青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代(20)

2010-12-25 09:06:00 | アメリカン・ポップスearly60’s



(消し去られた60年代初頭のアメリカンポップス史)

風が吹いたら」というMIZUHOさんのブログで、また僕の紹介が成されています。たぶん褒めて貰っているのだと思いますが、、、。なんだかくすぐったい気持です。MIZUHOさん、有難う。

前回の「Elvis~」に、ジョニーの曲は女性シンガーとの相性が良いようですね、と記したけれど、僕も女性と相性がいいみたい。まあ、幾つもの注約つきではありますが。女性に助けて貰っている部分が、随分多いのではないかと。

その筆頭が、あや子さんですね。一回しか会ったことが無いのですよ。3年前のゴールデンウイーク期間の帰省中、僅かな時間が取れたので、東京駅近くの八重洲ブックセンターでお会いすることになっていたのですが、なんと待ち合わせの直前に、ぎっくり腰を起こしてしまい、お目にかかった時は、ブックセンター内のCafeのソファでウンウン唸っている最中。病院に救急車で運ばれ、点滴を打って貰っている間、付き添って貰っていたという(そのため羽田から佐世保への航空便に乗り遅れたという)、これ以上悲惨なシチェ-ションでの出会いは考えられないのではないでしょうか、、、、その後におかけしている、多大なご迷惑を、まさに象徴しているようです。

今、年金を貰って生活しているわけで、そんなものには頼りたくないというのが本心なのだけれど、実際にはそれでずいぶん助かっているのです。掛け金を(内緒で)払っていてくれていたのは、13年前に逝去した母。存命中は、親不孝もいいところ、話しかけられても、一切無視をするか、怒ってしまうか、どちらか(それでいて小使いだけはせびる)。いなくなってから親のありがたさが分かる、というのは、まさにその通りですね。

MIZUHOさん(20数年前の片思いの人)にしても、中川嬢(もう15年近い付き合いですね)にしても、マリアレンさん(ブログ上のメール友)にしても、友人の極めて少ない(出版社関係&学術関係者を除けば、男性の友人はジン君ぐらいしか見当たらない)僕としては、皆結構仲良くやってます。スーリン(元カノ)だって、今は随分仲が良いのですよ。昔短期間付き合っていて、分かれてしまった何人かの彼女にも、今はとても感謝しています。

友子さんは、許そうと思っている。いつか会うことが出来れば嬉しいですね。元気でいてくれることを願うだけ。ということで、憎っくきは、千明さん唯一人ということになります。といって、別にことさら憎んではいないのですが、とにもかくにも、謝ってほしい、それだけです。

今日のテーマは「朝と夜~」じゃなかったですね。「ElvisとBeatles~」のほう。

この10年近く、クリスマスが来るごとに、忸怩たる思いになります。毎年毎年、今年こそは購入しようと思いつつ手に入れられないでいる、ジョニーのクリスマスアルバム、今年も手に入れることが出来ませんでした。リアルタイム(1966年)では、(テープに収録したものを)持ってはいたのですが、数十年ぶりに改めてアメリカンポップスを聞きだした時には、再発のCDがちょうど廃盤になった直後。と言っても、レコード屋に置いていないと言うだけで、ネットでは簡単に入手できるのです。でもクレジットカードを持たない僕には、それが叶わない。

今年も、それが叶わないまま、クリスマスがやってきました。でも、You-tubeほかで、曲自体を聞くことは出来ます。アルバムのタイトルは「Johnny Tillotson the Christmas Tach」。You-tubeでは、シングルカットされた、「クリスマス・カントリースタイル」や「ジングルベルズ」「プリティー・ペーパー」などを聞くことが出来ます。僕が特に好きなのは「シルバーベルズ」。その他、ジョニー自作の3曲をはじめ、「ウインター・ワンダーランド」や「ブルー・クリスマス」「ホワイト・クリスマス」などなど。来年のクリスマスこそは、CDをゲットしなくては。

半年ほど前のマリアレンさんのブログ「リッキー・ネルソンに恋して」では、“リッキー&ジョニー夢の競演”と題して、2人が唄っている同一曲が何曲も取り上げられて紹介されています(ついこの間までは、夢の競演第2弾、“リッキー&クリフ”をやってたですよ!)。リッキーとジョニーの「ジングルベル」、甲乙つけがたい出来です。ぜひ覗いて見て下さい

ジョニーがらみのクリスマス・ナンバーで、You-tubeで聴ける、お勧めの曲を二つ(以前にも紹介しましたけれど)。いずれも比較的最近(1990年代末)のものです。「We Can Make It」 Johnny Tillotson-Brian Hyland-Tommy-Roe。デズニー動画「赤鼻のトナカイ」の挿入曲で、You-tubeでは何種類もがアップされていますv=apvFYoeSvS4





もうひとつは、「橇滑り~S 」。こちらは、ジョニー・ティロットソン/ブライアン・ハイランド/フレディ・キャノンFreddyCannonの3人組みで、Cannonのクリスマス・アルバムに収録されています。シンプル極まりない動画だけれど、最高に楽しい。(そり滑り)

今、那覇市内のレストランで昼食中なのですが、Beach Boysの「リトル・セイント・ニック」が流れて来ました。1963年末のクリスマスチャート第3位にランクされた、ニュー・クリスマス・ソング、といっても、今や完全なスタンダードナンバーです。




最近、街角から流れてくるクリスマス・ソングの中に、なぜか讃美歌が少ない(すこし前までは「きよしこの夜」「アデステ・フィデレス(神のみ子は今宵しも)」「もろびとこぞりて」など有名讃美歌が、他のクリスマス・ナンバーに混じって流れてきたのだけれど)のが、少し残念な気がしますが、クリスマスの音楽は、讃美歌にしろ、ポップ・スタンダードにしろ、新たに作られるニューソングにしろ、言葉では表現し難い独特の共通イメージがあります。

僕にとってのクリスマス音楽と言えば、何と言っても、ベルト・ケムプフェルト。1964年のクリスマス・アルバム。僕の中では、Bert Kaempfertの音楽は、別格中の別格で、No.1は、自作のクリスマス・ソング「トイ・パレード」。ということは、この曲は、僕が世の中で一番好きなもの、ということになります。

ぐっと新しいところでは、マライア・キャリーも隠れファンなのです。彼女のクリスマス・アルバムも大好きです。繰り返し言うけれど、クリスマスの音楽には、時代や作者・演者のポジションに関わりなく、どれも言葉では表し難い、特有の共通テイスト・薫りが漂っています。

ところが、日本製の“ニュー・クリスマス・ソング”には(有名曲も含め)、そのティストが全く感じとれない。僕には好きになれません。

あれあれ、名護・辺土名行きのバスに間に合わなくなってしまいそうです。最後にビーチ・ボーイズのクリスマス・アルバムの話題に戻って、今年の締めくくり。アルバム中の屈指の名曲が、アル・ジャーディンのリード・ボーカルになる「クリスマス・デイ」。

そのアルが、Beach Boysデビュー50周年を記念して、年明け2月早々、来日します。
何としてでも行くぞ!コットン・フィールズ聞きたい!(CCRとBB5で共にヒット、アルの唄うBB5盤はイギリスで2位)

アルとカールが、BB5の屋台骨を支えていた、というのは前にも言いましたね。デニス、カールは亡くなったのですが、残ったブライアン、アル、マイク、ブルースで、もう一度グループを復活して貰うのが、ファンの夢です。

アル、ブライアン、マイク(&ブルース)と3分裂してしまいましたが、自分の息子たちや、ブライアンの娘たちを率いて活動を続けるアルのグループが、最もビーチ・ボーイズらしい存在だと、僕は(たぶん多くのファンも)思っています。

でも、芸術派のブライアン、オールデイズのマイクを否定するわけでは決してありません。それぞれの存在無くしては、Beach Boysは存在し得なかったのです。

考えて見れば、ブライアン、マイクはもとより、カールもアルも、ブルースも、(ちょっと特殊な立場ではあってもデニスも)、誰もがボーカルのリードを取り(ブライアンもマイクもアルもカールも、作曲だけれどブルースも、ナンバーワン・ヒットあり)、名曲を作っているという、そこがBB5の凄いところだと思う。

皆が(ことにマイクが)意地を捨てて一緒にやればいいのですが(笑)。アルが一番大人ですから、ここは彼には意地を捨てて貰わなければ。また4人でやってほしい。デヴィット・マークスも、ディーン・トーレンスも、初期メンバーだったグレン・キャンベルも、カール&パッションズに参加した南アフリカの2人も、それに「カルフォルニア・コーリング」で素敵なドラムプレイを披露しているリンゴ・スターも、、、、。

夢は広がります。


これから、ヤンバル&伊平屋島へのヘツカリンドウ探索に向かいます。インターネットが難しくなるので、今年のブログは終了します。

あや子さん、有難う。読者のみなさん、有難う。探索結果の報告は正月明け、10日頃には出来ると思います。

メリークリスマス。そして良いお年を。



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朝と夜のはざまで~My Sentimental Journey(20’s meets 60’s)・2

2010-12-24 13:17:27 | 雑記 報告





どうやら、パソコンが末期症状です。あちこちに文字が飛び回って、(購入時からその傾向はあったのですけれど)いよいよ収拾がつかなくなってきました。このまま回復せねば、当分のあいだ執筆は無理。せめて明日(一応、「ElvisとBeatlesのはざまで」を予定)までは続けたいのですけれど、今回が最後になる可能性もあります。

実のところ、スケジュールを変更したまま、ヘツカリンドウの話題を、もう2~3日引っ張ろうと目論んでいたのです。でも、スケジュール通り「朝と夜のはざまで」をアップすることにしました。昨日(12月22日)、千明さんの河野弁護士と会談。これまでにも河野氏には、“ブログ「朝と夜のはざまで」を、ぜひ見ておいて下さいね”と言っていたのですが、どうやら見てくれてはいなかったらしい。河野氏曰く、“職務怠慢ですね、今後は、ちゃんと見ておきましょう”とのことでしたので、予定通りにアップします。

河野氏との会談(帰京時には、ほぼ定期的に、解決策を探るべく会合を重ねているのですが、平行線のまま、そのことについては後述します)のあと、朝倉書店での打ち合わせ、その後、久しぶりに自宅(青梅市河辺)に帰りました。リュックの中の荷物を半分ほど出して軽くしようとしたのですが、伊平屋島の役場でのアドバイス用(自然観察ルートの植物名プレートを作ります)に必要な植物図鑑2冊を入れると、逆に前より重くなってしまいました。

