青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

ElvisとBeatlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代【再開第3回】

2013-04-30 09:46:12 | アメリカン・ポップスearly60’s


Judy Yancey interview by Jonny Tillotson

「Judy, Judy, Judy」の謎(仮草稿・箇条書き)

●アメリカでは「You Can Never Stop Me Loving You」のB面。
●イギリスでは「Out Of My Mind」のB面。
●A面は、それぞれの国でかなりのヒットとなったのだが、B面のこの曲は全くヒットしなかった。
●Johnnyの人気の絶頂期。イギリスで彼を主人公の一人とした音楽映画が製作され、かなりの評判を呼び、その映画のなかでこの歌を歌った。、、、にも関わらず、A面としての発売はされなかった。
●日本では、アメリカ盤のA/B面をひっくり返し、A面で発売。その直前「キューティー・パイ」で大ブレイク。同系列の、いかにも日本で受けそうな曲。そのタイミングといい、ヒットの条件は完璧に揃っていた。しかし、なぜか全くヒットしなかった。次に出した「プリンセス・プリンセス」が大ヒットし、その後の「素敵なガールハント」「ポエトリー」「カムソフトリートゥーミー」「うつろなハート」と、「キューティー・パイ」でブレイクして以降のCadenceレーベルの曲は全てヒットしたというのに、、、、。

■しかるに、アメリカ・イギリス・日本以外の各国では、軒並み大ヒット(したらしい)。中国では、「ポエトリー」「こんなに愛して」とともに、カラオケの定番。
■フィリッピンをはじめとした東南アジアでは、オールデイズポップスの代表曲となっていて、現地歌手による数多くのカバーが成されている。
■また、東南アジアに於ける“ラインダンス”の定番曲ともなっている。
■ミャンマー?では、TVドラマの挿入曲に使われたりもしている。
■しかし、東南アジアのどの国で、いつ、どの程度ヒットしたのかといった具体的な記録は全く残っていない。
■中南米でもかなりのヒットをしたらしい。
■オーストラリア、ニュージーランド、カナダでは、ベスト10入りの記録が残っている。

◆そもそも、いつ作られて、いつ録音されたのか?正式には1963年のはずだが、1962年録音のものもかなり出回っている。発売シングルはモノラル。しかし現在では様々なステレオ録音音源が出回っている。
◆有名作詞作曲チームの、ドグ・ポーマス/モート・シューマン(ジョニーよりかなり年上のベテランコンビ)と、ジョニー本人の、3人による作詞作曲。非常に珍しい取り合わせ。誰がどこを分担したのか(記録を見ると、作詞作曲の分担はされていず、3者がそれぞれ作詞作曲に携わった?)。なぜこのような変則トリオで曲が作られたのか?
◆原曲は、デビュー以前(1957年?)にジョニー本人の手で作られていた可能性大。それにポーマス、シューマンコンビが手を加え整えた?
◆他のジョニーの曲と違って、バイオリンによるバックのストリングスが非常に生かされている。非常に特殊なアレンジである。
◆ぺトゥラ・クラークによるフランス語版が成された訳は?

それらの“謎”の幾つかを解くキーが、このインタビューから得られるかも知れません。

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読者の皆様へのお願い~四川雅安地震被災地への援助

2013-04-29 22:40:36 | 
4月28-29日 援助協力者 0人 協力基金 0円  
累計   援助協力者 1人 協力基金 1万円
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日本はもう、お終いですね、、、、。

2013-04-29 20:16:28 | 
昨日今日と、ここのところ怒りっぱなしで、、、(笑)。

そろそろ「アメリカのテロとイスラム、北朝鮮、日中関係、頻発する日本各地の地震と再び起こった四川地震、、、、」に取り掛かろうと思っていたのですけれど、その前に憤慨やるかたないことが次々と起こって、、、それを書かない訳にはいきません。

実は来月(5月末か6月はじめ頃)から、「産経新聞」朝刊で連載(毎月曜3ヶ月間)を始めるのですが、、、ちょっとマズイかな?と、、、。

「産経新聞」とは、これまで一度も縁が無かったのです(かつて連載をしたことがあるのは「朝日新聞」「毎日新聞」「東京新聞」「神戸新聞」「南海日日新聞=奄美大島」「小笠原新聞」)。縁がなかった理由は、たまたま、ということも有りますが、右寄りの思想が、どうもしっくり来ない、それでもって(「読売新聞」ともども)積極的に近づかないでいたことも関与しているでしょう。

先日、「週刊G誌」のU記者と話した際に、産経新聞の中国関係の記事が、他の各メディアを圧倒する充実した内容だ、ということで意見が一致したのです。量的に多いというだけでなく、(中国に対しての姿勢の是否はさておき)本当に中国のことを知っている人でなければ書けない的確な指摘がなされているということ。ひとえに(矢板明夫氏ら)特派員諸氏の手腕なのだと思います。

それとは別に、20数年ぶりにお会いした論説委員のN氏や、先日はじめてお会いしたO氏が担当する科学面の記事も充実していることから、「産経も捨てたものではないな」という感想を持ち、最近になって産経新聞を読むようになったのです。

そのような流れの中で、今回N論説委員の仲介で科学紙面での短期連載を引き受けることになりました。3ヶ月間とは言え、毎週数万円の収入を得ることが出来るというのは、超貧乏な僕としては経済的に大変助かるというのが本音ではあります。

でも、“この話は断わるべきではないだろうか”と、、、、。

すでに原稿も送っていて、ドタキャンを実行すれば収入の道も閉ざされてしまいますし、現実にはそんなことは不可能なのですが、“道義的?”には、この新聞での連載など“やってはならないこと”なのではないか、という想いが、心の隅にあります。

産経新聞が“右寄り”のメディアである(ただし多くの日本の市民はそうは思ってないことでしょう)ことは、もともと承知していたわけですけれど、それにしても、ここ数日の紙面は余りにも異常であるような気がします。

4月26日、産経新聞が提示する日本の新憲法の雛形としての「国民の憲法」要綱を発表しました。12章117条からなるこの“新憲法”は、「天皇を元首」と明記し、「独立自存の道義国家」を目指し、「国旗・国歌」を規定、「国防のための軍」を保持する、等々、、、、。まあ、このように抜書きすれば、“なるほど”と思う気もしますが、実のところは「たとえ戦争をやってでも、国民の皆が一致団結し、自分たちの利益を守ろう」ということであり、先の戦争(日中事変→第2次大戦)前夜の状況と、まるっきり変わっていないのです。

一番怖いのは、多くの市民が、自分たちこそ「中道」だと思っていること。少数の意見は無視、多数(強者)が少数(弱者)を排除する(意識的に行うか否かの問題ではなく結果としてそのような方向性を確立してしまうこと)。実質的な多数(強者)による少数(弱者・異端者)の排除は、法に守られ、大衆の理解や支持を得られているだけで、根本的には新大久保のヘイトスピーチと何ら変わることがないと思います。

安倍首相の「アベノミクス」を持ち上げ、黒川総裁の「異次元金融」に期待する(早晩間違いなく崩壊します)
市民たちの頭の(心の)構造は、どうなっているのでしょうか?

「アベノミクス」は、金持ち、特権階級に対しての政策です。僕が言う“金持ち”“特権階級”というのは、一握りの人々を指しているのではありません。「権力からの無自覚な恩恵」を受けている、ほとんどの日本国民を指します。早い話、大半の日本の国民自体が“権力”そのもの(権力の作成者)なのです。

政府の言う「貧困層を減らし、国の繁栄を、、、」という言葉は聞こえが良いのですが、皆が金持ちになる(正直言って僕もなりたいけれど、、、笑)ことなど有り得ないでしょう。「貧困層を減らし」の“減らし”に問題があるわけで、取りこぼされた人々に対する配慮は毛頭考えていない。

そもそも、貧困であって何が悪いのでしょうか? 金持ちになることよりも、もっと大切なことがあるはずです(今の中国を見ていれば分かるでしょう、、、金持ち連中がいかに醜いかということが)。

実のところ、僕の知人のほとんどは「非自民」系の思想の持ち主だと言ってよさそうなので、そのことから考えれば、自民党が躍進し、アベノミクスが支持されることなど有り得ないように思えるのだけれど、エディターやクリエイターという人種は、「国民」全体からすれば、ごく一部の、異端的な存在なのですね。

僕は「国民」という言葉に(おそらくは無意識的に)拒否反応があるのです(だから、これも無意識的に「市民」という表現を多用しているようです)。ほとんどの国民は、自分たちの利益と安泰しか考えていない(そして問題なのは“そうとは認識していない”ということ)。

権力(その中には僕などの立場からすれば一般市民の多くも含まれます)の意向に従わねば、実質的な「国民」とはいえない。価値観の違う人々により、大多数の特権と安定が乱されることは、あってはならない。そういった生温い“風”を、お上が送り、人々もその“風”に乗ろうとする。メディアは扇風機みたいなものです。

“国民の総意”なんてのは、嘘っぱちだと思っています。「日本の国民の皆が、、、」と言ったって、大抵の場合、僕の意見とは異なるわけで、異なる意見の人は僕以外にも何人もいることでしょうから、それらの人々は「国民」中には数えられていないことになります。

安倍さんの目指す憲法96条の改正とは、一言で言えば「国を守るためには戦争をしても良いようにする」ということです。改正のためには国民の3分の2の賛成が必要、という規約を2分の1に変えようとしているわけです。国民の半分が改正に賛成しているのだから変えないほうがおかしい、と。

普通に考えてみてください。半分が賛成、ということは、半分が反対、ということです。過半数の支持者がいるのだから法案を通すべき、というのは、逆の立場からしても、やはり半分の支持者がいるわけで、そんなことは幼稚園児でも分かるはず。

「国家・国民は運命共同体」であり「人に人柄があるように国にも国柄がある」従って「わが国の特徴を(憲法に盛り込み)骨格に規定していく」などとも言っています。本来、国民たるものは、“国柄”に縛られるものではないはずです。様々な異なった思考や生活風習をもつ人々が集まって、漠然とした輪郭の“国柄”が形成されるものです。規定の中に“国民”を閉じ込めてしまうなど、余りにも馬鹿げています。それじゃヒットラーと同じじゃないですか。

(ちなみに、「我が国」という表現をするのは「右」、「この国」という表現をするのは「左」。前者は主観主導、後者は客観主導、ということになるのだと思います。)

上記した「96条改正のための賛成反対の比率が半々」というのは、反対44.7%と賛成42.1%で、正確には反対のほうが上回っているのです。そのため安倍さんは「まだ反対の人々がいるので慎重に改正を進めなくては」などと言っているようですが、何たる傲慢な態度であることか。一般市民の相当に多くの人々が、安倍首相や産経新聞のいう“国民の総意”に対して疑問も感じているわけで、だから強引に“風”を送ることにより、その芽をも摘んでしまおうと言うことなのでしょう(今の日本は中国とそっくりです)。

