同じとすれば、麦菜(アキノノゲシ)より明らかに小型で、舌状花は黄色味をより強く帯びる。種子(購入品による検証)は、前後に細長く、左右に顕著な翼は持たない。ただし、種子の色は淡色のレタスと異なり、苦麦菜やアキノノゲシ同様に濃い黒褐色を呈する。

栽培地では、塔の立った株は見られず、葉の収穫後に刈り取ってしまうものと思われる。市販の種子を毎年撒種するのであろう。


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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第103回)

2011-10-06 08:52:50 | その他の植物

東洋のレタス“麦菜”の謎 Ⅱ④


広西融水(九万大山/汪洞)2011.9.20-21


結局、梧州では“油麦菜”の花を見ることは出来ませんでした。しかし、たまたま以前の写真を整理していたら、7月上旬の“ヤナギバハナアジサイ”の探索時に訪れた九万大山の麓(汪洞鎮)で撮影した一連の写真の中に、紛いなき油麦菜であろうと思われる個体(葉)のカットを発見。融水は、数日前まで一週間ほど滞在していた桂林からは100㎞以内の地で、もとはと言えば今回の桂林行は、帰国の前に、ヤナギバハナアジサイの挿木を採取しに九万大山を再訪することが目的だったのです。でも、予算的に(一文無しですからして)宿舎を離れるのは難しい、ということで断念したのですが、今なら経費は確保出来ます。帰国前にもうひと踏ん張りして“幻のヤナギバハナアジサイの挿木採取”&“謎の油麦菜の花撮影”に向うにしくはありません。

しかし、写真をチェックして“油麦菜”と確信していたはずの汪洞の集団も、実際に調べてみたら全て“苦麦菜”だったのです。幅広い葉の様子はいかにも油麦菜的なのですが、花や種子は、紛いもなき苦麦菜。地元の方に「油麦菜はどこにあるのですか?」と訊ねても、「無い」または「今は無い」としか返事が返って来ません。

それと、不思議なのは、厳重な石垣で囲われて大事に栽培されている一方で、そこいらに雑草化して生えている。梧州~柳州~融水のバスの車窓からも、至る所で栽培なのか逸出なのか定かでない、塔の立った“苦麦菜”を見かけています。その辺りの相関性が、今一つ良く分からない。

という事で、結局うやむやになったまま、実態は分からずじまいなのです。




 九万大山山麓の汪洞鎮にて7月8日撮影。これぞ“油麦菜”と思っていたのですが。



こんな風に生えていると、栽培なのか逸出なのか、よく分からなくなってきます。





葉は、ごく狭いものから、幅広いものまで、様々です。



網や石垣で囲われているものは、間違いなく大事に栽培されているのですが。



葉質のイメージは、どこかレタスを思わせます。



(写真左)花と種子をぎっしり付けた古い塔立ち個体と、幅広い葉の若い塔立ち個体。



(写真左)株の横に注目して下さい。種子を撒いた後の市販の袋が、、、。栽培品は、一回一回市販の種子を撒いているのでしょうか?



極めて細長い葉の個体。野生アキノノゲシの“ホソバアキノノゲシ”のタイプに当たるのでしょうが、どこか雰囲気が異なります。



花はアキノノゲシと区別が付かないと思う。




こちらは野生(在来?)種の、ヤマニガナ近縁種(アキノノゲシ属)またはニガナ属の種。

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以下、断片的に。

苦麦菜は、アキノノゲシそのもの(またはごく近縁の種)を育種改良したものと考えて、ほぼ間違いないでしょう。

以前(8年前)に陽春を訪れた時に初めて見ました。その頃は、“食用”としては、陽春周辺(及び海南島など)の限られた地域でのみしか栽培されていなかったように思います。

その後、急速に普及、現在では、長江流域以南の中国各地で、広く栽培されているようです。

石垣や柵で囲み、非常に大事に栽培されているようであるとともに、あちこちの空き地や路傍に雑草然として見られるのは、どう解釈すれば良いのでしょうか。

葉が大きい小さい以外は、大事に囲って栽培されているものと、路傍などに雑然と生えているものとの間に、これと言った差は無いように思えます。

これは僕の想像ですが、セイヨウタンポポが食用として最初に日本に持ち込まれた頃も、似たような状況だったのでは? 当初は大事に育てられていたのが、(“綿毛”で種子を運ぶ風媒花ゆえ容易に拡散繁殖し)至る所に雑草化、肝心の“野菜”としての栽培は、早晩廃れてしまった。それと似たような道を辿る可能性も考えられるでしょう。

