「旧アカウントの停止」「部屋の退去」「痛風悪化」と、三重苦で、途方に暮れています。さりとて、どうすれば良いのか。アパートはモニカの試験の目処がつく10月中旬には、新たに確保する予定です。でも痛風のほうは、いかんともしようがない。モニカは「病気の治療が先決」というのですが(それはもちろん正論ではあるけれど)現実問題として、そうは言っていられない。「仕事の遂行」「予算の確保」「住む場所の確保」それによって、体勢を整えてからの治療ということになります。
他に選択肢も考えられないので、とりあえず地方(雲南北部の四川省境付近の翁水という集落)に移ります。理由はもちろん宿泊費が安いこと、そして(痛風さえ治まれば)取材・撮影活動を行えること。体調のこれ以上の悪化(現時点でも満足に歩くことは出来ないのですが)を防げるか否か、一か八かではあるのですが、まあ、死んでしまうようなことはないでしょう。
と書いた端から正反対の方向に行くことに。考えに考えた末、ウルトラCの方法をとりました。
広東省の翁源(偶然“翁水”と似た名前です)。Monicaの実家のある町です。体調を考えれば、最も安全な策だと思っています。早ければ6月10日頃、遅ければ6月15日頃、Monica自身も一時帰省するので、今後の(治療などの)相談をします。
状況が回復せねば、Monicaの帰省までホテルでジッとしています。回復すれば、付近の山間部で、野生アジサイの探索を行います。状況がより酷くなったときは、Monicaの実家に世話になります。更に危険なときは、香港が近い(バスで4時間ほど)ので、日本に帰るという選択肢も採れます。
今日の午後の夜行列車で、明日広州に着き、夜には翁源に着くはずです(一度香港かセンツエンに寄るかも知れない)。ビザ更新時は香港に出れば良いし、それ以外は一箇所にいるので、交通費そのほかも余りかからず、次の年金まで充分持ちそうです。
年金受領後の中旬にはMonicaと一緒に昆明に戻り、病院でじっくりと検査を受けた後、すぐに雲南四川省境近くの“翁水村”に向かう予定です。もっとも、あくまで体の状態が良くなったら、の話で、でなければ絵に描いた餅。
今回「治療費用」そのほかは、N氏(およびT先生)に全面的にお世話になりました。大袈裟ではなく、命の恩人です。仕事は、新聞連載(6月下旬からにずれ込み)のほかは、企画が決まりかけている、複数の雑誌、単行本とも、最終決定まで一進一退の状況。企画が通ったわけではなく、といって企画が消滅したわけでもない。待ちの状態なのです。この段階で前払いを要求して、それによってせっかく纏まりかけた企画が潰れてしまう、というのがこれまでのパターンなので、今はじっと我慢の子です。
何度も何度も繰り返しお伝えしているように、僕の本職としての守備範囲は「中国の野生植物や昆虫」に関して。そのデータや写真の紹介は、基本的に活字媒体(単行本・雑誌・新聞など)で行い、そこから原稿料を頂いているわけですが、活字業界が未曾有の不況(日本人の「活字離れ」に加えて、「自然離れ」、「国内志向」、、、ことに中国への関心の低さ)にある最中、仕事を得るのも簡単ではなく、並行してインターネットのブログ上でも「仕事の一環として」発表し続けていこうと目論んでいるのです。
だから「野生生物を対象としたブログ記事は、本来援助者に向けての発信ゆえ、継続訪問をされる読者の方は何らかの形で自主的な協力を願いたい」と明記し続けているわけですが、誰一人として反応がない。毎日の訪問者数は、現在150人前後、これまでの“協力者”以外の「定期読者」も少なからずいるはずです。「非常に役に立つ内容で、いつも楽しく読ませて頂いています、でも協力するつもりはありません」そんな返答をしてくる方が、何人か存在します。
無人の新聞スタンドがあって「新聞を持っていかれる方は100円を入れて下さい」と書かれていたとします。誰も見ていないわけですから、100円を入れなくとも持っていくことは可能です。でも、新聞を受け取る代障として100円を入れる、これは人間として当たり前の行為です。
