青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

被害者と加害者、平和と戦争、正義と悪、光と闇、、、、

2024-10-29 07:51:19 | 雑記 報告

 

夜、NHK「映像の世紀/敗戦国としてのドイツ」を見ました。

 選挙とか大谷君とかどうでもいい(個人的には毎朝ワールド・シリーズに釘付けなのですが、(-_-;))ので、こっち見てください(再放送あると思うので)。

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察④(+Johnny Tillotsonの新曲紹介)

2024-10-22 14:35:30 | 雑記 報告

 

昨夜、こんなことがありました。

新飯塚駅近くのスーパーで、買い物をし、駅前からバスに乗って自宅に帰ります。所持金は1000円札2枚、バス代が210円、半額弁当2個を買って350円。

2枚の1000円札は、旧札と新札1枚づつ。このスーパーでは新札と新500円玉が使えない。同様に新札と新500円玉ではバスにも乗れない。

そこで、旧1000円札でレジ精算し、お釣りの650円の旧500円玉でバスに乗る、、、つもりでした。レジには「新札と新500円玉は使えません」と大きく張り紙がしてあるものですから、当然お釣りは旧500円玉で出てくるものと思っていたのです。

なんと、お釣りは新500円玉。それは困ります。受け取るわけにはいかないので、すぐにアピールを行いました。

>新500円玉は使えないので、旧500円玉でお釣りをください。

耳を疑う返答が。

>両替は出来ません。新500円玉は機械から勝手に出てきたので、私の知るところではない。

そ、そんな、、、。

>それは困ります。バスに乗れないです。

 

レジのおばさん曰く。

>それは私たちには関係ない、バス会社にクレームつけてください。

 

バスの出発時刻は迫っています。仕方がありません。この500円玉で新たに小さな買い物をして100円玉でお釣りをもらうしかない。

 

再度信じがたい対応。

>新500円玉は使えない。

 

頭が真っ白になってしまいました。そんな馬鹿な。新札、新硬貨は使えない、というので、旧札で精算を行った、すると新硬貨でお釣りが来た。使えないので旧硬貨でお釣りくださいと言ったら、それは出来ないと。仕方がないので新たに買い物をして100円玉でお釣りを貰おうとしたら、新硬貨だから使えないと。嘘みたいな話じゃないですか、、、。

 

じつは、これまで何度も同じようなシチュエイションに遭遇しています。中国ではよくあることなのです。「中国人のどうしようもない民度の低さを現している」と日本人の中国人に対する嘲笑の例になっています。それが、今日本でも行われているわけです。

 

でも、日中の同様の例には、徹底的な違いがあります。中国での例に対しては、日本人からも中国人からも、諦め・呆れというか、しょうがないなあ、もう、中国人はでたらめなんだから、運が悪かったと思って気を取り直して!という反応。

 

今回の例では、周囲の反応がちょっと違った。旧500円玉でお釣りを貰えないとなると、手持ちのお金は新500円玉と新1000円札だけです。バスに乗れません。そう簡単に引き下がるわけにはいかない。

 

僕。

>旧500円玉なり100円玉なりレジにあるでしょう?そちらでお釣りをください。

 

レジのおばさん。

>規則だからできません。

 

というわけで引き下がらずに交渉を続けていました。

 

すると、近くにいた赤ちゃん連れの若い男性客が口を挟んできた。

>この老いぼれジジイ、いい加減にクレームをつけるのはやめろ!新硬貨は使えない、と書いてあるじゃないか、文句があるならバス会社に言え。営業妨害で警察に通報するぞ。

 

僕としては、望むべくことです。でもバスに乗れなくなってしまいます。レジのおばさんに、どうか旧500円玉でお釣りをくださいと、頭を下げ、おばさんは「今回だけ特別に」と旧500円玉を渡してくれました。

 

次に来た時に、店長氏に会って、新旧500円玉の理不尽を訴えようと考えています。どう考えても店側がおかしいと思うので、話し合えばわかるはずです。現在のシステム上、仕方がないのかも知れないし、将来改めてくれればいいのです。

 

僕がどうしても許せないのは、件の若い男性の態度です。こいつは許しがたい。保身、責任逃れ、リスク排除、、、こんなのが薄っぺらな正義感を振り回して「正論」を垂れ流しているので、世の中が滅茶苦茶になっていく。

 

全速力でバス停に向かい、間一髪バスに間に合いました。近畿大学前で下車、バス代は210円、旧500円玉(+10円玉)を両替機に入れ、300円のお釣り、、、と思っていたら、出てこない。

 

バスの運転手氏曰く、

>機械の調子が悪いみたいで、硬貨が底に落っこちてしまったようです。残念ながら取り出すことができません。お釣りが必要なら、明日、(終点の)事務所まで取りに来てください。あるいは連絡先か銀行口座を書いて頂ければ後日送るか振り込むかします、と、悪びれた風もなく宣います。

僕。

>それは困る。300円がなければ(新1000円札しか残らないので)次にバスに乗ることができません。運転室に予備の小銭は用意していないのですか?

運転手。

>そんなお金は用意していない。

僕としてはお釣りを受け取らないわけにはいかないので、粘るしかありません。

結局(運転手が事務所と連絡を取って)乗客の中で終点まで行く人から300円を僕が受け取り、終点でその乗客にバス会社が300円を渡す、という方法を選りました。

その方に深くお礼を言って、何とか窮地は免れたのだけれど、その方も他の乗客も、いい迷惑です。僕は、とんでもないクレーム・ジジイと、白い目で見られていること必至です。

 

どう考えても理不尽でしかありません。被害にあったほうが、泣き寝入りをせずに強く対応すると、カスハラとかいう、わけのわからない「強者救済」システムで、「悪者」になってしまいかねない。

僕は(たぶん僕以外の多くの人も)気が弱いので、「泣き寝入り」を受け入れるしかありません。

 

                                                                     

「強者」というのは何も特別な人達ではありません。「集団性自己中」に基づく「健全な市民」です。正当であるか否かにかかわらず、「強者」に逆らう(「強者」の既得権を侵害する)と「悪」とみなされる。それが日本の民主主義の正体です。

弱い立場の人間は泣き寝入りするしかありません。それが出来ない人は「犯罪者」になってしまう。

 

犯罪者に対して、ただ裁いて罰を与えればいい、というだけで良いのでしょうか。その背景を探る事こそ大事な事ではないのでしょうか。犯罪が起こるごとに、犯罪者(悪)は裁かれ、裏で無邪気にせせら笑いをしている、善良で健全な正義の皮を被った、醜悪極まりない「大衆」がいるのです。

 

むろん、犯罪、ことに暴力は、理屈抜きに、絶対にあってはならないことです。それを為した時点で、正しくても負けです。

 

でも、(何度でも言います)それ(「どんな理由があっても人が人を殺してはならない」という大前提)って、「死刑制度」と矛盾するように思うのですけれど。

 

・・・・・・・・・・・・

一昨日の夜は、NHKのTV番組を見ていました。西田敏行の番組(2人の母親)には、うかつにも涙が出てきた。良い番組でした。尤も、志村けんにしろ、西田敏行にしろ、メデイアこぞって没後過剰美化するような風潮には、首をかしげたいという思いがありますが。

 

一方、同じ老人でも、(世間が気に入らないとなれば)一方的に扱き下ろす風潮。ハリー(張本さん)とか、二階、森、麻生とか。醜いとしか思えません。若いことが正義、善。年寄りは悪。どれだけ酷い差別を行っているのかということを、自分たちは気が付いていない。

 

ジャニー喜多川の番組も見ました。彼の行ってきた行為にはこれっぽっちも弁護の余地はありません。しかしこの問題を俯瞰すると、とても恐ろしいことに気が付きます。ジャニー氏やメリー氏の問題ではないのです。それを取り巻くメディアや大衆の醜さが浮き上がってくる。元テレビ局重鎮現某大学客員教授氏に至っては、吐き気を催します。

 

このストーリーの中には、日本の社会の、資本主義の、民主主義の、全ての暗部が凝縮されて詰まっているような気がします。

 

物事の本質は関係なく、あるいは敢えてスルーし、空気、正論、正義で結論が形付けられてゆく。繰り返し言うけれど、ジャニー喜多川やメリー喜多川が、どれだけ悪行を働いたか、という問題ではないのです。彼らを取り巻く、目に見えない「巨悪」の存在(それは、メディア、大衆、、、に収斂される)に目を向ける必要があると思います。

 

初代ジャニーズの故中谷氏の姉上の訴えを、(ジャニー喜多川の排除が決定した後も)「中傷」と決め続けてせせら笑う企業側。

ロスアンゼルス在住の幼いころからジャニー姉弟の親友という老婦人の心境、、、、。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨夜は、「中内功と堤清二」を見ました。僕は、2人とも好きですね。

中内氏は(そのキャラクター自体は?の部分もあるのですが)神戸っ子(僕の父が始めた会社のすぐ近くに生まれた)なので、どこか身近に感じます。

堤清二(作家・辻井喬)氏は尊敬しています。

「(企業やメディアが)“大衆の欲望に応える”までは良かったけれど、“大衆の欲望を煽り立てた”のは間違いだった」と呟いた。重い言葉です。

 

・・・・・・・・・・・・・

選挙が近づきました。

僕は選挙には行きません。

選挙制度は、エセ民主主義の壮大なるカラクリです

 

選挙に行く、ということは そのからくりに同調する、ということにほかなりません。行かない(制度の否定)ということで、積極的な意思表示を選択します。

(具体的なことは改めて)

 

・・・・・・・・・・・・・

ナンシーからメールが来ました。

ジョニーの新曲リリースの紹介。

ここのところ、次から次へアップされています。ほとんどは(新曲というよりも)旧録音の未発表曲。これまで存在が知られていなかった、お蔵入り?の曲も含まれています。

でも今回の“My Baby’s Gone”の存在は知っていました。

以前、何人かのC&W歌手を集めたオムニバス版に、ジョニーのこの曲が入っていた。でもそのオムニバスアルバムの入手は困難、ユーチュブ上にもアップされることがなかったので、(何らかの間違い表示の可能性を含めて)永久に聴くチャンスはないだろう、と諦めていたのです。

Johnny Tillotson

「(My) Baby’s Gone」

*僕は長い間ルービン・ブラザースの「My Baby’s Gone」だと思っていたのですが、それとは別の同名異曲のようですね(“My”はタイトルには無いが歌詞にはついている) 。

 

ルービンのは僕が大好きな曲なので、それのジョニー盤が聴きたかったのだけれど、これはこれで素敵です。ちなみにルービン・ブラザース(ジョンD.ラウダーミルクの従弟)は、「涙ながらに」「You Can Never Stop Me Loving You」「Talk Back Trembling Lips」

(ヒットしなかったけれどジョニーが作った)「No Love At All」など多くカバーしていて、チャーリー・ルービンとは一緒に歌を作っていたりします。したがって、My Baby’s Goneをジョニーがカバーしていても不思議ではないのですが、違いましたね。それとも、2つとも録音していたりして、、、、。

