青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

Grass Is Green Enough Right Here

2023-01-05 21:09:46 | アメリカン・ポップスearly60’s

1月2日にリリースされたジョニー・ティロットソンの新譜「Grass Is Green Enough Right Here」です。


録音はいつ頃なんでしょうね。声の質から判断して、そんなに古くは無いと思います。

1年余前にリリースされた「Good Brown Gravy」も(たぶん以前にも紹介したと思うけれど)とても気に入っているので、もう一度再紹介しておきます。



ところで、「Grass Is Green Enough Right Here」のジャケット画像の風景、どこかで見たような(まあ、テネシーの郊外なんてみんなこんな感じですけどね)。

暑い夏の日中、丸一日歩き通したのに、ほとんど一匹も蝶に出会わなかった。夕刻へとへとになって山道を下る途中でクマに出会って、、、散々な一日でした(-_-;)。




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追悼ジェリー・リー・ルイス。87才没。

2022-10-29 21:07:23 | アメリカン・ポップスearly60’s

追悼ジェリー・リー・ルイス。87才没。



むろん、エルヴィスと共にロックン・ロールの創始者のひとりではあるのですが、C&W界の重鎮でもあります。日本のメディアに訃報記事に、C&W関連の功績記述がほとんどないのは、ちょっと寂しいですね。



従弟のミッキー・ギレーが、今年5月に86才で亡くなっています。ジェリー・リー・ルイスは50年代後半~60年代前半にポップ(R&R)歌手、それ以降はカントリー歌手として活躍してきたのに対し、一つ年下のミッキーは70年代後半に入ってからのブレイクで、従兄弟でバトンタッチをした形です。カントリーの分野では、ミッキーのほうがジェリーを上回るほどの実績を残していてNo.1ヒットも多数あります(それらの曲が黒人歌手の大ヒット曲のカバーであるということも興味深いです)が、一般的な認知度では、「R&R創始者」としてのジェリーのほうが圧倒的に上でしょうね。面白いことに、ミッキーは ジェリーのスタイルを完璧に引き継いでいます。つい先日、ジェリー・リー・ルイス盤(1961年カントリー22位)と、ずっと後のミッキー・ギリー盤のハンク・ウイリアムス・ソング「コールド・コールド・ハート」を聴いたのだけれど、完璧にジェリー盤をコピーしています(一族のスタイルの伝統継承)。ミッキー・ギレーの訃報を載っけられなかったので、併せて追悼の意味を込めて、共演ユーチュブをアップしておきます。


https://youtu.be/APdAn1t8Rxo

https://youtu.be/2gKd78dhw8s


数年前に逝去した黒人の側のR&Rの創始者の一人であるチャック・ベリーも何度も刑務所に行き来していますが、ジェリー・ルー・ルイスの奇行?もいい勝負ですね。日本だと表舞台から抹殺されてしまうところでしょう、アメリカは懐が深いです。ちなみに、ルイスと同じロリコン繋がり?で、元ストーンズのビル・ワイマンは86才。



ロックの寵児は27才とかで若死にするというのが定説ではありますが、どっこい、みな結構長生きです。5年前に相次いで90歳で逝去したチャック・ベリーとファッツ・ドミノ、一昨年のリトル・リチャードと、カントリーのチャーリー・プライドが87才と86才、先日のロレッタ・リンは90才。



カントリー界の奇人で大スターのウイリー・ネルソンは89才で健在。ポップ界では、ボビー・ヴィントンが87才、ルイスやヴィントンと同じ歳のエルヴィスは、生きてれば年明けに88才です。



84才のジョニー・ティロットソンも、去年何故か新曲を次々と発表していて(録音時期は少し前かも知れない、今度何曲かブログで紹介予定)、カラ元気?をアピールしています。ブライアン・ハイランド(来週の誕生日でやっと79才、まだまだ若造です、笑)とバンコクでジョイント・コンサートを行ってから、もう5年が経つのですね。



日本のヤフコメは、老人ヘイトに明け暮れていますが、世界の趨勢は、そうではないみたいに思えてきます。



昨日は、ネットで、現在(2022年度)のビーチ・ボーイズをチェックしていました。今年6月のブライアン・ウイルソンと、9月のアル・ジャーデンの、それぞれ80歳誕生日のメッセージビデオ。楽しいです。

81歳になったマイク・ラブ共々、(“ギディアップギディアップ409”とか)いまだ「ビーチ・ボーイズ」(中国名“海兵少年隊”、ちなみにローリング・ストーンズは“転石五人組”)をやっています。



ブライアンは手押し車に寄りかかって登場し、見るからに辛そうによろよろとピアノの前までたどり着いて、声を振り絞って歌います。これを「悲惨」と目を背けるか、素直に「感動」するか、、、、いろいろなことを考えてしまいますが、僕としては、両方をトータルで受け入れたいです(年齢を思えば他人事ではないですし)。



そこへ行くと、前回紹介した、ワンダ・ジャクソンの昨秋84歳でのラスト収録、まだまだ現役感たっぷりで、その引き際は立派の一言。それも良し、これも良し、だと思います。










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Happy Birthday Johnny Tillotson

2022-04-20 08:33:16 | アメリカン・ポップスearly60’s


Happy Birthday Johnny Tillotson




今日4月20日は、ジョニー・ティロットソン84歳の誕生日です。



さっき、久しぶりにユーチューブをチェックしたら、初めて聞く曲がアップされていました。

なかなか素敵な曲です。いつ頃の録音なんだろう、、、、。



Johnny Tillotson - Good Brown Gravy - (Official Music Video) feat. Wink Martindale - YouTube






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追悼

2021-08-23 16:32:42 | アメリカン・ポップスearly60’s


追悼
ドン・エヴァリー





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遺書 39

2020-08-24 20:39:46 | アメリカン・ポップスearly60’s




ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代

今日は、主治医F医師の日だったので、福生のスタバに来ています(今月の残り財産が3600円になってしまったので、当分インターネットが出来ないかも知れません)。

今月スタバでかかってる曲から3曲。

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Dasty Springfield 1939~1999
「Wishing And Hoping」 1964年 Billboard Hot100 No.6/AC No.5

バート・バカラックの曲(ハル・デヴィッド詞)。ビートルズ出現以前のバカラックのヒット曲としては、他に、ジーン・ピットニーの「オンリー・ラブ・キャン・ブレイク・ア・ハート」(1962年 Billboard Hot100
No.2/AC No.1)とか、ボビー・ヴィントンの「ブルー・オン・ブルー」(1963年 Billboard Hot100 No.3/AC No.2)とかもそうですね。黒人女性歌手ディアンヌ・ワーウィックのヒット曲は「ウオーク・オン・バイ」(1964年 Billboard Hot100 No.6/ACNo.7/R&B No.1)ほか大多数がバカラック&デヴィッド作品です。

大衆におけるアメリカン・ポップスの「好み」が、(極論すると)ビートルズとバート・バカラックの出現以降、ガラッと変わったように感じます。受け身で能天気な楽曲よりも、攻撃的で難しい内容の楽曲を良しとする傾向に。もともとマイナーな曲調好みの日本では、その傾向がより顕著に表れているような気がしますね。バート・バカラックの曲は、僕の感性とは最も遠いところにあるように思えるのですが、ボビー・ヴィントンの「ブルー・オン・ブルー」は好きだったのですよ。「涙の紅バラ」とか「ブルー・ベルベット」よりも、リアルタイムではずっと好きでした。この、ダスティ・スプリングフィールドの「ウイッシン(←パソコンで片仮名を書くのは意外に難しいようで、この単語も片仮名で書こうとして、どれほど苦労したことか)・アンド・ホッピン」も結構好きだったのですが、同じような曲調(と僕には思える)のバカラックの曲が持て囃されるようになるにつれ、わざとらしさが鼻につくようになって、、、。

ダスティ・スプリングフィールドですが、日本では1966年の「この胸のときめきを」が圧倒的に有名ですね。この曲ほど「日本人好み」の曲は、そうそうないと思います。一応、Billbard Hot100への初チャートが、(同じイギリスのミュージシャンである)ビートルの米初登場とほぼ同時(一週間前)で、「ビートルズ世代」ということになりますが、ソロとして活動を始める前に、ザ・スプリングフィールズというグループのリードボーカルをとっていたので、その時代を含めると、「ゴールデンポップス時代」にも属していることになります。ジョニー・ティロットソンとは(公式)誕生日が三日違いです。

ジョニー・ティロットソンのキャリア・ハイは1962年で、他の「ゴールデン・ポップス時代」(僕の言う「エルヴィスとビートルズの狭間の世代」)の歌手の多くも、この年がキャリア・ハイです。そして、この年のアメリカン・ポップス界の主役は、いわゆる「ナッシュビル・サウンド/ポップ・カントリー」。レイ・チャールズの歌った「愛さずにはいられない」ほか、数多の「ナッシュビル・サウンド」的「アメリカン・ポップス」大ヒットが生まれた年です。しかし、不思議なことに、それらのカントリー調ポップヒットは、ほぼ一曲もカントリー・チャートのほうにはランクされなかった。数少ない例外が、ジョニー・ティロットソンの「涙ながらに」と「夢の枕を」であることは、これまでに何度も触れてきました。

この年、ポップとカントリーにクロスオーバーして上位チャートインした(若手歌手の)曲は、ジョニーの2曲の以外にどんな曲があるのだろうか?と調べてみました。数少ないクロス・オーバー・ヒット曲が、ザ・スプリングフィールズ(ダスティ・スプリングフィールド)の「銀の糸と金の針」。Pop20位、C&W16位を記録しています(ちなみに、ビートルズ以前に、最初にアメリカのポップチャートベスト20にランクされた曲だそうです)。ジョニーとダスティのほかには、若手C&W歌手のボビー・ベアー(1935~)の「シェイム・オン・ミー」(Pop18位、C&W23位)ぐらいしか見つかりませんでした。

「Silver Therads And Golden Needles」 The Springfields


「Wishin' And Hopin'」 Dasty Springfields

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Neil Diamond 1941~
「Song Sang Blue」 1971年 Billboard Hot100 No.1/AC No.1


https://www.youtube.com/watch?v=Ru6oaMLzXYA
https://www.youtube.com/watch?v=7F38csaCYws

この曲の原曲は、言うまでもなく、モーツアルトのピアノ・コンチェルト21「アンダンテ」ですね。
Wolfgang Amadeus Mozart 「Piano Concerto No. 21 – Andante」

https://www.youtube.com/watch?v=sQtcnjO8bBs

でも、「そう言われればそうだ」と思うほど、一応同じ曲なのに、「余りにも別の曲」です。まるで魔法にかかっているような、、、。

(クラッシック音楽のことは全く無知な)僕にとっては、「ソング・サング・ブルー」のほうが“原曲”で、「アンダンテ」のほうは後になってから知って、「こっちもなかなかいいな、、、」って感覚なのですが、ピアノの専門家のあや子さんだったら、どう感じるのでしょうか?なにか意見を聞かせて貰えれば嬉しいですね。

ニール・ダイアモンドの活動期は70年代に入ってからですが、年齢的にはジョニーたち60年代初頭の「ゴールデンポップス」主役の「狭間の世代」に属します。

実際、デビューそのものは、1960年(60年代初頭にブレイク出来なかった歌手だけが、70年代以降になって永く活躍できる、という法則?に沿っています)。

高校の同級生と組んだディオ「Jack&Neil」。当時人気絶頂の、エヴァリー・ブラザース・スタイルです。ここに紹介したのは、60年に録音、62年にリリースされた自作曲で、もちろん全然ヒットしませんでした。

ちなみに、エバリー・ブラザースは、日本でも今では「アメリカン・ポップスの元祖」みたいな位置づけになっていて、「バイバイ・ラブ」「夢を見るだけ」以下の大ヒット曲群は誰もが知るところになっていますが、リアルタイムでは、どの曲もほとんどヒットしなかったようです(それ以前に初期のケイデンス音源ヒット曲群は発売されていなかったはず)。

唯一ともいえるリアルタイムでの日本ヒット曲(64年)が、アメリカではシングル・ノンリリース?(60年のワーナーからの初アルバム収録)の「素敵なデイト」。

この曲が、同じ60年に録音されたニール・ダイアモンド(ジャック&ニール)の「What Will I Do」
(ニール・ダイアモンド作、アービング・バーリン作のクラシックポップスでジョニー・ティロットソンの62年のB面ヒット曲とは同名異曲) とそっくり?なのですね。ほぼ同じ時期の作品(エバリー兄弟のほうは、たぶんブライアト夫妻作)なので、偶然だとは思いますが、、、。

