青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

2018.1.1 リアルタイムレポート7&8 謹賀新年+追記

2018-01-01 03:58:17 | 雑記 報告
2018.1.1 リアルタイムレポート8 謹賀新年/追記

江川紹子さんのレポートです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20171228-00079846/

八幡和郎氏と僕は、必ずしも思想は一致しないのですが、「日馬富士問題」に関しては僕と全く同意見のようです。次々とレポートをアップしているので、心強いです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171226-00010006-agora-soci&p=2
http://agora-web.jp/archives/2030007.html

これが12月28日「貴乃花部屋暴行訴訟」の記事。
https://www.zakzak.co.jp/spo/news/171228/spo1712280012-n1.html
出たとたんに引っ込められてしまいました。そして、この日を境に、「日馬富士問題」がネットで取り上げられる回数が激減したように思われます。

「日馬富士問題」は、大袈裟ではなく、日本の行く末に関わっているのです。僕は「日本人の名誉と、将来の日本のために」日馬富士と白鵬を応援します。

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2018.1.1 リアルタイムレポート7 謹賀新年

パソコンがほぼ完全に使えなくなってしまった。それでこの2週間ほど中国に行ってモニカのパソコンを使っていたのだけれど、それも一時使えなくなったりして、七転八倒の状態です。

元旦から再び(日本に)帰国し、チエコさんとギリシャのジョージ君(彼が部屋を片付けた)と3人での生活を再開します。2週間ほど日本に滞在して中国に戻る予定です。

中国では、モニカが深圳から広州のアパートに引っ越して、隣のアパートに僕の部屋も借りてくれた(2LDK、電気水道代など込みで月1万円)。一気に住める部屋が2つも出来たので、今後どのように生活していくか、思案の最中です。

単純計算で、日本での生活に月5万円(家賃別、電気・水道込み)、中国(やタイやベトナム)なら半額の2万5000円(家賃または宿泊費、および電気、水道込み)+往復の交通費1万5000円と考えれば、海外の方が安くつく。でも、そう簡単に計算は出来ない。

それよりも何よりも、酷い喘息のような状況が続いていて、どうしようもなく苦しみ続けています(正岡子規の気持ちが良く分かる)。まずこれを何とかせねばなりません。

そのうえ、パソコンは上記のような状態だし、ハードディスクも修復代を支払わねば、手元に戻ってこない。

「現代ビジネス」も月2掲載の口約束を守ってくれず、相変わらず月1回。

もう人生真っ暗です。

さて、「日馬富士問題」。実は、これまでブログにアップした記事のほかにも、長い記事を数編掲載したはずだったのだけれど、チェックしたら載っていない。あまりに長いので、あや子さんの判断で取り止めたのでしょう。そのうち再掲載します。

「××世代」(例えば「松坂世代」)という言葉があるそうです。ついこの間までは「同級生」と言っていたのですね。「同級生」にも随分違和感があったのですが、「××世代」にも違和感ありまくりです。

どうやら、「同学年」を指す言葉みたいです。「××世代」も「同級生」も、本来はそのような意味では使われていません。“今はそのように使っているのだから、それで良いのでは?”という意見があるかも知れない。時代に沿って、新しい意味を持つ言葉が生まれるのは、悪いことではないでしょう。問題は、新しい意味を持った言葉が生まれ、大衆に浸透した時、古くから持つ意味が否定されてしまい兼ねないこと。

何が正しくて、何が間違ってるか、、、その時々の“空気”が全てを決めてしまうのですね。

日本人ほど、一か所の空気に澱んでしまう民族は、ほかにないのではないでしょうか?
「真実は一つ」「正義は一つ」。

オウムの「走る爆弾娘」こと菊池某女は、どうやら冤罪だったみたいですね。いや、「だったみたい」で済むことではありません。大問題ですよ。空気を作り上げたマスコミや大衆は、何を思うのでしょうか?(たぶん反省も何もしていない)。

政治家の豊田某女。どんな人なのかは、よく知りません。秘書に「このハゲ!」と罵倒したそうなので、きっと悪い人なんでしょう。でも、他の人たちと比べて、どれほどの悪事を行ったというのでしょう。他人をぼろくそにいう人など、(批判をしている当人たちを含め)星の数ほどいるはずです。事の良し悪し、個人的な好き嫌いはともかく、超逆風にめげず必死に頑張っているのは、立派だと思います。

ついでに同じく政治家の山尾某女(断っておくと、個人的には余り好感は持っていません、、、、、もちろん単なる印象においてですが)。異性の秘書と同じ部屋で夜を明かした、男女関係になっていないはずがない、というのが、衆目の一致するところらしいです。不倫はけしからぬ、大きな罰を与えねばならぬ、と。事実かどうなのかは知りません。でも本人たちが否定しているのだから、信じるべきでしょう。

にもかかわらず、「何もなかったはずがない」と決め付けるのは、実に卑しい人達だと思います。
そのような人こそ「ゲス」というのです。

何でも「金」「愛欲」、、、等々に短絡的に結びつける。自分がそうだから、当然他の人もそうだろう、ということなのでしょうか?