 

Glen Campbell盤が秀逸ですが、Elvisの同名曲、Conway Twittyの同名曲などは、みなそれぞれ違う曲見たいです。

 

ついでに最近ユーチュブにアップされた、ジョニーの新曲(!?)をの中から、僕が特に気に入った幾つかの曲を紹介しておきます。

「Burning」

(1983年)

「You‘re A Beautiful Place To Be」

「Crying」(1983年)のB面

「Out Of My Mind」

1963年の自作ヒット曲のセルフカバー。僕の一押しです。

 

 

 

 

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Cover songs 50‐60's by Samoan‐singer Pinati Williams

2024-10-19 08:41:27 | アメリカン・ポップスearly60’s

 

アメリカン・ポップス関係の記事が大量に溜まっています。ことに、僕のライフワークの一つでもある、「涙ながらに」のカバー・リストの制作(ついでに「夢の枕を」とセットで)。その過程で、これまでよく知らなかった様々なジャンルのアーティストに接する機会ができました。ここ最近は、女性歌手に熱を入れているのだけれど、どこから紹介していこうか、なかなか踏ん切りがつかない。東南アジア(ことにインドネシア)やオセアニア(オーストラリア・ニュージーランド)編も企画していて、その中でも一押しの、サモアの男性歌手ピナテ・ウイリアムスのオールデイズ・カバー曲集をまず紹介していくことにします。どの曲も最高!です。映像も実に素晴らしい。文句なしのお薦めなので、ぜひ聴いてください。

 

Love Letters In The Sand by Pat Boone (Cover) (youtube.com)

Love Letters In The Sand

1957 Pat Boone(1934-) Hot100 No.1/R&B No.12

1986 Tom T. Hall(1936-2021) C&W No.79

Written by J. Fred Coots, Nick Kenny, Charles Kenny(1931)

 

All I Have To Offer You Is Me by Charlie Pride (Cover) (youtube.com)

All I Have To Offer You Is Me

1969 Charly Pride(1934-2020) C&W No.1/Hot100 No.91

Written by Dallas Frazier & A.L. Owens

 

Diana by Paul Anka (Cover) (youtube.com)

Diana

1957 Paul Anka(1941-) Hot100 No.1/R&B No.8

1965 Bobby Rydel(1942-2022) Hot.100 No.98/Adult No.23

Written by Paul Anka

 

 

Green Green Grass Of Home (Cover) (youtube.com)

Green Green Grass Of Home

1965 Porter Wagoner(1927-2007) C&W No.4

1967 Tom Jonse(1940-) Hot100 No.11/Adult No.12

1968 Skitch Henderson(1918-2005) Adult No.30

Written by Claude Putman Jr.

 

 

I Fall To Pieces by Patsy Cline (Cover) (youtube.com)

I Fall To Pieces

1961 Patsy Cline(1932-1963) Hot100 No.12/C&W No.1/Adult No.6

1970 Diana Trask(1940-) C&W No.37

1977 Mary K. Miller(1957-) C&W No.89

1981 Patsy Cline C&W No.61, 1982 C&W No.54(with Jim Reeves)

1994 Aaron Neville(1941-) & Trisha Yearwood(1964-) C&W No.72

Written by Hank Cochran & Harlen Howard

 

 

It Keeps Right On The Hurting (Cover) by Johnny Tillotson (youtube.com)

It Keeps Right On A Hurting

1962 Johnny Tillotson(1938-) Hot100 No.3/C&W No.4/R&B No.6

1965 Margaret Whiting(1924-2011) Adult No.28

1988 Billy Joe Royal(1942‐2015) C&W No.17

Written by Johnny Tillotson

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察④

2024-10-18 21:01:34 | 「現代ビジネス」オリジナル記事

 

・闇バイト(別に礼賛しているわ、意味を掘り下げて考える)

以前ミャンマーで奥地(カ地の人たちの主要産業は大麻の栽培それは良くない、ということで、日本を始めとした先進国のボランティアが、別の合法的な仕事を立ち上げて斡旋している、けれどなかなか応じてくれない。

彼ら自身は、別段悪いことをしている、という意識などないのですね。誇りをもって必死で頑張って仕事をしている、褒められはしても、後ろ指を刺される道理など、微塵もないわけです。

日本に於けるタバコ産業にも当て嵌ります。煙草農家は誇りを持って仕事をしていた。それがいつの間にか悪者にされかねない風向き。さぞかし戸惑っていることでしょう。同情を禁じえません。

善悪の基準など、ころころと変わります。今現在善とされていることだって、光の当て方次第で、いつ悪のほうに転換するのか、誰もわからない。

以下は極論なのですが。

これも東南アジア(確かタイ)で、ある日本人からこんな要旨の発言を聞いたことがあります。いわゆる闇バイトの海外在住元締めの一人なんでしょうね。彼曰く、

>自分たちは、ある意味、社会への挑戦のつもりでやっている、と。

とんでもないですね。「盗人猛々しい」とは正にこのことなんでしょうが、「盗人にも三分の理」という言葉もあります。全く無視してしまうことも、どうかと思います。

現在の社会(ことに資本主義社会、なかんずく日本の民主主義社会)の構造、考え方(社会に対する意識の持ち方)は、むろん自分たちは気が付いていない(そんなことは微塵も思ってはいない)だろうけれど、本質的に「反社会」と変わらない。

善悪の絶対的な評価は、集団(自分たち)にとって、よし(必要)とされているか否かで決まります。

光の当て方次第では、世の中の大方の文明・文化は、依存症へ誘発と言ってもよい、詐欺的行為の上に成り立っている。 

ファッション、グルメ、音楽、アニメ、、、芸術など最たるもので、落書き同然の代物に、いかにも尤もぶった専門家とやらの御神託で、何百万、何千万円、何億円もの値が付く。怪しげな宗教団体の壺と、どこが違うのか。

世の中の価値観は、「かのように」に基づく土台、空中回廊の上に成り立っているのに過ぎないのです。

集団(自分たち)にとって、利益をもたらすものが「善」「正義」であり、それに携わることが「まともな仕事」と認識される。光の当て方次第では、集団的(ほぼ日本国民同意の上での)詐欺に加担しているのに他ならないとしても。

その究極が、戦争(対立)で齎された経済の循環。それによってホクホクになっているのは、何も某国や某某国の独裁者たちでも、西側社会の指導者たちや大富豪たちだけでなく、戦争反対!平和を!と叫んでいる一般庶民なのです。

彼ら(すなわち私たちですね)が基盤的な部分で戦争に加担していることによって、まわりまわって豊穣がもたらされる(それを「平和」と呼んでいる)。フィルターがその過程を見えなくすることによって、「悪」に加担しつつ、反対を叫んでいる「正義」「善」が形成される。

金持ちなんて、あくどいことを遂行する能力のある人(あくどいということに気が付かないという能力がある人)にしかなれんのです。

その流れに乗るのが強者であり、資本主義社会、民主主義社会であり、富の偏在が成される。それらの(目に見えない暴力で成る)社会をぶち壊してやろうと、目に見えた暴力を仕掛けるのが、(やくざとはまた別の新参の)「反社会」勢力なのかも知れません。

先年のフィリッピンの某ルフィが漏らした「殺したのが拙かった」という呟き、これが本音でしょうね。少々の目に見える暴力に頼っても、目に見えない社会全体の強大な暴力(ほぼ正義の同義語)に立ち向かい、力が支配する社会を揺るがしていこう、と。

繰り返しますが、泥棒達の自己中意見を正当化するつもりはありません。その前提で、今社会を揺るがしている闇バイト問題を、表面的価値観だけで解釈するのではなく、無意識的集団性自己中社会(日本に於ける平和や正義)に対する警告として受け取る姿勢も、必要なのではないかと思うのです。

中国やロシアの、独裁権力による思想・風俗などの統制、それはあってはならないことでしょう。でも一面、わかる気がします。

民主主義の大義名分の下、歪な価値観が、当たり前のごとく「平和」「正義」「自由」として 位置づけられていることのほうが、僕はもっと怖いです。

文明・科学が、本当に人類に幸を齎しているのか、今一度考えて欲しいと思うのです。

 

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察③

2024-10-18 14:31:29 | 雑記 報告

 

・ノーベル平和賞と人類の決断~文明(例えば車・エアコンなど)との決別

 

日本被団協(被爆者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞しました。

僕はこれまで、繰り返し次のように述べてきた。

>「平和」「戦争をやめよう」と叫ぶ、それが間違っている、ということではなく、そこで終われば思考停止に等しい。

>誰だって平和を望んでいる。戦争などしたくない。なのに、現実は、全く逆の方向に進み続けている。ひたすら叫ぶのではなく、その原因はどこにあるのか、ということを真摯に追及していくことこそ必要なのではないか。

今回受賞の日本被団協の人々の訴えも、「平和を」「戦争反対」です。けれども、具体的に「核の全面否定」を訴えているわけです。そこを評価したい。正しくは「核兵器の全面否定」なのですが、それは「核・原発の全面否定」にも繋がっていきます。

核・原発そのものを全面否定するということは、現実問題として、人類の (いわゆる平和、自由)の活動スタイルの否定にも繋がってきます。それでも全面否定する。考えてみれば、非常に勇気のいることです。彼らに対するノーベル平和賞の授与は、今後の人類・地球の行く末を決定づける鍵となり得るのかも知れません。

「原発」に代表される文明の利器は、確かに便利です。人類の発展・繁栄の基礎を担っています。人々の楽しく、平和で豊かな暮らしに結び付きます。しかし、「繁栄」は絶対的な肯定事項なのでしょうか?

