青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (第28回)

2011-05-31 14:44:54 | 野生アジサイ




(読者の皆様へ)以前にもお伝えしたことがありますが、念のためにもう一度。「青山潤三の世界・あやこ版」(ことに「朝と夜のはざまで」)は、出来栄えはともかく「作品」として紹介しているつもりです。決して「報告」ではありません。時系列も、数年前の出来事や、現在の出来事が、行ったり来たりしながらごちゃまぜで組み立てられています。そこのところを御理解の上、読み進めて頂ければ有難いので、よろしくお願いします。

さて、6月4日から、なっちゃんがアシスタントを行う、野口勲氏の講座「種と日本の食文化」がスタートします。まだ参加申し込みは可能だと思いますので、是非ともよろしくお願いします。

詳細はこちらです。


そのなっちゃんに宛てて、僕の「個人講義」という形で送信した、一連のメール原稿があります。

第1回 “種”speciesとseedについて
第2回 野生アジサイ探索記
第3回 ハラン7つの謎・黒島の自然
第4回 「もももももすももももも」は正しいか?
第5回 雲南の奥地に白い野生苺を摘みに
第6回 ジンチョウゲの由来を探る
第7回 ゲンゲと母子草の故郷
第8回 東洋のレタス“麦菜”の不思議
第9回 West meets East

このうちのいくつかは、「あやこ版」で紹介したものの焼き直し。今回は、「野生アジサイ探索記」を改めて「あやこ版」で紹介して行くことにします。「野生アジサイ」については、これまでに何度も“未完成”記事を掲載しているので、内容的に多くの重複が生じることになりますが、ご了解下さい。

野生アジサイ探索記


第一部
■園芸植物としての「アジサイ」の由来(伊豆諸島産の野生種「ガクアジサイ」が西洋で改良され日本に里帰り)。
■有名園芸植物の原種で日本の南西諸島に固有分布し、西洋で作成された後、里帰りしたユリ科の「テッポウユリ」。
■伊豆諸島固有種オオシマザクラを母種のひとつとして、日本で作成されたバラ科の園芸植物「サクラ(ソメイヨシノ)」。
【実際の血縁関係と、学術的な命名(学名、殊に属名)および一般的な呼び名(和名)は、必ずしも一致しないという例を、アジサイの仲間の分類で示した表】。
■南西諸島固有種のマルバサツキを母種のひとつとして、日本で作成されたツツジ科の園芸植物「栽培サツキ」。 
(附:ヤクシマシャクナゲ) 【マルバサツキとトカラ火山列島の話】

第2部
■園芸植物「アジサイ」「ガクアジサイ(栽培)」の原種の一群、「ガクアジサイ(野生)」「ヤマアジサイ」「エゾアジサイ」。
■アジサイの名は付くが、血縁的にやや離れた野生アジサイ「タマアジサイ」と「ツルアジサイ(ゴトウヅル)」。
■中国の代表的な野生アジサイ「アスぺラ(オオアジサイ)」は、血縁上は「園芸アジサイ」や「ヤマアジサイ」と遠縁。
■アジサイと名の付かない野生アジサイ「ノリウツギ」。
■アジサイの仲間ではないアジサイ科の「ウツギ」の仲間と、スイカズラ科の「タニウツギ」の仲間。
■一般にはアジサイの仲間に入れてもらえないが、実は正真正銘の野生アジサイのひとつ「イワガラミ」。
■外観がアジサイに似た、レンプクソウ科の「ガマズミ」の仲間。
(附:北米産の野生アジサイ「アメリカノリノキ(アメリカアジサイ)」)
■装飾花のない野生アジサイ「コアジサイ」。
■アジサイとは別の属とされているものの、実際には「園芸アジサイ」や「ヤマアジサイ」にごく近縁の「ジョウザン」。


緑字:園芸種アジサイやその原種「ガクアジサイ」「ヤマアジサイ」にごく類縁が近い種。
青字:一応野生アジサイだが、園芸アジサイや「ヤマアジサイ」との類縁は遠い。
赤字:アジサイとは全く別の仲間。

第3部
■「園芸アジサイ」や原種の「ガクアジサイ」「ヤマアジサイ」に極めて近縁の、「ガクウツギ」「カラコンテリギ」の一群。

僕にとっての『野生アジサイ探索記』とは、この一群の南西諸島や中国大陸などの各種を探索することであります。具体的には、日本本土(東京都以西)の「ガクウツギ」「コガクウツギ」、屋久島の「ヤクシマコンテリギ」、三島列島黒島~口永良部島~トカラ列島口之島ほか~徳之島~沖永良部島~伊平屋島の「トカラアジサイ」、沖縄本島の「リュウキュウコンテリギ」、石垣島~西表島の「ヤエヤマコンテリギ」、台湾~ルソン島~中国広西壮族自治区北部山地周辺の「カラコンテリギ」、雲南省の「ユンナンアジサイ」の、それぞれの集団の相互関係、および園芸アジサイの原種群「ガクアジサイ」「ヤマアジサイ」や、それに対応する大陸産の野生種ではないかと考えられる「Hydrangea kwangsiensis(広西壮族自治区)」「Hydrangea stylosa(ヒマラヤ東部~雲南省北部」との関連を解明することです。

