青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

裏山探索 2021.9.28-9.29

2021-09-29 21:05:56 | コロナ 差別問題と民主化運動 身近な自然


★9月28日の記事に、いいね!その他ありがとうございます。



2021.9.28 新規追加種 59種目 ウラギンヒョウモン 
2021.9.29 新規追加種 60種目 オオウラギンスジヒョウモン

(この両種については)言いたいこと、言わなければならないことが多数ありますが、明日にします。

今日写したメスグロヒョウモン雌も再紹介しておきます。これで霞丘陵で撮影した大型ヒョウモン類は、(ツマグロヒョウモン、ミドリヒョウモン、および5月に一個体撮影後出会っていないクモガタヒョウモンを加えて)6種、この辺りに分布するはずの種で残るのはウラギンスジヒョウモンだけです。

写真1-3






ウラギンヒョウモン

写真4-6






オオウラギンスジヒョウモン

写真7-8




メスグロヒョウモン(雌)




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“距離”という概念

2021-09-27 19:33:25 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記



読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・・・

今日は福生公立病院通院(F先生との雑談)の日です。電車で3駅(歩かずに電車に乗ってます)。この時間帯(朝8時42分河辺発、8時49分福生着)、最後尾車両の乗客は2-3人。毎回車掌さんに告げます。「僕は肺が悪いのでマスク出来ません、福生まで乗客がいない席で窓を開けさせてもらいます」 99%の車掌さん(むろん今日の人も)が気持ちよくO.K.してくれます。
>もちろん良いですよ。気になさらないで(窓も大きく開けて下さって良いですよ)。
個人の想いと社会の空気は別物、という一つの証ですね。

ちなみに、毎日曜(昨日も)は、原則として教会礼拝(晴れた日には裏山探索)。牧師さんの説教が始まる直前に行って、終わるとすぐ帰ります。誰にも声をかけられる隙を与えないように(笑)。 “洗脳”がどうやって為されるのか、それを知るために聖書を読んでいる、という、、、。

もっとも、「陰謀論」の中にも真実?の一片があるのかも知れないように、聖書の「洗脳」の中にも真実の欠片のようなものがあるのかも知れません。それはそれで、良きことだとは思っています。まあ、罰ゲームみたいなもんで、週に1時間ぐらいはそんな時間があっても良いかと(どうせ礼拝に行くなら40年前に行っていた三鷹の教会に行きたいのだけれど、電車賃が、、、、)。

福生までの車内テレビのニュース、消える瞬間にちらっと眼に留まった記事です。
『「、、、、という表現は実態を正確に表していないので、“社会的距離症候群”と変更すべき」と専門家が指摘。』

、、、、が見えなかったので、何に対しての指摘なのか明確には分からないのだけれど、いわゆる発達障害のことかな?と勝手に解釈していました。

さっきネットで調べたら、「社会的距離」は2つの異なる事例を指しているようですね。

ひとつは僕が想像していた「発達障害」とかに近い概念の「引きこもり」に関すること。“引きこもり”という表現を辞めて“社会的距離症候群”と呼ぼう、という提案です。

「症候群」ですから、(むろん病気でもなくて)かなり曖昧なスタンスですね(便利な言葉です)。専門家もなかなか良い事を言います。まあ、大衆やメディアよりは実態を把握しているはずなので、専門家には思い切った発言をして欲しいですね。「責任を持った発言(学門的に証明済みの責任逃れの発言)」よりも「無責任な発言(まだ体系に組み込まれていない知り得た知識の提供)」のほうが、僕としては望ましく思います。

提案新呼称?は「社会的距離」と「症候群」の間に何も付いてないので、ただ距離があるというだけで、それに対する意味づけ(距離の中身の解釈)を行っていないのが潔い(別に誉めてるわけではない)です。

「距離がある」ということが、「良いか悪いか」ではなくて、(自分にとって周囲にとって社会にとって)「得か損か」。

一方、「距離がない」ということは「空気に同調」ということですから、教育、道徳が行き届いた社会による「洗脳」を受け入れている、と言う事になります。

「距離がある」すなわち「自分で考える」、、、、それは、現代社会に於いては、「落ちこぼれ」「困った人」「反社会的存在」 と見做されることになります。

自分にとって、社会にとって、前者の立場を採ることは「得」に繋がり、「後者」の立場を採ることは「損」に繋がるわけです

もうひとつ「社会的距離」「呼称が適切ではない」に関して、全く異なる意味の問題提起がネット上で指摘されています。今、頻繁に使われている「社会的距離」という語は、「ウイルス感染防止の手段」の話題の中で使われる言葉ですね。

ネット上で、専門家による指摘。「ソーシャル・ディスタンス」の日本語訳は「社会的距離」でなく「物理的距離」とするべき、と。そりゃそうでしょう。「社会的」と「物理的」は、大変な違いです。

いずれにしろ、「社会的距離」、、、、なんか嫌な言葉だなぁ~~。こんな言葉を、平気で(無意識のうちに)肯定的に使っている人の神経が、僕には解らんです。

・・・・・・・・・・

大谷、7回まで快投も勝ち星つかず、なおかつ後ろが打たれてチームは負け。もっとも、数字(勝ち星10勝など)がつかない方が、メディアや大衆の、気持ちの悪い「称賛」を少しは押さえることが出来るでしょうので、それはそれで良い事かも知れんですね。

白鵬引退。照ノ富士の時代に入ったことを自覚したのでしょう。しかし(僕個人的には白鵬を批判する人々の気持ちは分からなくもないけれど)彼は彼のやり方で、大相撲に(貴乃花に劣らぬぐらい)真剣に向き合っている。それが日本の社会(大衆)との「距離」を生みだしている、と言う事でしょう。

距離の空間(すなわち今必要とされているものから取り残された部分)に存在するものこそが大事、という信念を押し通したんだと思う。大相撲に対する考えに、根本から取り組もうとしたのです。しかし「大相撲」のような対象を、日本の社会では、根本から考えちゃいけないのです。

朝青龍や日馬富士を辞めさせた正義のお婆さんや貴ノ花信者(貴乃花自身は悪くない、、、変な人なので僕は結構好きです、、、悪いのは妄信大衆)は、「根本」などは考えず、今漂っている「空気」しか考えていないので。

貴乃花の改革は、日本の伝統としての大相撲の原点に返る、という「思想表現」です。お約束の「空気」ですから、大衆はそれに乗ります。

白鵬の改革は、(結果として“伝統”=“お約束”を無視した)改革そのものの実行。そりゃ日本の大衆には嫌われます。

照ノ富士だけでなく、白鵬も日馬富士も 勝負はこれからです。頑張って欲しいですね。僕は応援します。






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「職人」と「専門家」 

2021-09-26 16:26:23 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】2
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・・・

天気が悪いと裏山探索に行かなくても済むので、ほっとします。Wi-Fiを拾って、アベマで大谷君見ています。「二打席連続タイムリー三塁打」って、何気に凄い記録かも。

観客席、マスクの人ほとんどいません。ごくたまに見つけたら、どうやら皆日本人。多くの日本人は、そのことを「美徳」と捉えているのでしょうね。僕には、「既得権の主張」「集団性自己中」「同調圧力の根源」にしか見えんのですけれど。

シャボン玉の中の正義は、地球にとっては、迷惑な存在だと思います。

・・・・・・・・

ということで、「近所の森の蝶図鑑」作成に没頭しています。

とにかく、売れる本、と言うよりも、原稿料をきちんと貰える本(「売れる本」ではなく「売れそうに思われる本」)を作らねばなりません。10月中に完成して、11月いっぱい、各メディアをターゲットにプレゼンを行う。

電車賃とか、、、経費を考えると頭が痛いですけれど。

三部構成。各80頁で計250頁くらい。カラー新書狙いでコンパクトに作成します。
写真1/2/3





こんな感じで、、、(文章は未だ推敲中)。

第一部は、「近所の蝶生態図鑑」。東京近郊80種&日本産全250種、後者は古いポジフイルムでほぼ全種が揃う(1頁25種で10頁に纏める)のですが、どうやって(お金をかけずに)プレゼン草稿を作れば良いのか、、、悩みます。とにもかくにも、解説文を書き上げておきます。ここは、そこそこの「知識」と「文章力」があればO.K.です。

第二部は、「霞丘陵フィールド日記」。“73歳からの挑戦”で、アピールしましょう。腕の見せ所ですが、果たして僕にその“腕(能力)”があるかどうかは、、、定かではありません。

第三部は、「海の向うの兄妹たち」。いわゆる「日本の蝶のルーツを探る」ですね。ここは、正真正銘、僕にしか書けません。かつ、非常に意義のある“作品”と成り得ます。“専門家”には絶対書けないですから。

この部分を生かすも殺すも、第一部で第二部で、いかにして「大衆/メディア」に受け入れられる内容に仕上げるか、にかかっています。

・・・・・・・・・

僕は、専門家というのは(「学者」とかも)嫌いなんですけれど、大衆は“専門家”が好きみたいですね。

例えば、物事の「類型」とかは、漠然と、曖昧に存在してこそ成り立つのであって、それを平面上に「類型化」してしまった時点で、「類型」が本来持つ意味は消滅してしまう、と思います。

専門家は、それを行うのが仕事なんでしょうけれどね。

そのような視点から言えば、僕は、間違っても専門家ではないわけで、「職人」を目指さねばなりません。

・・・・・・・・・・・

今日は秋場所の千秋楽でした。それにしても照ノ富士は強い。

付け加えておくと、北の富士さんのコラムは、まさに職人芸の文章だと思います(「しろぼしマーサ」さんのも面白い)。

・・・・・・・・・・・・

米国アムトラック事故のニュース。この間の台湾、樹林-花蓮(-台東)の特急事故と言い、今回のシカゴ-シアトルのアムトラック事故と言い、、、亡くなられた方に、心からご冥福をお祈りします。僕にとっては、本当に懐かしい想い出が詰まった路線なので、、、。







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日記 2021.9.25

2021-09-25 20:56:14 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記


★9月23日の記事に、いいね!その他ありがとうございます。


読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】2
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

「近所の森の蝶:ハンディ‐フィールド‐ガイドブック」作成に没頭しています。

その傍らで、ABEMA-TV見てるのですが、毎回のように「申し込み四球」とかで、つまんないですね(とんだところで「大リーグ記録達成」)。

コメントには「アジア人差別」の議論も沸き起こっています。でも、「要は、単にエンゼルスが弱い(ワイルドカード争いに加わっている対戦チームとは勝つための執念が違う)、それだけの問題」という客観的意見もちゃんとあるので、まあそんなところで良いでしょう。

「アナハイム」という地名を知ったのは、1964年秋、ジャン&ディーンの「パサディナのお婆ちゃん」(Billboard Hot100 第3位)のB面曲で、両面ヒット(77位)になった曲のタイトル(ビルボードのチャート曲で確か歴代2番目か3番目に長い曲名)の冒頭、、、、アメリカン・ポップスの話題に入っちゃうと収拾がつかなくなるので、やめます。

*念のため、今ネットでチェックしたら、「アナハイム、、、、」は、「パサディナのお婆ちゃん」じゃなくて、その次のヒット曲「ライド・ザ・ワイルド・サーフ」(16位)のB面曲ですね。ずっと勘違いしてました(でも「77位」という順位は当たっていた)。

え~と、、、。

アメリカには「差別」とは別次元での「力関係」はあると思いますよ。
白人>黒人>ヒスパニック>>>>>>>>>アジア人
(最初の3つは早晩逆転する可能性がありますが)
日本でなら、
日本人>>>>欧米人>>>>>そのほか>>>>>>>>>中国人>韓国人
かな?
これに、宗教(反イスラム)とか、政治主義(反共産)とか、いろいろ絡み合って、、、、。

いずれにしろ“ヒスパニック”という概念は、非常に面白い(という表現は語弊があるかも知れないけれど)問題を含んでいますね。「白人」「黒人」「ヒスパニック」「アジア人」「日本人」「欧米人」、、、或いは「科学的根拠に基づく人種とか民族とかの定義」、、、とか。どれも異なる“次元”の存在であるわけで、それを並列的に(いわゆる“正しい”言葉に置き換えたなら「体系的」に)解釈しようとするから、おかしくなるのです。



四姑娘山 6250m
(写真と記事は全く無関係です)








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訂正:2021.9.23 

2021-09-23 20:00:07 | コロナ 差別問題と民主化運動 身近な自然




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

図鑑(「我が家の近所の蝶たち」)作成に没頭せねばならず、ブログ書く時間が勿体ないので当分止めようと思っているのですが、、、昨日のブログをチェックしたら、思わぬ誤植(僕の書き間違い)を見つけたので訂正記事を入れます。

誤:頭部(複眼)が大きく、触角が長いことで、オオチャバネセセリであることが分かります。

正:頭部(複眼)が小さく、触角が長いことで、オオチャバネセセリであることが分かります。

一昨日の帰路と昨日、ほんの少しだけ同じ場所でツクツクボウシの録音を行っていました(なかなか思ったように録音出来ない)。その合間に蝶も写してたのだけれど、ボロ蝶ばかりです。ボロ蝶を綺麗に写すのはなかなかテクニックが要ります(そんなことないか、、、いたって簡単ですね)。



















・・・・・・・・・・・・



一昨日、オオチャバネセセリの写真の撮影時(録音収録中の動画画面から)。


昨日も同じ時間帯に同じ場所に行きました(スタバにパソコン開いたまま置いてるので暫し録音してすぐに戻った)。




・・・・・・・・・

最初の「質問」について、広州のK氏からメール返答が来ました(答えを頂いたのは初めてです)。

>マスクは、なぜ必要か?
>>売るためです。医療ってのに関心持つようにして、入院、薬、付属品が売れるように仕組まれているからです。死を前に宣伝すれば、簡単に売れます(K氏の中国の奥さんは確かお医者さんだったと思う)。

>「沖縄に対する日本」「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」の違いを教えて下さい。
>>時代が違うだけです。皆、勘違いしてます。やっていることは、世界中どこも同じです。

シンプルで良いですね。両方共その通りだと思います。でも、大衆は、モロ勘違いしちゃってるので、、、。




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日記:2021.9.20 

2021-09-22 09:46:01 | コロナ 差別問題と民主化運動 身近な自然


★9月20日の記事に、いいね!その他ありがとうございます。



読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

一日違いで大失敗してしまいました(昨日が祭日とは知らなかったものですから、、、)。

毎月、月末には生活費の予算が足らなくなってしまいます。なんとか綱渡りで切り抜けています。今月も計算上どう頑張っても月末までしか持たない(月を越えた1日‐4日あたりでゼロになる)ことは分かっていたのですが、前に報告したように昆虫図書専門通販でDVD(たぶん1万円余)が一枚売れた(購買者からの連絡あり)とのことで、いざとなればそれを受け取りに行こうと思っていました(都心に出る電車賃を考えて躊躇していた)。

金曜日の時点で、やはり今月末までしか持ちそうもない、ということが確実になったため、支払い要請しようと思っていたのですけれど、まあ月曜でも良いか、と思って先送りにしていたら、祭日です。それで今朝一番に電話したら、毎月支払いの〆が20日、今月は既に終了。次の支払いは10月21日になる、と。先週電話しときゃ良かったです。

まだあと一週間は持つと思うので、それまでに何とか方策を考えましょう(探索行はバスには乗らず歩く、おにぎりは食べない、銭湯には行かない、、、)。まあ、なんとかなるでしょう。

・・・・・・・・・・

昨日も雲一つない快晴。朝7時半出発、夕方4時半帰着。新規追加種はなし。入口付近のアザミの花にメスグロヒョウモン雄(昨日と同一個体?)が来ていました。少し早く入口に戻り、青梅の森へも行ってみました。

昨日の撮影種:
ツマグロヒョウモン、メスグロヒョウモン、ミドリヒョウモン、コミスジ、イチモンジチョウ、ヒメウラナミジャノメ、コジャノメ、スジグロチョウ、キチョウ、ベニシジミ、ヤマトシジミ、ツバメシジミ、ダイミョウセセリ、オオチャバネセセリ、イチモンジセセリ、チャバネセセリ。

一昨日撮影種の訂正。ウラギンスジヒョウモンは誤。アゲハチョウは結局画面に写ってなかった。

[参考]街の中での目撃種(撮影出来ず):アゲハチョウ/クロアゲハ/ナガサキアゲハ?/ヒメアカタテハ/ウラギンシジミ。
モンキチョウ(ヒガンバナ群落の隅を飛んで行く1個体を確かに見たはずなのだけれど、、、写真に撮れていない、、、、該当箇所に写っているのはキチョウ、、、、僕の勘違いかな?)