「What Will I Do」 Neil Diamond & Jack Packer


「That's What You Do To Me」 The Everly Brothers



ニール・ダイアモンドも、デビュー当時は、ノー天気な典型的「アメリカン・ポップス・オブ・ゴールデン・エイジ」の一員だったわけです。

といって、70年代になってブレイクしてからも、(バート・バカラックのような「新時代のスタイル」ではなく) ある意味「時代遅れ」と言ってもよさそうな、「アメリカン・ポップス」を貫き通しています。

この「ソング・サング・ブルー」も、文句なしの綺麗なメロディで、きわめてシンプルな歌詞。アダルト・コンテンポラリー界ナンバー・ワン歌手の一人(1位:エルトン・ジョン、2位:バーバラ・ストレイサンド、3位がニール・ダイアモンドです)としては、日本での知名度がもう一つ低いように思えるのも、その辺りに原因を探れるように思います。

意外なことに、カントリーのほうのチャート・ヒットが一曲もありません。「カントリー・フレバー」ということでは、例えば、グレン・キャンベル辺りよりも、ずっと感じるように思うのですが、、、。

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Patsy Cline 1932~1963(飛行機事故)
「Crazy」 1961年 Billboard Hot100 No.9/AC No.2/C&W No.2
https://www.youtube.com/watch?v=na5Y9FxR0lg
パッツイー・クラインは、60年代初頭に圧倒的な人気を誇った女性C&W歌手です。チェロキー・インディアンの血を引いています。一つ前の 「アイ・フィール・トゥ・ピーセス」が典型的なカントリー・バラードなのに対して、この曲は余りカントリーっぽい雰囲気がしません(作者はC&W界の大御所のウイリー・ネルソン、パッツイー・クラインより一つ年下で、今も現役で活躍しているようです)。その辺りも、日本で人気を得ている要因なのかも知れません。






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遺書 14 ElvisとBeatlsのはざまで~Johnny Tillotsonの時代

2020-08-08 20:50:57 | アメリカン・ポップスearly60’s




The Best of Johnny Tillotson (多国籍カバー編 ①)

僕のメイン・ワークは、「野生アジサイ」「蝉」「蝶」なわけですが、それぞれを収納したHDDや録音テープの大部分が現時点では活用出来ず、当分は休止せざるを得ません。

もう一つ、アメリカン・ポップス。こちらは上記3つを上回るほどの「大作」を、いくつも準備しています。どれも8~9割がた完成しているのだけれど、つい力が入りすぎて、なかなか「完了」とはいかない。

で、ブログにアップしてるのと言えば、本来の守備範囲じゃない、それほど興味ない対象ばかりなんですね。思い入れが少ない分、気楽に書いていけます。

ということで、思い入れはあっても、あまり力を入れずに書けそうな、溜まっている分を、少しづつ吐き出して行こうと考えています。

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「Why Do I Love You So こんなに愛して」
ピアノ独奏(東南アジアの見知らぬおじさん)+ジョニー本人のイントロ/エンディング歌唱 (2018.1.1にアップされた映像)


1959年末リリースの通算4曲目のヒット曲。60年1月から4月にかけBillboard Hot100に通算
14週間ランク(最高位42位)。日本ではシングル発売されず、当時のベスト盤に「こんなに愛して」の邦題で収録されています。

タイでのナンバー・1ヒット。当時、東南アジア各地で大ヒットしていたようです。2017年夏、バンコクでのブライアン・ハイランドとのジョイントライブの前に、現地情報を収集したのですが、どうやらタイでは国民的ヒット曲と言って良い超有名曲なようで、この曲と「ジュディ・ジュディ・ジュディ」は、(若者も含めて)皆知っていた。

ということで、数多のアジアン・カバーバージョン(秀逸多数あり)の中から、ジョニー本人の歌声が
イントロとエンディングにかぶさる(たぶん無許可?)、不思議な構成のピアノ独奏版。

ところで、このジョニー・ティロットソンの「タイの国民的歌曲」。作者は、“Clifford Rhodesクリフォード・ローズ”という人なのですが、、、、ジョニーの歌った曲は、本人作詞作曲のヒット曲はもちろん、ほとんどすべての曲の作者の素性は、よく分かっているのですね。なのに、この「クリフォード・ローズ」という人の素性だけは情報が皆無。ネットでもいろいろと調べてみたのですが、この人に関しての記述が全くない。一体、どんな人なのか、非常に興味があります。誰かご存じの方はいないでしょうか?

*ちなみに、改めてチェックしたら、このピアノ弾いているオッサンは、東南アジアの人じゃなく、ローマのAndre Caronという人でした。

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「Cutie Pie キューティ・パイ」

The King Elvis Band (King James Brown 2013.10.19にアップされた映像)

「キューティ・パイ」は、日本でのジョニーの初ヒット(1963年秋)。本国では、やはり自作の「ウイズアウト・ユー」(1961年秋Billboard Hot100:7位)のB面。日本でリリースされる直前に、アルゼンチンのチャートでNo.1に輝いています(1963年6月)。英語歌唱よりも、日本、中南米、南ヨーロッパ(フランス、ベルギー、スペインなど)の歌手(各国語)によるカバーが少なからずあることは、(後の「涙くんさよなら」が日本語とスペイン語でヒットしたことと併せ考えて)興味深いです。

このKing James Brownは、エルヴィス・イミテェィターの第一人者としても知られる、比較的メジャーな歌手のようです。たぶん2007年からスタートした「American Band Show」の一環で、「ポエトリー・イン・モーション」も歌っています。彼は、「From Elvis To Memphis」のアルバム完全コピーも発表していて、無論「涙ながらに」も含まれるので、「キューティ・パイ」「ポエトリー」「涙ながらに」の三曲をカバーしている唯一の歌手ということになります。

バック・バンドが素晴らしいですね。コーラスのおっちゃんとおばちゃんは、アジア系のヒスパニック?

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「Judy,Judy,Judy ジュディ・ジュディ」

(2016.10.2にアップされた映像)

アメリカでは 「You Can Never Stop Me Loving You」 (1963年にBillboard Hot100:
18位/Adult:4位)のB面。ドク・ポーマス、ポート・シューマン、ジョニー・ティロットソン三人の作。ジョニー自身が出演した英映画の挿入曲。アメリカ、日本、イギリスではノンヒット。ニュージーランド・チャートで、1963年暮にNo.1を記録。オーストラリア・チャートでもトップ10入り(シドニーではNo.1)をしているほか、タイ、香港、台湾などでも当時大ヒットしていたようです。(「涙ながらに」や「夢の枕を」も含め)太平洋西南岸域各国をクロスオーバーした一連のヒット曲があるわけで、日本とはヒット曲の傾向が異なります。

この若者は、オーストラリアかニュージーランドの人かな?と思っていたのですが、ロンドンの人みたいですね(詳細は不明ですが、たぶんDwyn Excelという名前?)。Johnny Tillotsonとクレジットされているユーチュブを開くと、「涙ながらに」の場合はアメリカのヘタッピな素人ジジイ、「ジュディ、ジュディ、ジュディ」の場合は、アジア系(除く日本)の、へたくそ素人ジジイが出てきたりするので、
ともに閲覧・視聴注意なわけです(ただし後者は、なぜか日本の秀逸女性歌手盤=木の実なな、太地真央=があり、日本でヒットしなかったのが不思議です)。

このバージョンは、男性歌唱盤としては、例外的に素敵です。

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「Send Me The Pillow That You Dream On 夢の枕を」

Johny Tilitson(H. Mardiyanto)(2007.10.12にアップされた映像)

ハンク・ロックリンの作品。自身の歌で1958年にBillboard Hot100:77位/C&W:5位。ポップスのほうでは、62年にジョニー盤でヒット。Hot100:17位/C&W:11位/Adult:5位。他にも、ザ・ブラウンズ、ディーン・マーチン、ザ・ホワイツ盤がBillboardチャートイン(僕はザ・ホワイツ盤81年
C&W:66位が特に好き)。

ジョニー盤は日本でもリアルタイムでリリースされましたが、(やはり前後にリアルタイムリリースされた本国C&W調ヒット曲「涙ながらに」「どうにも出来ない」「涙でいっぱい」共々)全くヒットしませんでした。本国のほか、オーストラリア、ニュージーランド、インドネシア、北欧各国などでは、大ヒットしています。

どの曲の場合もそうですが、You-tubeに紹介されているアーティストのクレジット(例えばJohnny Tillotson)は、本人歌唱でない場合は、ふつうは「カバー」であることが明記されています。しかし、
全く注記してない場合も少なくありません(ということは本人なりすまし)。新しいバージョンがアップされているのかな?と思って開くと、とんでもない下手くそな「視聴注意」素人歌唱が出てきたりします。これもその一つで、堂々と「唄:ジョニー・ティロットソン」と明記されています。恐る恐る開いたら、やっぱりアジア系の眼鏡のオッサンの成り済ましでした。よくチェックすると本名H.Mardiyantomも見つかるのですが、特に注記はないので、中には「この人がジョニー・ティロットソンだ」と思ってしまう人もいるはずです(アメリカの野球博物館で「王貞治」と間違われてサインをして、後で懺悔の念を抱いたという某漫画家の話を思い出します)。

ところが、、、、これが上手なんですね。いや、ジョニー本人より遥かに上手いかも知れない(現地では人気シンガーらしいです)。それだけでなく、インドネシア民謡を交えた曲の構成も映像も、素晴らしい出来です(以前に紹介したサモア盤「夢の枕を」と双璧!)。ついでに、デヴィ婦人の由来が、何となく理解出来る(笑)。

ちなみに、クレジットをよく見たら、Johnny Tillotsonではなくて、Johny Tillitonでた。複数記されているので、誤記ではなく、どうやら確信犯?

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「It Keeps Right On A Hurting 涙ながらに」

Tantowi Yahya(2015.12.18にアップされた映像)

こちらもインドネシア。インドネシアのナンバー1カントリー歌手で、かつ現職国会議員(次期大統領候補?)だそうです。

ジョニー自作のこの曲(Billboard Hot100:3位/C&W:4位/R&B:6位)は、「夢の枕を」ともども日本では全くヒットしませんでしたが、オーストラリア、ニュージーランド、北欧諸国などでは大ヒットしています。インドネシアでもヒットしていたみたいです。

この、白鵬そっくりさんの、感情たっぷりな歌唱も、“Johny Tiliton”さんに負けず素敵です。歌詞を
三か所変えてます。三つ目の部分では、聴衆の女性を指さして、「今さっきフラれた」とか言ってます。
指さされた女の子2人が、「私じゃないわよ、あなたなの?」とか言い合っています(多分その2人の右の女性だと思う)。で、そのあとに原曲にはない「語り」が入る。森進一「おふくろさん」だったら、歌唱禁止になるところです。

でも、これ見ていて(ことに聴衆の素朴なお爺さんや女の子たちが素敵で)「インドネシア、いいなぁ~~、、、僕もインドネシアに行って永住したい」と思ってしまいました。

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「Talk Back Trembling Lips トレンブリン・キッス」

Kitty Wells(1919~2012)

ジョンD.ラウダーミルク作、63年後半にベテランC&W歌手アーネスト・アシュワースで、カントリーチャートNo.1になっています。Hot100のほうでは選外で、惜しくも最高位101位(なぜかカントリーNo.1の曲は、ポップのほうでは101位が多い)。続いて、63年暮から64年にかけて、ジョニー盤がポップスのほうで大ヒット(Hot100:7位/Adult:6位)しています。

今回は、米国メジャー歌手以外のカバーによるジョニーのヒット曲紹介なのですが、このキティ・ウイルズだけは例外で、米C&W界女性歌手の大ボスとも言える存在。この歌唱(アルバムカット)は60年代半ばだと思うので、40歳代後半です。この頃、同じDeccaレーベルに所属する、2人のビッグネーム女性歌手、ロレッタ・リンとブレンダ・リーの三人で歌ってる映像を見たことがあります。キティは、ロレッタより15歳、ブレンダより25歳上なのですが、三人姉妹みたいに見える。ブレンダが歳より老けて見えて、キティが若い!

