青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

推定18憶頭の黒雲大群は何処に?

2021-09-18 08:04:57 | コロナ、差別問題と民主化運動、地球の未来




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

たった今チェックしたネット・ニュースから。
【天然水のペットボトルにカビ、860万本を自主回収】
「健康飲料にカビとはケシカラン、すぐに回収しろ」というコメントに溢れているので、一発、皮肉のコメント(投稿リミットの400字ピタリ)をカマしておきました。

milk*****
小生(日本人)、中国の田舎で長年(約40年)、日本の人たちには到底信じることが出来ないであろう、劣悪状況下の水(水道水は黄色、ペットボトルにカビなんて日常茶飯事)を飲んで生活してきました。しかし、後期高齢者に差し掛かった今でも、体のどこにも異常は有りません。僕は健康検査とかは大嫌い(ワクチンも打ってないし)なんですけれど、先日よんどころのない事情で血液検査したところ、44チェックポイントのどこにも異常がありませんでした。また、体各部位のCTスキャンでも異常は見出せませんでした。今でも(仕事の関係で)標高5000mのチベット高原の山中でも、東南アジアのジャングルでも歩きまわれます。まあ、僕も歳が歳なんで、肺炎とかに罹ってそろそろオサラバしても致し方ないのですけれど、「健康マニア」「リスク排除主義者」で僕より早くくたばっている人がいることを知るにつけ、気の毒に思われる今日この頃ではあります。

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コロナはただの風邪です。そしてただの風邪は、とんでもなく大きな脅威です。今の日本では「コロナで亡くなった人」と「風邪(およびそのほかの原因)で亡くなった方」の、根源的な部分での(次元の解釈に於ける)区別が出来ていない。いや、今の、日本の「あらゆるリスク排除を正義と見做す共同幻想・集団性無意識的自己中心主義」体制のなかでは、それは踏み込んではいけない領域なのでしょう(踏み込めば「陰謀論」の烙印を押される)。

あらゆる(目の前に姿を現した)リスクは排除しなくてはならない、という一部の研究者とマスメディアと大衆(の常識)によって織りなされる「洗脳」。その象徴が、マスク、ワクチン礼賛です。

ということで、「僕がマスク・ワクチンを拒否する理由」の続きを書こうと思っていたのだけれど、、、変なコースで台風来てるんで、予定を変えて、ちょっとだけ台風絡みの話題でいきます。

昨日は、電車(JR青梅線‐南武線)で府中(多摩川の河原)に行きました。河辺‐立川が約25分、立川‐南多摩が約15分、往復960円!は大痛手です。

JRの車内動画広告見てたら、「バイオ作成のトマト出荷が可能に」、、、だそうです。楽して安い値で美味しいものが食べられるんで、良かったですね。科学・人類の文明の勝利です。その勢いで、ワクチンでコロナもやっつけましょう。

トマトが、苦くて小さくて大して美味くない野生種から、たぶん何百年、何千年もかけて(失敗や試行錯誤を繰り返したのち)有用な食物となり、また長い時間をかけてジューシーな実がたっぷりの現代の野菜として改良されて行き、更にこの10数年の間に畑ではなく低コスト低リスクの屋内での栽培が可能になり、そして一気にバイオ作成トマトです。“進歩”の時間のサイクルが、飛躍度的に短くなっていくように感じます。
たぶん近いうちに、バイオどころか“トマト食べたい”と(頭の中で)念じたら、目の前にトマトが現れる、みたいな世界になる(「どこでもドア」が現実になる)ような気がします。でも、それで楽しいんでしょうか、、、、。

リスクを徹底排除し、人類の英知、科学の結集でもって有益性を追求し続けることによって、全ての事が可能になるのかも知れません。時間の操作(過去・未来との“往復”)だけは出来ない、と言いますが、それは現在の意識の体系に基づく認識次元で言えばその通りだとはしても、全く異なる認識体系の中では(そもそも時間など存在するのかという問題も含め)、全然そんなことは無いのかも。案外、僕(や皆)だって、気が付いていないだけで(我々が知り得ていない別の体系的把握下に於いての)未来からやってきたのかも知れないですしね。

これまでに何度か繰り返し指摘してきたように、いわゆる「永遠の命」の獲得も、たぶん可能だと思いますよ。まずクローンを作ればいいのです。新しい身体を作る。そこにオリジナル人間の精神(意識)もインプットする。ただし、前回までのオリジナルが存在してちゃまずいですから、完全に入れ替わることが条件。コピーも2人存在するとまずいので一人でなければなりません。

でも、正確に言えば、まずいわけでもないんですね。複数の「同一人物」がいても別に誰も困らないし。

新規本人がスタートすれば、それまでとは別人格になるわけですから。複数の個人がいて、同じ記憶とか嗜好とか知識とかを共有したまま、別の人格(アイデンティティ)を形成していく。地位とか、社会の中での 属性に対する評価を除けば、旧人格の存在は大して大きな意味は持っていない、と見做すことが出来るかも知れません。永遠の命を生きている同一起源の記憶を持った生命体が複数同時進行していく。僕じゃない僕がどこかにいる、と思いながら生きて行けば良いのかも知れません。

早い話、一般論としても、瞬間瞬間で個人のアイデンティティは更新されながら進んでいるわけでしょうし。「これまで」と「これから」は、全く異なる別個の次元にあって、「今」というのは基本的に存在せず、過去と未来の2つの全く別次元の接点にしか過ぎない(逆に言えばそれしか存在しない?)。

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そろそろフィールド探索よりもデスクワークに専念したいです。でも今日も、霞丘陵に行こうかどうしようか、迷ってたんですよ。朝曇ってて雨降りそうなので、それでWi-Fiに専念することにした。天気予報をチェックしたら昼から小雨になっていたし。でも晴れてきたような気が、、、。もう少し様子を見てから、やっぱり行こうかな、と決意しかけたのだけれど、また、どんよりとした曇り空に。

結局決断しかねてお昼になって、でも今からでも、と思いながら、やっぱり雨降りそうなので止める、、、の繰り返し。決断しかねている原因は、せっかく朝入念にシャワーを浴びたので、出来れば泥んこになりたくない、という気持ちがあるのですね。朝のうちに行っときゃよかったです。少々雨降っても蝶は飛んでいるし。それに明日以降は台風襲来。

57種撮影済みです。「身近な蝶」のフィールド図鑑を作るには十分な数です。でも、一応撮影はしたけれど、一個体だけしか撮影していない、という種も、少なからずあります。ボロ個体だけだったり、雌雄のどちらかだけだったり。

ほぼ40年ぶりの東京近郊での蝶撮影行(3月23日)の第1種目はコツバメだったのですが、これも入口の神社の門の前の住宅街の脇での撮影で、一個体だけ。その後一度も出会っていない。

ジャコウアゲハも、5月14日の撮影行で、最初に入口で出会った種です。雌の翅が大破した個体(汚損個体ではなく翅の大破した新鮮個体)だったので、とりあえず一カットだけ写して、まだ朝早かったし、このあと丘陵に入れば、幾らでもいるだろうと。

帰路、夕方になってその日の撮影は終了したつもりで入口に戻った時、朝雌を見たのと同じ場所、住宅地と道路を挟んだ神社のチケット売り場(ツツジの時期だけ有料だったのでその時以来入っていない)の横の日影になった茂みを、雄が素早く飛び回っていた。最初のうちは全然止まる気配もなく、でもここは勝負、と、一時間以上かけて、メチャ苦労して(カメラを向けている先に住宅玄関があるので変に思われないかと気にしながら)、結構良い写真をゲットしました。