今回のような「(野生生物を対象とした)ブログを訪れる方は、自主的に協力頂きたい」といった要旨の、経済的あるいは体調面で窮地に置かれた故、改めて協力を請う文章を載せたときには、なぜか訪問者や閲覧者が一段と増えます。まあ、大多数の方々は、人の苦境を面白半分で見て、楽しんでいるわけですね。自分とは関係ない、自己責任だ、と。僕にはそのような人々が存在することが不思議でなりません。
それで、協力を頂けた方といえば、僕が趣味でアップしている(従って“援助には及ばない”と明記している)「アメリカン・ポップス」関係の読者のN氏。回りの人々は、氏のことを“変わったやつだ”と見ているのでしょうが、人の苦境を笑いながら見ていることの出来る、それらの人々のほうがずっと変なのではないかと僕は思う(でも数が多く、それが一般的となれば、別段問題はないわけですね)。彼らはいわば常識人なのでしょう、でも僕には実に卑しく感じられます。僕ならば、もしそのような記事が目に入ったなら、(N氏のような積極的な援助は無理としても)何らかの形で具体的に反応します。誰かに助けを求められれば(自分の出来る範囲で)それに応じる、というのが人間としてのあるべき道だと思うのです、、、。
さっき、昆明の駅前で、例の「チョーク女子大生」(僕のブログの“桂林物語”を参照)に遭遇しました。何も食べていなくて「3元(約45円)」を恵んでくれとのこと。ポケットを見たら小銭は2元だけ。「2元(約30円)しかないけれどごめんね」と差し上げました(まるで感謝してくれなかった、笑)。このお金は、N氏からの僕への、僕の生活費や、活動費用や、医療費用などに当てるための援助金です。だから、例えば僕が20元(約300円)を使って夕食を食べるのは、当然認められる行為でしょう。しかし、僕には、このお金の中から「見知らぬ人に2元を恵む権利はない」のでしょうか? ないのかも知れません。仮に「あなたにはその権利がないから人に2元を援助してはいけない」と言われても、僕は彼女に恵んで上げます。それによって非難されることになったとしても。
もちろん、20元、30元となれば、考えます。今の僕には大金ですから。でも2元なら、何かで埋め合わせをすることは充分に可能です(2玉5元の桂林米粉を1玉3元で我慢すれば良い)。それで、彼女が飢えから救われるのなら、なんの問題があるというのでしょうか。もっとも、本当かどうかはまったく分からない。嘘である可能性は限りなく高いでしょう。でも本当である可能性が全くないとも言えない。「お金がなくなったのは自己責任、人に頼るなんてもってのほか」というのは正論です。しかし、他人には諮りえぬ苦しい思いをしているのかも知れません(強盗に身包みを剥がされるとか)。2元でその苦しさを救ってあげることが出来るとしたら、お安いものです(実は僕は昨夜“1元=約15円”が足らなくて宿泊を断られ、終夜営業のマクドで一夜を過ごしたのですが)。
*僕は「チョーク女子大生」には非常な興味を持っていて、出来ることならドキュメンタリーとしてレポートを纏めたいのです。本人および取り巻く人々の実態を探ることで、「中国人とは何か?」という命題の側面が見えてくるように感じているのです。
僕の立場に置き換えようとは思わないけれど(思っているだろうって?)、僕はブログに於いて「中国の野生生物の貴重な“情報”を提供している、この情報を必要とする方には見返りを払っていただく」と明記しているのです。見返りの額を指定しているわけではありません。「1円しか価値がない」と思えば「1円」でもいいわけです。あるいは「自分にはその予算がない」ということならば「ある予算の範囲」でいいのです。本当に「1円も支払う余裕がない(1円の支払いでも手続きで結構かかってしまうことでしょうから)、でもブログは見たい」という方がいれば、そのように申し出てくだされば良い(実際、一人います、笑)。
今回、緊急の助けを求めた僕に反応してくださったのはN氏一人だけで、なおかつ望外の援助をしてくださっています。僕の本来の望みは、ブログの(野生生物の情報に関与した)読者の方々が、一人100円ずつでも援助してくださることを願っていたのですが。まあ、援助してくださらなかった読者の方々を恨むわけにはいかない。しかし、ニヤニヤしながら、面白半分に僕の窮状を楽しみつつ、“援助をしたN氏は変わった人”と傍観している人がいるとしたら、僕は猛烈な嫌悪を感じます。