で、なんでメジャー歌手のバージョンをわざわざここで紹介したのかというと、こういうことです。
「トレンブリン・キッス」は、「涙ながらに」「夢の枕を」とともに、ジョニー・ティロットソンのC&W系三大ヒット曲であるわけですが、キティ・ウエルズ・バージョンの「トレンブリン~」のイントロは、、、、「涙ながらに」のイントロと同じメロディ、そのあと「夢の枕を」のイントロを挟んで、「トレンブリン~」に移る、という、面白い仕掛けがなされているのです。

関連話題が幾つかあるのですが、それはまたの機会に。

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「Country-Boy, Country-Boy カントリー・ボーイ」

Johnny Tillotson 日本語バージョン(1967)

最後に、ジョニー本人歌唱の、下手くそな日本語の曲。

アメリカでの(ヒット曲歌手としての)人気は、58年~65年。日本はスタートが遅れて63年~66年。

むろん時代が(ビートルズらによって)変わってしまったからジョニーたち「旧勢力」は駆逐されちゃったわけだけれど、生き残ろうと色々もがいたのですね。

髪の毛を伸ばしてみたり、大人っぽい歌を唄ったり、反戦歌にチャレンジしたり、、、。でも何をやっても、一度離れていった「空気」は、戻ってこない。

本国に関しては、65年の秋、「Heartaches By The Number 恋はつらいね」と、アルバム
「That's My Style」で、一応成功したのです。せっかく“これ(底抜けに明るい失恋カントリーロック)が僕のスタイル”と決めたのに、変に色気を出して、「Owr World」とか「Hellow Enemy」とか、
時代に乗ろうとして失敗した。

結局、2年後に“いつもの底抜けに明るい失恋C&Wソング”「ユアー・ザ・リーゾン」で、一応ほぼ最後と言って良いチャートヒット(67-68年:C&W48位)を記録することが出来たわけです。

日本でも、(事情は少し違いますが)「涙くんさよなら」「ユー&ミー」のヒットで味を占めて“和製歌謡ポップ”路線で行こうとして、完全に失敗した(「バラのため息」「恋のヨット」etc.)。日本でのジョニーの人気もこれまで、と思ってたところ、67年になって、突然無印の(宣伝してなかった)曲がヒットしました(ただしC&W評論家高山宏之氏の一押し)。こちらもC&W調。本国でも日本でも、結局最後はC&Wの曲がヒットしたわけで、めでたしめでたしと言っておいても良いでしょう。

ただしこちらは、“ノー天気な失恋歌”の「ユアー・ザ・リーゾン」とは違って、哀愁にあふれたメロディの、真面目過ぎる歌詞内容の曲。こんなのが日本人受けする、と狙って、ジョニーと(当時の)奥さんのルシルが作ったわけでしょう。目論見通り当たったわけです(伊達に「マスコミニュケーション学」博士号)。

ただ、この曲に日本語バージョンがあったとは知らなかった(誰が日本語に訳したのかは不明)。リリースされヒットしたのは英語バージョンです。日本語バージョンは50年経って日の目を見たのです。
いくら何でも、下手くそすぎます。リアルタイムで発売されなかったのは、正解でしたね。





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青山潤三日記 2020.6.22 ElvisとBeatlesのはざまで~Johny Tillotsonの時代

2020-06-22 20:41:04 | アメリカン・ポップスearly60’s


 ElvisとBeatlesのはざまで~Johny Tillotsonの時代

16日から、僕の代わりにモニカが雲南奥地に向かっています。しかし、コロナ騒動の思わぬ余波で、苦戦しています(その具体的な話は後程)。

それ以前に、チョウが全くいない!予定狂いまくりです。

高山病にかかりかけたり、日射病になりかけたり、散々です。半分、観光ギャルみたくなってます(笑、でも一応頑張って、毎日ドサッと写真を送ってきます)。

モニカは、「ウイチャット」とかもやってる(僕は見方を知らない)ので、見ることが出来る人は見ておいてください。

僕は、朝7時から夜11時まで、ドリンクバー299円で、終日ジョナサンに居座って、メールで指示を出しています。

なんせ、毎日16時間ジョナサンに居続ける(ドリンクバー以外にも、大盛り無料のライスとか、ホウレンソウ炒めとかも、たまに注文しているので、ご安心ください)のも、結構しんどいです。

ネットニュースをチラチラと眺めてます。メインは一昨日開幕したプロ野球(明日も阪神は惨敗するのでしょうか?) そのほかのニュースも見ています。

https://www.youtube.com/watch?v=gLS_4iPoZ40

↑たまたま、何の脈絡も知識もなく、全く聞いたこともない、若いタレント(アーティスト)同士の結婚式とかのニュースが目に止まりました。2人とも今の人には結構有名な人らしいです。新郎のほうは、ラッパーだそうです。

ラップというのは、僕は良く(というか全く)知らないんですよね。4年前だったか、バンコクからシラチェに行く途中、メック加藤さんが作ったのを見せて貰ったことがあるだけですね。ここんところメックさんのことが話題になっているので、そのこともあって頭を過ったのかも知れません。

「お嫁においで」を、ラップ調にリメイクして歌ってるのだそうです。曲の感想はやめます。僕には全く知識も興味もないし、言及する資格がない(大体6分超などのシングル曲は聞けないです、昔は2分30秒が標準だったので)。

「お嫁においで」はむろん知ってます。加山雄三全盛時、1966年の大ヒット曲です。ジョニー・ティロットソンの66年来日時、加山のホストTV番組にジョニーがゲスト出演しました(ギターの弾き語りで「泣きたい程の淋しさだ」を唄った)。司会の人が「どっちが年上ですか?」と質問し、加山が「僕の方が上だよ」と答えたのを覚えています。ジョニーは2つ年をサバ読んでいたのだけれど、それでも加山さんが一つ上ですね。今年83歳ですか、、、、。

加山雄三は、当時それはもう凄い人気だったのですよ。橋・舟木・西郷の御三家(九ちゃんはその少し前)絶頂期で、それに真っ向から対抗していたのが加山です。そこらあたり「涙くんさよならの謎」に詳しく書いていますので、興味のある人は読んでください。

僕個人的には、加山雄三は、いろいろと理由があって、あんまり好感持ってないのですが、アーティストとしては凄いですよ。作曲の能力は半端じゃない(この「お嫁においで」も本人作曲)。日本の洋楽は好きじゃないし、全く認めていない僕ですが、加山雄三の能力は認めざるを得ません。ある意味日本人離れした感性を持っていると思います。

「お嫁においで」は、結婚式の定番ソングになっているようですね。アメリカでは、同じ66年のヒット曲、ビーチ・ボーイズの「素敵じゃないか」が、結婚式定番ソングになってるようです。ちなみに「2分30秒」の常識が破られたのは、ビーチ・ボーイズの次のシングル「グッド・バイブレーション」からです。その後、堰を切ったように、3分台後半~4分台のシングル曲が出現します。

この動画を見て、すぐに思い浮かんだのが、ずっと後年(1985年)のビーチ・ボーイズのヒット曲、「ゲッチャ・バック」のプロモ?ビデオ。ウイルソン3兄弟真ん中のデニスが亡くなった(実質的自死)後の初リリース曲で、久しぶりにトップ40入りを果たしています(アダルトチャートでは彼らにとっての最高位2位を記録)。

このビデオは、画質が極めて悪いのだけれど、僕は大好きで、何度も何度も繰り返して見ています。何故かとてもハッピーな気分になるのです。

ビデオの冒頭に、この時代としては珍しく鬚を剃ったマイク(ラブ)が登場。途中で野球帽のアル(ジャーディン)と黒い服に鬚のカール(ウイルソン)、後ろの方で、白い車に乗ったブライアン(ウイルソン)が通りかかり、最後に、海浜監視員のブルース(ジョンストン)が出てきます。何気に、この流れが楽しいのですね。

https://www.youtube.com/watch?v=YAZBbZ27xlM
ビーチ・ボーイズ 「ゲッチャ・バック」

ビートルズは、今では歴史上の存在になっていますが、未だに一応現役のビーチ・ボーイズも、歴史上の存在です。ビーチ・ボーイズは「アメリカの盆踊り」と評した人がいて、言い得て妙と思います(日本での加山雄三は似たポジションにあるのかも)。

英リバプールのビートルズと、米カリフォルニアのビーチ・ボーイズは、正反対であると同時に、共通項も少なからずあります。

例えば、「ゲッチャ・バック」の曲名は、明らかにビートルズ「ゲット・バック」からの連想ですね。「ヒア・カム・ザ・サン」と「ヒア・カム・ザ・ナイト」とか、ほかにも幾つかあったはずですが、いまちょっと思い出せない。

逆に、ビートルズの「バックインザUSSR」は、「サーフィンUSA」のオマージュです。ポール(マッカトニー)の
弟が、バックコーラスをビーチ・ボーイズに受け持ってもらうよう交渉しかけたけれど、ポールがそれを押し止めた、という話もあります。ポール曰く「ビートルズがビーチ・ボーイズの真似をして歌うから面白いのであって、本者のビーチ・ボーイズが出てきたら、その面白みが無くなってしまう」と。

「ホエン・アイ・64」は、「ホエン・アイ・グルー・アップ」からインスピレーションを得ていると思います。曲調は
全然異なるのですが、楽しい雰囲気の中に、ちょっぴりメランコリックなメロディと歌詞が混在している点は 共通します。僕の説は、「ホエン・アイ・グルー・アップ」のバックのカウントが、13歳から始まって、最後に微かに聞こえるのが32歳、64歳はその倍である、、、、というのは穿ちすぎでしょうか。

・・・・・・・・・・・・

写真:今日の早餐/午餐/晚餐















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「You're The Reason あんたのせいで眠れんかったわ」

2020-03-31 20:53:12 | アメリカン・ポップスearly60’s


ElvisとBetlesのはざまで~Johnny Tillotsonの時代
「You're The Reason あんたのせいで眠れんかったわ」

ジョニー・ティロットソンがらみの、様々なアーティストの曲の紹介としては、「涙ながらに」&「夢の枕を」50曲
連発、を準備していたのだけれど、HDDが壊れてしまい(その修理費が捻出できなくて)取り出せなくなってしまいました。他にも「ジュディ・ジュディ・ジュディ」と「キューティ・パイ」、「ホワイ・ドゥ・アイ・ラブ・ユー・ソウ」と「ポエトリー・イン・モーション」、「トレンブリン・キッス」と「涙くんさよなら」、、、、、題材は無数にあるのですが、どれも「大作」になってしまいます。コンパクトに纏められそうなのが、アメリカでのほぼ最後のメジャー・ヒットとなった「ユアー・ザ・リーゾン」(邦題は僕が勝手につけた)。

そのオリジナルとカバー・ヴァージョン12組を、寝る前に毎日のように聞いているので、それを紹介することにしました。

コロナの話が長くなって、なかなか仕上がらない。その話のなかで、「穴埋め用に先に書く」と宣言したのだけれど、その後「やっぱりやめておく」と訂正したのを、再訂正して、やっぱり穴埋めアップすることにしました。あくまで穴埋めなんで、出来る限り簡単に、と自分に言い聞かせて。説明は一切せずに、曲だけを並べるのも有りかなと思ったのですが、やっぱり少しは解説・感想を入れたい、ということで、何度も何度も「長くならないようにここは抑えて」と言い聞かせながら書きました。

Bobby Edwrds 1926~2012

1961年 Pop 11位/C&W 4位
オリジナルです。60年台初期としては数少ない、ポップとカントリーのクロスオーバー大ヒット曲です。いかつい顔に似合わぬ、結構ソフトな声で歌います。ボビー・エドワーズは、ほぼ一発屋ですね。この曲のほかに、62年と63年にポップスとカントリーで各1曲(71位/23位)チャートヒットがあるだけです。でも「あんたのおかげで眠れへんかったわい」は、ポップとカントリーのエヴァーグリーンとして、燦然と輝いています。
ちなみに、やはり自作のB面曲「I'm A Fool For Lovin' You」もユーチュブにアップされていますが、こちらもなかなか楽しい佳曲です。以下、チャートヒット5曲を含むカバーバージョン12曲を紹介していきますが、歌詞の違いを始めとする説明や感想は、このバージョンを元にして行います。「キャント」ではなく「ドント」。「トュルトュル」が入る。最初の2小節は「眠れない理由」を自分で歌い、後半はコーラスで羅列します(「廊下を歩く」「ブルーになる」「タバコを吸う」「コーヒーを飲む」「ギターを爪弾く」「月を眺める」)。「僕と付き合って!」の「ミー」のところで声が裏返ります。「ギターを爪弾く」あとは「愛してる」と言います。特にシャウトはしません。終盤でテンポは変わりません。最後に「あんたのせいで~」の繰り返しと「眠れんかったぜ」が入ります。