ということで、今夜、とんぼ返りで沖縄へ。アメリカでも中国でも東南アジアでも、自前のノートパソコンを使ってのワイアレスインターネットが容易にできるのだけれど、日本に帰ってくると、出来なくなってしまいます。日本のみ(?)有料システムになっているらしく、金額の大小にかかわりなく、クレジットカードの引き落としでなければ、使用できなくなってしまっているのです。だから、カードを持たない僕には、ネットを利用することが出来ません。日本で、唯一の(?)例外が沖縄。ここでは諸外国と同じく、無料でワイアレスが使えます。だから、ある意味インターネットをしに、沖縄へ行くようなものなのです(苦笑)。




思えば、一昨年の12月23日、神戸港を出港、新鑑真号で上海へ向かってから、丸2年が経ったわけです。その間、ほとんど(南九州や沖縄を除き)日本には帰っていません。むろん一人暮らしで部屋には誰もいないわけですから、毎月の家賃を支払うのは無駄な限りです。でも、資料やフィルムの保管のことを考えれば、他に方法はありません(引越し代もばかにならないし)。

南西諸島の離れ島や、中国(東南アジアを含む)の辺境で、何をしているかと言えば、表向きは、動植物の調査や撮影を行っている(実情はそのための予算などの遣り繰りに終始していると言ったほうが良い?)わけですが、本当の目的は、千明さんに対しての“復讐”の計画を練っているのです(笑)。“復讐”は、ちょっと物騒ですね。一応冗談ということにしておきましょう。まあ、そのような想いでいる、と理解して下さい。前回の「朝と夜のはざまで」を読んだ、20数年前の片思いのMIZUHOさんからも、千明さんを集中攻撃するのは可哀そう、お手柔らかにね!という旨のコメントが来ていたことですし、なるたけ穏やかに行きましょう。このブログも「マイ・センチメンタル・ジャーニー」の副題を併設して、“千明さんとの対決色”を薄めるようにしているのです。

僕のライフワークは、一言で言えば「生物地理」という分野に収斂されるのだと思う。今、最も興味があるのは、“空間のフラクタル”に対応する、“時間のフラクタル”(そんな言葉があるのかどうかは知りません、僕が勝手に作った言葉)ともいうべき現象。それに関わる様々な題材のうちのひとつが、「大和と琉球と大陸のはざまで~屋久島はどこにある?」というわけです。

趣味は、アメリカンポップス。「ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代」。何としてでもJohnny本人に会いに行き、直接インタービューを行わねばなりません。

そして人生をかけているのが、(「朝と夜のはざまで」に収斂される)対千明さんの問題。第3者からは、なんでそんな非生産的なことにこだわっているのか、そんなことに、時間や能力を浪費するのは、勿体ない限りではないかと、指摘を受けます。それは良く解る。僕が第三者なら、やはり同じことを言うでしょう。しかし、自分自身にとって、何が一番大事な問題なのか、というのは、人間一人一人で、全て異なるはず。ある人にとってはどうでも良いことでも、命をかけて対侍しなくてはならない場合もあるはずです。




僕にとっては、中国も南西諸島も、チョウもセミもアジサイも、どうでも良いのです。それらは、今後、生きて行くための、バックボーン(“生きがい”のようなもの)です。目的は、千明さんへの復讐(もとい!この言葉が僕の気持を表すのに最も分かりやすいと思うので、ついつい使ってしまうのだけれど、過激な印象を与えてしまうので、余り使わないほうが良いですね、謝罪を引き出すことが出来さえすれば、何も復讐などする必要は無いのです)。残りの全人生を次ぎこんで取り組みます。普通なら、「生きがい=対・人(家族・友人etc.)」で、「生きる目的=仕事(ライフワーク)」なのでしょうけれど、僕の場合は、逆と考えて下さい。

千明さんを誹謗中傷する気持などは、一切無いのですよ。この「朝と夜のはざまで」を記述していくことも、あくまで僕の側における、in-memoriamです。千明さんに恨みがあるわけではありません。彼女の希望を受け入れることで、(僕よりも遥かに様々な可能性に溢れた)これからの人生を応援してあげたいのです。河野氏は、無条件で“許してやってくれ”と。それはやぶさかではないのです。でも、「説明と謝罪」は絶対条件です。それが成されない限り、絶対に許せません。平行線を辿り続けることも、仕方がない。平行線を交える突破口があるとすれば、“説明謝罪の遂行”以外にありません。誠意を伴ったものであれば、方法は河野氏に一任しているのです。

河野氏が様々な側面で躊躇している気持ちは、分からないではないのです。「結果としての時間稼ぎ」もひとつの方法、という旨のことを仰ったように覚えていますが、それはそれで僕も分かるような気がします。時間は、物事に対し、プラスにもマイナスにも作用するのだと思います。プラスとマイナスは、表裏一体かもしれない。ならば、プラスの側面を見つめたほうが良いでしょう。

でも、大きな懸念があります。それは、残された時間。具体的には、僕と千明さんが生きている間に(付け加えれば河野氏も、僕は絶対的に彼を信用しているので、その前提で、今のスタンスをとっています、もし将来、彼が降りることになれば、取り組み方は全く変わってくるかも知れません)問題を解決しなくてはなりません。問題の解決とは、千明さんが今後(この問題に対して)何の心配もせずに自分の人生を生きていけることであり、その条件としての僕への説明謝罪です。

千明さんはともかく、僕の場合は、いつ何時、不測の事態が起こるか、それこそ虎に食われてしまうことだって、不思議ではない
生活を送っているのです。そのことによって「問題の終結」ということだけは、絶対に避けねばならない。河野氏は、そのようなことは考えていない、と仰るのですが、(それが本心としても)現実にそのような結末になってしまう可能性は、大いにあるのです。




話題をがらりと変えましょう。

前にも同じ話をしたのですけれど、世の中にはお金持ちが多いのですね。なんて贅沢なのかと。というのは、ちょっと寒くなると衣類を着込んで、ちょっと暖かくなると、また着かえて、、、、。

僕なんか、1年の大半は、Tシャツ一枚ですよ(だから風邪をこじらせるんだって、と指摘されるかも知れないけれど、僕の風邪は“気管支炎もどき”で、寒さが原因ではありません)たまにワイシャツ、真冬の1~2ヶ月だけジャンパー着用。摂氏15度ぐらいから上は、Tシャツ一枚で充分なのではないかと思うのです。10度~15度あたりで、他に1枚、10度以下でジャンパー、その3つでこと足りないでしょうか。2℃や3℃の気温の変化で、いちいち着変えていたら、40度の灼熱の地や、氷点下寒冷地(普通の人はそんなところに行かないよ!と言われれば、身も蓋もないけれど)に行った時には、一体どうなるのだろう、と。

ともかく、100円ショップで買った、Tシャツとブリーフ、ホンコンで買ったズボン(日本円換算約500円)、マニラで買ったサンダル(日本円換算約100円)、それが今、身に付けている全てなので、僕の値打ちは800円の男、ということになります(たまに100円の眼鏡をかけている)。もっとも、貰いものでも拾いものでも無くて、お金を払って買っているわけですから、贅沢と言えば贅沢なのかも知れません。某編集者のように、自宅の水道は使わずに公園に水を汲みに行くとか、スーリンみたく、下着や靴下やバッグは、あちこち修理しながら何年も使っている、と言うのに比べれば、100円ショップでの買い物といえども、贅沢なのかも知れません。ちなみに、スーリンは、食い物だけには、お金を使うことを厭わない。一緒に食事に行くと、100元(日本円で1400円程)は平気で使ってしまう(たいてい支払いは僕なのだけれど)。他のことに1元でも余計に使うと、カンカンに怒るのですが。節約を心がけていても、食事は例外、というのは中国人の特質なのか、女性の特質なのか。

10年ほど前、何着かまとめ買いしたので、ジャンパーは持っています。そして、外出時は、常にこれを持ち歩いていて、時々着てもいます。寒いから着るのではありません。こんなのを着ていると、暑苦しくてたまらない(ちょっと急ぎ足で歩いたりすると、汗びっしょりになってしまう)。でも、みんなが厚着をしている時に、僕一人だけTシャツ一枚、というのは、みっともないというか、(全体の空気を乱すようで)申し訳ないというか、、、、。みんなに合わせねば、という想いで、目立つような場所では、いちいちジャンパーを羽織っているわけです(それと、寒くないですか?と言われた時のリアクションが面倒だし)。僕なりに、気配りはしているのです。

以前、千明さんとの関係が良かった頃(関係悪化後も問題決裂直前まで)、延ばし放題の髭や髪の毛や、汚らしい(“汚ない”のとは違いますよ!洗濯はきちんとしています)服装を気にして、たびたび意見を聞いたのですが、答えはいつも「そんなこと気にする必要は全くありません、青山さんは青山さんだから良いのです」。そんな風に言ってくれたのは、千明さんだけです。まあ、その分、嫌われてしまったら(というか、問題が決裂してしまえば)、とことんなんだろうなあ、、、、。別にそれはそれでいいのですが。

友子さんからは、髪の毛と髭(僕は髭が薄いのでそれほど目立たないはずなのだけれど)を同時に伸ばすのは御法度、と言い渡されていました。スーリンは、髭が伸びていると会ってくれない。スーリン曰く、日本人はすぐに分かる、汚らしい無精ひげを生やしているから。お前に言われたくないって!