まあ、そんなわけで、「ビートルズやアメリカンポップスが好き、ことにジョニーの“うつろなハート”が大好き」という“命の恩人”N氏に対する「お礼」の意味も込めて、「うつろなハート」を絡めての「ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代」【第6回】をアップする次第です。
I “謎”への入り口
「Empty Feeling/うつろなハート」。この曲は、ある意味、日本に於けるJohnny Tillotsonの位置付けを探る上で、エポックメイキング的な存在であるような気がします。そのことを記そうと書き始めたら、日本でのジョニーの軌跡の全てを追う破目になってしまいました(肝心の「うつろなハート」に対する記述は、後半に少し出てくるだけ)。
その前に断っておかねばならぬことが。今回記述していく内容は、以前に何度も繰り返し記述した内容とほぼ重なります。別段、以前の記述をなぞろうとしているつもりはないのですが、書き進めているうちに興味の対象がいつも同じところに向かってしまうのです。なお、今回はyou-tubeをはじめとする資料を一切参照していず、僕の記憶だけに頼って書き進めています。細かい内容(アルファベットの綴りや、ヒットチャートの順位などを含む)は多々間違いがあるかと思いますので、その旨ご了承下さい(間違いは判明次第、随時訂正していきます)。
あともうひとつ注約。先に記した「ブログの定期読者には(自主的な判断の上での)購読料金を希望する」というのは、あくまで僕の“本職”の「野生生物」に関する話題に於いてのこと。趣味でアップしている「Elvisと~」の読者に対してはその範囲ではないので、気兼ねなく訪れて頂きたいと考えています。
さて、やっと本題に入ります。「Judy, Judy, Judyの謎」「涙くんさよならの謎」を探っていくための、イントロダクションでもあります。
60年代初頭、本国アメリカでのジョニーは「ポエトリー・イン・モーション」や「ウイズアウト・ユー」などのヒット曲で、ティーン・アイドルの第一人者の一人として君臨していました。
ただし、他のアイドルたちと異なるところは、日本での知名度が全くなかったこと。日本の市場など無視してもよさそうに思うのですが、実際はそうでもなかったようです。60年代初頭、何人ものアイドルたちが相次いで来日しました。そして日本でもヒット曲を量産していました。ブライアン・ハイランドで例えれば、60~62年頃に於いてはジョニーに比べ圧倒的な知名度を誇っていました。正確に言えばジョニーの不戦敗。所属する米ケイデンスレコードが日本のどのレコード会社とも契約していなかったため、発売自体が叶わなかったわけです。
例えば「ポエトリー・イン・モーション」。4年後には日本でも発売され目出度く大ヒットとなるのですが、リアルタイムでは発売されなかったため、他の歌手のカバー盤でのみでしか聴くことが出来なかったのです。良く知られているのは「君に首ったけ」の日本題のボビー・ヴィー盤で、これはシングルB面に収められています。また同じ「君に首ったけ」の日本題で、マイナーな歌手(今確かめられないので分かり次第追加記入します)のシングルA面盤がyou-tube上に紹介されています。
ジョニー本人は以前から日本が好きだったと聞いていますし、(「こんなに愛して/Why Do I Love You So」「Judy, Judy, Judy」などアジア各国でのヒットも多数あることですから、アジア市場に力を入れていたことが推察出来ます。後の多数の日本語録音のほか、ドイツ語、イタリア語、フランス語、スペイン語などの各国語の作品も多数あり、国外での活躍を人一倍望んでいたはずです。だから日本でレコードを発売できない状況に対して、悔しい思いをしていたに違いありません。