大半の種や地域集団はすでに撮影し終えているのですが、この仲間の全体像を捉えるに当たって非常に重要な位置付けにある伊平屋島のトカラアジサイは、まだ花を撮影していません(これまで冬や夏にしか行っていない)。今年こそ、花の季節
に行ってみたいのです。ということで、リアルタイムのレポートです。

■探索紀行(2011.4.24-5.10)
伊平屋島2011.4.24-4.29
石垣島2011.5.1-5.2
西表島2011.5.3-5.5
沖縄本島2011.5.7
沖永良部島2011.5.8-5.9
徳之島2011.5.10

■写真集
日本本土(本州中部~九州)産【コガクウツギHydrangea luteo-venosa】(屋久島高地帯産=別変種)
日本本土(本州中部~九州)産【ガクウツギHydrangea scandens】
屋久島産【ヤクシマコンテリギHydrangea grossaserrata】
口永良部島産【トカラアジサイHydrangea kawagoeana】
三島列島黒島産【トカラアジサイHydrangea kawagoeana】
トカラ列島口之島産【トカラアジサイHydrangea kawagoeana】
徳之島産【トカラアジサイHydrangea kawagoeana】
沖永良部島産【トカラアジサイHydrangea kawagoeana】
伊平屋島産【トカラアジサイHydrangea kawagoeana】
石垣島産【ヤエヤマコンテリギHydrangea yayeyamensis】
西表島産【ヤエヤマコンテリギHydrangea yayeyamensis】
台湾(合歓山)産【カラコンテリギHydrangea chinensis】
中国(広西壮族自治区北部~湖南省南部=南嶺山地)産【カラコンテリギHydrangea chinensis】
中国(雲南省西部=高黎貢山)産【ユンナンアジサイHydrangea davidii】
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沖縄本島産【リュウキュウコンテリギH.liukiuensis】

次回からスタートします。









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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey(第27回)

2011-05-28 08:51:01 | 広西・桂林・南嶺

★画像を追加しました。

青島-武漢-恩施-重慶-成都-雅安-康定



恩施到着は5月22日深夜11:30。翌朝始発バスで重慶に向かう予定でいたのですが、日本に連絡して、資金の調達をしなくてはなりません。青島滞在中の2日間に渡って(パソコンのインターネットが出来なくなってしまい、その回復のため)ヨドバシカメラにかけた電話代(3万5000円)で、資金が一銭も無くなってしまったのです。

恩施は、以前のブログ(「白いレンゲソウ」)や、前回のブログで紹介したように、日本と中国の生物相の相関を考えるに当たって非常に興味深い地なのです。野生アジサイについても、“ギンバイソウ”と“タマアジサイ”の、それぞれ近縁種が、日本から飛び離れて分布している可能性があり、出来ることならば周辺の山々を調べたいのですけれど、今回は青島-武漢から重慶-成都に向かう通過地点として宿泊するだけです。もし、この後のスケジュールが上手く進行して行けば、帰路に立ち寄って、探索してみたいと考えています。

お昼前に、やっと資金調達の交渉が成立。というと聞こえはいいのですが、半ば“土下座と恫喝”といった形で、知人のAさんやT氏から、計3万円を振り込んで貰ったのです。この3万円を、3週間後の年金振込日まで持たさねばなりません。かなり難しい遣り繰りだけれど、なんとかするしかありません。昼から暫く熟睡、夕方、アモイから来たテンテン(甜甜、本名だそうです)が訪ねてきたので、一緒に食事に行きます。部屋に帰って日本とのメールのやり取りをしながら、そのまま眠ってしまいました。心身とも、相当に疲れているようです。

5月24日朝7時、訪ねてきたテンテン(テンテンのことは「アモイから来たテンテン」として、そのうち一項目を設けるつもりです、18歳になったばかりの、とても可愛い、利発で不思議な雰囲気を湛えた少女です)に起こされて、長途バスターミナルに。恩施発AM9:00、重慶着PM2:00(100元=約1350円)。

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“テンテンのことはそのうち”と書いたけれど、今ここで少し紹介しておきましょう。

恩施の町の真ん中の十字路の角にある売店で、あや子さんに電話をしていたら、隣の怪しげな部屋(以前、「白いレンゲソウ」の項の冒頭でも述べた、短編連作を予定している「純白のウエディングドレスと少女の涙」の舞台のひとつ)にいた女の子が、声をかけて来ました。