生物の進化の歴史を鑑みれば、「繁栄」は「滅亡」の序章でもあるのです。「文明」の齎す恵みは、同時に凶器・劇薬ともなりえる。

「核兵器」のように目に見える凶器(瞬間的大量虐殺)ではないとしても、俯瞰的に見渡したなら、「車」や「エアコン」といった文明の利器も、(例えば気候変動の元をなす)漸進的な大量破壊兵器と言っても過言ではないのです。 

文明は、人類の生活に彩りを添えます。しかし、文明ありき、ではない。人類は今、文明・科学に魂を売り渡し、滅亡への道に向かいつつあります。

「核の否定」から更に一歩踏み込んで「文明との決別」に向かう時が来ているのではないでしょうか。

ちなみに今年のノーベル賞は、他分野(物理学、医学など)に目を向けると、概ねAI関連が受賞していますね。今後もその傾向は続くのでしょう。

僕は、AI(科学)の発展が人類を滅ぼす、と確信しています。

 

 

 

 

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近所の蝶2024.10.16

2024-10-16 20:59:58 | 雑記 報告

 

今年は意識的に蝶の撮影をしないでいるのだけれど、さっきWi-Fi電波を拾いに外に出かけたら、アパートのそば(大学駐車場の脇)の草むらにタテハモドキがいたので撮影しておきました。近所(福岡県飯塚市)の蝶、52種目ですね。タテハモドキが九州北部まで分布を伸ばしていることは知っていたのですが、これまで出会うことがなかった。新鮮な個体(越冬型)が同じ場所に2頭いました。屋久島のアオタテハモドキと言い、揃って北上しているようです。

驚いたことが一つ。この場所の植生環境が、昨年、一昨年とガラリと変わっている。これほどまでに極端に変わるとは驚きでしかありません。草刈りの時期や回数(春にシルビアシジミの件で言及した公団住宅中庭はともかく今年は近所の草刈りがなぜか少ない)に関係するのかもしれませんが、、、。草刈りをしようがしまいが、最終的には同じような環境(それは必ずしも極相に向かわない)に落ち着くのではないかと。

植生は一変したけれど、蝶のメンツはあまり変わっていませんね。さっき出会ったのは、タテハモドキのほか、クロマダラソテツシジミ、ウラナミシジミ、ヤマトシジミ、ツバメシジミ、ツマグロヒョウモン、チャバネセセリ、キチョウ、アゲハチョウと、いつものメンツです。セイタカアワダチソウに群がるはずのキタテハを見かけなかったのは偶然でしょうか?

イチモンジセセリをチェックしようと、蚊に刺されながら小一時間粘ったのですが、チャバネセセリばかりでした。

大事なことに気が付いた。ベニシジミがいない。一昨年(昨年も)の10月中旬は、ここはベニシジミだらけだったのですが、一頭も見かけません。そういえば、今日のこの場所だけでなく、今年の夏以降は、ベニシジミにほとんど出会っていない(屋久島では南下定着しているのに)。これはどういうことでしょうか? まあ、(自然のシステムは複雑ゆえ)一年や二年で衰栄の判断を下すわけにはいかないのだけれど、気になる現象ではあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察②

2024-10-16 20:52:12 | 雑記 報告

 

前回の①はカテゴリーが「Johnny Tillotson」「アメリカン・ポップス」となっていますが、それはあくまで題材で、本質的・潜在的な部分では以下に記す各コメントと共通している、ということをご了解ください。

やらなきゃいけないことが山ほどあって(今はともかく「屋久島の植物」の完成一択)、ブログ*など書いてる暇はないのだけれど、書き出したからには一応完結しておきます(⑧まで続く予定、どれも数日前に書き始めたテーマなので、少々タイムラグが生じますが)。

*三世から、ジョージが日本語読めないので、英語でブログを書いてくれ、という、無茶振り。そんなの無理に決まってるのだけれど、、、、概ね自動翻訳機に頼って、ジョージ専用の英語版も書いているという、、、、我ながら情けなくなってきます。

・ドジャースWヘルナンデスと逆差別としての人種問題

ドジャース、宿敵パドレスを撃破してリーグマッチに進出。勝った山本も負けたダルビッシュも圧巻の出来でした。感動しました。それにしてもWヘルナンデスは勝負強い!

そのWヘルナンデスの活躍に際してのヤフーニュース。

 

S1さんの投稿

>我が家ではキケを白ヘル、テオを黒ヘルと呼んでいるが、今日は決勝の白と黒になった。

それに対するヤフコメ民たちのコメント

>サラッと何も考えずにこのコメントが出来るのが怖い。

>SDGSのこの時代にかなりマズイコメント…。

>めちゃくちゃ人種差別的な御家族ですね。失礼極まりないし、こういう事を書き込んでマズいと思わない感覚が分からない。

>コメ主、早く削除した方がいいですよ 絶対に家の中だけで、お子さんがいるなら今すぐ止めて、お子さんのために。

>>失礼な家族。

 

僕の投稿

>コメント入れている皆さんに、、、、あなたたちの思考回路(ひたすら責任逃れ、リスク回避)こそ、陰険な人種差別に繋がると思うのですけれど。

配慮は必要です。円滑に人間関係を進めていく上においては、(相手が嫌がるだろう表現を封印することは)あっても良いと思います。でもそれは、あくまで2次的な、潤滑油としての存在なのです。

それ(やみくもに封印すること)が主体となってしまえば、本末転倒、逆(本質的な)差別に連なる、単なる自己保身、責任逃れでしかないのではないでしょうか?

健全な市民たちの(集団性自己中的)コメントが、僕には恐ろしく感じるのです。

 

 

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察①ー2

2024-10-14 08:11:01 | アメリカン・ポップスearly60’s

日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察①のつづき

 

60年代後半以降のポップ音楽は、誰もが“金太郎飴”のように、「主張」「反抗」「改革」、そして「愛」「平和」「平等」の合唱です。繰り返して言うけれど、それが本当の改革に繋がるとは僕には思えない。1000の叫びよりも、1の実行のほうが尊いと信じています。

全面否定される(というか頭からバカにされる)ことは承知しています。敢えて言います。「ロック」も「フォーク」も「ブルース」や「ソウル」も、“いかにも”感はたっぷりでも、言葉に“重み(深み、真実味)”がない。僕は、(改革に繋がりうる)真の言葉の重みは、それと気付くことの少ない、ごくありきたりの表現の中に見つけることが出来る、と思っているのです。

誰かがそのような前提で、別の視点から「60年代アメリカンポップス」を俯瞰してくれれば、と思うのですが、(ごくマニアックなものは別として)そのような視点からの言及は、上記の内田樹氏の文章以外に出会ったことがありません。残念でなりません(だから今「涙くんさよならの謎」の物語りを書いているのです)。

60年中期以降に成された「新時代への転換」を主導したのは、主張・反抗・反体制の「ロック」「R&B」「フォーク」を主体とした音楽(及びその周辺)カルチャーに関わる人々であることは確かでしょう。

しかし、その転換期には、「C&W」およびそれに基づく当時の「ポップス」も、別の次元から(ポジティブであるかネガティブであるかはともかく、そして非常に複雑な形で)大きく関わったはず、ということは先に書きました。

当時のポップカルチャー(大衆文化)の代表でもあった「アメリカンポップス」と、その一方の生みの親でもある「カントリー音楽」の関係には、極めて複雑な背景があるようです。以下はその一例。

Billboardのヒットチャート上では、1950年代中期に社会現象となるほどの爆発的な人気を博したエルヴィス・プレスリー、更に50年代末にかけてのリッキー・ネルソンやエヴァリー・ブラザースら若いポップシンガー達のメジャーヒット曲は、C&Wのチャートでもグロスオーバーして大ヒットするのが当たり前でした。

しかし、60年代に入ると、50年代後半の蜜月関係から一転して、両ジャンルに跨るクロスオーバーヒットが、ピタリとなくなってしまいます。60年代の中期に至るまで、両陣営は、互いのヒット曲を全く受け入れない(Popチャートのほうには、ごくまれにC&Wの大ヒット曲がランクされはしたが、C&Wチャートには、カントリー調のPopヒットは、ほぼ全く登場しなかった)鎖国状況が続きました。黒人歌手と白人歌手のヒット曲が入り乱れて登場していたR&Bチャートとは対照的に、C&Wチャートは(いくらカントリー要素が強い曲であっても)ポップ歌手の曲を断じて受け入れはしなかったのです。

不思議なことに、その全く同じ時期(ビートルズがアメリカに来襲、ボブ・ディランやモータウン勢が台頭するまでの数年間)、アメリカの一般大衆に最も受け入れられていたのが「ポップ・カントリー」です(「ナッシュビル・サウンド」もほぼ同義語、当時は、主にポップ歌手によるカントリー調の楽曲に対して呼ばれていたように思いますが、現在では「ポップ・カントリー」も「ナッシュビル・サウンド」もC&W界の歌手による楽曲に対してのみ使われているようです)。

カントリー要素がごく強い曲だけでなく、一般のヒット曲も、程度の差はあれカントリー的な要素を持ち合わせていました。

アメリカ文化の象徴ともいえるポップ音楽の世界は、カントリー系のポップヒットが大多数を占めていたのです。

にも拘わらず(だからこそ?)、ポップ界とカントリー界の交流遮断、これを一体どのように解釈すればいいのでしょうか? ことに「ポップカントリー」が興隆の極みにあった62年は、極めて僅かな例外を除き、両陣営の曲がクロスオーバーしてそれぞれのヒットチャート上位に現れることはなかったのです(唯一の例外がジョニー・ティロットソンの「涙ながらにIt Keeps Right On A Hurting」と「夢の枕をSend Me The Pillow That You Dream On」)。

カントリー界からすれば「親(カントリー)離れした手に負えない子供(ポップカントリー)の出現」あるいは「軒を貸して母屋を取られる」というところでしょうか。新時代到来の直前に、別の形での「大人と子供の家族内対立」があったわけです。

1962年は、ジョニー・ティロットソンが「涙ながらに」で(60年の「ポエトリー」に続く)2度目のブレイクを成した年でもあるとともに、“ポップス黄金期”の主役たちが、最も光り輝いていた年でもあります。同時に、イギリスのビートルズやアメリカのビーチ・ボーイズらの、新時代のアイドルたちがブレイクの兆しを見せ、ボブ・ディランを旗手とした、“メッセージ”を込めた新たな歌の担い手たち”も、虎視眈々と台頭の機会を狙っていたのです。

そして、「天地変異」が起こりました。ビートルズのアメリカ来襲。ある意味成熟の極みに達し、膨らみに膨らんだ「the Golden Age of American Pops」は、その頂点で、一気に破壊したのです。

ところで、ジョニー・ティロットソンをはじめとした“旧時代”のティーンアイドルたちは、ビートルズの出現によって、すべからく“駆逐”されてしまった、というのが定説となっています。それは事実なのでしょうか? 答えは「そうである」、と同時に「そうではない」。二つの相反する、別次元の“事実”が存在するのです。すなわち「天地変動により崩壊した」「崩壊とともに天地異変が起こった」(鶏と卵の関係)。

ビートルズの出現を境に、旧時代のティーン・アイドルたちが駆逐されてしまったのは、紛いもなき事実です。「狭間の世代24人衆」の、ビートルズ登場の1964年を挟んだ前後数年の、ビルボード・トップ10ランクイン曲数の推移を見ていきましょう。

年度、トップ10曲数(アダルトのみのトップ10曲を加えた数)、Johnny Tillotsonのトップ10曲数(同)。*原著では表で表示。

1962年 37(49) 1(3)

1963年 21(37) 1(2)
1964年 11(24) 1(3)

1965年 03(14) 0(1)
1966年 03(04) 0(0)
1967年 02(02) 0(0)

一目了然ですね。64年以降のビートルズ達の登場と共に一気に消えてしまった、というのは、間違いのない事実ではあるようです。

でも、それとは違う見方も出来ます。ジョニー・ティロットソンたちティーン・アイドルの衰退と、ビートルズ以下ブリティッシュ勢の台頭は、それぞれ個別に起こった現象であると。時代の要求が、旧勢力を廃し、新勢力を求めていた、、、たまたま、そこにビートルズたちが出現した、そうは考えられないでしょうか。