Hank Locklin 1918~2009

1961年 Pop 107位/C&W 14位
ベテラン大物歌手が同時に別ヴァージョンをぶつけてきました。ハンク・ロックリンに関してはこれまでに何度も紹介しているので説明はパス。ジョニー・ティロットソンがらみでは、言うまでもなく「夢の枕を」のオリジネーターで、「涙ながらに」も歌ってくれています。「Happy Barthday To Me」(C&W 7位)との両面ヒット。曲調はオリジナルとほぼ一緒(声はよりソフト)で、「トュルトュル」入り(全バージョン中最も明確)のコーラスと交互に歌われます。ただし、「眠れない理由」は自分では歌わず出だしを含めて全部コーラスで(言葉の順序が最後の辺りで少し異なります)。「ハニー」と「ベビー」入り。「ミー」のところで特に声は裏返りません。最後の「あんたのせいで」「眠れんかったわ」はありません。

Joe South 1940~2012

1961年 Pop 87位/C&W 16位
作者の一人のボビー・エドワース、大物ベテラン歌手のハンク・ロックリン、そして無名の新人ジョー・サウスの3者競作となり、その3バージョンが同時にヒットしました。ジョー・サウスは8年後に自作の「ゲームス・ピープル・プレイ」(69年Pop 12位)で大ブレークしますが、それがなければ、この曲だけの一発屋で終わるところでした。最終的には、この2曲を含めて71年までに7曲のポップ・チャート・ヒット(うち3曲がC&Wとクロス・オーバー)があります。ビリー・ジョー・ロイヤルの「ダウン・イン・ザ・ブーンドックス」や、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」の作者としても知られています。3つの初期ヒット・ヴァージョン歌手のうち、年齢では断然若いのですが、歌声はベテラン2人より大人っぽく聞こえます。声のトーンを大胆に何度も変えるなど、60年前の曲とは思えないほどの斬新なイメージです。「トュルトュル」入りの軽快な女性コーラスあり。眠れない理由の羅列は冒頭と中盤&終盤のコーラスのほか自分でも歌います。最後の「あんたのせいで」は何度も繰り返されますが、「眠れんかった」はありません。

Gerry and the Pacemakers(Gerry Marsden 1942~)

1965年 Pop 117位/B-side of “Give All Your Love To Me : U.K. 68位”
一般的には、61年の3競作と、67-8年にカントリーにチャートインしたジョニー・ティロットソン盤の4つ
がヒット・バージョンとされているようですが、正確にはあと3つのヒット・バージョンが存在します。80~90年代にカントリー・チャートで80~90位台を記録した2曲と、初出3曲とジョニー盤に挟まれた65年にポップ・チャート117位を記録した、ジェリー&ペイスメイカー盤です。この曲だけが、他の各曲とは全然印象が異なります。上記ヒット4バージョンをはじめ、紹介した全ての曲が、多かれ少なかれカントリー・ティストに満ち溢れてるのに対し、この曲にはそれが全くない。それも道理、ビートルズらとともに世界を旋圧したブリティッシュ・ロックの一組です。シャウトしています。その場違いともいえる彼らが、なんでこの曲を取り上げたかというと、当時ブリティッシュロックの連中にとって教祖的な一人と位置づけられていた、アーサー・アレクサンダーが先行カバーしていたからですね。グループであるにも関わらず、(合いの手を除いて)コーラスなしで、全パートをジェリー一人で歌います。「あんたのせいで」「眠れんかった」付き。

Narvel Felts 1938~

1982年 C&W 82位
ネーヴェル・フェルツは、カントリー界ではかなりの大物です。70~80年代に多くのカントリー・チャート・ヒットを持ち、80年代にはカントリーとのクロス・オーバー・ポップ・ヒットが3曲(「ユアー・ザ・リーズン」の片面でプラターズのカバー「煙が目に染みる」も84位にチャートイン、81年にはチャック・ベリーのカバー「ロール・オーバー・ベートーベン」64位)あります。ポップヒットはそれだけと思ってたのですが、20年以上遡った1960年に、あのドリフターズ(クライド・マクファクター時代)の、、、というよりも日本ではフォー・シーズンで63年にシングルカットされた「ハニー・ラブ」が、ポップの90位にチャートインしています。元・ロックン・ローラーのカントリー歌手の一人なのです。「ユアー・ザ・リーズン」の全体のコード進行は、ジョニー・ティロットソン盤とほぼ同様ですが、声も伴奏も極めて重厚です。コーラスはほとんどありませんが、ごくごく軽く「トュルトュル」が入ります。「ミー」の部分の声が裏返ります。カントリー音楽に付き物の楽器群も目立ちます。「あんたのせいで」あり。「眠れんかった」は最後にかすかに(はっきりしない発音で)聞こえます。

Johnny Burnett 1934~1964

1962年 from an Album
ポップ・ファンにはお馴染みの歌手。60年代初頭に「ドゥリーミン’(60年Pop 11位)」と「ユー・アー・シックスティーン(61年Pop 8位)」の二大ヒットがあります。共に自作曲で、後者は後にリンゴ・スターがカバーして、No.1ヒットになっています。ヒット曲としては、他に61年にPopのトップ20にチャートインした2曲を
含む3曲と、62年の100位以下の3曲があるだけで、64年にボートの事故で無くなってしまいます。なぜか日本では(本国でも?)50年代後半のロックン・ロール・グループ「ジョニー・バーネット・トリオ」としての評価が絶大で、リアルタイムで実績を残した、ティーン・ポップ&ポップ・カントリー・シンガーとしての評価が見過ごされる傾向があるのは、残念です。「ユアー・ザ・リーズン」は61年末に録音、62年初めにリリースされたアルバム収録曲。ポップとカントリーの両ティストが程よく融合、ジョー・サウス・バージョンをややマイルドにしたような仕上がりで、紹介した全バージョン中、最も平均的な印象です。全フレーズを自分で歌いますが、女性コーラスも上手く重なっています。「トュルトュル」あり。「あんたのせいで」「眠れんかった」付き。

Arthur Alexander 1940~1993

1962年 from an Album
唯一の黒人シンガー歌唱盤。ジェリー&ペイスメイカーズ盤の原型となっていると思われます。本人のヒット曲としては、いずれも自作曲で、61年の「ユー・ベター・ムーブ・オン」(Pop24位)を含む3曲があるだけですが、そのうちの2曲(「ユー・ベター・ムーブ・オン」と、62年Pop68位/R&B11位の「アンナ」)が、それぞれ人気爆発時のローリング・ストーンズとビートルズにカバーされたこともあって、ブリティッシュ・ロックの教祖的存在に祭り上げられています。「ユー・ベター・ムーブ・オン」は、ホリーズ盤も秀逸で、僕はリアルタイムで大好きでした。しかし、アーサー・アレクサンダーは、この「ユアー・ザ・リーズン」でもわかるように、カントリー・ソウル歌手としての一面も持っています。メジャーな歌手でも、ブルック・ベントン、ソロモン・バーク、あるいはレイ・チャールスやサム・クックもそうだと思うのですが、「ソウル」要素が持て囃される反面、カントリー的な要素が忘れられているのが寂しい気がします。女性コーラスが美しく(軽く「トゥルトュル」も入る)、  シャウトはしますが、ペイスメーカーズ盤ほどではありません。「あんたのせいで」「眠れんかった」付き。

John Fogerty 1945~ (& The Blue Ridge Rangers)

1973年 from an Album
「ロック」ということでは、ビートルズやローリング・ストーンズに対抗しうる、アメリカの超メジャー・バンドが、CCR(クリーデンス・クリア・ウオーター・リバイバル)です。No1ヒットがなく、No.2ヒット5曲(No.2はNo.1よりずっと希少)、ゴールド・ディスク10枚。実質、リーダーのジョン・フォガティのバンドで、グループを解散してからもソロで活動しています。ほぼカントリーの分野に属するといってよいでしょう。良くも悪くも単純明快で、ローリング・ストーンズ誌辺りの価値基準では、実績の割には正統な評価が為されていないように思われます。この曲も、思いっきりカントリー調のバック演奏と、訛りのある発音で、今回紹介した中で最もカントリーっぽい雰囲気を醸し出しています。ここまでのバージョンが全て“I don't sleep at night”だったのが、彼のバージョンでは、(最初のフレーズだけdon'tで)“I can't~”に替わっています。全曲ソロで、コーラスは全くなし。「ミー」の部分の声が裏返ります。“ハニー”が何度も繰り返し入ります。「ギターを爪弾く」のあとの語が良く聞き取れません。「あんたのせいで」「眠れんかった」はありません。

Hank Williams Ⅲ 1972~

1999年 from an Album
最初から、全部can'tです。don'tとcan'tじゃ、どう違うのか、誰か英語に詳しい人教えてください。1972年生まれということは、ハンク・ウイリアムスの没年(1953年)から20年近く後ということで、もちろんおじいちゃんの歌声には生で接していないわけですが、この曲を聴く限り、むしろお父さんのJr.より、おじいちゃんに近い雰囲気が感じ取れます。ジョニー・ティロットソンがらみで言えば、おじいちゃんはジョニーが崇拝する人、お父ちゃんはジョニーのMGMレコードの同僚(年齢キャリアでは後輩)ということになります。この曲は、全体にフォーガティ盤に準じ、カントリー楽器の駆使や訛りもよく似ています。(親とじいちゃんの14光を避けたいがためか)カントリー歌手としてではなく、敢えて「ヘビメタ」「パンクロック」の分野を名乗っていますが、意外なことに非常に素直な歌唱で好感が持てます。「キープ・ミー」の「ミー」は少し裏返るだけですが、最後の「ユアーザ・リーズン」の「リーズン」が思いっきり裏返ります。「ギターを爪弾く」の後の語はフォガティ盤と同じ。「ハニー」が何度か入ります。「あんたのせいで」「眠れんかった」はありません。 

Conway Twitty 1933~1990 and Loretta Lynn1932~

1976年 from an Album
実質、ナンバー・ワン・カントリー男性歌手(No.1ヒット曲40曲!)コンウエイ・トゥエッテイと、ナンバー・ワン・カントリー女性歌手(No.1ヒット曲18曲)ロレッタ・リンの、最強のC&Wデユエットです。コンウエイは、ポップス・ファンには、50年代末の「思わせぶり」のポップNo.1ヒットを始め、「ロンリー・ブルー・ボーイ」などロッカ・バラード歌手としての印象のほうが強いかも知れません。ジョニーの「涙ながら」にも歌ってくれています。ちなみにロレッタ・リンは、コンウエイ・トウッテイと組む前に、大ベテラン歌手のアーネスト・タブと組んでいて、2人のラスト・ディオ・ヒットの「フーズ・ゴナ・テイク・ガルべージ・アウト」は、ウィルボーン・ブラザースのテリー・ウイルボーンと、ジョニー・ティロットソンの共作です。僕の知る限り女性メジャー歌手歌唱の「ユアー・ザ・リーゾン」はこれだけ。軽快で太い声のコンウエイのソロのパートのあと、ロレッタのソロパートに移り、やがて2人のエットでハモります。軽快な男性コーラスとカントリー楽器群(特にピアノ)が加わり、素朴で楽し気な雰囲気を醸し出しています。「あんたのせいで」を二人で繰り返し、「眠れんかった」はありません。