「どこの国の人なの?」
「日本人。」
「私、日本大好き!、、、、70元(1000円弱)でどう?」
「とんでもない。今一銭も無いんだよ!」
「それは可愛そうね、昼飯おごってあげようか。」
「有難う。でも疲れているので部屋に帰ってひと休みしなくては。」
「じゃあ夜に行くね。晩飯一緒に食べよう。」

どう見ても、この商売にそぐわない、清楚で素朴で利発そうな少女です。何よりも年が若すぎる。

「なんでそんな仕事やってるの?」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「愛情が無ければ、そんなことしてはいけないんだよ!」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「それに、見知らぬ人とするのは、君だって辛いだろう?」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「一回70元なら、他の事をしても稼げるじゃないか。」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「僕は愛の無い000はやらない。君はその気持ちを解るかな?」

「シャングリラに連れてってよ!」
「それはいいけれど、山の中を通って行くから、辿りつくまで1週間以上かかるよ。それに今回は資金がギリギリだし、当分帰って来れなくなるかも知れない。」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「このあとも度々行くから、次回にしよう。」
「約束してね。」
「うん。でもそんな仕事やめなよ。君みたいに若くて可愛い子なら、幾らでも他に仕事はあるよ。違う生き方をしてみなよ。」

夕食時、朝食事、買い物をした時、それぞれお釣りをあげようとしたのだけれど、きっぱりと「いらない、大切なお金だから無駄に使わずに持っていなさい!」。僕が苦労して資金調達したことを知っているから、というよりも、仕事を遂行せずに報酬は貰えない、というのが彼女のポリシーのように思うのです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。の部分は、必ずしもずっと黙っていた(ときもある)わけではなく、いろいろと説明してくれたのだけれど、僕の語学力ではきちんと理解出来ていない、ということなのです。おおよそ、こんなことを言っていたのではないかと思います。

青島近郊の「渚港」という村の出身。両親は上海に住んでいる。どうやら、両親とは折り合いが悪い(継母?)らしい(でないとしても、何らかの問題を抱えている)。1つ下の弟も上海に住んでいて、今は高校2年生、自分が稼いで大学に行かせたい(ここはスーリンと同じ)。5日前まで、数年間アモイに住んでいた(アモイ-恩施は長距離夜行バスで24時間余)。恩施には知り合いは一人もいない。友達はアモイに沢山いるけれど、決まった彼氏はいない。アモイでは別の(たぶんまともな?)仕事をしていた。等々。

今の仕事を始めたのは、どうやら両親(それに祖母?)の存在に関係があるらしいのですが、そこのところが良く解らない。いずれにしろ、今の(一般概念からすれば“良からぬ”)仕事をやめるわけにはいかない、体は売っても、心さえ売らなければどうってことない(僕達の思っているような卑しい仕事なのではなく、普通の仕事のひとつ、、、手でマッサージして体を解してあげるのも、あそこを使って気持ちよくさせてあげるのも、同じでしょう?)、と言っているようにも聞こえます。

日本が大好きで、いつか日本に行くのが夢、、、、、。

(なにしろ僕は独身ですから、いつでも「切り札」は使えるのです、でも絶対条件は、こんな仕事はやめること)

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重慶北駅到着は午後1時45分。成都への新幹線(中国語で「動車」)は、4時まで無いとのこと、到着は6時になります。となると、成都に泊まらざるを得ない。出来れば今日中に雅安まで行っておきたいのです。2時や3時の列車が絶対にあるはず。それ(チケットではなく列車自体があるのかないのか)を問いただしても、そんな列車は無いとしか返事が返って来ません。でも全く信用は出来ない。とりあえず、4時のチケットを購入して、ダイアの表示を見たら、2時15分発というのが、ちゃんとあります。

駅の入口、改札口、列車の乗車口、、、何度も制止を振り切って、強引に2時15分の列車に乗車、こういう時は中国語を使わずに、英語や日本語でわめくに限ります。乗ってみればガラ空き。車掌さんにチケットの変更をお願いしたら、どうぞ、適当な席に座って下さいと、何のおとがめも無しです。

中国の人々は、自分の持ち場の責任を遂行することしか考えていないのですね。臨機応変とか、横の連絡とかは、無縁なのです(日本も似た傾向にあるようですが、中国の場合は極端です)。

4時15分成都着。タクシーで南門汽車駅に。乗り場の脇に、両足の無い、いざりの兄ちゃんが、元気で働いていた時の写真(農村での野菜の取り入れ作業中の姿)と、大けがをしてしまった理由を書いたボードを掲げて、物乞いをしていました。むろん誰一人、恵む人などいません。いつものごとく小銭を探して渡そうとしたのだけれど、相場の1元札が見つからない。結局10元(約135円)をあげてしまった。大金です。僕の今の身分では、御法度なのかもしれません。でも、あや子さんやスーリンに怒られようとも、僕のポリシーからして、あげないわけにはいかない。コーラ一本を我慢すれば良いのです。
「謝謝」と何度も何度も繰り返しお礼を言われました。本当に素直な感謝の気持ちなのだと思う。ぼくも、見習わねばならないのです(あや子さんには、「“有難う”という言葉を言うべき時に言わないのは良くない」と指摘されています)。