4月27日付けの一面見出しには、目を疑いました。「東大に巣くう軍事忌避」。これが、大メディアのする表現 でしょうか?「第2次大戦およびそれ以前の不幸な歴史に鑑み、一切の例外なく軍事研究を禁止する」姿勢を、明確に「害」であると。それもひとつの見解には違いありません。しかし、そうは考えていない国民(それらの人々は“国民”とは認知してもらえないのかも知れませんが)も、少なからずいることは事実なのです。

4月28日には、政府による「主権回復式典」が行われました。しかしこの日は、沖縄に於いては「屈辱の日」、奄美に於いては「痛恨の日」でもあります。朝日新聞の紙面では、「主権回復の日」としての安倍総理の式辞要旨と並列して、それに抵抗する「沖縄抗議大会決議」の要旨を、それぞれ客観的に紹介しています。まあ、朝日は“非国民(沖縄県民は国民とは勘定されていないわけですね)”の代表ですから、ますます多くの正しい“国民”に軽蔑されるわけです(僕にしても、朝日で仕事を打ち切られ、代わりに産経から仕事を貰っているわけで、、、心境は複雑です)。

一方、産経は、「主権回復の日」の意義を正しいとする前提のうえで、「沖縄の主権」も(潜在的に)回復した、という論調の評論を行っています。沖縄を“わが国”と認識しているのは、本土の人々だけのように思えるのですが、、、。中国の、チベットやウイグルへの対し方を、笑えないのではないかと。

今日4月29日の産経一面見出しは、「家族尊重で少子化克服」。もちろん悪いことではなく、それも大切だと思います。けれど、家族のいない独り者や、子供を持てない人々のことは、どう考えているのでしょうか? どうもこれらの標語の中には、「例外や異質を認めない」「強いもの勝ち」「皆が同じ思想の下に」といった志向の匂いを、色濃く感じるのです。

「アベノミクス」による恩恵は、多数派にのみ齎されるものです。よって皆こぞって多数派を目指す。そして、弱者、異端、無駄、例外、、、は、切り捨てられてしまう。

今の世の中(ことに日本)で大事なのは、すぐに答えを出すこと、便利なこと、効率的なこと、楽なこと、、、。本来の意味での多様性、異質な存在や無駄の大切さを忘れてしまっている。

もともと日本という国の特性(それこそ“国柄”ですね)は、“ホモ志向”であるということ。安定を良しとし、 変動を忌避する。内に収斂し、外への拡散を嫌がる。だから、欧米のカルチャーのような、無から何かを生む出す、という“ヘテロ志向”とは相容れない(出来上がったものを改良発展させるのは大得意ですが)。大きなリスクの伴う挑戦をやらないだけでなく、それを実践することは社会を乱す“悪”と見做されてしまう。

生物の進化と繁栄は、対極にあります。進化は、異端的・例外的・衰退的な集団からのみ成され、繫栄に浸りきった集団は、いずれ滅びるのです。

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Dick Clark interviews Johnny Tillotson

2013-04-29 14:34:25 | アメリカン・ポップスearly60’s


Dick Clark interviews Johnny Tillotson







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日本マイクロソフト社の犯罪

2013-04-28 18:47:20 | 

結局、日本に戻ってきてから2週間、必死で(何通りもの組み合わせを使って)アカウントの回復作業を行っているのだけれど、未だに本人の証明が出来ません。

★「名前」の欄は、ローマ字で記しているはず。念のため、漢字とカタカナも組み合わせて送信しています。

★「国名」はもちろん日本。

★「住所」は、東京。他の可能性は神奈川か兵庫。

★「郵便番号」は、それぞれ住んでいた場所のもの。

問題は、★「次の秘密の質問の答え」というところで、その「質問」の欄は空欄(文字化けで?????に)、質問自体が分からないから答えようがない(2年前に回復作業をしたときは、ちゃんと質問があった)。

あや子さんに一週間ほどかけて調べてもらい(教えてgoo)、やっと、「質問」らしきものを見つけました。
(ちなみに、「面倒だから新しいアカウントを取ったら?」という無責任な回答もあったけれど、アカウントを回復するために苦労しているのではなく、中に入っている送信されたアドレス等をチェックすることが目的)

質問と、僕の答えられる範囲。

●母または父の旧姓は? ■母の旧姓は「南海」
●お気に入りの映画は? ■映画は見ない
●運転免許証の下5桁は? ■運転免許は持っていない
●初恋の人の名前は? ■覚えていない(小学校の頃、、、正確な名前は忘れた)
●尊敬する人の名前は? ■答えるとすれば、野茂英雄、岡本綾子(?)、Bert Kaempfert、、、、辺りではないかと。
●配偶者のくせは?  ■配偶者はいない
●両親の結婚記念日はいつ? ■知らない
●大好きなペットの名前は?  ■ペットを飼うことは嫌い(いない)
●最初の子供の誕生日は?  ■子供はいない

この中で、前回覚えているのは、「母の旧姓」があったような気がする、ということです。
あと、可能性があるのは、「尊敬する人」ぐらい。ほかは答えようがない。

★「このアカウントで使ったことのあるほかのパスワード」(4つまで)。
=日本第*位の山と、前回新しく作った改定ワードの二つだけ。これは間違いありません。

★「迷惑メール等々、規定のフォルダー名以外で、これまでに作成したフォルダーの名前」(4つまで)。
=作成していない(その旨記入)。

★「最近送信したメールの件名」(4つまで)
=「memo」「追記」「19」「20」。これも間違いはない(念のため他のも記している)。

★「最近メールのあて先として使ったメールアドレス」(4つまで)
=モニカ、あや子さん、某出版社などで、間違えようがない。

★課金情報の4つの質問(「プリベートカード番号最後の5桁」「クレジットカードに記載している名前」「クレジットカード番号の最後の4桁」「有効期間」)は、カードを持っていないので応えようがない(「記載していない」と記入)。

以上、それぞれ可能性としては3パターンづつある、名前の筆記文字、住所と郵便番号の組み合わせなどを変えながら、何度も送信しているのに、ダメ出しの返答(下記)が、毎回一瞬の間(1分とかからない、、、それ自体がおかしいと思う)に返ってきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お客様のセキュリティ確保を重視しています
先日より、aoyamajunzo@hotmail.co.jp へのMicrosoft アカウントの復元に関するご依頼を数回いただいておりますが、誠に残念ながら、お送りただいた情報からは、お客様が対象アカウントの所有者様であることを確認できませんでした。マイクロソフトでは、お客様のセキュリティおよびプライバシーをきわめて重視しており、お客様の個人情報の保護に万全を期しています。そのためマイクロソフトは、悪意のあるさまざまな行為からお客様を保護することを目的に、入念なアカウント復元プロセスを定めています。
次に行っていただくべきこと
複数回アカウントの復元をご依頼いただきましたが、いずれも成功に至りませんでした。そのため、新しいアカウントを作成し、ご利用いただくことをお勧めいたします。アカウントはすぐに作成できます。マイクロソフトが提供する各種サービスを利用していただくことで、連絡先のインポート、Facebook との連携、複数のメール アカウントからのメッセージ受信設定などを簡単に実行できます。
> 新しいアカウントを作成する
新しいアカウントを作成することにより、以下のサービスをお客様が所有するあらゆるデバイスからご利用いただけます。
•無制限の容量、軽快な動作、厳重なセキュリティを備えた、最も優れたメールサービスの 1 つです。
•友人や家族といつでも会話を楽しめるだけでなく、ソーシャルネットワークサービス上の更新情報を確認したり、Facebook の友達とチャットをしたり、ビデオ通話で思い出を記録することができます。
•書類や写真を保存し自由に共有できる、無料のオンライン ストレージです。
今後、アカウントにアクセスできなくなった場合に備えて
新しいアカウントを作成した後、お客様の携帯電話の情報と連絡用メールアドレスを追加して、パスワード再設定情報を更新されることを強くお勧めします。これによって、今後アカウントにアクセスできなくなった場合にも、アカウントに簡単にアクセスできるようになります。
> 新しいアカウントを作成する
お手数をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
Microsoft サポート チーム
Microsoft Corporation
One Microsoft Way
Redmond, WA 98052
USA
アカウント復元のご依頼 (86168239) の処理は完了しております。このメッセージは配信専用のメールボックスから送信しているため、このメッセージへの返信はお控えください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんとまあ、無責任極まりない文章であることか。

こちらから返信質問できないのだそうな(笑)。

それで、電話でマイクロソフト社に連絡すると、「直接社に訪ねて行ったりすれば犯罪行為として警察を呼ぶので、その旨心置き願いたい」と。

僕だけではなく、同じような状況に陥って、途方に暮れている人々が山ほどいるようです。

責任逃れのために安易に勝手にアカウントを止め、現実問題として、本人確認が取れないようにしてしまっている。それでもって「悪人から守ってやっているのだ」と。利用者の立場なんて、これっぽっちも考えていないということです。

何度も言うけれど、「個人情報を守る」というお題目を借りて、本当の「人権」を無視してしまっている彼ら(日本マイクロソフト)こそ、「悪意のあるさまざまな行為」を平気でやり続ける“極悪人”だと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

30日に中国に戻ります。引き続き交渉を繰り返し、どんなことをしてでも、「自分」が「本人」であることを証明するしかありません。あらゆる方法を繰り返しても上手く行かないとしたら、実力行使をするか、裁判に訴えるか、、、、

彼ら(日本マイクロソフト社)を許すわけには行きません。
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読者の皆様へのお願い~四川雅安地震被災地への援助

2013-04-28 02:02:54 | 
「ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代」の読者のNさんより、カンパを頂きました。有難うございます。

4月27日 援助協力者 1人 協力基金 1万円  
累計   援助協力者 1人 協力基金 1万円


........................................................................................................