数年後のミュージックライフ誌だったと思うのですが、こんな記事が載っていました。当時多大な人気を誇っていた洋楽D.J.高崎一郎氏の談話です。「私の事務所宛てに、自己の紹介と、日本でのオンエアーを願う文章を添えて、一枚のレコード(Poetry in Motion)が届いていた。こんな律儀な歌手は他に知らない」といった要旨で、ジョニーの熱心さと律儀さを褒め称えています。
ここで本国に於ける、ケイデンス時代のジョニーの航跡を簡単に(ちょっと斜めの方向から)チェックしておきましょう。
ティーンアイドル歌手たちは、一括りで認識されがちですが、一人ひとりの個性や方向性は、相当に異なっています。ジョニーはその中で最も典型的・平均的な“ティーンアイドル”と見られがち。しかし仔細にチェックすれば、個性にしても実績にしても、他の歌手とは相当に異質であることが知れます。個性はさておき、“実績”面では、意外な事実が少なからず見出されます。
まずデビュー(正式なリリース)は1958年9月。“24人衆”の中では比較的早いほうだと思います。「デビュー曲より初ヒットが後」、これはいくらでもあるパターンですね。ところがジョニーの場合は「デビュー曲より初ヒットのほうが先」、これは大変に珍しいケースだと重います。
デビュー曲は自作のラブバラード「夢見る瞳/Dreamy Eyes」。しかしこの曲がBillboard Hot100チャートに登場する前に、B面に収められた、ロックンロール曲(やはり自作)「Well, I’m Your Men」が一足先にランクインし、4週間留まって圏外に消え去ったあと、正式にはデビュー曲と認識されている「夢見る瞳」がランクインしたのです。
多くのティーンアイドル歌手は、現在では一応「ロック」のジャンルで括られています。しかし200曲を 超えるジョニーの録音曲のうち、純粋に「ロックンロール」と呼べる曲は、このデビューヒットの「ウエル・アイム・ユア・マン」を除いてほとんど存在しません(この曲はデビュー前の57年に録音されたC&W10数曲とともにデモテープにも収録されていて、それらの曲はのちに自家版アルバムとしてリリースされています、また、デビューに際して録音した曲のひとつに、リッキー・ネルソンのロックンロールヒットのカバー「アイ・ゴット・ア・フイーリング」があります)。
そして、“これぞロック”と呼べる曲がもうひとつ。デビューから52年後の2010年にリリースされた「ノット・イナフ」。なにか感慨深いものがありますね。
さて ジョニーの初ヒット「ウエル・アイム・ユア・マン」の87位というポジションは、下位ではありますが、一応幸先の良いスタートです。日本の音楽市場よりも遥かに巨大なアメリカのそれは、たとえ100位といっても、実質日本の(例えばオリコンの)ベスト10ぐらいに相当する価値があると思う。後で述べるように、別ジャンル(例えばC&W)のチャートや、地方の放送局のチャートなどで、No.1にランクされた曲であっても、BillboardのHot100では、100位内にランクされるかどうか、という位置付けなのです。
そのBillboard Hot100に登場した新人歌手の以降の航跡は、大きく4タイプに分けることが出来そうです。
●①いきなり大ブレーク。
例:ポールアンカ(「ダイアナ」)。
●②なかなか結果が出ず、何枚も不発を重ねた後、一気に大ブレーク。
例:ボビーヴィントン(「涙の紅バラ」)やトミーロー(「シェイラ」)。
●③まず下位でヒット、次いで大ブレーク。
例:ボビーヴィー(「スージー・ベイビー」→「デビル・オア・エンジェル」)、および雌臥後のロイ・オービソン(「アップ・タウン」→「オンリー・ザ・ロンリー」)。
●④幸先良く下位ヒットもそのまま消えてしまう。
“24人衆”にカウンティングされていない大多数。
(ロイ・オービソン、ブレンダ・リーらは、一度消えてから暫く後に大ブレーク)
ちなみに、いきなり大ブレークした後、続けて大ヒットを続けるのは稀(リッキー・ネルソンやエヴァリー・ブラザースなど少数)で、2~3曲後には消え去ってしまう、すなわち1発屋がむしろ主流です。上記のポール・アンカやブライアン・ハイランド(ブレイクは2曲目)にしても、一度は消えかかって、あわや一発屋になりかけているのです。