最初に紹介するのは、昨日も取り上げたツマグロヒョウモン雌。今日もイの一番に出現しました。現在、東京の都心では最もポピュラーな蝶です(小型種を含めると一番はヤマトシジミかな?)。日本(世界)全体で言えばヒメアカタテハ。「都心(市街地など)」に拘らず「都市周辺」ということで言えばヒメウラナミジャノメなのではないかと思います。ヒメウラナミジャノメは在来分布種なのですが(現在この蝶が非常に多く見られる原因などについては別に考えます)、ほかの2種(ヒメアカタテハ、ツマグロヒョウモン)は、比較的新しい時代になって繁栄しだした種です。

僕の以前の活動期(30~40年ほど前)にはツマグロヒョウモンはかなり南に行かねば見られない種でした。60年ほど前に僕が蝶に興味を持ち始めた頃は、関西でも滅多に見られない大珍種だったのです。それが今では、、、、。

下に例を挙げる各種は秋になって爆発的に増えるという傾向を持ちますが、本種は(秋に特に多くなるのは確かとしても)一年を通して見られます。原因を「温暖化」で済ませれば簡単なのですが、そう単純な問題ではないと思います。温暖化(それと何らかの関係を持った移動)に結び付けられて語られることの多い種のうち、ヒメアカタテハの場合は、ずっと以前から世界中のほとんどの地域に分布していて、現在の環境や気候とは特に大きな関りを持たず繁栄が為されているように思えます(ウスバキトンボも同じような傾向があるのかな?)。

以前は関東地方には見られなかったのに、最近になって東京近郊でも増えている蝶としては、ナガサキアゲハやクロコノマチョウなどが思い当ります。それらは「地球温暖化」の象徴として「南からの北上」と捉えられることが一般的です。でも、僕は違うと思う。

厳密に言うと、それらは(クマゼミの場合も同様)日本本土(本州-四国-九州)に固有の分類群です(“種”としてエンデミックとまでは行かないけれど他の地域産とは異なる独自の形質を有している)。必ずしも“南”の生物と言うわけではなく、分布の拡大(いわゆる“北上”)と気温は、さほど関係していないように思われます。

確かに、九州や四国から見ると東京は北に位置します。でも、気温はそれほど変わるわけじゃないと思うのですけれど。「北上」と言うよりも、「拡散」(北にも広がる)と捉えたほうが良いのではないでしょうか?実際、上掲種の多くは逆に南の方角(沖縄など)にも分布を広げているので、「北上」とするのは辻褄が合わないと思います。

それに、例えば、ウスバシロチョウとかヒメキマダラセセリとかミヤマカラスアゲハとかのような、どちらかと言えば「北」「山」の蝶というイメージの強い種が、比較的近年になって(地域によっては)都市周辺の低地や暖地でも結構見られるようになっている、という逆転現象もあります。

生物各種の増減は、様々な複合要因を持って成されるものです。因果関係を理路整然と説明して、、、という方向性でのみ答えを示そうとすると、おかしくなってしまいます。

近年東京近郊で増えた蝶としては筆頭格に挙げられるツマグロヒョウモンは、(東京産と同一の分類群も)南方にも広く分布しているので、分布の拡大に温暖化が要因として関っている程度が最も大きい種である、ということは出来ると思います(でも要因はそれだけではない)。

ところで、コスモポリタン種ヒメアカタテハと、それに次ぐ世界的普通種ツマグロヒョウモンは、なんとなく色調が似ていますね(他の日本の蝶に無い鮮やかなピンクを帯びる)。偶然でしょうか?

ちなみに、大抵の蝶の翅は、雄の方が鮮やかで派手。ヒョウモンチョウ類は例外的に雌のほうが鮮やかなのですね。ツマグロヒョウモン、メスグロヒョウモン、、、。



ツマグロヒョウモン雌。昨日に続けての紹介。単に見栄えが良いので、、、。



ミドリヒョウモンも雌のほうが綺麗と思います(翅表の微妙に黒緑がかったところが良い)。







メスグロヒョウモン雄。昨日の夕方写したのとたぶん同じ?ボロ個体。ミドリヒョウモン雄ボロ個体2頭との3ショットを計140枚写しました。写真の出来以前に、これだけボロイと、何枚写してもどうしようもありません。





今日(9月20日)は祭日だったらしく、入口の三色ヒガンバナに昨日同様多数のカメラマンが訪れています。僕はその横の路傍で、ヒガンバナに背を向けてボロヒョウモンを写しているので、みんな不審そうに思っているようです(邪魔だからドケと言われた)。

・・・・・・・・・・・

昨日のブログにも書いたと思うのですが、イチモンジセセリが少ないですね。むろんいることはいるのですが、【9月20日、快晴微風、(町の中にも)小さな水田あり、その周りに訪花園芸植物多数=ケイトウ、キバナコスモス、マリーゴールド等々)】という条件下で、どこにも群れ飛んでいない、というのは変です。途中で会った昆虫愛好家の方もそのことを指摘していました。僕だけの認識ではないと思います。

原因は、(ある人の指摘では)訪花植物の減少?しかし、イチモンジセセリが訪れるのは、元々園芸植物が主体なので、それは違うでしょう。

水田耕作の減少?ずっと以前から都市周辺の水田は減っています。でもイチモンジセセリは秋にはいつも大発生していました。今になってそれが要因とは考え難いと思います。

環境の変化?イチモンジセセリは、むしろ「環境の変化」に伴って増えた昆虫のはずです。辻褄が合わないような気がします。

最初に挙げた、吸蜜源となる植物の減少が蝶の衰退に関わっている、というのは、イチモンジのようなポジションにある種はともかく、一般論としては大いにありだと思います。殊に、衰退傾向にある種では、種や個体群の滅亡に大いに関係しているはずです。中国杭州のギフチョウ(Luehdorfia chinensis)は、その最たる例ですね。

僕が撮影を行っていた1980年代末頃は、都心周辺に(都市の内部にも)雑木林が発達していました。ギフチョウの棲息環境としては「完璧」、、、、に見えたものです。

しかし、ひとつ怪訝なことが、、、。林床に幼虫の食草のカンアオイは豊富にあったのですが、成蝶の栄養源として必須の、春に花が咲く野生の植物がほとんど見当たらないのです。ギフチョウは園芸植物にはやってきません。これで大丈夫なんだろうか?と訝しく思っていたところ、、、案の定、数年後一気に消滅してしまった(小笠原のオガサワラシジミなども似たような事情があると思っています)。

でも、イチモンジセセリに関しては、事情や背景が全く異なります。何で少なくなってきているのか、よく分からない(そもそも毎秋大発生している事がおかしいので、まあこれくらいでちょうどいいのかも知れません)。そう言えば、黒雲18億の大群のような報告例は、最近余り聞かないように思うのですけれど。

「イチモンジセセリが通常よりも少ないのではないか?」と言うのは、実は僕の思い込みバイアスに因るものである可能性もありますね。そのことを考えて、昨日撮影したゲゲネス類を、ざっとチェックしてみました。むろん、ざっとチェックしただけなので見落としとかもあるでしょうし、単に写真を撮っただけということで、元々イチモンジセセリのような超普通種にカメラを向けることは少ないでしょうから、実際に出会った個体数が反映されているわけではありません。でも、この数字で、おおよその傾向は掴めると思います。

小型セセリの昨日の総撮影枚数は179枚。
*オオチャバネセセリ168枚:個体ごとのカウントは未選別(平均1個体につき4~5枚ほどは写していると思うので推定40個体前後?)
*イチモンジセセリ9枚:3個体
*チャバネセセリ2枚:1個体

以下、全てオオチャバネセセリです。



写真を改めてチェックした結果「オオチャバネセセリ」と分かった個体の多くも、リアルタイムでは「イチモンジセセリ」と思って撮影していたわけですから、実際に思いのほか少ないのは確かだと思います。



通常、オオチャバネセセリのほうが、イチモンジセセリやチャバネセセリより(頭部は別として)やや大きいのですが、6~7月に発生する第1化の個体では確かにそうなのだけれど、この(秋の)世代の個体は、むしろ小さめなのが多いような気がします。参考として僕の指を添えてスケールを示しておきます。



後翅の白斑は、(通常言われているように)必ずしも4個が互い違いに配置するわけではありません。3個だったり5個だったり、配列バリエーションも多様です。





この個体の白斑は、ほぼ一列。頭部(複眼)が大きく、触角が長いことで、オオチャバネセセリであることが分かります。




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2021.9.19 裏山(霞丘陵)探索

2021-09-20 07:09:20 | コロナ 差別問題と民主化運動 身近な自然




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

さすが、「台風一過」です。文字通り雲一つない快晴。朝7時半に出発して、午後4時半に戻ってきました(霞丘陵)。でも蝶は余りいませんでした。ミヤマチャバネセセリにはむろん出会えず、多摩川の河原同様に、イチモンジセセリも大して多くはなかったです(いたことは結構いたけれど“群れ飛んでる”という感じではなかった)。

今日の撮影種。アゲハチョウ(ほぼ撮影失敗、、、未だまともな写真が撮れていません)、キチョウ、モンシロチョウ、スジグロチョウ、ツマグロヒョウモン、ミドリヒョウモン、メスグロヒョウモン、ウラギンスジヒョウモン、コミスジ、ヒメウラナミジャノメ、サトキマダラヒカゲ、ヒカゲチョウ、クロヒカゲ、ウラギンシジミ、ヤマトシジミ、ウラナミシジミ、ダイミョウセセリ、キマダラセセリ、オオチャバネセセリ、イチモンジセセリ、チャバネセセリ。

うち、新規撮影種:今年58種目メスグロヒョウモン。

行き帰りに通った入口の休耕田跡に、ヒガンバナが満開です。シロバナマンジュシャゲとセットで、かつ2週間ほど前から咲いている黄花種(ショウキズイセンまたはLycoris sp.) も咲き残っているので、赤白黄色の鮮やかな景観を成しています。

日曜日とあって、それを目的にハイカーやカメラマンが押しかけています。まあ、確かに綺麗なので、そんなところですね。

ヒガンバナは皆さんご存じのとおり不稔性の種で、日本に生えるものは中国からの渡来とされています。たぶんそうでしょう。でも中国に於ける2倍体(捻性のある)集団の実態も詳しくは分かっていないのだと思われます(ひと月ほど早い時期に中国各地でポツポツ出会う)。

白花種(シロバナマンジュシャゲ)の分類上の位置づけに関しては、様々な説がありますね。古い図鑑などでは日本での分布は九州(南部?)とされていたように思います。僕は昔、大隅半島の先端付近で見たことがあります。最近は、ヒガンバナ(中国産2倍体種)とショウキズイセンの交雑由来、と説明されていることが多いようですが、実態はもっと複雑だと思います。中国ではどうなっているのでしょうか?

黄花種*は、僕は昔、屋久島やトカラ列島や奄美大島で撮影しました(ショウキズイセン)。分類的には、幾つかの異なる系統に属する黄花種があるようなのですが、僕は詳しいことは知りません。垂直の絶壁に群生する種(広西壮族自治州)については「海の向うの兄妹たち(上)」で紹介しているので、興味のある方はチェックしてみてください。

*ちなみに、日本本土にも黄花(正確にはややオレンジがかった濃い黄色)のリコリス属の種「キツネノカミソリ」が在来分布していますが、ヒガンバナなどとはやや類縁が離れていて、別の亜属に置かれます。

赤白黄とも、少なくとも東京周辺に於いては在来分布種でないことは確かで、この休耕田の群落も、おそらくは比較的最近、観光?目的(モグラの出没を防ぐため、という説もあるようです)で、行政などの何らかの組織によって為されたものではないか、と思われます。

「凄い綺麗!(赤白黄のヒガンバナの)素晴らしい自然景観!!」という声と、
「凄い怖い!人類の敵から(マスクとワクチンで)身を守ろう!!」と言う声は、
僕には同じ種類に属している、と思えるのですが、、、、僕が変なのかな?







・・・・・・・・・・



ツマグロヒョウモン雌



ミドリヒョウモン



メスグロヒョウモン雄





メスグロヒョウモン雌






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2021.9.18 日記2

2021-09-19 07:56:07 | コロナ、差別問題と民主化運動、アメリカンポップス


★9月18日の記事に、いいね!その他ありがとうございました。


“女エルヴィス”ワンダ・ジャクソン(今年84歳)の新曲 
カテゴリー:「アメリカン・ポップス」

「次のブログ記事は(別の話題アサギマダラに差し替えて先送りにしていた)イチモンジセセリ」、、、と予告していたのですが、(やはり思ったよりも難しくて)すぐに取り組むとなると、かなり気が重い、、、。それで再び別の話題を差し挟んでおきます。

ジョニー・ティロットソンの「涙ながらにIt Keeps Right On A Hurting」関連。そのカバー・ヴァージョン全アーティスト紹介を目指しているのですが、まだユーチュブにアップされていないのが幾つかあります。メジャーなところでは、ボビー・ゴールスボロ―とか、ザ・ウイルボーン・ブラザースとかは、ぜひとも聴いてみたい。それらのバージョンが、もしかしたら新しくアップされているかも知れない、というわけで、年に1~2度はユーチュブをチェックしています。

今年の春、意外なところから関連ユーチュブを見つけました。エルヴィス“フリーク”らしき、若い黒人DJによって比較紹介された、「涙ながらに」のエルヴィス・プレスリー・バージョン(ロック)とハンク・ロックリン・バージョン(カントリー)の比較です。それに対する感想をブログにアップしておきました。今回、再び意外なところからの関連情報。

ついこのあいだ、今夏リリースされた、ジョニーより一つ歳上の、今年84歳になる、ワンダ・ジャクソンの新譜です。“最後のリリース”と銘打ったアルバムの中からシングルカットされたA面曲です。
Wanda Jackson - It Keeps Right On A Hurtin’ (Audio) - YouTube

「涙ながらに」をはじめとするティロットソン作品を歌った同時代女性カントリー・シンガーとしては、“ジェーン・シェパード”“スキーター・デイヴィス”“ノーマ・ジーン”“アニタ・カーター”“ジョディ・ミラー”“ロレッタ・リン”“コニー・スミス”らがいて、錚々たる面子ですが、日本での知名度で言えば、“ワンダ・ジャクソン”が、一頭抜きんでているのではないだろうかと思います。

“女エルヴィス”ですね。1954年夏に、カントリー・トップ10ヒットの「ユー・キャント・ハブ・マイ・ラブ」。エルヴィスがポップ界に旋風を巻き起こしたのが56年、カントリーではその一年前の55年。ワンダ・ジャクソンの登場は、更にその一年前なのです。

“カントリー”と言うよりも“ロカビリー”。60年には、あのジーン・ヴィンセントをバックに、ロックン・ロール・ナンバーの「レッツ・ハブ・ア・パーティ」をポップスの方のトップ40に送り込んでいます。

61年には、後にロニー・ロブでもヒットする自作曲の「ライト・オア・ロング」、翌62年にかけては「イン・ザ・ミドル・オブ・ハートエイクス」を、カントリーとポップスでクロスオーバー大ヒットさせています(C9位/P29位、C6位/P27位)。

と言う事で、本場のポップス・メジャー・ステージでは60年代に入ってからのブレイクですが、日本では50年代半ばから“女性ロカビリー歌手”、ひいては女性カントリー&ウエスタン歌手の魁として知られています(平尾昌晃とか、ミッキー・カーチスとか、小坂一也とかの時代で、僕も知りません、リアルタイムで接していた方々は今80歳代でしょう)。以前の僕のブログでも紹介した「フジヤマ・ママ」(57年)などの、日本だけの独自ヒットもあります。

その“伝説の”と評しても良い超ベテラン女性カントリー/ロック・シンガー、ワンダ・ジャクソンの「最後のリリース」にジョニーの「涙ながらに」が選ばれたわけで、感慨深いものがあります。

付け加えておくと、共同プロデュースが、若い世代(と言っても60歳オーバー)の女性ロック歌手、82年に
ポップス。チャートで7週間に亘る1位を記録した「アイ・ラブ・ロックン・ロール」のジョアン・ジェットであることでも、注目を浴びているようです。