人間は、世界は、多様なのです(「多様性」は流行りの言葉みたいですが、みんな意味を分かって使っているのでしょうか?)。

僕は、友子さんとも、スーリンとも、モニカとも、いつも狭いホテルの一室で、夜通し作業していたりします。僕はエロジジイですよ(笑)。でも同時に正真正銘のジェエントルマンです。
「当然どうのこうの」と言っている人達は、両立できない情けない人としか言いようがありません。

「日馬富士問題」。モンゴルも日馬富士も白鵬も、必ずしも好きではないけれど、今は全面的に彼らの味方です。徹底して彼らと共に闘います。

日本と日本人の、名誉と将来のためにです。

敵は、貴乃花でも相撲協会でもマスコミでも権力者たちでもなく、善良(少なくても本人たちはそう思い込んでいる)な世間の人々です。

「正義は一つではない」「真実は一つではない」「多様性の認識の大切さ」、、、、、“そんなこと、いちいち声を出して言わなくても、みんな知っていますよ”と、編集U氏は言います。いや、知らないですね(優等生の答案用紙の答えとしては知っているでしょうけれど)。

ネトウヨ(実は無意識的に同一の意見を有している大衆の代弁者)=貴乃花擁護=安倍支持、そして行きつくところは、ヒットラーです(笑)。

ネトウヨ(某落語家etc.)は言います。
「日馬富士は暴力を振るったから悪人」である、と。
違いますね。
「日馬富士は暴力をふるって警察沙汰になったから悪人」が正確。

暴力はいかんですよ。個人的には体育会系シゴキは拒否、全て無くしたい。でも、現実的には無理でしょう(綺麗ごとではなく、スポーツ自体が成り立たなくなる、、、、あの明歩谷ほどの覚悟があれば別ですが)。

ちなみに、僕は70年間の人生で、誰に対しても暴力を振るったことはありません(そう言い切れる人はどれだけいるだろう、、、、)。

環境保護を訴える人の多くに対しても、疑問を禁じ得ません。本人に自ら率先する「覚悟」はあるのだろうか?

大敵の一つは自動車の排気ガス。無くさねばなりません。だから僕は生涯車を持たずにきました。当たり前のことです。

貴乃花親方は、現役時代、確かに強かった。そして圧倒的に人気があった(それが諸悪の根源)。

自他ともに認める正義のヒーローです。「正義は一つ」「真実は一つ」と信じて疑わない。「暴力撲滅」「八百長撲滅」が目標。

自分が片八百長を行い、自分の部屋が暴力行為の巣窟(ビール瓶での殴打など日常茶飯事由)であることなど、警察沙汰にならなかったから別に悪いことだとは思っていないのでしょう(でも最新情報では被害者との裁判は今も続いている由)。権力と大衆が味方に付けているから、黒も白になってしまいます。強いです。

僕は入門時から知っています。この兄弟が、どれだけこぞって大衆にちやほやされ、自分たちは特別の存在だと、限りなく自分勝手に振る舞ってきたかを(僕は同部屋の兄弟子たち、安芸乃島や貴闘力や貴ノ浪らを応援していたので、余計にそう感じます)。

でも、世間は「空気」に沿って、盲目的に彼らを支持する。僕は彼らの絶頂期に友子さんに予言したことがあります。「今に見ていてご覧、将来とんでもないことになるよ」と。

遡ること数年前。清原が西武ライオンズに入団しました。ちょうど、5才上の秋山がブレークした時です。以降10年近く、ONと並ぶプロ野球最強のコンビ(その後に入団したデストラーデも併せればトリオ)を形成します。

ドラフト外の社会人から入団の秋山、甲子園の大スター清原。オーナーの寵愛、(野球を良く知っている人はともかく)世間の注目は、圧倒的に後者に集まります。

清原は、タイトルこそ一つも取れなかったけれど、凄いバッターであったことには違いありません。しかし、秋山(やデストラーデ)を上回る打者であったかと言えば、ノーです。

秋山は、同時代の内外の野球人が口を揃えて「野茂・イチロー以前に大リーグでも通用した唯一の日本人選手」と言うように、それは凄いバッターなのです(選手としてトータルで見ても)。同じ「凄さ」でも見る角度でそれぞれ答えが違ってきます。