いずれにしろ、ほとんどの歌手の航跡が上記のパターン(または幾つかの組み合わせ)なのですが、ジョニーはそのどれにも当て嵌まりません。上記のように、幸先良く下位ヒットでスタートした後は、次は消え去るか大ブレークするかのどちらかなのだけれど、87位→63位→54位→43位と、下位キープのまま消えることなく、しかも少しづつ上昇しています。これは大変に難しい技なのだと思います。この後さらに57位/63位の両面ヒットを放ち、6曲連続40位(メジャーヒットの目安で40位以内曲だけを紹介するメディアも多い)以下のHot100チャートインを続けます。一曲も40位内チャート曲のない最多Hot100チャートイン記録保持者は「9曲」のスティーブ・アライモで、彼の場合は62年スタートですから、ジョニーの6曲というのは、この時点で記録保持者かも知れません。7曲目の「ポエトリー」での大ブレークも以降の計14曲のトップ40曲もなく、あと数曲こつこつとマイナーヒットを続けていたなら、別の意味で歴史に記録を残す存在になっていたのかも知れません。
アライモの本職はDJ兼タレント(デヴュー当時はジョニーもそうだったのですが)、マイナーヒット多数というアーティストは、C&WやR&Bやジャズの歌手、あるいは映画スターとか外国人歌手とか、別ジャンルの大物に多いパターンだと思います。アイドル歌手にあっては珍しいパターンなのです。
ほかのティーンアイドル歌手との違いの一つに、成功したアイドル歌手としては、際立ってリリースの数が少ない、ということが指摘出来ます。デビュー曲「夢見る瞳」のリリース(58年8月)のあと、1年近く経って「トゥルー・トゥルー・ハピネス」(59年5月)。以降、「こんなに愛して」(59年11月)、「アース・エンジェル」(60年4月)、「ポエトリー」(60年10月)と続き、「ポエトリー」での大ブレイク後も、「ジミーズ・ガール」(61年3月)、「ウイズアウト・ユー」(61年8月)、「涙ながらに」(62年4月)と、それぞれ結果が出されているのにも関わらず、リリース間隔が異常に長いのです。「夢の枕を」(62年7月)、「どうにも出来ない」(62年10月)の2曲に上記「涙ながらに」を加えた、同じアルバムからのカットの3曲の期間で、唯一一般的なリリース間隔となりますが、その後「涙でいっぱい」(63年2月)、「恋に弱い子」(63年7月)と、MGMに移ってからはともかく、ことCadence在席時は最後までスローペースのリリースなのです(ほかに企画もの、再発、移籍決定後のリリースが各1枚)。
ヒットに結びついていないのならともかく、いずれも結果を残している(「ポエトリー」以降は全曲Hot100の20位台以内)のですから、不思議です。
その理由は、ケイデンスのポリシー(所属アーティスト中の数少ない黒人歌手レニー・ウエルクのように、Hot100入りヒット曲がデビューシングル1つしかなかったアーティストでも、ジョニーとほぼ同じペースでリリースされていますし、エバリー兄弟のような超大物でも、リリース間隔は決して早くなかった)、または事情(予算がない?)によるものでしょうが、ジョニーの側にも事情があったのかも知れません。例えば、学業(ティーンアイドルでいる最中に博士号をとるのは大変なことと思う)とか、兵役とか、、、。
アルバムも少なく、普通、2~3曲のヒットを記録すれば、1枚や2枚のアルバムはリリースされるものです。ヒット9曲を積み重ねたところで初アルバム、しかもそれがベストヒット集というというのは異例でしょう。同時期にアルバムを量産していたボビー・ヴィー等と比べれば、その少なさは一目瞭然です。ケイデンス在籍5年間のうち、正式にリリースされたアルバムは3枚、うち3枚目は移籍直前の寄せ集めですから、実質、61年暮れから62年に相次いでリリースされた「ジョニー・ティロットソン・ベスト」と「涙ながらに」の2枚です。
