*大本山総持寺直末・那須与一公菩提寺・禅洞山・永祥寺、江戸時代には大伽藍のお寺だったようだ。
私が岡山県の山地(西江原)で過ごしたのは、18歳まで、昭和20年代、30年代のことです。その日その日を生きていくこと、食べることにせいっぱいの時代だったはずです。
40年ぶりに郷里を、私が子どものころに聞いていた伝説をなぞって歩いてみます。源氏と平家の戦、屋島の合戦のおり、扇の的を射た源氏の若武者・那須与一が褒美に与えられた荘(くに)が、私が育った荏原(江原)の荘だったのです。
今の子どもらは、那須与一も、扇の的の故事も知らないでしょう。学校の歴史の授業には出てこないでしょう。
源氏の天下になって、那須与一が荏原の荘に来た記録はありませんが、お墓があります。もっとも那須与一の墓は、全国に2つも3つもあるようです。
その菩提寺が永祥寺です。ウチから4キロぐらいの所で、遊び場であったわけではありません。
子どものころの行動範囲は、徒歩圏せいぜい1キロ四方の狭い範囲でした。
それから、もうひとつ。その永祥寺の裏山に、ぽつんと草むらの中にあるお墓を訪ねました。
子どものころには、全く知らなかったお墓です。3、4年前、突然知ってブログに書いています。<ここクリック>
忠臣蔵の話は、よく知っています。日本全国知らない人はいないでしょう。赤穂藩浅野家のお家断絶です。その浅野家の後に赤穂藩に入ったのが、西江原藩の森家だったのです。そのシーンは、映画の何本も見たはずだったのですが、郷里・西江原藩が登場していたなんて、全く知らなかったのです。
そこに、<もう一人の浅野内匠頭>の悲劇が、同じ時代にあったのです。狂っただけで幕府にたてつく遺志はなかったとされ、お家安泰のため、西江原藩屋敷に蟄居幽閉され、生涯を終えた関衆利です。
関衆利のお墓を訪ねました。お墓をなで、心の中で、無念さを感じ取りました。
子どものころ、誰からも聞いたことのない話だったのです。長い間、西江原では、タブーだったのかも知れません。
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