夜、NHK「映像の世紀/敗戦国としてのドイツ」を見ました。
選挙とか大谷君とかどうでもいい(個人的には毎朝ワールド・シリーズに釘付けなのですが、(-_-;))ので、こっち見てください(再放送あると思うので)。
夜、NHK「映像の世紀/敗戦国としてのドイツ」を見ました。
選挙とか大谷君とかどうでもいい(個人的には毎朝ワールド・シリーズに釘付けなのですが、(-_-;))ので、こっち見てください(再放送あると思うので)。
昨夜、こんなことがありました。
新飯塚駅近くのスーパーで、買い物をし、駅前からバスに乗って自宅に帰ります。所持金は1000円札2枚、バス代が210円、半額弁当2個を買って350円。
2枚の1000円札は、旧札と新札1枚づつ。このスーパーでは新札と新500円玉が使えない。同様に新札と新500円玉ではバスにも乗れない。
そこで、旧1000円札でレジ精算し、お釣りの650円の旧500円玉でバスに乗る、、、つもりでした。レジには「新札と新500円玉は使えません」と大きく張り紙がしてあるものですから、当然お釣りは旧500円玉で出てくるものと思っていたのです。
なんと、お釣りは新500円玉。それは困ります。受け取るわけにはいかないので、すぐにアピールを行いました。
>新500円玉は使えないので、旧500円玉でお釣りをください。
耳を疑う返答が。
>両替は出来ません。新500円玉は機械から勝手に出てきたので、私の知るところではない。
そ、そんな、、、。
>それは困ります。バスに乗れないです。
レジのおばさん曰く。
>それは私たちには関係ない、バス会社にクレームつけてください。
バスの出発時刻は迫っています。仕方がありません。この500円玉で新たに小さな買い物をして100円玉でお釣りをもらうしかない。
再度信じがたい対応。
>新500円玉は使えない。
頭が真っ白になってしまいました。そんな馬鹿な。新札、新硬貨は使えない、というので、旧札で精算を行った、すると新硬貨でお釣りが来た。使えないので旧硬貨でお釣りくださいと言ったら、それは出来ないと。仕方がないので新たに買い物をして100円玉でお釣りを貰おうとしたら、新硬貨だから使えないと。嘘みたいな話じゃないですか、、、。
じつは、これまで何度も同じようなシチュエイションに遭遇しています。中国ではよくあることなのです。「中国人のどうしようもない民度の低さを現している」と日本人の中国人に対する嘲笑の例になっています。それが、今日本でも行われているわけです。
でも、日中の同様の例には、徹底的な違いがあります。中国での例に対しては、日本人からも中国人からも、諦め・呆れというか、しょうがないなあ、もう、中国人はでたらめなんだから、運が悪かったと思って気を取り直して!という反応。
今回の例では、周囲の反応がちょっと違った。旧500円玉でお釣りを貰えないとなると、手持ちのお金は新500円玉と新1000円札だけです。バスに乗れません。そう簡単に引き下がるわけにはいかない。
僕。
>旧500円玉なり100円玉なりレジにあるでしょう?そちらでお釣りをください。
レジのおばさん。
>規則だからできません。
というわけで引き下がらずに交渉を続けていました。
すると、近くにいた赤ちゃん連れの若い男性客が口を挟んできた。
>この老いぼれジジイ、いい加減にクレームをつけるのはやめろ!新硬貨は使えない、と書いてあるじゃないか、文句があるならバス会社に言え。営業妨害で警察に通報するぞ。
僕としては、望むべくことです。でもバスに乗れなくなってしまいます。レジのおばさんに、どうか旧500円玉でお釣りをくださいと、頭を下げ、おばさんは「今回だけ特別に」と旧500円玉を渡してくれました。
次に来た時に、店長氏に会って、新旧500円玉の理不尽を訴えようと考えています。どう考えても店側がおかしいと思うので、話し合えばわかるはずです。現在のシステム上、仕方がないのかも知れないし、将来改めてくれればいいのです。
僕がどうしても許せないのは、件の若い男性の態度です。こいつは許しがたい。保身、責任逃れ、リスク排除、、、こんなのが薄っぺらな正義感を振り回して「正論」を垂れ流しているので、世の中が滅茶苦茶になっていく。
全速力でバス停に向かい、間一髪バスに間に合いました。近畿大学前で下車、バス代は210円、旧500円玉(+10円玉)を両替機に入れ、300円のお釣り、、、と思っていたら、出てこない。
バスの運転手氏曰く、
>機械の調子が悪いみたいで、硬貨が底に落っこちてしまったようです。残念ながら取り出すことができません。お釣りが必要なら、明日、(終点の)事務所まで取りに来てください。あるいは連絡先か銀行口座を書いて頂ければ後日送るか振り込むかします、と、悪びれた風もなく宣います。
僕。
>それは困る。300円がなければ(新1000円札しか残らないので)次にバスに乗ることができません。運転室に予備の小銭は用意していないのですか?