でもそれ以来、雄にも雌にも出会っていないのです。丘陵の中を探索していれば、そのうちに(初夏と晩夏に2度チャンスがある)いくらでも出会えるはずと、たかを括っていたのです。結局、この日の朝に撮影したボロ雌と、夕刻の雄が全てだったわけです。

丘陵内部には全くいない。どうやら住宅街の近くの方に住処があるようなのですね。ついこの間(9月に入ってから)神社のスタッフのおじさん(自然について詳しい方)から「夏の間、事務所の前の薄暗い場所をメスが沢山飛んでたよ」と情報を得ました。最初に出会ったボロ雌がいたのは、その事務所のほんの数m下
です。普通に考えれば、その後、初夏から晩夏にかけて、何10回もその横を行き来しているのですから、そこで粘っていればよかったのです。

それをしなかったのは、既述したように、丘陵に行けば、そのうち幾らでも出会えるはず、と思い込んでいたからです。丘(森&草原)の中にはジャコウアゲハはいず、いるのは住宅街の傍(薄々はずっとその気がしていたのだけれど)ということが分かったわけですが、秋になってしまったからには、もう遅いです(一応、入口付近を注意してチェックし続けているのだけれど姿は見ない)。ジャコウアゲハの雌の写真は、一枚だけ写した翅が大破した個体か、古いポジフィルムを使うしかありません。

ちなみに、ジャコウアゲハに限らず、アゲハチョウ科の種は皆同じことが言えそうですね。オナガアゲハも、クロアゲハも(*共にジャコウアゲハ撮影と同じ日の昼間に撮影)、カラスアゲハも、メスを1頭撮影しただけです。いずれも民家の近く。

アゲハチョウも、キアゲハも、アオスジアゲハも、2~3頭しか撮影していない。やはり民家近くで、しかも何故か全部ボロ個体です。

モンキアゲハは、飛んでいた個体が、偶然写真のフレームに写り込んだ。昔は関東地方にはいなかったナガサキアゲハは、今は東京近郊で最普通種のアゲハのひとつになっているようなのですが、何故かまだ一枚も写真を撮っていません。その両種を始め、どうやらアゲハチョウ科の種は(ウスバシロチョウを除いて)どの種も丘陵の森や草原ではなく、街の中の庭木に発生しているらしいのです。

アゲハチョウ科に限らず、他の多くの蝶も似た傾向にあるようですね。 

例えば、本来東京近郊では最普通種のはずのヒメジャノメ。霞丘陵では(青梅丘陵や狭山丘陵でも)全く出会っていません。近縁の(むしろ生育地が限られるはずの)コジャノメが、やたらウジャウジャいるのと対照的です。唯一撮影したのが、丘陵からの帰り道、街の中の路傍で車に撥ねられていた(一応生きていた)個体。

その他、この一帯に分布しているはずなのに、全く出会っていない、という蝶が何種かあります。例えば、アサマイチモンジ(タテハチョウ科)とか、ミヤマチャバネセセリ(セセリチョウ科)とか。この辺の種は、ヒメジャノメとは違って「最普通種」というわけではありません。決して珍しい種ではないのですが、と言って、いつどこに行けば出会える、といったわけでもない、微妙なポジションにあります。

これらの種は、季節的に考えて、どうやら写し損ねたみたいですね。ミヤマチャバネセセリは、昔千葉の房総丘陵でよく見たし、霞丘陵一帯にもいそうなので、(ここんところ屡々そのシチェーションに出会う)イチモンジセセリやチャバネセセリやオオチャバネセセリやその他のセセリチョウ各種が群れ飛んでいるところでは、ミヤマチャバネセセリも混じってないだろうかと、いつも注意を払っているのです。

でも、いないですね。年2~3回の発生で、メインは4~5月の第一化、次いで7~8月の第2化。ほぼ諦めています。やはり昔の写真を使うか誰かに借用するかのチョイスになります。

もっとも、確か秋口に第3化個体も出現するはず。まだギリギリ間に合うかも知れません。新たに写せるものなら諦めずにチャレンジしておきたい。霞丘陵にはいなくても、どっか近くの河原の草地とかにいるかも知れないし。河原といえば、この近所だと多摩川です。一昨日の夜、インターネットで情報をチェックしてみました。

府中の多摩川堤防に沢山いるようです。年3化でメインは春なので、秋の世代は少ないのだと思います。でも(9上旬頃)発生していることは発生しているらしい。ちょっと時期が遅いかな、とも思うのですが、メスならまだギリ間に合うでしょう。思いついたら早速実行。昨日の朝、行ってみました。

8時半にアパートを出て、9時半には堤防に着きました。昨日の天気予報では曇り時々雨となっていたのですが、ほぼ快晴です。



南武線南多摩の駅から徒歩10分で多摩川堤防の草地に着きます。巨大アパートの前から堤防を下ったところで、ジャコウアゲハ雌が出現。新鮮個体です。いかにも居そうな霞丘陵には居ないのに、こんなところにいるんですね。



次いでキアゲハの新鮮個体も出現(アゲハチョウも一緒に出て来たけれどこちらは汚損個体)。





とりあえずジャコウアゲハそのほかを撮影。カメラを向けた方向がアパートの側に当たることが多いので、ジャコウアゲハ雄の撮影時もそうだったし、家の盗撮と誤解されかねません。





ギース、チョン!盛んに鳴いているけれど、どこに居るのか分かんない。文字通り目の前、5㎝ぐらいの所に近づいたら鳴き止んだので、気が付いた。ちょっと目を逸らしたら、また分からなくなってしまいます。

肝心のミヤマチャバネセセリが現れないので、河原の草叢の中を探してみることにしました。結果は惨敗です。一頭も出会えなかった。不思議なのは、どっさりといてもよさそうなイチモンジセセリにも僅かな個体にしか出会えなかったこと。

最初の考えでは、河原の雑草の花に群がっているイチモンジセセリの中から、どうやってミヤマチャバネセセリを見つけ出すか、と言う事だったのですが、そのイチモンジセセリ自体が、極めて少ないのです。チャバネセセリもオオチャバネセセリもそのほかのセセリリチョウ各種もいない。



いかにもイチモンジセセリが大量に訪れていそうなタデ属雑草の群落。来ていたのはキタテハ。

オオハンゴンソウ、アキノノゲシを始めとしたキク科の野草や雑草群、そのほか帰化植物の花、、、少なくともイチモンジセセリは間違いなく大量に訪花しているはずなんだけれど、、、、僅かしかいない。どう考えても不思議です。

こんなことを想いました。台風が近づいている。イチモンジセセリが急激に増える時期は、台風の季節と重なります。と言って、必ずしも台風が来た後に増えるんじゃなくて、(どちらかと言えば)増えてから台風が来ている。一部は、台風に乗って(南の方角から)やって来ているのかも知れませんが、どうもそれだけではないような気がします。

例の「推定試算18億頭」の黒雲を成すイチモンジセセリの飛翔大群。「18億頭」は、日浦先生か誰かが、半分冗談、半分本気で言ったのではないかと思っています(確認してません、ずいぶん昔のことです)が、実際、例えば10㎝四方の空間を1頭という割合で算出していくと、空を一面に覆う黒雲を成す数kmの立体空間だと、それぐらいの数になっても不思議ではありません。この推定試算数が10億でも20億でもなく「18億」という所に、いかにも半分冗談&半分真面目な見解である側面が現れているように見て取れます。