もし、この時(64年春)にビートルズが登場していなくても、それに代わる“誰か”(おそらく今では無名のアーティスト)が、その役目を担っていたはずです。

次章で紹介する“狭間の時代のシンガー24人衆”についての表を、改めて眺めて下さい。連続ヒット期間が10年近くに亘る2人の女性歌手コニー・フランシスとブレンダ・リーを除けば、大半の歌手の“賞味期限”は、5~6年というところです。

ということは、初ヒットが早ければ早いほど、ヒット・チャートからの退場も早い。少なからぬ歌手が、ビートルズ登場より、かなり前からヒット・チャートから姿を消したり、勢力が衰えたりしているわけです。

逆に、登場が遅い歌手はより遅くまで、すなわちビートルズ登場後も1~2年間は、ヒット曲をチャートに送りこんでいる傾向があります。ついでに言えば、早めに退場した歌手には、もう一回復活の機会が与えられている傾向もあります(復活というよりも一発ヒット、本当に復活したと言えるのは、ポール・アンカとニール・セダカの2人だけ)。 

ビートルズの登場と、自らの退場が、見事に完全に重なるのは、ディオン。50年代の末から60年代前半にかけての5年間余、Top10ヒットを連発、それが64年1月の「ドリップ・ドロップ」をもって、突如途切れます。以降(メッセージソングでの突発的一時復活があるとはいえ)、Hot100からも、ほとんど姿を消してしまうのです。

彼の場合は、ティストがビートルズと重なるので、そのために見事にとって代わられてしまった、ということもあるのでしょうが、実際のところは別の理由があったようです(薬物中毒のためとも言われています、、、ちなみに2000年代に入って最も溌剌と活動を続けているのが、彼ディオンです)。

「フォーゲット・ヒム」で打ち止めのボビー・ライデルや、「ロデイ・ロー b/w ホッカ・トッカ」が最後のビッグヒットとなったチャビー・チェッカー、「フールス・ラッシュ・イン」「フォー・ユー」「ザ・ベリー・ソート・オブ・ユー」の “ロッキン・スタンダード”3部作で最後の踏ん張りを見せたリック・ネルソンも、それに近いといえるかも知れません。もっともリッキーの場合は、7年半も連続ヒットを続けてきたわけですから、この辺りでの退場は、仕方が無いことなのだと思います(さすがに彼は、ヒットパレード界の第一線から退場後も、メジャーヒットの「シー・ビロングス・トゥー・ミー」「ガーデン・パーティー」をはじめ、時折C&Wチャートなどに顔を出しています)。

ビートルズ登場よりも少し前に、勢いが衰えていたのは、ニール・セダカ、ジミー・クラントン、ボビー・ヴィー、ボビー・ダーリンといった面々です。二人の“ボビー”は、早めに退場した分、後(66年)に一次的復活(ヴィーは「すてきなカムバック」など、ダーリンは「イフ・アイ・ウァー・ア・カーペンター」など)、もう一人の“ボビー”、ライデルは、より遅くまでメジャーヒット(「フォーゲット・ヒム」)を放っていたため、復活の機会は無し、という図式です。

ジョニー・ティロットソンは、ビートルズ登場の後も、丸2年間頑張りました。ポップスのトップ10に関しては、ディオンやライデルと同様、64年年頭の一曲(「トーク・バック・トレンブリング・リップス」)が最後となり、ビートルズと見事に入れ替わるのですが、その後もポップスのトップ40ヒットや、アダルトのベスト5に入るヒットを何曲も続けます(コニー・フランシスやブレンダ・リーも似た形跡)。

リッキー以外の57年デビー組、エヴァリー・ブラザース、フランキー・アヴァロン、ポール・アンカ(彼とニール・セダカは、70年代に入って大復活を遂げます)といった面々は、ビートルズの登場よりずっと前、62年後半~63年初頭にはヒットパレード界から姿を消しています。
逆に、56年に初ヒットを放つも、その後丸4年間ヒット曲が無かったロイ・オービソンや、61年初ヒット組の、ジーン・ピットニー、デル・シャノンらは、出足が遅れた分と、ビートルズやストーンズと何らかの縁があったということも関与してか、ビートルズ登場後の64年-65年にもTop10ヒットを持ち、その後も何年か、チャートヒットを続けていました。

さらに62年初ヒット組の、ボビー・ヴィントン、ヴィック・ダナ、トミー・ロー、ルー・クリスティーらになると、チャートヒットはより遅くまで続きます(もっとも後2者は、60年初ヒットのブライアン・ハイランド共々、ヒット曲が連続せず、1年前後おきに、断続します)。ヴィントンは、24人衆のなかで例外中の例外で、断続してもすぐ復活し、60年代のみならず、70年代を通して、第一線で活躍し続けます。

いずれにしろ、彼らの退場は、ビートルズの登場と、直接の関係があるわけではないのです。引き金となった要因~大衆が新しい波を求めていた~は同じだとしても。片方は、それに乗って登場し、片方は、それに流されて退場したというわけです。周囲の状況とは関係なく、自らが息切れしてしまった、ということもあるでしょうし、結婚によって、“アイドル”としての存在意義が薄れてしまった、ということも関係しているかも知れません。 狭間の歌手たちの衰退と、ビートルズらの台頭が、たまたま見事に一致した、それだけです。むろん、時代の要求によって、そうなったのには違いないのですけれど。

次の表(*原著では2種の表で表示)は「狭間の世代24人衆」の、デビー(初ヒット)からの連続ヒット(一年以内の間にHot100チャートインを継続)の期間です。

初ヒット(Billboard Hot100)から最終連続ヒットまでの年数。最も短いのがLesley Goreで4年3カ月19曲、以下Frankie Avaronの4年7カ月24曲、Jimmy Clantonの4年8カ月11曲、Vic Danaの4年9カ月13曲、Freddy Chanonの5年1カ月20曲(7年2カ月22曲)、De Shannonの5年2カ月16曲、The Everly Brothersの5年7カ月34曲(7年8カ月36曲)、Bobby Rydelの5年8カ月30曲、Bobby Veeの5年9カ月29曲(8年8カ月37曲)、Gene Pitneyの6年21曲(8年24曲)、Dionの6年1カ月28曲、Chubby Checkerの6年1カ月31曲(7年3カ月32曲)、Paul Ancaの6年6カ月34曲、Bobby Darinの6年8カ月33曲(10年8カ月40曲)、Roy Orbisonの6年8カ月28曲、Neil Sedakaの7年3カ月20曲、Johnny Tillotsonの7年3カ月26曲、Rick Nelsonの7年6カ月50曲、Bobby Vintonの8年1カ月36曲(15年46曲)、Brenda Leeの9年50曲(11年51曲)、Connie Francisの9年5カ月55曲。

*()内は連続ヒットの基準をやや緩やかにした場合の集計。Brian Hyland、Tommy Roe、Lou Christieはヒット曲が断続するので除外。

その因果関係はともかく、「旧世代」と「新世代」が見事に入れ替わっているのは、事実なわけです。ビートルズがアメリカ上陸を果たした64年初めに巨大な波が押し寄せ、その2年後の66年前後には、ほぼ完璧に入れ替わってしまったことになります。

ジョニー・ティロットソンに関して言えば、ビートルズの初チャート週に最後のTop10から陥落、しかしその後も丸2年間、激動する新世代音楽に混って第一線に踏みとどまったのですが、力尽きて65年最終週を最後にBillboard Hot100チャートに別れを告げます。

面白いいことに、直後の66年初頭から、それまでリリースは繰り返していてもヒットに結びつかないでいた、年齢の上では同世代(あるいはむしろ上の世代)の将来の大物歌手たちや、あるいは、なぜかその期間(60年代前半)だけヒット曲が途切れ低迷していた以前からの大物アーティストたちが、一気に台頭あるいは復活してきたのです。

それは、単に歌手や楽曲が入れ替わったというだけではなく、様々な仕組みや現象も一転してしまいました。例えば、、、66年以降になって、それまでの数年間(ちょうどティロットソンの活躍期間に当たる60~65年)ほとんど記録されることのなかった公認ミリオンセラー曲が、次々と出現したこと。

ヒット曲のHot100へのチャート期間が、大幅に伸びたこと(ジョニー・ティロットソン自身は、どちらかと言えば、チャート期間が長いほうだった)。

カントリー界の鎖国(ポップカントリーの勘当?)が解け、カントリー系ポップシンガーの曲が、C&Wチャートも多く現れるようになったこと(以上3点は、新たな現象ではなく、60年以前の状況に戻った)。

60年代前半までは、一曲につき2分30秒前後(1分半~3分)が常識だった曲の長さが、大幅に増えて4分前後の曲も珍しくなくなってきたこと(その嚆矢は66年暮れのビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレイション」)。

曲にプロモーションビデオがセッティングされたこと(ついでに言えば、日本でジャケットが総カラーになったのは64年前後、ただし欧米では50年代末からカラージャケットになっていた)。

その転期には、必ずしも全く新しく成された事例だけではなく、ちょうどジョニー・ティロットソンたちが活躍していた60年代前半を挟んだ“特別な期間”(すなわち「ポップス黄金期」)だけを例外期間として、以前の状況が改めて復活したものも含まれています。

ジョニー・ティロットソンの第一線での活動期間は、その“特別な期間”に、見事にすっぽりと収まってしまいます。まるで意識的に彼(をはじめとする“狭間の世代”の面々)を仲間外れにしているような(笑)。

ポップ音楽とアメリカ文化(政治・経済・宗教も)は、川崎氏の指摘のように、密接に係っています。そのことを踏まえて、源流としてのロックやジャズやR&Bとポップ音楽との関係については、多くの人々が、様々な問題提起を行い、関係を考察し、歴史を堀り起こす作業を行っています。

しかし「ポップス黄金期」(とその母体を成すと言えるカントリーミュージック)は、現在のポップ音楽の源流に直接つながらない無関係な(あるいは厄介な、目障りな)存在と見做され、存在自体がスルーされてしまっているように思えてしまう。

「American pops of Golden age」は、アメリカ文化の一完成形であるとともに、歴史の波に洗い流されてしまった幻の楼閣です。あるいは、現代ポップスに、源流とは異なる方向から流れ込む「幻の巨大な湖」と言って良いでしょう。当時の主役でありながら、現代に連なるポップ音楽の流れから見れば、それとは無縁の“特別な空間”に咲き誇った仇花なのかも知れません。

だとしても、「新時代のカルチャー」がスタートした時にそこにあった背景は、その時点での完成形としての文化「特別な空間=ポップス黄金時代」です。評価や好き嫌いは別として、それに対する認識をきちんと行わなっておかないことには先に進めないのではないかと思うのです。

でも、(僕の知る限り、唯一当時のポップスとカントリー音楽の関係について多くの的確な評論を著わし続けてきた高山宏之氏を除き)誰一人として、正面から取り組もうとはしない。そして、有無を言わせず「旧時代のポップ音楽」を無視する(または蔑む)ことで、結果として60年代中期以降の(現代に繋がる)「新時代ポップ音楽」(及びそのルーツとされるロックやジャズやR&B)の正統性をより強調しているように思えてなりません。

ある意味、ジョニー・ティロットソンは「特別な時代」の象徴的存在です。なぜ、Johnny Tillotson的なものが排除され、非Johnny Tillotson的なものが評価されるようになったのか?無視・軽蔑・排除の対象となったJohnny Tillotson的なものとは何か?