考えてみれば、ワンダ・ジャクソンとジョニー・ティロットソンは、それぞれ自作の「ライト・オア・ロング」や「涙ながらに」が、60年代初頭のポップ&カントリーのクロスオーバーヒットの代表曲であるわけですから、60年後とは言え、改めて取り上げられても不思議ではないと思います(ジョニーは「ライト・オア・ロング」を歌ったことがあるのでしょうか?)。

ちなみに、僕が一押しの「涙ながらに」カバーは、アマチュア?歌手“Max Phillips”バージョン。彼の歌う「ライト・オア・ロング」もユーチュブにアップされています。共に非常に素晴らしいので、是非聴いてみてください。






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2021.9.18 日記

2021-09-19 07:53:38 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

台風が近くに来ているようなので、もちろん裏山探索はやめて、朝からパソコンの前に座ってWi-Fi電波を拾っています。でも、風もないし、薄曇りの穏やかな天気で、、、、出かけていればよかったな、、、、。。

アベマTVで大谷選手を見るつもりでいたのだけれど、まだ始まっていなかった。それで、適当にクリックして、今やってる番組を見ていました。「ヒマラヤの日本人がほとんど行かない秘境の探訪」という趣向の、「ナスD」という人の番組ですね。懐かしい雰囲気(雲南の奥地とほぼ同じ雰囲気)の画面だったので、ついそのまま見ちゃいました。

早送りの仕方が分からない、(というかリアルタイム放映中なのでたぶんそれが出来ない)ため、後ろの方だけチェックと言うわけにはいかず、といって気にもなるし、、、、こんなの見てても仕方がないし早く終わってくれないかな、と思いながら、2時間の番組を意地で最後まで見ました。

感想。上記したように、まず総合的には「懐かしい」(僕のフィールドと同じ文化/自然環境圏)ですね。早く中国(四川・雲南)に戻りたい。それは置くとして、2つの事を想いました。

それ(僕の感じた事、完全な批判意見ですけれど、、、)を言う前に、ナスDさん他の出演者を始め、制作に携わった方々には、敬意を表します。エンターテイメントとしての「出来」は素晴らしいです。ある側面からは、楽しく、、、というか、誹謗するような気持ちは全くない、という前提で見ることが出来ます。

でも、僕が受けた気持ちは全然違う所にあって、、、、おそらくブログ読者の方々に伝えるのは無理でしょうけれど、、、、それを承知で書いて行きます。

この「番組」を見ていて、無性に哀しく、寂しく、辛い気持ちになってきた、ということです。その“気分”の方向は、「コロナ」への想いと同じです。大衆、マスコミ、権力、、、に対する、どうしようもない違和感。もう一回繰り返すけれど、僕の想いは伝わらないでしょうが、、、。

見てまず感じたこと。「嘘だらけじゃん!」、、、むろん一面から見れば、事実を切り取っていることには違いないんですけれど。と同時に別の側面から見れば、嘘ばっかり、と思ってしまいます。TVなどのメディアに於ける“ヤラセ”というのが屡々問題とされますが、僕に言わせれば、このような企画そのものが、さらに言えば、エンターティメントという概念自体が、(個々の事例に対しての正否とは関わりなく)良くも悪くも「嘘/ヤラセ」から成り立っているのです。

僕の想いは、2つの事に集約されます。

以前にも何度かブログに書いたのですが、中国奥地での、カメラマンとか蝶の愛好家とかの、一度の探索行に要する予算について。「200万円ぐらい」と言う方が多いです。
>え?僕なんて、同じ日程で同じ場所に赴いて、(日本からの交通費を含めて)いつも一回の探索行に当てる経費は、せいぜい合計20万円ぐらいですよ。200万円は使い過ぎなんじゃないですか?
>>いや、そんなことはないです、これとこれとこれ、、、、切り詰めても数100万円はかかりますよ。
そう言われればそうなんだけれど、、、僕にはとても、、、。

ところがです。別のバックパッカーの若者とかと同様に経費の話していて、全く逆の反応を得ることがあります。
>>え、青山さんは一回の経費に20万円も使うのですか?僕なんて月2万円ほどで済ませますよ!

まあ、ちょっと極端じゃないかとは思いますが、実際若者の貧乏旅行(それ自体が目的)者は、それぐらいで済ましている人もいます。宿泊費・食事代・移動費併せて一日700円、やり方によっては、それで十分に過ごせます。でも、僕は、貧乏旅行が目的ではないのです。様々な対象の目的があります。

(一般論として)中国の奥地で目的をもった活動を行うには、個人にしろ、組織にしろ、資金さえ目途が立つかぎり、必要経費が何100万円となることは承知しています。TV番組をひとつ制作するには、何1000万円、あるいはそれ以上かかるのかも知れません。僕の場合は、ただ「秘境に探検に行く」だけではなく、色々と調べなくてはならない。にも拘わらず、何100分の一という予算でそれに取り組み、そして、劣らない成果を上げている、、、と自負しているのです。

でも、何の評価にも結び付かない。自己満足のために行動しているのではなく、多くの人に、知り得たことを伝えたいから頑張っているのですが、ほとんど誰一人として、全く評価してくれない。「大きな評価をして欲しい」などとは思っていません。でも、無視されてしまわなくても良いかと、、、。

それは、一体どういう事なのでしょうか?上手く表現できないのだけれど、、、、たぶん知能が低くて貧乏だからダメなんでしょうね。僕は、低知能で貧乏だから、いつまで経っても貧乏なまま、世の中から無視・排除されてしまう。まあ、卑屈の限りで(笑)、ジョークとして捉えて貰うと有難いですが。

いずれにしても、「日本人は贅沢なんだな」と、この番組を見て改めて想いました。ほとんど「料理番組」ですもんね(まあ経費が何1000万円かかって当然ですね)。僕なんて探索行の途上で、「美味しいものを食べたい」なんて考えたこともないです。食べるものがあれば十分です。

もうひとつ。
番組中の「ナスD」さんの発言で、異様なほど強く印象に残った言葉があります。次のような要旨だったと思います。

「この番組の持つ大きな意義は、映像を通して視聴者に参加して貰うこと」
「風や空気や匂いなどの感覚を、リアルタイムで一緒に現場にいるように感じて貰うこと」
「素晴らしさだけではなく、命の危険とか、アクシデントとかの、ネガティブな部分も感じて貰う」 

言おうとしていることは分かりますよ。

でも、僕は、底知れないほどの違和感を覚えてしまいます。そのように「バーチャルの中にリアルを取り込むことを良しとする」感性や価値観を正当づけることが、全ての過ちのもとではないのだろうか?と。そのことは、コロナ、マスク、ワクチンへの対し方の、根本的な部分に於ける危惧を持つことと、非常によく一致するのです。

それはともかくとして、この番組を「湯水のようにお金をかけた料理番組」として見るならば納得ですけれど、「ほとんどの日本人の知らない秘境の探検」として紹介するのは、違和感があります。上手な誤魔化しですね。例えば、日本人は約1億人、99999000人が知らなくて、1000人(0.01%)が知ってたら、「ほとんどの人が知らない」という状況に相当すると思います。と同時に「1000人」が知っている、ということは、結構多くの人が知っているわけで、そこんところを無視して話を進めて行くのは、違うような気がします。

お金をかけて、大衆を「(お約束の)共感」世界に引きずり込んで納得させる。それがメディアの仕事なんだと。それを想うと、どうしようもなく落ち込んでしまうのです。




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推定18憶頭の黒雲大群は何処に?

2021-09-18 08:04:57 | コロナ、差別問題と民主化運動、地球の未来




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

たった今チェックしたネット・ニュースから。
【天然水のペットボトルにカビ、860万本を自主回収】
「健康飲料にカビとはケシカラン、すぐに回収しろ」というコメントに溢れているので、一発、皮肉のコメント(投稿リミットの400字ピタリ)をカマしておきました。

milk*****
小生(日本人)、中国の田舎で長年(約40年)、日本の人たちには到底信じることが出来ないであろう、劣悪状況下の水(水道水は黄色、ペットボトルにカビなんて日常茶飯事)を飲んで生活してきました。しかし、後期高齢者に差し掛かった今でも、体のどこにも異常は有りません。僕は健康検査とかは大嫌い(ワクチンも打ってないし)なんですけれど、先日よんどころのない事情で血液検査したところ、44チェックポイントのどこにも異常がありませんでした。また、体各部位のCTスキャンでも異常は見出せませんでした。今でも(仕事の関係で)標高5000mのチベット高原の山中でも、東南アジアのジャングルでも歩きまわれます。まあ、僕も歳が歳なんで、肺炎とかに罹ってそろそろオサラバしても致し方ないのですけれど、「健康マニア」「リスク排除主義者」で僕より早くくたばっている人がいることを知るにつけ、気の毒に思われる今日この頃ではあります。

・・・・・・・・・・・・・

コロナはただの風邪です。そしてただの風邪は、とんでもなく大きな脅威です。今の日本では「コロナで亡くなった人」と「風邪(およびそのほかの原因)で亡くなった方」の、根源的な部分での(次元の解釈に於ける)区別が出来ていない。いや、今の、日本の「あらゆるリスク排除を正義と見做す共同幻想・集団性無意識的自己中心主義」体制のなかでは、それは踏み込んではいけない領域なのでしょう(踏み込めば「陰謀論」の烙印を押される)。

あらゆる(目の前に姿を現した)リスクは排除しなくてはならない、という一部の研究者とマスメディアと大衆(の常識)によって織りなされる「洗脳」。その象徴が、マスク、ワクチン礼賛です。

ということで、「僕がマスク・ワクチンを拒否する理由」の続きを書こうと思っていたのだけれど、、、変なコースで台風来てるんで、予定を変えて、ちょっとだけ台風絡みの話題でいきます。

昨日は、電車(JR青梅線‐南武線)で府中(多摩川の河原)に行きました。河辺‐立川が約25分、立川‐南多摩が約15分、往復960円!は大痛手です。

JRの車内動画広告見てたら、「バイオ作成のトマト出荷が可能に」、、、だそうです。楽して安い値で美味しいものが食べられるんで、良かったですね。科学・人類の文明の勝利です。その勢いで、ワクチンでコロナもやっつけましょう。

トマトが、苦くて小さくて大して美味くない野生種から、たぶん何百年、何千年もかけて(失敗や試行錯誤を繰り返したのち)有用な食物となり、また長い時間をかけてジューシーな実がたっぷりの現代の野菜として改良されて行き、更にこの10数年の間に畑ではなく低コスト低リスクの屋内での栽培が可能になり、そして一気にバイオ作成トマトです。“進歩”の時間のサイクルが、飛躍度的に短くなっていくように感じます。
たぶん近いうちに、バイオどころか“トマト食べたい”と(頭の中で)念じたら、目の前にトマトが現れる、みたいな世界になる(「どこでもドア」が現実になる)ような気がします。でも、それで楽しいんでしょうか、、、、。

リスクを徹底排除し、人類の英知、科学の結集でもって有益性を追求し続けることによって、全ての事が可能になるのかも知れません。時間の操作(過去・未来との“往復”)だけは出来ない、と言いますが、それは現在の意識の体系に基づく認識次元で言えばその通りだとはしても、全く異なる認識体系の中では(そもそも時間など存在するのかという問題も含め)、全然そんなことは無いのかも。案外、僕(や皆)だって、気が付いていないだけで(我々が知り得ていない別の体系的把握下に於いての)未来からやってきたのかも知れないですしね。

これまでに何度か繰り返し指摘してきたように、いわゆる「永遠の命」の獲得も、たぶん可能だと思いますよ。まずクローンを作ればいいのです。新しい身体を作る。そこにオリジナル人間の精神(意識)もインプットする。ただし、前回までのオリジナルが存在してちゃまずいですから、完全に入れ替わることが条件。コピーも2人存在するとまずいので一人でなければなりません。

でも、正確に言えば、まずいわけでもないんですね。複数の「同一人物」がいても別に誰も困らないし。

新規本人がスタートすれば、それまでとは別人格になるわけですから。複数の個人がいて、同じ記憶とか嗜好とか知識とかを共有したまま、別の人格(アイデンティティ)を形成していく。地位とか、社会の中での 属性に対する評価を除けば、旧人格の存在は大して大きな意味は持っていない、と見做すことが出来るかも知れません。永遠の命を生きている同一起源の記憶を持った生命体が複数同時進行していく。僕じゃない僕がどこかにいる、と思いながら生きて行けば良いのかも知れません。

早い話、一般論としても、瞬間瞬間で個人のアイデンティティは更新されながら進んでいるわけでしょうし。「これまで」と「これから」は、全く異なる別個の次元にあって、「今」というのは基本的に存在せず、過去と未来の2つの全く別次元の接点にしか過ぎない(逆に言えばそれしか存在しない?)。

・・・・・・・・・・・

そろそろフィールド探索よりもデスクワークに専念したいです。でも今日も、霞丘陵に行こうかどうしようか、迷ってたんですよ。朝曇ってて雨降りそうなので、それでWi-Fiに専念することにした。天気予報をチェックしたら昼から小雨になっていたし。でも晴れてきたような気が、、、。もう少し様子を見てから、やっぱり行こうかな、と決意しかけたのだけれど、また、どんよりとした曇り空に。

結局決断しかねてお昼になって、でも今からでも、と思いながら、やっぱり雨降りそうなので止める、、、の繰り返し。決断しかねている原因は、せっかく朝入念にシャワーを浴びたので、出来れば泥んこになりたくない、という気持ちがあるのですね。朝のうちに行っときゃよかったです。少々雨降っても蝶は飛んでいるし。それに明日以降は台風襲来。

57種撮影済みです。「身近な蝶」のフィールド図鑑を作るには十分な数です。でも、一応撮影はしたけれど、一個体だけしか撮影していない、という種も、少なからずあります。ボロ個体だけだったり、雌雄のどちらかだけだったり。

ほぼ40年ぶりの東京近郊での蝶撮影行(3月23日)の第1種目はコツバメだったのですが、これも入口の神社の門の前の住宅街の脇での撮影で、一個体だけ。その後一度も出会っていない。

ジャコウアゲハも、5月14日の撮影行で、最初に入口で出会った種です。雌の翅が大破した個体(汚損個体ではなく翅の大破した新鮮個体)だったので、とりあえず一カットだけ写して、まだ朝早かったし、このあと丘陵に入れば、幾らでもいるだろうと。

帰路、夕方になってその日の撮影は終了したつもりで入口に戻った時、朝雌を見たのと同じ場所、住宅地と道路を挟んだ神社のチケット売り場(ツツジの時期だけ有料だったのでその時以来入っていない)の横の日影になった茂みを、雄が素早く飛び回っていた。最初のうちは全然止まる気配もなく、でもここは勝負、と、一時間以上かけて、メチャ苦労して(カメラを向けている先に住宅玄関があるので変に思われないかと気にしながら)、結構良い写真をゲットしました。

でもそれ以来、雄にも雌にも出会っていないのです。丘陵の中を探索していれば、そのうちに(初夏と晩夏に2度チャンスがある)いくらでも出会えるはずと、たかを括っていたのです。結局、この日の朝に撮影したボロ雌と、夕刻の雄が全てだったわけです。

丘陵内部には全くいない。どうやら住宅街の近くの方に住処があるようなのですね。ついこの間(9月に入ってから)神社のスタッフのおじさん(自然について詳しい方)から「夏の間、事務所の前の薄暗い場所をメスが沢山飛んでたよ」と情報を得ました。最初に出会ったボロ雌がいたのは、その事務所のほんの数m下
です。普通に考えれば、その後、初夏から晩夏にかけて、何10回もその横を行き来しているのですから、そこで粘っていればよかったのです。

それをしなかったのは、既述したように、丘陵に行けば、そのうち幾らでも出会えるはず、と思い込んでいたからです。丘(森&草原)の中にはジャコウアゲハはいず、いるのは住宅街の傍(薄々はずっとその気がしていたのだけれど)ということが分かったわけですが、秋になってしまったからには、もう遅いです(一応、入口付近を注意してチェックし続けているのだけれど姿は見ない)。ジャコウアゲハの雌の写真は、一枚だけ写した翅が大破した個体か、古いポジフィルムを使うしかありません。

ちなみに、ジャコウアゲハに限らず、アゲハチョウ科の種は皆同じことが言えそうですね。オナガアゲハも、クロアゲハも(*共にジャコウアゲハ撮影と同じ日の昼間に撮影)、カラスアゲハも、メスを1頭撮影しただけです。いずれも民家の近く。