Slim Whitman 1923~2013

1964年 from an Album
スリム・ホイットマンは、日本でも「北風」の日本独自ヒットで、名前は知られていると思います。ちなみに「北風」は後に、黒人カントリー歌手(コンウエイ・トウッティやマール・ハガードらと並ぶナンバー・ワン・シンガー)チャーリー・プライドが日本語で歌っています(リンゴ・スターの「リンゴ擦った」やハリソン・フォードの「梁り扇」同様、バブル期の日本の恥知らず文化の置き土産)。カントリー・ヨーデルの第一人者です。ジョニーより一回り以上年上ですが、ジョニーを評価してくれているようで、64年にリリースした「シティ・ヒッツ」というアルバムのA面1曲目に「涙ながらに」を取り上げています。続く2曲目が「ユアー・ザ・リーズン」で、CDのライナー・ノーツには「(61年のオリジン3人に続いて)後にやはりジョニー・ティロットソンでもヒットした」と記されています。しかし、ホイットマン盤は64年のリリースですから、「ユアー・ザ・リーズン」に関しては、こちらの方が先行リリースです。透き通った声のソロ歌唱(軽く男性コーラスが重なる)で、曲の構成は異なりますが、全体の雰囲気はティロットソン盤と共通します。他のバージョンと歌詞が少し異なり、途中でキスしたり(むろん妄想です)します。「あんたのせいで」「眠れんかった」はありません。

Johnny Tillotson 1938~

1967-1968年 C&W 48位/Canadian Country 24位
ポップスのほうでは、65年12月の最後の週がホット100チャートヒットの最後となってしまいましたが、丸2年置いて、カントリーのほうのチャートに久しぶりに(62年の「夢の枕を」以来)登場します。10週間チャートインし、67年の最終週と68年の最初の週に48位にランクされています。This is ジョニー・ティロットソンとでも言うべき、明るく楽しい失恋(片思い?)ソングです。MGMリリースのベスト盤に、ケイデンス時代のリメイク曲を含めたヒット曲群とともに、アルバムの目玉として納められています。なぜか日本では、シングルもアルバムもリリースされていません(こういったひたすら明るいカントリー・ナンバーは、余り日本人好みではないようです)。ブラスバンドとストリングスが入ります。ソロ歌唱ですが、コーラス(アニタ・カー・シンガース?)とピアノ(フロイド・クレーマー?)を伴った、いつものスタイルです。終盤、半オクターブ?ほど調子を上げて、軽快に「眠れん理由」を並べていくところが素敵です。「あんたのせいで」「眠れんかった」はありません。

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ネーベル・フェルツを調べていたら、80年代のカントリーとのクロス・オーバー・ポップ・ヒットが3曲(「ユアー・ザ・リーズン」の片面「煙が目に染みる」も84位にチャートイン、81年には「ロール・オーバー・ベートーベン」64位)あります。それだけと思ってたのですが、20年以上遡って、1960年に、あのドリフターズ(クライド・マクファクター時代)の、、、というよりもフォー・シーズンで63年にシングルカットされた「ハニー・ラブ」が、ポップの90位にチャートインしています(70年代に入るまでは「一発ヒット屋」の一員だったわけです)。とても素敵なので、追加しておきます。
Narvel Felts

「Honey Love」 1960年 Pop 90位

寝る前に聞いてる曲を2曲追加紹介。詳しい説明はあとで。

Ester Phillips 1935~1984

「Releas Me」 1962年 Pop 8位/R&B 1位

Sammi Smith 1943~2005

「Send Me The Pillow That You Dream On」 1973年 from an Album









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2020.1.1日記:ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代

2020-01-01 10:29:15 | アメリカン・ポップスearly60’s


From An Album 「The Best Of Johnny Tillotson(1968)」 1958-1967 *some arrangement

当分の間、もう一つのブログ「社会の窓から」に紹介するのと同じ記事を、「あやこ版」の方にも併行して紹介していきます。

僕の本業は、一応「昆虫(殊に蝶)写真家」となっていると思います。でも私的には「写真家」などと大それた?ことは思っていません。一介の物書きです。蝶については、生殖器の構造比較による系統関係の考察。あと、セミの鳴き声構造や、野生アジサイの系統分類が、自分のライフワークだと思っています。

これまで何度も訴えてきたように、世間に「マニアック」と勘違いされているらしいのが哀しいです。間違ってもそのような姿勢では取り組んでいません。マニアックな所作とは対極にあると信じています。といって「アカディミック」という訳でもなく、あくまで「普遍性」に基づいた、「実態」の探求(結論や答えを出すつもりはなく探求自体が目的)です。だから、自分の仕事を「マニアック」な目で見られることほど、嫌なことは有りません。

一方、もう一つの「ライフワーク」と言ってよい「アメリカン・ポップス」に関しては、こちらは、はっきり言って、マニアックそのものです(笑)。自信を持って「マニア」を名乗り上げます(その道の凄い人のトンデモない膨大な知識には到底及ばないけれど)。

もっとも、(昨年一年、実際的な「ライフワーク」化していた、「香港デモに対する“客観的報道”」も含めて)言おうとしていることは、同じところに収斂する(「“答え”は一つではない」「同調の“空気”によって形成される“力”の所在に対する懸念」)のですが。

「ElvisとBeatlesの狭間で」は、「“涙くんさよなら”の謎・外伝~“外国人が把握する日本人の感性”の妥当性」があと3~4回(「ドイツにおける1963年の大ヒット曲“おみっちゃん”」「元野球選手で黒人のNo.1C&W歌手チャーリー・プライドの日本語歌唱“北風”」など)、昨年の正月前から書き進めている「A Short Story of The Cadence Record~3人の女性ポップス歌手ほか」、「“夢の枕を”&“涙ながらに”50バージョン」、「香港に於ける“路上ジュディ・ジュディ・ジュディ”100バージョン」、、、それから2~3日前突然割り込んで書き始めた「最強の英語教材~Johnny Tillotsonの歌詞“くらべられない素晴らしさ”を使って英語を極めよう!(についてのメモ)」、それぞれ9割方書き終えて、結びに戸惑っている間に、いつの間にやら年が変わろうとしています。

今日は正月元旦(大晦日の晩も元旦の晩もマクドナルドで深夜清掃のバイトです)なので、何かをブログにアップしておきたいと思い、手っ取り早く、ユーチュバー「キャンディ・チャンネル」さんの「ジョニー・ティロットソン・グレーテスト・ヒット」と、別のユーチュブに紹介されている「ザ・ベスト・オブ・ジョニー・ティロットソン」を基にした、私的アレンジ版の見出しの分だけを、リストアップして(各曲の)紹介をしておくことにしました。それぞれの曲の解説や感想を書きだすと、それぞれ一冊の本になってしまいそうな分量なので、それは後回しです。

ユーチュブ上には、ジョニー・ティロットソンのベスト集が多数紹介されています。その中でダントツで出来が良いのが、Candy Channel(多分、オーストラリアやニュージーランドか東南アジア在住の女性)です。「キャンディ・チャンネル」には、膨大なポップス「ベスト盤」が紹介されています。Johnny Tillotson Greatest Hits 【Full Album】(注:現在は全く無関係の同名ユーチュブが複数の別人により紹介されている)は、他のアーティストのベスト盤に比べ曲数はやや少ないのですが、選曲といい、音質といい、曲と曲の繋ぎの部分といい、そのセンスが何とも素敵なのです。

まず、「ジョニー・ティロットソン入門」アイテムとして、これを推薦紹介しておこうと、以前から考えていました。

ところが、昨年になって、突然消えてしまった! キャンデイ・チャンネルさんの紹介による他のアーテイストのベスト集は、大半がユーチュブ上に残っているので、ジョニー版特定の何らかのクレームがついたものと考えられます(実質ジョニーの曲を管理している現在の奥さんのナンシーによって消された可能性もある)。なんとも勿体ない話です。キャンディさんと(もしそうだとしたら)ナンシーに連絡を取って、何とか復活して貰えないだろうか?と交渉してみることも考えています(僕個人用にはクラヴィング・エクスプローラでパソコンに取り込んであるのですけれど、規約上それは公に紹介が出来ません)。

さて、ジョニー・ティロットソンのベスト盤として「まずこれ(キャンディ・チャンネル版グレーティスト・ヒット)を推薦」と上に記しましたが、実は、この「ベスト盤」は、かなり選曲が偏っていて、厳密には「ベスト盤」とは言い難いのです。同じユーチュブが何度か更新されていて、最初の頃には、“ベスト盤なのに何故「トーク・バック・トレンブリング・リップス」が入ってないの?”といったコメントも見られます。よく考えたら、その他にも「夢の枕を」とか、入るべき曲が多数抜けています。

選ばれている曲は、ほぼ全てがケイデンスからのリリース曲。しかも、本来なら「ベスト・ヒット」の中心となるべき、C&W系の曲が、ほとんど抜け落ちている。1曲だけ「涙ながらに」。それとMGMからのリリースが1曲だけ「恋はつらいね」。

キャンディさんの意図は、一般の(特にアジア諸国、なかんづく日本における)リスナーが認識している「ティーン・ポップス歌手」としての、ジョニー・ティロットソンの集大成であるわけです。

カントリー系の2曲は、中間あたりにかかります。R&B原曲のティーン・ポップ・バラード「アース・エンジェル」から、カントリー・フレバー満載の「恋はつらいねHeartaches By The Number」に移り変わる際の、ギャップというか、「違和感」が、何とも魅力的なのです。

いずれにしろ、一方の、すなわち(日本語曲は別として)日本でも馴染みのある、「ティーン・ポップス歌手」ジョニー・ティロットソンを最もよく表現している「ベスト盤」です。ちなみに、トップが「ジュディ・ジュディ・ジュディ」、2曲目が「キューティ・パイ」であることから、アメリカでも日本でもない国の制作であることが知れます。

それで、ジョニー・ティロットソンのことをよく知らない人に紹介する際には、まずこの「キャンディ・チャンネル盤“グレーティスト・ヒット”から始めよう、と考えていたわけです。もちろん、それだけでは代表的ヒット曲の(C&W系の曲が抜け落ちた)半分ですから、そこで、ユーチュブ上で紹介されている何種類ものベスト集の中から、もう一つ選んで共に紹介しておくことにしました。それが「ザ・ベスト・オブ・ジョニー・ティロットソン」(こちらも同名の異なるベスト集がユーチュブ上に幾つか取り上げられていて、今回紹介した中の「ユアー・ザ・リーズン」の画面の曲順に、ほぼ等しい)です。

二つの「ベスト集」は、違いが極端で、大半の曲が重なりません。「ザ・ベスト・オブ~」の方は、一曲目が「涙ながらに」で始まり、ラストが「恋はつらいね」で終わります。そして、2曲目から5曲連続で「グレーティスト・ヒット」に入っていない曲が続きます。早い話、カントリー系のヒット曲も収録されているのですね。バランス上は「ザ・ベスト・オブ」の方が、本来の意味での「ベスト盤」と言えると思います。

欠点の一つは「ウイズアウト・ユー」の選曲バージョン。実は、このベスト盤は、このブログ表題にも示したように、1968年リリースのMGM音源 「SE4532」のベスト・アルバムを基にしています。そのアルバムは、ケイデンス時代のヒット曲を新録しているわけですが、ユーチュブ上に紹介されている「ザ・ベスト・オブ」の一つ(すなわちここで取り上げたもの)は、客観的に考えてクオリティがより高いと思われるケイデンス音源に置き換えた(オリジナルに戻した)ものです。でも、唯一「ウイズアウト・ユー」だけが、MGM新録のままです。クオリティが劣るとは言っても、MGM新録の方も、それはそれで味があるのですが、「ウイズアウト・ユー」に関しては、ちょっと勘弁と思うほど、出来が宜しくない(笑)。

今回、曲順などは原則として68年MGMリリースの「ザ・ベスト・オブ」およびそれに基づくユーチュブ上の「ザ・ベスト・オブ」に従い、「ウイズアウト・ユー」を含めて、全てケイデンス時代の曲は、ケイデンス音源に置き換えました。

そのうえで、「グレイテスト・ヒット」の方の1曲目と2曲目の(米国ではヒットしていない世界的ヒット曲)「ジュディ・ジュディ」と「キューティ・パイ」を加え、また、代表的ヒット曲の一つでありながら、「グレイティスト」「ベストオブ」のどちらにも収録されていない「どうにも出来ない」「涙でいっぱい」を追加、末尾にジョニーのロングインタビュー(21世紀になってDVD発売)、更に、日本独自のヒット3曲(「カントリー・ボーイ」「涙くんさよなら」「ユー・アンド・ミー」)を加えました。

他にも入れるべき曲(「グレーティスト」のほうに収録されている「トゥル-・トゥルー・ハピネス」「アース・エンジェル」「ジミーズ・ガール」を始め、「恋のウルトラC」「プリンセス・プリンセス」「素敵なガールハント」「バラが咲いた」、、、等々)が何曲かあるのですが、コンパクトに纏めるために敢えて割愛しました。
 