ジョニー・ティロットソンで、すぐに思い浮かぶフレーズは、

まず、「ビートルズらに駆逐された旧世代の代表」。

ポジティブには、「ポップスとカントリーを結びつけたティーン・アイドル歌手」

日本に於いては、「日本とアメリカでヒット曲が全く異なる」。

オールデイズにある程度詳しい人なら、この三つのどれかを答えるでしょう。

さらに細かく彼特有の現象を示すと(マニアック過ぎて誰も知らないでしょうが、笑)「コンスタントヒットメーカー、デビュー以来7年余23枚のシングル盤が全てBillboard Hot100にチャートインし、3曲続けてランクポジションが下降したことが一度もない」「リリースしたシングル盤の曲調が、毎回ガラリと異なる」「24人衆+1組中、女性2人と後発のボビー・ヴィントンを除いては、他ジャンル(Adult- componteraly,C&W, R&B)とのクロスオーバーヒットが際立って多い」。

それらの現象(後3つはともかくとして)は、「旧世代音楽」と「新世代音楽」の関係、ひいては現代アメリカのカルチャーや人々の思想の形成を考える上に於いて、意外に大きなカギを握っているのではないかと思うのです。ジョニー・ティロットソンの(それが微々たるものだとはしても)功績と航跡を探ることで、何かが見えてくるのではないかと。

ジョニー・ティロットソンは、ビートルズの曲を、一曲も取り上げていません(メンバーの作った曲だけでなく、レコーディングした全ての曲を)。同時代のメジャー歌手としては、異例中の異例でしょう(ちなみにエルヴィスとは数十曲が重なる)。偶然ではないと思います。67年、自作の「Long Hear Commitiiビートルズなんて怖くない=仮邦題」に見て取れるように、彼なりの意地や反発があったのかも知れません。

僕は、思想的にはリベラルな、いわば左寄りの(それも相当過激な)立場にあると自認しています。しかし、いわゆる左寄りの文化人の多くに対しては、かなりの違和感を持っています。素直に信用できない、というか、言っていることと、実際の行動が違うのではないかという想いがあります。あるいは、いかにも高尚なかっこいい言葉や行動の中に、どうしようもない薄っぺらさを感じてしまう。僕は自分で思っているようなリベラルな人間ではないのでしょうか? ほかの人々より感受性が劣っているのでしょうか? それとも、よほど頭が悪いのでしょうか?

馬鹿にされることを承知で言います。僕は「環境破壊」に反対するために、生涯車を運転しませんでした。世界人類の平等な平和を願うために、自らの家庭を築くことを放棄してきました。路傍で物乞いする人々には、仮に自分が100円しか持っていないときでも、応えてきました。「そんなのまるで意味がない、単なる自己満足」と言われても構わない。実践が可能なことを実践しているだけです。

でも、「愛」や「平和」を、まるでファッションのように捉え、自分では少数派で革新的な思考の人間と思い込み、実のところは大衆迎合の多数派にほかならない、リベラルを(無自覚に)装った口先だけの平和・平等主義者よりはマシだと思っています。

もう一度、川崎氏と内田氏のsymmetricな文章を、ピックアップしておきます(◆:川崎、■:内田)。70年代以降の主流ポップス(ロックやソウルなど)に対する礼賛と、それらに対する疑問視(違和感)の対比です。

1970年代以降のロックのみならず、ソウル音楽が、ファンクが花開き、ヒップホップにまでつながっていく道筋が形作られていった。

■1977年を最後に私たちが聴くことになった音楽では、シンガーたちは怒声を挙げ、権利を主張し、罵声を浴びせ、ついには無機的な機械のように痙攣的な発声をするようになった。

 ◆「必要なときにはいつでも立ち上がり自らの意思を表明する」アメリカの大人。

「泣くべきときに正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男。

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察①

2024-10-13 20:43:06 | アメリカン・ポップスearly60’s
三世から何の脈絡もなく唐突にこんなメールが来ました
>ジョニー・ティロットソンの曲はハッピーだから日本から消されたんですか?
タイはハッピーが好きなのでまだ残ってるんですか?
先進国はハッピーを失っていますね。変態だらけです。
 
僕の返信
>>まさにその通りです!
非常に大きな意味を持っています。
現在の世界情勢(様々な地域での紛争・戦争)にも繋がります。
ビートルズが世界(特に日本)を滅茶苦茶にしてしまったのです。
 
このあと、
●日本人の起源に関するプロパガンダに対しての危惧
●屋久島と奄美大島の相関性から探る東アジアの本質
●ドジャースWヘルナンデスと逆差別としての人種問題
●ノーベル平和賞と人類の決断~銃・車・エアコンとの決別
等々について僕の考えを記していく予定でいるのですが、上記の問いかけへの答えとして、以前に自主刊行した次の作品から、その一部を抄出再録しておきます(各●と根本的な部分で繋がっている)。
 
「涙くんさよなら」の謎/ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代
~消し去られた1960年代初頭のアメリカン・ポップス史~(2016年刊行)
Beatles出現直前、60年代初頭のPopスター達の華々しい活躍は、なぜロックの歴史から、完全に抹殺されてしまったのか?
『英語が出来ない』『音楽の知識が全くない』『アメリカの歴史も社会もわからない』著者が、無謀にも挑んだ、こだわりの「アメリカン・ポップス史」。
『世界遺産の森 屋久島~大和と琉球と大陸の狭間で』に続く“狭間”シリーズ第2弾!
 
第1章 
“キューティ・パイ” “涙くんさよなら”、、、、ジョニー・テイロットソンを覚えていますか?
第1部【1964年1月4日付けのBillboard誌Hot100ランキングから】
第2部【謎の入口】
第3部【ElvisとBeatlesの狭間で】
第4部【消し去られた1960年代初頭の主役たち】
第5部【2つの対極の概念】
 
以下、第5部の前半を再録
 
この当時の音楽(「Golden age of American pops」)およびそのバックボーンとなった時代的背景と、現代社会との関連性を見事に表現しているのが、ここに紹介する、内田樹氏の「可傷性と鼻声」です。その前に、対極にある意見(おそらく現在のロック音楽に対する定説的な見解)としての、川崎大助氏による「キャンペーンソング無くして大統領選なし」を紹介しておきます。
 
川崎大助『アメリカの大統領戦を10倍楽しむ~キャンペーンソングなくして大統領選なし』(部分抜粋)「現代ビジネス」2016年4月4日。
 
>なぜならば、ロックやフォークなどのポップ音楽家の多くが「自らの政治意識」をしっかり認識し、その立場のもとで果敢に行動を始めた時期が1960年代だったからだ。いわゆる「カウンターカルチャー(対抗文化)」の時代だ。このとき文化の矢面に立った人々のなかに、当時のポップ音楽家たちがいた(カントリー音楽はこのテーゼに完全にあてはまるわけではないので、念のためご留意を)。
 
>たとえば、ヴェトナム戦争への反対。たとえば、公民権運動。アメリカ社会の「メインストリーム(主流派)」が進める政治に、大いなる「NO」を叩きつけたのが、この時代のポップ文化だった。
 
>そこから、70年代以降のロックのみならず、ソウル音楽が、ファンクが花開き、ヒップホップにまでつながっていく道筋が形作られていった。このとき初めて、60年代においてようやく、ポップ音楽は大人になったとも言える。「アメリカの」大人に。
 
>それはつまり「必要なときにはいつでも立ち上がり、自らの意思を表明する」ということだ。自分の考えをきちんと言葉で説明すること。それに加えて、意見が違う他者とも言葉を交わし、討論して解決策を探っていくこと。これらの行動の実践を、幼いうちからアメリカ人は求められる。
>そして長じては、市民権を持つ者の全員が等しくその権利を行使して政治にも関与していく。こんな意識や態度が、ごく日常的なものとして市民生活の一部となっている。
 
内田樹『お題はアメリカ~可傷性と鼻声』(全文)+『フェミニンな時代へ』(末尾抜粋)「内田樹の研究室」2004年5月8日/2006年4月14日 
 
>アメリカにかかわる楽曲5つを選んで、それについて論じるという趣旨の企画である。ほいほいと引き受けたまま、何も考えずに前日を迎え、これではまずいというので、昨夜、あわてて5曲を適当に選ぶ。
 
>選んだのは、Take good care of my baby(Bobby Vee)/Crying in the rain(The Everly Brothers)/Tell me why(Neil Yang)/Handy man(James Taylor)/Simple man simple dream(J.D.Souther)。適当に選んだのだが、後知恵で考えると、ちゃんと共通点がある。それはすべて「男の鼻声」ということである。
 
>若い人は想像しにくいかもしれないけれど、1964年までのアメリカン・ポップスの男性歌手のクルーナー・タイプの発声はメロウでウィーピーであった。
 
>1960年代の前半まで、アメリカの男性アイドル歌手はすぐに「べそべそ泣く」タイプの楽曲によって世界を席巻していたのである。
 
>ジョニー・ティロットソンは『涙くん、さよなら』で「だから、しばらくは君に会わずにいられるだろう」と歌った。ということは、「しばらく」以外の時間、ジョニー君はべそべそ泣いて人生を過ごされていたのである。
 
>クルーカットで、ハイスクールのロゴの入ったカーディガンを着て、女の子にちょっと意地悪されるとすぐにべしょべしょ涙ぐむような男の子たちが1964年まではアメリカの若い男性のロールモデルであった。
 
>第二次世界大戦が終わったあとのアメリカは世界最強の軍事大国であり、世界最大の経済大国であり、そして、その国の若者たちは、べそべそ泣いてばかりいた。
 
>強い人間だけが、平気で泣くことができる。そのことを私たちは忘れがちだ。自分の傷つきやすさを露出できるのは、その傷を癒すだけの地力を備えた人間に限られる。
 
>1955年から1963年まで、つまり朝鮮戦争の終結からケネディ暗殺までの時代がthe Golden Age of American Popsである。
 
>それはアメリカが名実ともに世界最強国・最富国であった時代であり、その時代はアメリカの男たちが自分の弱さを平気で示すことができた幸福な時代であった。
 
>1964年のブリティッシュ・インヴァージョンからあと、アメリカの男性歌手は前ほど気楽には泣かなくなった(例外はビーチボーイズの女性的ファルセットだけだ)。それはアメリカが先の見えないベトナム戦争に踏み込んでいった時期と符合する。
 