渋滞のため、新南門汽車駅(バスターミナル)到着は5時10分(35元も取られてしまった)。5時20分の切符は売ってくれず、でもまあ今日中に到着すれば良いので、6時20分のチケットを購入。汽車駅横の安食堂には英語の喋れるねえちゃんがいて、珍しくスムーズに食事が注文出来ました。パソコンを開いたら、なんとネットが繋がった! 想定外の出来ごとにも、たまには良いことがあるものです。

雅安着午後8時20分。急いできたのはいいのだけれど、バスターミナル脇の安宿に結局連泊してしまいました(武漢・重慶・成都といった巨大都市は乗り換えだけでスルー、恩施・雅安・康定といった地方都市に連泊しているわけで、±なんとか辻褄を合せています。この後、宝興から東拉(去年世話になった「東拉紀行」の民宿)に一週間ほど滞在するか、すぐに康定に向かうかを、一両日中に決めねばなりません。いずれにしろ、東拉なり、康定なり、理塘なり、香格里拉なり、、、宿泊費・食事代を後払い可能な地に、一週間ほど滞在して、年金支給日の6月15日に繋げるほかないのです。

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結局、5月26日早朝のバスで康定へ。途中崖崩れのために7時間の延着です。アメリカ人のケビンが経営する、僕の常宿のゲストハウス「Zhailam」に投宿。翌早朝(6時)に、理塘との中間の町・雅江に向けて出発する予定(途中の4000m超の峠の周辺でシャクナゲ大群落の撮影)だったのですが、疲れているのと、ゆっくりとインターネットをしたいこともあって、ここでも連泊。

しかし、翌朝(5月27日)起きて見たら、雲ひとつない快晴です。恩施からずっと快晴が続いていて、しかし一度もフィールドに出ることなく、写真も全く写していません。明日以降は、そろそろ天候が崩れ出す確率が高そうです。いつものごとく、取材時には雨天、待機日or移動日には快晴、という巡りあわせになってしまいそう。終日部屋に閉じ籠ってメールというわけにはいかないでしょう。

で、予定を変更して、近くの6000m峰の、4500m付近まで登り、高山植物や雪山の撮影をしてきました。炎天下の高地を長時間歩き続けたものですから、軽い高山病+日射病にやられてしまったみたいです(その顛末は、次回の項に)。もう一日、康定に滞在することになりそうです。




1 Zhailamの入り口と、康定の新市街のアパート群。






2 最も近くに位置する6000m峰を目指します。




3 しゃにむに急斜面を登ります。数m進むごとに息切れが。年は取るものじゃないですね。




4 チベタンの一団、お茶と食事を御馳走になりました。






5 冬虫夏草(コウモリガの一種に帰省する菌類)を採取に来ているのです。べらぼうな高額で出荷されます。






6 シャクナゲの開花期にはやや早め、それでも5~6種が見られました。快晴時は花の撮影には適していません。








7 この季節(5月下旬)、この標高(4500m前後)では、まだ花はほとんど見られません。数少ない出会った花のひとつ、サクラソウ科のたぶんトチナイソウ属。




8 アブラナ科の矮性種。




9 “ヒマラヤの青いケシ(メコノプシス)”の黄花種。







10 チョウは、唯の(中国では最普通種の)フィールドベニモンキチョウだけしか見られません。こんなところまでやって来て、フィールドベニモンキチョウの撮影とは、情けない限りです。他の種はまだ発生していないようなのですが、意外なことにパルナッシウス(Parnassius orleans?)の姿を目撃しました。




11 6000m峰のひとつ。




12 もう一つの6000m峰、黒い牙のような岩群が目を惹きます。7時間に亘り登り続けたのだけれど、峰の本体には近づくことは出来ませんでした。






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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey(第26回)

2011-05-23 21:12:33 | 雑記 報告




週刊B誌K記者28才、ジン君23才、某大女優ジュニア22才、なっちゃん24才、僕63才、恒例の上野食事会です。会を終え次第、品川に出て11時過ぎ発の大垣行き夜行列車、“ムーンライト長良”(いわゆる「青春18」の主力列車)で西へ向かう予定だったのですが、な、なんと!運行廃止になっているではないですか。予定していた大阪・神戸発のフェリーが、軒並み点検休航ということもあって、どうやってスケジュールを組めば良いのか?