僕もずっと昔、神戸の自宅のトイレの窓から目撃したことがあります。むろん晩夏か秋であったことは間違いないのですが、写真は(たぶん)写していず、年月日の記録もとっていません(もしかすると何かの紙切れにメモしてあるかも知れない)。

僕が房総半島でイチモンジセセリの個人調査を行っていた時、水田の畔のアザミに訪花中のイチモンジセセリを片っ端からマーキングして、リリースしたことがあります。2~3日後、そのうちの数頭を背後の尾根(清澄山~元清澄山)でリキャッチしました。その時は、大して大きな移動じゃなかったので、期待外れに思ったものですが、距離にして10㎞ほど、標高差200m余の移動は確実に行われているわけですから、それなりの意味はあるのだと思います。

いずれにしろ、同じ時期(晩夏~秋)の大群飛の確認・報告例は、かなり多数あるようです。そして、飛翔方向は、必ずしも西南→東北ではない(むしろ東から西が主体)。また、長距離移動とは限らない。

ふと思ったのですが、、、。台風が発生したら、それに引き寄せられるように“動く”のではないだろうか、と。昨日、ほとんどイチモンジセセリの姿を見なかったのは、今頃、どこかで(台風に向かう途上の、あるいは台風が来た時に備えて)何らかの意味合いを持って、空を一面に覆う黒雲集団を成しているのではないかしら? 発生中の個体は片っ端からそちらに参加して、今出会うのは、その黒雲大群に乗り遅れた落ちこぼれ個体であるとか、、、。

まあ、それは「陰謀論」みたいなものですね(笑)。でも、イチモンジセセリ(および秋に個体数が激増する幾つかの蝶)の動向が、何らかの形で台風と連動している(もう少し正確に表現すれば「気圧との関係」ですね)のではないか?ということは、考えられない事ではないと思うのです。

・・・・・・・・・・

昨日の総括。

蝶がいない。目が見えない。カメラが壊れている。そんな状況で、クオリティの高い写真など撮れるわけがないです。









キチョウ(キタキチョウ)とモンキチョウが盛んに産卵しています。キチョウはマメ科の低木(ハギ)、モンキチョウはマメ科の草本(クローバー)。



ついでにヒメアカタテハの産卵。秋になって個体数が増え始める種のひとつで、究極のコスモポリタン種です。食草としてはゴボウ(アザミ連)が特に好まれるようですが、キク科なら大抵なんでも食すみたいです。

モンキチョウは、霞丘陵では、春から初夏にかけて、あれほど沢山の個体(数10m四方に目視で100頭余)が草原(コリアス草原)上を飛びかっていたのに、6月後半以降は、そこでは全く見られなくなっています。別の場所に移動(あるいは拡散)して夏以降の世代が発生し続けているのでしょう。この河原には(コリアス草原ほどではないとしても)多数の個体がいました。

ところで今回、何故か春~初夏のコリアス草原に於いてはほとんど見られなかった、モンキチョウの求愛追飛行動を、じっくりと観察することが出来ました。でも、よく知られるように、必ずしもメス→オスの追飛ではないのですね。雌が後ろに来たり前に来たり、コロコロと入れ替わっているように見えます。これまでの僕の認識(一般の認識も)は、雌が後ろから、というのがスタンダードなのだけれど、稀に観察し得た春~初夏のコリアス草原でのそれも、ここでの観察でも、そうとは限らないのですね。

モンキチョウの生態が以前と変わってしまったのか、個体群(分類群?)自体が入れ替わっているのか?まあ、そんなことはまずないでしょうし、僕の観察不足による思い込みだとは思いますが、気になります。




すぐに動かなくなってしまうカメラを、途中で何度もレンズを付け変えたり、初期化し直したり、手探りでISOや露出を設定したり、手動でピントを合わせたりして、雌雄が前後に入れ替わりつつ延々と追飛翔を続ける(今画像をチェックしたら12時12分から12時21分まで10分間)ペア(最初のうちは雌1頭に雄2頭)を、苦労を重ねて大量に撮影した(IMG_2554からIMG_2653までちょうど100枚)のだけれど、全部ピンボケ。僕の目の問題なのか、カメラの機能が問題なのか、、、。

ちなみに、目指す蝶はいなかったけれど、一応出てきた種は、とりあえず一通り撮影しておきました。
ジャコウアゲハ/キアゲハ/アゲハチョウ/キチョウ/モンキチョウ/ヒメアカタテハ/キタテハ/コミスジ/ツマグロヒョウモン/ヒメジャノメ/ヒメウラナミジャノメ/ベニシジミ/ヤマトシジミ/ウラナミシジミ/イチモンジセセリ

ジャコウアゲハを別とすれば、見事に世界的普通種(ことに秋に個体数の増える種)のオンパレードです。



注目は今年出会った2頭目のヒメジャノメ。一枚だけシャッターを切りました。最初、ヒメジャノメかな?と思ったのだけれど、カメラを向けたら一瞬の間に別の個体に入れ替わったみたいで、確かめたらヒメウラナミだった。しかし“目の錯覚”とリアルタイムでは思っていた最初の1枚は、確かにヒメジャノメでした。

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次回は「続・僕がマスク・ワクチンを拒否する理由」を再び後回しにして、(イチモンジセセリの話題が出たついでに)以前保留にしていた「日本のチョウ:オオチャバネセセリ(上)」の続き、(下)の「イチモンジセセリほか」に再チャレンジします。

いろいろ調べたり写真を整理したりするのが面倒なので、より取り組みやすそうな関連テーマで、かつ見栄えがして一般読者の興味を惹きそうな「アサギマダラ」の話に差し替えていた分です。イチモンジセセリは、アサギマダラのように資料を豊富にチェックできると言う事は無いのですけれど、そのことが、むしろアドバンテージになるのでは、という気もしています。

あるアサギマダラ研究者の言った「データが集まれば集まるほど実態が見えなくなる」、、、この言葉は、相当に深い意味を持っていると思います。

イチモンジセセリに於いても、今後データの収集に励むと共に、別の立脚点から俯瞰的に見渡して行くことが必要だと思っています。

それは、一般の愛好家にとっての興味(美麗な蝶の「リリース&リキャッチ」の調査活動に自分も参加出来るということ)からは外れるという弱みに繋がるわけですが、「個々のデータに囚われず俯瞰的に取り組むことが出来る」ということでは、強味でもあると思っています。





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僕がマスク/ワクチンを拒否する理由 

2021-09-14 20:55:11 | コロナ、差別問題と民主化運動、地球の未来


★9月12日の記事に、いいね!その他、ありがとうございました。


読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

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痴呆老人の独語(同じ話の繰り返し、笑)です。推敲なしに進めます。

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前回の記事の末尾の辺りに、キチョウの産卵行動に関する話を書きました。

>雌が産卵飛翔を行っていると、つい応援してしまいます。一度卵を産み付けてから、そこを離れてふらふらと飛びまわります。改めて食草のあるところを探しているのですが、(目の前に食草があるのに)アサッテの方向に行ってしまう。「(食草のあるところは)そっちじゃないよ、こっちだよ!」と、ついつい声をかけたくなります。でも僕が蝶に伝えられるわけがない。やきもきしながらも、任せておくしかないのです。すると、ひとしきりあちこち見当違いの失敗を重ねたあと、同じところに舞い戻ってきて、再び卵を産み付けるのです。だったら、最初から同じところに産めば良いのに、と思うのですが、、、。