>3曲目からあとはアメリカの「鼻声」がハイスクールボーイの気楽なすすり泣きから、もっと深い傷に注ぐ涙に変わった時期のものである。
 
>傷は日常生活のささやかな気づかいによっては癒されないほど深くなり、その傷あとからはじくじくと血がにじみ続けるようになった。
 
>そして1977年頃を最後に、アメリカの男性歌手は「鼻声で」すすり泣くのを止めた。それから後、私たちが聴くことになった音楽では、歌手たちは怒声を挙げ、権利を主張し、罵倒を浴びせ、ついには無機的な機械のように痙攣的な発声をするようになった。
 
>そんなふうにして、「鼻声歌手」たちは音楽シーンから消えていった。それはアメリカの国力が低下し、傷つきやすさを誇示することが、戦略的に許されなくなった時代の始まりを示している。
 
>私は男たちが「すすり泣き」をする曲が好きだ。涙を見せることができるのは、強く、優しい男だけである。
 
>今のアメリカでは男の子がすすり泣くと、女の子たちがきゃーきゃーと喜んでくれる社会ではもうない。それはアメリカの国力がゆっくりと低下している趨勢とシンクロしているように私には思われる。
 
>もう一度アメリカの男性歌手が「鼻声」で歌う時代は戻ってくるのだろうか?
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
>共同体が求めているのは「泣くべきときに正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男なのであるが、そのようなやわらかい感受性を持った男性を育てるための制度的基盤を半世紀に亘って破壊してきたことに私たちは今更ながら気がついたのである。
 
>アメリカの黄金時代が、アメリカの若者たちがすぐにべそべそ泣く時代であったように(ジョニー・ティロットソンとかボビー・ヴィーとか、泣いてばかりいたぜ)、日本はこれから「泣く男」をもう一度作りだせるようになるまで劇的な社会的感受性の変化の地層を通り抜けることになるであろう。
 
>うん、酔っぱらってるから、言ってることに責任持ちませんけど。
 
以上に示した川崎氏と内田氏の文章は、見事なシンメトリックを成しているように思えます。川崎氏の主張は「アメリカの選挙とアメリカのポップ音楽は切っても切り離せない関係にある、アメリカの政治や選挙運動を考えるに当たって、ポップミュージシャンの思想や行動を探ってみよう」という趣旨ですね。
 
アメリカの音楽界と政治の関わりの歴史が、懇切丁寧に解説された力作(前半部だけで230行)だと思います。日本と違って、各アーティストが確固たる信念に基づいた政治的な意見や主張を持っているという指摘は、頷けます。それは、とても素晴らしいことだと思います。
 
しかし、僕には、その前提に沿って導きだされた論調が、空虚なものにしか感じられません。なぜなら、論点が完全に一方向のみから成されているから。
 
“自らの政治の意識をしっかり認識し、その立場のもとで果敢に行動を始めた時期が1960年代、このとき文化の矢面に立った人々のなかに、当時のポップ音楽家たちがいた”。という言葉に続いて、“(カントリー音楽はこのテーゼに完全に当てはまるわけではないので、念のためご留意を)”。たった一行でC&W音楽が片付けられてしまっている。
 
そこを無視してしまっては、話自体が成り立たなくなってしまいます。それは、本来ならばこの論者と対極に位置づけられるであろう一部の保守的な人々の論調、例えば「日本人は素晴らしい民族」だからという前提で、隣接する国々の人々を「民度が低い」と貶めていることと、何ら変わりがないのでは、と思います。
 
230行の中に、カントリー音楽も、そこから派生しビートルズ上陸直前(60年代初頭)に主流を占めていた(カントリーを基盤とする)“黄金期のアメリカンポップス”も、一切言及されていないのです(それは川崎氏のこの記事だけでなく、ロックや広い意味でのアメリカンポップスについて書かれたどの本や記事においても同じです)。
 
対象への評価云々以前の問題として、スタート時点の実態を正確に認識することなく、最初から放棄してしまっている。
当時、後年になって評価の対象となった様々なムーブメントは別の、、、対極という言葉だけでは表現し得ない、非常に大きな成熟した文化(the golden age of American pops)が間違いなくあったのです。もちろん直接間接に政治とも何らかの形で係っていたはず。その内容や、関わり方、主張の方法、後年の評価など、個々に対する言及は二の次として、大事なのは“あった”という事実をきちんと認識することだと思います。
 
アメリカンポップスの中に大きな割合を占めていたカントリー音楽と、それを基盤とした当時のポップ音楽。それに因って生み出された文化。大衆との関わり。そして、そこを窓口として、政治や宗教や経済にどのように繋がっていたのか。
それをまず認識しておかねば、その後の流れを正確には捉えられないと思います。しかし、どのポップ音楽論も、判で押したように“完全無視”。
 
反逆、自己主張は、誰でも出来ます。差別を嫌い、平等と自由を標榜することは簡単です。それを言わないよりも、言っておいた方が何かと得でしょう。しかし、主張と実現は、異なる次元の問題です。「愛」「平和」「平等」「自由」といった概念は、諸刃の刃、無意識のうちに、自らが求める結果と反対の現象を引き起こしてしまうかも知れません。権力に対する否定が集団として成されることにより、新たな権力を生み出し、新たな差別を生み出すこともあるでしょう。
 
僕は、ビートルズ以前の「旧・アメリカンポップス」を、甘ったるい、単に保守的な存在、すなわち新時代の音楽とは対極の存在にある、とは必ずしも思っていません。世の中に対するアプローチの仕方が異なる、いわば“別の文化”なのです。
 
つづく(文字数の制限で、次へ続きます)
 
 
 
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屋久島での宿泊費の質問があったので

2024-10-08 12:52:20 | 雑記 報告

ゆみ様
コメントありがとうございます。コメント欄に返事を入れようと思ったのですが、この機会に状況を詳しく説明すべく、ブログ本体に疑問の答え(正確には「答え」はないので、「成り行き」のようなもの)を記すことにしました。冒頭に、ゆみさんからの質問を示そうと思っています。ブログへの転載をご了承いただければ幸いです。
 
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僕の置かれた現状について
 
読者の方から、コメントを頂きました。僕のブロブへのコメントは、ほぼ全く、と言って良いほどありません。読者そのものは結構多いみたいなんですよ! でもコメントはせいぜい数年間に一人、多くて一年に一回程度。ほかの方のブログを読むと、結構コメントが来ているようなので、羨ましく思うのです。だから、コメントを頂くと、とても嬉しい。コメントは、次のような内容です(投稿者の許可を得て再録)。
 
>はじめまして。
>どう辿り着いたのか、このブログに辿り着き、一生懸命に頑張っていらっしゃるのに興味が湧き読ませて頂いています。
>私も良く似た生活を送っているので親しみが持てるのですが、1つ疑問があります。
所持金一万円とかの生活の中、どうやって屋久島に2度も行けて長期滞在できる費用を捻出できるのですか?
>嫌味とかでなく単純に疑問を持って質問しています。私も生活がギリギリで家賃払うと何も残らないので先生も同じような生活だと親しみが湧いていたのに、急に旅にでられる余裕があるのは誰かの援助とかあるのなら、私には羨ましい限りです。
 
う~ん、ご質問をされる気持ちは、非常によく分かりますね。
 
早速返事をしようと考えたのですが、といって、どう説明すれば良いのか、、、。なかなかの難題です。それらの状況については、断片的にこれまでのブログに記してきたのだけれど、それを全部チェックして貰うわけにもいかんでしょう。
 
次のように、一言で返事を集約しようかとも考えました。
>>僕と同姓(青山)の有名漫画家がいるようです(僕は世間に全く疎く、その方の存在は、数年前にベトナムの山奥の小学校で教えて貰って初めて知った)。彼の人気作品の主人公探偵?の決め台詞が、『真実はひとつ!』なのだそうです。同じ苗字でも、僕の決め台詞は真逆で、『真実は一つではない!』。まあ、そんなところです。
 
でも、それだけだと何だか無責任なので、この機会に、可能な限り実情を述べていくことにします。
 
まず、僕が究極の貧乏人であることは、紛れもない事実です。今日の時点での所持金は、1135円(ほかに銀行の口座に558円が入っているのですが、僕の住む町には三井住友銀行がないので、引き出すには往復2500円のバス代を使って博多の銀行窓口まで行かねばならない)。これで今月いっぱい(あと24日間)過ごさねばなりません。1日の食費50円弱の計算です。
 
手元には、一玉38円のうどんと焼きそばが三玉、モヤシが少々、食パン3切れとバケットが半分、ベーコン1パック、卵2個、マーガリン、マヨネーズ、胡麻油(それぞれ残り少々)、麦茶のテイーバック(50袋172円の残り半分)、インスタントコーヒー(一瓶108円の残り半分)があります。
 
これでもいつもよりはなかなか豪勢なんですよ!でも、これで24日間は、到底無理です。ちなみに、一昨年末に生活保護を受けた時点で、役場を通じての困窮者救済機関であるソーシャルオフィスからアパートの一室を提供してもらい、その際、生活必需品として、冷蔵庫、トースター、炊飯器と湯沸かしポット、電気ストーブ、TV、寝具などの備品を無償(最初に少し払ったかも)提供してもらっています。TVが自室にあるのは、僕の76歳の人生で初めて、また(日本滞在時に)布団で寝るのは、2020年にコロナ騒動で帰国を余儀なくされて以来、初めてのことです。
 
たぶん、今月の中旬には、ソーシャルオフィスから、お米2キロぐらいが配給されると思います(それまで頑張って食つなぐ)。また、偶数月の15日には、2か月分の年金の(後述する東京の書庫代を支払った)残りの8000円を受領するのですが、今月に限っては、それをパソコン関連の支払いに回さねばならず(後述)受領が叶いません。
 
アパートの近くで、月一回、生活困窮者に向けての食料の無料配給が行われています。しかし僕はそれを受領することができません。石もて追い返されてしまいます。理由は不明。市役所で調べてもらったところ、生活保護受領者は対応外なのではないかと。しかし僕のアパートの同じ階にすむ若いキャピキャピの女性も生活保護を受けている由なのですが、彼女は毎回どっさりと食料を受給しているようです(先月はご飯パックをいくつか分けてもらった)。なんだかなあ~という、理不尽な思いがあります。
 
携帯電話は、これまで長い間、日本では使用していませんでした。もとより携帯電話の使用を拒否していたこともあるのですが、使おうと思っても、なぜか(理由は教えて貰えない)契約そのものができません。しかし、飯塚市で生活保護を受けるに当たって、携帯電話の所持が必須ということで、幾人かの仲介者を経由して、近所の町工場の社長氏の計らいで、使用が叶いました。月々の支払いが2000円~4000円(毎月月初めに保護費の中から支払っている)。その社長氏には、仕事に使うポジフィルム→デジタルスキャン機などをメルカリで建て替え(分割払い)購入などしていただいています。
 