再び突然、全く無関係な話題を。さっき買った新聞を捨てようとしたら、ある本(「まさかジープで来るとは」せきしろ・又吉直樹著、幻冬舎)の広告文が目に止まりました。
「犬が空を見ているように見えるが真偽はわからない」
自由律俳句だそうです。いいなあ、この言葉。新聞を捨てる前に、メモっておきましょう。

今日24日は、名護から辺土名に向かいます。先週もこの辺りを徘徊していたのです。ちょうど菅さんが辺野古の上空をヘリで視察していた頃、ほど遠くない石川岳に登っていて、彼が県庁に戻った頃、僕もその前を歩いていました。

政治に関しては、全く音痴であるという前提で、意見を述べさせて頂きます。

沖縄県民の憤懣が、本来ならば日本全体の負担とするべき問題(米軍基地)を、沖縄に一方的に押しつけていることによるもの、というのは、実によく分かります。問題は、(沖縄以外の地域の)日本国民の自覚が無いこと(観念的には理解していても、いざ自分のところが受け入れるとなれば拒否の姿勢を示すという、いかにも日本的な御都合主義)に尽きると思います。日本国内に米軍基地が必要か否かの問題は、とりあえず保留するとして、もし(条件付きを含めて)それを必要とするなら、国民全体で負担を負わねばならぬのは明白です。例えば、北海道・東北・関東・東海・北陸・近畿・中国・四国・九州、そして沖縄の10地域が、均等に分担して受け入れる。でも、そうはならない。自分(たち)さえ良ければ、という日本人のヤナところが、丸見え。

沖縄の人々に対しても、疑問が残ります。

僕は菅さんは大嫌いです。でも、新聞で読んだ限り、辺野古への米軍基地移転案に関わる菅さんの発言は、まともな発言だと捉えました。好き嫌いとは別次元の問題です。その上で、良いと思うことは良い、悪いと思うことは悪い、と考えて、何がいけないのでしょうか? でも、どうやらいけないことらしいのですね。世の中こぞっての空気と別方向の発言をすることは。

菅総理来訪の翌日、再び辺土名に向かい、帰りは名護までヒッチ。車を運転していた、孫が7人いるという50代のオバサンの話です。メディアの報道では“県内移転絶対反対”と、地元の大多数の人が唱えていることになっているでしょう? でも私はそうは思わないし、回りの人々も、そうは思っていない人が多いように思う。なのに、地元民こぞって反対しているような報道、何だか違和感がある、と。実は彼女だけではなく、伊平屋や辺土名や名護で出会った何人かの人からも、似たニュアンスの意見を聞いていました。

オバサン曰く、アメリカ兵でなくとも、(地元の人によっても)事件は起こる時には起こる。アメリカ兵が何かをしでかした時だけ、首をとったように大騒ぎ。アメリカの人達によって齎されたプラスの要因も沢山あるはずなのに、そのことは取り上げずに、マイナスの要因ばかり、これでもかと騒ぎ立てる。なんだか変だと思う。

物事には、プラスとマイナスの両面があるのだと思います。でも、メデイアがマイナス面に注視することを選んだら、国民もこぞってそれに従わねばならない。自分の考えは2の次ぎです。いや、無意識的にメデイアによる洗脳を受けているのに、それが自分の考えだと思ってしまっている。米軍基地、沖縄県内移転には、地元民こぞって反対。逆の意見は、“NG”なのです。障害者の方への非難をはじめ、メディアにおけるNGは、いくらでもありそうです。そして、“戦争反対、平和を”というのは、絶対的な“正義のメッセージ”、これに異を唱えることは出来ません。

中国は、本気で沖縄(南西諸島)を狙っていますよ!石油とか尖閣とかは、些末な問題。アメリカや日本などの、ほとんどの先進諸国に存在し、中国には全く無いもの、それは外洋に面した領土です。将来、有事(諸大国との紛争)が起こった時には、大変な弱点となります。(「台湾」が実質「中国」では無いという前提で)東シナ海も南シナ海も出口を塞がれている。必ずや、突破口を、本気で狙いに来ます。沖縄からアメリカ軍が撤退すれば、中国にとっては、待ってました!というところでしょう。中国の意のままにことが進んでしまいかねません。アメリカと共存し続けるか、早晩中国に占領されてしまうか、沖縄の人々は、どちらを選ぶのでしょうか?




「朝と夜~」の話をしていくつもりが、ずいぶん逸れてしまいました。

メリー・クリスマス!







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大和と琉球と大陸のはざまで~屋久島はどこにある?(4)

2010-12-23 14:32:47 | 屋久島 奄美 沖縄 八重山 その他
ヘツカリンドウ7つの謎 3












1段目:屋久島産(モッチョム岳山麓2006.11.9)、2段目:沖縄伊平屋島産(2010.12.14)
【色調はあずき色(蝦茶色)で、安定的】
3段目:奄美大島産(旧・名瀬市内2007.1.1~3)、4段目:沖縄本島石川岳(2010.12.18)
【白が基調で、(紫色のアクセントを含む)様々な斑紋パターンが出現する】

注:前述したように、今回観察出来たのは、単一白色個体群産地の石川岳のみで、それ以外の産地における沖縄本島典型個体群(地色青紫タイプを含む多様なバリエーションが出現)を観察することが出来ませんでした。近く再調査に赴く予定ですが、それまでは、沖縄本島産のバリエーションが、様々なブログで紹介されていますので、そちらを参照して下さい。
(例えば「ヤンバルの森に生える植物、その1、ヘツカリンドウ」伊平屋島および沖縄本島での再調査を終え次第、改めてブログの追記更新を行う予定でいます(「7つの謎」はその時に)。


①②③/④⑤
○××/××:大隅半島【南部山地】
×××/▲●:屋久島
○○×/××:奄美大島
○○○/××:沖縄本島A【ヤンバル地域】
○××/××:沖縄本島B (石川岳)
×××/●▲:伊平屋島
【 】は、ネットでの検索。


一般タイプ/花色の基調は白(ごく淡い緑)
①白(ごく淡い緑で蜜腺のみ緑色)
②主に紫色の様々な縁取りや斑紋を有す
③地色が淡い青紫色を帯びる

屋久島タイプ/花色の基調は小豆色(蝦茶色)
④やや淡色
⑤濃色










①~④伊平屋島産









⑤~⑧沖縄本島石川岳産



⑨伊平屋島(賀陽岳)にて。まだ全て蕾です。



⑩沖縄本島(石川岳)にて。花は全部終わってしまっている。









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大和と琉球と大陸のはざまで~屋久島はどこにある?(3)

2010-12-22 13:45:42 | 屋久島 奄美 沖縄 八重山 その他
ヘツカリンドウ7つの謎 2



伊平屋島での本来のテーマは、トカラアジサイ。

トカラアジサイは、野生アジサイの一種で、園芸アジサイの母種であるヤマアジサイ(ガクアジサイほか幾つかの下位分類群を含む)とも交雑が可能な、ガクウツギの一群です。屋久島産のヤクシマコンテリギと統合する見解や、種の範囲を広くとり、(ヤクシマコンテリギ共々)中国大陸や台湾産のカラコンテリギと同一種に含めてしまう(さらには日本本土産のガクウツギとも統合する)見解もあります。僕は、基本的には、統合論者(ランパー)と言って良いのですが、そのための1段階としての細分は必要な過程であると考えているので、ここでは、ヤクシマコンテリギやカラコンテリギやガクウツギと切り離し、(暫定的に)独立分類群トカラアジサイとして話を進めて行きます。

トカラアジサイ(≒ヤクシマコンテリギ≒カラコンテリギ≒ガクウツギ≒ユンナンアジサイ)の分布は、以下の通りです。

本州西部~九州(ガクウツギ・コガクウツギ)
屋久島:ヤクシマコンテリギ(山上部にコガクウツギ)
【種子島には欠如】
三島列島(黒島)
口永良部島
トカラ列島各島(口之島~宝島)
【奄美大島には欠如】
徳之島
沖永良部島
伊平屋島
【沖縄本島には欠如:類縁のやや離れたリュウキュウコンテリギが分布】
石垣島&西表島(ヤエヤマコンテリギ)
台湾(カラコンテリギ)
フィリッピン・ルソン島(カラコンテリギ?)
中国大陸南~南西部(カラコンテリギ・ユンナンアジサイ)

この分布様式には、どんな意味があるのでしょうか?

それ以前に、伊平屋島のトカラアジサイは、果たして真のトカラアジサイなのか否か。さらには、各島産の比較や、大陸産カラコンテリギ他との比較検討を行う必要があります。その検証が成されていない現時点では、何も答えは出てこないのです。

トカラアジサイの典型を、葉は平滑で大きく幅広く、光沢のある深い緑色、淵の鋸歯は細かく切れ込みは著しくはなく、裏面は紫色幻光を帯びない、と定義しておきましょう。これに当て嵌まるのが、(僕が自らチェックした限りでは)トカラ列島口之島・中之島産(おそらく以南のトカラの島々の個体群も共通する?)。徳之島産も、写真を見た限りでは、これに近いように思われます。沖永良部島産は未詳。口永良部島産は、基本的には口之島産と共通しますが、葉は余り幅広くはなりません(ただし隣接する屋久島のヤクシマコンテリギとは、各形質が明らかに異なります)。三島列島黒島産は、著しくバリエーションに富み、口之島産などに比較的近い葉がやや大きくて丸味を帯びた個体から、(一見コガクウツギを思わせる)極めて小型で、葉幅が狭く、葉縁の鋸歯も数が少なくて切れ込みの深い個体まで、様々です。

伊平屋島産は、葉の幅は広くなく丸味を帯びず、鋸歯もやや深くて、口之島産よりも、どちらかといえば口永良部島産や、(平均的な)黒島産に近いように思われます。より類似して感じられるのは、むしろヤエヤマコンテリギや、台湾&中国大陸産のカラコンテリギのほう。もっとも、夏~冬期の古い葉に拠る印象でしかないので、花期の葉を調べないことには、なんとも言えません。

石垣島・西表島産のヤエヤマコンテリギは、他の各種とは染色体数が異なる、という報告があります。比較対象が、伊平屋島産なのか、(トカラなどの各島嶼産の)トカラアジサイなのか、ヤクシマコンテリギ、台湾や中国大陸産のカラコンテリギ、あるいは日本本土のガクウツギなのか、それらの幾つかを含むのか、全ての近縁集団に対してのものなのか、はっきりしていません。今後の検証課題だと思われます。

伊平屋島のトカラアジサイは、前回(2006.8.26)は1か所で、今回は3か所(役場の方に頼んでおいたら、幾つかの生育場所を探してくれていました)で確認。いずれにしろ今は時期外れで、花はむろん、若葉も展開していないわけですから、晩春~初夏の開花期に、再チャレンジしなくてはなりません。

さて、今回の目的のヘツカリンドウです(詳しくは、「屋久島産と奄美大島産のヘツカリンドウは同じ種なのか?」を参照して下さい)。リンドウ科センブリ属。西日本の草原に生えるアケボノソウや、本州や北海道の高山に生えるタカネセンブリなどに近い種ですが、近縁各種と異なり、根生葉が肉厚で極めて幅広く大きいことが特徴です。