運転手。
>そんなお金は用意していない。
僕としてはお釣りを受け取らないわけにはいかないので、粘るしかありません。
結局(運転手が事務所と連絡を取って)乗客の中で終点まで行く人から300円を僕が受け取り、終点でその乗客にバス会社が300円を渡す、という方法を選りました。
その方に深くお礼を言って、何とか窮地は免れたのだけれど、その方も他の乗客も、いい迷惑です。僕は、とんでもないクレーム・ジジイと、白い目で見られていること必至です。
どう考えても理不尽でしかありません。被害にあったほうが、泣き寝入りをせずに強く対応すると、カスハラとかいう、わけのわからない「強者救済」システムで、「悪者」になってしまいかねない。
僕は(たぶん僕以外の多くの人も)気が弱いので、「泣き寝入り」を受け入れるしかありません。
「強者」というのは何も特別な人達ではありません。「集団性自己中」に基づく「健全な市民」です。正当であるか否かにかかわらず、「強者」に逆らう(「強者」の既得権を侵害する)と「悪」とみなされる。それが日本の民主主義の正体です。
弱い立場の人間は泣き寝入りするしかありません。それが出来ない人は「犯罪者」になってしまう。
犯罪者に対して、ただ裁いて罰を与えればいい、というだけで良いのでしょうか。その背景を探る事こそ大事な事ではないのでしょうか。犯罪が起こるごとに、犯罪者(悪)は裁かれ、裏で無邪気にせせら笑いをしている、善良で健全な正義の皮を被った、醜悪極まりない「大衆」がいるのです。
むろん、犯罪、ことに暴力は、理屈抜きに、絶対にあってはならないことです。それを為した時点で、正しくても負けです。
でも、(何度でも言います)それ(「どんな理由があっても人が人を殺してはならない」という大前提)って、「死刑制度」と矛盾するように思うのですけれど。
・・・・・・・・・・・・
一昨日の夜は、NHKのTV番組を見ていました。西田敏行の番組(2人の母親)には、うかつにも涙が出てきた。良い番組でした。尤も、志村けんにしろ、西田敏行にしろ、メデイアこぞって没後過剰美化するような風潮には、首をかしげたいという思いがありますが。
一方、同じ老人でも、(世間が気に入らないとなれば)一方的に扱き下ろす風潮。ハリー(張本さん)とか、二階、森、麻生とか。醜いとしか思えません。若いことが正義、善。年寄りは悪。どれだけ酷い差別を行っているのかということを、自分たちは気が付いていない。
ジャニー喜多川の番組も見ました。彼の行ってきた行為にはこれっぽっちも弁護の余地はありません。しかしこの問題を俯瞰すると、とても恐ろしいことに気が付きます。ジャニー氏やメリー氏の問題ではないのです。それを取り巻くメディアや大衆の醜さが浮き上がってくる。元テレビ局重鎮現某大学客員教授氏に至っては、吐き気を催します。
このストーリーの中には、日本の社会の、資本主義の、民主主義の、全ての暗部が凝縮されて詰まっているような気がします。
物事の本質は関係なく、あるいは敢えてスルーし、空気、正論、正義で結論が形付けられてゆく。繰り返し言うけれど、ジャニー喜多川やメリー喜多川が、どれだけ悪行を働いたか、という問題ではないのです。彼らを取り巻く、目に見えない「巨悪」の存在(それは、メディア、大衆、、、に収斂される)に目を向ける必要があると思います。
初代ジャニーズの故中谷氏の姉上の訴えを、(ジャニー喜多川の排除が決定した後も)「中傷」と決め続けてせせら笑う企業側。
ロスアンゼルス在住の幼いころからジャニー姉弟の親友という老婦人の心境、、、、。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨夜は、「中内功と堤清二」を見ました。僕は、2人とも好きですね。
中内氏は(そのキャラクター自体は?の部分もあるのですが)神戸っ子(僕の父が始めた会社のすぐ近くに生まれた)なので、どこか身近に感じます。
堤清二(作家・辻井喬)氏は尊敬しています。
「(企業やメディアが)“大衆の欲望に応える”までは良かったけれど、“大衆の欲望を煽り立てた”のは間違いだった」と呟いた。重い言葉です。
・・・・・・・・・・・・・
選挙が近づきました。
僕は選挙には行きません。
選挙制度は、エセ民主主義の壮大なるカラクリです
選挙に行く、ということは そのからくりに同調する、ということにほかなりません。行かない(制度の否定)ということで、積極的な意思表示を選択します。
(具体的なことは改めて)
・・・・・・・・・・・・・
ナンシーからメールが来ました。
ジョニーの新曲リリースの紹介。
ここのところ、次から次へアップされています。ほとんどは(新曲というよりも)旧録音の未発表曲。これまで存在が知られていなかった、お蔵入り?の曲も含まれています。
でも今回の“My Baby’s Gone”の存在は知っていました。
以前、何人かのC&W歌手を集めたオムニバス版に、ジョニーのこの曲が入っていた。でもそのオムニバスアルバムの入手は困難、ユーチュブ上にもアップされることがなかったので、(何らかの間違い表示の可能性を含めて)永久に聴くチャンスはないだろう、と諦めていたのです。
Johnny Tillotson
*僕は長い間ルービン・ブラザースの「My Baby’s Gone」だと思っていたのですが、それとは別の同名異曲のようですね(“My”はタイトルには無いが歌詞にはついている) 。
ルービンのは僕が大好きな曲なので、それのジョニー盤が聴きたかったのだけれど、これはこれで素敵です。ちなみにルービン・ブラザース(ジョンD.ラウダーミルクの従弟)は、「涙ながらに」「You Can Never Stop Me Loving You」「Talk Back Trembling Lips」
(ヒットしなかったけれどジョニーが作った)「No Love At All」など多くカバーしていて、チャーリー・ルービンとは一緒に歌を作っていたりします。したがって、My Baby’s Goneをジョニーがカバーしていても不思議ではないのですが、違いましたね。それとも、2つとも録音していたりして、、、、。
Glen Campbell盤が秀逸ですが、Elvisの同名曲、Conway Twittyの同名曲などは、みなそれぞれ違う曲見たいです。
ついでに最近ユーチュブにアップされた、ジョニーの新曲(!?)をの中から、僕が特に気に入った幾つかの曲を紹介しておきます。
(1983年)
「You‘re A Beautiful Place To Be」
「Crying」(1983年)のB面
1963年の自作ヒット曲のセルフカバー。僕の一押しです。
アメリカン・ポップス関係の記事が大量に溜まっています。ことに、僕のライフワークの一つでもある、「涙ながらに」のカバー・リストの制作(ついでに「夢の枕を」とセットで)。その過程で、これまでよく知らなかった様々なジャンルのアーティストに接する機会ができました。ここ最近は、女性歌手に熱を入れているのだけれど、どこから紹介していこうか、なかなか踏ん切りがつかない。東南アジア(ことにインドネシア)やオセアニア(オーストラリア・ニュージーランド)編も企画していて、その中でも一押しの、サモアの男性歌手ピナテ・ウイリアムスのオールデイズ・カバー曲集をまず紹介していくことにします。どの曲も最高!です。映像も実に素晴らしい。文句なしのお薦めなので、ぜひ聴いてください。
Love Letters In The Sand by Pat Boone (Cover) (youtube.com)
Love Letters In The Sand
1957 Pat Boone(1934-) Hot100 No.1/R&B No.12
1986 Tom T. Hall(1936-2021) C&W No.79
Written by J. Fred Coots, Nick Kenny, Charles Kenny(1931)
All I Have To Offer You Is Me by Charlie Pride (Cover) (youtube.com)
All I Have To Offer You Is Me
1969 Charly Pride(1934-2020) C&W No.1/Hot100 No.91
Written by Dallas Frazier & A.L. Owens
Diana by Paul Anka (Cover) (youtube.com)
Diana
1957 Paul Anka(1941-) Hot100 No.1/R&B No.8
1965 Bobby Rydel(1942-2022) Hot.100 No.98/Adult No.23
Written by Paul Anka
Green Green Grass Of Home (Cover) (youtube.com)
Green Green Grass Of Home
1965 Porter Wagoner(1927-2007) C&W No.4
1967 Tom Jonse(1940-) Hot100 No.11/Adult No.12
1968 Skitch Henderson(1918-2005) Adult No.30
Written by Claude Putman Jr.