清原も秋山も凄いバッターです。互角だと思います。しかし、冷静に見れば、清原が特別凄い、ということはあり得ません。

でも実際は、特別なのですね。世間が(最初から)作り上げていた「空気」です。その空気の膨らみにより、現実をはるかに上回る虚像が形成されてしまっていた。巨大な空気に対して、誰も異を唱えることは出来ません(その典型が長嶋)。

僕は(秋山が一般大衆からの評価が不当に低いのと対照的に、清原の方はやみくもに持ち上げられているのを僻んで、、、というか半分は本気で)、若貴兄弟の場合同様、「そのうちにとんでもないことになるよ」と言っていたのが、当たってしまったわけです。

ちなみに、清原が事件を起こしたあと、真っ先に助けの手を差し伸べたのが、アメリカにいたダルヴィシュです。「僕に出来ることがあれば何でも言ってください」と。

さらにダルはこうも言います。「一度過ちを犯した人間を受け入れることの出来ない日本の社会は間違っていると思う、日本もアメリカのように、反省して再スタートする選手を、暖かく受け入れるのとの出来るような野球界になってほしい」。

ダルヴィシュは(僕より40才近く下だし、個人的には好きな選手ではないですが、笑)、人間としては心から尊敬に値する存在です(もうひとり野茂も)。

ネトウヨ(及びその予備軍の一般大衆)の皆さんは、ダルヴィッシュの爪の垢でも飲んで欲しいです。

松坂。彼の場合もスタート時点から分かっていました。凄い選手であること+大衆の空気の中で作られた虚像。若貴の場合も、清原の場合も、松坂の場合も、類稀なる実力(それを示すポテンシャル)と「膨らんだ虚像」を共有していたことが問題だと思います。

イチロー(滅多に人を直接批判することのない)がポツリと曰く「松坂は深いところで野球をなめている気がする」。

同世代(ともに年齢は松坂より5~6才上だが、同時入団だったり同時期に活躍したりで、この場合は「世代」で一括りしても良いと思う)の上原や黒田とは、桁違いの人気と評価を集めていたのです。前半の実績は同等(印象的なインパクトでは確かに松坂が上回っていた)。むろん後半は2人と比べる術もない散々な結果なのは、ご存じの通りです。

鴎外の短編小説「寒山拾得」には、このような“作中解説”が付されています。「実態を把握することなく、名前だけで盲目的に信仰することの愚かさ」。

現実問題として、昔も今も、空気によって形成された虚像だけが、唯一の真実となってしまっている。

連坊さん(個人的には~画像を見た限りにおいてですが、笑~彼女も嫌い)でしたっけ?「2番じゃ駄目なのですか?」と言ったのは。ネトウヨの揶揄の定番になっています。

でもこれは(深さとは無縁のネトウヨの皆さんには分からないでしょうが)どうしてなかなか深い言葉ですよ!

1番しか認めない、2番はダメ。これが日本の社会の諸悪の根源かも知れません。

数字は単なる物差しです。1番も2番も実質的にはほとんど変わらない。くじ引きの結果を選ぶようなものです。違うところは、1番には「空気」という「世間の認識」が付いてくる。実態の他に、虚像の部分が大きく包み込むのです。

1番と2番について身近な例(笑)を。ジョニー・ティロットソンの「ポエトリー・イン・モーション」。

1位にエルヴィス「今宵は一人かい?」がどっしりと座っていました。ちなみに、「ポエトリー」と入れ違いに2位にランクされていたのが、フロイド・クレーマー(ピアノ)の「ラスト・デート」。「今宵は一人かい?」のバックもクレーマーの可能性が高く、もちろん「ポエトリー」の印象的なピアノも彼です。もしかすると、ベスト3をフロイド・クレイマーが独占、という凄い偉業なのです(マニアックな話ですみません)。

ビルボードのランキングは、任意の一週間(日曜~土曜?)に区切って、様々な集計を総合して決められています。だから区切る曜日が1日ずれれば、順位も微妙に変わってくるはずです。

「ポエトリー」は週間では2位ですが、様々な裏集計が判明していて、日間でも、複数の地域集計でも、そして月間(60年11月)でも1位を獲得しています。週間2位で月間1位というのは、なかなか凄いことですよ。ただし年間では、翌61年に跨るために50位以下(年内で終結している61年の「ウイズアウト・ユー」や62年の「涙ながらに」よりずっと下、63年と64年に真っ二つに分かれた「トレンブリン・リップス」は年間ランキングに入っていません)。