一番伝えたかったことを書き忘れてしまいました。

【無駄な失敗を重ねても、自分でチェックして食草を見つけ直すことに、意味があるのでしょうね。】
↑書きたかったのは、ここです(なんだ、ありきたりの意見でつまらん、、、と言われそうですが、笑)。

興味深いことにキチョウにごく近縁なタイワンキチョウ(日本では八重山諸島に分布)は、卵塊を作ります(一頭の雌が同じ場所に数10個の卵を固めて散付する)。このことは、日本のオオムラサキも同様です。しかし、僕が以前に観察した限りでは、中国(四川省)のオオムラサキは、卵の散付は、一か所につき一個ずつです(同じ木に同じ時オオムラサキの唯一の同属別種であるイナズマオオムラサキ[クロオオムラサキ]も産卵に訪れて一卵ずつ産付していきます)。

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さて、表記の話題。

僕は、やみくもに「マスク/ワクチン」反対しているわけではないのですよ。その前に、これをチェックしてみてください。「ある空気の存在」が、如実に示されています。以下、今日の(というか日常的に同じような記事が頻出しているようですが)ネットコラムから、見出しを幾つか並べてみました。

僕は「発達障碍者」で「知性」がなく、公共心も足りず、知能が足りず、人類の英知を否定する、非科学的な、トンデモに分類されるヘンテコな人であるようです。そこに所属することを誇りに思っています。

●発達障害と生きる:科学者がどんなに“事実”を並べても“反ワクチン”が強く支持される理由。

●多くの知性派は世界を憂いている。一体なぜ、ここまで事実が積みあがっているのに、或いは事実は確固としているのに、彼ら(反ワクチン派)の意見は変わらないままなんだろうか、と。

●医師が知らないニセ医学【その2】反ワクチンを煽る医療関係者がいるという現実。

●医師のなかでもトンデモに分類されるヘンテコな人がいます。ネットで目につくのが、薬剤師さんや栄養士さんのトンデモ健康記事。多くのトンデモさんは、なぜか自然派をこじらせた故に反ワクチンのポジションを取ります。人類の英知ともいえるワクチンを非科学的根拠によって拒否し、医学的には効果・効能が認められていない「免疫力をアップ」させる方法を伝授しています。

●ワクチン反対派と真っ向勝負して国民の意識さえ変えた名物科学者とは?

●ワクチンを打たない親は公共心が足りない。ワクチンを打たないように反対運動する親は知能が足りない。

●ワクチン否定派には「知能の低い人が目立つ」って報告を最近聞いたね。

●(米調査によると)接種拒否率が最も高かったのが農業関係者と建設作業従事者、最も低かったのがテクノロジー関係者、接種完了者は金融業者で最も多かった。

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『“医師の発言”で接種不安拡散、講演で誤情報、深まる断絶』 読売新聞

7月4日、名古屋市で開かれたのは「新型コロナと遺伝子ワクチン」と題した講演会だった。参加者には地元だけでなく、首都圏や近畿、九州から駆け付けた人も多かった。マスク姿の人はほとんどいない会場で、登壇した医師や地方議員らが熱弁をふるった。「PCRはインチキ、世界にコロナの存在を証明するものはない」「ワクチンを打つと遺伝子が改変される」。講演で出た話は、米疾病対策センター(CDC)など世界の公的専門機関が否定する誤った情報だ。それでも発信のたびに大きな拍手が起きた。接種を巡って誤った情報が広がるのは、ごく一部の医師らの発信(*たぶん僕の主治医先生らの見解は“ごく一部の医師の発信”とされちゃうんでしょうね)が影響している。講演会で最も注目されたのが、兵庫県内で内科・精神科のクリニックを運営する男性医師だった。投稿サイトで情報を頻繁に発信しており、フォロアー(登録者)は1万5000人以上。最近は投稿するたびに、見た人がツイッターやフェイスブックで引用して拡散しており、この医師が「インフルエンサー」になっている状況だ。医師は、国に接種事業の中止を求める訴訟も起こした。発信や活動の意図は何なのか。8月、読売新聞の取材に対し、「ワクチンは有効ではないという説もあるのに、主張が全然聞き入れられていない」と強調した。最近の医師の投稿には、サイト運営会社が「公的機関の見解と反する」との注意書きを表示するようになった。不確かな情報(*「確かな情報」と「不確かな情報」の区分が僕にはよく分かりません)の拡散を防ぐためだ(*僕のユーチュブ記事にも付けられていますね)。米英を拠点とするNPOの調査によると、米国などのSNS上で拡散した「反ワクチン」の投稿の65%は、医師や起業家など12人のインフルエンサーが発信源だったという。

・・・・・・

このような、有無を言わせぬ「正論」の許、異論を(形式上は一見“客観”的に)揶揄否定する文脈は、大手メディアが最も得意とするところなんだと思います。なかんづく、大衆の代弁者「読売新聞」にあっては、このような志向性を有した記事を表するのは、当然なのでしょう。「メディア⇔大衆」が、相互に自らの正当性(既得権の保守)を確認し合っているわけですから。

ちなみに、WHOは、かなり客観的な(言い換えれば“どっちつかず”の傍観かも知れないとはしても)立場から発言を行っているように思うのですが、それらの見解は「世界の公的専門機関が発信する情報」には含まれないんでしょうかね。

上記の記事は、続きものの4回目で相当に長いのですけれど、趣旨は一貫していて、「ワクチン(近代医学)」の絶対的な支持(僕に言わせれば「過信」)、それを否定する立場を「陰謀論」に押し込めて、全排除する。

彼らの「正論」の根拠は、「正しいから正しい」「事実だから事実」(むろん何らかの「体系的な」証明が付け加えられているにしろ)というところにあります。それらの正義や事実に反する指摘や見解は、「妄信」「公的機関が否定する誤った情報」「陰謀論」であるわけです。

一貫して「大衆は正義である」「科学・文明は正義である」と、個人個人が「総意」を信じ、メディアもそれを煽ります。たとえ医師の意見ではあっても、異論は「妄信」「陰謀論」としてのみ処置されてしまいます。

「異論」というのは、この場合は「リスク」に対する取り組み方の大衆の総意とは異なる考え(目前の自分の安全・安心を脅かす考え)。それは大衆(個人個人)にとって、都合が悪い意見です。

・・・・・・

ということで、ここまでは「前置き」としての「大新聞記事」の紹介と、それに対する僕のとりあえずの感想です。以下、「僕がマスク/ワクチンを拒否する理由」を(出来得る限りロジカルに)述べて行かねばなりません。

今朝、ネットニュースをチェックしたら、「シンガポールはワクチン接種率が80%なのに感染者激増」という記事が載っていました。シンガポールは国家全体が日本の東京23区ほどの規模(面積も人口も)で成り立っていますから、いろんな意味でモデル地域と成り得ます。

まあ、今更、ということで、、、、ということですが、「知能の高い」「公共心に富んだ」「科学に絶対追従する」「正義の人々」は、どんな数字でも「シャボン玉の中だけの想像力」に基づいて論破(“間違い”を指摘)し、「陰謀論」として処理してしまうのでしょうね。

アフガン(アフガニスタン)にしろ、ミャンマー(ビルマ)にしろ、僕は(その社会構造の)実態を全く知りません(しかし両地域の根源的な成り立ちの部分はほとんどの人より知っている)が、はっきりと断言できることは、どっちかが悪で、どっちかが正義、という構図は絶対に成り立たない、ということです。でも悲しいかな、完璧にその構図が成り立ってしまっている、というのが現状です。