ジタバタしても始まりません。ということで、2次会、3次会。僕は普段アルコールは全く飲まないのだけれど、ここのところ自棄酒を煽る毎日です。なっちゃんはアルコールに強いはずなのですが、酔っ払って潰れてしまいました。深夜2時過ぎお開き、なっちゃんをK記者にタクシーで送って貰うことにして、僕は新橋のマックで夜を明かし、品川始発(AM6:00)「のぞみ」で小倉着AM10:35、接続6分で在来線に乗り換え、下関着AM10:58。国際フェリー「青島」行きAM11:30に間一髪間に合いました。

成田から香港に飛行機で行くとか、在来線でのんびり西下して数日後の船便にするとか、まだしばらく東京に滞在するとか、、、、いろんな選択肢があったのだけれど、一刻も早く東京を離れたくて、綱渡りの強行軍となった次第です。

失恋感傷逃避行です。感傷の旅は船便に限ります。
なっちゃん「また失恋したの?誰に?」
僕「そんなこと知るもんか!」
正確には“そのうち失恋”感傷旅行、生前葬のようなものです。

ということで、5月19日PM3:30、青島入港。10年ぶりの青島です。別にここに用事があるわけではないので、すぐに四川・雲南に向かいたいのですが、新幹線代2万円、船賃1万5000円。残り財産は1万円余。行動は制約されてしまいます。ついこの間まで60万円あったはずなのに、一体どこに消えてしまったのでしょうか?

なんとしてでも4桁稼いで(3桁でも可?)、ジン・Jr.・なっちゃんをお供に、condensmilk版「高岳親王航海記」を実現せねばなりません。なっちゃんには手応えを感じているのだけれど、ジン君説得が難関ですね。

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なっちゃんには多大な弱みを掴まれています。飲み会でもバラされちゃった。この機会に、僕自身で懺悔をしておきます。いや、本当に反省しているのです。

3月11日の地震の翌日、大阪にいるなっちゃんに電話をしました。

僕:地震にもメリットはあるよ!公衆電話がタダなんだ。さっき、中国の元カノのスーリンと30分ほど電話し、それから(僕のブログを作ってくれている)佐世保のあや子さんに1時間余り電話してしまった。「今回の地震は我慾の固まりである日本人に対しての天罰だ」の慎太郎の言を評価(念の為、慎太郎本人は大嫌いです)したら、あや子さんは、「青山さん、そんなこと言っていいの?慎太郎は酷い人だよ。都民のことなど真剣に考えず、好き勝手にのうのうと暮らしている金持ち、そんな奴に天罰だなんぞ言われる筋合いはない。天罰を受けるのは自分のほう。青山さんが本当に慎太郎を評価するなら、もう絶交です」といったやり取り。

なっちゃん:え~!この大変な、みんなが電話が繋がらなくって困っている時に、、、、一番やってはいけない行為だわ!

僕:そ、そうだね、でも公衆電話がタダってことは、ほとんどの人が知らないみたい、それに、もとより公衆電話は、ほとんど誰も使って無いんだし、、、、と苦しい言い訳です。ここは謙虚に反省するしかないですね。

でも時すでに遅し。なっちゃんの僕がらみの持ちネタとなってしまっていました(あちこちでバラされているようです、汗)。

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一昨日(飲み会の前日の5月16日)は、ある意味、僕の63年の人生を凝縮したような、波乱万丈の日でした。表向きは、ごく平常な一日だったのかも知れませんが、僕の心の中には、ただならぬ風雨が吹き荒れていたのです。

午前11時、渋谷でアイルランドのジョン氏と会談予定。しかし11時きっかりに渋谷から電話したら、「ごめんなさい、どうしても外せない急用が出来て、(携帯電話を持っていない)貴方に連絡の取りようもないし、、、、夕方6時新宿に変更して頂けないでしょうか?」「もちろん構いません、では6時に新宿から電話します」。

7時間もあります。飯能の野口氏67才を訪ねようか、友人のA新聞K氏62才と会おうか、幾つかの案を考えたのだけれど、ふと、別の案が頭をもたげました。

その前日、ジン君のライブがありました。場所は下北沢。超満員の盛況で(僕以外は全員が若者)素晴らしいライブでした。ジン君はきっとメジャーになる、と確信、この日に合わせて日本(東京)に滞在していたのは、正解だったと思います。

下北沢は僕の青春?の地です。といって、街を彷徨していたわけではありません(そういった観点では、見事にこの街の事を知らない)。単に、住んでいたというだけ(正確には、羽根木公園の近く)。1974年からの16年間、その後鎌倉に居を移してからも、1998年までは、毎日のように近く(松原、豪徳寺、桜上水、浜田山、駒場、、、、etc.)を訪れていました。都合25年間ですから、この辺りが第2の故郷と言えるかも知れません。

