核戦争への緊迫13日間のキューバ危機、今、連載中の日経“私の履歴書”を読む(2010.12.10)

2010-12-10 17:43:32 | Weblog

"*左;ボブ・ディランは、このとき、“第3次世界大戦を語るブルース”を作り歌った。このLP(CD)にあります。右;朝日新聞縮刷版から。

 ワタシは、新聞を後の面からめくります。日本経済新聞の読者は、特にそうだと聞いたことがあります。日経の最終面はテレビ番組表ではありません。文化面です。“私の履歴書”があります。
 ワタシは、“私の履歴書”必ず読むということではありません。が、たまたま、読んで、古新聞にさかのぼって読むことも多いのです。功成りとげたというか、堂々たる人生を送られた人たちの回顧録は、作り話である小説、文学よりはるかに面白い、・・・ことがあります。

 今(2010年12月)に連載中の、William J.Perry(ウィリアム・J・ペリー)さんの“私の履歴書”もそうです。

*日本経済新聞2010年12月8,9日付。

 このブログで、10日ほど前(11月24日)に、ボブ・ディランの第3次世界大戦を語るブルースとキューバ危機のことを書きました。<ここクリック>
 そのキューバ危機の超?当事者が、今、キューバ危機の話を書いておられることに、昨日気がついたのです。その偶然に少し驚きます。

 1960年代初め、米国とソ連の対立は、激しいミサイル競争の中にありました。

 ・・・少し引用します。
 <1962年10月14日、米空軍のU2偵察機がキューバ国内に不穏な物体が設置されていることを発見した。米本土を射程内に収めるソ連製の弾道ミサイルである。その後、U2が別の場所で撮った写真には、3基の中距離弾道ミサイル(IRBM)がその切っ先を米本土に定めている姿がはっきり写っていた。これが、世界を揺るがした13日間、いわゆるキューバ危機の始まりだった。>

 <10月18日、ケネディ米大統領はソ連外相のアンドレイ・グロムイコをホワイトハウスに呼び、ソ連にキューバ国内での核弾道ミサイル撤去を迫った。>

 <その4日後の22日には全米に向けてテレビ演説をし、米国民に危機の全容を公表した。>

 <米側の要求に対して、ソ連のフルシチョフ首相は当初、全面対決の姿勢を崩さなかった。ミサイル搬入を阻止するための海上封鎖に対して、彼はこれを無視するかのようにミサイルを搭載した艦船をキューバに向かわせている。>
 <キューバのカストロ政権も臨戦態勢に入ったことを知った米側はキューバから攻撃があった場合、それをソ連によるものとみなして報復すると発表。>

 <この時、米ソ両国は文字通り、全面核戦争の瀬戸際に立っていた。>

 <10月25日、急きょ開催した国連の安全保障理事会の席上、スティーブンソン国連大使はキューバのミサイル基地を撮影した証拠写真を公開した>
 <翌日(26日)、ソ連から妥協案が示される。米側がキューバへの軍事行動を自制するなら、核ミサイルを撤去させるというのである。翌27日には、米国がトルコに配備していた弾道ミサイルの撤退も条件に加えてきた。>

 <米東部時間、10月28日午前9時、フルシチョフ首相はモスクワ放送を通じて、キューバからミサイルを撤去すると発表した。>

*その時のニューヨークタイムス(1962年10月23日付1面)

 <世界が固唾をのんだ緊迫の「13日間」はこうして幕を閉じた。>

 “私の履歴書”だけではよくわかりませんが、筆者のウィリアム J ペリーは、その時33歳でしょうか。防衛産業で電子戦を研究していた技術者であって、ホワイトハウス内の国家安全保障会議に関わっていたのです。

 ウィリアム・J・ペリーさんは、12月9日の原稿の最後に、次のように書いているのです。
 <この時の経験はもちろん、私の人生観に決定的な影響を与えた。そして、それが後に私を「核なき世界」の実現という壮大な目標へと導いていくのである。>

  【おまけ】

*今日は、まだ12月10日。ペリーの私の履歴書は、12月31日まで続きます。まだ、20日あります。

*最終的に、米国国務長官になるペリーのこの後、どう、「核なき世界」の実現という壮大な目標に向かったのかを読んでいきたい、と思うのです。

*日経は、後ろのページから、しばらく真っ先に“私の履歴書”を読むことになります。

*このペリーさんは、江戸時代、幕末に、浦賀沖にあらわれた米国艦隊(黒船)のペリー提督の遠縁のようです。


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