ミャンマーは、それなりに深い関りを持っているので、僕としての意見はあるのですが、やはり少なからぬ関りを持っているモニカから、発言を止められています(2人とも「立場」としてはデリケートな位置づけにあるので)。

香港は、分かりますよ。だから発言もします、30年以上、(大陸中国共々)どっぷり関わっているわけなので、自分の問題でもあるのです。

「香港デモ」の記事を書いていた時には、読者の方からこんなコメントを幾つか頂きました。
【正義のため、民主主義社会の自由を獲得するため、命がけで戦っている香港の若者たちを批判・誹謗する、、、この人には、人間の心があるのだろうか】
そう言う事なんだろうな、と思っています。呆れるとも笑うとも哀しいともちょっと違う脱力感のような気持ち。漱石のいう諦念、鴎外のいうレジグネーションに近いのかな。

二葉亭四迷は日本の低層の人々を救いたいがために一念揮発を仕掛けたのだけれど、大衆が余りにもバカであることを悟ってやめてしまったそうです。一方、教育・道徳が一種の洗脳に過ぎないという事を見破った(そして他の識者たちとは違って体系的な「学識」を持たなかった)斎藤緑雨は、「アフォリズム」という形で世間に戦いを挑みます。今から130年ほど前の事ですね(今と状況が全く変わっていないことは驚きでもあります)。その結果、大衆やメディアに徹底的に毛嫌い・無視され、若くして窮死に至ります。逍遥にしろ露伴にしろ鴎外にしろ、本当の賢者たちは緑雨の想いをきっちりと受け止めていたのですが、でも置かれた立場が異なる(体系的な学識を有していた)故に「共に行動して助ける」ことは出来なかったのです。

「陰謀論」とされるのは、大いに結構です(笑)。頭の偉いバカには分からんでしょうから。「コロナ問題」の発端は「香港デモ」です。「地球環境変動」「民族宗教紛争」「差別やヘイトの問題」、、、みんな繋がっていくのですよ。具体的な話は追々、、、(これまでにも何度も話してきたし今後も話していくつもりです)。

重ねて言いますが、僕はコロナの脅威を否定しているわけではありません。その脅威を認識したうえで、「唯の風邪」と言っているのです。“ただの風邪”は大変な脅威なのだと。まあ、僕の考える“脅威”というのは、(無意識下の洗脳によって為された)大衆の考えているような脅威とは“種類”が異なる、別の立脚点(シャボン玉の外)からの認識なのでしょうが。

善と悪の区別。リスクの徹底排除。マスクとワクチン必須。大衆は正義。科学は絶対的存在、、、、。シャボン玉の外側から俯瞰すれば、それらにはまた別の認識が為されるはずです。

最近のトレンドの言葉のひとつに「想像力の欠如」というのがありますね。
>マスクやワクチンに反対する人は、そのことで自分や周りの人がどれだけ苦境に陥ってしまうのかを、想像することが出来ないのだろうか、、、余程知能も公共心も足りないのだとしか思えない。

↑僕からすれば、その「知能」や「公共心」の、「一歩先の想像力」が何故持てないんだろう、と思います。眼前の「正義」「集団性自己中」のシャボン玉の中に閉じこもったまま、根源的・総体的に見つめようとしない大衆の姿勢が、不思議でしかありません。自分が大事、自分たちの世界が全て、と言う事なんでしょうけれどね。

この1年半の間(その根源に位置づけられる「香港デモ」問題まで遡ると2年余り)、一貫して同じ事を繰り返し述べてきました。僕には、首尾一貫した(有機的な繋がりに基づいた)纏まった文章を構成する能力を欠いているので、“出来るだけロジカルに”という想いはあっても、結局は断片的な“独り言”の繰り返しになってしまいます。もっとも、能力の問題以前に、「理路整然と因果関係を述べて答えに導く」という体系的な思考表現様式を採ることを、僕は最初から拒否している部分があるので、許より無理な話ではあるのですが。

プラットホームで延々と独語し続けているオッちゃんやオバちゃんと変わらないですね。いや、彼らの話も、真面目に聞いてみると、案外僕などより理路整然とした事を喋っているのかも知れません。

結論めいたことを先に言っておきます。去年の一月、最初に「いわゆる新型コロナウイルス(以下単に“コロナ”で記す)」の存在とその脅威の可能性が指摘されたときに僕が感じた想いは、今も全く変わっていません。コロナ自体ではなく、それによって形成されるであろう「空気」の恐ろしさ。それはコロナなどよりも遥かに怖い存在であると。コロナは (他の脅威ともども)個人に大きな打撃を与えるだろうけれど、「空気」は人類を滅亡に導く。

僕自身は、「マスク」も「ワクチン」も、それ自体は否定も肯定もするつもりはありません。問題は、それに導かれた「無意識強要同調空気」(いわゆる“同調圧力”)の、なし崩し的な形成。それに対して非常に強い懸念を覚える、ということです。

「ワクチンを打つか打たないかは個人の自由(建前)」「ワクチンを打たない人間は排除する(実態)」、、、その反律する概念両立を良しとする、日本人的正義の在り方、有耶無耶、事なかれ、集団自己中、異質排除、同調圧力、、、は、(その本質議論以前の問題として)間違っている、と僕は思います。そのことを美徳とし、愛国的誇りに結びつけることに、僕は組みし得ません。

僕は、科学(医学を含む)・文明に(少なくてもそれへの依存に)、懐疑的な立場でいるのですが、、、もし人類(大衆ひいては科学・文明)が「永遠の命」の獲得を本当に目指しているならば、そのチョイス(科学への全面依存)でも良いと(無論皮肉ですが一応本心としても)思っています。そして、今の科学ならば、案外容易く為し得ることのような気がします。でも達成した暁には、人間は人間ではなくなっていると思います。個人としての「永遠の命」を獲得しても、「人類」としては滅亡してしまうのではないかと。

「“あらゆるリスクを排除することが必要”だと思っているわけではない」と人々は言うでしょう。でも、「何もしないよりは出来ることはしたほうが良い」とは思っているでしょうね。しかし、そうとも限らんのですよ。

コロナは怖い。
コロナで亡くなる方もいるでしょう。
コロナの後遺症で苦しむ方もいるでしょう。
コロナが医療を逼迫しているという状況もあるでしょう。

でも、大事なことは、そんな問題じゃないのですね。

コロナ以外の脅威で亡くなる人もいるわけだし、
コロナ以外の脅威の後遺症で苦しむ人もいるわけだし、
コロナ以外の脅威で医療がひっ迫しているという状況もあるわけです。

それを言うと、「この非常時に、何て無責任で不謹慎な事を言うのか!」と非難を浴びるわけですね。まあ、戦時中と同じです。

あらよる物事は、総体的に見なければいけない、「空気」で正論を決めてしまうべきではない、と僕は思うのです。

野菜とか果物とか、当たり前に人類にとって有益とされている食物の中に、“有害物質”が含まれていないとは限りません。いや、含まれていない、と考えるほうが、むしろ不自然なのではないでしょうか?あらゆる生物は、他者に対しての何らかの防御作用(物質的な要素も含む)を有しているはずです。私たちが普通に利用している「有用生物(穀物野菜果物家畜ミツバチetc.」にだって、其の気になれば「有害物質」を見つけ出し得るのかも知れない。ただし、民意に於いて「その必要にあらず」と判断される場合は、その限りではない。何事にも至らず、平々凡々と進んで行くわけです。でも、何らかの別の「民意」が働けば、更に別次元の「その限りではない」ということで、アウトになってしまう(見出されたリスクは排除しなくてはならない)わけです。そうして、人類は、「リスク排除」のために、どんどん追い詰められていく。