ちなみにもう一つの大ヒット曲「涙ながらに」(ジョニーの自作)は週間3位(月間でも3位、年間18位)。この曲は、C&Wチャートで4位、R&Bチャートでも6位に入っていて、この3部門でのベスト10入りは、60年代1万曲前後のビルボードランキング曲中、スキーター・デイヴィスの「この世の果てまで」とこの曲の2曲だけです。1位(レイ・チヤールスの「愛さずにはいられない」が君臨していました、2位はアッカー・ビルクのクラリネットで「白い渚のブルース」)にはなれなくても、歴史的な大ヒットであることには違いありません。

ビルボード・ホット100でナンバー1を獲得出来なかったメジャー歌手のランキングと言うのがあって、1位のファッツ・ドミノを始め、上位を概ねR&Bの大御所が占めています。そして、13位ボビー・ライデル、14位ジョニー・ティロットソン、15位ジーン・ピットニ―と、白人ティーン・ポップ歌手が続きます。

面白いのはジーン・ピットニ―です。最大のヒットは62年の「愛の痛手に」(バート・バカラック作曲)で2位(アダルト・チャートで1位)。その時ホット100の1位に君臨していたのは、黒人女性ボーカル・グループ、ザ・クリスタルズの「ヒーズ・ア・レベル」。なんと、この曲の作詞・作曲がジーン・ピットニ―なのです。

かように、1位であるか2位であるかは、大した問題ではありません。“いや、大した問題だ、それは事実なのだから”という人もいるでしょう。それも一つの見解です。ただ、“1位よりも大きな2位もある”というのも事実です。次元の異なる“事実”は、幾つもあって良いのです。

僕は、本職(生物)以外のライフワークとして、「エルヴィスとビートルズの狭間で~ジュニー・ティロットソンの時代(“涙くんさよなら”の謎)」と、「島谷金二伝」を計画しています。前者はほぼ書き終えているのですが、後者の実現は(僕の能力からして)難しいでしょう。でも時間とチャンスがあれば、いつか取り組んでみたい(貴乃花や清原や松坂も重要登場人物)。主題はともに「空気と事実の関係」。

島谷金二は、あの黄金のドラフト1968年組の一人。ドラフト1位に、大卒の山本浩二、田淵幸一、星野仙一、有藤通世、大橋譲、富田勝、野村収、高卒の東尾修、社会人から山田久志、他にも、福本豊、加藤秀司、大島康徳、水沼四朗、金田留弘、太田卓司ら、球史に名を残す錚々たるメンバーが入団した年です。

島谷は、上記の多くの有名選手に比べ、一般の知名度は遥かに低い様に思われます。

なにしろ、地方(四国)の社会人から入団の、ドラフト9巡目(総合100位以下)。その時点で、世俗的な評価の形成には、大きなハンディが課せられているわけです。

ちなみに、69年の中日入団に至るまで、ドラフト指名を3回拒否しています(どこかの選手のように、好きな球団に指名されなかったからというのとは事情が異なる)。日本プロ野球史上、4回目の指名で入団というのは打者としての最多記録(投手としての最多は後に5回目の指名で中日に入団した藤沢公也)です。

そのうえに、イメージ的にもプレイスタイルも、お世辞にもスマートとは言えない。年齢も同期入団選手よりも上。最終的には、1514本のヒットと、229本の本塁打を放ち、充分にメジャーな選手たる成績を残します(ゴールデングラブ賞に4回、オールスターに6回選ばれている)が、名球会(なぜか最近必要以上に持ちあげられている)には届かず、主要タイトルも獲得していません。

入団が遅かったこともあって、全盛期は30代半ばになって訪れました。そして、「若手に道を譲る」という理由で、充分にクリーンアップを勤まる成績を残したまま、潔く引退しました。

実績上は球史に残る選手の一人ではあるのですが、世間の空気によって成された虚像形成度はゼロに等しいのです。

彼の名が最も世に知られているのは、中日から「世紀の大トレード」で阪急に移籍したことでしょう。阪急では黄金時代後期のクリーンアップ(主に4番)を担いました。加藤秀司、島谷金二、マルカーノのクリーンアップを、日本プロ野球史上最強のクリーンアップトリオの一つ、と推す識者もいます(3人揃って100打点以上を挙げた年もある)。