I Fall To Pieces by Patsy Cline (Cover) (youtube.com)
I Fall To Pieces
1961 Patsy Cline(1932-1963) Hot100 No.12/C&W No.1/Adult No.6
1970 Diana Trask(1940-) C&W No.37
1977 Mary K. Miller(1957-) C&W No.89
1981 Patsy Cline C&W No.61, 1982 C&W No.54(with Jim Reeves)
1994 Aaron Neville(1941-) & Trisha Yearwood(1964-) C&W No.72
Written by Hank Cochran & Harlen Howard
It Keeps Right On The Hurting (Cover) by Johnny Tillotson (youtube.com)
It Keeps Right On A Hurting
1962 Johnny Tillotson(1938-) Hot100 No.3/C&W No.4/R&B No.6
1965 Margaret Whiting(1924-2011) Adult No.28
1988 Billy Joe Royal(1942‐2015) C&W No.17
Written by Johnny Tillotson
・闇バイト(別に礼賛しているわ、意味を掘り下げて考える)
以前ミャンマーで奥地(カ地の人たちの主要産業は大麻の栽培それは良くない、ということで、日本を始めとした先進国のボランティアが、別の合法的な仕事を立ち上げて斡旋している、けれどなかなか応じてくれない。
彼ら自身は、別段悪いことをしている、という意識などないのですね。誇りをもって必死で頑張って仕事をしている、褒められはしても、後ろ指を刺される道理など、微塵もないわけです。
日本に於けるタバコ産業にも当て嵌ります。煙草農家は誇りを持って仕事をしていた。それがいつの間にか悪者にされかねない風向き。さぞかし戸惑っていることでしょう。同情を禁じえません。
善悪の基準など、ころころと変わります。今現在善とされていることだって、光の当て方次第で、いつ悪のほうに転換するのか、誰もわからない。
以下は極論なのですが。
これも東南アジア(確かタイ)で、ある日本人からこんな要旨の発言を聞いたことがあります。いわゆる闇バイトの海外在住元締めの一人なんでしょうね。彼曰く、
>自分たちは、ある意味、社会への挑戦のつもりでやっている、と。
とんでもないですね。「盗人猛々しい」とは正にこのことなんでしょうが、「盗人にも三分の理」という言葉もあります。全く無視してしまうことも、どうかと思います。
現在の社会(ことに資本主義社会、なかんずく日本の民主主義社会)の構造、考え方(社会に対する意識の持ち方)は、むろん自分たちは気が付いていない(そんなことは微塵も思ってはいない)だろうけれど、本質的に「反社会」と変わらない。
善悪の絶対的な評価は、集団(自分たち)にとって、よし(必要)とされているか否かで決まります。
光の当て方次第では、世の中の大方の文明・文化は、依存症へ誘発と言ってもよい、詐欺的行為の上に成り立っている。
ファッション、グルメ、音楽、アニメ、、、芸術など最たるもので、落書き同然の代物に、いかにも尤もぶった専門家とやらの御神託で、何百万、何千万円、何億円もの値が付く。怪しげな宗教団体の壺と、どこが違うのか。
世の中の価値観は、「かのように」に基づく土台、空中回廊の上に成り立っているのに過ぎないのです。
集団(自分たち)にとって、利益をもたらすものが「善」「正義」であり、それに携わることが「まともな仕事」と認識される。光の当て方次第では、集団的(ほぼ日本国民同意の上での)詐欺に加担しているのに他ならないとしても。
その究極が、戦争(対立)で齎された経済の循環。それによってホクホクになっているのは、何も某国や某某国の独裁者たちでも、西側社会の指導者たちや大富豪たちだけでなく、戦争反対!平和を!と叫んでいる一般庶民なのです。
彼ら(すなわち私たちですね)が基盤的な部分で戦争に加担していることによって、まわりまわって豊穣がもたらされる(それを「平和」と呼んでいる)。フィルターがその過程を見えなくすることによって、「悪」に加担しつつ、反対を叫んでいる「正義」「善」が形成される。
金持ちなんて、あくどいことを遂行する能力のある人(あくどいということに気が付かないという能力がある人)にしかなれんのです。
その流れに乗るのが強者であり、資本主義社会、民主主義社会であり、富の偏在が成される。それらの(目に見えない暴力で成る)社会をぶち壊してやろうと、目に見えた暴力を仕掛けるのが、(やくざとはまた別の新参の)「反社会」勢力なのかも知れません。
先年のフィリッピンの某ルフィが漏らした「殺したのが拙かった」という呟き、これが本音でしょうね。少々の目に見える暴力に頼っても、目に見えない社会全体の強大な暴力(ほぼ正義の同義語)に立ち向かい、力が支配する社会を揺るがしていこう、と。
繰り返しますが、泥棒達の自己中意見を正当化するつもりはありません。その前提で、今社会を揺るがしている闇バイト問題を、表面的価値観だけで解釈するのではなく、無意識的集団性自己中社会(日本に於ける平和や正義)に対する警告として受け取る姿勢も、必要なのではないかと思うのです。
中国やロシアの、独裁権力による思想・風俗などの統制、それはあってはならないことでしょう。でも一面、わかる気がします。