前にも一度記したことですが、、、近所の裏山(霞丘陵)を歩いていると、ハイカー(健康ウオーキング?)の人に多く出会うのですね。その人たちの多くが、結構重装備している。市街地(住宅街)から歩いて10分やそこらの、標高200mにも満たない(住宅街との比高はむしろマイナス)“山道(アスファルトの舗装道路)”を、リュックを背負って(たぶん中には非常食などを詰めて)、登山靴を穿いて、両手にピッケルを持って、もちろん(人の居ないところでも)マスクをして、完全装備で歩いています、、、。「山は怖い」「自己責任」「万全の準備を」というのが、衆目の一致するところなんでしょう。だから、(それ相当のお金持ちは)出来ることは全部する。あらゆるリスクを避けるために。でも、住宅街の隣を完全装備で歩いているのは、なんにも持たずにTシャツとサンダルで歩いている人よりも、ある意味(体力消耗など)リスクを背負っていることにはならないでしょうか?

僕の言うマスクやワクチンに於ける(薬の服用などもそうですね)「とにかくしないよりしたほうが良い」という方向性に対する懐疑は、機能的・物質的なデメリットよりも、そのことによって「空気に乗って動く」ことを当然のように導いていく、同調圧力に対する懸念のほうが、遥かに大きく、非常に怖いことなのだ、と言う事に基づいています。

ところで、昨日(9月13日)のネットニュースに、非常に気になる話題がありました。

北アルプス屈指の活火山・焼岳(標高2458m:ただし現在は山頂には立ち入れない)で遭難、のニュースです。登山道で(浮石を踏み外して)転倒、頭部を強打して死亡した、という事故です。その登山者は「ヘルメットを被っていなかった」というのが、コメントの話題の焦点になっています。

意見は、大きく分けて3つ。
➀上記した僕の意見と同様の「完全装備・徹底リスク排除」への疑問視。
②その僕が疑問視する「完全装備・徹底リスク排除」の推奨。
③特殊的背景の指摘。

それぞれを抜き出してみます。

>焼岳でヘルメットって、、、。したければしたらいいけれど、今回のケースは「歩道橋で転んで打ち所が悪くて亡くなったというケースと変わらないのでは? ヘルメットをしていなかったから亡くなったとミスリードするような記事は良くない。

>そう思います。街を歩いてて空き瓶踏んで転んで頭を打ったような感じですよね。
*注:僕のことで言うと、前回の裏山探索に出かける途中、街中の横断歩道を渡った際に、横からお年寄りの自転車がぶつかって(僕が)転倒して膝を強く打ち付けてしまいました(今も痛い)。そのお年寄り(僕も年寄りですが)の方が何ともなくて良かったです。いずれにしても僕の場合、山の中では何事も起こらないけれど、街の中が怖いです!

>コメ主に同感!私はヘルメットしますよ!とか、、、そりゃした方が安心だし安全なのは当たり前!街中でも同じだ!(焼岳なんて大した危険な山ではない)と専門家が言ってたぞ!

>そりゃ、「備えあれば憂いなし」、、、、ってのも分かりますが、、、、焼岳の一般ルートでヘルメットを被る気にはなれないなぁ~。キィキィいう人はいっぱいいるでしょうが、、、、。

>これ、プールや海で全員ライフジャケット着ろと言っているようなもんだろ。

以上に挙げたコメントは、僕の意見(「コロナはただの風邪、マスク、ワクチン不要/都市近郊の野山歩くのに完全装備はいらない」)と同じように見えますね。でも、根本的な部分で、正反対なんですよ。

といって、以下に示す、それとは対極の見解(徹底したリスク管理の必要性)も、むろん僕の意見とは全然相容れません。

>きょうび、子供の自転車でもヘルメット付けるからね。原付もノーヘルだったお爺ちゃんの頃と危機管理や安全意識のレベルが変わってるのですよ。

>安全軽視は日本の悪習(*これに関して僕は逆の感想を持ちます)。スキー場でも外国人はヘルメットを装備している人が多いよね。雪崩対策の装備も同じ。命が安い、使い捨てにしてきた歴史の残滓。

↓この辺りの意見は、一応分かりはしますが、、、。

>焼岳はヘルメットした方がいいです。御嶽山のことがあったので、岩場でなくてもヘルメット着用が望ましい。

>近いうちに焼岳行きますが、ヘルメット買いました。少しでも危険は避けたいですから。「自分だけは大丈夫」が一番危ないですから。

>私は焼岳でヘルメットしましたよ。私が登った時にはヘルメットをしている登山者が多かったのを覚えてます。登山慣れしている人達には、ヘルメットの必要ない山かも知れませんが、それでも火山だし岩も多いし、被るだけで邪魔にもならないし、しないで後悔するよりずっといいと思いますけど。

もう少し踏み込んだ、冷静で客観的な意見も幾つか見つけました。

>何がどうミスリードなんですか?いわゆるヘルメットが必要と言われている山ではないですけど、浮き石踏んで転んでおそらくアスファルトのようなフラットじゃない岩に頭をぶつけて亡くなった、立っている場所と頭をぶつけた場所の多少の落差も考えられる、それをどう分析すれば街で転んだのと同じと思えるのでしょうか。自分はこのニュースを見て、登山の際はヘルメットを常に持参し、転倒の危険が高いなと自分が思う場所はそこだけ着用する、そういう考えもあるのかな、と思いました。もちろんヘルメット邪魔だしするかしないかは別ですけど、ミスリードでは決してないでしょう。

>私も登山をしますが、浮石でバランスを崩したことは度々あります。しかしそれを恐れてヘルメット着用とはなかなかならないのがごく普通の登山者です。ここには、登山を(たまにしか)しない人の感覚の、程度をわかっていない極端な意見もありますが、ヘルメットの着用の必要性には個人の感覚の差も大きいと思います。私の場合はヘルメット着用が推奨されている山、例えば、奥穂高とか、近年大噴火があった御嶽山とか、皇海山のクラシックルートみたいなところでは着用しています。リスクということだけで言うならば、首都圏など雪に慣れていない人の多い地域では、雪の翌日の街中だって同じかと思います。

>自分は着用しないが、浮石を踏み身体のバランスを失い転倒や滑落、そして落石の際にはヘルメットは命を守る。50年以上着用しなかったのに無事でいられたのは、幸運だったのと、3点支持を確実に守って来たからだと思う。

僕も、今もし焼岳に登るとしたら、ヘルメットは着用しません。もっとも、自分の体力、噴火の恐れ、行く必然性、などから考えて、登ることはないですが。

いくら「手軽な山」とはいえ、仮にも日本アルプスの一員の焼岳と、都会の道では違います。高尾山程度の整備されたハイキングコースを完全装備で登ることは、はっきりと反対(リスク排除に於ける同調圧力への反対)しますが、焼岳に(ヘルメット着用を含めた)完全装備で登ることは、(僕はそうしないけれど)反対はしません。状況次第では、都市近郊のハイキングコースよりも遥かな脅威が齎される可能性があるからです。