タイトルには、2度手が届きかけました。1977年の首位打者と1979年の打点王。ともに最終試合までもつれ込み、いずれも僅差で2位に甘んじています。

奇しくも相手は同じ1968年ドラフト組のスター選手、有藤通世(ロッテ)と加藤秀司(阪急)。

79年の同僚の加藤との争いでは、非常に興味深い話があります。

「阪急ブレーブスは強くても人気がない、加藤は数少ない阪急のスター選手、ここは島谷には引いて貰って加藤に華を持たせるべきだ」。

どこまでが事実でどこまでが噂の域なのかは分かりません。でも確かに当時、そのように言われていたのです。

上田監督や球団の進言か、メディアやファンの総意か、あるいは島谷自身が進んでそう考えたのか、、、、もっともありそうなのは、決着がついてから、誰かが「これで良かった」と言ったというのが事実のような気がしますが、いかにも島谷の置かれた立場を象徴するような話だと思います(最近になって、四国の高校野球のコーチとして、ちょくちょくメディアに登場しているので、一度本人に会って直接聞いてみたいと思っている)。

数字は指標です。「たまたま」にしろ「1位になった」という運も、評価に於いて大事な要素なのかも知れません。でも、「たまたま1位になれなかった」ことも、充分に魅力のあることなのかも知れないのです。

勝者と敗者の関係は、いろいろと多様です。敗者には勝者の持ち得ない、敗者にだけ許される道があります。

それはともかく、勝者は絶対的なものではない。ドーピングや不祥事の発覚で、後になって取り消されることもあります(それが表に出るか否かで、評価が180°変わる)。

森鴎外は、僕の尊敬する作家です。しかし、なだいなださん(生前僕の近所に住んでいた高名な小説家で精神科医、やはり尊敬するべき現代作家です)は辛辣なことを言っています。「今の時世なら、薬害エイズで起訴された医師同様に鴎外も刑務所行き」。

医師で陸軍軍医総監だった鴎外は、「脚気は伝染病である」と間違った判断を下し、多くの隊員を死に追いやりました。今なら大悪人です。鴎外ファンの僕からすれば非常に困るのだけれど、
それは事実です。

鴎外であろうが誰であろうが、どんどん刑務所へ送り込み、反省したならば、またやり直すことの出来る社会。それが成り立たないのでしょうか?

以下は、よく言われる問い。でも答えは聞いたことがありません。一人殺すと大悪人。1000人殺すと英雄。それで良いのでしょうか? 良いのか良くないのか、その理由共々、誰か明確な答えを示して貰えないものでしょうか。

プーチンのように直接的に、トランプのように間接的に、戦争や政治絡みで膨大な数の人々を抹殺している権力者は、大悪人ではないですか? 安部さんだって似たようなものだし、結局我々だってそこに繋がるのかも知れない。

フセインやビンラディンやカダフィや北の刈り上げ君と、どこが違うのか?

なのに、なぜ1人を殺した人間を「大悪人」と決めつける? 答えをうやむやにして「空気」の中に逃げ込まないで欲しいのです。

人殺しが罪悪ならば、死刑という制度がなぜ許されるのか(頭の悪い)僕には、さっぱり分かりません。

相撲の話に戻りましょう。僕と同世代の、貴乃花親方の父親の貴ノ花や本当のお父さんの輪島(僕はファンだったのですよ!)はもちろん、栃若時代、その前の、吉葉山、鏡里、千代の山の頃から大相撲を見ています。大鵬は納谷の本名で初土俵を踏んだころから知っています。
 
プロ野球は、川上、藤村、青田など、うっすらと覚えている。新人長嶋が表紙の少年サンデー創刊号も持っていたけれど、捨ててしまった。

そのプロ野球や芸能界。ひと昔前までは、暴力、イジメ、セクハラは、日常茶飯事。それが武勇伝としてポジティブに捉えられていたわけです。それで良いのですか? 真実は一つ、正義は一つ、というならば、良いのか悪いのか、答えが欲しいです。

悪い、というならば、現存者は即刑務所送り、物故者は名誉剥奪ですね。当然です。良い、と言うならば、いちいち他人の失敗を挙げつらって、やれ暴力だ、やれ不倫だとか、言うべきではないでしょう。

都合と空気だけで物事を決め付ける善良な人達には、反吐が出る思いです。僕の頭脳が子供に等しいからでしょうか? 大人になれば思考停止しなければならない、ということで良いのかな?