民主主義の大義名分の下、歪な価値観が、当たり前のごとく「平和」「正義」「自由」として 位置づけられていることのほうが、僕はもっと怖いです。
文明・科学が、本当に人類に幸を齎しているのか、今一度考えて欲しいと思うのです。
・ノーベル平和賞と人類の決断~文明(例えば車・エアコンなど)との決別
日本被団協(被爆者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞しました。
僕はこれまで、繰り返し次のように述べてきた。
>「平和」「戦争をやめよう」と叫ぶ、それが間違っている、ということではなく、そこで終われば思考停止に等しい。
>誰だって平和を望んでいる。戦争などしたくない。なのに、現実は、全く逆の方向に進み続けている。ひたすら叫ぶのではなく、その原因はどこにあるのか、ということを真摯に追及していくことこそ必要なのではないか。
今回受賞の日本被団協の人々の訴えも、「平和を」「戦争反対」です。けれども、具体的に「核の全面否定」を訴えているわけです。そこを評価したい。正しくは「核兵器の全面否定」なのですが、それは「核・原発の全面否定」にも繋がっていきます。
核・原発そのものを全面否定するということは、現実問題として、人類の (いわゆる平和、自由)の活動スタイルの否定にも繋がってきます。それでも全面否定する。考えてみれば、非常に勇気のいることです。彼らに対するノーベル平和賞の授与は、今後の人類・地球の行く末を決定づける鍵となり得るのかも知れません。
「原発」に代表される文明の利器は、確かに便利です。人類の発展・繁栄の基礎を担っています。人々の楽しく、平和で豊かな暮らしに結び付きます。しかし、「繁栄」は絶対的な肯定事項なのでしょうか?
生物の進化の歴史を鑑みれば、「繁栄」は「滅亡」の序章でもあるのです。「文明」の齎す恵みは、同時に凶器・劇薬ともなりえる。
「核兵器」のように目に見える凶器(瞬間的大量虐殺)ではないとしても、俯瞰的に見渡したなら、「車」や「エアコン」といった文明の利器も、(例えば気候変動の元をなす)漸進的な大量破壊兵器と言っても過言ではないのです。
文明は、人類の生活に彩りを添えます。しかし、文明ありき、ではない。人類は今、文明・科学に魂を売り渡し、滅亡への道に向かいつつあります。
「核の否定」から更に一歩踏み込んで「文明との決別」に向かう時が来ているのではないでしょうか。
ちなみに今年のノーベル賞は、他分野(物理学、医学など)に目を向けると、概ねAI関連が受賞していますね。今後もその傾向は続くのでしょう。
僕は、AI(科学)の発展が人類を滅ぼす、と確信しています。
今年は意識的に蝶の撮影をしないでいるのだけれど、さっきWi-Fi電波を拾いに外に出かけたら、アパートのそば(大学駐車場の脇)の草むらにタテハモドキがいたので撮影しておきました。近所(福岡県飯塚市)の蝶、52種目ですね。タテハモドキが九州北部まで分布を伸ばしていることは知っていたのですが、これまで出会うことがなかった。新鮮な個体(越冬型)が同じ場所に2頭いました。屋久島のアオタテハモドキと言い、揃って北上しているようです。
驚いたことが一つ。この場所の植生環境が、昨年、一昨年とガラリと変わっている。これほどまでに極端に変わるとは驚きでしかありません。草刈りの時期や回数(春にシルビアシジミの件で言及した公団住宅中庭はともかく今年は近所の草刈りがなぜか少ない)に関係するのかもしれませんが、、、。草刈りをしようがしまいが、最終的には同じような環境(それは必ずしも極相に向かわない)に落ち着くのではないかと。
植生は一変したけれど、蝶のメンツはあまり変わっていませんね。さっき出会ったのは、タテハモドキのほか、クロマダラソテツシジミ、ウラナミシジミ、ヤマトシジミ、ツバメシジミ、ツマグロヒョウモン、チャバネセセリ、キチョウ、アゲハチョウと、いつものメンツです。セイタカアワダチソウに群がるはずのキタテハを見かけなかったのは偶然でしょうか?
イチモンジセセリをチェックしようと、蚊に刺されながら小一時間粘ったのですが、チャバネセセリばかりでした。
大事なことに気が付いた。ベニシジミがいない。一昨年(昨年も)の10月中旬は、ここはベニシジミだらけだったのですが、一頭も見かけません。そういえば、今日のこの場所だけでなく、今年の夏以降は、ベニシジミにほとんど出会っていない(屋久島では南下定着しているのに)。これはどういうことでしょうか? まあ、(自然のシステムは複雑ゆえ)一年や二年で衰栄の判断を下すわけにはいかないのだけれど、気になる現象ではあります。
前回の①はカテゴリーが「Johnny Tillotson」「アメリカン・ポップス」となっていますが、それはあくまで題材で、本質的・潜在的な部分では以下に記す各コメントと共通している、ということをご了解ください。
やらなきゃいけないことが山ほどあって(今はともかく「屋久島の植物」の完成一択)、ブログ*など書いてる暇はないのだけれど、書き出したからには一応完結しておきます(⑧まで続く予定、どれも数日前に書き始めたテーマなので、少々タイムラグが生じますが)。
*三世から、ジョージが日本語読めないので、英語でブログを書いてくれ、という、無茶振り。そんなの無理に決まってるのだけれど、、、、概ね自動翻訳機に頼って、ジョージ専用の英語版も書いているという、、、、我ながら情けなくなってきます。
・ドジャースWヘルナンデスと逆差別としての人種問題
ドジャース、宿敵パドレスを撃破してリーグマッチに進出。勝った山本も負けたダルビッシュも圧巻の出来でした。感動しました。それにしてもWヘルナンデスは勝負強い!