☆カンパ振込先口座

口座(国際キャッシュカード)
三井住友銀行 大船支店 普通口座 6981197 青山潤三

☆振り込んでいただいた方は、

氏名

振込金額

振り込んだ日付

を記載して、下記のアドレスにメール送信してください。


お礼の写真を送らせていただきたいと思います。


メールアドレス  jaoyama10☆yahoo.co.jp (☆をアットマークに)
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読者の皆様へのお願い~四川雅安地震被災地への援助

2013-04-27 02:07:11 | 
昨日26日をもって無事、「前期高齢者」の仲間入りを果たしました。モニカからは5通もお祝いのメールが届いたし、スーリンも電話で祝ってくれた。あや子さんからもお祝いメール頂いています! 河辺のマクドナルドの男の子たちや、福生のスターバックスの女の子たちも祝ってくれた。幸せだなあ、と言いたいところですが、そんな場合ではありません。29日の帰国(→中国雲南)に際して、成田空港までの交通費を、どう捻出しようかと、、、。

四川省雅安県。山間部には、まだ救援の手が充分に行き届いていないようです。みんな元気でいてくれれば良いのだけれど、、、、。本当に心配です。

読者の皆さん、援助の協力、どうかよろしくお願いします。

4月26日 援助協力者 0人 協力基金 0円  
累計   援助協力者 0人 協力基金 0円
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読者の皆様へのお願い~四川雅安地震被災地への援助

2013-04-25 01:47:45 | その他

『朝と夜の狭間で~My Sentimental Journey』の再開第2回は、
「アメリカのテロとイスラム、北朝鮮、日中関係、頻発する日本各地の地震と再び起こった四川地震、、、、」という表題で進めて行く予定でいたのですが、その前に読者の皆様へお願いがあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アカウントが停止されたインターネットを回復するため、とんぼ帰りで日本に帰ってきています。地震はその間に起こりました。28日に中国に戻ります。往復チケットを持っているため中国に戻る費用関しては心配ありません。

しかし、今回のアクシデントのために、20万円以上の想定外の予算がかかってしまいました。現在、無一文です。昆明に戻れば、無一文でもモニカが食べさせてくれる(情けない!)し、5月末からは週一回の新聞連載が始まるのでその頃には少し余裕が出来るでしょうが、それまでは身動きが取れない。

四川雅江地震の震源地、宝興川流域は、僕のメインフィールドのひとつです。沢山の友人がいます。心配でなりません。ことに、随分とお世話になった、「東拉物語」の子供たちのことが、、、、。中国に戻り次第、食料などを持って、被災地を訪ねたいのです。

僕は、大規模自然災害が起こった際にボランティア活動を行う人々に対しては、懐疑的です。だから、出身地の神戸(阪神淡路)のときも、そのあとに起こった、台湾中部(プーリー)地震のときも、雲南麗江の地震のときも、前回の四川(汶川)大震災のときも、いずれも直前までフィールドにしていた、僕にとっては特別な場所ではあるのですが、暫くは赴くことをしませんでした(まあ、助けに行きたくても、予算が無くてどうしようにも無かったのですけれど、、、)。

でも、今回ばかりは、そうもいかない。何が何でも、現地に赴こうと考えています。

そこで皆さんにお願いします。どんな小額でも構いません。食料や衣料などの購入、および現地での活動費用のためのカンパを望んでいます。

28日にホンコン、一度雲南にもどり、資金が確保出来次第、すぐに四川に向かおうと思っています。

芦山から宝興に至る、断崖絶壁の道路は、地震による崩壊と、交通渋滞のより、通行が困難と思われますが、雅安から歩いて行く覚悟です。

物資は必ず、子供たちの元に届けます。そして、現場に到達するまでの経過報告や、現地の状況の報告を随時行っていきます。カンパを頂いた方々には、以前震源地周辺で撮影した、様々な植物や昆虫や風景の写真原版を贈呈致します。

(連絡の方法と、口座番号などは、写真の追加とともに明日改めてアップする予定)

☆カンパ振込先口座

口座(国際キャッシュカード)
三井住友銀行 大船支店 普通口座 6981197 青山潤三

☆振り込んでいただいた方は、

氏名

振込金額

振り込んだ日付

を記載して、下記のアドレスにメール送信してください。


お礼の写真を送らせていただきたいと思います。


メールアドレス  jaoyama10☆yahoo.co.jp (☆をアットマークに)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2010年秋に43回連載した「東拉物語」を再掲載します。
(写真は明日追加予定)

【『東拉紀行』の前のシリーズの最終回のコメント】

、、、、この塔公の辺りから、おおむね西~西北方面(理塘など)にかけて、急峻な地形の東~東南方面とは対照的に、地形がフラットになります(標高3500~4500m)。そして、その一帯が、純粋なチベット民族の居住地と重なります。

急峻な地形の東~東南方面(康定など)は、本来はチベット族居住地であった地域に、漢民族文化が押し寄せていると言うのが現状。

さらにその東の、標高5000mから500m(四川盆地)に切れ落ちる森林に覆われた“グリーンベルト”(=“龍門山断層”)周縁が、漢民族文化圏の末端(チベット的な要素が混在)です。大地震や大洪水など、しばしば大規模な災害に見舞われるのも、この地域。

次回からは、その漢民族文化圏末端の町・宝興の、さらにそのまた奥の集落の紹介を予定しています。

繰り返し言うように、僕は人間の文化や歴史には全く興味がありません。人間が住むようになる時代よりも遥かな昔から、これらの地に息づいている野生の生物たちの“成り立ち”に、興味を持って調べているのです。ところが面白いことに、たかだか数千年の人間の歴史と、数100万年に及ぶ生物の種の歴史の構造が、見事にオーバーラップする。例えばカラスアゲハの系統関係にしろ、野生アジサイの系統関係にしろ、上に記したチベット族と漢民族の相関性と、極めて似ているのです。その辺りの“秘密”を探っていきたい、と言うのが、僕の夢でもあります。


【東拉紀行2010.7.6 ①】

東拉大渓谷のある宝興県は、日本ではどのくらい報道されているか分からないけれど、8月17日から21日にかけての、豪雨災害の中心地の一角でもあります。昨8月21日に再々訪する予定で、入口の雅安まで行っていたのですが、道路が決壊していたため、訪れることが出来ませんでした。

↓写真は21日。宝興行きの雅安のバスターミナルで。

宝興県には、今夏、何度か訪れていて、その紹介(宝興の町、宝興江北端の集落Qyao-qi、四姑娘山に抜ける途中の来金山の峠周辺の、昆虫や植物や風俗など)を、「雅安・バス待ちの間に見た蝶」に続きシリーズとして紹介して行くつもりでいました(予定稿も出来上がっています)。しかし、ブログには未掲載のまま。したがって、順序が逆になりますが、後になって訪れた(8月7日-10日)、宝興の町からqyao-qi-来金山に向かう渓谷とは反対側の、龍東-東拉大渓谷入口への紀行を紹介して行きます。

↓宝興の町。


↓砕石場から次々と巨大な石が運ばれてきます。

↓川向うにカラスアゲハの探索に。

↓川向うから見た町並み。


【東拉紀行2010.7.6 ②】

↓龍東への包車。中国の男性は、いつもお腹を出しています。


↓川で何を拾っているのでしょう?


↓流木の切れ端のようですね。


↓途中、ミンミンゼミの群がり鳴くニレ?並木が(一本の木の2mの高さまでに12頭=全て♂)が。


【東拉紀行2010.7.6 ③】

↓龍東の町。
↓左の谷が、東拉山大渓谷への道です。
↓町のホテルに泊まると公安がやって来て僕の写真を撮りまくります。
↓東拉大渓谷の方向を部屋の窓越しに望む。


【東拉紀行 2010.8.7 ①】

↓ 10㎞ぐらいは歩いても平気。
↓ 村と言っても道沿いには数軒の民家しか見当たりません。
↓ 約5㎞地点。
↓数軒のうちのひとつ(右側に建物がある)、民宿も兼ねている?


【東拉紀行 2010.8.7 ②】

↓ 谷が2つに分かれていたので人気(ひとけ)のない右の谷へ。
↓ 気持ちの良い清流。ここで3日間カラスアゲハの探索を。
↓ パンとボトルウオーターで遅めの食事。
↓畑のおじさん。草帽子がカッコいい!


【東拉紀行 2010.8.7 ③】

はじめに

標高200~700mの、漢民族の手で開発され尽くしたと言っても良い沖積平原・四川盆地と、標高4000~5000m超の、荒漠たるチベット高原の境界に、例の大地震を引き起こした龍門山断層が、四川盆地の縁に沿って斜めに走っています。中国で最も豊かな植生を擁する、奇跡の“緑の回廊・グリーンベルト”です。

中国西南部の大都市・成都の西約80㎞の地点に、西嶺雪山という山があります。標高は5368m、成都の標高が約500mですから、5000m近い標高差、その氷雪の峰が、東京からならば、箱根か丹沢辺りの距離に屹立しているわけで、この辺りの地形のスケールの大きさが窺い知れるものと思います。

大規模なスキー場があり、中国では有名な観光地のひとつです。しかし外国人には(少なくとも「地球の歩き方」に紹介されている観光地以外には出向きはしない日本人には)全く無名の地と思われます。僕が最初に訪れたのは、1989年春、次いで1990年夏(まだスキー場が開発されていなかった当時は、大飛水とか大邑原始森林と呼ばれていた)、そして大きく飛んで、昨2009年夏。

成都の都心からバスで2時間、リフトに乗って標高2000m未満に広がるスキー場へ、さらに(もしかしたら世界1ではないかと思われる)長大なリフトで、標高3000m超の稜線まで一気に辿りつきます。稜線上のピークからは、谷を隔てて標高5368mの西嶺雪山に対侍し、その向こうには標高6250mの四姑娘山が聳えているのです(ここからは西嶺雪山に隠れて見えない)。

西嶺雪山を眺める稜線上のコルには、「陰陽界」という名がついています。ここまでは現世、この先は異郷。まさにその境い目なわけです(実際に、この付近で、漢民族とチベット民族の居住圏が入れ替わります、、、、詳しくは後述)。

50年近く前、屋久島をはじめて訪れた時のこと。鹿児島港を出港、錦江湾を出たところで、行く手の洋上に、異様な三つの島が現れました。噴煙を上げる赤く色鮮やかな山肌の硫黄島を中心に、左手前に緑のリュウキュウチクに覆われた真っ平らな竹島、右遥かに黒々とした原生林の中の黒島、、、、。それまで関西から遠出をしたことが無かった少年の僕に、“異境への旅立ち”を強く印象づけたのです(実際、この辺りを西へ進むと、中国大陸に、南へ進むと、琉球から台湾に向かいます)。

どうも僕は、現世から異境へと移り変わる“狭間”に、強く惹きつけられる傾向があるようです。

その三島列島から西へ2500㎞、全く同緯度上(北緯30°30′~50′)に位置する、西嶺雪山にやって来て、50年前と同様の感慨に浸ることが出来たのは、何かの縁かも知れません。

さて、四川盆地とチベット高原を隔てる“グリーンベルト”の、盆地の縁に面した側に西嶺雪山は位置するわけですが、チベット高原の東端に接しているのが、大渡河(長江の一大支流)寄りに峰々を連ねる来金山です。西嶺雪山・来金山とも、北は四姑娘山に発し、標高5000m前後の稜線が南北100㎞近くに亘り連なっています。その間に深く食い込んでいるのが、青衣河(やはり長江の一支流)上流の宝興江です。

中心都市は・県都(宝興県)の宝興(Bao-xing)。先々月(7月初旬)、宝興から来金山の峠を経て四姑娘山へ向かった際の紀行文の第一回目を「雅安でのバス待ち時に見たチョウ」として紹介したのですが、そこでストップしたまま今に至っています。そのあと宝興の町の紹介なども行う予定でいたのだけれど、順序を入れ替えて、先にこちらの紀行(東拉紀行)を紹介して行くことになった次第です。