その下北沢を、10数年ぶりに再訪したのです。もっとも、正確には、3年前にも一度訪ねている。2008年9月某日の夜。ほとんど完全に関係が決裂していた状況下で、千明さんと最後に楽しく話を交わしたのが下北沢。千明さんはその日、横浜で国家試験のテストがあり(答案を白紙で提出して裏っ側に僕の頼んでいたイラストの下書きを書きなぐっていた由)、雷が轟き渡る集中豪雨の中、武蔵小杉で落ち合い、ホテルを取って最後の話し合いをするつもりでいたのですが、思い直して下北沢に移動、スターバックスでしばし議論、椅子から立ち上がろうとした瞬間、突然のぎっくり腰に襲われました。そのあと、猛烈な腰の痛みに耐えつつ別のカフェレストランに場所を移して議論を続け、小田急線で登戸経由で帰宅したのですが、途中、彼女の実家のある千歳船橋で一旦下車、プラットホームでうんうん唸っている僕を、「送って行ってあげようか?」と千明さん。「大丈夫、一人で帰れる」と僕。

突然、幕引きとなったのは、その数日後のことです。この時、下北沢のカフェレストランで千明さんが示した最終提案を、僕が受けていたなら、その後の人生は変わっていたかも知れません(ぎっくり腰でウンウン唸って無けりゃ、もう少し冷静になって聞きいれていたかもしれない、と今になってふと思います)。

この時点で、完全決裂して最悪の関係となってから、すでに数週間が経っていました。それにしては、千明さんは上機嫌で、とても楽しい時を過ごせたことを、不思議に思うのです。これほどの悪感情を互いに持ち続け、電話では罵倒の限りを尽くしていたのにもかかわらず、実際に会った時に、なぜ、これほどフレンドリーに楽しく過ごすことが出来たのでしょうか。

そのたった一晩だけを切り取っても、僕にとって何ものにも代えがたい、思いの詰まった街なのです。

むろん、友子さんとの18年間の主要舞台も、下北沢の界隈です。僅か数ヶ月といえども“良好な関係”があった千明さんの場合と違って、18年間、最初から最後まで、戦いの連続。楽しいことなど、ひと時としてありませんでした。でも、そうした中にあっても、もしかしたら精一杯、誠心誠意尽くしていてくれていたのではないか、と、今になって思うのです。

友子さんとの最後の場面(1998年7月末のある夜)も、プラットホーム(明大前駅)です。ホームの端に座り込んで頭を抱え込んでいる僕の傍らで、「青山さん大丈夫?元気を出して」と、一時間近く付き添ってくれたのです。

その翌日、仕事上での大きな進展がありました。朗報を届けに行こうとした際に、思わぬアクシデントが。そして、浜田山神戸屋ベーカリーで待ち続けていた友子さんと一度も会えぬまま、13年の月日が経とうとしています。

下北沢、井の頭線、、、、久しぶりにこの街を訪ねたとなれば、何食わぬ顔で冷静を装うとしても、特別な感慨を絶つことは出来ません。

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千明さんのK弁護士には、正月明けにメール送信したのですが、これまでは必ず折り返しすぐに返事を頂いていたのに、珍しく返事が来なかったのです。相当にお忙しい(暴力団関係ほか数多くの事件を抱えている)ことは承知していたので、再度の打診はしないでいたのです。僕としても、千明さんの事は、いたずらにずるずると時を重ねるつもりはありません。K弁護士との話会いの際には、平行線の繰り返しにならないよう、受け入れて貰える案を用意して行きたい、だから次に連絡を取る時には、満を持して、という思いがあったのです。

早ければ明日、遅くとも数日中には再び東京を離れることになります。次ぎに戻ってくるのは、いつになるのか定かではありません。今のうちに、一度連絡を入れておかねばと、久しぶりに電話をしてみたのです。

K弁護士は、一月に送信した僕からのメールを、当初見落としていていたとのこと。後日気付いたそうなのですが、返事を出しあぐねているうちに、3月末になって突然千明さん側から解雇されてしまった。K氏は、まだ解決には程遠いので、契約を継続したいとの意向を主張したそうなのですが、その必要なし(本人か家族か、どちらが主導の意向なのかは、教えてくれなかった)と、契約不続行となってしまったのです。

交渉は白紙に戻すしかありません。K弁護士は信頼に足る人物です。方針を冷静に練り直し、今後とも何らかの形で助けて頂くことが出来れば、と願っている次第です(僕の要求は、千明さんの誠意ある説明と謝罪、それ以上でも以下でもなく、お互いにとって一番望ましい形に、ソフトランディング出来ることを願っているのです)。

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次ぎに、友子さんの父上を訪ねることにしました。いつかはお会いしなければ、と思い続けてきたのですが、父上ももう80才です。元気でいらっしゃることでしょうか? 友子さんも元気で過ごされているか、心配です。

13年間、友子さんの夢を、週一程度の頻度で見て来ました。何故か楽しい内容ばかりなのです。しかし、この数ヶ月彼女の夢を見ていない。そして最後に見た夢は、珍しく怖い夢だったような気がします。