これが、上高地を挟んで焼岳に対峙する(ほぼ同標高の)六百山だったら、「こんなところでは遭難しない、都会の道と同じ」とは誰も言わないでしょう(ちなみに僕は昔ルートファイティングをしながら六百山に登ったことがある)。でも両者の違いは「整備された道があるかどうか」の差で、焼岳であっても、登山者の体調や気象の状況次第では、かなりの脅威は齎し得ます。槍ヶ岳だって今は誰でも気軽に登れますが、その昔は(開山者の播隆上人にしろ)苦労を重ねて頂上に立つことが出来たのです。

ちなみに僕は、今でも其の気になれば、焼岳はむろん、大キレットだって西穂の稜線だって(さすがに北鎌は無理でしょうが*)、ヘルメットなしの普通の装備で行きます(前記したように体力と必然性が無いので其の気にはなりませんが、命令されたら行く)。怪我せずに戻って来れます。でも、ホテルの玄関で転倒して大怪我をしてしまうと思う(毎度のパターンです、笑)。
*北鎌独標を登ったことはないですが、尾根の中腹から遭難登山者を担いで降りたことはある。

焼岳は、「コロナ問題」に置き換えれば、“ただの風邪”に相当するのかも知れんですね。コロナに相当するような“特別に危険な山”ではない、と。

そうじゃないんです。標高2500mの山は、登山道が整備されていようがいまいが、標高200mの霞丘陵とは違うのです。ただの風邪も脅威だし、その一員であるコロナも脅威、ということです。要は、どう対処するか。

脅威の種類は、それぞれに於いて固有です。そして、それが現れなければ(あるいは現れても“共通認識”として把握されなければ)「脅威」とは見做されません。

仮に、透明人間がいて、幾ら悪さを働いていても、見えなければ何事もなく(せいぜい「なんか不思議なことがあったみたい」ぐらいで)スルーされてしまうわけです。見えたからには、そのリスクを徹底排除しなければならない。「見えなかったふり」というのもアリでしょうが、いずれにせよ、見えないことになっていたものが見えたので困ってしまうわけですね。

人類にとってコロナは大きな脅威でしょうが、それだけが特別に大きな脅威というわけではありません。他の脅威も、それぞれに特別な、それぞれの大きさを持っているのです。

コロナで多くの人が死んでいる。それは、ある一面での事実には違いないでしょう。しかし、「コロナが死因」ということに対して、何処まできちんとした検証が為されているのでしょうか?

「事実」というのは、「どこからどこまでの範囲」に於ける認識に基づく「事実」なのでしょうか?

既に共通認識として成り立っているので、(殊更ほじくり返さなくても)事実は事実である、、、、それで済ませて良いのでしょうか?

何度も同じことを繰り返して言いますが(そしてそれを「陰謀論」「知能の低い人間の戯言」と捉えるなら、どうぞご自由に、と言うしかないですが)、人は死にます。死因は色々です。単一の原因ではなく、(視点毎に)様々な要因が組み合わさってのものです。ある場合は、コロナが関わっているかも知れません。より正確には、コロナも関わっている、、、、。だから、そのリスクを徹底撲滅せねばならない。それが人間としての「正しい」在り方である、、、、とは、(「知能が低く」「道徳心・公共心が欠けて」いるのであろう)僕には、到底思えません。

こんな記事も見つけました。

★政府が決して言わない、進化生物学的に見て危険な「日本のワクチン接種計画」の“あるリスク”~変異とワクチンのイタチごっこ、、、」PRESIDENT Online

非情に説得力のある内容(といっても僕は誉めているわけではない)で、少なくとも前半部に関しては納得です。
「なぜ次々と異変株がはびこるのか?それは“異変し続けること”が生物の基本だから、当たり前なのである」
、、、、この医師は続けてこう言います(以下要旨)。
「抗生剤を開発する。とりあえずは圧制できるが、敵(ウイルス)は抵抗性をつける。新たな強力抗体を開発せねばならぬ。その結果、国と製薬会社が、イタチごっこを続けることになる。そんなことでは永久に敵はくたばらない。本気で撲滅する気ならば、一気に終わらさねばならない」

この報文には、「新型コロナウイルスは武漢発祥」と、当たり前のごとく明確に記されているわけですが、その検証こそが、最初に必要な命題なんですけれどね。「答えを出すこと」ではなくて「検証すること」が大事なのです。でも大衆やマスコミは「検証すること」よりも「答えをだすこと」のほうを求めるわけです。

次々と変異株(いわば「新型の新型」)が生み出されているわけですが、なぜ今(2020年に武漢で)始まったと断言できるのでしょうか?僕は、別に中国の擁護をするつもりはありません。中国の(ことに武漢とかにおいての)衛生環境下では、どんなトンデモ事態が起ころうが不思議ではないです。武漢が「コロナ=新型ウイルス」発祥の地というのは、当然と言えば当然なのかも知れません。

でも、「新型ウイルス」が生まれたのは、今回(2020年1月の武漢)が、初めてなのですか? そして、なぜそれを撲滅させる必要があるのか? それこそ、延々と「戦い」(文明・科学による“脅威”の撃退)を繰り返すだけじゃないのでしょうか? 僕には、そこんとこが良く分かりません。

「知能の低い愚かな僕」と「聡明な科学者有識者」(それに追従するメディアや大衆)の感性とか価値観とかは、そのスタートの時点で折り合わないのでしょうけれど、、、。

↓こんな記事もありましたよ。
「新型コロナウイルスのワクチンは、一般の人まで幅広く3回目の接種が必要だと示すデータや証拠はないとする寄稿を、米食品医薬品局(FDA)の幹部2人や世界保健機関(WHO)などの専門家チームが13日、英医学誌ランセットに発表した」(既に十分な効果がある由)。

科学の本質というものは、確かに凄いものなんだろうな、と思います。人類の英知・文明は、凄いものなんだろうと。でも、全く異なる次元から光を当てれば、お笑いか(正直、僕は今の“お笑い”ってのが大嫌いです)、子供の遊び程度でしかないような気もするのです。

似非宗教家の洗脳のごとき発せられる言葉。“ロジカル”“エビデンス”“科学的根拠に基づいた”、、、、。

“ロジカル”であることが大切と言うならば、根源的な部分まで遡ってそれを示して欲しい。あるいは、未来を見据えて展望を示して欲しい。

具体的には、コロナを含めた全てのリスクの脅威の程度を、数値化して示してくれないでしょうかね。「検証」を、とか言うくせに、実は本質的な部分に踏み入って考えることは、最初から為されていない(無意識的な意識操作により放棄されてしまっている)。なにもかも、砂上の楼閣です。

コロナは風邪です。むろん“イコール”だとは言いません。しかし、多くの部分で重複している。コロナ以外の「風邪」も含め、互いにどのような相関関係にあるのか、どのような数値が示されるのか、コロナのアイデンティティをきちんと検証するべきです。

それらのことを無視し、「空気」でもってコロナをトリックスターに仕立て上げる。

繰り返し言います。僕は「コロナが脅威ではない」とは言っていませんよ。ほかの様々な脅威ともども、確かに大きな脅威なのだと思います。脅威には、それぞれに固有の脅威の種類や程度があります。平面上に現れるか現れないか、によっても、捉え方が違ってきます(現れないものは知りようがない)。

全ての脅威に向き合い、全てに対するリスクを排除していくことが、どの程度必要なのでしょうか? 例えば、一つの脅威に向き合い、それを撲滅することは、別の脅威を呼び起こすことに繋がる可能性もあるわけです。コロナの排除(マスクで回避しワクチンで撲滅する)が、たとえ良きことなのだとしても、それで全てが解決するわけではありません。