冬に花が咲くこと、その花が小さく目立ちにくいことから、一般には余り存在が知られていないのですけれど、この花のファンは結構多いように思われます。反面、(屋久島産と、その他の集団の)基本的な形質の比較が、全くと言って良いほど成されていないわけですが、その理由は、(屋久島産を除けば)余りにバリエーションが豊かなために、細部の変異にのみ目が行って、基本的な形質を基にした比較に取り組もうとする姿勢自体を、欠いていたのではないかと思われます。その結果、屋久島産の安定的な特徴も、多様な変異のひとつとして、処理されていたのではないでしょうか。



①伊平屋島の位置と地図


②伊平屋港


③中学校と賀陽山

2010年12月13日、4年ぶり2度目の伊平屋島渡島。翌14日、まず、4年前にチェックした、島の最高峰・賀陽山の麓の、トカラアジサイの生育地に向かいました。そこから山頂まで登ったのですけれど、ヘツカリンドウは見当たりません。山頂から引き返し、3分の1程下った辺りで、道の傍らで、葉を数枚付けた貧弱な一株を見つけました。屋久島でも奄美大島でも、生育環境は様々なのですが、ひとつ決まった共通点は、土がむき出しになった崖地や道路の則面ということです。そこで、登山道から少し外れて、急傾斜の崩壊地を探したところ、土上張り付くようにして生える、沢山の株を見つけることが出来ました。でも、100株を超す株の、そのどれもが、花が咲いてないどころか、花序茎さえも見当たりません。探すのを諦めかけた頃、やっと立派な花茎を付けた一株を発見。花序にはぎっしりと花が満載なのですが、残念なことに、まだ全て固い蕾です。その日は、花茎を付けた株は、結局ひとつだけ見つけたのに留まりました。


④賀陽山中腹


⑤賀陽山山頂


⑥山頂から島の南端と伊是名島(伊是名村)を望む。伊是名島は、若い女性に人気、伊平屋島と異なり、ハブはいない。



⑦山頂付近に生えていたリュウキュウテイショウソウ(別称オキナワハグマ、詳しくは三島列島黒島の項で説明予定)。



⑧トカラアジサイ(葉表)。



⑨トカラアジサイ(葉裏)。



前回来島時は、季節が夏だったため、花には出会えなかったのですが、独特の形をした葉には出会った記憶があります。山深い場所ではなく、意外に集落に近いところだったと記憶しています。そこで、前回もお世話になった、村役場の伊礼清氏と上江洲清彦氏に、挨拶がてら伺ったところ、彼らもやはり、役場のすぐ近くで見た記憶がある、というのです。

そこで、翌15日の朝、お二人の案内で、役場裏の駐車場脇で10株程を見つけたのだけれど、花序茎が伸びていたのは、前者で1株、後者で3株。その4株の茎には、数多くの花を付けていたのですが、いずれもまだ硬い蕾で、開花は早くても一週間ほど後と想定されました。でも、別の2つの(なぜかこちらは、ほとんどの花を咲き終えた)貧弱な株に、それぞれ1個の花が、イレギュラーな状態で咲き残っていたのです。そして花色は、まさしく屋久島タイプの小豆色!

とりあえずはなんとか最低限のチェックを済まし、一度東京に帰ってから、満載の蕾が咲き誇る頃を見計らって再渡島すべく、午後の船で島を後にすることにしました。けれども、波が高くて、午後の便は欠航。翌日も欠航し、結局、雨嵐の中、3日間島に閉じ込められる羽目に。一応、翌16日同じ株をチェックしに行ったところ、新たな一輪が咲いていました。そして、離島日の17日朝にも訪ねたところ、さらに一輪が。結局、(曲がりなりにも)5個の花を撮影することが出来たのです。

伊部屋島のヘツカリンドウは、やはりどうやら、沖縄本島を含む、他の大多数の産地の個体とは違って、屋久島産に近い小豆色の花が咲く、ということが、ほぼ確実となりました。



⑩ジャコウアゲハ。暴風雨の中、ツワブキの花に群れていた。



⑪ジャコウアゲハの奄美大島・沖縄本島亜種は、翅が丸味を帯びコンパクトなのが特徴。


⑫ホソバワダン。島での呼び名はニガナ。


⑬アキノノゲシ。


⑭一見ヤクシソウのように見えるけれど、ホソバワダンです。この3種の関係に尽いては、そのうちに詳しく紹介します。



⑮ニガナのお浸し。中国の“麦菜”は僕のライフワークの一つ。それに繋がる話なので、これもそのうちゆっくりと。

そうなると、屋久島産や伊平屋島産に対応する、バリエーション豊かな、沖縄本島産の一般的個体群も、自分の目で確かめておかねばなりません。お昼前に名護に着き、国頭村に出て、これまでにも度々足を運んだ比地大滝への道筋を子細に調べて見たのですが、見つからなかったものですから、途中にある環境庁保護センターを尋ねて見ることにしました。そこで知り得た情報は、ヤンバル北部の山、西銘岳420mの頂上付近、それと沖縄中部にある石川岳202mが良いのではないかとのこと。前者はバリエーションに富み、地色が薄紫色の個体も少なくないが、後者は、ほとんどの個体がシンプルな白色個体ということです。一度那覇に戻り、翌18日、那覇に比較的近い石川岳を往復することにしました。



⑯沖縄本島中部の石川岳。標高202mの山とは思えない貫禄です。



⑰石川岳山頂近くに咲いていたオキナワサザンカ。


沖縄本島のほぼ中間地点に位置する石川岳は、200mそこそこの標高が信じられないくらい、豊富な森林に覆われた、良好な環境が保たれた山です。ハイキングコースを管理する青年の家の自然観察官の方に教えて頂いた生育場所には、花茎を付けた多数のヘツカリンドウが群生していました(ヘツカリンドウが見られたのは、ごく狭い範囲のただ一か所だけ)が、伊平屋島の場合と反対に、全ての株が、花をほぼ咲き終えていました。咲き残りの花もぽつぽつとあったので、10個程の花を撮影、全て白一色の、完全な大隅半島タイプです。

となれば、バリエーション豊かな集団も見ておこう、というわけで、帰京当日の19日に、西銘岳へもチャレンジ。早朝6時のバスで那覇を出発、車中5時間、林道を徒歩で3時間、稜線の原生林のトレールを徒歩2時間半、都合11時間近くを往復し、間一髪午後5時15分発の航空便に間に合ったのだけれど、ヘツカリンドウは一株も発見できませんでした。

ということで、帰京後再び沖縄にUターン、伊平屋島共々、再チャレンジを決意した次第です。その報告は、年明けに行うことにして、明日は、ここまでのまとめを行っておきます。


⑱西メ岳を目指して、林道を延々と歩きます。



⑲西メ岳の山頂は5つに分かれていました。







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大和と琉球と大陸のはざまでⅡ~屋久島はどこにある? (2)

2010-12-21 20:52:26 | 屋久島 奄美 沖縄 八重山 その他
 




ヘツカリンドウ7つの謎 1

沖縄県の最北端の島、伊平屋島に行って来ました。1泊2日の予定が、連日の悪天行、船が欠航し、4泊5日の行程となってしまいました。「屋久島はどこにある」は、この後、三島列島黒島の続き、口永良部島、トカラ列島口之島(いずれも主にトカラアジサイとツクツクボウシについての話題)と続く予定なのですが、先に、伊平屋島の報告を行っておきます。

伊平屋島には、今回が2度目4年ぶりの渡島です。そもそも、伊平屋島に注目したのは、トカラアジサイの南限の産地、ということからなのですが、今回の目的は、ヘツカリンドウです。ヘツカリンドウについては、「青山潤三ネイチャークラブ」(一部「青山潤三の世界・あや子版」に再録)に掲載した、「屋久島産と奄美大島産のヘツカリンドウは同じ種なのか?1」に詳しく述べていますので、そちらを参照して下さい。



屋久島産(小豆色で安定的)


奄美大島産(非小豆色で多様)



簡単に言うと、屋久島産だけが、他の地域(大隅半島、奄美大島、沖縄本島など)のものと、明らかに異なります。そして唯一、沖縄本島西北部の離島、伊平屋島産のみが、屋久島産に繋がる形質を有している可能性があります。以前、ネットで「ヘツカリンドウ」をチェックしていた時に、伊平屋島の植物の写真の中に、屋久島以外で唯一「屋久島タイプ」の特徴を示すヘツカリンドウの写真を見かけたからです。

とは言っても、伊平屋島の対岸の沖縄本島産は、大隅半島産や奄美大島産同様に、屋久島産とは全く異なるタイプですし、紹介されたブログ自体がすぐに無くなってしまい、再チェックが出来なかったことなどから、何らかのミスである可能性が強いと思ってはいたのです。

でも、場所が「伊平屋島」となれば気になります。なにしろ、トカラアジサイ(≒ヤクシマコンテリギ)の飛び離れた南限産地であるわけで、この植物も対岸の沖縄本島では欠如して(あるいは別系統のリュウキュウコンテリギに置き換わって)います。そのこともあって、もしかすると、本当に屋久島タイプのヘツカリンドウが生えている可能性があるかもと、調査に向かうことにしたのです。

ヘツカリンドウの生育地は、北限産地(*1)の「辺塚」(大隅半島南部)といい、南限産地(*2)の「辺土名」(沖縄本島北部)といい、「辺境」そのものの地域。撮影には、相当な苦労を要さねばなりません。紆余曲折を繰り返しつつ進めている探索行の、中間報告を行っておきます(*1→正確には甑島、*2→正確には本島中部の石川岳)。

まず、南西諸島の全体像と、伊平屋島の位置関係を。

九州と台湾の間に連なる南西諸島は、大きく3つの地域に分かれます。屋久島・種子島と、三島列島・トカラ列島から成る「北琉球」、
奄美群島と沖縄本島周辺の島々からなる「中琉球」、先島諸島、すなわち宮古島、八重山諸島(石垣島・西表島)、与那国島などからなる「南琉球」です。一般に「琉球」と言う時は「北琉球」を含まず「中琉球」と「南琉球」のみを指すことが多いようですし、行政単位では、「北琉球」と「中琉球」の北半(=奄美群島)が鹿児島県、「中琉球」の南半(=沖縄本島周辺)と「南琉球」が沖縄県です。