【東拉紀行 2010.8.7 ④】

僕は、人文的な分野においては知識も興味もありません。適当に、自分が感じたことを記しているだけなので、内容には責任を持てない、ということをご了解下さい。まあ、おおむねある程度は当たっているのではないかと思うのですが。

チベットのことを、中国では「西蔵(シーザン)」と呼びます。でも、本来「蔵」自体がチベットを指すわけですから、「西蔵」は西チベット、ということになるはず。「東蔵」はあるのでしょうか?たぶん(今の中国には)無いと思うのですが、旧・東チベットは、確かに存在していたのです。チベット全域の東半分、現在は四川省に組み入れられて、北東の阿壩蔵族羌族自治州(州都は馬爾康)と、西北~南の甘孜蔵族自治州(州都は東寄りの康定、西寄りの中心都市が理塘、西北寄りの中心都市は甘孜)が、それに相当します。

四川省は、成都市をはじめとする18市と、3自治州から成っています。【かつて四川省の一部だった重慶市は、10余年前四川省から分離され、省と対等の直轄市(ほかに北京市、天津市、上海市)に格上げされました。成都と重慶は、なにかにつけて比較され、「2都物語」(本家はパリとロンドン、ちなみに「3都物語」は京都・大阪・神戸)の名の書籍(小説なのかノンフィクションなのかは不明)などもしばしば見かけます。以前は列車で10時間以上かかりましたが、今は時速200㎞の新幹線が、350㎞余の両都市間を、2時間ジャストで結んでいます。】

市の下の行政単位は、日本とは相当に異なり、非常に複雑です。例えば成都市(一応東京都に相当するとしておきましょう)で言えば、市の下に、9つの区(大都市の中心部、東京23区の様なもの)、都江堰市(位置的には八王子市に相当)など4つの市、及び6つの県から構成されています。県と(大きな市の中の)小さな市の違いは、僕にはよく解らないのですが、市のほうが、都市的様相を帯びていると考えて良いでしょう。

さて、四川省には、上記した「旧・東チベット」に相当する2つの自治州を除くと、19市(涼山イ族自治州を含む)の許に、149の区・県・市が存在します。その大半は、人口100万人前後(ほぼ全てが10万人を超します)、面積は多くが100k平方㎞前後か、それ以下です。その中で、人口10万人以下の自治体が2つあり、ひとつは、人口5万人の金口河区(楽山市)、もうひとつが、人口6万人の宝興県(雅安市)。ただし、前者の面積が50万平方㎞台なのに対して、宝興県は300万平方㎞を越えていて、人口密度からすれば、金口河区と比べても、他の全ての自治体と比べても、圧倒的に少ないのです。宝興県の人口密度は、149自治体のうち、断トツの最下位ということが出来ます。

一方、旧・東チベットの2つの自治州の下に置かれた、31の自治体(全て県)は、大半が面積400平方㎞を越え、かつその多くは、人口5万人未満です。人口10万以上(いずれも11万)の県は3県あり、汶川県、茂県、康定県で、前2つは400万平方㎞台、後者は1100万平方㎞強ですから、その三県にしても、上記の(旧・東チベットを除く)149の自治体の全てに比べれば、遥かに人口規模は小さいことになります。すなわち、面積ではほぼ半々の、四川盆地を中心とした漢民族(+イ族)居住圏と、旧・東チベット地域は、人口密度に於いて、その数値が極端なまでにかけ離れているわけです。

そして、漢民族居住圏の中で、唯一、東チベット的数値を示す(面積が広く、人口が少ない)のが、宝興県。漢民族居住圏最奥の地は、数字の上でも、そのことを示している、と言えるのです。


宝興は、一部の人々にとって“係恋の地”とも言える存在でした(今は簡単に行けますが、20年ほど前は、様々な制約があって、外国人が入るのは、非常に困難だったのです)。百数十年前、ダビット神父たちによってパンダが発見(現地の人々は古くからその存在を知っていたのですから、正確には“発見”でなく“確認”というべきなのでしょうが)された地であり、その他の植物・動物・昆虫についても、この一帯で発見・命名された種が数多く存在します。

もっとも、僕が今回ここを訪れたのは、別に珍しい動植物を探しに来たわけではなく、カラスアゲハやミンミンゼミの調査に当たって、成都から比較的近いこの地を選んだのに過ぎません。

前回(7月上旬と中旬の2回)は、宝興から真北に向かい、来金山の峠、およびその向う側の四姑娘山を訪ねました。ちなみに、峠の手前の宝興江源流に位置するQiao-Qi(漢字が書けないのでアルファベット表記にしておきます)の町は、それまでの漢民族居住圏とがらりと変わって、チベット族の居住圏となります。

ほかの山奥の町でもそうなのですが、現在の(国民総旅行ブームの)中国では、いたるところが大観光地化されつつあり、このQiao-qiも町中がカラフルな新築のチベット民家(全て宿泊施設)で埋め尽くされています。同じ作りの、豪華な新築宿舎が百軒近くも並ぶ(その割には宿泊客の姿はほとんど見かけない)“古鎮”には、ちょっとうんざりです。

そんなこともあって、宝興から西方のもうひとつの谷に位置する、龍東(「ロンドン」と発音します、こちらも漢字が出てこず、とりあえず“龍”の字を当てておきますが、あるいは“隆”なのかもしれません)に向かうことにしました。宝興の町の道路標示に、龍東の先の“東拉山大渓谷”まで17㎞、の表示があり、地図には載っていないその渓谷の近くまで行ってみようと思ったのです。

以下、“東拉山大渓谷”へ行く途中の、小さな村(と言っても、数百m置きに数件の民家しかない)での滞在記、地名が特定できないので、とりあえず「東拉紀行」としておきます。主目的の、カラスアゲハやミンミンゼミのことについては、また別の機会に紹介することにします。

コメントは前回の塔公紀行(東拉から、来金山の山嶺と大渡河の深い谷を挟んで、真西へ100㎞、共に屋久島と同じ北緯30°20′線上に位置していますが、こちらは乾燥した草原の広がる、チベット民族文化圏の真っただ中です)編に引き続き、あや子さんの想像でコメントを入れて行って貰おうと考えたのですけれど、一応僕の手で、短いコメントを入れておきます。


↓成都-雅安:高速バス2時間/45元
↓雅安-宝興:路線バス2時間/20元
↓宝興-隆東:乗り合い包車30分/6元(個人利用の場合は40元)
↓隆東-洪冲旅店:バイク15分/5元(徒歩約1時間)
↓洪冲旅店-東拉大渓谷入口:バイク15分/20元(徒歩約1時間)

旅店=民宿とモーテルの間の子のようなところ、実質的には洗車場で、宿泊客はほとんどいないものと思われます。

洪冲旅店のある場所の地名は、おそらく【雅安(ヤーアン)市/宝興(バオシン)県/隴東(ロンドン)鎮/崇興(チョンシン)村】で良いのだと思います。Qiao-Qiの漢字名は磽磧。

↓ 椅子に干した野菜?が、ちょっとしたアートに。
↓ 村は山の中にあるのかも知れませんね。
↓ 行きに通った民宿?まで戻って来ました。
↓ 汚なく態度の悪い町のホテルより、ここに泊まった方が。


【東拉紀行 2010.8.7 ⑤】

↓ 泊まれるかどうかを確認。O.K.です。
↓ 両親は日が暮れた頃に帰宅、婆ちゃんと子供たちだけです。
↓ まあ人懐っこいこと。この後3日間、ずっとこの調子です。
↓ 3人姉妹の末っ子6歳。


【東拉紀行 2010.8.7 ⑥】

↓左は近所の若いお母さんの一人娘(4歳)。
↓後ろ左は3人姉妹の真ん中(10歳)。
↓中央は3人姉妹の長女(12歳)。隣のお姉さんたちも登場。
↓真ん中は、隣の姉妹の姉(25歳)。


【東拉紀行 2010.8.7 ⑦】

↓右は隣の姉妹の妹(22歳)。姉妹とも小学校の先生だ、独身だそうです。
↓ワンちゃん。
↓この2人はいつも一緒にいます。
↓元気溌剌。


【東拉紀行 2010.8.7 ⑧】

↓ お父さんお母さんが帰って来て夕食です。
↓ 豚小屋の隅っこにトイレ(屋内にも綺麗なトイレあり)。
↓ 僕の部屋。清潔でシンプル。
↓ 子供達の乱入が無ければ、仕事部屋に最適なのだけれど。 


【東拉紀行 2010.8.8 ①】

↓ 朝です。例のポーズで僕が出てくるのを待ち構えていました。
↓ 花を写せとリクエストが。
↓ これも写せと。
↓ これも。美味しい莢豆の花です。


【東拉紀行 2010.8.8 ②】

↓猫ちゃん。
↓長女は大人になったら美人になること請け合い。
↓勢揃い。でもなぜ女の子しかいないのでしょう?
↓三家族(お父さんたちが兄弟?)が一緒に暮らしているみたいですね。


【東拉紀行 2010.8.8 ③】

↓ヒヨコちゃんも写してね!
↓聡明な長女としっかりした二女。
↓わ、わ、わ、わたしも!!
↓必死の形相です。


【東拉紀行 2010.8.7 ④】

↓ 露草を採って来ました。物憂げなお姉ちゃん。
↓ 二女はいつも一歩退いていますが、実は長女にはライバル心が。
↓ 末娘は表情が豊かです。
↓ ツユクサは僕にとって特別な花なのです。


【東拉紀行 2010.8.7 ⑤】

↓天気は今一つですが、出発。
↓カラスアゲハの谷まで2㎞ほど。
↓レテノールアゲハ(Papilio alcmenor)。ナガサキアゲハの仲間で、オナガアゲハにごく近縁。
↓真っ裸で川にドブンして、ウ〇〇。


【東拉紀行 2010.8.7 ⑥】

↓お昼に帰って食事。昨夜のメニューと同じです。
↓虫を探そう。
↓イトトンボ写して!(キイトトンボ)
↓蝶もいたよ!(チョウセンコムラサキApatura iris)


【東拉紀行 2010.8.8 ⑦】

↓ (タッパンルリシジミ)
↓ 捕まえたから写して!
↓ こんなチョウも捕まえた、、、。
↓ (これは凄い!日本では絶滅の危機に瀕しているクロシジミです)


【東拉紀行 2010.8.8 ⑧】

↓ 見つけた!写して!
↓ (キマダラサカハチチョウAraschinia doris)
↓ これも写して!(超普通種のアカタテハ)
↓ これも!(世界的超普通種ヒメアカタテハ、こんな機会でもなければ写さない)


【東拉紀行 2010.8.8 ⑨】

↓もっといないかなぁ。
↓いたいた!(おいおい!)
↓捕まえた!(服が汚れる!)
↓私も写してね!