葉に切れ込みがあるのが苦麦菜、滑らかな全縁の葉が油麦菜である、と言う人が多くいます。でも、苦麦菜にも全縁の葉は普通に見られます。苦味も全く同じです。

花の写真を見せると、畑の周辺の住人さえ、ほとんどの人が、「これは苦麦菜では(もちろん油麦菜でも)ない、“野菊”の花である」と答えます。茎や葉がともに写っている写真を見せて、はじめて納得して貰えるのです。大抵の人は、麦菜もほかの青菜類と同様に、菜の花タイプの花が咲くのだと思い込んでいるようです。野菜として利用され出してからの歴史が、それだけ新しいのかも知れません。

「油麦菜はどこにあるのか?」と訪ねると、「今は無い」という答えがしばしば帰ってきます。油麦菜は春にしか見られない、とういことなのでしょうか? だとしても(苦麦菜同様に)塔立ちの株が残っていても良さそうなのですが。

油麦菜と苦麦菜は全く別物。なおかつ季節が異なる。それにしては、油麦菜も(苦麦菜以上に)市場に溢れています。

油麦菜と苦麦菜は同じもので、食用に具される若い葉の頃を“油麦菜”と呼び(収穫時期は春?)、塔の立ったものを“苦麦菜”と呼んでいる。これは絶対にあり得ない(同時に市場に出ているし、両者は明らかに種子の形状が異なります)のですが、一般の人々が(実際の両者の区別とは無関係に)そのように思っているであろう公算は高いでしょう。

どう見ても油麦菜の葉(油麦菜の花は未確認)としか思えない個体も、聞くと“これも苦麦菜”という答えが返ってきます(そして、同じ場所に生えている塔立ち個体の花や実をチェックすれば、確かに間違いなく苦麦菜なのです)。

「甜麦菜」と言うのもある由。苦麦菜の畑で念のため名を確認したら、「これは甜麦菜」という答えが返ってきました。葉が甘い(または苦味の少ない)苦麦菜?

「甜油麦菜」というのもあります。甘い油麦菜。ほとんどレタスそのものなのでは?

市場やスーパーには、葉の切れ込んだ苦麦菜(①)、全縁の苦麦菜(②)、それに似た油麦菜(③)、レタス的な油麦菜(④春菜?)、生菜(⑤レタス)が、たいてい一緒に並んでいます。

生のまま食べ比べをしてみました。①苦い(野生のアキノノゲシと基本的には同じ味だと思う)、②苦い、③苦くない、④レタスに似た味、⑤レタスの味。

①や②も、熱湯に浸せば苦く無くなることを確認。

苦麦菜はむろん、油麦菜も炒めて食べることが多いようです。

苦麦菜の存在意義が、もう一つ良く分かりません。一般にはまるで人気がなさそうなのに、これだけ数多く栽培されて(かつ場所によっては非常に大事に扱われて)いる、という事実に、どういう意味があるのでしょうか?

苦味の成分に様々な薬効があり、純粋な食用としてよりも、いわゆる薬膳として利用されている。それは確かだと思います。でも、それだけではこんなにあちこち(といっても南部の限られた地域だけでしょうが)で栽培されている、と言うのは不思議。

やはり“苦味”が(遠ざけられる原因であるとともに)人気のポイントなのだと思います。

とは言っても、中国の市場やスーパーでは、明らかに油麦菜のほうがメインではあるのです。

それらの油麦菜は、どこから来るのでしょうか? もしかすると温室内栽培?

油麦菜も苦麦菜も、共にこの数年の間にブレークしたのは確からしいのです。

湖北省の恩施のスーパーで訊ねたところ、(油麦菜か苦麦菜かそれとも両方かは聞き漏らしました)2009年から扱い出した、との答え(Ⅱ①に写真)。

ほかの(長江以南の)各地でも、似たり寄ったりだと思います。

中には、(少なくとも苦麦菜は)昔からあった、と言う人もいます。

あったけれど、食用とはされていなかった、という可能性も大きいと思う。

苦麦菜も油麦菜も、ともに陽春周辺(またはその近隣地域)が、発祥の地? それとも別個に発展した?