生物地理学的には、「中琉球」が、この地域独自の固有的生物を数多く育むのに対し、「北琉球」と「南琉球」は、それぞれ「日本本土」や「台湾」および「中国大陸」などとの、強い結びつきが見てとれます。ちなみに、「中琉球」と「南琉球」は、こと(種形成に至る時間レベルでの)遺存的固有性という視点から見れば、明確に異質です。両地域の間には、一般に信じられているような、生物の固有性に基づく共通性はありません(そのレトリックに対しての問題提起は、拙書「大和と琉球と大陸のはざまで~世界遺産の森・屋久島」に詳しく記述しています)。むしろ、北琉球と中琉球のほうが(極めて複雑ではありますが)地史的な相関性を、より強く備えているのです。

中琉球は、北半部が奄美群島、南半部が、沖縄本島とその周辺諸島(本島南西部の慶良間諸島・粟国島・久米島などと、北西部の伊是名島・伊平屋島)から構成されます。沖縄本島は、地形・地質や生物相から見て、さらに北部と南部に大別出来ます。大雑把に言えば、ちょうど屋久島と種子島がくっついた関係に見てとって良いかも知れません。那覇市などを含む南部は、種子島同様に平坦で、住居地や耕作地として、ほぼ開発され尽くしています。一方、北部は山岳や森林に恵まれ、いわば屋久島に相当する地域で、重要な生物の多くは、この一帯を中心に生育・棲息しています。

北部は、更に2つの地域に分けることが出来ます。ひとつは、島の南部からそのまま北へ延びる“ヤンバル”と呼ばれる地域(行政上は、大宜味村・国頭村・東村)で、本島最高峰の与那覇岳(503m)を擁しています。もうひとつは、標高453mの八重岳を擁する、西へ丸く半島状に張り出した地域(行政上は、本部町・今帰仁村)で、その先に、伊是名島、伊平屋島が続きます。両地域の接点が、名護市です。本島南部と合わせると、おおむね“y字型”を示す、と考えて良いでしょう。

南西諸島の生物相を考える際、忘れてはならないことは、空間的に示された現在の様相のみに囚われることなく、時間軸を伴った、進化の大きな流れの中での一環としての“今”を把握する必要があると言うことです。私たちの眼前に示されている類型は、様々な時代の様々な組み合わせのひとつの断片でしかありません。それを絶対的な類型として答えを決めつけてしまうことは、大きな過ちに繋がりかねません。それぞれの島の互いの相関性は、必ずしも、距離や順列、あるいは地史などに基づいた解析だけでは測り知れない、非常に複雑な入り組み方をしている、ということを、肝に銘じておかねばならないのです。

そのような前提で(ということは、無数に考えられる可能性のうちの、ひとつの組み合わせの類型として)、大雑把に南西諸島各島(南琉球を除く)の相関性を考えると、島々は東西(外内)2つのライン上に連なっている、という見方も出来ます。ひとつは、種子・屋久-奄美-沖縄(ヤンバル)のライン、もうひとつは、三島・トカラ-硫黄鳥島-伊平屋島(-本部半島?)-久米島のラインです。

東(外)側の、沖縄本島(ヤンバル)のすぐ北に位置する島が、与論島。西(内)側の、久米島・粟国島あるいは本部半島から北に続く島が、伊平屋島。行政上は鹿児島県の南端となる与論島が、(一般の人々が感じるであろう)典型的な沖縄の島であるのに対し、行政上は沖縄県の北端となる伊平屋島は、最も沖縄らしからぬ沖縄の島、と言えるように思われます。“沖縄らしからぬ”というのは、観光的な面で、リゾート化していない、という点も、大いに関与しているでしょう。島が平旦でなく、山が多い(沖縄では珍しく連峰を成しています)ということが、リゾート化を阻んできた要因の一つかとは思います。でも、海は、他のどの島にも負けぬほど美しいのですよ。

一方、自然(生物相)という観点から論じると、沖縄の貴重な生物の大半は、ヤンバル地域に集中しています。海を挟みヤンバル地域に対応して位置する伊平屋島は、島の規模から言えばヤンバル地域に遥かに及ばず、よって育まれる生物相もずっと単調ではあるのですが、子細に見渡せば(ちょうど、屋久島と口永良部島の関係のごとく)互いに異なるファウナ・フロラを持っていることが知れます。先に記した「必ずしも、距離や順列、あるいは地史などに基づいた解析だけでは測り知れない、非常に複雑な入り組み方」を、如実に示しているのです。



伊平屋島の最高峰、賀陽山294mから、島の北半部を望む。







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図鑑【未完成】:中国(および周辺地域)の野生植物 (27)

2010-12-20 11:16:19 | その他の植物
中国のレンゲソウ類7 雲南③


お詫びのお詫び

沖縄での滞在が(船の欠航などにより)予定よりも長引いたこともあって、「中国(および周辺地域の)野生植物~レンゲソウの仲間」を今日20日まで延長掲載することになりました。事後承諾となってしまいますが、18日の「中国旅行情報」、19日の「中国(&台湾・南西諸島の)セミ」、20日の「日本および近隣地域の野生アジサイ」、21日の「中国(および周辺地域の)蝶」、22日の「中国(および周辺地域の)野生植物」は、中止し、後日掲載となります。一応、21日、22日は「屋久島はどこにある?伊部屋島~ヘツカリンドウの謎」をお届けする予定、23日「Johnny Tillotsonの時代」、24日「朝と夜のはざまで」は、今のところ予定通り掲載、その他の新たなラインアップは、追って報告致します。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。




今回紹介する種のいくつかは、ゲンゲ属ではない可能性があります。




28 2010.6.12 雲南省梅里雪山(雨崩村)標高4000m付近。








29 2010.6.12 雲南省梅里雪山(雨崩村)標高4000m付近。




30 2009.6.14 雲南省白芒雪山標高4200m付近。




31 2005.6.22 雲南省白芒雪山、標高4200m付近。




32 2005.6.18 雲南省香格里拉碧塔海、標高3500m付近。




33 1995.7.31 雲南省玉龍雪山、標高3200m。






34 2005.6.18 雲南省香格里拉碧塔海、標高3500m付近。
通常は青花、稀に白色の花。











35 2006.10.7 雲南省高黎貢山~謄沖。標高1800m付近。
ハギに近いグループ?高黎貢山西麓のイラワジ河(支流龍江)河岸の水田の畔に、晩秋普通に見られる花。大きさ、花序の形状、花色などに変異多し。35-4の左の花は、やはりこの辺りの畔に最も多く見られるツユクサ科の雑草。







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図鑑【未完成】:中国(および周辺地域)の野生植物 (26)

2010-12-19 14:34:13 | その他の植物
中国のレンゲソウ類6 雲南②




24 1995.5.03 雲南省大理蒼山。標高2600m付近。A.bhotanensis。













25 2009.6.12 雲南省梅里雪山(雨崩村)。氷河末端周辺の草地。標高4000m付近。




26 2010.6.15 雲南省白芒雪山。標高4200m付近。







27 2010.6.15 雲南省白芒雪山。標高4200m付近。18と同一種である可能性大。









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図鑑【未完成】:中国(および周辺地域)の野生植物 (25)

2010-12-18 14:37:38 | その他の植物
中国のレンゲソウ類5 雲南①



今回紹介する3集団(3種?)は、第1回で紹介した、3(湖北省恩施市近郊産)と共に、日本産に最も関係の深い個体群と考えられます。







13 1/2 1995.4.14 雲南省紅河流域南側山地(金平)。
   






3/4 2009.3.27雲南省紅河流域北側山地(〇〇)。

花は均等に淡い赤色。生育地は、山上の天然放牧地(金平)、山間の小集落の路傍(〇〇)。






14 1/3 1995.5.12雲南省大理市。
   





2/4 2009.3.27雲南省大理市。
   







5/6 2004.3.26雲南省謄沖市。
花は白色で、薄っすら赤色味(稀に黄色味)を帯びます。生育地は、都市の近くの水田(謄沖)や畑(大理)の畔道など。









15    2006.5.12 雲南省高黎貢山。
小型で、花序の花は疎で華奢。花色は淡色。山上の原生林中の湿地(天然放牧地周辺)に生えています。







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図鑑【未完成】:中国(および周辺地域)の野生植物 (24)

2010-12-17 10:33:41 | その他の植物
中国のレンゲソウ類4 四川省②





以下、ゲンゲ属かどうか、責任は持てません。




6 2010.7.30 四川省来金山。標高約3800m付近。






7 2010.7.31 四川省四姑娘山。標高4700m付近。




8 2005.7.04 四川省雪宝頂。標高4000m付近。





9 2005.7.04 四川省雪宝頂。標高4000m付近。






10 2005.7.04 四川省雪宝頂。標高3500m付近。




11 1989.6.22 四川省雪宝頂。標高4200m付近。




12 1995.8.07 四川省雪宝頂。標高3500m付近。
(11と12は、たぶんゲンゲ属)




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図鑑【未完成】:中国(および周辺地域)の野生植物  (23)

2010-12-16 21:02:37 | その他の植物
中国のレンゲソウ類3 四川省①















7 2009.7.03 四川省海螺溝。ミニャコンカ(7556m)の氷河末端のモレーン上に、幅1m前後の円形に広がる群落を多数形成。日本産レンゲソウに比較的近い種と思われます。





8 2009.7.03 四川省海螺溝。7と同じ場所に生育。数は少ない。







9 2010.7.24 四川省塔公~八美。標高約4000m。







10 2010.7.24 四川省塔公~八美。9と同じ場所。





11 2010.7.24 四川省塔公~八美。ゲンゲ属ではないと思われます。





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生態図鑑:中国(および周辺地域)の蝶 (22)

2010-12-15 13:12:13 | チョウ


レンゲソウの一種で吸蜜するヒメシジミ族4種








6b-1~3 2010.4.7 陝西省秦嶺山脈 ミヤマシジミ(またはその近縁種)









6b-4~6 2010.4.7 陝西省秦嶺山脈 ツバメシジミ








6b-7~8 2010.4.7 陝西省秦嶺山脈 ルリシジミ(またはその近縁種)





6b-9 2010.4.7 陝西省秦嶺山脈 ジョウザンシジミ







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図鑑【未完成】:中国(および周辺地域)の野生植物 (21)