それぞれの曲についても、ひとつづつ解説・感想などを記して行きたいのですが、それを行っていると、一つの曲で本一冊分になって仕舞い兼ねません。今回は、ユーチュブから選んだ、曲の紹介だけに留めておきます(解説・感想は、このあとチャレンジする予定)。

全体の音質を揃え、かつ各曲ごとに別の動画表示画面を示すことに苦心したことも、評価して頂きたいです(笑)。

■ 「グレイティスト・ヒッツ」に収録されていない曲
● 「ザ・ベスト・オブ」に収録されていない曲
★ 両方ともに収録されていない曲

It Keeps Right On A Hurtin’ [涙ながらに] 
Cadence 1418≫ written by Johnny Tillotson.
(62.5.12-62.9.15) # 3 Pop/# 4 C&W/# 6 R&B


Send Me The Pillow That You Dream On [夢の枕を] ■
Cadence 1424≫ written by Hank Locklin
(62.8.11-62.11.10) # 17 Pop/# 11 C&W/# 5 Adult


I’m So Lonesome I Could Cry [泣きたいほどの淋しさだ] ■
Cadence 1432(B-side)≫ written by Hank Williams
(62.12.1) # 89 Pop


You’re The Reason [ユアー・ザ・リーゾン] ■
MGM 13829≫ written by Bobby Edwards, Terry Lmesfell, Fred Henley
(67.11.11-68.1.13) # 48 C&W


Worry [ウオーリー] ■
MGM 13255≫ written by Chip Tailor
(64.7.18-64.9.19) # 45 Pop/# 5 Adult


Talk Back Trembling Lips [トレンブリン・キッス]■
MGM 13181≫ written by John D. Loudermilk
(63.11.9-64.2.1) # 7 Pop/# 6 Adult 


Why Do I Love You So [こんなに愛して] 
Cadence 1372≫ written by Clifford Rhodes
(60.1.18-60.4.18) # 42 Pop 【Thailand # 1】


Poetry In Motion [ポエトリー] 
Cadence 1384≫ written by Mike Anthony & Paul Kaufman
(60.10.10-61.1.16) # 2 Pop/# 27 R&B 【England # 1】


Dreamy Eyes [夢見る瞳] 
Cadence 1353/1409≫ written by Johnny Tillotson
(58.11.3-58.12.29) # 63 Pop/(61.12.4-62.3.3) # 35 Pop


Without You [ウイズアウト・ユー] 
Cadence 1404≫ written by Johnny Tillotson
(61.8.7-61.10.30) # 7 Pop


She Understands Me [シー・アンダスタンズ・ミー]■
MGM 13284≫ written by Merle Kilgore & Margie Singleton
(64.10.31-65.1.9) # 31 Pop/# 4 Adult 


I Can’t Help It(If I’m Still In Love With You) [どうにも出来ない]★
Cadence 1432≫ written by Hank Williams
(62.10.27-62.12.22) # 24 Pop/# 8 AC)


Heartaches By The Number [恋はつらいね]
MGM 13376≫ written by Harlan Howard
(65.8.28-65.10.30) # 35 Pop/# 4 Adult 


Out Of My Mind [涙でいっぱい]★
Cadence 1434≫ written by Johnny Tillotson
(63.3.2-63.5.4) # 24 Pop/# 11 Adult


Country boy, Country Boy [カントリー・ボーイ]★
MGM 13499(B-side)≫ written by Johnny Tillotson & Lucill Cosenza
(1967) non-cheated in US 【Japan top 10】


Cutie Pie [キューティ・パイ]●
Cadence 1404(B-side)≫ written by Johnny Tillotson
(1961) non-cheated in US 【Argentina # 1 (63.6.8)/Japan top 10 (63.8)】


You Can Never Stop Me Lovin’ You [恋に弱い子]
Cadence 1437≫ written by Ian Samwell & Jean Slater
(63.8.10-63.10.13) # 18 Pop/# 4 Adult 【German # 1】


Judy, Judy, Judy [ジュディ・ジュディ]●
Cadence 1437(B-side)≫ written by Doc. Pomus, Mort Schuman, Johnny Tillotson
(1963) non-cheated in US 【NewZealand # 1 (63.12.7)】


Johnny Tillotson Interview Video (2000’s)
※こちらで見ることができない場合は「社会の窓から」で同じ記事を載せていますので、ごらんになってください。


Good-Bye Mr. Tears (Adios Al Sufrir) [涙くんさよなら]★
DM(MGM)1042/MGM Chile≫ written by Kurnosuke Hamguchi 
(1965/1966) 【Japan # 1/Argentine and Chile top 10】


You And Me [ユー・アンド・ミー]★
DM(MGM)1056≫ written by Ichiro Takaski & Kunihiko Suzuki
(1966) 【Japan # 1】







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Happy birthday Johnny Tillotson!

2018-04-20 00:27:10 | アメリカン・ポップスearly60’s
4月20日は、ジョニー・ティロットソンの79才の誕生日です。

Happy Birthday Johnny!

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Johnny Tillotsonの誕生日!!

2017-04-20 12:53:21 | アメリカン・ポップスearly60’s


Happy Birthday Johnny Tillotson !!

今日はJohnny Tillotson78歳の誕生日です。Johnny、誕生日おめでとう!!


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Johnny Tillotsonの誕生日!!

2016-04-21 22:09:48 | アメリカン・ポップスearly60’s

Johnny Tillotsonは、4月20日、77歳の誕生日を迎えました。

おめでとうございます。


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今日はJohnny Tillotsonの誕生日

2015-04-20 16:01:49 | アメリカン・ポップスearly60’s



今日はJohnny Tillotson76歳の誕生日です。Johnny、誕生日おめでとう!!





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4月20日は、Johnny Tillotson 75歳の誕生日

2014-04-20 21:20:11 | アメリカン・ポップスearly60’s


4月20日は、Johnny Tillotson 75歳の誕生日。
Happy Birthday Johnny!


★青山さんにブログの更新を頼まれたのですが、間違えて全く関係ないものをアップしてしまいましたので、削除しました。   あやこ








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ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第6回】(全面再編草稿)前半

2013-06-02 21:29:16 | アメリカン・ポップスearly60’s

「旧アカウントの停止」「部屋の退去」「痛風悪化」と、三重苦で、途方に暮れています。さりとて、どうすれば良いのか。アパートはモニカの試験の目処がつく10月中旬には、新たに確保する予定です。でも痛風のほうは、いかんともしようがない。モニカは「病気の治療が先決」というのですが(それはもちろん正論ではあるけれど)現実問題として、そうは言っていられない。「仕事の遂行」「予算の確保」「住む場所の確保」それによって、体勢を整えてからの治療ということになります。

他に選択肢も考えられないので、とりあえず地方(雲南北部の四川省境付近の翁水という集落)に移ります。理由はもちろん宿泊費が安いこと、そして(痛風さえ治まれば)取材・撮影活動を行えること。体調のこれ以上の悪化(現時点でも満足に歩くことは出来ないのですが)を防げるか否か、一か八かではあるのですが、まあ、死んでしまうようなことはないでしょう。

と書いた端から正反対の方向に行くことに。考えに考えた末、ウルトラCの方法をとりました。

広東省の翁源(偶然“翁水”と似た名前です)。Monicaの実家のある町です。体調を考えれば、最も安全な策だと思っています。早ければ6月10日頃、遅ければ6月15日頃、Monica自身も一時帰省するので、今後の(治療などの)相談をします。

状況が回復せねば、Monicaの帰省までホテルでジッとしています。回復すれば、付近の山間部で、野生アジサイの探索を行います。状況がより酷くなったときは、Monicaの実家に世話になります。更に危険なときは、香港が近い(バスで4時間ほど)ので、日本に帰るという選択肢も採れます。

今日の午後の夜行列車で、明日広州に着き、夜には翁源に着くはずです(一度香港かセンツエンに寄るかも知れない)。ビザ更新時は香港に出れば良いし、それ以外は一箇所にいるので、交通費そのほかも余りかからず、次の年金まで充分持ちそうです。

年金受領後の中旬にはMonicaと一緒に昆明に戻り、病院でじっくりと検査を受けた後、すぐに雲南四川省境近くの“翁水村”に向かう予定です。もっとも、あくまで体の状態が良くなったら、の話で、でなければ絵に描いた餅。

今回「治療費用」そのほかは、N氏(およびT先生)に全面的にお世話になりました。大袈裟ではなく、命の恩人です。仕事は、新聞連載(6月下旬からにずれ込み)のほかは、企画が決まりかけている、複数の雑誌、単行本とも、最終決定まで一進一退の状況。企画が通ったわけではなく、といって企画が消滅したわけでもない。待ちの状態なのです。この段階で前払いを要求して、それによってせっかく纏まりかけた企画が潰れてしまう、というのがこれまでのパターンなので、今はじっと我慢の子です。

何度も何度も繰り返しお伝えしているように、僕の本職としての守備範囲は「中国の野生植物や昆虫」に関して。そのデータや写真の紹介は、基本的に活字媒体(単行本・雑誌・新聞など)で行い、そこから原稿料を頂いているわけですが、活字業界が未曾有の不況(日本人の「活字離れ」に加えて、「自然離れ」、「国内志向」、、、ことに中国への関心の低さ)にある最中、仕事を得るのも簡単ではなく、並行してインターネットのブログ上でも「仕事の一環として」発表し続けていこうと目論んでいるのです。

だから「野生生物を対象としたブログ記事は、本来援助者に向けての発信ゆえ、継続訪問をされる読者の方は何らかの形で自主的な協力を願いたい」と明記し続けているわけですが、誰一人として反応がない。毎日の訪問者数は、現在150人前後、これまでの“協力者”以外の「定期読者」も少なからずいるはずです。「非常に役に立つ内容で、いつも楽しく読ませて頂いています、でも協力するつもりはありません」そんな返答をしてくる方が、何人か存在します。

無人の新聞スタンドがあって「新聞を持っていかれる方は100円を入れて下さい」と書かれていたとします。誰も見ていないわけですから、100円を入れなくとも持っていくことは可能です。でも、新聞を受け取る代障として100円を入れる、これは人間として当たり前の行為です。

今回のような「(野生生物を対象とした)ブログを訪れる方は、自主的に協力頂きたい」といった要旨の、経済的あるいは体調面で窮地に置かれた故、改めて協力を請う文章を載せたときには、なぜか訪問者や閲覧者が一段と増えます。まあ、大多数の方々は、人の苦境を面白半分で見て、楽しんでいるわけですね。自分とは関係ない、自己責任だ、と。僕にはそのような人々が存在することが不思議でなりません。

それで、協力を頂けた方といえば、僕が趣味でアップしている(従って“援助には及ばない”と明記している)「アメリカン・ポップス」関係の読者のN氏。回りの人々は、氏のことを“変わったやつだ”と見ているのでしょうが、人の苦境を笑いながら見ていることの出来る、それらの人々のほうがずっと変なのではないかと僕は思う(でも数が多く、それが一般的となれば、別段問題はないわけですね)。彼らはいわば常識人なのでしょう、でも僕には実に卑しく感じられます。僕ならば、もしそのような記事が目に入ったなら、(N氏のような積極的な援助は無理としても)何らかの形で具体的に反応します。誰かに助けを求められれば(自分の出来る範囲で)それに応じる、というのが人間としてのあるべき道だと思うのです、、、。

さっき、昆明の駅前で、例の「チョーク女子大生」(僕のブログの“桂林物語”を参照)に遭遇しました。何も食べていなくて「3元(約45円)」を恵んでくれとのこと。ポケットを見たら小銭は2元だけ。「2元(約30円)しかないけれどごめんね」と差し上げました(まるで感謝してくれなかった、笑)。このお金は、N氏からの僕への、僕の生活費や、活動費用や、医療費用などに当てるための援助金です。だから、例えば僕が20元(約300円)を使って夕食を食べるのは、当然認められる行為でしょう。しかし、僕には、このお金の中から「見知らぬ人に2元を恵む権利はない」のでしょうか? ないのかも知れません。仮に「あなたにはその権利がないから人に2元を援助してはいけない」と言われても、僕は彼女に恵んで上げます。それによって非難されることになったとしても。