アゲハチョウも、キアゲハも、アオスジアゲハも、2~3頭しか撮影していない。やはり民家近くで、しかも何故か全部ボロ個体です。

モンキアゲハは、飛んでいた個体が、偶然写真のフレームに写り込んだ。昔は関東地方にはいなかったナガサキアゲハは、今は東京近郊で最普通種のアゲハのひとつになっているようなのですが、何故かまだ一枚も写真を撮っていません。その両種を始め、どうやらアゲハチョウ科の種は(ウスバシロチョウを除いて)どの種も丘陵の森や草原ではなく、街の中の庭木に発生しているらしいのです。

アゲハチョウ科に限らず、他の多くの蝶も似た傾向にあるようですね。 

例えば、本来東京近郊では最普通種のはずのヒメジャノメ。霞丘陵では(青梅丘陵や狭山丘陵でも)全く出会っていません。近縁の(むしろ生育地が限られるはずの)コジャノメが、やたらウジャウジャいるのと対照的です。唯一撮影したのが、丘陵からの帰り道、街の中の路傍で車に撥ねられていた(一応生きていた)個体。

その他、この一帯に分布しているはずなのに、全く出会っていない、という蝶が何種かあります。例えば、アサマイチモンジ(タテハチョウ科)とか、ミヤマチャバネセセリ(セセリチョウ科)とか。この辺の種は、ヒメジャノメとは違って「最普通種」というわけではありません。決して珍しい種ではないのですが、と言って、いつどこに行けば出会える、といったわけでもない、微妙なポジションにあります。

これらの種は、季節的に考えて、どうやら写し損ねたみたいですね。ミヤマチャバネセセリは、昔千葉の房総丘陵でよく見たし、霞丘陵一帯にもいそうなので、(ここんところ屡々そのシチェーションに出会う)イチモンジセセリやチャバネセセリやオオチャバネセセリやその他のセセリチョウ各種が群れ飛んでいるところでは、ミヤマチャバネセセリも混じってないだろうかと、いつも注意を払っているのです。

でも、いないですね。年2~3回の発生で、メインは4~5月の第一化、次いで7~8月の第2化。ほぼ諦めています。やはり昔の写真を使うか誰かに借用するかのチョイスになります。

もっとも、確か秋口に第3化個体も出現するはず。まだギリギリ間に合うかも知れません。新たに写せるものなら諦めずにチャレンジしておきたい。霞丘陵にはいなくても、どっか近くの河原の草地とかにいるかも知れないし。河原といえば、この近所だと多摩川です。一昨日の夜、インターネットで情報をチェックしてみました。

府中の多摩川堤防に沢山いるようです。年3化でメインは春なので、秋の世代は少ないのだと思います。でも(9上旬頃)発生していることは発生しているらしい。ちょっと時期が遅いかな、とも思うのですが、メスならまだギリ間に合うでしょう。思いついたら早速実行。昨日の朝、行ってみました。

8時半にアパートを出て、9時半には堤防に着きました。昨日の天気予報では曇り時々雨となっていたのですが、ほぼ快晴です。



南武線南多摩の駅から徒歩10分で多摩川堤防の草地に着きます。巨大アパートの前から堤防を下ったところで、ジャコウアゲハ雌が出現。新鮮個体です。いかにも居そうな霞丘陵には居ないのに、こんなところにいるんですね。



次いでキアゲハの新鮮個体も出現(アゲハチョウも一緒に出て来たけれどこちらは汚損個体)。





とりあえずジャコウアゲハそのほかを撮影。カメラを向けた方向がアパートの側に当たることが多いので、ジャコウアゲハ雄の撮影時もそうだったし、家の盗撮と誤解されかねません。





ギース、チョン!盛んに鳴いているけれど、どこに居るのか分かんない。文字通り目の前、5㎝ぐらいの所に近づいたら鳴き止んだので、気が付いた。ちょっと目を逸らしたら、また分からなくなってしまいます。

肝心のミヤマチャバネセセリが現れないので、河原の草叢の中を探してみることにしました。結果は惨敗です。一頭も出会えなかった。不思議なのは、どっさりといてもよさそうなイチモンジセセリにも僅かな個体にしか出会えなかったこと。

最初の考えでは、河原の雑草の花に群がっているイチモンジセセリの中から、どうやってミヤマチャバネセセリを見つけ出すか、と言う事だったのですが、そのイチモンジセセリ自体が、極めて少ないのです。チャバネセセリもオオチャバネセセリもそのほかのセセリリチョウ各種もいない。



いかにもイチモンジセセリが大量に訪れていそうなタデ属雑草の群落。来ていたのはキタテハ。

オオハンゴンソウ、アキノノゲシを始めとしたキク科の野草や雑草群、そのほか帰化植物の花、、、少なくともイチモンジセセリは間違いなく大量に訪花しているはずなんだけれど、、、、僅かしかいない。どう考えても不思議です。

こんなことを想いました。台風が近づいている。イチモンジセセリが急激に増える時期は、台風の季節と重なります。と言って、必ずしも台風が来た後に増えるんじゃなくて、(どちらかと言えば)増えてから台風が来ている。一部は、台風に乗って(南の方角から)やって来ているのかも知れませんが、どうもそれだけではないような気がします。

例の「推定試算18億頭」の黒雲を成すイチモンジセセリの飛翔大群。「18億頭」は、日浦先生か誰かが、半分冗談、半分本気で言ったのではないかと思っています(確認してません、ずいぶん昔のことです)が、実際、例えば10㎝四方の空間を1頭という割合で算出していくと、空を一面に覆う黒雲を成す数kmの立体空間だと、それぐらいの数になっても不思議ではありません。この推定試算数が10億でも20億でもなく「18億」という所に、いかにも半分冗談&半分真面目な見解である側面が現れているように見て取れます。

僕もずっと昔、神戸の自宅のトイレの窓から目撃したことがあります。むろん晩夏か秋であったことは間違いないのですが、写真は(たぶん)写していず、年月日の記録もとっていません(もしかすると何かの紙切れにメモしてあるかも知れない)。

僕が房総半島でイチモンジセセリの個人調査を行っていた時、水田の畔のアザミに訪花中のイチモンジセセリを片っ端からマーキングして、リリースしたことがあります。2~3日後、そのうちの数頭を背後の尾根(清澄山~元清澄山)でリキャッチしました。その時は、大して大きな移動じゃなかったので、期待外れに思ったものですが、距離にして10㎞ほど、標高差200m余の移動は確実に行われているわけですから、それなりの意味はあるのだと思います。

いずれにしろ、同じ時期(晩夏~秋)の大群飛の確認・報告例は、かなり多数あるようです。そして、飛翔方向は、必ずしも西南→東北ではない(むしろ東から西が主体)。また、長距離移動とは限らない。

ふと思ったのですが、、、。台風が発生したら、それに引き寄せられるように“動く”のではないだろうか、と。昨日、ほとんどイチモンジセセリの姿を見なかったのは、今頃、どこかで(台風に向かう途上の、あるいは台風が来た時に備えて)何らかの意味合いを持って、空を一面に覆う黒雲集団を成しているのではないかしら? 発生中の個体は片っ端からそちらに参加して、今出会うのは、その黒雲大群に乗り遅れた落ちこぼれ個体であるとか、、、。

まあ、それは「陰謀論」みたいなものですね(笑)。でも、イチモンジセセリ(および秋に個体数が激増する幾つかの蝶)の動向が、何らかの形で台風と連動している(もう少し正確に表現すれば「気圧との関係」ですね)のではないか?ということは、考えられない事ではないと思うのです。

・・・・・・・・・・

昨日の総括。

蝶がいない。目が見えない。カメラが壊れている。そんな状況で、クオリティの高い写真など撮れるわけがないです。









キチョウ(キタキチョウ)とモンキチョウが盛んに産卵しています。キチョウはマメ科の低木(ハギ)、モンキチョウはマメ科の草本(クローバー)。



ついでにヒメアカタテハの産卵。秋になって個体数が増え始める種のひとつで、究極のコスモポリタン種です。食草としてはゴボウ(アザミ連)が特に好まれるようですが、キク科なら大抵なんでも食すみたいです。

モンキチョウは、霞丘陵では、春から初夏にかけて、あれほど沢山の個体(数10m四方に目視で100頭余)が草原(コリアス草原)上を飛びかっていたのに、6月後半以降は、そこでは全く見られなくなっています。別の場所に移動(あるいは拡散)して夏以降の世代が発生し続けているのでしょう。この河原には(コリアス草原ほどではないとしても)多数の個体がいました。

ところで今回、何故か春~初夏のコリアス草原に於いてはほとんど見られなかった、モンキチョウの求愛追飛行動を、じっくりと観察することが出来ました。でも、よく知られるように、必ずしもメス→オスの追飛ではないのですね。雌が後ろに来たり前に来たり、コロコロと入れ替わっているように見えます。これまでの僕の認識(一般の認識も)は、雌が後ろから、というのがスタンダードなのだけれど、稀に観察し得た春~初夏のコリアス草原でのそれも、ここでの観察でも、そうとは限らないのですね。

モンキチョウの生態が以前と変わってしまったのか、個体群(分類群?)自体が入れ替わっているのか?まあ、そんなことはまずないでしょうし、僕の観察不足による思い込みだとは思いますが、気になります。




すぐに動かなくなってしまうカメラを、途中で何度もレンズを付け変えたり、初期化し直したり、手探りでISOや露出を設定したり、手動でピントを合わせたりして、雌雄が前後に入れ替わりつつ延々と追飛翔を続ける(今画像をチェックしたら12時12分から12時21分まで10分間)ペア(最初のうちは雌1頭に雄2頭)を、苦労を重ねて大量に撮影した(IMG_2554からIMG_2653までちょうど100枚)のだけれど、全部ピンボケ。僕の目の問題なのか、カメラの機能が問題なのか、、、。

ちなみに、目指す蝶はいなかったけれど、一応出てきた種は、とりあえず一通り撮影しておきました。
ジャコウアゲハ/キアゲハ/アゲハチョウ/キチョウ/モンキチョウ/ヒメアカタテハ/キタテハ/コミスジ/ツマグロヒョウモン/ヒメジャノメ/ヒメウラナミジャノメ/ベニシジミ/ヤマトシジミ/ウラナミシジミ/イチモンジセセリ

ジャコウアゲハを別とすれば、見事に世界的普通種(ことに秋に個体数の増える種)のオンパレードです。



注目は今年出会った2頭目のヒメジャノメ。一枚だけシャッターを切りました。最初、ヒメジャノメかな?と思ったのだけれど、カメラを向けたら一瞬の間に別の個体に入れ替わったみたいで、確かめたらヒメウラナミだった。しかし“目の錯覚”とリアルタイムでは思っていた最初の1枚は、確かにヒメジャノメでした。

・・・・・・・・・

次回は「続・僕がマスク・ワクチンを拒否する理由」を再び後回しにして、(イチモンジセセリの話題が出たついでに)以前保留にしていた「日本のチョウ:オオチャバネセセリ(上)」の続き、(下)の「イチモンジセセリほか」に再チャレンジします。

いろいろ調べたり写真を整理したりするのが面倒なので、より取り組みやすそうな関連テーマで、かつ見栄えがして一般読者の興味を惹きそうな「アサギマダラ」の話に差し替えていた分です。イチモンジセセリは、アサギマダラのように資料を豊富にチェックできると言う事は無いのですけれど、そのことが、むしろアドバンテージになるのでは、という気もしています。

あるアサギマダラ研究者の言った「データが集まれば集まるほど実態が見えなくなる」、、、この言葉は、相当に深い意味を持っていると思います。

イチモンジセセリに於いても、今後データの収集に励むと共に、別の立脚点から俯瞰的に見渡して行くことが必要だと思っています。

それは、一般の愛好家にとっての興味(美麗な蝶の「リリース&リキャッチ」の調査活動に自分も参加出来るということ)からは外れるという弱みに繋がるわけですが、「個々のデータに囚われず俯瞰的に取り組むことが出来る」ということでは、強味でもあると思っています。





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僕がマスク/ワクチンを拒否する理由 

2021-09-14 20:55:11 | コロナ、差別問題と民主化運動、地球の未来


★9月12日の記事に、いいね!その他、ありがとうございました。


読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

痴呆老人の独語(同じ話の繰り返し、笑)です。推敲なしに進めます。

・・・・・・・・・・・・

前回の記事の末尾の辺りに、キチョウの産卵行動に関する話を書きました。

>雌が産卵飛翔を行っていると、つい応援してしまいます。一度卵を産み付けてから、そこを離れてふらふらと飛びまわります。改めて食草のあるところを探しているのですが、(目の前に食草があるのに)アサッテの方向に行ってしまう。「(食草のあるところは)そっちじゃないよ、こっちだよ!」と、ついつい声をかけたくなります。でも僕が蝶に伝えられるわけがない。やきもきしながらも、任せておくしかないのです。すると、ひとしきりあちこち見当違いの失敗を重ねたあと、同じところに舞い戻ってきて、再び卵を産み付けるのです。だったら、最初から同じところに産めば良いのに、と思うのですが、、、。

一番伝えたかったことを書き忘れてしまいました。

【無駄な失敗を重ねても、自分でチェックして食草を見つけ直すことに、意味があるのでしょうね。】
↑書きたかったのは、ここです(なんだ、ありきたりの意見でつまらん、、、と言われそうですが、笑)。

興味深いことにキチョウにごく近縁なタイワンキチョウ(日本では八重山諸島に分布)は、卵塊を作ります(一頭の雌が同じ場所に数10個の卵を固めて散付する)。このことは、日本のオオムラサキも同様です。しかし、僕が以前に観察した限りでは、中国(四川省)のオオムラサキは、卵の散付は、一か所につき一個ずつです(同じ木に同じ時オオムラサキの唯一の同属別種であるイナズマオオムラサキ[クロオオムラサキ]も産卵に訪れて一卵ずつ産付していきます)。

・・・・・・・・・・・・・

さて、表記の話題。

僕は、やみくもに「マスク/ワクチン」反対しているわけではないのですよ。その前に、これをチェックしてみてください。「ある空気の存在」が、如実に示されています。以下、今日の(というか日常的に同じような記事が頻出しているようですが)ネットコラムから、見出しを幾つか並べてみました。

僕は「発達障碍者」で「知性」がなく、公共心も足りず、知能が足りず、人類の英知を否定する、非科学的な、トンデモに分類されるヘンテコな人であるようです。そこに所属することを誇りに思っています。

●発達障害と生きる:科学者がどんなに“事実”を並べても“反ワクチン”が強く支持される理由。

●多くの知性派は世界を憂いている。一体なぜ、ここまで事実が積みあがっているのに、或いは事実は確固としているのに、彼ら(反ワクチン派)の意見は変わらないままなんだろうか、と。

●医師が知らないニセ医学【その2】反ワクチンを煽る医療関係者がいるという現実。

●医師のなかでもトンデモに分類されるヘンテコな人がいます。ネットで目につくのが、薬剤師さんや栄養士さんのトンデモ健康記事。多くのトンデモさんは、なぜか自然派をこじらせた故に反ワクチンのポジションを取ります。人類の英知ともいえるワクチンを非科学的根拠によって拒否し、医学的には効果・効能が認められていない「免疫力をアップ」させる方法を伝授しています。

●ワクチン反対派と真っ向勝負して国民の意識さえ変えた名物科学者とは?