【東拉紀行 2010.8.8⑩】

↓自慢の顔!(オオモンシロチョウ)。
↓私も捕まえなくては(二女)。
↓交尾中のキイトトンボも捕まえた(くやしいなぁ、、、)
↓(ちょっと残酷な気が)


【東拉紀行 2010.8.8⑪】

↓そろそろ再出発しなくては(バイクの後ろに乗って)。
↓検問所でバイクを降りて。
↓無料で今日も少しだけ入れて貰いました。
↓あまり奥まで行かないうちに引き返します。


【東拉紀行 2010.8.8⑫】

↓ミスジチョウ属大型種。もしかしたら新種かも(拙書「中国のチョウ」に記述あり)。
↓樹上からセミが落っこちてきた(ヒグラシの仲間の♀)。
↓ヤナギイチゴに産卵に来たキマダラサカハチチョウ♀。
↓オケラの一種。


【東拉紀行 2010.8.8⑬】

↓渓谷が綺麗!秋10月が最高なのだそうです。
↓奥は、標高5000mまでトレッキングルートが伸びています。
↓外国人は、アメリカ人に次いで2人目だとか。サインを頼まれてしまいました。
↓西瓜も御馳走になって、、、。次回はゆっくりと来なくては。


【東拉紀行 2010.8.8⑭】

↓帰りは予定より遅くなってしまった。
↓途中まで来て待っていたのです。トンボ捕まえたよ!
↓お母さんも自転車で。
↓こちらはお父さん。楽しそうに大きな声で喋ります。


【東拉紀行 2010.8.8⑮】

↓長女の仲良しさんが遊びに来ていました。
↓手が余分です。
↓二人で撮りたいんだってば。
↓もう、しょうがないなあ。


【東拉紀行 2010.8.8⑯】

↓というわけで、再び全員集合。
↓なんだか楽しそうですね。
↓お得意のポーズ。
↓同じポーズを。


【東拉紀行 2010.8.8 ⑰】

↓即席のオリンピック?
↓三段跳びのようです。
↓負けず嫌いの二女は、いつも全力投球。
↓みんな元気!


【東拉紀行 2010.8.8 ⑱】

↓食事だよ~。今晩も同じメニュー。ある意味、大感動です。
↓食後のバトミントン。これが延々と続きます。
↓僕も参加したけれど、十数回に一回ぐらいしか勝てない。
↓25歳お姉さんと、若いお母さん。2強の対決です。


【東拉紀行 2010.8.8 ⑲】

↓陽が暮れて来て、やっと終了。
↓夕闇の中で、はい、パチリ!
↓やっぱり駆け込んで来ました。



【東拉紀行 2010.8.9 ①】

↓3日目の朝。
↓朝早くから野作業です。
↓男性陣は豚の解体の準備。
↓これからが本番なのだと思います。


【東拉紀行 2010.8.9 ③】

↓ただ一人の妹分なのです。
↓得意のポーズ!
↓25歳のお姉さんと、三姉妹の真ん中と一緒に、山に草刈りに。
↓50mほど離れたところの家の横から山に入ります。


【東拉紀行 2010.8.9 ②】

↓3日続けて同じメニュー。でも僕には特別に卵が2つ。
↓立ったまま朝ご飯。
↓動き回っていないと落ち着かない性分なんだろうなぁ。
↓妹分がやってきた。


【東拉紀行 2010.8.9 ④】

↓オジサンが背負っているのは、木の皮みたいですね。
↓どうやらトウモロコシ畑のようです。
↓見下ろした民家。
↓豚の解体作業をしているオジサンたちが見えます。


【東拉紀行 2010.8.9 ⑤】

↓チョウがいたよ!
↓葉の裏に何かが張り付いています。
↓ストロボを発光して写すと。
↓キコモンセセリの仲間。


【東拉紀行 2010.8.9 ⑥】

↓トウモロコシ。
↓ツユクサの一種。
↓ノジギクの一種。
↓これは何の花だっけ?


【東拉紀行 2010.8.9 ⑦】

↓収穫を終え、下山します。
↓たぶん豚の餌だと思うけれど。一部は人の食糧かも。
↓下の家も旅館をやっているのですね。
↓栽培している花を採っちゃダメだよ!


【東拉紀行 2010.8.9 ⑧】

↓戻って来ました。
↓豚の解体も、ほぼ終了です。
↓22歳のお姉さんのお出迎え。
↓美人だよね!


【東拉紀行 2010.8.9 ⑨】

↓僕にもおすそ分け。これがとても美味しい!
↓隣のお母さんと姉妹。
↓男の子がいたぞ!写真取らせて!!でも照れ屋なのです。
↓女の子のほうが強いようです(負けてあげている)。


【東拉紀行 2010.8.9 ⑩】

↓やっぱり主役は私!
↓隣の伯父さんと。
↓いつも無表情なのが凄い。
↓3人で仲良く。


【東拉紀行 2010.8.9 ⑪】

↓誰かがセミを見つけてきた。木に止まらせて撮影。
↓見たことのない変わったセミです。
↓またいたよ~(これはナメクジ!)
↓こっちも綺麗だから写して~!


【東拉紀行 2010.8.9 ⑫】

↓部屋に持ち帰ってヒグラシと2ショット。
↓帰る前にもう一回カラスアゲハの谷に出掛けます。
↓サファイアフチベニシジミ(Heliophorus sapir)がいた!
↓渓谷入口に到着。


【東拉紀行 2010.8.9 ⑬】

↓クロアゲハ&カラスアゲハ。
↓花はフジウツギ属(ブッドレア)。
↓10数分置きに回り廻って来ます。
↓カラスアゲハ。


【東拉紀行 2010.8.9 ⑭】

↓カラスアゲハ(だと思う)。四川省産は、ミヤマカラスアゲハとの区別が至難の業。
↓ルリモンアゲハ(Papilio paris)もカラスアゲハの仲間。
↓ルリモンアゲハ。
↓カラスアゲハ(中国西部産にはクジャクアゲハという別名が付いています)。


【東拉紀行 2010.8.9 ⑮】

↓戻って来ました。洗車中のトラックが2台。
↓足下をタイワンタイマイ(アオスジアゲハの近縁種)が舞っています。
↓トラックの間を飛び交うタイワンタイマイ。他ではなかなか写せないのに、皮肉なものです。
↓男の子もまだいました。隙を狙ってパチリ!


【東拉紀行 2010.8.9 ⑯】

↓昼ご飯を食べてから帰ることに。7食続けて同じメニューです。
↓大人は白いご飯。子供達は、残った混ぜご飯(これが実に美味しい!)。
↓最後に記念撮影。
↓また来るね!


【追記】
その後も何度か訪れ、いろいろな興味深い事実が分かって来ました。それらについては改めて紹介する予定です。
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未発表草稿「雲の彼方の白い国 ~成都-昆明“裏街道”をゆく」から

白い崖 【成都/雅安/ミニャコンカ/康定/塔公】の前半      

成都から高速動ジャスト2時間で、“世界の屋根”入口の町・雅安。かなりの大都市(ここでビザの再更新も可)ですが、街中に人力自転車が走り回っていることなど、なかなかに風情のある街です(僕は成都で宿泊せずに、ここまで来て泊まることが多い、ごくまともなホテルで個室シャワー付き一泊800円ほど)。国道318号線は、ここから青衣江(長江水系)支流の二朗河を遡り、チベット高原を目指して、一気に標高3000mの二朗山の峠まで駆け上ります(現在は2700m地点にトンネルが開通)。

↓雨の雅安と夜景


雅安のすぐ先から青衣江のもう一つの支流・宝興河(宝興からは西河)を遡ると、来金山の峠(標高約4200m)を越え、四姑娘山に向かうことも出来ます。来金山の峠の手前には、チベット族の集落・碊磧があり(通常チベット族のエリアは稜線を超えた向こう側にあるのですが、深い渓谷の源頭部周辺などでは稜線の手前に見られることもあります)、右側の山嶺の続きは、成都市民のスキー場として名高い西嶺雪山5364m(大邑原始森林、僕の長年のフィールドの一つ)、途中の宝興の町から東河を遡ると、000年前、ダヴィット牧師によって最初にパンダが発見された小集落(龍東)を通り、やはり標高5000mを超える東拉山と、その懐の渓谷に至ります(途中の小さな旅籠屋での4日間の子供たちとの交流を、ブログ「青山潤三の世界・2010年東拉紀行」で50回近くに亘って掲載していますので興味ある方はご覧ください)。

なお、この宝興県は、中国全土の“漢民族文化圏”の最奥の行政地域、そのことは数字上での証明も出来ます(上記「東拉紀行」の冒頭に説明あり)。


宝興の町の広場。夜には市民挙って踊り続けます。   
東拉渓谷の宿の子供たち。なぜか女の子ばかり。





撮影は全てバスの車中から窓越しに(このあと登場する写真の多くも同様です)。
雅安を出てすぐ右に宝興河が分かれます。最初の町が芦山。民家の壁が、芦山紹介の(ちょっとセクシーで色っぽい)絵で統一されています。



巨大な白い石(と言うよりも岩!)を満載したトラックが、ひっきりなしに通って行きます。
漢民族文化圏最奥の宝興渓谷は、パンダが最初に発見された地であるとともに、石灰岩の一大産地でもあるようです。道路の両側には断崖絶壁が続き、あちこちに石を切り出したと思われる採掘跡が露出しています。



宝興河(大きな滝がいくつも流れ落ちています、左)源頭の峠(来金山、写真左)を超えると、その向こうに標高6250mの四姑娘山(写真右)。峠の手前から先はチベット文化圏に入ります。峠を下った辺りから大渡江支流に沿って登山口の町・日隆に至る(反対方向に進むと後述する塔公に出る)道路沿いには、この地方独特の不思議なイラストが描かれた石壁の民家が続きます。


↓写真の約半数はオートバイ(有料)の後ろに乗って片手での撮影(でもカメラはちゃんとしたのを使っている=キャノンEOS)。


↓町が近づくと絵が青い色に。


国道318号線に戻り、西へ進みましょう。次の天全の町を過ぎると、あとは峠のトンネルまで標高差2000m強の登りです。いわゆる“亜熱帯から亜寒帯へ”の例えそのままの植生の移り変わりが見事で、チョウの種類も極めて豊富、盛夏7~8月には、野生アジサイ(Hydrangea asperaの一群の2つの種)が渓流沿いの路傍一面に咲き競い、それはもう見事なのですが、通行する車の数が余りに多いため、命がけの撮影・観察を覚悟せねばなりません。せめて、バスの窓から、移りゆく植生を眺めて貰いたいものです(大抵の人は、この区間眠りこけている)。

↓二朗山に至る318号線。


二朗山のトンネルを抜けると、眼前の光景が一変します。それまでの鬱閉した原生林の中の道とは対極の、褐色の岩礫とそこにへばりつくように生える草本からなる、チベット高原の世界。天気が良ければ、眼下に流れる大渡河の遥か上に、ミニャコンカ山系の白銀に輝く雪嶺を仰ぎ見ることも出来ます。


大渡河の畔まで、標高差1000m程の道を九十九折に下降、下りきった地点を右に向かえば康定、左に向かえばミニャコンカの入り口・海螺溝(磨西)に至ります。磨西までは路線バスで小一時間(成都からは沢山のバスが出ていますが、途中で捕まえるのは至難の業です、康定からはタクシーや包車となります)。

(以下、省略)

↓四姑娘山と巴朗山(チベット文化圏)
        

↓西嶺雪山(前回と今回の震源地に挟まれた地域)


↓ミニャコンカと二郎山(チベット文化圏)
    

↓巴朗山~二郎山(漢民族文化圏の末端地域)

(●前回の震源地は「都江堰~」の字の辺り)
(●今回の震源地は、芦山周辺)

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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代 【再開第2回】

2013-04-20 08:32:07 | アメリカン・ポップスearly60’s

今日はジョニー・ティロットソン74歳の誕生日です。Happy Birthday Johnny !!