もちろん、20元、30元となれば、考えます。今の僕には大金ですから。でも2元なら、何かで埋め合わせをすることは充分に可能です(2玉5元の桂林米粉を1玉3元で我慢すれば良い)。それで、彼女が飢えから救われるのなら、なんの問題があるというのでしょうか。もっとも、本当かどうかはまったく分からない。嘘である可能性は限りなく高いでしょう。でも本当である可能性が全くないとも言えない。「お金がなくなったのは自己責任、人に頼るなんてもってのほか」というのは正論です。しかし、他人には諮りえぬ苦しい思いをしているのかも知れません(強盗に身包みを剥がされるとか)。2元でその苦しさを救ってあげることが出来るとしたら、お安いものです(実は僕は昨夜“1元=約15円”が足らなくて宿泊を断られ、終夜営業のマクドで一夜を過ごしたのですが)。

*僕は「チョーク女子大生」には非常な興味を持っていて、出来ることならドキュメンタリーとしてレポートを纏めたいのです。本人および取り巻く人々の実態を探ることで、「中国人とは何か?」という命題の側面が見えてくるように感じているのです。

僕の立場に置き換えようとは思わないけれど(思っているだろうって?)、僕はブログに於いて「中国の野生生物の貴重な“情報”を提供している、この情報を必要とする方には見返りを払っていただく」と明記しているのです。見返りの額を指定しているわけではありません。「1円しか価値がない」と思えば「1円」でもいいわけです。あるいは「自分にはその予算がない」ということならば「ある予算の範囲」でいいのです。本当に「1円も支払う余裕がない(1円の支払いでも手続きで結構かかってしまうことでしょうから)、でもブログは見たい」という方がいれば、そのように申し出てくだされば良い(実際、一人います、笑)。

今回、緊急の助けを求めた僕に反応してくださったのはN氏一人だけで、なおかつ望外の援助をしてくださっています。僕の本来の望みは、ブログの(野生生物の情報に関与した)読者の方々が、一人100円ずつでも援助してくださることを願っていたのですが。まあ、援助してくださらなかった読者の方々を恨むわけにはいかない。しかし、ニヤニヤしながら、面白半分に僕の窮状を楽しみつつ、“援助をしたN氏は変わった人”と傍観している人がいるとしたら、僕は猛烈な嫌悪を感じます。

まあ、そんなわけで、「ビートルズやアメリカンポップスが好き、ことにジョニーの“うつろなハート”が大好き」という“命の恩人”N氏に対する「お礼」の意味も込めて、「うつろなハート」を絡めての「ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代」【第6回】をアップする次第です。


I “謎”への入り口

「Empty Feeling/うつろなハート」。この曲は、ある意味、日本に於けるJohnny Tillotsonの位置付けを探る上で、エポックメイキング的な存在であるような気がします。そのことを記そうと書き始めたら、日本でのジョニーの軌跡の全てを追う破目になってしまいました(肝心の「うつろなハート」に対する記述は、後半に少し出てくるだけ)。

その前に断っておかねばならぬことが。今回記述していく内容は、以前に何度も繰り返し記述した内容とほぼ重なります。別段、以前の記述をなぞろうとしているつもりはないのですが、書き進めているうちに興味の対象がいつも同じところに向かってしまうのです。なお、今回はyou-tubeをはじめとする資料を一切参照していず、僕の記憶だけに頼って書き進めています。細かい内容(アルファベットの綴りや、ヒットチャートの順位などを含む)は多々間違いがあるかと思いますので、その旨ご了承下さい(間違いは判明次第、随時訂正していきます)。

あともうひとつ注約。先に記した「ブログの定期読者には(自主的な判断の上での)購読料金を希望する」というのは、あくまで僕の“本職”の「野生生物」に関する話題に於いてのこと。趣味でアップしている「Elvisと~」の読者に対してはその範囲ではないので、気兼ねなく訪れて頂きたいと考えています。

さて、やっと本題に入ります。「Judy, Judy, Judyの謎」「涙くんさよならの謎」を探っていくための、イントロダクションでもあります。

60年代初頭、本国アメリカでのジョニーは「ポエトリー・イン・モーション」や「ウイズアウト・ユー」などのヒット曲で、ティーン・アイドルの第一人者の一人として君臨していました。

ただし、他のアイドルたちと異なるところは、日本での知名度が全くなかったこと。日本の市場など無視してもよさそうに思うのですが、実際はそうでもなかったようです。60年代初頭、何人ものアイドルたちが相次いで来日しました。そして日本でもヒット曲を量産していました。ブライアン・ハイランドで例えれば、60~62年頃に於いてはジョニーに比べ圧倒的な知名度を誇っていました。正確に言えばジョニーの不戦敗。所属する米ケイデンスレコードが日本のどのレコード会社とも契約していなかったため、発売自体が叶わなかったわけです。

例えば「ポエトリー・イン・モーション」。4年後には日本でも発売され目出度く大ヒットとなるのですが、リアルタイムでは発売されなかったため、他の歌手のカバー盤でのみでしか聴くことが出来なかったのです。良く知られているのは「君に首ったけ」の日本題のボビー・ヴィー盤で、これはシングルB面に収められています。また同じ「君に首ったけ」の日本題で、マイナーな歌手(今確かめられないので分かり次第追加記入します)のシングルA面盤がyou-tube上に紹介されています。

ジョニー本人は以前から日本が好きだったと聞いていますし、(「こんなに愛して/Why Do I Love You So」「Judy, Judy, Judy」などアジア各国でのヒットも多数あることですから、アジア市場に力を入れていたことが推察出来ます。後の多数の日本語録音のほか、ドイツ語、イタリア語、フランス語、スペイン語などの各国語の作品も多数あり、国外での活躍を人一倍望んでいたはずです。だから日本でレコードを発売できない状況に対して、悔しい思いをしていたに違いありません。

数年後のミュージックライフ誌だったと思うのですが、こんな記事が載っていました。当時多大な人気を誇っていた洋楽D.J.高崎一郎氏の談話です。「私の事務所宛てに、自己の紹介と、日本でのオンエアーを願う文章を添えて、一枚のレコード(Poetry in Motion)が届いていた。こんな律儀な歌手は他に知らない」といった要旨で、ジョニーの熱心さと律儀さを褒め称えています。

ここで本国に於ける、ケイデンス時代のジョニーの航跡を簡単に(ちょっと斜めの方向から)チェックしておきましょう。

ティーンアイドル歌手たちは、一括りで認識されがちですが、一人ひとりの個性や方向性は、相当に異なっています。ジョニーはその中で最も典型的・平均的な“ティーンアイドル”と見られがち。しかし仔細にチェックすれば、個性にしても実績にしても、他の歌手とは相当に異質であることが知れます。個性はさておき、“実績”面では、意外な事実が少なからず見出されます。

まずデビュー(正式なリリース)は1958年9月。“24人衆”の中では比較的早いほうだと思います。「デビュー曲より初ヒットが後」、これはいくらでもあるパターンですね。ところがジョニーの場合は「デビュー曲より初ヒットのほうが先」、これは大変に珍しいケースだと重います。

デビュー曲は自作のラブバラード「夢見る瞳/Dreamy Eyes」。しかしこの曲がBillboard Hot100チャートに登場する前に、B面に収められた、ロックンロール曲(やはり自作)「Well, I’m Your Men」が一足先にランクインし、4週間留まって圏外に消え去ったあと、正式にはデビュー曲と認識されている「夢見る瞳」がランクインしたのです。

多くのティーンアイドル歌手は、現在では一応「ロック」のジャンルで括られています。しかし200曲を 超えるジョニーの録音曲のうち、純粋に「ロックンロール」と呼べる曲は、このデビューヒットの「ウエル・アイム・ユア・マン」を除いてほとんど存在しません(この曲はデビュー前の57年に録音されたC&W10数曲とともにデモテープにも収録されていて、それらの曲はのちに自家版アルバムとしてリリースされています、また、デビューに際して録音した曲のひとつに、リッキー・ネルソンのロックンロールヒットのカバー「アイ・ゴット・ア・フイーリング」があります)。

そして、“これぞロック”と呼べる曲がもうひとつ。デビューから52年後の2010年にリリースされた「ノット・イナフ」。なにか感慨深いものがありますね。

さて ジョニーの初ヒット「ウエル・アイム・ユア・マン」の87位というポジションは、下位ではありますが、一応幸先の良いスタートです。日本の音楽市場よりも遥かに巨大なアメリカのそれは、たとえ100位といっても、実質日本の(例えばオリコンの)ベスト10ぐらいに相当する価値があると思う。後で述べるように、別ジャンル(例えばC&W)のチャートや、地方の放送局のチャートなどで、No.1にランクされた曲であっても、BillboardのHot100では、100位内にランクされるかどうか、という位置付けなのです。

そのBillboard Hot100に登場した新人歌手の以降の航跡は、大きく4タイプに分けることが出来そうです。

●①いきなり大ブレーク。
例:ポールアンカ(「ダイアナ」)。

●②なかなか結果が出ず、何枚も不発を重ねた後、一気に大ブレーク。
例:ボビーヴィントン(「涙の紅バラ」)やトミーロー(「シェイラ」)。

●③まず下位でヒット、次いで大ブレーク。
例:ボビーヴィー(「スージー・ベイビー」→「デビル・オア・エンジェル」)、および雌臥後のロイ・オービソン(「アップ・タウン」→「オンリー・ザ・ロンリー」)。

●④幸先良く下位ヒットもそのまま消えてしまう。
“24人衆”にカウンティングされていない大多数。
(ロイ・オービソン、ブレンダ・リーらは、一度消えてから暫く後に大ブレーク)

ちなみに、いきなり大ブレークした後、続けて大ヒットを続けるのは稀(リッキー・ネルソンやエヴァリー・ブラザースなど少数)で、2~3曲後には消え去ってしまう、すなわち1発屋がむしろ主流です。上記のポール・アンカやブライアン・ハイランド(ブレイクは2曲目)にしても、一度は消えかかって、あわや一発屋になりかけているのです。

いずれにしろ、ほとんどの歌手の航跡が上記のパターン(または幾つかの組み合わせ)なのですが、ジョニーはそのどれにも当て嵌まりません。上記のように、幸先良く下位ヒットでスタートした後は、次は消え去るか大ブレークするかのどちらかなのだけれど、87位→63位→54位→43位と、下位キープのまま消えることなく、しかも少しづつ上昇しています。これは大変に難しい技なのだと思います。この後さらに57位/63位の両面ヒットを放ち、6曲連続40位(メジャーヒットの目安で40位以内曲だけを紹介するメディアも多い)以下のHot100チャートインを続けます。一曲も40位内チャート曲のない最多Hot100チャートイン記録保持者は「9曲」のスティーブ・アライモで、彼の場合は62年スタートですから、ジョニーの6曲というのは、この時点で記録保持者かも知れません。7曲目の「ポエトリー」での大ブレークも以降の計14曲のトップ40曲もなく、あと数曲こつこつとマイナーヒットを続けていたなら、別の意味で歴史に記録を残す存在になっていたのかも知れません。

アライモの本職はDJ兼タレント(デヴュー当時はジョニーもそうだったのですが)、マイナーヒット多数というアーティストは、C&WやR&Bやジャズの歌手、あるいは映画スターとか外国人歌手とか、別ジャンルの大物に多いパターンだと思います。アイドル歌手にあっては珍しいパターンなのです。

ほかのティーンアイドル歌手との違いの一つに、成功したアイドル歌手としては、際立ってリリースの数が少ない、ということが指摘出来ます。デビュー曲「夢見る瞳」のリリース(58年8月)のあと、1年近く経って「トゥルー・トゥルー・ハピネス」(59年5月)。以降、「こんなに愛して」(59年11月)、「アース・エンジェル」(60年4月)、「ポエトリー」(60年10月)と続き、「ポエトリー」での大ブレイク後も、「ジミーズ・ガール」(61年3月)、「ウイズアウト・ユー」(61年8月)、「涙ながらに」(62年4月)と、それぞれ結果が出されているのにも関わらず、リリース間隔が異常に長いのです。「夢の枕を」(62年7月)、「どうにも出来ない」(62年10月)の2曲に上記「涙ながらに」を加えた、同じアルバムからのカットの3曲の期間で、唯一一般的なリリース間隔となりますが、その後「涙でいっぱい」(63年2月)、「恋に弱い子」(63年7月)と、MGMに移ってからはともかく、ことCadence在席時は最後までスローペースのリリースなのです(ほかに企画もの、再発、移籍決定後のリリースが各1枚)。