●ワクチンを打たない親は公共心が足りない。ワクチンを打たないように反対運動する親は知能が足りない。

●ワクチン否定派には「知能の低い人が目立つ」って報告を最近聞いたね。

●(米調査によると)接種拒否率が最も高かったのが農業関係者と建設作業従事者、最も低かったのがテクノロジー関係者、接種完了者は金融業者で最も多かった。

・・・・・・・・

『“医師の発言”で接種不安拡散、講演で誤情報、深まる断絶』 読売新聞

7月4日、名古屋市で開かれたのは「新型コロナと遺伝子ワクチン」と題した講演会だった。参加者には地元だけでなく、首都圏や近畿、九州から駆け付けた人も多かった。マスク姿の人はほとんどいない会場で、登壇した医師や地方議員らが熱弁をふるった。「PCRはインチキ、世界にコロナの存在を証明するものはない」「ワクチンを打つと遺伝子が改変される」。講演で出た話は、米疾病対策センター(CDC)など世界の公的専門機関が否定する誤った情報だ。それでも発信のたびに大きな拍手が起きた。接種を巡って誤った情報が広がるのは、ごく一部の医師らの発信(*たぶん僕の主治医先生らの見解は“ごく一部の医師の発信”とされちゃうんでしょうね)が影響している。講演会で最も注目されたのが、兵庫県内で内科・精神科のクリニックを運営する男性医師だった。投稿サイトで情報を頻繁に発信しており、フォロアー(登録者)は1万5000人以上。最近は投稿するたびに、見た人がツイッターやフェイスブックで引用して拡散しており、この医師が「インフルエンサー」になっている状況だ。医師は、国に接種事業の中止を求める訴訟も起こした。発信や活動の意図は何なのか。8月、読売新聞の取材に対し、「ワクチンは有効ではないという説もあるのに、主張が全然聞き入れられていない」と強調した。最近の医師の投稿には、サイト運営会社が「公的機関の見解と反する」との注意書きを表示するようになった。不確かな情報(*「確かな情報」と「不確かな情報」の区分が僕にはよく分かりません)の拡散を防ぐためだ(*僕のユーチュブ記事にも付けられていますね)。米英を拠点とするNPOの調査によると、米国などのSNS上で拡散した「反ワクチン」の投稿の65%は、医師や起業家など12人のインフルエンサーが発信源だったという。

・・・・・・

このような、有無を言わせぬ「正論」の許、異論を(形式上は一見“客観”的に)揶揄否定する文脈は、大手メディアが最も得意とするところなんだと思います。なかんづく、大衆の代弁者「読売新聞」にあっては、このような志向性を有した記事を表するのは、当然なのでしょう。「メディア⇔大衆」が、相互に自らの正当性(既得権の保守)を確認し合っているわけですから。

ちなみに、WHOは、かなり客観的な(言い換えれば“どっちつかず”の傍観かも知れないとはしても)立場から発言を行っているように思うのですが、それらの見解は「世界の公的専門機関が発信する情報」には含まれないんでしょうかね。

上記の記事は、続きものの4回目で相当に長いのですけれど、趣旨は一貫していて、「ワクチン(近代医学)」の絶対的な支持(僕に言わせれば「過信」)、それを否定する立場を「陰謀論」に押し込めて、全排除する。

彼らの「正論」の根拠は、「正しいから正しい」「事実だから事実」(むろん何らかの「体系的な」証明が付け加えられているにしろ)というところにあります。それらの正義や事実に反する指摘や見解は、「妄信」「公的機関が否定する誤った情報」「陰謀論」であるわけです。

一貫して「大衆は正義である」「科学・文明は正義である」と、個人個人が「総意」を信じ、メディアもそれを煽ります。たとえ医師の意見ではあっても、異論は「妄信」「陰謀論」としてのみ処置されてしまいます。

「異論」というのは、この場合は「リスク」に対する取り組み方の大衆の総意とは異なる考え(目前の自分の安全・安心を脅かす考え)。それは大衆(個人個人)にとって、都合が悪い意見です。

・・・・・・

ということで、ここまでは「前置き」としての「大新聞記事」の紹介と、それに対する僕のとりあえずの感想です。以下、「僕がマスク/ワクチンを拒否する理由」を(出来得る限りロジカルに)述べて行かねばなりません。

今朝、ネットニュースをチェックしたら、「シンガポールはワクチン接種率が80%なのに感染者激増」という記事が載っていました。シンガポールは国家全体が日本の東京23区ほどの規模(面積も人口も)で成り立っていますから、いろんな意味でモデル地域と成り得ます。

まあ、今更、ということで、、、、ということですが、「知能の高い」「公共心に富んだ」「科学に絶対追従する」「正義の人々」は、どんな数字でも「シャボン玉の中だけの想像力」に基づいて論破(“間違い”を指摘)し、「陰謀論」として処理してしまうのでしょうね。

アフガン(アフガニスタン)にしろ、ミャンマー(ビルマ)にしろ、僕は(その社会構造の)実態を全く知りません(しかし両地域の根源的な成り立ちの部分はほとんどの人より知っている)が、はっきりと断言できることは、どっちかが悪で、どっちかが正義、という構図は絶対に成り立たない、ということです。でも悲しいかな、完璧にその構図が成り立ってしまっている、というのが現状です。

ミャンマーは、それなりに深い関りを持っているので、僕としての意見はあるのですが、やはり少なからぬ関りを持っているモニカから、発言を止められています(2人とも「立場」としてはデリケートな位置づけにあるので)。

香港は、分かりますよ。だから発言もします、30年以上、(大陸中国共々)どっぷり関わっているわけなので、自分の問題でもあるのです。

「香港デモ」の記事を書いていた時には、読者の方からこんなコメントを幾つか頂きました。
【正義のため、民主主義社会の自由を獲得するため、命がけで戦っている香港の若者たちを批判・誹謗する、、、この人には、人間の心があるのだろうか】
そう言う事なんだろうな、と思っています。呆れるとも笑うとも哀しいともちょっと違う脱力感のような気持ち。漱石のいう諦念、鴎外のいうレジグネーションに近いのかな。

二葉亭四迷は日本の低層の人々を救いたいがために一念揮発を仕掛けたのだけれど、大衆が余りにもバカであることを悟ってやめてしまったそうです。一方、教育・道徳が一種の洗脳に過ぎないという事を見破った(そして他の識者たちとは違って体系的な「学識」を持たなかった)斎藤緑雨は、「アフォリズム」という形で世間に戦いを挑みます。今から130年ほど前の事ですね(今と状況が全く変わっていないことは驚きでもあります)。その結果、大衆やメディアに徹底的に毛嫌い・無視され、若くして窮死に至ります。逍遥にしろ露伴にしろ鴎外にしろ、本当の賢者たちは緑雨の想いをきっちりと受け止めていたのですが、でも置かれた立場が異なる(体系的な学識を有していた)故に「共に行動して助ける」ことは出来なかったのです。

「陰謀論」とされるのは、大いに結構です(笑)。頭の偉いバカには分からんでしょうから。「コロナ問題」の発端は「香港デモ」です。「地球環境変動」「民族宗教紛争」「差別やヘイトの問題」、、、みんな繋がっていくのですよ。具体的な話は追々、、、(これまでにも何度も話してきたし今後も話していくつもりです)。

重ねて言いますが、僕はコロナの脅威を否定しているわけではありません。その脅威を認識したうえで、「唯の風邪」と言っているのです。“ただの風邪”は大変な脅威なのだと。まあ、僕の考える“脅威”というのは、(無意識下の洗脳によって為された)大衆の考えているような脅威とは“種類”が異なる、別の立脚点(シャボン玉の外)からの認識なのでしょうが。

善と悪の区別。リスクの徹底排除。マスクとワクチン必須。大衆は正義。科学は絶対的存在、、、、。シャボン玉の外側から俯瞰すれば、それらにはまた別の認識が為されるはずです。

最近のトレンドの言葉のひとつに「想像力の欠如」というのがありますね。
>マスクやワクチンに反対する人は、そのことで自分や周りの人がどれだけ苦境に陥ってしまうのかを、想像することが出来ないのだろうか、、、余程知能も公共心も足りないのだとしか思えない。

↑僕からすれば、その「知能」や「公共心」の、「一歩先の想像力」が何故持てないんだろう、と思います。眼前の「正義」「集団性自己中」のシャボン玉の中に閉じこもったまま、根源的・総体的に見つめようとしない大衆の姿勢が、不思議でしかありません。自分が大事、自分たちの世界が全て、と言う事なんでしょうけれどね。

この1年半の間(その根源に位置づけられる「香港デモ」問題まで遡ると2年余り)、一貫して同じ事を繰り返し述べてきました。僕には、首尾一貫した(有機的な繋がりに基づいた)纏まった文章を構成する能力を欠いているので、“出来るだけロジカルに”という想いはあっても、結局は断片的な“独り言”の繰り返しになってしまいます。もっとも、能力の問題以前に、「理路整然と因果関係を述べて答えに導く」という体系的な思考表現様式を採ることを、僕は最初から拒否している部分があるので、許より無理な話ではあるのですが。

プラットホームで延々と独語し続けているオッちゃんやオバちゃんと変わらないですね。いや、彼らの話も、真面目に聞いてみると、案外僕などより理路整然とした事を喋っているのかも知れません。

結論めいたことを先に言っておきます。去年の一月、最初に「いわゆる新型コロナウイルス(以下単に“コロナ”で記す)」の存在とその脅威の可能性が指摘されたときに僕が感じた想いは、今も全く変わっていません。コロナ自体ではなく、それによって形成されるであろう「空気」の恐ろしさ。それはコロナなどよりも遥かに怖い存在であると。コロナは (他の脅威ともども)個人に大きな打撃を与えるだろうけれど、「空気」は人類を滅亡に導く。

僕自身は、「マスク」も「ワクチン」も、それ自体は否定も肯定もするつもりはありません。問題は、それに導かれた「無意識強要同調空気」(いわゆる“同調圧力”)の、なし崩し的な形成。それに対して非常に強い懸念を覚える、ということです。

「ワクチンを打つか打たないかは個人の自由(建前)」「ワクチンを打たない人間は排除する(実態)」、、、その反律する概念両立を良しとする、日本人的正義の在り方、有耶無耶、事なかれ、集団自己中、異質排除、同調圧力、、、は、(その本質議論以前の問題として)間違っている、と僕は思います。そのことを美徳とし、愛国的誇りに結びつけることに、僕は組みし得ません。

僕は、科学(医学を含む)・文明に(少なくてもそれへの依存に)、懐疑的な立場でいるのですが、、、もし人類(大衆ひいては科学・文明)が「永遠の命」の獲得を本当に目指しているならば、そのチョイス(科学への全面依存)でも良いと(無論皮肉ですが一応本心としても)思っています。そして、今の科学ならば、案外容易く為し得ることのような気がします。でも達成した暁には、人間は人間ではなくなっていると思います。個人としての「永遠の命」を獲得しても、「人類」としては滅亡してしまうのではないかと。

「“あらゆるリスクを排除することが必要”だと思っているわけではない」と人々は言うでしょう。でも、「何もしないよりは出来ることはしたほうが良い」とは思っているでしょうね。しかし、そうとも限らんのですよ。

コロナは怖い。
コロナで亡くなる方もいるでしょう。
コロナの後遺症で苦しむ方もいるでしょう。
コロナが医療を逼迫しているという状況もあるでしょう。

でも、大事なことは、そんな問題じゃないのですね。

コロナ以外の脅威で亡くなる人もいるわけだし、
コロナ以外の脅威の後遺症で苦しむ人もいるわけだし、
コロナ以外の脅威で医療がひっ迫しているという状況もあるわけです。

それを言うと、「この非常時に、何て無責任で不謹慎な事を言うのか!」と非難を浴びるわけですね。まあ、戦時中と同じです。

あらよる物事は、総体的に見なければいけない、「空気」で正論を決めてしまうべきではない、と僕は思うのです。

野菜とか果物とか、当たり前に人類にとって有益とされている食物の中に、“有害物質”が含まれていないとは限りません。いや、含まれていない、と考えるほうが、むしろ不自然なのではないでしょうか?あらゆる生物は、他者に対しての何らかの防御作用(物質的な要素も含む)を有しているはずです。私たちが普通に利用している「有用生物(穀物野菜果物家畜ミツバチetc.」にだって、其の気になれば「有害物質」を見つけ出し得るのかも知れない。ただし、民意に於いて「その必要にあらず」と判断される場合は、その限りではない。何事にも至らず、平々凡々と進んで行くわけです。でも、何らかの別の「民意」が働けば、更に別次元の「その限りではない」ということで、アウトになってしまう(見出されたリスクは排除しなくてはならない)わけです。そうして、人類は、「リスク排除」のために、どんどん追い詰められていく。

前にも一度記したことですが、、、近所の裏山(霞丘陵)を歩いていると、ハイカー(健康ウオーキング?)の人に多く出会うのですね。その人たちの多くが、結構重装備している。市街地(住宅街)から歩いて10分やそこらの、標高200mにも満たない(住宅街との比高はむしろマイナス)“山道(アスファルトの舗装道路)”を、リュックを背負って(たぶん中には非常食などを詰めて)、登山靴を穿いて、両手にピッケルを持って、もちろん(人の居ないところでも)マスクをして、完全装備で歩いています、、、。「山は怖い」「自己責任」「万全の準備を」というのが、衆目の一致するところなんでしょう。だから、(それ相当のお金持ちは)出来ることは全部する。あらゆるリスクを避けるために。でも、住宅街の隣を完全装備で歩いているのは、なんにも持たずにTシャツとサンダルで歩いている人よりも、ある意味(体力消耗など)リスクを背負っていることにはならないでしょうか?

僕の言うマスクやワクチンに於ける(薬の服用などもそうですね)「とにかくしないよりしたほうが良い」という方向性に対する懐疑は、機能的・物質的なデメリットよりも、そのことによって「空気に乗って動く」ことを当然のように導いていく、同調圧力に対する懸念のほうが、遥かに大きく、非常に怖いことなのだ、と言う事に基づいています。

ところで、昨日(9月13日)のネットニュースに、非常に気になる話題がありました。

北アルプス屈指の活火山・焼岳(標高2458m:ただし現在は山頂には立ち入れない)で遭難、のニュースです。登山道で(浮石を踏み外して)転倒、頭部を強打して死亡した、という事故です。その登山者は「ヘルメットを被っていなかった」というのが、コメントの話題の焦点になっています。

意見は、大きく分けて3つ。
➀上記した僕の意見と同様の「完全装備・徹底リスク排除」への疑問視。
②その僕が疑問視する「完全装備・徹底リスク排除」の推奨。
③特殊的背景の指摘。

それぞれを抜き出してみます。

>焼岳でヘルメットって、、、。したければしたらいいけれど、今回のケースは「歩道橋で転んで打ち所が悪くて亡くなったというケースと変わらないのでは? ヘルメットをしていなかったから亡くなったとミスリードするような記事は良くない。

>そう思います。街を歩いてて空き瓶踏んで転んで頭を打ったような感じですよね。
*注:僕のことで言うと、前回の裏山探索に出かける途中、街中の横断歩道を渡った際に、横からお年寄りの自転車がぶつかって(僕が)転倒して膝を強く打ち付けてしまいました(今も痛い)。そのお年寄り(僕も年寄りですが)の方が何ともなくて良かったです。いずれにしても僕の場合、山の中では何事も起こらないけれど、街の中が怖いです!

>コメ主に同感!私はヘルメットしますよ!とか、、、そりゃした方が安心だし安全なのは当たり前!街中でも同じだ!(焼岳なんて大した危険な山ではない)と専門家が言ってたぞ!