以下は、僕の本来の仕事に繋がる、有用生物の由来(今、纏めている最中)に関しての話題で常々記していることですが、、、。

東洋人、殊に日本人の特性。

0から1を作りだすことは出来ない。
しかし、1から100、1000、、、、を発展させる能力には、非常に長けている。

何も手がかりがないところから新たに何かを作り上げるのは、大きな賭けです。多大なリスクが伴います。膨大な失敗を積み重ねた上での成功。全く新しいものの出現。例え成功に結びつかなくても、西洋社会に於いては失敗は勲章でもあります。

一方、日本人はリスクを忌避します。失敗することは、それ自体が悪事でもあります。なぜなら、和(空気に置き換えても良い)を乱すことになるからです。

西洋人にとってのルールは作るもの、日本人にとってのルールは従うもの。

革新=進化、保守=繁栄、ということも出来るでしょう。

貴乃花の方向性は、一見革新的に見えるけれど、実は超保守です(だからネトウヨとは相性が良い)。絶対的なルールに戻そうとしている。それが正しいかどうかは無関係、いやルールが絶対なのですから、それに則りさえすれば正しいわけです。彼自身および大衆の納得が得られれば、枠外の誰が不幸になろうが関係はない。

白鵬は正反対ですね、正真正銘の超革新です。0から1を、新しいルールを作りだそうとしている。その過程で、清濁併せ飲むことも織り込み済みで、枠外の人々を含めたより多くの対象の幸福を視野に、不可能を承知でチャレンジしようとしている。でも残念ながら、不可能なのですね。大相撲は日本の国技だから。ゼロからの出発は「悪事」なのです。

帰国するたびに、いつも想います。ここは日本だなあ、と。僕のアパートは、青梅線の沿線にあります。青梅線の電車のドアは、手動開閉です。元々は大震災をきっかけに、省エネと車内の保温を目的に、導入されたものだったはずです。

自ら開けて乗り、自ら閉める。これがルールなのでしょう。日本人はルールを守ります。それが唯一最大の正義です。終電近くになって、数10分に一度の割合のダイアで、別のプラットホームの中央線からの乗り換え客が、次々と駆け込んで来ます。

見ていると本当に腹が立つ。乗り継ぎ客の一人一人が、ドアを開けて乗り込んではドアを閉め、また次の客が同じことを繰り返す。皆一秒を争っている時に、危ないったらありゃしない。そのために事故が起ころうが、誰かが困ろうが、本来の目的の省エネに反しようが、お構いなし、自分さえルールを守っていれば良いのです。

ルールは、出来るだけ多くの人が幸せになるように作られたものです。言い換えれば、一部の人は、その存在により弾かれてしまいます。完全なものではありません。常に試行錯誤の繰り返しです。

ルールを守るのは大事なことです。出鱈目な中国人に間近に接していると、日本人の立派さが良く分かります。しかし過剰です。主人公はルールではなく人、不特定多数のみんな、のはずではなかったでしょうか? 軒を貸して母屋を取られる。

ルールが全て(唯一の真実、正義への信望)。人々の幸せを想う心は2の次。貴乃花&ネトウヨの神髄です。

12月27日にアップされていた、「貴乃花部屋の(貴乃花親方や貴ノ岩による)暴行とその裁判」の記事が、翌28日になって全て消えてしまっている。

むろん知っている人は知っている話ですが、ネトウヨや一般の人々は知らない。貴乃花親方への相撲協会による処分がとりあえず終わったので、そのタイミングで記事を出して来たのでしょう。

ネットニュースの大半は、貴乃花擁護派ですが、中にはまともな意見もあります(次回、改めて紹介する予定)。しかし、それらの記事は、すぐに消されてしまう。

その代わり、貴乃花擁護、モンゴル勢悪人説の記事が、まるで日本人の総意のように次々と示される。例えば「貴乃花部屋の暴行」の記事が消えた代わりに、こんなのが現れていました。

事件の同席者の某日本人の談話。「日馬富士は非常にまともな男です、(別の部屋だが同郷の後輩である)貴ノ岩のこれまでの度重なる悪行を悲しんで、この集まりを機会に平手打ちをして諭しました、それでも反省の気配がないので、拳骨を振り上げたのです」。

例えて言えば、どうしようもない悪童を親(親方)がほったらかしにしておく(否、親も一緒になって行動を起こす)のを見かねた第三者が、注意をした(こらしめた)、という事でしょう。

このレポートは、上記の関係者の談話に対する批判です。曰く、「日馬富士がまともな人間だと?
まともな人間が人を殴って警察沙汰になったりするか、まともなわけないだろう?」と揶揄しています。

では、この執筆者に問いますが、貴ノ岩に殴られ続けて相撲界を止めた元力士から訴えられている、貴乃花親方や貴ノ岩は、まともな人なのですか?

弟子の面倒も見ず、タレントとして高額の講演料を得ながら全国を飛び回っている親方夫人は?

たまにしか稽古場に姿を見せず、弟子の頭を箒などで血が出るまで殴りつけてばかりいる貴乃花親方は?

ゲンコツどころか、ビール瓶やまな板で、他の力士の頭を日常的に殴り続けている貴ノ岩は?