生活保護費ですが、月々の受領は平均2万円弱、少ないときは8000円くらい、多い時で2万4000円ほど。支給の基本金額は10万円余なのだそうですが、そこからまず後期高齢者の不要生活費(老人は食費が少なくて済むから、という謎の理由によるらしい)や何とか保険料が差し引かれ、年金月約3万8000円(ほぼ東京の書庫代3万5700円とバーター)が差し引かれ、福岡の家賃3万5000円が差し引かれ、実際に受領できるのは、2万円余、ほかに収入(自主出版本の売り上げなど)があれば、その分(収入の内容によって比率が違い、作品販売の場合はほぼ全額)差し引かれて、少ない月では手取り8000円前後となります。そこから電気代、水道代(ガスは止まっている)、電話代が差し引かれ、手元に残るのは、少ない時でゼロ円、多くて1万5000円ほどです。
 
本来ならば、さらに5年前に破壊したHDDの修復費52万円の分割払い(残り7万円、そのHDDが戻ってこないことには、今後の仕事ができない)月5000円、福岡移住前の東京(青梅市)における生活保護停止にかかわる裁判の弁護士費用(月5000円の分割)、昔の彼女の92歳になる父上からの借金(先代パソコンの建て替え購入費用10万円の月5000円ごとの分割支払い)なども計上しなくてはならないのですが、さすがに難しく、待ってもらっている状況です。
 
選挙が近づいています。それに関わる、ビラ配り、ペンキ塗り、大工仕事などの仕事が貰える可能性があります(脊椎がやられているので重いものを持つ作業ができない)。そのような仕事には普段有り付けない(飲食店の皿洗い・便所掃除などのバイトの募集も面接以前の段階で落とされてしまう、、、ネックは、年齢、保証人etc.)のですが、選挙の時は人手が足りず例外です。今日もこの後、ダメもとで(今まで一度も交渉成立したことがない)交渉を行う予定です。
 
結局、日本で収入を得るには、本来の自分の仕事(執筆や写真提供)を行うしかない。材料は山ほどあって、本(作品)を作ろうと思えば、100や200はいつでも可能です。
 
しかし、それを流通ルートに乗せて、収入に結び付けるには、多大な困難が伴います(というか、そのルートへの乗せ方がわからない)。
 
20年ほど前ならば、大手の出版社から、年に一冊程度の刊行は、比較的に楽にできたのです。新聞連載や週刊誌などへの寄稿も、割と簡単にできました。しかし今は時代が完璧に変わってしまっていて(ことに活字媒体の衰退)、そう簡単には受け入れてくれなくなってしまっている。
 
僕の(海外の出版社および自費出版以外の)日本の大手の出版社からの刊行物は、単行本では岩波ジュニア新書「屋久島~樹と水と岩の島を歩く」2008年、新聞連載は産経新聞「中国の蝶~青山潤三の写生」2013~2014年、ネット媒体では講談社「現代ビジネス」(中国の庶民生活の紹介、香港デモのレポートなど)2017~2020年が最後です。それ以外は、全く仕事にありつけない状況が続いています(僕が本気でアプローチしていない結果ということも出来るのでしょうが)。
 
そこで、自主製作(いわゆる自費出版)に舵を切ることにしたのです。しかし、これもまたなかなかに難しい。早い話、すでに数10冊の作品が完成し、このブログをはじめとして、あちこちで購入依頼を発信しているのですが、この20年ほどの間、ほとんど一冊も売れていない、という惨状です。
 
唯一、スムーズに行えるのが、東京にある生物学専門図書(主に昆虫関係)通販からの委託販売。一昨年から昨年にかけて、主に中国の蝶についての作品を、35作品ほど(うち24作品は「週刊中国の蝶」)委託販売してもらいました。1作品1冊について約1000円の純利、各作品10冊前後を買い取ってもらえるので、月2冊刊行するとして、純利が毎月2万円ぐらいです。1年ほど前まではそれを続けていたのだけれど、この1年ほどはやっていません。様々な理由によるのですが、ぶっちゃけ言えば、月2作品100頁前後の作品制作は、相当にしんどいということ(それと生活保護費との関係)。背に腹は代えられず、来月から再開しようと考えてはいますが、、、。
 
話がどんどん長くなってしまいました。ご質問の件に答えねばなりません。といって、最初に言ったように「答え」は絶対的なものではない。非常に複雑で、様々な要素が織りなされているので、納得していただけるかどうかの自信はない。
 
まず、ここ数年の僕の状況を話します。
 
2020年春、いわゆるコロナ騒動が勃発し、日本への帰国を余儀なくされました。すぐに中国に戻れる、と思っていたのですが、そう甘くはなかった。現在に至るまで丸5年間近く、日中間の正常な国交は閉ざされたままで、ノービザ滞在は未だ解除されていません。観光ビザでの入国が必要で、したがってアパートなどを借りて長期滞在することも、奥地で調査・撮影活動を行うことも、実質不可能です。辛抱強く解禁を待つしかありません。
 
中国に行けば、弟子のモニカ(とその家族)が、住居や食事を含め何かと面倒見てくれるので、不自由なく生活できます。でも、日本では、そうはいかない。身寄りも資産もない後期高齢者となり果てます。
 
最初の2年間は、東京のアパートで生活保護を受けて何とか暮らしていたのですが、3年目に(それまでの苦労人の中年職員から、大学出たての若い職員に)担当者が代わって、大変な事態になってしまった。もう露骨な嫌がらせ、実質的虐待の末、全く理不尽な理由で、保護が打ち切られてしまった。東京都と青梅市を裁判で訴えたのだけれど敗訴。その最中コロナに感染したりして、地獄を彷徨い続けたのです。
 
2017年から4年間(28回)続けていた「現代ビジネス」への掲載も、「香港デモ(僕の姿勢は学生たちに対する批判)」「コロナウイルス(マスクの拒否、コロナはただの風邪、そして風邪は非常に恐ろしい脅威)」「熱中症の原因は冷房の使用に基づく、科学に対する過信が人類を滅ぼす」といった僕の主張が、編集部に受け入れられなくなって休載。収入の目途が全くなくなってしまったのです。
 
その最中の2022年秋、(血の繋がりはないけれど実質娘)の「三世」と娘婿のギリシャ人ジョージが、様々な事情で急遽日本に来ることになり、その過程で僕が(三世がネットで見つけてきた)福岡県飯塚市に(東京青梅に段ボール箱120箱の資料を残したまま、青春18切符を利用して)移住し、生活保護を受けることになったのです(後から三世一家が転がり込むという目論見)。
 
近所のファミレスに籠りっきりで、翌2023年春に「中国胡蝶野外観察図鑑(日中英語記述)、全4巻600頁」を完成、次いで今年の春には「近所の森と道端の蝶・福岡県飯塚市編」を完成、自費出版しました。前者は(例の図書通販を通じて)そこそこ売れたのですが、後者は西日本新聞本誌で紹介してもらったのにも関わらず惨敗、一冊も売れなかった。
 
そして、去年の秋から、さらに悲惨な事態が続けざまに襲い掛かった。あまりに立て続けなので、具体的なことは省略します。最も大きなアクシデントは、これまで使っていたインターネットのアカウントのパスワードが突然変更されてしまい、それを知る由もなく、全ての人たちとの連絡が閉ざされてしまった(新たなアカウントを作ったのですが、旧アカウントは今に至るまで回復していず、多くの人たちとの連絡は閉ざされたままです)。
 
その最中、5月の末に、三世からメールが来た。彼ら3人(3歳になる孫娘を含む)は、一度飯塚に来たものの、様々な事情でそこを離れて、安いキャンピングカー?を購入して、沖縄から北海道を巡りながら、車中生活を続けていた。
 
鹿児島にいる、今すぐ来てくれ、と。詳細は略しますが、命に係わる案件です。躊躇する余地もなく、着の身着のまま、(手持ちの全財産を使って)急遽鹿児島に向かいました。(僕が以前長く関わっていた)屋久島に行きたい、というのです。そこに土地を見つけて(というよりもキャンピングカーの中で)暮らしたい、と。結局、様々な事情?(三世の言では黒魔術に襲われて)彼ら三人は、すぐに島を出て行った(今でも日本の各地を放浪している)。
 
僕が屋久島を訪れたのは、丸18年ぶりです。1960年代から40年間屋久島をフィールドとし(一時は島に在住)、1980年代から40年間中国がフィールド。1980年代からの20年間は両地が重なり、21世紀に入ってからの20年間は、中国主体となって、この18年間、屋久島には訪れてもいない、という状況です。
 
屋久島は、中国とともに、僕の「故郷」でもあるのです。多くの作品も執筆・刊行してきました。思い入れは、誰よりもあります。
 
けれど正直のところ、2006年を最後に、きっぱりと縁を切ろうと決意していました。生涯再訪することはないと。いうまでもなく、自然は圧倒的に素晴らしいのだけれど、人間関係では嫌なことばかり。僕の人生は、屋久島の(一部の)人たちによって、滅茶苦茶にされた、という思いがあります。
 
そのような前提で、今回(6月前半)、思いもよらず(半ば嫌々ながら)屋久島を再訪することになったのです(行きのフェリー代と帰りの交通費はジョージ持ち)。
 
屋久島の人々は敵だらけ、という思いがあったのですが、行ってみると18年ぶりに会った旧友たちは、皆喜んで迎い入れてくれた。敵もいるのですが、味方も大勢いたのです(みな歳はとっていたけれど)。ある旅館経営者の旧友は、僕の部屋を用意してくれて、いつまでもいていいよ、と宿泊費無料、食事付きで泊めてくれた(6月上~中旬の2週間と、8月中~下旬の2週間)。8月は、往復の交通費も立て替えてくれた。
 
条件は、改めて屋久島の自然に関わる良い作品を著すこと。実は、1987年と、2007年に、2度「屋久島の植物図鑑」を作りかけていたのです。ともに事情があって断念した(それぞれ別の企画~フィールドガイドなどに移行)のですが、再度、それに取り組もうと。
 
材料はいくらでもあります。誰よりも持っている。そして、周辺諸島、および日本本土、琉球、中国大陸との関わりの中での屋久島の植物相の成り立ちを考えることは、僕にしかできません。古い資料を再集積し、後世に残すことは、僕の使命かも知れないのです。
 
その執筆活動のために、日がな旅館の一室に籠城して、作品制作に取り組んでいました。計30日の間に、ほとんどどこにも出かけなかった。所用で隣町に2度出かけたほかは、せいぜい半額弁当を買いに、夕方徒歩5分のスーパーに出かけるくらい(あとは役場などでの打ち合わせ)。
 
一度福岡に戻り、8月に再度屋久島を訪れました。屋久島発祥の老舗の製薬会社「恵命我神散(恵命堂)」というのが東京にあって、2002年から2021年までの20年間、そこのカレンダーの写真を僕が担当していました。途中で写真を一括して売り渡していて、この10数年接触は途絶えていたのです。
 