>そりゃ、「備えあれば憂いなし」、、、、ってのも分かりますが、、、、焼岳の一般ルートでヘルメットを被る気にはなれないなぁ~。キィキィいう人はいっぱいいるでしょうが、、、、。

>これ、プールや海で全員ライフジャケット着ろと言っているようなもんだろ。

以上に挙げたコメントは、僕の意見(「コロナはただの風邪、マスク、ワクチン不要/都市近郊の野山歩くのに完全装備はいらない」)と同じように見えますね。でも、根本的な部分で、正反対なんですよ。

といって、以下に示す、それとは対極の見解(徹底したリスク管理の必要性)も、むろん僕の意見とは全然相容れません。

>きょうび、子供の自転車でもヘルメット付けるからね。原付もノーヘルだったお爺ちゃんの頃と危機管理や安全意識のレベルが変わってるのですよ。

>安全軽視は日本の悪習(*これに関して僕は逆の感想を持ちます)。スキー場でも外国人はヘルメットを装備している人が多いよね。雪崩対策の装備も同じ。命が安い、使い捨てにしてきた歴史の残滓。

↓この辺りの意見は、一応分かりはしますが、、、。

>焼岳はヘルメットした方がいいです。御嶽山のことがあったので、岩場でなくてもヘルメット着用が望ましい。

>近いうちに焼岳行きますが、ヘルメット買いました。少しでも危険は避けたいですから。「自分だけは大丈夫」が一番危ないですから。

>私は焼岳でヘルメットしましたよ。私が登った時にはヘルメットをしている登山者が多かったのを覚えてます。登山慣れしている人達には、ヘルメットの必要ない山かも知れませんが、それでも火山だし岩も多いし、被るだけで邪魔にもならないし、しないで後悔するよりずっといいと思いますけど。

もう少し踏み込んだ、冷静で客観的な意見も幾つか見つけました。

>何がどうミスリードなんですか?いわゆるヘルメットが必要と言われている山ではないですけど、浮き石踏んで転んでおそらくアスファルトのようなフラットじゃない岩に頭をぶつけて亡くなった、立っている場所と頭をぶつけた場所の多少の落差も考えられる、それをどう分析すれば街で転んだのと同じと思えるのでしょうか。自分はこのニュースを見て、登山の際はヘルメットを常に持参し、転倒の危険が高いなと自分が思う場所はそこだけ着用する、そういう考えもあるのかな、と思いました。もちろんヘルメット邪魔だしするかしないかは別ですけど、ミスリードでは決してないでしょう。

>私も登山をしますが、浮石でバランスを崩したことは度々あります。しかしそれを恐れてヘルメット着用とはなかなかならないのがごく普通の登山者です。ここには、登山を(たまにしか)しない人の感覚の、程度をわかっていない極端な意見もありますが、ヘルメットの着用の必要性には個人の感覚の差も大きいと思います。私の場合はヘルメット着用が推奨されている山、例えば、奥穂高とか、近年大噴火があった御嶽山とか、皇海山のクラシックルートみたいなところでは着用しています。リスクということだけで言うならば、首都圏など雪に慣れていない人の多い地域では、雪の翌日の街中だって同じかと思います。

>自分は着用しないが、浮石を踏み身体のバランスを失い転倒や滑落、そして落石の際にはヘルメットは命を守る。50年以上着用しなかったのに無事でいられたのは、幸運だったのと、3点支持を確実に守って来たからだと思う。

僕も、今もし焼岳に登るとしたら、ヘルメットは着用しません。もっとも、自分の体力、噴火の恐れ、行く必然性、などから考えて、登ることはないですが。

いくら「手軽な山」とはいえ、仮にも日本アルプスの一員の焼岳と、都会の道では違います。高尾山程度の整備されたハイキングコースを完全装備で登ることは、はっきりと反対(リスク排除に於ける同調圧力への反対)しますが、焼岳に(ヘルメット着用を含めた)完全装備で登ることは、(僕はそうしないけれど)反対はしません。状況次第では、都市近郊のハイキングコースよりも遥かな脅威が齎される可能性があるからです。

これが、上高地を挟んで焼岳に対峙する(ほぼ同標高の)六百山だったら、「こんなところでは遭難しない、都会の道と同じ」とは誰も言わないでしょう(ちなみに僕は昔ルートファイティングをしながら六百山に登ったことがある)。でも両者の違いは「整備された道があるかどうか」の差で、焼岳であっても、登山者の体調や気象の状況次第では、かなりの脅威は齎し得ます。槍ヶ岳だって今は誰でも気軽に登れますが、その昔は(開山者の播隆上人にしろ)苦労を重ねて頂上に立つことが出来たのです。

ちなみに僕は、今でも其の気になれば、焼岳はむろん、大キレットだって西穂の稜線だって(さすがに北鎌は無理でしょうが*)、ヘルメットなしの普通の装備で行きます(前記したように体力と必然性が無いので其の気にはなりませんが、命令されたら行く)。怪我せずに戻って来れます。でも、ホテルの玄関で転倒して大怪我をしてしまうと思う(毎度のパターンです、笑)。
*北鎌独標を登ったことはないですが、尾根の中腹から遭難登山者を担いで降りたことはある。

焼岳は、「コロナ問題」に置き換えれば、“ただの風邪”に相当するのかも知れんですね。コロナに相当するような“特別に危険な山”ではない、と。

そうじゃないんです。標高2500mの山は、登山道が整備されていようがいまいが、標高200mの霞丘陵とは違うのです。ただの風邪も脅威だし、その一員であるコロナも脅威、ということです。要は、どう対処するか。

脅威の種類は、それぞれに於いて固有です。そして、それが現れなければ(あるいは現れても“共通認識”として把握されなければ)「脅威」とは見做されません。

仮に、透明人間がいて、幾ら悪さを働いていても、見えなければ何事もなく(せいぜい「なんか不思議なことがあったみたい」ぐらいで)スルーされてしまうわけです。見えたからには、そのリスクを徹底排除しなければならない。「見えなかったふり」というのもアリでしょうが、いずれにせよ、見えないことになっていたものが見えたので困ってしまうわけですね。

人類にとってコロナは大きな脅威でしょうが、それだけが特別に大きな脅威というわけではありません。他の脅威も、それぞれに特別な、それぞれの大きさを持っているのです。

コロナで多くの人が死んでいる。それは、ある一面での事実には違いないでしょう。しかし、「コロナが死因」ということに対して、何処まできちんとした検証が為されているのでしょうか?

「事実」というのは、「どこからどこまでの範囲」に於ける認識に基づく「事実」なのでしょうか?

既に共通認識として成り立っているので、(殊更ほじくり返さなくても)事実は事実である、、、、それで済ませて良いのでしょうか?

何度も同じことを繰り返して言いますが(そしてそれを「陰謀論」「知能の低い人間の戯言」と捉えるなら、どうぞご自由に、と言うしかないですが)、人は死にます。死因は色々です。単一の原因ではなく、(視点毎に)様々な要因が組み合わさってのものです。ある場合は、コロナが関わっているかも知れません。より正確には、コロナも関わっている、、、、。だから、そのリスクを徹底撲滅せねばならない。それが人間としての「正しい」在り方である、、、、とは、(「知能が低く」「道徳心・公共心が欠けて」いるのであろう)僕には、到底思えません。

こんな記事も見つけました。

★政府が決して言わない、進化生物学的に見て危険な「日本のワクチン接種計画」の“あるリスク”~変異とワクチンのイタチごっこ、、、」PRESIDENT Online

非情に説得力のある内容(といっても僕は誉めているわけではない)で、少なくとも前半部に関しては納得です。
「なぜ次々と異変株がはびこるのか?それは“異変し続けること”が生物の基本だから、当たり前なのである」
、、、、この医師は続けてこう言います(以下要旨)。
「抗生剤を開発する。とりあえずは圧制できるが、敵(ウイルス)は抵抗性をつける。新たな強力抗体を開発せねばならぬ。その結果、国と製薬会社が、イタチごっこを続けることになる。そんなことでは永久に敵はくたばらない。本気で撲滅する気ならば、一気に終わらさねばならない」

この報文には、「新型コロナウイルスは武漢発祥」と、当たり前のごとく明確に記されているわけですが、その検証こそが、最初に必要な命題なんですけれどね。「答えを出すこと」ではなくて「検証すること」が大事なのです。でも大衆やマスコミは「検証すること」よりも「答えをだすこと」のほうを求めるわけです。

次々と変異株(いわば「新型の新型」)が生み出されているわけですが、なぜ今(2020年に武漢で)始まったと断言できるのでしょうか?僕は、別に中国の擁護をするつもりはありません。中国の(ことに武漢とかにおいての)衛生環境下では、どんなトンデモ事態が起ころうが不思議ではないです。武漢が「コロナ=新型ウイルス」発祥の地というのは、当然と言えば当然なのかも知れません。

でも、「新型ウイルス」が生まれたのは、今回(2020年1月の武漢)が、初めてなのですか? そして、なぜそれを撲滅させる必要があるのか? それこそ、延々と「戦い」(文明・科学による“脅威”の撃退)を繰り返すだけじゃないのでしょうか? 僕には、そこんとこが良く分かりません。

「知能の低い愚かな僕」と「聡明な科学者有識者」(それに追従するメディアや大衆)の感性とか価値観とかは、そのスタートの時点で折り合わないのでしょうけれど、、、。

↓こんな記事もありましたよ。
「新型コロナウイルスのワクチンは、一般の人まで幅広く3回目の接種が必要だと示すデータや証拠はないとする寄稿を、米食品医薬品局(FDA)の幹部2人や世界保健機関(WHO)などの専門家チームが13日、英医学誌ランセットに発表した」(既に十分な効果がある由)。

科学の本質というものは、確かに凄いものなんだろうな、と思います。人類の英知・文明は、凄いものなんだろうと。でも、全く異なる次元から光を当てれば、お笑いか(正直、僕は今の“お笑い”ってのが大嫌いです)、子供の遊び程度でしかないような気もするのです。

似非宗教家の洗脳のごとき発せられる言葉。“ロジカル”“エビデンス”“科学的根拠に基づいた”、、、、。

“ロジカル”であることが大切と言うならば、根源的な部分まで遡ってそれを示して欲しい。あるいは、未来を見据えて展望を示して欲しい。

具体的には、コロナを含めた全てのリスクの脅威の程度を、数値化して示してくれないでしょうかね。「検証」を、とか言うくせに、実は本質的な部分に踏み入って考えることは、最初から為されていない(無意識的な意識操作により放棄されてしまっている)。なにもかも、砂上の楼閣です。

コロナは風邪です。むろん“イコール”だとは言いません。しかし、多くの部分で重複している。コロナ以外の「風邪」も含め、互いにどのような相関関係にあるのか、どのような数値が示されるのか、コロナのアイデンティティをきちんと検証するべきです。

それらのことを無視し、「空気」でもってコロナをトリックスターに仕立て上げる。

繰り返し言います。僕は「コロナが脅威ではない」とは言っていませんよ。ほかの様々な脅威ともども、確かに大きな脅威なのだと思います。脅威には、それぞれに固有の脅威の種類や程度があります。平面上に現れるか現れないか、によっても、捉え方が違ってきます(現れないものは知りようがない)。

全ての脅威に向き合い、全てに対するリスクを排除していくことが、どの程度必要なのでしょうか? 例えば、一つの脅威に向き合い、それを撲滅することは、別の脅威を呼び起こすことに繋がる可能性もあるわけです。コロナの排除(マスクで回避しワクチンで撲滅する)が、たとえ良きことなのだとしても、それで全てが解決するわけではありません。

総体的に捉える、そのためには場合によってはネガティブな面も肯定しなくてはいけないですね。「光」と「闇」は、立脚点を変えれば逆になる可能性もあるだろうし(闇に棲む存在からすれば光の状況は真っ暗と同じ)。

医療の問題などについても、「医療」が錦の御旗のように取り上げられることに、違和感を覚えます。本当の医療現場は、そんな単一の価値観で表わせるものじゃないはずです。

トレンドになりつつある「想像力の欠如」という表現、、、「想像力を欠く」のは、それを言っている人たちの方じゃないか、と思ったりします(この話題は既にしたっけ?)。

登山は、引き返す決断の方が重要です。

温暖化や熱中症の問題を含む様々な災害対策、民主化運動や差別・ヘイト問題、みな同じ線上にあります。集団性自己中心。無意識強要同調空気。正義。コロナ問題だって、永遠に解決しません(まあ、とりあえず有耶無耶終結に向かうのでしょうが)。

[早く“近所の森の蝶図鑑”の作成に集中したいので、とりあえず箇条書きでメモしてたことを、そのまま書き写しています]

アベマTVとかヤフーニュースとか見ていると、アメリカでも、中国でも、マスクしてませんね。たまにマスク している人がいたら、大抵は日本人らしき人(笑)。とにもかくにも、「リスクを避けること」「いわゆる“思いやり”」「阿吽の呼吸で成り立つ道徳やマナー」、、、それらの「美徳」で「美しい日本」が成り立っているわけですが、将来的にはドツボに嵌っていくだけだと思いますよ。

アメリカでも中国でもロシアでも中東でも、それぞれの(価値観に基づく)体制のなかにあって、それぞれの今の社会が(その是非はともかく)あるわけで、、、、、えーと、言おうとしていること(メモしてたこと)を、上手く文章に出来ないですね。まあ、何を言おうとしているかは、だいたい分かって貰えるかと、、、。

マスクもワクチンも命令されればしますよ。「それ自体」は、たいした問題じゃないのですから。

もともと日本人はマスク好きですしね。リスク排除、異質排除、集団性自己中の民ですから。

中国と日本の比較。共に「(基本的な、シンプルな)地図を読めない(読めなくなってしまった)国民性」。正反対の意味で。何度もそのことを書いてきています。非常に重要なことなので、改めて書きたいのですが、今夜中にブログをアップしたいので、時間がないです。

コロナに、(この10数年間に)少なくても3度罹っているという話。中国の衛生環境の劣悪さは、そりゃもう日本人には信じられないほどですから、変なウイルスだってウヨウヨいて、当たり前と言えば当たり前なんですね。

これも以前した話ですが、スーパーに買い物に行って、(買い物かごに乗っかった)小七の御守をしていたら、突然“ジャー”とやられてしまった(中国じゃ子供がそこいらじゅうでやっている)。慌てます。モニカに、“大変だ、小七がお漏らししちゃった”と伝えたら、怒られましたね。そんなことで騒ぐな、後で洗えば済む事、と無視されちゃいました。

食堂のゴミ箱に小七のウンチをさせていた。日本人として何か一言注進せねば、という所なんですが、しかし「最終的にはウンチもゴミと一緒に処分されるんだから、、、日本人は一々気にしてて、変なの」と言われるだけです。それはその通りなんで。衛生に関しては、日中余りにも両極にありますね。将来的には、どっちが有利なんだろう?

日本に帰ってきてイライラするのは、そのトイレ事情です。確かに圧倒的に綺麗。でもなんだか変です。トイレットペーパーの設置だってやたら複雑で、、、もうちょっとシンプルに出来んもんかと。

中国はともかく、東南アジア方式で充分じゃないだろうか?と思います。中国も「トイレ革命」とかで、都会
のトイレはやたら豪華に(一見清潔に)なっていきますが、衛生と言う事で言えば、案外田舎のシンプルなトイレの方が(一見汚らしくは見えても)実質的には理に適っているのではないかと思ったりもします(そのことについては以前にも書いたし、より深い考察は別の機会にします)。

日本のトイレに話を戻せば、これだけ神経質に「消毒消毒」と言って、隅から隅まで「リスク排除」を標榜して、「人の触ったところは触れないようにご理解とご協力を」などと言いながら、なんでトイレの紙は三角折なんなの?と不思議です。後から入った人に優しい気持ちを伝えるための思いやりの所作らしいのですが、(もし本当にリスクを考えるなら)これほど矛盾していることはないです。

ウイルス、陽性で良いじゃないですか。みんなが罹って当然だと思いますよ。そのあとどうするかですね。

これまでの(もしくは今ある)様々な脅威(自殺なども含めた)。それとコロナの比較。それぞれの脅威が、どれほどの強さで、どのような性質を持っているのか?それが表に現れたとき、どのようなパニックが起こり、どのようにパンデミックに繋がっていくか?そして、その事が社会の中でどのように示されるのか?示されたことがどのように全体を構築していくのか?