2010-12-14 13:13:06 | その他の植物
中国のレンゲソウ類2













4 2010.4.21 甘粛省天水近郊(麦釈山)。







5 2010.4.21 甘粛省天水近郊(麦釈山)。













6 2010.4.27 陝西省秦嶺山脈。



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図鑑【未完成】:中国(および周辺地域)の野生植物(20)

2010-12-13 10:52:57 | その他の植物




中国のレンゲソウ類1



お詫び 


「クリスマス期間限定」として、12月10日から12月25日まで、「青山潤三の世界・あや子版」をお届けする旨、そのラインアップを先週掲載しました。ちょうどこの期間、東京の自室に戻って、写真や資料の整理を行う予定だったものですから、その機会にそれぞれの項目をアップして行こうと考えていたのです。ところが、訳あって未だ沖縄の離島に滞在中、帰京が17日前後にずれこんでしまいました。そのため、各項目とも資料に当たることが出来ず、ことに「中国(&台湾・南西諸島)のセミ」「日本および近隣地域の野生アジサイ」については、充分な資料をすぐに揃えることが叶いません。したがって、15日に予定していた「中国(&台湾・南西諸島)のセミ」と、16日に予定していた「日本および近隣地域の野生アジサイ」は、それぞれ12月27日(セミ)、12月28日(アジサイ)の掲載とさせていただきます(19日の「セミ」、20日の「アジサイ」は予定通り)。その穴埋めの形で「中国(及び周辺地域)の野生植物/レンゲソウ」を、13日、14日、16日、17日、の4回に亘り掲載します。14日の「中国蝶類生態図鑑」は、「レンゲソウの一種で吸蜜するヒメシジミ族4種」として15日に、17日予定の「中国旅行情報」は26日(18日は予定通り)に、それぞれ移動します。

もっとも、この中国のレンゲソウも、いくつかの産地の写真が行方不明となっていて(ことに湖南省恩施産についてはかなりの力を入れて観察を行ったのですが、大多数の写真が見つからないままでいます)、それ以外のオリジナルカットも、手元にはほとんどありません。
手元にあるものも、以前、ブログで発表したものが大半で、幾つかの新しい産地を加え、正方形にトリミングして準備しておいたものが、たまたま見つかったのに過ぎず、系統だてて纏めるには程遠い状況です。ということで、これまでの「中国(及び周辺地域)の野生植物」
同様、今回は単なるスライドショー的な紹介(将来改めて詳細な  に取り組む)ということで、ご了解頂ければ、と思っています。
(注:以前に紹介した写真もかなり含まれていると思われます。また、紹介する写真の全てがレンゲソウ属であるとは限りません、類似の別属腫も混じっている可能性がありますので、御承知おき下さい。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・












1 2009.4.7 浙江省舟山島。日本と同じタイプ。








2 2005.4.19 広西壮族自治区猫児山。日本と同じタイプ(ダイコン畑の中に点在)。












3 2009.5.4 湖北省恩施市近郊。この地域の白花種は非常に興味深い(日本産と同じ赤花種も混在)のですが、大半の写真が行くえ不明で見つかりません。見つかり次第、改めて紹介していく予定です。



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ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代 (19)

2010-12-12 15:42:47 | アメリカン・ポップスearly60’s
(消し去られた60年代初頭のアメリカン・ポップス史)

昨日の「朝と夜のはざまで」で、夢の話題を取り上げました。Pops黄金期には、「夢」をモチーフとした幾多の名曲があります。代表的な数曲を紹介しておきましょう(1957年~1970年)。

●夢を見るだけ(All I Have To Do Is Dream)
1957年 The Everly Brothers Pop 1位/CW 1位/RB 1位
1961年 The Everly Brothers Pop 91位
1963年 Richard Chamberlain AC 6位/Pop 14位
1970年 Glen Campbell & Bobbie Gentry AC 4位/CW 6位/Pop 27位
(1994年にPhil Everly & Cliff Richard盤がイギリスのみでヒット)

●夢見る瞳(Dreamy Eyes)
1958年 Johnny Tillotson Pop 63位
1962年 Johnny Tillotson Pop 35位
1969年 Brian Hyland (non-hitですが、素晴らしい出来です!)

●ドリーム・ラバー(Dream Lover)
1959年 Bobby Darin Pop 2位
1964年 The Paris Sisters Pop 91位
(Rick Nelsonで1979年にCW 29位/AC 59位、86年にCW 88位)

●ジャスト・ア・ドリーム(Just a Dream)
1959年 Jimmy Clanton RB 1位/Pop 4位
前回までの「ElvisとBeatlesのはざまで」で紹介出来なかった「狭間のシンガー24人衆」5人のうち、時間的制約で紹介出来なかった4人を除く、唯一人CDの未入手による未紹介歌手が、Jimmy Clantonです。1940年ルイジアナ州生まれ。1959年に自作の「ジャスト・ア・ドリーム」が大ヒット。翌60年の「Go, Jimmy, Go」、63年の「Venus In Blue Jeans」のトップ10ヒットを含め、11曲のPopヒットを持っています。他の24人衆の多くに比べれば、ヒット曲の数は多いとは言えませんが、「ポップス黄金期」すなわち「ElvisとBeatlesの狭間の世代」を代表する歌手であるともいえます。今回、You-tubeで多くの曲を聞き得たこと、そしてリアルタイム聴いていた当時のアルバム収録の曲の印象から、その思いを強くしています。そのアルバムに収録されていた、僕が当時大好きだった一曲「A Million Drums」がYou-tubeにアップされていました。40数年ぶりに聴いたのだけれど、まさに「ポップス黄金期」のエッセンスがギッシリの素敵な曲です。バックに展開する画像がまた素敵、ティーンアイドル時代のBobby Darinとの2ショット、最近のJonny Tillotsonらとのスナップ、あと、ClantonやJan & Deanに加え、なぜか“Masaaki Hirao”の顔写真が載った講演パンフ、、、楽しさ満載です。

●夢に見る恋(Dreamin’)
1960年 Johnny Burnette Pop 11位

●夢のボート(Dreamboat)
1961年 Connie Francis Pop 14位

●夢見る乙女(Dream Baby)
1962年 Roy Orbison Pop 4位

●夢の中で(In Dreams)
1963年 Roy Orbison AC 3位/Pop 7位/RB 19位

●ドリーマー(The Dreamer)
1963年 Neil Sedaka Pop 47位

●夢の枕を(Send Me The Pillow You Dream On)
1958年 Hank Locklin CW 5位
1960年 The Brouns CW 23位/Pop 56位
1962年 Johnny Tillotson AC 5位/CW 11位/Pop 17位
1965年 Dean Martin AC 5位/Pop 22位



≪2010.7.24 四川省塔公~八美≫

「夢」「Dream」と並んで、アメリカン・ポップス邦題の定番と言えるのが、「涙」「悲しき」、原題だと「Cry」「Lonely」「Blue」といったところでしょうか。50年前のアメリカの若者達は、夢を見つつ、悲しくて、淋しくて、一人ぼっちで、涙を流して泣いてばかりいたわけです。

ここでちょっと、話題を変えます。ご本人たちには、迷惑なことと思いますし、単に先入観による思い込みであることも確かなのですけれども、作者名の類似と、作品が醸し出す雰囲気というか全体のイメージが、何となく共通するように感じられる、ということが、少なからずあります。

僕自身のことで言えば、一字違いの「青山潤」という若手作家がいます。東京大学海洋研究所の気鋭の研究者(僕より19才も下)で、ウナギの分類や生態について著した「アフリカニョロリ旅」という好著で知られています。名前が似ているだけでも紛らわしいのですが、対象への関心の持ち方が実に良く似ている。互いの著作物を同一人物が手掛けたとしても、決して不思議ではないのです。むろん別人ですよ(笑)。混同された場合、僕は光栄に思いますけれど、向こうはさぞかし迷惑に思っていることでしょうね(笑)。

名前に「潤」が付くのが、「高野潤」と「斎藤潤」。ともにベテランのアウトドアー系作家で、高野氏は南米、斎藤氏は離島がメインテーマです。高野氏は僕より一つ年上、平凡社の土居氏とも親しく、彼からよく話を聞かされています。興味を向ける対象がとてもよく似ている、と言うとやっぱり向こうにしてみれば迷惑でしょうが。土居さんが担当した、平凡社新書「アマゾン源流“食”の旅」は、とても楽しく読ませて頂きました。斎藤氏は僕より6つ年下、光文社新書「トカラ列島~絶海の島々の豊かな暮らし」などの好著があり、その守備範囲は僕とかなり重なります。

さて、僕がらみのことはともかく、メジャーなところで村上春樹と池澤夏樹(池上冬樹という評論家もいるけれど、2人をパロッた名、ですよね?)。アカぬけしているというか、汗臭さを感じないというか、日本語よりも横文字が似合いそうな、良い意味での軽く無機質的な雰囲気が、共通するように思うのですけれど。大作家(昔の表現なら文豪)に素人がこんなことを言っちゃいかんですが。

池内紀と内田樹。この2人も以前僕は混同してしまっていた。ドイツ文学とフランス文学、研究者で評論家でエッセイスト、そして、ともに兵庫県に縁の深い方々です。ちなみに、上記2人を併せ、4人とも僕と同世代人と言っても良く、最年長の池内紀氏が1940年生まれだから僕より8つ上、最年少が1950生まれの内田樹氏で僕より2つ下。

池内紀も内田樹も、専門分野に留まらぬマルチな創作活動を展開し続けていますが、殊に内田樹は、このところ、あちこちのメディアに引っ張りだこ、氏の著作物をまともに読んだことのない僕は、本当にそんなに凄い人なのか?単にメディアに神輿を担がれているだけではないのか?という疑念も持っていたのです(もっとも、やはりメディアに引っ張りだこの、A.I.氏や、K.M.氏に対するような、胡散臭さを感じることは、始めからなく、直感的に信頼を感じ取ってはいましたが)。

で、「Johnny Tillotson~涙くんさよなら」をネットで検索していた時、意外にも出てきたのが、内田樹の以下のコメント。いや、凄い!見事というしかありません。僕などとは実力が違いすぎます。まさに、僕が言いたくて、でも表現力が及ばず、くどくどと言い続けて、結局言い得ないでいる内容を、一発で表現してしまっている。