それらの被害者が興した裁判(現在も係争中)の原告や証人に対し、謝罪どころか誹謗し続けている貴乃花親方。

殴ったことを素直に認め、警察の世話になった日馬富士は大悪人、当然相撲界を追放。それを遥かに上回る日常的な暴力が蔓延している貴乃花部屋については、親方が「自分は正義の味方だ」と無視し続けているので、お咎めなし。それで良いのでしょうか?

そうはいかないでしょう、と言う方向に、この「貴乃花部屋の暴力の実態」の記事が切っ掛けとなって、世間の空気が一変する可能性があったのです。

だから、記事自体を抹殺した。そして、以前にも増して「モンゴル勢は悪人、貴乃花は正義」の大合唱。

日本に於ける権力の恐ろしさは、誰も知らないと思う。「生」の権力ではなく、「空気」に柔らかく包みこまれた権力。その恐ろしさを大衆はうすうす感じているのだろうけれど、自分たちがそのおこぼれを甘受していることも(無意識的に)認識しているので、従順になるしかない。

僕が生きているうちに、きちんとした形で残しておきたいことがあります(具体的な話はいつか改めて纏めます)。僕自身、身近な人間の身内に絶対的な権力者がいる。権力(そのバックボーンには世間)は、目をつけた一般市民を簡単に抹殺出来ます。極論を言えば、何の根拠もなく、特定の人物を死刑に処することだって可能なのです。

敢えて言います。日馬富士は、実に真面目な人間です。スポーツマンには珍しいくらい、他人を思いやることの出来る、優しく立派な人です。尊敬すべきスポーツマンとして、ダルヴィシュと双璧だと思っています。

しかし日本の社会は、余計なことをしようとする人間を受け入れられない。空気を搔き乱す風は(その良し悪しとは無関係に)、目に見えぬ形で(空気に包みこんで)抹殺してしまう。

街の中や電車の中で何かが起こったとします。無関心を装うのが日本の社会(のルール)です。

若い女性が倒れていた時、うっかり介護を試みると、セクハラと訴えられて犯罪者にされかねません。だから見てみぬふり。それが日本です。

電車の中で若者が年寄り(ミー・トゥー)に席を譲るのは、日本に比べて圧倒的に中国のほうが多い。ネトウヨは、そんなわけはない、と言うかも知れないけれど、現実です。

日本人の若者が年寄りに席を譲らない理由。せっかく代わってあげようとしても、断られることが多い、気まずいから行動を起こさない。

その考え自体が問題なのです。親切を行う、ということは、拒否された時のリスクも織り込み済みで行うもの。しかし日本人はそのリスクを負うことを回避します。

いつまで経っても、0から1を導き出すことは出来ない。日本に於いて、リスクを冒して失敗を重ねることは、悪事に等しいわけですから。

よく、京都は排他的な町、と言います。なに、日本全体が排他的なのです。京都はその極に過ぎません。日本社会は、おもてなしは上手でも、異質を受け入れることは出来ない。

ネトウヨをはじめとした多くの市民は、誤解しています。日本は、外国人たちから、素晴らしい国だと思われている、と。

以前はそうだったかも知れません。でも今は、多くの外国人たちが、日本の(排他的)「空気」に対して、辛辣に批判し始めています。

気に入らなければ日本には来るな、勝手に批判していろ、と言っていると、清原や若貴兄弟や松坂同様に、気が付いた時には日本の国自体が、とんでもない状況になっているかも知れません。

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以下、現状報告と今後の予定です(4年前と状況は変わっていない、というか、もっと悲惨になっている)

「ジョニー・ティロットソンの時代」取り掛からねばなりません。いろいろな関係者(筒美京平氏ほか)に会って、取材や相談もせねばならない。首を長くして待っている村田さん(上記作品の共作者で、ジョニー・ティロットソン・ファンクラブ会長)。500頁に及ぶ大半は書きあげているのだけれど、その膨大な原稿が壊れたハード・ディスク2台に収めてあって、既に修復済みのそれを回収しないことには、スタートが出来ません。しかし、2万5000円と5万4000円の支払いを考えると、今の僕にはとても不可能なのです。

それよりも何よりも本業である野生生物関係の仕事を進めねばならない。

まずはライフワークの「野生アジサイの分布と系統分類の再考察」。こちらも500頁ほどの大著になり、やはり大半を書きあげています。今年の6月に最後の数か所(雲南独龍江、広東~浙江)の調査を終えれば完成です。ただし僕が英訳をしてモニカが中国語に訳すことが必須(それも半分以上終了している)。「台湾の自然」の原稿共々、早く完成させて、日中のメディアで発表するようにと、モニカからせっつかれています。でも悲しいかな、ハードディスクの修復費支払いが成されねば、先に進めることが出来ない。