しかし、この正反対のコンセプト(前者は「ポエトリー・イン・モーション」「ウイズアウト・ユー」を柱にした“ティーン・ポップス”集、後者は「涙ながらに」「夢の枕を」を柱とした“ポップ・カントリー・バラード”集)による2枚のアルバムは、実に計算され尽くした構成になっています。曲の配置が、唯一この並びしかないと思えるほど、見事に組まれている。「アルバム」としてひとつの作品になっているのです(ジョニーのアルバムはMGM移籍以降も一つ一つに独立した作品性が感じ取れます)。
発表曲が少ないのは残念ですが、ケイデンスの良い意味でのポリシー(実情は経済事情なのかも知れませんが、笑)と思えば、納得がいきます。以下に引くケイデンスのレーベルメイト、レニー・ウエルクの回想からも、そのことは伺い知れます。少々長くなりますが、彼へのインタビュー記事の中から、アーチ・ブレイヤーについての部分を抜粋しておきます。
Q -What kind of guy was Archie Bleyer.
A - Fabulous. He was a wonderful, wonderful, wonderful man. He knew the business. When I met him he was in his 50s or 60s. He used to go to the gym before he would come to the office. He owned Cadence Records. He was the arranger, the producer. He did everything. He mixed everything. He did everything himself. In my case, I was just a kid. I never had any experience traveling on the road. So he went out on the road with me. He was the conductor for The Arthur Godfrey Show. He was the musical conductor. When the show ended, he left and started his own record company. He married one of the Chordettes. He recorded them. "Mr. Sandman" was a big hit for them on his label. Then he had Julius La Rosa, Andy Williams. Many of Andy's big hits were with him. And he discovered The Everly Brothers. All of their big hits were with him. When they left him, they didn't really have any big hits like when they were with him. He also had Johnny Tillotson. Johnny and I are good friends today. Johnny thinks the world of Archie Bleyer and so do I.
大好き! 素敵な、素敵な、素敵な男。彼は商売を知っている。私が彼に出会ったとき、彼は50歳代か60歳代だった。He used to go to the gym before he would come to the office(*意味が良く分からない、、、、「彼はオフィスに来る前にジムに通った」で良いのかな?)。 彼はケイデンスレコードの社長で、アレンジャーであり、プロデューサーでもあった。彼は彼自身も含め、全てを取り仕切った。僕の場合、まるで子供のようだった。僕がまだ大きな旅をしたことが無かったときに、彼は僕を旅に連れ出してくれた。彼は(TVの)The Arthur Godfrey Showのミュージカル・コンダクターだった。