内田樹の研究室 
2004年05月08日 可傷性と鼻声 
【以下、一部を抜粋して紹介させていただきます】

Take good care of my baby (Bobby Vee)/Crying in the rain (The Everly Brothers)/若い人は想像しにくいかもしれないけれど、1964年までのアメリカン・ポップスの男性歌手のクルーナー・タイプの発声は、メロウでウィーピーであった。1960年代の前半まで、アメリカの男性アイドル歌手は、すぐに「べそべそ泣く」タイプの楽曲によって世界を席巻していたのである。ジョニー・ティロットソンは『涙くん、さよなら』で「だから、しばらくは君に会わずにいられるだろう」と歌った。ということは、「しばらく」以外の時間、ジョニー君はべそべそ泣いて人生を過ごされていたのである。/1955年から1963年まで、つまり朝鮮戦争の終結からケネディ暗殺までの時代が「the Golden Age of American Pops」である。/それはアメリカが名実ともに世界最強国・最富国であった時代であり、その時代はアメリカの男たちが自分の弱さを平気で示すことができた幸福な時代であった。

1964年のブリティッシュ・インヴァージョンからあと、アメリカの男性歌手は前ほど気楽には泣かなくなった(例外はビーチボーイズの女性的ファルセットだけだ)。/それはアメリカが先の見えないベトナム戦争に踏み込んでいった時期と符合する。/3曲目から後はアメリカの「鼻声」がハイスクールボーイの気楽なすすり泣きから、もっと深い傷に注ぐ涙に変わった時期のものである。傷は日常生活のささやかな気づかいによっては癒されないほど深くなり、その傷あとからはじくじくと血がにじみ続けるようになった。そして1977年頃を最後に、アメリカの男性歌手は「鼻声」ですすり泣くのを止めた。/それから後、私たちが聴くことになった音楽では、シンガーたちは怒声を挙げ、権利を主張し、罵倒を浴びせ、ついには無機的な機械のように痙攣的な発声をするようになった。

そんなふうにして、「鼻声歌手」たちは音楽シーンから消えていった。それはアメリカの国力が低下し、傷つきやすさを誇示することが、戦略的に許されなくなった時代の始まりを示している。私は男たちが「すすり泣き」をする曲が好きだ。涙を見せることができるのは、強く、優しい男だけである。/もう一度アメリカの男性歌手が「鼻声」で歌う時代は戻ってくるのだろうか?



内田樹の研究室 
2006年04月14日 フェミニンな時代へ 
【この末尾の一節に至る全ての文章も素晴らしい内容なので、ぜひ直接「内田樹の研究室」を訪れ、通読してみて下さい】

共同体が求めているのは「泣くべきときに正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男なのであるが、そのようなやわらかい感受性をもった男性を育てるための制度的基盤を半世紀にわたって破壊してきたことに私たちは今さらながら気がついたのである。
アメリカの黄金時代が、アメリカの若者たちがすぐにべそべそ泣く時代であったように(ジョニー・ティロットソンとかボビー・ヴィーとか、泣いてばかりいたぜ)、日本はこれから「泣く男」をもう一度つくり出せるようになるまで劇的な社会的感受性の変化の地層を通り抜けることになるであろう。




≪2010.5.5 雲南省下庄~祥雲≫

ということで、「涙」のアメリカン・ポップス1962年度3大名曲(原題にはどれも「涙Tear」は付いていません)。

●涙の紅バラ(Roses are Red My Love) Bobby Vinton (1962年Pop 1位/AC 1位/RB 5位)
●涙のくちづけ(Sealed With a Kiss) Brian Hyland (1962年Pop 3位)
●涙ながらに(It Keeps Right On a Hurting) Johnny Tillotson (1962年Pop 3位/CW 4位/RB 6位)

いずれも62年の夏に大ヒットした、カントリー・バラード・タッチの美しい曲ですが、50年近く経った現在におけるポジションは、それぞれに異なるように思えます。

「涙の紅バラ」は、ポール・エヴァンスの作詩・作曲。文句なく美しいメロディー、美しい歌詞、タイトルに続くリフレイン部分の歌詞は、あのバイロンの詩を基にしています。Paul Evans(1938年ニューヨーク生まれ)は、John D. Loudermilkと共に、僕の大好きなシンガー・ソングライター。ジョニーとも仲が良いようで、ジョニーのH.P.のリンク欄の友人の部に、いの一番に紹介されています。この曲は、次の2曲と違って、意外にカバーが少なく、“ボビー・ヴィントンの「涙の紅バラ」”としての位置付けが、より明白に感じられます。

「涙のくちづけ」は、ブライアン・ハイランドの専属ソングライターとも言える、ピーター・ウデル&ゲイリー・ゲルドの作詞・作曲、カントリータッチというよりも、フォークのイメージが強いようです。曲自体の有名度は、3曲中ナンバー1かも知れません。後に、ゲリー・ルイスとプレイボーイズ(68年Pop 19位/AC 32位)、ボビー・ヴィントン(AC 2位/Pop 19位)の両バージョンでも、それぞれ大ヒットしています。日本では、レターメン盤で69年に大ヒット(アメリカでは65年に発売もノンヒット)。ハイランド盤は、リアルタイムでは、こと日本においては左程ヒットしなかったように思われます。スーリンのfavorite-song(ということは誰かのversion で中国でもヒットした?)、この曲がかかると、反射的に踊りだします(笑)。

「涙ながらに」は、ジョニー自身の作詞・作曲。「涙のくちづけ」が、大衆に広く知られる、ポピュラー・スタンダードとなっているのに対し、こちらは、カントリーの世界限定の、クラシックナンバーとなっているようです。カバーヒットは、アダルトコンテンポラリーチャートで、ベテラン女性歌手のマーガレット・ホワイティング盤(69年AC 28位)、カントリーチャートで、ビリー・ジョー・ロイヤル盤(88年CW 17位)。エルヴィス・プレスリーの愛唱ソングとして良く知られています。

この「涙ながらに」、意外に唄うのが難しい曲のようで、カバーの多くは、伸び伸びと唄うジョニーのオリジナル歌唱スタイルをとらず、それぞれに工夫を凝らした、特徴のある仕上がりになっています(エルヴィスversion然り、ボビー・ダーリンversion然り、ディーン・マーティンversion然り)。その中で、ストレートなカントリータッチで伸び伸びと唄っているのが、実力派女性カントリーシンガーのジェーン・シェパード盤。もうひとつのジョニーの大ヒット曲「ポエトリー」も、唄いやすい曲とはいえず、しっくりくるカバー盤には余り出会いません。でも、You-tubeで見つけた、女性シンガーPernilla Wahlgren盤、これは素晴らしいです。それと以前にも紹介したことのある、フィリッピン(あるいはタイかマレーシア?)の“パット”という若手女性シンガーの唄う「こんなに愛して/Why Do I Love You So」。ジョニーのペンになる作品では、「君の面影/Your Memory Comes Along」をコニー・スミス、「Another You」をスキーター・デイヴィス、「Judy, Judy, Judy」をペトゥラ・クラーク、「Who’s Gonna Take the Garbage Out」をロレッタ・リン(&アーネスト・タブ)、そして「キューティー・パイ」を伊東ゆかり、、、、、どうやらジョニーの曲は、女性歌手との相性が良いようです。



≪2010.5.5 雲南省下庄~祥雲≫

原題のほうに「涙/Tear」の付く曲を3曲。
●How Many Tears Bobby Vee (Pop 63位)
内田樹氏が紹介している、VeeのNo.1ヒット「Take good care of My Baby」の、ひとつ前のヒット曲。
●Today’s Teardrops Ricky Nelson (Pop 54位)
リッキーの名曲「ハロー・メリー・ルー」共々、Gene Pitneyの作品。
●Teardrops by Teardrops Gene Pitney (Pop 130位)
上記の2人、Bobby Veeの大ヒット曲「ラバー・ボール」、Ricky Nelsonの大ヒット曲「ハロー・メリー・ルー」の作者が、ジーン・ピットニー。こちらは、歌手としての彼の小ヒット曲です。

「泣く/Crying」を3曲。
●Crying Roy Orbison (1961年Pop 2位)
オービソンの自作。“絶唱”とは、まさにこの曲のこと。
●Crying in the Rain The Everly Brothers(1962年Pop 6位)
内田氏が挙げた、もう一曲のアメリカン・ポップス黄金期の代表曲。エヴァリー兄弟のTop10ヒットとしては、続く「That’s Old Fashioned」と共に、最も後期のもの。
●Crying in the Chapel Adam Wade (1965年AC 20位/Pop 88位)
後年のエルヴィスのヒット曲(1965年AC 1位/Pop 3位)として有名ですが、他にも何人かの歌手によってヒットしています。ここでは、黒人Pop歌手、Adam Wade(1937年ペンシルバニア州生まれ)盤を紹介しておきます。

「LonesomeとLonely」
●Lonesome Town Ricky Nelson (1959年Pop 9位)
●Only the Lonely Roy Orbison(1960年 Pop 2位/RB 14位)
●Lonely Teenager Dion(1960年Pop 12位)
●L-O-N-E-L-Y Bobby Vinton (1965年AC 7位/Pop 22位)
「Mr.ロンリー」と言えば、むろんボビー・ヴィントン。No.1ヒット「Mr. Lonely」も、この曲も、彼自身の作品です。

最後に「ブルー」
●Blue Train(of the Heartbreak Line) John D. Loudermilk (1964年CW 44位/Pop 132位)
「Mr.ブルー」も、ボビー・ヴィントン(「Blue on Blue」「Blue Velvet」)とロイ・オービソン(「Blue Angel」「Blue Bayou」)で決まりなわけですが、ここでは僕が敬愛する、シンガーソングライターJohn D. Loudermilk(1934年ノースカロライナ州生まれ)のこの曲を。明るく軽快な“失恋”カントリーナンバー。You-tudeで聴くことが出来ます。

ちなみに、僕がラウダーミルクの最高傑作と思っているのが「Broun Girl」(全曲ほぼ語りです)。好きなのは、ジョニーに提供した「That’s Love」、それにマリアンヌ・フェイスフルの大ヒット曲「可愛い小鳥/This Little Bird」(1965年AC 6位/Pop 32位)も外せません。

You-tubeで聴くことの出来るLoudermilkの唄は、ほかに、初期R&Rナンバーの「バルコニーに座って/Sitting in the Balcony」(1957年Pop 38位)や、最近のライブからの映像「Break My Mind」など。一押しは、曲はもちろん、映像が最高に素晴らしい「Language of Love」(1961年Pop 32位)、ぜひ皆さんもチェックして下さい、気に入って頂けること請け合いです。