総体的に捉える、そのためには場合によってはネガティブな面も肯定しなくてはいけないですね。「光」と「闇」は、立脚点を変えれば逆になる可能性もあるだろうし(闇に棲む存在からすれば光の状況は真っ暗と同じ)。

医療の問題などについても、「医療」が錦の御旗のように取り上げられることに、違和感を覚えます。本当の医療現場は、そんな単一の価値観で表わせるものじゃないはずです。

トレンドになりつつある「想像力の欠如」という表現、、、「想像力を欠く」のは、それを言っている人たちの方じゃないか、と思ったりします(この話題は既にしたっけ?)。

登山は、引き返す決断の方が重要です。

温暖化や熱中症の問題を含む様々な災害対策、民主化運動や差別・ヘイト問題、みな同じ線上にあります。集団性自己中心。無意識強要同調空気。正義。コロナ問題だって、永遠に解決しません(まあ、とりあえず有耶無耶終結に向かうのでしょうが)。

[早く“近所の森の蝶図鑑”の作成に集中したいので、とりあえず箇条書きでメモしてたことを、そのまま書き写しています]

アベマTVとかヤフーニュースとか見ていると、アメリカでも、中国でも、マスクしてませんね。たまにマスク している人がいたら、大抵は日本人らしき人(笑)。とにもかくにも、「リスクを避けること」「いわゆる“思いやり”」「阿吽の呼吸で成り立つ道徳やマナー」、、、それらの「美徳」で「美しい日本」が成り立っているわけですが、将来的にはドツボに嵌っていくだけだと思いますよ。

アメリカでも中国でもロシアでも中東でも、それぞれの(価値観に基づく)体制のなかにあって、それぞれの今の社会が(その是非はともかく)あるわけで、、、、、えーと、言おうとしていること(メモしてたこと)を、上手く文章に出来ないですね。まあ、何を言おうとしているかは、だいたい分かって貰えるかと、、、。

マスクもワクチンも命令されればしますよ。「それ自体」は、たいした問題じゃないのですから。

もともと日本人はマスク好きですしね。リスク排除、異質排除、集団性自己中の民ですから。

中国と日本の比較。共に「(基本的な、シンプルな)地図を読めない(読めなくなってしまった)国民性」。正反対の意味で。何度もそのことを書いてきています。非常に重要なことなので、改めて書きたいのですが、今夜中にブログをアップしたいので、時間がないです。

コロナに、(この10数年間に)少なくても3度罹っているという話。中国の衛生環境の劣悪さは、そりゃもう日本人には信じられないほどですから、変なウイルスだってウヨウヨいて、当たり前と言えば当たり前なんですね。

これも以前した話ですが、スーパーに買い物に行って、(買い物かごに乗っかった)小七の御守をしていたら、突然“ジャー”とやられてしまった(中国じゃ子供がそこいらじゅうでやっている)。慌てます。モニカに、“大変だ、小七がお漏らししちゃった”と伝えたら、怒られましたね。そんなことで騒ぐな、後で洗えば済む事、と無視されちゃいました。

食堂のゴミ箱に小七のウンチをさせていた。日本人として何か一言注進せねば、という所なんですが、しかし「最終的にはウンチもゴミと一緒に処分されるんだから、、、日本人は一々気にしてて、変なの」と言われるだけです。それはその通りなんで。衛生に関しては、日中余りにも両極にありますね。将来的には、どっちが有利なんだろう?

日本に帰ってきてイライラするのは、そのトイレ事情です。確かに圧倒的に綺麗。でもなんだか変です。トイレットペーパーの設置だってやたら複雑で、、、もうちょっとシンプルに出来んもんかと。

中国はともかく、東南アジア方式で充分じゃないだろうか?と思います。中国も「トイレ革命」とかで、都会
のトイレはやたら豪華に(一見清潔に)なっていきますが、衛生と言う事で言えば、案外田舎のシンプルなトイレの方が(一見汚らしくは見えても)実質的には理に適っているのではないかと思ったりもします(そのことについては以前にも書いたし、より深い考察は別の機会にします)。

日本のトイレに話を戻せば、これだけ神経質に「消毒消毒」と言って、隅から隅まで「リスク排除」を標榜して、「人の触ったところは触れないようにご理解とご協力を」などと言いながら、なんでトイレの紙は三角折なんなの?と不思議です。後から入った人に優しい気持ちを伝えるための思いやりの所作らしいのですが、(もし本当にリスクを考えるなら)これほど矛盾していることはないです。

ウイルス、陽性で良いじゃないですか。みんなが罹って当然だと思いますよ。そのあとどうするかですね。

これまでの(もしくは今ある)様々な脅威(自殺なども含めた)。それとコロナの比較。それぞれの脅威が、どれほどの強さで、どのような性質を持っているのか?それが表に現れたとき、どのようなパニックが起こり、どのようにパンデミックに繋がっていくか?そして、その事が社会の中でどのように示されるのか?示されたことがどのように全体を構築していくのか?

何百回でも何千回でも同じことを書きます。コロナは“ただの風邪”です。そして、ただの風邪は、とてつもなく恐ろしい脅威です。

「コロナを甘く見るな」という人に言いたい。だったら、「唯の風邪を甘くみること」もやめて貰いたい。

最も怖い事は、そのような「空気」(コロナ=特定のリスク徹底排除)に沿って全てが動こうとしていること(殊に日本は、、、、ある意味日本主導で世界中が)。

僕の“想像力”では、眼前のリスクをひたすら避けることよりも、人類や地球の未来を見据えた俯瞰的な姿勢をとる事のほうが重要と思うのですけれどね(日本の大衆が嫌っているらしいWHOなどは、試行錯誤しつつ、出来る限りの客観的立場で取り組もうと努力しているように僕は感じるのですけれど)。 

相変わらず、山ん中を、1人でマスクして歩いている人に多く出会いますね。マスクするのは自由ですけど、そのことが「同調強要」を美化する空気を作り出している、ということが、わかんないのかな、、、、マスク着用一人歩きは、やめて欲しいです。

健康ウオーキングですか、、、。マスクして、ナップサック担いで、手にピッケル持って、、、、。僕のような「非健康的生活環境在住人間」には、理解が出来ないですね。それに、僕と同年輩のご老人たちは、どうしてみんな前かがみで、トボトボと歩いてるんですかね。たぶん万全のリスク排除管理をやってられるんでしょうけれど。

僕は、いつも道の無い林の中とか崖の縁とかを歩いているわけですが、まずそこで怪我をしたりすることは有りません。たまに人工物(溝など)に蹴躓いたりしちゃいますが。

皆、見えてるリスクは避けるんですね(だから道の無い山の中など歩かない)。でも、リスクを避けることがリスクの元だったりして。

山ん中、透明人間だらけですよ。蝶なんて、透明人間そのものです。突然、どこからか飛んで来て、幻のように、どこかに消え去っていく。

と言う事で、箇条書きのメモを片っ端から(重複)文章化しました。一体何言ってるのやら。まあ、Wi-Fi使用終了時間にギリ間に合いました。あとは「近所の森の蝶探索フィールドガイドブック」作成に集中します。

・・・・・・・・・・・

も一回言っときます。“我々は何もかもを一覧表にすることで人間のシステムを腐らせている気がする”
これは、本当に至言ですね。

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なんか写真があった方が良いと思うので手元にあったのを適当に選んでおきました(たぶん以前にも掲載済み)。別に意味はありません。
2017.6.7 午後7時35分 雲南四川省境山地




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