そのWヘルナンデスの活躍に際してのヤフーニュース。
S1さんの投稿
>我が家ではキケを白ヘル、テオを黒ヘルと呼んでいるが、今日は決勝の白と黒になった。
それに対するヤフコメ民たちのコメント
>サラッと何も考えずにこのコメントが出来るのが怖い。
>SDGSのこの時代にかなりマズイコメント…。
>めちゃくちゃ人種差別的な御家族ですね。失礼極まりないし、こういう事を書き込んでマズいと思わない感覚が分からない。
>コメ主、早く削除した方がいいですよ 絶対に家の中だけで、お子さんがいるなら今すぐ止めて、お子さんのために。
>>失礼な家族。
僕の投稿
>コメント入れている皆さんに、、、、あなたたちの思考回路(ひたすら責任逃れ、リスク回避)こそ、陰険な人種差別に繋がると思うのですけれど。
配慮は必要です。円滑に人間関係を進めていく上においては、(相手が嫌がるだろう表現を封印することは)あっても良いと思います。でもそれは、あくまで2次的な、潤滑油としての存在なのです。
それ(やみくもに封印すること)が主体となってしまえば、本末転倒、逆(本質的な)差別に連なる、単なる自己保身、責任逃れでしかないのではないでしょうか?
健全な市民たちの(集団性自己中的)コメントが、僕には恐ろしく感じるのです。
日本・人類・地球の未来に対する危惧についての断片的考察①のつづき
60年代後半以降のポップ音楽は、誰もが“金太郎飴”のように、「主張」「反抗」「改革」、そして「愛」「平和」「平等」の合唱です。繰り返して言うけれど、それが本当の改革に繋がるとは僕には思えない。1000の叫びよりも、1の実行のほうが尊いと信じています。
全面否定される(というか頭からバカにされる)ことは承知しています。敢えて言います。「ロック」も「フォーク」も「ブルース」や「ソウル」も、“いかにも”感はたっぷりでも、言葉に“重み(深み、真実味)”がない。僕は、(改革に繋がりうる)真の言葉の重みは、それと気付くことの少ない、ごくありきたりの表現の中に見つけることが出来る、と思っているのです。
誰かがそのような前提で、別の視点から「60年代アメリカンポップス」を俯瞰してくれれば、と思うのですが、(ごくマニアックなものは別として)そのような視点からの言及は、上記の内田樹氏の文章以外に出会ったことがありません。残念でなりません(だから今「涙くんさよならの謎」の物語りを書いているのです)。
60年中期以降に成された「新時代への転換」を主導したのは、主張・反抗・反体制の「ロック」「R&B」「フォーク」を主体とした音楽(及びその周辺)カルチャーに関わる人々であることは確かでしょう。
しかし、その転換期には、「C&W」およびそれに基づく当時の「ポップス」も、別の次元から(ポジティブであるかネガティブであるかはともかく、そして非常に複雑な形で)大きく関わったはず、ということは先に書きました。
当時のポップカルチャー(大衆文化)の代表でもあった「アメリカンポップス」と、その一方の生みの親でもある「カントリー音楽」の関係には、極めて複雑な背景があるようです。以下はその一例。
Billboardのヒットチャート上では、1950年代中期に社会現象となるほどの爆発的な人気を博したエルヴィス・プレスリー、更に50年代末にかけてのリッキー・ネルソンやエヴァリー・ブラザースら若いポップシンガー達のメジャーヒット曲は、C&Wのチャートでもグロスオーバーして大ヒットするのが当たり前でした。
しかし、60年代に入ると、50年代後半の蜜月関係から一転して、両ジャンルに跨るクロスオーバーヒットが、ピタリとなくなってしまいます。60年代の中期に至るまで、両陣営は、互いのヒット曲を全く受け入れない(Popチャートのほうには、ごくまれにC&Wの大ヒット曲がランクされはしたが、C&Wチャートには、カントリー調のPopヒットは、ほぼ全く登場しなかった)鎖国状況が続きました。黒人歌手と白人歌手のヒット曲が入り乱れて登場していたR&Bチャートとは対照的に、C&Wチャートは(いくらカントリー要素が強い曲であっても)ポップ歌手の曲を断じて受け入れはしなかったのです。
不思議なことに、その全く同じ時期(ビートルズがアメリカに来襲、ボブ・ディランやモータウン勢が台頭するまでの数年間)、アメリカの一般大衆に最も受け入れられていたのが「ポップ・カントリー」です(「ナッシュビル・サウンド」もほぼ同義語、当時は、主にポップ歌手によるカントリー調の楽曲に対して呼ばれていたように思いますが、現在では「ポップ・カントリー」も「ナッシュビル・サウンド」もC&W界の歌手による楽曲に対してのみ使われているようです)。
カントリー要素がごく強い曲だけでなく、一般のヒット曲も、程度の差はあれカントリー的な要素を持ち合わせていました。
アメリカ文化の象徴ともいえるポップ音楽の世界は、カントリー系のポップヒットが大多数を占めていたのです。
にも拘わらず(だからこそ?)、ポップ界とカントリー界の交流遮断、これを一体どのように解釈すればいいのでしょうか? ことに「ポップカントリー」が興隆の極みにあった62年は、極めて僅かな例外を除き、両陣営の曲がクロスオーバーしてそれぞれのヒットチャート上位に現れることはなかったのです(唯一の例外がジョニー・ティロットソンの「涙ながらにIt Keeps Right On A Hurting」と「夢の枕をSend Me The Pillow That You Dream On」)。
カントリー界からすれば「親(カントリー)離れした手に負えない子供(ポップカントリー)の出現」あるいは「軒を貸して母屋を取られる」というところでしょうか。新時代到来の直前に、別の形での「大人と子供の家族内対立」があったわけです。
1962年は、ジョニー・ティロットソンが「涙ながらに」で(60年の「ポエトリー」に続く)2度目のブレイクを成した年でもあるとともに、“ポップス黄金期”の主役たちが、最も光り輝いていた年でもあります。同時に、イギリスのビートルズやアメリカのビーチ・ボーイズらの、新時代のアイドルたちがブレイクの兆しを見せ、ボブ・ディランを旗手とした、“メッセージ”を込めた新たな歌の担い手たち”も、虎視眈々と台頭の機会を狙っていたのです。