そんなわけで、修復済みのハードディスクが手元に戻ってこなくとも、Wi-Fiが通じずにインターネットでの調べものが出来なくても、今可能な状態で出来る全く別の作業を進めることにしました。

手元にある健在なハードディスクに収納したデジタル原板写真には、膨大な数の中国産ロードデンドロン(シャクナゲ・ツツジ)もあります。写真撮影だけでなく、研究対象として(系統分類の構築を目的として)取り組んでいるハイドランゲア(アジサイ)とは異なり、こちらは出会った野生の花を片っ端から写しているだけ。

でも、見栄えにしろ、種類数にしろ、野生アジサイを遥かに上回りますし、一般の需要もずっと多いはずです。(現時点では種名の特定はしていないけれど)専門分野外なので(こだわりや責任感を持っているためなかなか決定するに至らない)野生アジサイの種名特定と違って、無責任に(良く言えば肩の力を抜いて)同定することが出来ます。

たまたま撮影年が(原板写真がコンプリートに保管されている)2009年と2010年に集中していること、取りだすことが不可能な2011年と2012年撮影分を除けばそれ以外の撮影分も前もって除けてあったこと、等々の僥倖を得て、大多数の写真を揃えることが出来るのです。

今、健在なハードディスクの中に一括して収納されている分が40GB。DVDに収められている2008年分と最近の撮影未整理分などを含めれば、60GBほどになるでしょう。更に、2004年以前のポジフィルムでの中国産撮影分、その前の、大量の屋久島産(多数が行方不明)をはじめとした、日本産全種の野生ツツジ属の写真もあります。それらを合わせれば、更に膨大な枚数になります。

とりあえず、手元に纏めてある40GB分と、そこに追加可能な20G分の、計60GB分のアレンジメントを行うとしましょう。一枚3MBとしてザッと2万枚。

その整理(セレクトや修正)に取り掛かりました。しかし、僕のパソコンには、僅か100MB前後しか容量が残っていない(全ての資料を全て捨てたり他に移動したりして、完全に空になっているはずなのにも関わらず)。原板写真を10枚も入れるとパンクしてしまいます。

モニカの中国語のパソコンを使って、サンディスクとかに収納しつつ、ハードディスク往復作業を延々と繰り返していたら、今度は、モニカのパソコンがクラッシュしてしまいました(日本に持ち帰りデータ修復依頼、また膨大な資金がかかりそう)。

明日からは、チエコさんのパソコンで作業を再開予定。1枚づつ入れたり出したり、1日200枚処理できるとして、100日かかる計算です。

本当にやりたいことは、こんな作業ではなくて、セミ、ことに東アジア各地のヒグラシ類の鳴き声の録音と分析、それに因る系統考察です。でも機材がないのでどうしようもありません。

中国の蝶のコンプリート大図鑑も作成したい。生態写真の大半は完全クラッシュした(仮に修復出来るとしても80万円近くの経費がかかる)ハードディスクの中。残ったそれ以外の分(1~2割ほど?修復済み支払い経費計8万円のハードディスク内に収納)だけでも膨大な写真があり、それのみでも中国産の蝶の生態写真に関しては、誰よりも持っていると自負しています。

ただし、この図鑑の主題は「生殖器の構造比較に因る系統考察」。実体双眼顕微鏡を購入せねばどうにもなりません(40年近く前から使っていた機材はほぼ使えない状況)。新たな顕微鏡の入手が叶ったら、中国蝶類図鑑作成よりも前に、ミャンマーの博物館で準備したまま中断している、ミャンマー(北部地域)産全種の生殖器検鏡の作業にも取り掛からねばならない。

病気の治療、借用金の返済、ハードディスク修復費の支払い、パソコン購入、、、、優先順位をどうつけるか。

何を始めるにしろ、一文無しではどうしようもありません。本来ならば、日馬富士問題などにかまっていられるわけはないのです。

稼ぐためには「現代ビジネス」全力を挙げる。しかし、内容は編集部の意向に沿ったものでなくてはならない。機嫌を損ねられると拙いので、ひたすら指示・連絡待ちです。

せめて月1回分掲載を増やしてくれるなどして、あと5万円の上乗せが叶えば、上記のどれもがスタート出来るのです。その5万円の確保が困難極まりない。


今、深夜の関空にいます。モニカが、最安値のチケットということで、成田と間違って関空行きを買ってしまった。このあとどうやって東京に戻ればいいのか。

元旦早々、道は険しいです。


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