両者の由来は、全く無関係に成されたのでしょうか? 相互に何らかの関係を持ちつつ、今に至っているのでしょうか?

実のところ僕は、苦麦菜と油麦菜の関係を全く理解していないのです。

中国語のインターネットをチェックすると、苦麦菜は油麦菜の一品種ということになっています。

しかし、油麦菜は種としてはレタスそのものの可能性があります。

英文ネット上では、油麦菜の学名は、Lactuca sativa(=レタス)の変種(var. longifolia)とするのが一般的。Longifoliaは、いわゆる“コスレタス”“ロメインレタス”のこと。欧米で主流のタチレタスと同じものと考えられているわけです。

しかし、より詳しい報文(“付録”参照)では、種としては同じLactuca sativa(=レタス)でも、上記とは別の変種(var. angustana)のleaf typeとされています。Angustanaは“スティムレタス”のこと、すなわち、中国産の茎レタス(=莴笋)の、葉を食べるタイプ。

どちらが正しいのでしょうか? どちらかの変種が、中国で改良されたものなのでしょうか?

どちらでもなく、アジアに固有の集団に由来する、中国独自の野菜?

油麦菜が、種としてはレタスに属する一集団と、アキノノゲシを母種とする苦麦菜との、交雑由来である可能性も有り得ると思われます。

苦麦菜栽培地域に、(苦麦菜の逸種個体が数多く見られるのに)野生のアキノノゲシそのものが見られないことは、不思議です。

ほかの地域(陽春周辺や海南島など中国南部以外)が発祥の、アキノノゲシの食用化は?

台湾が発祥地(苦麦菜?油麦菜?)と言う説も。
神戸元町明楓(めいふう)China Maple Café

中国の一部地域では「ウサギノミミ」と俗称されているらしい。
雑草の都合 2011年07月12日レタス(5)油麦菜 ムギレタス

日本の西表島で、野生のアキノノゲシを「ウサギノミミ」と呼び、食用とする風習もある、という話と、合致します。

以前、那覇(沖縄)のスーパーで「食用ホソバワダン」を見付けた事を報告しましたが、“苦味の文化”を共有するのであろうアジア南部地域では、“苦菜”で総称されるところのキク科タンポポ連の苦味を持ったいくつかの(葉が大きな)種も、郷土野菜としてメジャーになりつつあるのかも知れません。

野生アジサイ探索記(下2e)伊平屋島【トカラアジサイ】2011.4.26~5.1 参照
野生アジサイ探索記(下2f)石垣島・西表島【ヤエヤマコンテリギ】2011年5月2日~5月5日 参照


タンポポ連の各種は、どれも苦味を伴う独特の風味(及び成分)を持ち、食用化に至る素養を内包しているものと思われます。しかし大半の種は葉がごく小さなことから、現実的には普及しないでいたのでしょう。その中で、ホソバワダンは葉が大きく肉厚で、食用化に適していたものと思われます。といっても、実際に食されているのは、(ゴーヤが普及するなど)苦味の文化の残る沖縄でも、一部地域のみ。中国南部のアキノノゲシの食用化(苦麦菜)ともども、どの様なきっかけがあったのか、知りたいものです。

しかし、一方では、苦味の強い苦麦菜やホソバワダンは、一般の人々には余り歓迎されてはいないのかも知れない、というのも事実でしょう。

中国シェンツェンの高級ホンコン料理店でワンタンを注文したところ、油麦菜らしきものが添えられていました。料理長に確認したところ、(言外に「失礼なことは言わないでくれ」といった面持ちで)「これは油麦菜ではない、生菜(レタス)である」と反駁されてしまいました。彼曰く、中国人は油麦菜などは好きではない、ましてや苦麦菜など食べるものは皆無に近い、美味しいのはレタスに限る、よって当店ではレタスしか使用していない、と。ゆくゆくは、レタスに限りなく収斂していくのではないかと思われます(すでにそうなりつつある?)。

(日本において当初食用として導入されたはずの)セイヨウタンポポも、今になって思えば、レタスに駆逐された口なのかも知れません。

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苦麦菜の種子(下右写真中央のオレンジ色は、ヤマニガナ近縁種またはニガナ属の種)。



上段オレンジはヤマニガナ近縁種、上段右は油麦菜(購入した種子)、その他は苦麦菜。




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