そして、「天地変異」が起こりました。ビートルズのアメリカ来襲。ある意味成熟の極みに達し、膨らみに膨らんだ「the Golden Age of American Pops」は、その頂点で、一気に破壊したのです。
ところで、ジョニー・ティロットソンをはじめとした“旧時代”のティーンアイドルたちは、ビートルズの出現によって、すべからく“駆逐”されてしまった、というのが定説となっています。それは事実なのでしょうか? 答えは「そうである」、と同時に「そうではない」。二つの相反する、別次元の“事実”が存在するのです。すなわち「天地変動により崩壊した」「崩壊とともに天地異変が起こった」(鶏と卵の関係)。
ビートルズの出現を境に、旧時代のティーン・アイドルたちが駆逐されてしまったのは、紛いもなき事実です。「狭間の世代24人衆」の、ビートルズ登場の1964年を挟んだ前後数年の、ビルボード・トップ10ランクイン曲数の推移を見ていきましょう。
年度、トップ10曲数(アダルトのみのトップ10曲を加えた数)、Johnny Tillotsonのトップ10曲数(同)。*原著では表で表示。
1962年 37(49) 1(3)
1963年 21(37) 1(2)
1964年 11(24) 1(3)
1965年 03(14) 0(1)
1966年 03(04) 0(0)
1967年 02(02) 0(0)
一目了然ですね。64年以降のビートルズ達の登場と共に一気に消えてしまった、というのは、間違いのない事実ではあるようです。
でも、それとは違う見方も出来ます。ジョニー・ティロットソンたちティーン・アイドルの衰退と、ビートルズ以下ブリティッシュ勢の台頭は、それぞれ個別に起こった現象であると。時代の要求が、旧勢力を廃し、新勢力を求めていた、、、たまたま、そこにビートルズたちが出現した、そうは考えられないでしょうか。
もし、この時(64年春)にビートルズが登場していなくても、それに代わる“誰か”(おそらく今では無名のアーティスト)が、その役目を担っていたはずです。
次章で紹介する“狭間の時代のシンガー24人衆”についての表を、改めて眺めて下さい。連続ヒット期間が10年近くに亘る2人の女性歌手コニー・フランシスとブレンダ・リーを除けば、大半の歌手の“賞味期限”は、5~6年というところです。
ということは、初ヒットが早ければ早いほど、ヒット・チャートからの退場も早い。少なからぬ歌手が、ビートルズ登場より、かなり前からヒット・チャートから姿を消したり、勢力が衰えたりしているわけです。
逆に、登場が遅い歌手はより遅くまで、すなわちビートルズ登場後も1~2年間は、ヒット曲をチャートに送りこんでいる傾向があります。ついでに言えば、早めに退場した歌手には、もう一回復活の機会が与えられている傾向もあります(復活というよりも一発ヒット、本当に復活したと言えるのは、ポール・アンカとニール・セダカの2人だけ)。
ビートルズの登場と、自らの退場が、見事に完全に重なるのは、ディオン。50年代の末から60年代前半にかけての5年間余、Top10ヒットを連発、それが64年1月の「ドリップ・ドロップ」をもって、突如途切れます。以降(メッセージソングでの突発的一時復活があるとはいえ)、Hot100からも、ほとんど姿を消してしまうのです。
彼の場合は、ティストがビートルズと重なるので、そのために見事にとって代わられてしまった、ということもあるのでしょうが、実際のところは別の理由があったようです(薬物中毒のためとも言われています、、、ちなみに2000年代に入って最も溌剌と活動を続けているのが、彼ディオンです)。
「フォーゲット・ヒム」で打ち止めのボビー・ライデルや、「ロデイ・ロー b/w ホッカ・トッカ」が最後のビッグヒットとなったチャビー・チェッカー、「フールス・ラッシュ・イン」「フォー・ユー」「ザ・ベリー・ソート・オブ・ユー」の “ロッキン・スタンダード”3部作で最後の踏ん張りを見せたリック・ネルソンも、それに近いといえるかも知れません。もっともリッキーの場合は、7年半も連続ヒットを続けてきたわけですから、この辺りでの退場は、仕方が無いことなのだと思います(さすがに彼は、ヒットパレード界の第一線から退場後も、メジャーヒットの「シー・ビロングス・トゥー・ミー」「ガーデン・パーティー」をはじめ、時折C&Wチャートなどに顔を出しています)。
ビートルズ登場よりも少し前に、勢いが衰えていたのは、ニール・セダカ、ジミー・クラントン、ボビー・ヴィー、ボビー・ダーリンといった面々です。二人の“ボビー”は、早めに退場した分、後(66年)に一次的復活(ヴィーは「すてきなカムバック」など、ダーリンは「イフ・アイ・ウァー・ア・カーペンター」など)、もう一人の“ボビー”、ライデルは、より遅くまでメジャーヒット(「フォーゲット・ヒム」)を放っていたため、復活の機会は無し、という図式です。
ジョニー・ティロットソンは、ビートルズ登場の後も、丸2年間頑張りました。ポップスのトップ10に関しては、ディオンやライデルと同様、64年年頭の一曲(「トーク・バック・トレンブリング・リップス」)が最後となり、ビートルズと見事に入れ替わるのですが、その後もポップスのトップ40ヒットや、アダルトのベスト5に入るヒットを何曲も続けます(コニー・フランシスやブレンダ・リーも似た形跡)。
リッキー以外の57年デビー組、エヴァリー・ブラザース、フランキー・アヴァロン、ポール・アンカ(彼とニール・セダカは、70年代に入って大復活を遂げます)といった面々は、ビートルズの登場よりずっと前、62年後半~63年初頭にはヒットパレード界から姿を消しています。