ご自宅の玄関のベルを押すと、父上が出て来られました。80才といってもとてもお元気そうです。友子さんとの面会は、むろん完全拒否です。自分が生きている間は、会わすのはむろん、友子に関する話も一切しない、ということは承知しているので、仕方がありません。

お元気でいられるかどうかだけでもお伺いしたかったのですが、それをも含め答えられないと。彼女に最後に会った頃、持病の子宮筋腫の悪化が進んでいて、摘出手術を受けるかも知れないと真剣に悩んでいたものですから、13年も経った今、それはもう心配なのです(ご健在であることは確かなようで一安心ではありますが)。

父上は、“友子とは関わりなく、個人的に話をする機会を持つことは吝かではない”と仰ってくれています。一貫して誠意を示して下さっているので、感謝はしているのです。

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話題を最初に戻しましょう。

今週(先週)号の週刊B誌の目玉記事が「60才からの○○○」。K記者の担当ではない由ですが、ちらりと目を通した限りでは、僕とは無縁の世界のように思われます。

でも、この話題に関しては、僕はギネス級??実績を持っているのです。K記者に、なんで僕にインタヴューしなかったのですか(笑)と。

そもそも、K記者との付き合いは、千明さんとの関係が絶好調の時、やや似た話題の「枯れ専ブーム」特集があったことがきっかけなのです。ブームになった理由の結論は、女性側に純粋な愛情があってのものではなく、何らかの企み(例えば経済的援助の要求とか)があるのだと。そんなことはない、僕たちは純粋に愛し合っていますよ、と編集部に反論したら、わざわざK記者が直接対応して下さったのです。

ちなみに“ギネス級”というのは、、、、。30才まで0回。30~60歳までは、まあそこそこ(普通の細帯者よりずっと少ないと思う)。60才の2ヶ月半に、それまでの人生全てを上回る回数(笑)。61才以降は、たぶん死ぬまでまた0回。

これ(60才での一極集中)、凄いと思いません?

なっちゃん「この雑誌、私が貰います、特集も読んでおきます」。おいおい、そんなつまらない記事、読まないでくれよ。


友子さんとは、18年間(途中強制隔離期間1年半を含む)、東京にいる時は、“嫌われ続けながら”ほぼ毎日会っていたわけです。

千明さんとは、4カ月半。そのうち3ヶ月は、僕の人生唯一の相思相愛期間。残りの1カ月半が、吹き荒れる嵐の中の関係。でも、今思うに、順調な時の出来事は、何故か、ほとんど覚えていない、関係が完全に悪化してからの期間のほうが、苦しみも大きかったけれど、何故か楽しかったように想い出されるのです。

もしかしたら、そこからが本当のスタートだったのかも知れません。“良い時にどうした”のではなくて、“悪い時にどうするか”のほうが、大切な事なのではなかっただろうか、と今になって思うのです。

植物生態学的に比喩を行えば、極相よりも、遷移の途上こそが、多様な自然要素を育む魅力ある状態ではないかと思う。僕がオナガギフチョウ棲息地の秦嶺の「天然の雑木林」としてしばしば例に引く「常に遷移し続けるという状況としての極相」。

なっちゃんとの関係は大事にしたいですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5月21日午後3時青島発の夜行列車で、22日正午過ぎ漢口(湖北省武漢)着。すぐに長距離バスに乗り換え、22日深夜、湖北省恩施着。恩施というのは、以前ブログで紹介した「白いレンゲソウ」探索地で、(屋久島-)上海-●-成都(-ラサ)の東西ラインと、(北京-)西安-●-桂林(-香港)の南北ラインのジャンクションに当たる地です。今日23日は快晴なのでフィールドに出たいのですが、予算が尽きてしまい身動きがとれません。資金捻出が出来次第、重慶・成都を経て、四川雲南の山岳地帯へ入る予定です(最悪の場合は、このまま何もせずに帰国することになるかも知れません)。


青島-武漢(漢口)の寝台列車の僕のコンパートメントの回りは、武漢から青島への旅行帰りのおばさん達の一団で埋め尽くされていました。それはもう賑やかな事、大阪のオバちゃんと同じですね。お菓子やら果物やらを、次々とおすそ分けしてくれるので、有難いと言えば有難かったのですが、、、。記念写真をせがまれ、ついでに僕のカメラでも、中で一番年少(25才とのこと)の娘とパチリ。細い眼が完全に無くなってしまうほど、ヤニ下がっています。