ヒットに結びついていないのならともかく、いずれも結果を残している(「ポエトリー」以降は全曲Hot100の20位台以内)のですから、不思議です。

その理由は、ケイデンスのポリシー(所属アーティスト中の数少ない黒人歌手レニー・ウエルクのように、Hot100入りヒット曲がデビューシングル1つしかなかったアーティストでも、ジョニーとほぼ同じペースでリリースされていますし、エバリー兄弟のような超大物でも、リリース間隔は決して早くなかった)、または事情(予算がない?)によるものでしょうが、ジョニーの側にも事情があったのかも知れません。例えば、学業(ティーンアイドルでいる最中に博士号をとるのは大変なことと思う)とか、兵役とか、、、。

アルバムも少なく、普通、2~3曲のヒットを記録すれば、1枚や2枚のアルバムはリリースされるものです。ヒット9曲を積み重ねたところで初アルバム、しかもそれがベストヒット集というというのは異例でしょう。同時期にアルバムを量産していたボビー・ヴィー等と比べれば、その少なさは一目瞭然です。ケイデンス在籍5年間のうち、正式にリリースされたアルバムは3枚、うち3枚目は移籍直前の寄せ集めですから、実質、61年暮れから62年に相次いでリリースされた「ジョニー・ティロットソン・ベスト」と「涙ながらに」の2枚です。

しかし、この正反対のコンセプト(前者は「ポエトリー・イン・モーション」「ウイズアウト・ユー」を柱にした“ティーン・ポップス”集、後者は「涙ながらに」「夢の枕を」を柱とした“ポップ・カントリー・バラード”集)による2枚のアルバムは、実に計算され尽くした構成になっています。曲の配置が、唯一この並びしかないと思えるほど、見事に組まれている。「アルバム」としてひとつの作品になっているのです(ジョニーのアルバムはMGM移籍以降も一つ一つに独立した作品性が感じ取れます)。

発表曲が少ないのは残念ですが、ケイデンスの良い意味でのポリシー(実情は経済事情なのかも知れませんが、笑)と思えば、納得がいきます。以下に引くケイデンスのレーベルメイト、レニー・ウエルクの回想からも、そのことは伺い知れます。少々長くなりますが、彼へのインタビュー記事の中から、アーチ・ブレイヤーについての部分を抜粋しておきます。

Q -What kind of guy was Archie Bleyer.

A - Fabulous. He was a wonderful, wonderful, wonderful man. He knew the business. When I met him he was in his 50s or 60s. He used to go to the gym before he would come to the office. He owned Cadence Records. He was the arranger, the producer. He did everything. He mixed everything. He did everything himself. In my case, I was just a kid. I never had any experience traveling on the road. So he went out on the road with me. He was the conductor for The Arthur Godfrey Show. He was the musical conductor. When the show ended, he left and started his own record company. He married one of the Chordettes. He recorded them. "Mr. Sandman" was a big hit for them on his label. Then he had Julius La Rosa, Andy Williams. Many of Andy's big hits were with him. And he discovered The Everly Brothers. All of their big hits were with him. When they left him, they didn't really have any big hits like when they were with him. He also had Johnny Tillotson. Johnny and I are good friends today. Johnny thinks the world of Archie Bleyer and so do I.

大好き! 素敵な、素敵な、素敵な男。彼は商売を知っている。私が彼に出会ったとき、彼は50歳代か60歳代だった。He used to go to the gym before he would come to the office(*意味が良く分からない、、、、「彼はオフィスに来る前にジムに通った」で良いのかな?)。 彼はケイデンスレコードの社長で、アレンジャーであり、プロデューサーでもあった。彼は彼自身も含め、全てを取り仕切った。僕の場合、まるで子供のようだった。僕がまだ大きな旅をしたことが無かったときに、彼は僕を旅に連れ出してくれた。彼は(TVの)The Arthur Godfrey Showのミュージカル・コンダクターだった。そのショーが終わり、彼がそこから去ったあと、自らのレコード会社“ケイデンス”を立ち上げた。彼は、コーデッツのメンバーの一人と結婚した。そして共に作成した“Mr. サンドマン"は、彼のレーベルでの大ヒットとなった。そして、ジュリアス・ラ・ローサとアンディ・ウイリアムスを配下に擁した。数多くのアンディの大ヒット曲は、彼と共に成された。そしてまた、エバリー・ブラザースを発掘した。彼らの大ヒット曲群もまた、彼と共に作成された。彼の元を去ってから後は、彼と共に成されたときのような、真の意味での大ヒット曲は持ち得ていない。彼はまた、ジョニー・ティロットソンを擁した。ジョニーと僕は、今素敵な友達だ。ジョニーもアーチ・ブレイヤーの世界を、僕と同じように思っているだろう。

*なにしろ、今列車の中、ナップサックひとつの身で「辞書」もなければ、むろんネットの「自動翻訳機(ご存知かも知れませんが、これが大変な代物、ほとんど“お笑い”の世界です)」も使えない。したがって、おおむね感覚に頼った出鱈目翻訳なので、原文も併記しておきます。昆明-広州間26時間の時間つぶしに、原稿書きはちょうどいいのだけれど、バッテリーが充電出来ない。あと1時間ほどで無くなってしまうところです。

ケイデンスからリリースされたアンディーのアルバムは確か8枚、アルバムスターとして知られる割には意外に少ない数です。エヴァリーは6枚、うち一枚はアイドル歌手としては異質な(アイルランド民謡を中心とした)古い唄のカバー「Songs Our Daddy Taught Us」(これが素晴らしい!ジョニーの「涙ながらに」と双璧を成すアルバムと思っています)。

エヴァリーの在籍時も、日本のレーベルとの契約がなかったため、今では知らぬ人は居ないだろう彼らの大ヒット曲「バイバイラブ」や「夢を見るだけ」も、リアルタイムではほとんど知られていなかったものと思われます。当時エルヴィスの対抗馬であった彼らさえも、日本にあってはそのような状況だったわけで、後に「4エヴァリー(=ビートルズ)」「5エヴァリー(=ビーチボーイズ)」等として人口に介するようになってから、広く知れ渡るようになったのです。
 
62年、日本キングレコードが「セブンシーズ」という洋楽専門の配下レーベルを作り、ケイデンスと契約に至ります(エヴァリーやアンディーは既にメジャーレーベルに移籍)。ジョニーの全盛期であり、タイミング的にはベストのはずだったのですが、その最高のタイミングが逆に裏目に。

すなわち、「涙ながらに」(H3、C4、R6)、「夢の枕を」(A5、C11、H17)、「どうにも出来ない」(A8、H24)、「涙でいっぱい」(A11、H24)、「恋に弱い子」(A4、H18)と、当時連発していた本国ヒット曲が、日本ではまず受け入れられることのないC&Wバラード(その結果、ジョニーでもエヴァリーでもアンディーでもない、少年歌手エディー・ホッジスの「恋の売り込み」や「コーヒーデイト」が、ケイデンスレーベルの日本初ヒット曲となりました)。
*ジョニーとエディ・ホッジスのコンボアルバムが、ジョニーの日本でのブレイク前にリリースされています。

本国に於いても異例の立場に置かれていました。詳しい統計はそのうち紹介することにして、ここでは簡単に述べておきます。当時は「ポップ・カントリー」の全盛期。初期のエルヴィスも、ポップスとC&Wの両ジャンルをクロスオーバーし活躍していました。そもそもエルヴィスは、56年にポップス(ロックンロール)で大ブレークする依然の55年に、既にC&Wの分野でブレイクしていたのです。当時フロリダのラジオ局でDJをしていたジョニーが、いち早くエルヴィスを紹介した、という逸話もあります。

エルヴィスが、ポップス、C&W両分野で活躍し始めた年の翌57年、ジェリー・リー・ルイスをはじめとしたロックン・ローラー、リッキー・ネルソンやエヴァリー兄弟などのティーン・アイドル達が登場、彼らもポップスとC&Wの両分野に跨って、華々しい活動を開始します。50年代末のC&Wシーンは、若者の音楽(エルヴィスやルイスに代表される反抗的なロックンローラー、リッキーやエバリーに代表されるヤングアイドル)に占圧された状況に。古くから(従来の保守的な)C&W音楽を愛好してきた大人たちにとっては、面白くなかったのではないかと。

その結果、60年代に入って、C&Wの世界は、若いポップスターに対してピタリと門戸を閉ざしてしまいます。62年といえば、「ナッシュビルサウンド」「ポップカントリー」(これらの名称は今ではいろいろな解釈が成されていますが、最初は「ポップ歌手の唄うカントリー調の曲」という意味合いが強かったように思います、正確には「カントリーポップ」といったほうが良いのでしょうが)の全盛期です。

62年を挟んだ、61年後半から63年前半の、有名ポップ歌手のC&W調ヒット曲を思いつくままに取り上げてみます。

「好きにならずにいられない」エルヴィス・プレスリー
「恋のむせび泣き」ロイ・オービソン
「Don’t Break The Heart That Loves You」「Second Hand Love」コニー・フランシス
「フールNo.1」ブレンダ・リー
「愛さずにはいられない」「ユードントノーミー」「泣かずにはいられない」レイ・チャールス
「涙ながらに」「夢の枕を」ジョニー・ティロットソン
「愛しのジニー」「涙のくちづけ」ブライアン・ハイランド
「涙の紅バラ」「涙の太陽」ボビー・ヴィントン
「初恋の並木道」「君のための僕」ボビー・ダーリン
「河の娘パッチェス」デッキー・リー
「スイスの娘」デル・シャノン
「Be Careful of Stones That You Throw」ディオン
「ランブリン・ローズ」ナット・キング・コール
etc.

明らかにポップスの分野の歌手たち(上記のうち、ブレンダとディッキーの両リーは、後にC&Wへの移行に成功)ですが、曲は明らかにカントリー調です。 

このうち日本で受け入れられたのは、R&B界の大スター、レイ・チャールスの「愛さずにはいられない」と、同じく黒人のベテラン・ジャズボーカリスト、ナット・キング・コールの「ランブリン・ローズ」ぐらい。ほかの大多数は(ボビー・ダーリンの「初恋の並木道」とディキー・リーの「河の娘パッチェス」はいくらかヒットしたように記憶していますが)リアルタイムでは全く話題にならなかった。

本国アメリカでは、日本とはまた違った意味で、「C&W調のポップス曲」が、C&Wの世界に於いて、全く受け入れられなくなっていました。上記した(後述する唯一の例外のジョニーの2曲を除く)全ての曲をはじめ、ポップ歌手の唄うC&W調の曲は、(50年台末の盛況が嘘のように)C&Wのチャートに登場することは皆無だったのです。

さらに、C&Wの側の大物歌手のヒット曲も、ポップスの上位チャートには見出すことが出来なくなっていました。62年からは2~3年後ですが、分かりやすい例を挙げておきます。

「トークバック・トレンブリン・リップス」
アーネスト・アシュワーズ盤 C1位/P101位
ジョニー・テイロットソン盤 P7位/A6位

「ザ・レース・イズ・オン」
ジョージ・ジョーンズ盤 C2位/P96位
ジャック・ジョーンズ盤 P15位/A1位

若手女性C&W歌手コニー・スミスの大ヒット曲「ワンス・ア・デイ」なども、有名曲ゆえポップスでも上位にランクされたと思っていたのですが、実際は、C1位、P101位。おおむね、C&W1位がポップス100位あたりに相当する、そんなところではないかと思われます。

ということで62年度のC&Wチャートの中から、Popチャートとクロスオーバーしてランクインした曲を、徹底して調べてみました。20代の若手歌手で、両チャートの上位にランクされたのは、ジョニーの2曲(Pop3/C&W4、Pop17/C&W11)を除いて(Pop、C&W両陣営の歌手を合わせても)皆無!

唯一見つけたのが、英フォークグループ「スプリングフィールズ」の「金の針と銀の糸」(Pop20/C&W16)。実質、ダスティー・スプリングフィールドのソロボーカルですから、米国と英国、男女の差、カントリーとフォークの違いはあっても、誕生日も4日違い(ダスティ=1939.4.16、ジョニー=1939.4.20)の両者は、似たポジションのあったものと思われます。

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