何百回でも何千回でも同じことを書きます。コロナは“ただの風邪”です。そして、ただの風邪は、とてつもなく恐ろしい脅威です。

「コロナを甘く見るな」という人に言いたい。だったら、「唯の風邪を甘くみること」もやめて貰いたい。

最も怖い事は、そのような「空気」(コロナ=特定のリスク徹底排除)に沿って全てが動こうとしていること(殊に日本は、、、、ある意味日本主導で世界中が)。

僕の“想像力”では、眼前のリスクをひたすら避けることよりも、人類や地球の未来を見据えた俯瞰的な姿勢をとる事のほうが重要と思うのですけれどね(日本の大衆が嫌っているらしいWHOなどは、試行錯誤しつつ、出来る限りの客観的立場で取り組もうと努力しているように僕は感じるのですけれど)。 

相変わらず、山ん中を、1人でマスクして歩いている人に多く出会いますね。マスクするのは自由ですけど、そのことが「同調強要」を美化する空気を作り出している、ということが、わかんないのかな、、、、マスク着用一人歩きは、やめて欲しいです。

健康ウオーキングですか、、、。マスクして、ナップサック担いで、手にピッケル持って、、、、。僕のような「非健康的生活環境在住人間」には、理解が出来ないですね。それに、僕と同年輩のご老人たちは、どうしてみんな前かがみで、トボトボと歩いてるんですかね。たぶん万全のリスク排除管理をやってられるんでしょうけれど。

僕は、いつも道の無い林の中とか崖の縁とかを歩いているわけですが、まずそこで怪我をしたりすることは有りません。たまに人工物(溝など)に蹴躓いたりしちゃいますが。

皆、見えてるリスクは避けるんですね(だから道の無い山の中など歩かない)。でも、リスクを避けることがリスクの元だったりして。

山ん中、透明人間だらけですよ。蝶なんて、透明人間そのものです。突然、どこからか飛んで来て、幻のように、どこかに消え去っていく。

と言う事で、箇条書きのメモを片っ端から(重複)文章化しました。一体何言ってるのやら。まあ、Wi-Fi使用終了時間にギリ間に合いました。あとは「近所の森の蝶探索フィールドガイドブック」作成に集中します。

・・・・・・・・・・・

も一回言っときます。“我々は何もかもを一覧表にすることで人間のシステムを腐らせている気がする”
これは、本当に至言ですね。

・・・・・・・・・・



なんか写真があった方が良いと思うので手元にあったのを適当に選んでおきました(たぶん以前にも掲載済み)。別に意味はありません。
2017.6.7 午後7時35分 雲南四川省境山地




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“メス”について 2021.9.11

2021-09-12 09:00:00 | コロナ 差別問題と民主化運動 身近な自然




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

今年の6月、青梅市の南側の丘陵の某施設で、(半ば飼育下の)オオムラサキを調べているという女性の研究者と話していて、雄の紫の翅色の話題になった時、「私はメスのほうが好きなんだけれど、、、」とふと彼女が呟いた言葉が、強く印象に残っています。

女性の立場からすれば、そうだろうな、と思いますね。確かにオスは煌びやかで目を惹きますが、、、。客観的に見ても、(綺麗とかの次元ではなく)雌のほうが断然カッコいい。大きくて、悠然としていて、、、、オオムラサキが「大紫」である所以は、「紫」に視点を当てれば雄に、「大」に視点を当てれば雌にあるのだと思います。

どの蝶に対しても言えることですけれど、オスは飛び方や体つきが鋭敏で、色彩も煌びやか、翅表に鮮やかな金属光沢色を纏っていたりします。一方、メスは色調が地味で、翅型や体つき共々、行動様式も茫洋としたイメージを持っています。

雄が人の目に付きやすいところで活動していることが多いのに対し、雌が人前に現れることは余りありません。ちなみに、集団を為す(オオムラサキをはじめとするタテハチョウ科の種は余り集団を形成しない)のは雄である場合が多く、吸水集団も場合は大抵は(アゲハチョウ科やシロチョウ科では原則全て)雄です。

雄の仕事は、ひたすらメスを探すこと。雌の仕事はひたすら卵を産むこと。彼らは自分の為すべき行動に疑問を持つことなど当然なく、与えられた使命を忠実に遂行しているわけですが、でもたまに出現する雌雄型(半分雄で半分雌)の場合は、疑問持つ以前の問題として、自分はどうすれば良いのか、戸惑っているのではないでしょうか?(むろん“意識”などはないとしても)

僕個人的には、サンプルとしては雄のほうが有難い。(他種との比較のために)生殖器の構造をチェックする際に於いて、雌の場合は構造的な種ごとの特徴が、もうひとつ掴みどころがなく(生殖器の構造の次元がオスとは異なる)、オスのほうがずっと分かり易いからです。

被写体(生きた姿)としては、大抵の蝶に於いて(あくまで個人的な感想ですが)雌がより魅力的ですね。でも、困ったことに、多くの人目に触れる商業作品などに使用するときは、煌びやかな雄の写真が必要になってきます。

というわけで、オオムラサキについては、雄の写真を写し損ねてしまいました。予期しなかった雌の写真を 写せたのは僥倖と言えるでしょうから、僕的には満足しているのですが、一般的な商業作品作成を目論んでいるからには、雄の写真を載せないわけにはいかないでしょう。昔他の地域で写したのを使うか、誰かに付近で写した写真を借りるか。

今考えれば、失敗したかな?と思っています。この場所で自分で雄の写真を写せるチャンスは十分にあったのです。そのことに雌に出会うまで気が付かなかった。順序立てて話すと、こういうことです。

今年3月23日、青梅(最寄りは立川寄りの河辺駅)に来てから18年目にして、初めて駅(や市役所、病院など)以外の場所、歩いて30分弱の裏山(標高200mほどの丘陵でアパートとの比高はほぼ同じ、、、アパートの位置の方が僅かに標高が高いかも)を訪れました。

アパートの周辺は街(住宅街)の中です。大した自然など残っていないものと、18年間思い続けていたのです。というよりも、35年ほど前に中国や台湾へ行き出してから、日本の自然とは遠ざかっていました。北海道や本州の高山帯とか、南西諸島や小笠原とかには度々赴いてはいたけれど、身近なフィールドに行くことは有りませんでした。

中国がメインフィールドになったこの20年ほどは、それらの地域(高山や南西諸島)からも足が遠のき、ここ数年は、御岳山の山上に野生アジサイの調査・撮影に出かけたことと、去年の春、別の仕事の準備も兼ねて新潟県にギフチョウの撮影に行ったのが、数少ないフィールド行の全てです。

ということで、日本本土の身近な蝶に関しては、40年近くの間ご無沙汰状態、浦島太郎のような心持で、何気なく「近くの(駅とは反対側の)丘=霞丘陵」を、ひょいと訪れてみたわけです。思いの外、沢山の蝶に出会いました。

それで、当分の間は中国に戻れそうもないし、この機会に日本の身近な(いわゆる普通種の)蝶たちも撮影しておこうと、そこに通うことにしました。

出来れば、(昔何冊か刊行したような)「フィールドガイドブック」にも挑戦してみよう。むろん現在の出版界の状況に於いて、容易でないことは充分に承知の上です。しかし商業ペースでの刊行はほぼ絶望的な「中国の蝶」と違って、日本の(誰でも出会えそうな)身近な蝶が対象なら、上手く行けば引き受けてくれるメディアもありそうな気がします。

そんなわけで、最初の探訪日から、4月、5月を挟んだ6月9日までに、同じ場所に19回通っていました。数えて見たら(今年だけで)その時点で既に40種余を撮影していて、大成功だと思います。

でも、一般受けする本を刊行するには、目を惹く(煌びやかな)蝶の写真が必要です。(二次植生であるとしても)一応天然の森の中がフィールドの大部分を占めるので、派手な外観の庭や花壇の園芸植物に訪花する蝶の写真はほとんどなく、訪花対象は比較的地味な野生植物が大半を占めます。そのこともあって、蝶自体が鮮やかな色彩を持った種も確保しておきたい。例えばゼフィルスとかオオムラサキとか。共に出現期は夏に一世代だけです。

煌びやかなゼフィルスでこの辺り(東京近郊の低標高地帯)にもいる種は、ミドリシジミとオオミドリシジミ。6月8日には地味だけれどゼフィルスの一種であるミズイロオナガシジミを撮影しています。その両種も霞丘陵にいるはずです(実際にいることを最近聞いて知った)。

でも、これまでのように漠然と同じ道を歩いていて出会えるのでしょうか? 考えたら、もうゼフィルス出現の季節の真っ最中です。オオムラサキのほうは通常7月半ば以降なので、まだ暫く猶予があるのですが、
今年は季節が早く進んでいるので、そろそろ出現するかも知れません。うかうかしていると、出会えずに終えてしまう可能性があります。

この3種に関しては、確実にいるところをピンポイントで狙いたい。霞丘陵に関しての情報ほとんどないので、(歩いて行ける範囲の)近くの場所までチェックしてみることにしました。

まず思いついたのが、ずっと以前にカメラ教室とかの講師で(他の何人かのカメラマンと共に)青梅丘陵を歩いた時のこと。そのコースの終点が青梅駅で、確か駅に着く直前に見晴台みたいなところがあって、季節になればいかにもゼフィルス(オオミドリシジミ)がテリトリーを張って良そうな環境だったことです。そこに行ってみよう。

思い立った翌朝、早速訪ねてみました(自宅から30分もあれば行ける)。雄が金属光沢を帯びた所謂“高等ゼフィルス”の活動時間帯は種ごとに限られていて、山地性のジョウザンミドリシジミの場合は、確か午前9時頃がピークだったように覚えています。オオミドリシジミについてはよく知らないのですけれど、午前中に活動することは確かだと思います。

と言うわけで、午前7時頃からプラットホームの裏の丘の上で待機していたら、9時過ぎにドンピシャ現れました。

ミドリシジミのほうはどうでしょうか? 食樹のハンノキがあればいると思うので、だったら霞丘陵にもいるはずですが、こちらも出現の季節は真っただ中です。のんびり探しているわけにはいきません。ピンポイントで一両日中にも撮影しておかなければならない。

ずっと昔、浦和の荒川土手(ミドリシジミの発生地として有名なところ)で撮影したことがあります。そこを再訪しようか、それとも(やはり以前何度か訪れたことのある)横浜の緑区の湿地に行こうか、とも考えたのですけれど、歩いて行くにはちょっと無理があります。もう少し近場で確実な棲息地はないだろうか、とネットで調べたら、その気に成れば歩いて行ける隣町の瑞穂町の端っこ辺り、狭山丘陵の青梅市寄り(丘陵の西端部)にいるらしいことが知れました。そこにはオオムラサキもいるようです。

早速訪ねてみました。ミドリシジミのオスは、撮影可能な時間帯に、撮影可能な位置に降りて来てくれなかったのですが、ハンノキの梢に産卵中のメスの写真は結構いいのが撮れました。雄は昔浦和で写した写真を使えばよいだろうと、早々と諦めてしまいました(霞丘陵で早朝探せば良かったのに、と後になって思ったのですが)。

で、オオムラサキのほうですが、こちらはまだひと月ほど猶予があります。でも今年は季節が早く進んでいるので、うかうかしていられません。やはり、ピンポイントで確実に撮影出来そうなところを、3か所確保しました。

一つは、上記した青梅駅裏のオオミドリシジミを撮影した帰路にあった、東青梅の第四小学校横の丘に立つ一本のコナラ。その時出会った地元の蝶愛好家の方から、「去年の7月にこの木で何度かオオムラサキを見た、今年は季節が早く進んでいるので、もしかすると6月末には出現するかも知れない」と教わりました。

二つ目は、いつも行っている、霞丘陵の愛宕山頂上下の斜面に生える二本のコナラの木。やはりそこで出会った別の地元の蝶愛好家の方から「去年何度かオオムラサキを見た」と教わりました。

三つめは、上記狭山丘陵西端部(東京都側)の野山北公園の公衆トイレ近くのクヌギの木。レンジャーの方から「毎年この木に(他にも何本かあったけれど去年切り倒されてしまって確実なのはこの木だけ)オオムラサキが来る」と教わったのです。

ということで、6月中旬から7月にかけて、その三か所に連日のように通いました。結果は惨敗。オオムラサキどころか、蝶の姿が全くない!本来なら(この梅雨の合間の季節は)蝶の種類数が最も多い時期です。それが、種類数どころか、ほとんどの蝶の姿さえ見ない。

考えてみれば、今年は例年よりも3週間ほど早く季節が進んでいるようなのですね。ということは、7月の前半を例年に当て嵌めれば、7月末から8月上旬にかけてと言う事になり、夏の真っただ中なわけです。夏の最も暑い盛りは、蝶も姿を消すのが通常です。今年は、6月末にして、既にその時期に差し掛かっていることになります。

本来なら7月に入って出現する種は、6月中に既に出現し終えているのか、あるいは例年通り発生していても、人の目に触れるところに現れないままスルーしてしまっているのか。いずれにしろ、上記の人たちを含む蝶愛好家の方々は、口を揃えて「今年はオオムラサキの少ない年に当たったみたいですね」とい言います。

結局、オオムラサキに出会ったのは、狭山丘陵西部の、同じクヌギの一本の樹だけ。7月中旬の3日間続けて、同じ時間帯(午後2時~2時半)の同じ幹の同じ位置に、一瞬の間(ほんの数秒間)雄がやって来て、すぐに飛び去ってどこかに行ってしまいました。待ち構えていても、突然やって来るので、写真は写すことが出来ませんでした。4日目に訪れたときには姿を見せなかったので、まあいいか、と諦めてしまいました。

「去年は来ていた」という青梅丘陵(第四小学校脇)と霞丘陵(愛宕山)のコナラにも、何度も足を運んだのですが、見ることが出来ませんでした。7月下旬になって(結局現れないまま)もうオオムラサキのシーズンは終了、と諦めていたのです。

実は、上記3か所のほかに、もう一か所、目星をつけていた木があります。その3か所の木よりも樹液の出具合が良くて、(3か所では余り見ていない)ヒカゲチョウ類やカナブン類、カブト、クワガタ、オオスズメバチなども、この木には結構来ていたのです。

それは、霞丘陵の入口を入ってすぐの所にある木で、と言う事は毎回丘陵探訪のたびに、そこを行き来していて、一応チェックは続けていたわけです。

でも、(他の人たちからは)ここにオオムラサキが来ることは聞いていなかったし、こんな(手軽に来れる)ところにいるわけないだろう、という僕自身の思い込みもあったのですね。それで、丘陵への行き帰りに(ヒカゲチョウ類とかカナブン類とかを撮影しながら)短時間チェックするだけで、あまり真剣にオオムラサキが来るのを待とうとは思っていなかった。それと、この木では、アカボシゴマダラとかには何度か出会っていて、それがまた腹立たしい(その心境の説明はまた別の機会に)という思いもありました。

8月に入って、(他の蝶の姿さえこのひと月間ほとんど姿を見なかったこともあって)オオムラサキの撮影は完全に諦めていました。

(これまでどこかに隠れていたのかもしれない?秋の蝶がどっと出てき始めた)8月20日、この日は、久しぶりに姿を見せた草原のセセリチョウ類などをどっさり撮影して、バッテリーが無くなり始めた帰り道、いつものように習慣的に入口近くのこのコナラの幹をチェックしていたら、突然オオムラサキの雌が舞い降りてきて樹液を吸い始めた。辛うじてバッテリーが残っていたので、一応たっぷりと撮影しました。





こんなことなら、7月いっぱい、(あちこち出かけずに)ここで粘って雄を待っていたらよかったのに、と思っても、後の祭りです。

4月、5月と、殊更目的とかを設けずに、霞丘陵の同じルートを歩いていて、40種もの蝶を撮影出来たわけで、その自然体のまま続けていくべきだったかな、と言うことですね。変に欲張って、(教えて貰った)ピンポイントの木を狙って、あちこち行き来していたため、結果的に失敗してしまったような気がします。

まあ、いずれにしても、7月中は(そのあちこちに於いても)他の蝶も姿を見せなかったわけなので、オオムラサキの雄を撮影出来なかったのも、どっちみち仕方がない事のようにも思いますが。その後、8月末から9月にかけても何度か(昨日で4回目)チェックしていますが、さすがに雌も姿を現しません。



アカボシゴマダラ
2021.8.11





今はルリタテハが多いですね。結構面白いんですよ。目の前(ほんとに目の前、10数センチ)に近づいても、所在の確認が出来ない。他の多くの蝶もそうなのですが、木の幹に止まると、ほんとに姿を消しちゃうのですね。ルリタテハの場合は、そのことが極端で、、、時折翅を開いて、魔法のように一瞬姿を現すのです。
2021.9.8



あと多いのはカナブン類。カナブン、クロカナブン、アオカナブン、シロテンハナムグリ、シラホシハナムグリ(ほか未同定の樹液性ハナムグリ数種)、、、、勢揃いです。オオムラサキ待っている間に、写真撮ったりしていたのですが、あとでチェックしたら、余りいい写真が撮れていません。蝶の写真を撮る時に比べて、「気合」が足りないのかも知れませんね。

ということでカナブン類各種の写真を紹介しようと思ったのですが、それはまた機会を改めてということにして、代わりに昨日(ぶっ壊れたカメラで)撮影したキチョウ(キタキチョウ)の産卵の写真。

キチョウとキタキチョウの関係については、いろいろと言うべきことがあって、それだけで数回分の記事が必要になってくるので、今回はパス。当分の間「キチョウ(キタキチョウ)」の表示で進めて行きます。

以前スジグロチョウ(スジグロシロチョウ)の所でも書いたように、雌が産卵飛翔を行っていると、つい応援してしまいます。一度卵を産み付けてから、そこを離れてふらふらと飛びまわります。改めて食草のあるところを探しているのですが、(目の前に食草があるのに)アサッテの方向に行ってしまう。

「(食草のあるところは)そっちじゃないよ、こっちだよ!」と、ついつい声をかけたくなります。でも僕が蝶に伝えられるわけがない。やきもきしながらも、任せておくしかないのです。すると、ひとしきりあちこち見当違いの失敗を重ねたあと、同じところに舞い戻ってきて、再び卵を産み付けるのです。だったら、最初から同じところに産めば良いのに、と思うのですが、、、。