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昨日とりあげた、Bobby Vinton「Halfway to Paradice」と、Johnny Tillotsonの「I Love Loving You」の2曲を紹介しておきます。


■Halfway to Paradise (Carol King/Gelly Gofin)

Tony Orland(1944年生まれ)
1961年 Billboard Hot100第38位
Billy Fury(1940年生まれ)
1961年 英Melody maker 第3位
Bobby Vinton(1935年生まれ)
1968年 Billboard Hot100第23位/Adult-contemporary第8位

客観的にみればBobby Vinton盤が最もヒットしたと言えそうなのだが、、、、一般的には前2者のヒット曲としての印象が強いのだと思う。ただし僕はBobby Vinton盤を聴いてきた。Bobby Vintonは、実績から言えばこの時代のナンバーワン男性歌手だろう。50年代後半はエルヴィス、60年代はヴィントン。実は2人は同じ年で、上記2人やジョニーより4~9歳年上である。初ヒットは逆に3~4年後。後年、しばしば“3ボビー”の一人として認識されているようだが、本当の“3ボビー”(Bobby Darin/Bobby Vee/Bobby Rydel)より1~8歳上、逆に3ボビーやジョニーよりも数年遅れてブレイクし、第一線での活躍は、ずっと後まで続いた。

60年前半の“Pops黄金期”に全盛期を迎えた「狭間の世代」の歌手たちは、60年代後半以降、軒並み表舞台からフェイド・アウトして行ったのだが、(70年代中期になって突然復活したポール・アンカとニール・セダカはともかく)60年代~70年代を通じて第一線で活躍したのは、御大エルヴィスを別とすれば、Bobby Vintonただ一人である。日本では余りに知名度が低いのだが、大物中の大物であることには間違いない。

その大物歌手の謎。放ったヒット曲に、他人のヒット曲の焼き直しが実に多いのである。それも直近の、格下年下歌手の持ち歌。普通カバーの場合は何らかの工夫を凝らすものなのだろうが、ボビーの焼き直し盤はオリジナルよりシンプルで、おおむねチャートポジションもオリジナルに及んでいない。

その嚆矢がジョニー1964年秋~65年春のヒット曲(Billboard Hot100第31位、同・Adult-contemporary 第4位)「シー・アンダースタンズ・ミー」のカバー。ボビー盤は何故かタイトルを「ダム・デ・ダ」と変え、1年半後の66年夏にヒットしている(Billboard Hot100第40位、同・Adult-contemporary 第20位)。ちなみに本当のオリジンは、ジョニー盤の1年前、ベテラン女性歌手Teresa Brewerによる「ヒー・アンダースタンズ・ミー」(Billboard Bubbling-under第130位)。日本ではテレサ盤はむろん、ジョニー盤も(前後の大ヒット曲「恋のウルトラC」と「涙くんさよなら」に挟まれて発売されたこともあり)まるでヒットしなかった。しかし、ボビー盤は「恋する2人」の邦題で、彼の曲としては珍しく日本でも結構ヒットように覚えている。

その後、同様に「格下年少歌手のヒット曲のカバー」を繰り返し発表し続け、そのひとつが前曲に似た曲調の「Halfway to Paradise」(邦題「虹のパラダイス」)。珍しく米オリジナル盤より上位チャートにランクインしている。トニー・オーランド(ボビーの9歳下の親友)とビリー・ヒューリー(イギリスに於けるクリフのライバル)については、別の機会に紹介する予定。




■I Love Loving You(Johnny Tillotson/Lucille Cosenza)


1982年、Buddahよりリリースされた、Johnny通算20枚目のアルバム「スクラップ・ブック」(録音は1972年、15枚目のアルバムとして準備されるもノンリリース)収録。

ヒットを連発していた65年まで(せいぜい68年のC&Wヒット「ユアー・ザ・リーズン」まで)の曲は、同じ 曲をいろいろな組み合わせで、何10種類もの編集盤が組まれているのだが、以降の10数年にリリースした30枚近くのシングル盤は全てハズレ(良くて下記2曲のような情けない成績)、従ってアルバム収録曲を含めた70~80年代の100曲以上が、現在に至るまでどの編集盤にも再収録されないままでいる。

上に通算20枚目、と記したけれど、それぞれ5年間在籍したケイデンス・MGMの両レーベルを離れてからの15枚目以降は、1~2年ごとに移籍を繰り返したそれぞれのレーベルから、過去のヒット曲を再収録してお茶を濁した3枚も含まれる。

しかし、72年(リリースは82年)のBuddahからの「Scrapbook」(71年のPop128位「Apple Bend」を含む)と、77年のUnited Artistsからの「Johnny Tillotson」(同年C&W99位「Toy Hearts」を含む)に関しては、完全オリジナル楽曲。自作曲を含む意欲作が目白押しで、最近になって、そのほとんどをユーチュブで聴くことが出来るようになったのは、嬉しい限りである(残念ながら中国ではYou tubeを開くことが出来ない)。

前者のA面2曲目に収録されている「I love loving you」は、ジョニーと最初の奥さんのルシルの作品。同じ世代 のキャロル・キング&(キャロルの最初のご主人)ゲリー・ゴーフィン組や、ボビー・ヴィントンらと比べれば、才能の差は余りに歴然としているのだが、平凡極まりないメロディーや歌詞といい、以前の伸びのある高音とは違った絞り出すような苦しげな声といい、それはそれでジョニーの魅力となっているような気がする。

ちなみに、この曲の歌詞紹介はYou tube上に見当たらない(「Johnny Tillotson~I Love Loving You」で検索すると、彼の代表的ヒット曲「Why Do I Love You So」と「You Can Never Stop Me Loving You」ばかりがドサッと出てくる)ので、リスニングによる記述が正しいかどうかは自信なし。でもまあ、前曲の“your friend is all I’ve stayed”と言ったような、僕の貧弱な語学力では到底解読出来そうもない言い回し(「your friend」とは自分のこと?)とは対照的な、小学生でも分かりそうな単語やセンテンスのみで構成されているので、おおむね当たっているとは思うけれど(笑)。

Bobby Vinton の声色は「7色の虹」。Johnny Tillotsonの声色は「春の霞」。歌詞内容も歌声も、余りに差のある2曲だが、まあ、そういったところで了解して頂き、ご勘弁(?)願いたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日4月20日はジョニーの誕生日ということで、、、、。フランスのMr.Migandさんにより多数アップされている70~80年代のJohnnyの曲のうち、2曲を追加紹介。

●Big Ole Jean(written by John E. Beland & Johnny Tilotson:song by Johnny Tillotson)


1975年、米Columbiaよりリリースされたシングル盤で、ジョン・エドワード・べランドとの共作による、コミカルなカントリー・ナンバー。ブランドは70年代にジョニーのバックミュージシャン(ギタリスト)としてツアーなどに帯同するほか、幾つかの曲を共同制作するなど、相棒的な存在でもあった(その後、リック・ネルソンのバックミュージシャンとしても活躍)。ジョニーとは、この「ビッグ・オレ・ジーン」の他にも、「A song for Hank William」などを競作している。べランド本人のヒット曲としては、「Baby You Come Rolling Close My Mind」(68年Billboard Bubbling-under第115位)がある。この曲のオリジナルは「Peppermint Trolley Company」というグループで、こちらも彼ら唯一のヒット曲(68年Billboard Hot100第59位)。なお、ジョニーの親友Bryan Hylandによるカバーもあり、ジョニー自作のデビュー曲「夢見る瞳」をカバー(ノンヒットシングル)フィチャーしたアルバム「Stay and Love Me All Summer」(69年)に収録されている。ブライアン・ハイランドのレパートリー中、僕が最も好きな曲。

ジョニーの持ち味は、コミカルなカントリー・ナンバーを歌ったときに、最も良く出ていると思う。ヒット曲「トーク・バック・トレンブリング・リップス」「ハートエイクス・バイ・ザ・ナンバー」「ユアー・ザ・リーズン」も、ノベルティー・ソングまでは行かなくとも、コミカルな曲。自作の曲としては、ビートルズやローリングストーンズをからかった「Long Hair Committee」(67年、僕は勝手に「ビートルズなんて怖くない!」という邦題をつけています)、C&W界の大御所Ernest TubbとLoretta Lynnのデュエットに提供した「Who’s Gonna Take Your Garbage Out」(69年、Billboard C&Wチャート第18位)などがあり、このあたりはノベルティー・ソングと呼んでも良いだろう。

この「ビッグ・オレ・ジェーン」も完全なノベルティー・ソンでグ、曲中に“ナッシュビルのスーパースター”として、コンウエイ・トゥエッティ、ウエィロン・ジェニングス、ウィリー・ネルソン、メル・ティリス、マール・ハガード、トム・T・ホール、デビッド・ヒューストン等々、C&Wのビッグネームが次々登場する、実に楽しい歌。ちなみにC&W界で“Jean”といえば、女性歌手のジェーン・シェパード。ジョニーの「涙ながらに」は数多くのC&Wシンガーに取り上げられているが、僕が最も出来が良いと思っているのは、このSheperdのバージョン。

70年代以降、ヒットチャート的には、ほとんど全く実績を残せないでいたジョニーの経歴だが、どうして、この時期の活動は、純粋に内容面だけを見れば、ある意味60年代前半の全盛期以上に充実しているように思う。


●Freckles(written by S.Whipple:song by Johnny Tillotson)

1977年、United Artistsよりリリースされたアルバム「Johnny Tillotson」収録。“Freckles”は“そばかす”の意。クリフ・リチャード英ヒットチェーンのカバー「Wind Me Up, Let Me Go」や自作の「Country Boy, Country Boy」 (共に66年)、77年ジョニーの小ヒット曲で、「Freckles」と同じアルバムに収録された「Toy Hearts」など、詩情溢れるカントリー・バラードも、ジョニーの得意分野。これらの曲では、伸びを欠いた掠れ気味の声が、むしろ効果的に現れているように思う。4分を超す曲中、幾度か繰り返される“Special”という語が、実に優しく、かつ大きな意味を含んで胸に伝わってくる。



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朝と夜の狭間で~My Sentimental Journey 【再開第1回】

2013-04-19 10:21:12 | アメリカン・ポップスearly60’s


I want to be your lover.
But your friend is all I’ve stayed.
I’m only halfway to paradise.
So near, yet so far away……

■Halfway to Paradise (Carole King/Gelly Goffin:song by Tony Orland, Billy Fury, Bobby Vinton)



“おやすみ”の挨拶
“I love Monica!goodnight sweet-heart!”