逆に、56年に初ヒットを放つも、その後丸4年間ヒット曲が無かったロイ・オービソンや、61年初ヒット組の、ジーン・ピットニー、デル・シャノンらは、出足が遅れた分と、ビートルズやストーンズと何らかの縁があったということも関与してか、ビートルズ登場後の64年-65年にもTop10ヒットを持ち、その後も何年か、チャートヒットを続けていました。
さらに62年初ヒット組の、ボビー・ヴィントン、ヴィック・ダナ、トミー・ロー、ルー・クリスティーらになると、チャートヒットはより遅くまで続きます(もっとも後2者は、60年初ヒットのブライアン・ハイランド共々、ヒット曲が連続せず、1年前後おきに、断続します)。ヴィントンは、24人衆のなかで例外中の例外で、断続してもすぐ復活し、60年代のみならず、70年代を通して、第一線で活躍し続けます。
いずれにしろ、彼らの退場は、ビートルズの登場と、直接の関係があるわけではないのです。引き金となった要因~大衆が新しい波を求めていた~は同じだとしても。片方は、それに乗って登場し、片方は、それに流されて退場したというわけです。周囲の状況とは関係なく、自らが息切れしてしまった、ということもあるでしょうし、結婚によって、“アイドル”としての存在意義が薄れてしまった、ということも関係しているかも知れません。 狭間の歌手たちの衰退と、ビートルズらの台頭が、たまたま見事に一致した、それだけです。むろん、時代の要求によって、そうなったのには違いないのですけれど。
次の表(*原著では2種の表で表示)は「狭間の世代24人衆」の、デビー(初ヒット)からの連続ヒット(一年以内の間にHot100チャートインを継続)の期間です。
初ヒット(Billboard Hot100)から最終連続ヒットまでの年数。最も短いのがLesley Goreで4年3カ月19曲、以下Frankie Avaronの4年7カ月24曲、Jimmy Clantonの4年8カ月11曲、Vic Danaの4年9カ月13曲、Freddy Chanonの5年1カ月20曲(7年2カ月22曲)、De Shannonの5年2カ月16曲、The Everly Brothersの5年7カ月34曲(7年8カ月36曲)、Bobby Rydelの5年8カ月30曲、Bobby Veeの5年9カ月29曲(8年8カ月37曲)、Gene Pitneyの6年21曲(8年24曲)、Dionの6年1カ月28曲、Chubby Checkerの6年1カ月31曲(7年3カ月32曲)、Paul Ancaの6年6カ月34曲、Bobby Darinの6年8カ月33曲(10年8カ月40曲)、Roy Orbisonの6年8カ月28曲、Neil Sedakaの7年3カ月20曲、Johnny Tillotsonの7年3カ月26曲、Rick Nelsonの7年6カ月50曲、Bobby Vintonの8年1カ月36曲(15年46曲)、Brenda Leeの9年50曲(11年51曲)、Connie Francisの9年5カ月55曲。
*()内は連続ヒットの基準をやや緩やかにした場合の集計。Brian Hyland、Tommy Roe、Lou Christieはヒット曲が断続するので除外。
その因果関係はともかく、「旧世代」と「新世代」が見事に入れ替わっているのは、事実なわけです。ビートルズがアメリカ上陸を果たした64年初めに巨大な波が押し寄せ、その2年後の66年前後には、ほぼ完璧に入れ替わってしまったことになります。
ジョニー・ティロットソンに関して言えば、ビートルズの初チャート週に最後のTop10から陥落、しかしその後も丸2年間、激動する新世代音楽に混って第一線に踏みとどまったのですが、力尽きて65年最終週を最後にBillboard Hot100チャートに別れを告げます。
面白いいことに、直後の66年初頭から、それまでリリースは繰り返していてもヒットに結びつかないでいた、年齢の上では同世代(あるいはむしろ上の世代)の将来の大物歌手たちや、あるいは、なぜかその期間(60年代前半)だけヒット曲が途切れ低迷していた以前からの大物アーティストたちが、一気に台頭あるいは復活してきたのです。
それは、単に歌手や楽曲が入れ替わったというだけではなく、様々な仕組みや現象も一転してしまいました。例えば、、、66年以降になって、それまでの数年間(ちょうどティロットソンの活躍期間に当たる60~65年)ほとんど記録されることのなかった公認ミリオンセラー曲が、次々と出現したこと。
ヒット曲のHot100へのチャート期間が、大幅に伸びたこと(ジョニー・ティロットソン自身は、どちらかと言えば、チャート期間が長いほうだった)。
カントリー界の鎖国(ポップカントリーの勘当?)が解け、カントリー系ポップシンガーの曲が、C&Wチャートも多く現れるようになったこと(以上3点は、新たな現象ではなく、60年以前の状況に戻った)。
60年代前半までは、一曲につき2分30秒前後(1分半~3分)が常識だった曲の長さが、大幅に増えて4分前後の曲も珍しくなくなってきたこと(その嚆矢は66年暮れのビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレイション」)。
曲にプロモーションビデオがセッティングされたこと(ついでに言えば、日本でジャケットが総カラーになったのは64年前後、ただし欧米では50年代末からカラージャケットになっていた)。
その転期には、必ずしも全く新しく成された事例だけではなく、ちょうどジョニー・ティロットソンたちが活躍していた60年代前半を挟んだ“特別な期間”(すなわち「ポップス黄金期」)だけを例外期間として、以前の状況が改めて復活したものも含まれています。
ジョニー・ティロットソンの第一線での活動期間は、その“特別な期間”に、見事にすっぽりと収まってしまいます。まるで意識的に彼(をはじめとする“狭間の世代”の面々)を仲間外れにしているような(笑)。