You-tubeの話題のついでに、You-tubeで見付けた、その他の気に行った曲を、幾つか紹介しておきましょう。「Blue Train」と同じ列車もので、Bente Lind(1948年生まれの女性シンガー)の「South Going Train」。文句なく楽しい曲、やはり映像が素敵です。

曲名にLonesomeとCryの両方が入っているのが、ジョニーのヒット曲のひとつでもある、ハンク・ウイリアムスの名曲「I’m So Lonesome I Could Cry/泣きたい程の淋しさだ」。さらに、ハンクの相棒、フレッド・ローズの作品で、むろんハンクも唄っている「Blue Eyes Crying in the Rain」、こちらはBlueとCryingが共に曲名に入っています。You-tubeで見つけたのは、ジョニーも唄っているこの曲と、やはりジョニーのヒット曲のひとつでもあるカントリークラシック「Heartaches By the Number」を唄っている、12歳(現在14歳)の少女カントリーシンガー、Kayla Patrickの弾き語り映像。大袈裟に言えば、アメリカ版「浪曲子守唄/一節太郎:唄」とも言えそうな(笑)歌詞内容の「Heartaches By the Number」を、12歳の女の子が唄う、そのアンバラスな魅力に、嵌まってしまっています。もう、メロメロです。いや、断じてロリコンではないんですよ(汗)。




≪2010.5.5 雲南省下庄~祥雲≫








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朝と夜のはざまで~My Sentimental Journey(20’s meets 60’s)・1

2010-12-11 15:26:04 | 雑記 報告
このひと月の間に、2つの夢を見ました。

夢は良く見るほうですから、もちろんその他にも無数に見ているはずなのですが、なぜか、ここしばらくの期間、それ以外には“夢を見た”記憶が全く無いのです。

眠っている時には、常に夢を見ているのかも知れません。ただし、それが“夢”として認知されるためには、夢を見た、という自覚が必要なのではないでしょうか。睡眠と目覚めの狭間の、覚睡の間際の一瞬のまどろみに追認した“夢”の残照、それが実質上の夢なのだろうと思います。

そもそも、人間は(いや、動物や植物も同じです)なぜ眠るのでしょうか?むろん、生理学的にいくらでも説明は可能なのでしょうが、眠る(死の一変形?)と言うことと、命(生)の問題が深くかかわりあっている、ということは、直感的に感じとることが出来ます。死と生に間に産み落とされる子供が、「夢」なのかも知れませんね。
 


【2006.9.29 保山】

ウトウトしながらCDで音楽を聞くことが良くあるのですが、2つのことに気が付きました。ひとつは、曲と曲の間の空白が、途方もなく長い時間に感じること。時間とは相対的なものであると(例えば、1年より100年が「長い」とは、必ずしも言えないなどを)実感出来るのです。

もうひとつは、例えばCDの中の曲を、続けて繰り返し聴いているとしましょう。すると、例えば、眠った瞬間が、4曲目、覚睡が8曲目だとしたら、その間の曲は、完璧に聴こえていないのです(代わりに何らかの夢を見ているのかも知れません)。眠った瞬間と、目が覚めた瞬間に、意識が見事に切り替わっているわけです。眠っている時と、起きている時は、別の世界に存在しているのかも知れません。

あらゆる現象は、全て2つの対応する要素から構成されている。例えば、朝と夜、光と影、太陽と月、、、、。15年ほど前、雲南省南部をアシスタントの北村さんと旅した際、双子の姉妹の一方だという彼女は、雲南各地に見られる、太陽と月などのモチーフで対を成した紋章に、非常に興味を惹かれているようでした。
 

【2009.7.4 ミニャコンカ】


僕の大好きな「高丘親王航海記」という小説には、春丸と秋丸の双子の姉妹(?)が重要な役割を担って登場します。偶然ではあるのですが、東シナ海-杭州-西安(-成都)-広州-ベトナム-カンボジア-マレー半島-ミャンマー-雲南(大理)-アンダマン海-スマトラ-シンガポールと辿る、高岳親王の足跡は、僕のフィールドとも、ピッタリと重なります。

ちなみに、澁澤龍彦は、友子さんが大好きだった作家、この作品は彼の絶筆です。そして、これも偶然なのですが、その「高丘親王航海記」の文庫本、およびその中の一章を単行本化した「獏園」は、僕と千明さんを結びつける、大きなきっかけともなりました。

千明さんは、幼いころから、眠ると怖い夢を見てしまうのだそうです。「眠る前に“獏に申す、獏に申す、獏に申す”と三回唱えれば、怖い夢を見なくなる」と教えられてからは、幾らかは怖い夢を見る頻度が減ったとのことです。「獏園」は、主人公(67歳の高岳親王)の夢を食べる獏の話で構成されているのですが、千明さんの夢と獏との結びつきは、後になってから知ったのです。
 

【2009.7.4 ミニャコンカ】

僕が最近見た2つの夢、ひとつはもちろん友子さんの夢です。友子さんと別れてからの10年余、これまでは定期的と言って良いほど、週に一度ぐらいの割合で彼女の夢を見続けたのに、ここのところ、友子さんが夢に現れることが、少なくなってきた、と前回の「朝と夜のはざまで~断片」に記しました。この間見た夢は、「断片」に記した時以来の、今年になって2回目の友子さんの夢なのです。

友子さんの夢を見る機会が少なくなってきたことと反比例して、一度の夢が、とても長く、とても濃密に感じられるのです。今回の夢も、(内容は忘れてしまったのだけれど)とても楽しい夢だったように記憶しています。覚えているのは、彼女が夢の中で繰り返し一生懸命謝ってくれたこと。謝らなくていいんです、僕のほうが悪かったのです、と夢の中での僕。

前回も今回も、長距離寝台列車で移動の最中に、ガタゴト揺られながら見たのですけれど、どんな意味があるのでしょう?
 


【2010.5.18 維西】

その一週間ほどのち、突然千明さんの夢を見ました。風邪を拗らせて、ウンウン唸っている時にです。地方の宿の粗末なベッドの中。ある訳があって、パソコン内に納められたままになっている千明さんの写真をチェックすることになり、非常に疲れていたものですから、千明さんの写真画面を傍らに、そのまま眠ってしまったのです。

千明さんと最も関係が良かった頃、なかなか眠れないでいることが多かったのですが、そんなとき、「離れていても、いつも青山さんの傍にいるんですよ、だから安心して寝て下さい」とメールを送ってくれたものです。だから、傍らに千明さんの写真を枕元に置いて、彼女の夢でも見ながら眠ろう、としたのだけれど、やっぱりダメ。どんな手を使って眠ろうとしても、眠れない時は眠れないものです。

一般論で言えば、夢に見ようと思って、愛する人の写真を傍らに眠りについたとしても、まず効果はありません。逆にとんでもない怖い夢を見てしまったりするのがオチでしょう。
 



【2010.5.18 維西】

今回は、全く逆の状況ですね。眠りながら彼女の写真を見ようなんてまるっきり考えていなかったし、ましてや、夢の中に出てきてほしいなどとはこれぽっちも思っていなかった。ところが、心ならずも、傍らに写真を開いたまま、眠り込んでしまったわけです。そして、夢の中に千明さんが登場。望んでいない時に限って、台本通りにお出ましになったわけです(笑)。不思議としか言いようがありません。

僕は、千明さんに復讐(笑)する、ただそれひとつのために生きているのです。復讐はちょっと大げさ、というより語弊
があるでしょうから、千明さんからの謝罪を得る、と置き換えておきましょう。

1日24時間、1年365日、そのことばかり考えていれば、夢にも頻繁に出て来そうなもの。なのに、眠ると、彼女の夢は見ないのですね。関係の良かった頃のみならず、関係が破壊して以降を通じても、全く見ない。友子さんの夢は頻繁に見るのにです。
 


【2008.7.28 雨崩村】

千明さんの夢は、「朝と夜のはざまで・断片2010.7.4」に記した、2年余にして始めて見た夢に次いで、今回がやっと2回目。前回は、千明さんが夢に現れたのは確かでも、ただそれだけで具体的な内容はなにも無かったように思うのです。でも今回は、はっきりと“ストーリー”があった。そのような意味では、初めての夢といえるのかも知れません(実は、これまでにも眠っている間に千明さんの夢を何度も見ていたのだけれど、他の夢とは違って、なぜか千明さんの夢だけは、覚睡してからの追認識が出来ないでいた、という可能性もありますが)。

千明さんから、逢いたいと。僕は“いやです”と拒否。それを何回か繰り返します(友子さんから、夢の中で“会いたい”と言われた時の、最高に嬉しかった気持ちとは対照的)。現実の世界でも、夢での話と同様に、千明さんからの謝罪がない限り、断じて許せないですから。

誤解を招くと困るのですが、千明さんは、今でも大好きですよ。Bert Kaempfertと友子さんの次ぎぐらいに(それが僕の中でいかに高いポジションにあるかは、簡単には分かって貰えないでしょうけれど)。でも、それとこれとは別問題。繰り返し言うけれど、和解するつもりは全く無い。きちんとした謝罪があった場合、許しはします。でも、和解はしない。そして(謝罪を受ける場以外では)会うつもりは全くありません。
 


【2009.6.3 白水台】

でもただ一つ、心残りがあるのです。

こんな共通の経験が、話題に上ったことがありました。ダリの絵ではないけれど、覚睡直前をめぐる話。眠っている最中に、「間違いなく、これから目が覚める」という確信を得ることがあります。例えば、このあと目覚まし時計が鳴るという確信。そして直後に実際に鳴るのです。僕も千明さんも、全く同じ経験をしばしばしていると。

むろん、予知能力とかのオカルトチックな答えで、かたずけてしまう気は全く無い。いろいろな解釈は可能でしょう。例えば、認識に至る時間の順序が、一時的に入れ替わって脳に伝達された結果としての現象(聞いた音を意識の深層下ではリアルタイムで捉えているも、表面的には認識し得ていない、そして、表面的な認識が、何万分の一か遅れて脳に伝達される)とか。でも、そのようには簡単に答の出せぬ、より深遠な問題が含まれているのではないかとも思うのです。

この話の続きだけは、いつかじっくりと千明さんとしたかったのです。




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