実際、ごく近縁なタイワンキチョウの場合、一頭の雌が同じ場所に一度に卵塊を作るわけで、、、彼我の違いは、何処にあるのでしょうか。それぞれに、事情?はあるのでしょうね。





マメ科のヤハズソウに産卵中のキチョウ雌。
2021.9.10
14時11分



14時14分
暫し付近を(生むべき場所を間違えながら)飛び回ったあと、隣の株(既に一卵産付済み)に産卵。



14時19分
更に付近を周回し、5分前と同じ株に一卵産付。

その後14時47分までチェック続けたのですが、産卵は行われず、一度僕がこの場所を離れ他の場所を往復して戻ってきた15時19分に再チェックしたら、卵が一個増えて四個になっていました(最初の一卵共々、同じ雌によるものかどうかは不明)。

・・・・・・・・

今日のネットニュースから(「大谷2敗目、44号」については省略)

総裁選・「高市氏、尖閣守るために自衛隊、海保が動ける環境を確立」産経新聞

絶賛の嵐ですね。

*****さん
>素晴らしいね。どおりで女性候補なのにマスコミがスキャンするわけだ。今回は客観的に見て難しいだろうけれど、これから支持を集めて総理になってほしい。応援します。
そう思う:15662/そうは思わない2185:

milk*****
>皆さん、「マスコミがネガスキャンする」と言うけれど、ヤフーニュースは「高市」賛美一色でしょ? ヤフーニュースはマスコミのうちには入らない、と言うわけなのかな?
[そう思う:2/そうは思わない29:]

・・・・・・・・・・

「九州最大級の滝を確認、奄美大島の東海岸、地元の写真家」毎日新聞

*****さん
>(抄出)奄美大島には母の実家があります。母は大学で上京している時に父と出会って結婚しました。島の両親に結婚を猛反対されて島を飛び出したので、私は実家を知りません。テレビで奄美大島に台風がと毎年報道されるたびに、あの島で母が生まれたと思い続けて30年以上経ってしまいました。いつか、私の家族を連れて、母の生まれ育った島を訪ねたいと思っています。

この投稿に関して
>自分を語りすぎて草!
というコメントがありました。

それで、僕もコメントしました。

milk*****
>自分語り、、、、いいじゃないですか。せっかくの想い出話に、こんなコメントを入れるのは、コメ主に対して失礼だと思います。ちなみに僕(兵庫県出身73歳)も、最初の彼女が奄美大島の人でした。
[そう思う:15/そうは思わない:1]

*この(メイン)記事自体に対しては、いろいろと想うところがある(わざわざ今この記事が載る事に対しての違和感とか、奄美の自然の膨大な本質とか)のですが、この地域の記事が出ると、つい反応してしまうので、、、、。

・・・・・・・・・・・

ということで、もうひとつ。

「横当島から噴煙?奄美大島西北の無人島、気象台“噴火はしていない”」南海日日新聞

milk*****
>横当島には、20年ほど前、セミの鳴き声の調査*のために、単独上陸したことがあります。瓢箪型の島で、南側が標高の低い古い地形の山、北側が標高の高い新たに活動中の山です。翌日の昼に漁船が迎えに来るまで、南側の山の山腹にテントを張って一夜を過ごしたことを思い出しました。その時は北側の山からは噴煙は出ていませんでしたが、いつ火山活動を再開してもおかしくないような印象を持ちました。北は三島列島の硫黄島から、行政的には屋久島町に所属する口永良部島、トカラ列島の口之島、中之島、諏訪瀬島と続く“トカラ火山列島”の南端の島で、奄美大島の名瀬港からも遠望することが出来ます。
*その時、日本のツクツクボウシの分布南限産地であることを確認。生物地理学的に見ても、なかなか興味深い島です。
[そう思う:26/そうは思わない:1]





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教えて貰いたいこと 2021.9.10

2021-09-11 07:13:20 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

再び同じ疑問を問います。

先月報道された小さなニュース。ある男性が郵便ポストに落書きしたゆえ、逮捕された。連行時の素顔とかも映像放映されています。立派な犯罪とされるそうで、コメント欄には非難の嵐です。こんな奴は、世の中から抹殺してしまえ、と。

ちょうど同じ頃「バンクシー」のニュースも取り上げられていました。その落書きに数10億円の値が付けられたよし。こちらは驚愕(羨望)の声と称賛の嵐ですね。でも、上の事例が犯罪ならば、こちらも同様に犯罪なのではないでしょうか?

僕には、その違いが良く分かりません。誰か教えて頂ければ有難いです。「社会が認めたものは称賛に値し、認めないものは弾圧の対象」、、、それ以外の見解でお願いします。

なんだか、今の社会構造の全てが、この事例に凝縮されて現れているように思えるので。

・・・・・・・・

今日も、丸一日(午前9時~午後5時)裏山(霞丘陵)探索。カメラが完全にぶっ壊れました。表示は全く消えて、ピントも露出も出鱈目で、むろん10数回に一度くらいしかシャッターが切れない。こんな状態でよく撮影を続けているもんだ、と我ながら呆れています。手作業の、ほとんど勘頼りです。ミドリヒョウモンの雄、キチョウの産卵行動、、、一応、いろいろと成果はありました。「フィールド図鑑/我が家の近所の野と森の蝶」上手く纏めて、何とか仕事(収入)に結びつけねばなりません。

・・・・・・・・・

明日のブログ予定記事は「雌について」(蝶の話題)。

明後日は「僕が“マスク/ワクチン”を拒否する理由」。





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陰謀論 2021.9.9 日記

2021-09-09 19:53:46 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記




読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

・・・・・・・・・・

ポピュリズム(ネガティブな表現では「大衆迎合主義」ポジティブな表記では「人民主体主義」)と民主主義(デモクラシー)が、どう違うのか分かんない。

ついでに、教育と洗脳はどこが違うのかな?

面倒なので、この話題に言及するのは、とりあえず止めときます。

・・・・・・・・・・・

昨日、三世から「これ読んでください」とメールが来ました。「ガクト」という人のブログが炎上?して大バッシングを受けている、みたいな話です。ガクトさんが何をしている人なのかは良く知らない(広い意味での芸能人か音楽家?たぶん有名人だと思う)のだけれど、一応名前や顔は知っています。彼の書いた意見などもチラッと読んだことがあります。キショクの悪そうな印象(笑)で、あんまり近づきたくはないのですが、ちゃんと自分の考えを持っている人みたいなので、評価はしています(上から目線で申し訳ない)。

三世から送られて来た(ガクト氏の見解に関する)あるコメント:
>自分の職場でも数人コロナになったが一部の人は風邪どころか熱は40度平気で超えるし、寝返りうてない程身体が痛いしでインフルエンザどころの話しじゃないみたいだよ。2週間以上休んで出社してきたけどいまだに下痢が治らなくて食欲でないとか、味覚・嗅覚が戻らないとか後遺症に苦しんでるよ。やはり職場に陰謀論者がいるんだけどコロナで苦しんだ人達がいる前で、「コロナは毒性が低くてインフルよりも怖くない」とか「ワクチン打って知り合いが3人死んだ」とか平気で言ってるヤツがいる。そいつがワクチン打たなくてもマスクろくにしなくて感染しても構わないが、気分を害す様な事を言ったり感染予防を妨害したりする様な事は口にしないで欲しい。

三世:
>コロナになった人には気を使わないといけなくて、ワクチンで死んだ人はどうでもいいんですね。

僕も(いつもと同じ意見を)re-commentしときました。

milk*****
>僕もその一人(陰謀論者、笑)ですよ。この10数年間の間に中国で何度も“未知の新型ウイルス”に感染して、未だに苦しんでいます(味覚・嗅覚が戻らないとか)。でも基本(人の居ないところでは絶対に)マスクしません。ワクチンも(命令されない限り)打ちません。コロナはただの風邪。そして、風邪は、とんでもなく怖い病気です(いわゆる“コロナ”以外のどの風邪も)。唯の風邪をバカにしちゃいかんです。ちなみに、(コロナを含む)ウイルスは、地球の一員です。マスクで逃げて、ワクチンでやっつける、、、そんなことしてても無駄です。もっと根本的な部分から、取り組むべきです。

追記:
大衆(「健全思考者」)は、
>“この人たち(マスク/ワクチン反対の所謂「陰謀論者」たち)は、(マスクやワクチンを拒否することで)自分や家族や周りの人たちが感染する危険性があるという想像力を何故持てないんだろう?”
と考えるわけですが、、、、逆の見方をすれば、彼ら(マスク/ワクチン絶対主義の正義の民)は“自分たちさえよければ良い”という事しか思い浮かばないんですね。“集団的自己中”の日本人に、それ以上の想像力(目前のリスク排除に終始するのではなく人類の未来を考えて俯瞰的な視野から対すること)を期待しても到底無理なんでしょうけれど。

三世には、こう返事しときました。
>ガクトさん、面白い人ですね。その昔、「地動説」を唱えたガリレオも「陰謀論」とかで殺されそうになったみたいだし。

そのあとの(今日の)メールのやり取り。

三世:
>パラリラ(ジン君)からワクチン打ったとメッセージがありました。

僕:
>チエちゃんとジョージはどうするつもりですか?

三世:
>打たないです。今の社会に未練がある人は打つようですね。パラリラも(彼の経営している)餃子屋の為らしいです。青山さん*はどうするんですか?

僕:
>打ちません。ただし(日本には居たくないので)、海外に出る時に必須となれば打ちます。僕は別に「意地で」打たないわけじゃなくて(「人類の科学への過信は間違っている」という)「信念」によるものだから、基本的には(コロナやワクチンなど)どうでも良いのです。
*最近は「青山先生」ではなく、「青山さん」と呼んでます。格下げですね(笑)。谷崎潤一郎は、生涯「鴎外先生」「荷風先生(永井荷風)」と呼んでいたけれど、夏目漱石や志賀直哉に対しては「夏目さん」「志賀さん」と呼んでいた、と身近な方が証言されています。でも“時々「漱石先生」という記述も見られますよ”という指摘も。まあ、いろいろ想うところもあるでしょうから。この間、後輩にタメ口をきかれたので暴力を奮った、というニュースがあったように、「呼称」というのは、なかなかに難しいものです。

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民主主義国家とは。ご理解とお願い。自由は保障。ワクチン打つ打たないは自由です。でも打たない人は排除します。日本は同調圧力が宗教の代わりを為している、と言ったひとがいますね。言い得て妙です。集団的な自己中になって、例えば「多様性」とか言った概念も、その本質部には踏み入らずに、単にトレンド(流行)として真の意味も知らずに使ってるんでしょう。

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最初の問い(ポピュリズムと民主主義の違い)の答え知ってるんで記しておきます。「ポピュリズム」とは、ネガティブな面も表に出した表現。「民主主義」とは、ネガティブな側面は隠して都合の良いように解釈する表現。「カウンターカルチャー」とか「エリートへの抵抗」とか言った、“いかにも主義”。中身は同じです。

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ツバメシジミ/千葉県天津小湊町坂本 1974.5.24

写真が一枚くらいあった方が良さそうなので、適当に一枚添付しておきます。

昨日、ここ数日中に撮影した写真を何枚か紹介しました。その中にツバメシジミも入っていました。想えば、僕が写真を撮り始めて、最初に写した一枚のひとつが、このツバメシジミの写真です(というか、これしかデュープした写真が手元に残っていないので、ブログでも何度か紹介したことがあると思う、、、つい数か月ほど前にも同じ写真をアップしていたかも知れない)。

先日のブログにも書いた「安房天津の水田農家」から清澄の山道に向かう入口の辺りで、47年前の5月に撮影した写真です。2日前に撮ったツバメシジミと、どっちが上手に撮れているのでしょうか?(たぶん全然進化していない)。ツバメシジミ自体は、年4~5回発生として、200世代ほどの先祖に当たるわけですが。

ちなみに、使用したポジフィルムは「コダクロームⅡ」というISO(当時は「アーサー」と表記)25の、今では 考えられないような低感度フィルム(当時はISO100でさえも嫌がって使わなかったくらいです)。デジタル仕様のISO1600とかISO3200とかも無節制に使いまくっている今では、絶対に無理です。それ考えたら、確実に下手に成っているでしょうね(笑)。

常に重い三脚を持ち歩いて撮影していた頃が懐かしいです。




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アパートの裏山(青梅市霞丘陵)探索日記 2021.9.8

2021-09-08 19:27:33 | コロナ 差別問題と民主化運動 身近な自然




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読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

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今朝は昨日とは逆に、起きたら晴れていたので、8時過ぎから裏山(霞丘陵)に向かったのですが、すぐに曇ってきて、お昼前には今にも雨が降りそうな真っ暗な空になってしまいました。

相変わらず、カメラはほとんど作動しません。でも「気合」で頑張って、22種撮影しました(昨日との比:-3種+4種)。新規撮影が2種です。ミドリヒョウモン(今年56種目)とウラナミシジミ(今年57種目)。

しかし今日の収穫は、何といっても実に久しぶりに(6月中旬以来)、モンキチョウに出会ったことです。春に沢山いた“コリアス草原”ではなく(そこでは昨日や今日も含めこの2か月余一頭も見ていない)別の場所(“ウグイスの谷”)です。

3月、4月、5月、あれほど沢山(目視で一か所に100頭余!)群れ飛んでいたのに、、、一体どうなってしまったんだろう、と狐に包まれたような思いでいました。別の場所とは言え、一応出会えた(新鮮な雌を含む3頭目撃)ことで、ホッとしているというか、肩の荷を下ろしたような気分です。

まあ、個体数の増減が“世代によって極端に示される”というのは、そんなに不思議な事ではないのでしょうが。例えば、今の季節は(モンキチョウの場合と反対に、春には僅かにしか見なかった)イチモンジセセリが大量にいますね。これは必ずしもどこか別の地域(“別の場所”ということは有り得るとしても)からやってきたわけではなく、春先にポツリポツリとみられた世代の、子や孫に相当する可能性もあります。産み付けられた卵がどれぐらいの割合で親になるかですね。

イチモンジセセリは、確かに大群になって移動してはいる(僕も昔神戸の自宅上空を黒雲のように覆って移動する集団を見たことがある)のですが、それは必ずしも長距離移動ではなく、案外短距離の移動なのかも知れません。一説によると、目撃されたある大群の推定個体数は“18億頭”だったと。むろん、ごく狭い範囲の個体数だけを目視カウントして飛翔大群全体の面積に換算してはじき出した数字で、“盛り過ぎ”の可能性もあるとはしても、発生の仕方によっては、途方もない数に成っても不思議じゃないのです。

別に、ウイルスに結びつけるつもりはありませんが(嘘、たぶんある?笑)、自然界の「あらゆる存在」は、“神出鬼没”なのです。

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今年55番目の撮影種:ヒメアカタテハ
蝶の中で唯一のコスモポリタン種。都会の真ん中、絶海の孤島、氷雪の高山、灼熱のジャングル、、、何処にでもいます。むろん日本に於いても最普通種のひとつ。でも、霞丘陵で初めて出会った個体は8月末の55番目。昨日もいました。この蝶も秋になると数が増えるのです。ちなみに撮影場所は、丘陵内部ではなく住宅街の路傍。



今年56番目の撮影種:ミドリヒョウモン
いわゆる“大型ヒョウモン”は、都市近郊の野山にも、6~7種が分布しているはずです。でも、ここ10数年普通に見ることが出来るのは(昔は東京周辺には分布していなかった)ツマグロヒョウモンだけ。他の各種は、どうやら(都市近郊では)減少傾向にあるのだと思います。うち、春にクモガタヒョウモンを撮影。それ以外の種には出会えないで終えるのかな?と半ば諦めていたのですが、無事1種撮影することが出来ました(コリアス草原にて)。



今年57番目の撮影種:ウラナミシジミ
ヒメアカタテハと並ぶ「最普通種」がウラナミシジミ。秋になると街中を多数飛び交っているのだけれど、今年は写真の一頭が初めて出会った個体です。

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昨日と今日撮影した写真を何枚か紹介しておきます。



附1:ツバメシジミ



附2:ヤマトシジミ



附3:イチモンジセセリ



附4:キチョウ(キタキチョウ)
“コリアス草原”に(この数か月)モンキチョウはいないけれど、キチョウは沢山います。



附5:モンキチョウ
ボロ個体ですが、僕にとっては貴重な一枚です。








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