ちょっと待って! 今なんて言ったの?
ジュンゾウは大好き、私のベストフレンド、とても大切な人、、、。
でも“ラヴァー”じゃないんだから、金輪際そんなフレーズは使わないで!

そんなわけで、I want to be your lover….
これは僕のファボリートソングのひとつ。歌を口ずさんでいるだけなんだから文句の言いっこなし!

I long for your lips to kiss my lips.
But just when I think the may.
You lead me halfway to paradise.
So near, yet so far away.


モニカと一緒に暮し始めてから、3ヶ月が経った。普段は離島や僻地や山の中を駆け巡っている。東京に戻ってくると、ダンボールの山に埋もれて、ワンルームマンションでの一人暮らし。この10年、、、いや、よく考えたら、物心ついてから後、人と一緒に生活したことは皆無のような気がする。

正月明けに一度日本に帰り、とんぼ返りで中国に戻ってきた。いくら暖かい雲南とは言っても、まだ花や蝶のシーズンにはだいぶ間がある。なにもすぐに戻ってくることは無かったのだけれど、物価の高い日本でうろうろしていると、すぐに資金が尽きてしまう。中国ならば、日本の5分の1程度の支出で済むから、、、、というのが表向きの理由。正直のところは、モニカの顔を見たいが為に、急いで戻ってきたわけである。

以前からそうなのだが、彼女からはメールを滅多に寄こさない。それを愚痴ると、「そんな暇はない」と。一行や二行の返信ぐらいくれても良さそうに思うし、帰宅時の大半はパソコンに向かっているわけだから(それに携帯電話でもメールは受信出来るはず)、僕のメールを見ていないのではなく、単に面倒で返事をしない、ということだろう。僕はその程度の存在なのか、と思うと、落ち込んでしまう。

緊急の要件を送った際は、すぐにメールが返ってくる。といって、いつもいつも“緊急”というわけにはいかないから、勢い、僕のほうからのメールがモニカからのメールの数を、大きく上回ってしまう。すると、何回分かに一度、返信が遅れたことについての、弁解と謝罪のメールが届く。でも、それは離れて暮していたときのこと。一緒に住む様になってからは、メールの遣り取り自体ほとんど無くなった。モニカとすれば、毎日顔を合わせているのだから、いまさらメールなんて、というところだろう。

モニカの仕事と勉強への取り組みの態度は、尊敬に値する。雲南理工大学を出て2年目、大手電気メーカーの昆明支店勤務。毎日判で押したように、朝7時半出社、夜6時半帰宅。僕の朝食と昼食は出かける前に作り置き。帰宅後、すぐさま台所に向かって2人分の夕食。向かい合って黙々と食べる。8時から10時までは自室に篭ってネット授業。「税法」という難しそうな勉強をしていて(年末に試験があるのだそうな)、それが終わって11時になれば、どんなことがあっても就寝(例外は去年のクリスマスイブの夜と、その少し前、僕が急病になった際、病院で付き添っていてくれたときぐらい)。

いずれにしてもホテル暮らしの丸1年の間、あれだけ毎日のように訪ねて来てくれて、食事に行ったり、カフェでおしゃべりをしたり、日本語のレッスンをしたりと、バラエティーに富んだ日々を過ごしていたのに、今年に入ってモニカのアパートに移り住んでから以降の3ヶ月は、ほとんど会話も無く、毎日毎日黙々と向かい合って食事をするだけで、味気ないことこの上もない。「釣った魚には餌を与えない」という言葉を、ふと思い浮かべるが、まさか、僕が「釣られた魚」というわけではあるまい(笑)。

僕はといえば、、、、なんにもしていない。食事も作らなければ、掃除もしない。させてくれないのである。部屋は中国スタイルで、ひとつのフロアにモニカの小部屋と僕の小部屋、それぞれの部屋に鍵はなく、通常開けっぱなし、終日その自室に閉じこもって、ひたすら写真の整理と原稿執筆の毎日。

あとは何から何まで、モニカ任せ。
ジュンゾウ!食事!!
ジュンゾウ!散歩!!
言われるままに従うだけ。

毎日モニカと顔を合わせることができて、幸せと言えば幸せなのだろうけれど、“ラヴァー”ではないとならば、つまらないことこの上もない。

僕はともかく、モニカの側には何のメリットがあるのだろうか? こんな貧乏な日本人など、見たことはないと思う。一応月一万円の家賃は支払ってはいるのだが、食事そのほかの経費は全てモニカ持ち、必要なときは、モニカから小使いを貰っての生活だ。

モニカの日本嫌いは徹底していて、日本製品不買運動に参加中。僕が何かをあげようとしても、日本製品だと断じて受け取らない。夢は世界旅行なのだが、日本には絶対に行きたくない由。

男女の交際は、結婚が前提でなければしてはいけない。「そのあたり日本人はいい加減で大嫌い!」と。自分に関しては、仕事と勉強が忙しくて、とても相手を見つける余裕なんて無い。ちなみに、恋人の条件は「正直」な人、嫌いなのはプレイボーイとデブ。

というわけで、まだ“恋人”の募集は始まっていないのだが、その際、僕は欲を言わず「No.9 love potion」(by「Poetry in Motion」)ならぬ「No.9 love position」で充分。でも、たぶんノミネートさえされないんだろうな。

それにしても、どうしてこんなにも、モニカを愛してしまったのか? モニカに申し訳ないという思い。一体、僕は、どうすれば良いのだろう?

I love you, I love loving you.
I would die if I had to live without you.
You make my day begin.
You put sunshine in my life.
I love loving you….

■I Love Loving You(Johnny Tillotson/Lucille Cosenza:song by Johnny Tillotson)





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マイクロソフトの犯罪、、、と言ってもよいのではないだろうか?

2013-04-18 23:33:02 | 雑記 報告

去る4月1日、1年ぶりに「あや子版」を再スタートするべく宣言。しかし一向に始まらないので「宣言」は“エイプリルフール”と思われてしまっているかも知れません。実はアップの直後、とんでもないトラブルに見舞われてしまいました。誰かが僕のアカウント(メールアドレス)を使っている由、日本マイクロソフト社が勝手にアカウントを止めてしまったのです。中には10年間の全ての通信記録が入っている。それを見ないことには、僕のほうからメールが出来ない(存在を確認できない)人や、向こうからもそのアドレスへの送信が僕とのコンタクトの唯一の手段という人が、たぶん百人以上います。復活できないことには、多くの人たちと、永久にコンタクトが取れなくなってしまうのです。

それでこの3週間、何とかしてアカウントを取り戻そうと、必死でマイクロソフト社との遣り取りを繰り返しているのですが、「本人確認が出来ない」とのことで、未だ取り戻せないでいます。簡単に言えば、「僕」が「僕である」と認めて貰えない、「僕」は「僕ではない」ということです。可能な限りの“本人”を証明する情報を繰り返し送っているのだけれど、いつまで経っても本人であると認めてもらえません。

アカウント不正使用に至った原因は、どうやらアドレスをブログに表示してしまったことにあるようです。僕のポリシーは、インターネット上の遣り取りでは、自分の存在を明確に表示する(匿名で相手に対するという卑怯なことはしたくない)。それでブログの末尾に連絡先を明示したわけだけれど、マイクロソフトの言うには「世の中には悪い人がウジャウジャいるので、そいつらから個人情報を守るためにアカウントを止めてあげたのだ」と。でも僕にとっては自分の個人情報なんてどうでもいいことですし、そんなことよりも、自分のアカウントをチェックできなくなってしまうことのほうが、何千倍、何万倍困ります。

「悪い人から情報を守るために」と人のアカウントを勝手に止めておいて、結果として2度と開けないようにしてしまう。その後のことは、知ったことではない。「悪人ハッカー」などよりも、当人を当人として認めなくしてしまう「善意のマイクロソフト」のほうが、よほど極悪人ではないだろうかと、僕は思うのです(同じようなパターンで途方に暮れている人々が大勢いるようです)。

とにかく、どんなことをしてでも、「僕自身」を勝手に取り上げてしまった「マイクロソフト」から、「僕自身」を自分の許に取り戻さなくてはなりません。前途多難ではありますが、、、、。

そんなわけで、ブログなど暢気に更新していられる状況ではないのだけれど、ジョニーの(それに僕自身の)誕生日も目前に迫っていることもあって、そろそろ始めることにしました。

まずは明日から再スタートする「朝と夜の狭間で~My Sentimental Journey」。この項目は、本来、千明さんへの“復讐”方法を練るために作ったものなのですね(笑)。何故に僕が37歳下の千明さんに(一時期とはいえ)熱烈に惚れられたのか? まずはその大いなる謎(笑)を、解明することから始めようと。

「あずき姫」「なっちゃん」「甜甜」「MONICA」、、、、“「Underアラウンド40歳」の彼女”シリーズで、時間をかけて検証して行こうと考えています。残念なことに「あずき姫」とは連絡が取れなくなってしまった。その頃に買ったばかりの携帯電話を紛失しまったからです。「あずき姫」に関する情報の全てがその携帯電話に入っていた(向こうからの僕に対する情報も同様)ため、永久に連絡が取れなくなってしまったわけです。

「テンテン」のことは、今後も継続して成り行きを見守って行きたいのだけれど、こちらも今回のアカウント喪失で、その復活が出来ない限り連絡の取りようがありません。ということで、当分は「モニカ」が主人公ということになります(保留中の「なっちゃん」や、正規の元カノ「友子さん」「スーリン」についても、追々言及していければと考えている)。

リアルタイム進行「私小説」執筆の“練習”と考えてください。最年長芥川賞(先刻70歳代半ばの女性作家が“最年長”受賞したことから、あと10年ほどの“勉強期間”の猶予が出来ました、、、それまで生きていれればの話だけれど)を目指すことにしましょう。

これまでにも何度も弁解して来ましたが、僕は断じて“ロリコン”ではありません。年相応の相手に巡り会えるチャンスが、なかなかないのです。今まで全く女性にモテることの無かった僕が、なぜか60歳になってから突然20代の女の子にモテ始めたわけで(本当にモテているのかどうかは大いに疑問なのですが、千明さんの例で見るごとく、本当ではないこともない)、その真相&深層を解明していこうと。