そのショーが終わり、彼がそこから去ったあと、自らのレコード会社“ケイデンス”を立ち上げた。彼は、コーデッツのメンバーの一人と結婚した。そして共に作成した“Mr. サンドマン"は、彼のレーベルでの大ヒットとなった。そして、ジュリアス・ラ・ローサとアンディ・ウイリアムスを配下に擁した。数多くのアンディの大ヒット曲は、彼と共に成された。そしてまた、エバリー・ブラザースを発掘した。彼らの大ヒット曲群もまた、彼と共に作成された。彼の元を去ってから後は、彼と共に成されたときのような、真の意味での大ヒット曲は持ち得ていない。彼はまた、ジョニー・ティロットソンを擁した。ジョニーと僕は、今素敵な友達だ。ジョニーもアーチ・ブレイヤーの世界を、僕と同じように思っているだろう。
*なにしろ、今列車の中、ナップサックひとつの身で「辞書」もなければ、むろんネットの「自動翻訳機(ご存知かも知れませんが、これが大変な代物、ほとんど“お笑い”の世界です)」も使えない。したがって、おおむね感覚に頼った出鱈目翻訳なので、原文も併記しておきます。昆明-広州間26時間の時間つぶしに、原稿書きはちょうどいいのだけれど、バッテリーが充電出来ない。あと1時間ほどで無くなってしまうところです。
ケイデンスからリリースされたアンディーのアルバムは確か8枚、アルバムスターとして知られる割には意外に少ない数です。エヴァリーは6枚、うち一枚はアイドル歌手としては異質な(アイルランド民謡を中心とした)古い唄のカバー「Songs Our Daddy Taught Us」(これが素晴らしい!ジョニーの「涙ながらに」と双璧を成すアルバムと思っています)。
エヴァリーの在籍時も、日本のレーベルとの契約がなかったため、今では知らぬ人は居ないだろう彼らの大ヒット曲「バイバイラブ」や「夢を見るだけ」も、リアルタイムではほとんど知られていなかったものと思われます。当時エルヴィスの対抗馬であった彼らさえも、日本にあってはそのような状況だったわけで、後に「4エヴァリー(=ビートルズ)」「5エヴァリー(=ビーチボーイズ)」等として人口に介するようになってから、広く知れ渡るようになったのです。
62年、日本キングレコードが「セブンシーズ」という洋楽専門の配下レーベルを作り、ケイデンスと契約に至ります(エヴァリーやアンディーは既にメジャーレーベルに移籍)。ジョニーの全盛期であり、タイミング的にはベストのはずだったのですが、その最高のタイミングが逆に裏目に。
すなわち、「涙ながらに」(H3、C4、R6)、「夢の枕を」(A5、C11、H17)、「どうにも出来ない」(A8、H24)、「涙でいっぱい」(A11、H24)、「恋に弱い子」(A4、H18)と、当時連発していた本国ヒット曲が、日本ではまず受け入れられることのないC&Wバラード(その結果、ジョニーでもエヴァリーでもアンディーでもない、少年歌手エディー・ホッジスの「恋の売り込み」や「コーヒーデイト」が、ケイデンスレーベルの日本初ヒット曲となりました)。
*ジョニーとエディ・ホッジスのコンボアルバムが、ジョニーの日本でのブレイク前にリリースされています。
本国に於いても異例の立場に置かれていました。詳しい統計はそのうち紹介することにして、ここでは簡単に述べておきます。当時は「ポップ・カントリー」の全盛期。初期のエルヴィスも、ポップスとC&Wの両ジャンルをクロスオーバーし活躍していました。そもそもエルヴィスは、56年にポップス(ロックンロール)で大ブレークする依然の55年に、既にC&Wの分野でブレイクしていたのです。当時フロリダのラジオ局でDJをしていたジョニーが、いち早くエルヴィスを紹介した、という逸話もあります。
エルヴィスが、ポップス、C&W両分野で活躍し始めた年の翌57年、ジェリー・リー・ルイスをはじめとしたロックン・ローラー、リッキー・ネルソンやエヴァリー兄弟などのティーン・アイドル達が登場、彼らもポップスとC&Wの両分野に跨って、華々しい活動を開始します。50年代末のC&Wシーンは、若者の音楽(エルヴィスやルイスに代表される反抗的なロックンローラー、リッキーやエバリーに代表されるヤングアイドル)に占圧された状況に。古くから(従来の保守的な)C&W音楽を愛好してきた大人たちにとっては、面白くなかったのではないかと。