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ライブのお知らせ

2011-05-14 22:29:13 | 雑記 報告


ライブのお知らせ

僕の若い友人、神山保志くんが、音楽ライブを行います。

東京近郊にお住まいの方は、ぜひ聞きに行ってあげて下さい。





【集団パラリラ初!企画ライブ】5/15(日) 下北沢@DaisyBar// パラリラにとって一番思い入れのあるイベントになりそうです。

★詳細はコチラ!!▶ http://mysp.ac/hpI8sK
下北沢デイジーバー

東京都世田谷区北沢2-2-3 エルサント北沢B1
世田谷区北沢2-2-3  エルサント北沢B1, 東京都 155-0031 JAPAN


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朝と夜のはざまで My Sentimental Journey (25)

2011-05-14 08:46:42 | 雑記 報告





僕は、テレヴィジョンを全く見ない(国外では時々見ます)人間なので、この方がどの程度一般に知れ渡った人なのか、全然把握出来ないのですけれど、、、、。一昨日、バラエティ番組のタレント、上原美優さんが自殺しました(夕刊紙の記事で知りました)。とても切ない思いです。

24才。なっちゃんと同じ年ですね(最近は何でもなっちゃんに結びつけてしまう、笑)。

彼女に関する知識は、数ヶ月前やはり夕刊紙で(“大家族貧乏タレント”として)紹介されていたのが記憶に残っているだけです。何と言っても、「種子島出身」ということで、深く印象に残ったのです。明るそうにしているけれど、苦労してきたんだなあ。頑張ってほしいなあ。と、陰ながら応援していました。僕は、都会で暮らす、屋久島や種子島や奄美大島の出身者には、どうしても特別な感情を持ってしまいます。「同郷」といったような意識があるのです。

夕刊紙の記事によると、「T.V.番組や著作で、自殺未遂やレイプ体験といった壮絶な過去をあけすけに告白。男性関係は凄まじいの一言で、(中略)常に男性がそばにいないとダメなタイプなのでしょう。その結果、くっついたり離れたりのサイクルの早い刹那的な恋愛ばかりになって、結果的に自分が傷つくという悪循環(後略)」

なっちゃんの私生活は全く知らないので、年齢以外の共通点が見いだせるのかどうかは分かんない。自分で「私は大阪のオッチャンです」と言っているぐらいだから、恋愛には興味が無いのかも知れないし、あるいは、とんでもない奔放な恋愛生活をしているのかも知れない(笑)。でも、千明さんとは、かなりの部分で一致するように思えるのです。

何が言いたいのかというと、今の世の中が、「自由」過ぎる。言葉を変えれば、自分自身の思考でもって物事の本質を探ろうとする意識なしに、まるでパソコンの画面をクリックすれば簡単に先に進める、あるいは、奥深くに佇む本質に降りて行くことよりも、周辺に漂っている空気を掴みさえすれば、何でも簡単に事が成せる、という点に問題があるのではないかと。本来の「自由」とは似て非なる、反対の方向へ向かってはいないか。

恋愛は辛く苦しいもののはずですが、辛く苦しい部分は切って捨て、楽しくて気持ちの良い部分だけを得ようとする、、、、、。

そこを外して(クリックの失敗、空気の掴み損ね)しまえば、思考停止状態になって、極端な形で他人を傷つけるか自分を傷つけるかという結末に。

上原さんは、自らのブログの最後に、「皆さんリアルに私、恋愛が出来ない―恋多き女だった私が、恋の仕方も、恋愛の仕方も、リアルに分かんなくなっている」と綴っていたそうです。

「リアル」という言葉が、虚しく響きます。

なっちゃん達が起こした企業の、目玉キャッチフレーズにも、「リアルな~」という唄い文句が溢れている。僕は、この言葉の安易な多用には危惧を感じるのです。その“耳触りの良い”言葉によって、より多くの人達の共感を得ることは出来るのでしょう。でも「リアル」の実態は、大変に重い存在、複雑で厄介な存在、その正反対の、軽く解りやすいものとして人々を共感に導くと、とんでもないしっぺ返しがあるかも知れません。とても恐ろしいことだと思うのです。

女性の立場が強くなりすぎた。女性だから、若者だから、何をしても許される、庇護されて当然、ということも、悲劇に繋がる一要因ではないかと思うのです。その庇護に甘えて一歩間違ってしまえば、最終的に辛く苦しい思いをするのは、女性自身ではないでしょうか。そのことについては、また改めての機会に考えていきたいと思っています。

上原美優さん。頑張って生きてきたんですね。辛かったでしょうね。願わくば、あなたの周りにいた人達が、あなたの撒いた種を糧にして、幸せな人生を送れるように。



コンロンカ。以下に紹介する3種は、いずれもアカネ科キナノキ亜科の低木。今回(4月下旬~5月上旬)の南西諸島野生アジサイ探索行で、あちこちで見かけました。



ギョクシンカ。コンロンカと共々、屋久島・種子島付近が北限の亜熱帯性植物です。上原美優さんも、子供の頃、種子島のどこかで出会ったはず。この3枚の写真を彼女に捧げます。




コンロンカ



ギョクシンカ



クチナシ 初恋の人に贈る花




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