原因のひとつとして考えられるのは、1964年1月、ビートルズのアメリカ上陸時の15歳9ヶ月で、精神年齢の成長がストップしてしまっている(半分冗談)。少なくても僕の側から見れば、20代の女性は“お姉さん”であるわけで、、、(だからどうした、と言われると困ってしまうのですが)。千明さんと出会った60歳の誕生日から、止まっていた時計が動き出すように精神面での成長が再スタートを始めた、と考えれば、この26日で21歳。25歳のモニカも、(もし夫婦と仮定すれば)姉さん女房となるわけです。

とまあそのようなことで、明日からよろしくお願いします。
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あや子版の再開について

2013-04-02 02:18:32 | 雑記 報告
永らく予告してきたように、今月より『青山潤三の世界・あや子版』を再開することにします。

これまではずっと、アップに際しては“あや子さん”に丸投げしていたのですが、今後は僕自身でアップすることを決意しているのです。

ただし、想像を絶するメカ音痴の僕のこと(何しろ、パソコンをはじめて使い出した日の当日、丸一日悪戦苦闘して、それでもウンともスンとも反応なし、翌日になって、“電源を入れなければ立ち上がらない”ということがやっと判明したのです)、正直言って、まるっきり自信がありません。

先日も、携帯電話を使わない僕のために、モニカが携帯電話を買ってきて僕にプレゼントしてくれました(実態は一方的な強要ですが、、、笑)。ところが使い方が分からない。実のところ、これまでも(日本でも中国でも)何度か携帯電話を持ったことがあるのです。でも、毎回悲惨な目に遭ってしまう。電源が入っていないはずなのに、いつの間にか、バッテリーがなくなるまでどこかにかかり続けている(??)などして、通話料金の膨大な請求がきたり、、、。それでもう、携帯電話は懲り懲りと、意地でも拒否を貫いて来たのです。

でもせっかくプレゼントしてくれたのだから、有り難く受け取って使わないわけには行かない。紙に懇切丁寧に使い方の手順を書いてもらい、それに従って操作をするのですが、いや、全く分からない。途中でこんがらがってしまって、別のところにかけようとしても(はじめに電話番号を入れてある)モニカやルイスに、一日10回20回という無言電話が繋がってしまうのです。「気にしないで、そのうちに使えるようになるから」と、理不尽な無言電話の洪水を許容してくれた彼らには、感謝するしかありません(といっても、モニカなどは「今日は17回」といちいち数えていて、相当にイライラしていたのではないかと思われますが)。

説明が英語のため(モニカとの会話は全て英語)、英語能力が小学生以下の僕ゆえ、それで理解出来ていないんだ、とはじめのうちは自ら納得していたのですが、どう考えてもそういうことではなさそう。説明に沿って操作をして、上手く進むのは10回に一回ぐらいの割合。付き添ってもらって操作した際には上手く行くのに、いざ一人になって始めると、とたんに訳が分からなくなってしまう。もしかすると、自分は正真正銘の“バカ”なのではないだろうかと、、、、心底、落ち込んでしまいました。

最大の過失の原因については、あるとき突然判明しました(押す場所を微妙に間違えていた)。むろん、今でも充分に使いこなせはしません(例えば「電源を切る」ことと「鍵を掛ける」ことの違いが未だに理解出来ていない)が、無言電話を送り続けることだけは避けられそうです。

そんなわけで、このブログも、あや子さんの手を借りずにアップしようとしているのだけれど、教師たるジン君との連絡がなかなかつかない。前回帰国時に彼に教えてもらって、そのときにテストとかを何回か練習したのですが、消し方も修正のしかたも、あるいはワードの貼り付けかたも分からない。

と言うわけで、今暫くは、時々あや子さんの手助けを借りて進めていくことになるかも知れません(モニカはブログ大嫌い人間だから手伝ってはくれない)。

基本的に構成テーマはこれまでと同じですが、「青山潤三ネイチャークラブ」の会員や協力者に向けて、としてきた性格を更に強め、メインテーマであるところの『中国および近隣地域の「蝶」「蝉」「野生アジサイ」「その他の植物」』および『大和と琉球と大陸の狭間で~屋久島はどこにある?』については、ブログ上では目次だけを紹介し、「ネイチャークラブ」に入会または協力していただいた閲覧希望者に限り、個々にメール送信(またはCD収納郵送)していく予定です。「ネイチャークラブ」入会希望者は、下記のメールアドレスに、直接連絡を下さい。

また、既存の会員および協力者のうち、青山自身の不手際から、連絡先が分からなくなって連絡が途絶えてしまっている方々が少なからず存在します。もしそのような方がこのブログをご覧になっていらっしゃいましたら、 この機会に、ぜひご一報頂きたいと願っています。

とりあえず、これまで25年間の中国に於ける取材活動の集大成として、『海の向こうの兄妹たち~中国動植物探索紀行』を纏めてみました。この数年来「あや子版」で紹介してきた内容を、縮小(あるいは追加)再編して、単行本用に作成したものです。

ただし、活字業界が急速に斜陽化しつつある昨今(日本人の「活字離れ」「外国離れ」「自然離れ」、、、なかんずく「中国の自然の活字媒体」となると最悪です)、仕事としての(すなわち原稿料をきちんと貰える)単行本出版は至難の技。よしんば刊行を引き受けてくれる出版社があったとしても、カラー写真を数多く使うことなど、もってのほかでしょう。といって、今の(極貧生活を余儀なくされている)僕にとっては、仕事を選んでいるわけにはいかず、たとえカラー図版なしの企画であっても、引き受けざるを得ません。

そこで、改めて会員や協力者の方々に、(ある程度)カラー写真を残した状態での、オリジナル・プレゼンテーション作品を見ていただこうと思っている次第です(使用した写真原版が必要な方には、指定をして頂ければオリジナルを送信致します)。その上で、ブログには「前書き」「目次」「各章のコンセプトと紹介生物のリスト」「後書き」などを掲載する予定でいますので、非会員・協力者の方で作品本体をご希望の方は、メールアドレスにご連絡下さい。

今後、ブログ上で直接紹介していくのは、僕の仕事とは直接関係のないテーマ、すなわち『ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代』と『朝と夜の狭間で~My Sentimental Journey』の2本となります。新たに『僕、中国の味方です』というテーマを設置しようとも考えていますが、当面は『朝と夜~』のなかに組み入れて行く予定です。

2012.4.2 雲南昆明にて

連絡先メール  gooaojyun☆goo.jp ☆を@に変えて

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あや子版 テスト

2013-04-01 23:54:17 | 
総選挙「一票の格差」について 2010.1.12~14『青山潤三の世界・あや子版』からの再録

20年以上も前から、たまらなく不思議に思い続けていることがあります。そのうち誰かが言いだすだろうと、自分で発言することは控えていたのですが、いつまでたっても誰も言及する気配がありません。政治の話です。政治音痴の僕が言っても、誰ひとり耳に留めてはくれないでしょうが、、、。

“一票の格差”についてです。人口比率と議員定数の問題。人口の多い自治体(大都市圏)と少ない自治体(地方)で、議員定数が同じであったり、大幅な格差があったりする場合が少なからずある。その不公平を是正しよう、という動きです。これが僕には分からない。

“対面積比率”では、どうしてダメなのでしょうか?

僕の地元の兵庫県で言えば、人口過疎地域の丹波・丹後・淡路の一部は、阪神・播磨の人口集中地域に、僕と縁の深い鹿児島県なら、屋久種子や三島十島や奄美諸島は、県本土の各都市部に、それぞれ選挙区が編入されてしまっている。つい先日の新聞には、人口の少ない鳥取(60万人)島根(70万人余)両県を、併せて“定数1”の選挙区にしてしまおう、それでも同じ定数1の滋賀県や沖縄県より人口が少ないのだから、という意見が掲載されていました。

個々の選挙区における政治家の存在意義は、突き詰めて言えば、その選挙区に住む人間一人ひとりの要求(欲望と置き換えても良い)に、どれだけ多く応えられるか、ということなのだと思います。そのためには、「地域の人口と政治家の数の関係」が問題になってくるでしょう。

しかし、人間を育むのは、人と人の関係だけではない筈です。人の住む“空間”そのもの、それも人の生活とは直接関係のない、“ただの山野”(おおむね“自然環境”と置き換えても良いでしょう)の重大性を、忘れてはいないでしょうか?人間の思惑とは切り離して、人間の住む“空間”のあるべき姿を考えていくことが、究極的には、一人ひとりの生活の“向上”に還元される、それを司ることこそ、政治の使命ではないのか、と僕は考えるのです。

“人と自然環境との共存”といった言葉を、近頃よく耳にしますが、「政治=対人間」といった概念が、全ての人々の念頭にあるらしき現状では、すぐ目の前に見える自分たちにとっての利益だけを考えた、嘘っぽい掛け声としか、僕には感じられません。「人の少ない広い空間に、国政の財力・労力を注ぐのは、税金の無駄使いである」と。でも、本当に“無駄”なのでしょうか。物事全て、長い目で見れば、直接の成果や利益とは切り離した、(一見意味がなさそうに感じる)基本的な対応が重要になってくるはずです。

それ以前の問題として、過疎であることは、悪いことなのでしょうか?

話が少々逸れるかも知れませんが、「人間としての幸せは“家族”の存在を抜きに考えられない(“女性の使命は子供を産むことにある”といった話とも直結するでしょう)」とか、「引きこもりは良くない、もっと社会に順応しなくては」とか、、、、。本当にそうなのだろうか?と頭を捻ることが多すぎます。

「“障がい者”の“害”は、ネガティブな印象を与えかねないので、その漢字を使うのは自粛しよう」など、差別に対して病的なほど過敏・過剰に反応する日本の社会が、根本的な部分での差別意識に対しては、余りに鈍感であること、呆れるばかりなのです。形として現れた、意識に上る“差別”は、本当の意味での差別ではないと僕は思っています。形に現れざる、部外者(少数者)に対する“無意識的な排除意識”こそが、問題なのではないかと。

話を元に戻し、かつ100歩譲って、過疎の地に活気を取り戻そう、という意見に耳を傾けるとしましょう。ならば、広い面積に人口の少ない自治体にこそ、政治家の“数”と“労力”を注ぎこみ、様々な方向から考えを練り、その土地に適応した企画を導入し、独自の発展に結びつけていかねばならぬのではないでしょうか?

僕は自分自身が人間ですから、“人が大事”という概念を全面否定するつもりはありません。それならばこそ、“人と自然”の、眼前の利益とは切り離しての、根源的な次元での関係性(無意味であることの大切さにも繋がります)を、もっともっと真剣に見つめなおさねばならぬと思うのです。
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