ポップ音楽とアメリカ文化(政治・経済・宗教も)は、川崎氏の指摘のように、密接に係っています。そのことを踏まえて、源流としてのロックやジャズやR&Bとポップ音楽との関係については、多くの人々が、様々な問題提起を行い、関係を考察し、歴史を堀り起こす作業を行っています。
しかし「ポップス黄金期」(とその母体を成すと言えるカントリーミュージック)は、現在のポップ音楽の源流に直接つながらない無関係な(あるいは厄介な、目障りな)存在と見做され、存在自体がスルーされてしまっているように思えてしまう。
「American pops of Golden age」は、アメリカ文化の一完成形であるとともに、歴史の波に洗い流されてしまった幻の楼閣です。あるいは、現代ポップスに、源流とは異なる方向から流れ込む「幻の巨大な湖」と言って良いでしょう。当時の主役でありながら、現代に連なるポップ音楽の流れから見れば、それとは無縁の“特別な空間”に咲き誇った仇花なのかも知れません。
だとしても、「新時代のカルチャー」がスタートした時にそこにあった背景は、その時点での完成形としての文化「特別な空間=ポップス黄金時代」です。評価や好き嫌いは別として、それに対する認識をきちんと行わなっておかないことには先に進めないのではないかと思うのです。
でも、(僕の知る限り、唯一当時のポップスとカントリー音楽の関係について多くの的確な評論を著わし続けてきた高山宏之氏を除き)誰一人として、正面から取り組もうとはしない。そして、有無を言わせず「旧時代のポップ音楽」を無視する(または蔑む)ことで、結果として60年代中期以降の(現代に繋がる)「新時代ポップ音楽」(及びそのルーツとされるロックやジャズやR&B)の正統性をより強調しているように思えてなりません。
ある意味、ジョニー・ティロットソンは「特別な時代」の象徴的存在です。なぜ、Johnny Tillotson的なものが排除され、非Johnny Tillotson的なものが評価されるようになったのか?無視・軽蔑・排除の対象となったJohnny Tillotson的なものとは何か?
ジョニー・ティロットソンで、すぐに思い浮かぶフレーズは、
まず、「ビートルズらに駆逐された旧世代の代表」。
ポジティブには、「ポップスとカントリーを結びつけたティーン・アイドル歌手」
日本に於いては、「日本とアメリカでヒット曲が全く異なる」。
オールデイズにある程度詳しい人なら、この三つのどれかを答えるでしょう。
さらに細かく彼特有の現象を示すと(マニアック過ぎて誰も知らないでしょうが、笑)「コンスタントヒットメーカー、デビュー以来7年余23枚のシングル盤が全てBillboard Hot100にチャートインし、3曲続けてランクポジションが下降したことが一度もない」「リリースしたシングル盤の曲調が、毎回ガラリと異なる」「24人衆+1組中、女性2人と後発のボビー・ヴィントンを除いては、他ジャンル(Adult- componteraly,C&W, R&B)とのクロスオーバーヒットが際立って多い」。
それらの現象(後3つはともかくとして)は、「旧世代音楽」と「新世代音楽」の関係、ひいては現代アメリカのカルチャーや人々の思想の形成を考える上に於いて、意外に大きなカギを握っているのではないかと思うのです。ジョニー・ティロットソンの(それが微々たるものだとはしても)功績と航跡を探ることで、何かが見えてくるのではないかと。
ジョニー・ティロットソンは、ビートルズの曲を、一曲も取り上げていません(メンバーの作った曲だけでなく、レコーディングした全ての曲を)。同時代のメジャー歌手としては、異例中の異例でしょう(ちなみにエルヴィスとは数十曲が重なる)。偶然ではないと思います。67年、自作の「Long Hear Commitiiビートルズなんて怖くない=仮邦題」に見て取れるように、彼なりの意地や反発があったのかも知れません。
僕は、思想的にはリベラルな、いわば左寄りの(それも相当過激な)立場にあると自認しています。しかし、いわゆる左寄りの文化人の多くに対しては、かなりの違和感を持っています。素直に信用できない、というか、言っていることと、実際の行動が違うのではないかという想いがあります。あるいは、いかにも高尚なかっこいい言葉や行動の中に、どうしようもない薄っぺらさを感じてしまう。僕は自分で思っているようなリベラルな人間ではないのでしょうか? ほかの人々より感受性が劣っているのでしょうか? それとも、よほど頭が悪いのでしょうか?
馬鹿にされることを承知で言います。僕は「環境破壊」に反対するために、生涯車を運転しませんでした。世界人類の平等な平和を願うために、自らの家庭を築くことを放棄してきました。路傍で物乞いする人々には、仮に自分が100円しか持っていないときでも、応えてきました。「そんなのまるで意味がない、単なる自己満足」と言われても構わない。実践が可能なことを実践しているだけです。
でも、「愛」や「平和」を、まるでファッションのように捉え、自分では少数派で革新的な思考の人間と思い込み、実のところは大衆迎合の多数派にほかならない、リベラルを(無自覚に)装った口先だけの平和・平等主義者よりはマシだと思っています。
もう一度、川崎氏と内田氏のsymmetricな文章を、ピックアップしておきます(◆:川崎、■:内田)。70年代以降の主流ポップス(ロックやソウルなど)に対する礼賛と、それらに対する疑問視(違和感)の対比です。
◆1970年代以降のロックのみならず、ソウル音楽が、ファンクが花開き、ヒップホップにまでつながっていく道筋が形作られていった。
■1977年を最後に私たちが聴くことになった音楽では、シンガーたちは怒声を挙げ、権利を主張し、罵声を浴びせ、ついには無機的な機械のように痙攣的な発声をするようになった。
◆「必要なときにはいつでも立ち上がり自らの意思を表明する」アメリカの大人。
■「泣くべきときに正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男。