その結果、60年代に入って、C&Wの世界は、若いポップスターに対してピタリと門戸を閉ざしてしまいます。62年といえば、「ナッシュビルサウンド」「ポップカントリー」(これらの名称は今ではいろいろな解釈が成されていますが、最初は「ポップ歌手の唄うカントリー調の曲」という意味合いが強かったように思います、正確には「カントリーポップ」といったほうが良いのでしょうが)の全盛期です。
62年を挟んだ、61年後半から63年前半の、有名ポップ歌手のC&W調ヒット曲を思いつくままに取り上げてみます。
「好きにならずにいられない」エルヴィス・プレスリー
「恋のむせび泣き」ロイ・オービソン
「Don’t Break The Heart That Loves You」「Second Hand Love」コニー・フランシス
「フールNo.1」ブレンダ・リー
「愛さずにはいられない」「ユードントノーミー」「泣かずにはいられない」レイ・チャールス
「涙ながらに」「夢の枕を」ジョニー・ティロットソン
「愛しのジニー」「涙のくちづけ」ブライアン・ハイランド
「涙の紅バラ」「涙の太陽」ボビー・ヴィントン
「初恋の並木道」「君のための僕」ボビー・ダーリン
「河の娘パッチェス」デッキー・リー
「スイスの娘」デル・シャノン
「Be Careful of Stones That You Throw」ディオン
「ランブリン・ローズ」ナット・キング・コール
etc.
明らかにポップスの分野の歌手たち(上記のうち、ブレンダとディッキーの両リーは、後にC&Wへの移行に成功)ですが、曲は明らかにカントリー調です。
このうち日本で受け入れられたのは、R&B界の大スター、レイ・チャールスの「愛さずにはいられない」と、同じく黒人のベテラン・ジャズボーカリスト、ナット・キング・コールの「ランブリン・ローズ」ぐらい。ほかの大多数は(ボビー・ダーリンの「初恋の並木道」とディキー・リーの「河の娘パッチェス」はいくらかヒットしたように記憶していますが)リアルタイムでは全く話題にならなかった。
本国アメリカでは、日本とはまた違った意味で、「C&W調のポップス曲」が、C&Wの世界に於いて、全く受け入れられなくなっていました。上記した(後述する唯一の例外のジョニーの2曲を除く)全ての曲をはじめ、ポップ歌手の唄うC&W調の曲は、(50年台末の盛況が嘘のように)C&Wのチャートに登場することは皆無だったのです。
さらに、C&Wの側の大物歌手のヒット曲も、ポップスの上位チャートには見出すことが出来なくなっていました。62年からは2~3年後ですが、分かりやすい例を挙げておきます。
「トークバック・トレンブリン・リップス」
アーネスト・アシュワーズ盤 C1位/P101位
ジョニー・テイロットソン盤 P7位/A6位
「ザ・レース・イズ・オン」
ジョージ・ジョーンズ盤 C2位/P96位
ジャック・ジョーンズ盤 P15位/A1位
若手女性C&W歌手コニー・スミスの大ヒット曲「ワンス・ア・デイ」なども、有名曲ゆえポップスでも上位にランクされたと思っていたのですが、実際は、C1位、P101位。おおむね、C&W1位がポップス100位あたりに相当する、そんなところではないかと思われます。
ということで62年度のC&Wチャートの中から、Popチャートとクロスオーバーしてランクインした曲を、徹底して調べてみました。20代の若手歌手で、両チャートの上位にランクされたのは、ジョニーの2曲(Pop3/C&W4、Pop17/C&W11)を除いて(Pop、C&W両陣営の歌手を合わせても)皆無!
唯一見つけたのが、英フォークグループ「スプリングフィールズ」の「金の針と銀の糸」(Pop20/C&W16)。実質、ダスティー・スプリングフィールドのソロボーカルですから、米国と英国、男女の差、カントリーとフォークの違いはあっても、誕生日も4日違い(ダスティ=1939.4.16、ジョニー=1939.4.20)の両者は、似たポジションのあったものと思われます。