そこの会社の先代社長が今春亡くなり、僕のカレンダーの写真を担当していた若い末弟が、4代目社長に就任するとの情報。早速電話をしたらとても喜んで下さり、8月19日にとんぼ返りで屋久島に行くので、できればそこで再会して、今後の企画を探りましょう、ということで、再度屋久島に向かったのです。
今回は、国や県や町の関係諸機関、島の有力者、鹿児島の新聞社やTV局の人たちと面会し、「屋久島の植物」(全4巻900頁余)が完成してからの、今後の方針を探っていくことにしました。帰路は台風とかち合い、大変な思いをしたのですけれど。
 
本が完成次第、年末あたりに再度屋久島を訪れる予定です。
 
波乱万丈です。ほぼ作品が完成した先日、大変なアクシデントに見舞われてしまいました。
これまで使っていたパソコンが、完全にクラッシュしてしまい、パソコン本体が使えなくなってしまったどころか、収納していたデータの(もちろん完成寸前の「屋久島の植物」も)消滅の危機に晒されてしまった。神も仏もない、と嘆くしかありません。
 
一縷の望みを託し、往復4時間かかる(バス代の往復600円が捻出できない)PCデポセンターというところを尋ねました。仮にデータが復元できるとしても、前回のHDD同様50万円単位の出費を覚悟しなくてはなりません。
 
「捨てる神あれば拾う神あり」でしたっけ、あるいは「楽あれば苦あり」とか。アクシデント頻発の中でも、良いこともあります。結論を言えば、最善の方向性。内臓HDDの修復費、新たなパソコンの購入費等々、軽く10万円以上の経費が必須だった(むろん僕には捻出不可能)ところを、特例(社内コマーシャルに出るという条件)で、ほとんどの経費が免除され(月5000円の分割支払いのみ)、目出度く新たなパソコンと、回復したデータを手にすることができたのです。そのうえで、今度インターネットに関わる様々な相談ができるという、「災い転じて福となす」でしたっけ、どん底の状態からの脱出の機会が与えられたわけです。
 
(少額とはいえ)そのための出費で、今月の食費がほぼ無くなってしまったわけですが、最悪の事態に落ちいったままのことを思えば、何とかなります。さっき、近所の工場の社長氏から電話があって、来週は選挙に絡むペンキ塗りの仕事がある、と。なんとか乗り越えることができそうです。
 
頑張るしかありません。



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“正義”が人類と地球を滅ぼす

2024-10-07 08:43:49 | 雑記 報告

 パソコンが完全にクラッシュして、この半月ほど身動きがとれませんでした。昨日、やっと新たなパソコンを入手、データの消失も免れ(そのため今月の食費はゼロという危機に面していますが)今日から再スタートと相成ります。
 
中断の間、世間では立て続けに大きなニュースが勃発しました。個々の問題は、それぞれ非常に大きく重く複雑です。軽々しく言及は出来ません。それでも今後の覚書きとして、ごく簡単にコメントを記しておきます。
 
1石破総理。
今の政治家の中では、石破さんは唯一と言ってもよい良識人だと思います。森山幹事長、菅副総裁の体制も、現状では最も堅実な選択でしょう。しかし、そのこと(石破政権の発足)は同時に石破さんの存在意義をかき消してしまう。石破さんがトップに立つことで、とりあえず日本は破滅から免れたわけですが、長い目で見れば、中途半端な結果に終わってしまうような気がする。それならば、高市さんのほうが良かったのかも知れません。高市さんが首相になれば、日本は終ります(中露との戦争に突入して消滅)。一度日本が消滅することで、未来に託す、という選択肢も“有り”なのではないでしょうか?
 
2 袴田裁判。
2つの事実があります。その1。被害者がいて、加害者(犯人)がいる、という事実。そのことに一切言及しないメディアには違和感を覚えます。その2。僕の実体験からも断言します。検察(一部であるか大多数であるかはともかく)が、いかにバカで、いかに権力を笠に着たどうしようもない人々から成り立っているか。嘘も暴力も何でもあり、それはもう想像を絶する醜さです。本人たちは、自分たちこそ、選ばれた正義の民だと信じているので、始末が悪い。冤罪が日常的に頻発する所以です。冤罪以前の問題として、加害者、被害者、そして悪善、それらの認識を、根本から見直す必要があると思います。これまでも何度も繰り返し述べてきましたが、如何なる理由があろうとも人が人を殺してはならない、という大前提に立つならば、法に基づく「死刑制度」は、ダブルスタンダードの最たるものと言わざるを得ません。
 
3中東問題。
正義とは「集団性自己中」から成り立っているのですね。「中東問題は日本人には分からない、別世界での出来事」と考えている人が多いのではないかと思います。なに、日本人だって、自分たちが気が付かないだけで、全く同じシチュエーションに置かれているのです。正義(自分たちの平和への望み)が存在する限り、戦争は起こり続けます。今、世界は正義と悪の戦いです。めちゃくちゃ大雑把に言えば、「正義」は、西側民主主義国家、すなわち欧米と日本(およびウクライナ&イスラエル)に集約され、「悪」は、非民主主義(独裁)国家(ロシア、中国、イスラム国家、たぶんアフリカ諸国の大多数)の側に集約されるでしょう。日本も「間接的」に関与しているということを、人々に自覚して置いて貰いたいです
 
4自然災害。
能登の地震&豪雨、ネパールの桁外れの大洪水、北米の巨大ハリケーンによる水難。単に「温暖化」で済まされる問題ではありません。ベーシックな部分で、地球は壊れてしまっているのです。壊滅的危機は眼前まで迫っている。人々は、そのことが分ってはいても、現実には受け止められないでいるのです。簡単なことです。今すぐ「車社会」をやめる(公共交通の主導を復活)。今すぐ「冷房」をやめる。自分たちだけが「平和に浸る」ことからの脱却を、決意し実行することです。「科学」への依存からの脱却。「科学」は主役でも絶対的存在でもありません。あくまで手助けの一手段に過ぎないのです。
 
重いテーマの上記各案件とは違って、以下は軽く軟弱な案件(でも互いに相関性を有していると思う)。
 
5彼岸花。
昨年はヒガンバナを訪れるモンキアゲハの良い写真を写し損ねたので、再チャレンジ。日本のヒガンバナは原則クローン集団なものですから、毎年9月15日前後に一斉に開花すると決まっています。しかるに、今年は全く咲く気配がない。一体何故?どこかに消えてしまった?と、狐につままれる思いでいたのです。もっとも去年も例年より1週間余り遅かった。それで今年も、と思って、先週チェックに赴いたのだけれど、やはり咲いてはいません。ところが、今週になって、突然一斉に咲き始めた。ここ数日、赤(ヒガンバナ)も白(シロバナマンジュシャゲ)も、例年通り各所に群落がみられます。でも残念ながらモンキアゲハをはじめとしたBlack Papilio各種の姿はありません。蝶と花の季節が、すれ違ってしまったのかも知れません(それはそれで面白いテーマかも)。いずれにせよ、本来の開花期より半月ほど遅くなっているのです。彼岸花の開花は、気温、ことに朝の温度の低下によって促進されるのだと思います。例年なら、夏の高温が治まるのは9月中旬、それが今年は9月いっぱいまで持ち越され、10月に入ってからやっと治まりました。本来なら日本の「夏」は、7月8月を軸として6月後半と9月前半を加えたトータル3か月。それが現在は、6-9月のトータル4か月間に亘っているのです(「春」を早く終え「秋」の始まりが遅い)。
 
6大谷翔平。
50本塁打-50盗塁。信じられないほどに異次元の、大変な快挙です。でも、「日本人は凄い!」といった趣向の、神格化は止めて欲しいですね。ことに様々な記録に対しての「日本人初」という表現には、うんざりします。そんなことは関係なしに、ただただ凄いのですから。ともすれば見過ごされている節がありますが、最も凄いのは、ナ・リーグで70何年振りかの三冠王に、眼前まで迫っていたこと。公式戦があと1試合多ければ、達成していた可能性が強かった。何が凄いかと言えば、打率を0.310まで引き上げ、首位打者アラエスの0.314まで僅か4厘と迫っていたこと(最終戦4安打で逆転していた)。ついこの間まで大谷は2割8分台、アラエスは3割3分台だったのです。常識的に考えたなら、逆転の可能性は、これっぽっちも有り得ない(3割だって絶望的と思われていました)。三冠王の可能性など、口に出すのさえ憚れる。もちろん僕だって同じです。でも、心の片隅では、大谷のことですから絶対有り得ないとは限らないかも、と「夢想」はしていました。例の50-50達成試合の6打数6安打の前日の時点で、アラエスは0.320、大谷は0.287です。残り10試合で、0.700前後を打たねば届きません。いくら大谷でも、それは不可能でしょう。しかし、その「有り得ない」(ほぼ0.700の)39打数26安打を放ち、もう少しのところで大逆転首位打者を獲得するという、50-50以上の、とんでもない結果を示した。昨日のポストシリーズ第一戦でも大活躍、嬉しい限りです(あとは「一平事件」に、いつか正面から向き合ってほしいですね)。
 
7 ダルビッシュ有。
さて、今日はダルビッシュが先発、大谷と対戦します。ダルの父親はイラン人、母親は日本人。ちなみに僕の友人のルイスは、父親がレバノンとアイルランドの混血、母親が日本人です。それはともかく、僕より40歳近く若いわけですが、尊敬に値する存在であることは、これまでに何度も記しました。彼の言場で強く心に残った一つ。アンパイアの誤審に対する世間からの指摘に、ダルは擁護します。「(たまに間違いはあるにしろ)ほとんどは正確に判定している、これは驚異的な事」と。機械だって決して100%正しい判断を下すわけではありません(もとより絶対的な判断基準があるわけではないので)。AIに象徴される「科学」が絶対ではないのです。科学に対する過信は危険です。アナログによる判断は、間違いも含まれる事こそが、魅力なのだと思うのです。
 
8 APG分類。
それで思ったのですが、今取り組んでいる「屋久島の植物」は、APG分類に基づいて構成を行っています。それによる分類体系の劇的変革、予想外の類縁関係の組み合わせも、 多々見られます。でも実は、旧来の形態に基づくアナログ的分類に於いても、(予想外の類縁関係組み合わせの指摘や実態への肉薄を含め)、APG分類と大概的には一致しているのですね。これは凄い事だと思うのです。伊藤建夫先輩(分子生物学、信州大学名誉教授)がこのようなことを言っておられました。「蝶愛好家は、DNA解析に基づく分類結果を全面的に「認める」、「認めない」で、2分される(もちろん自分は前者)」と。僕もそのように感じています。しかし、僕自身は、「全面的に認める」と同時に、旧来の(アナログ的)形態分類も、否定はしません。その矛盾を併せ持つことに、「多様性」の本質が示されていると思うのです。



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