蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

WBC世界チャンピオン―日本優勝―おめでとう!

2006-03-21 16:26:12 | 時事所感
3月21日(火) 晴れ。やや雲多し、暖。

本日、14時50分、“10対6”で日本がキューウバを降しWBC世界チャンピオンになった。イチローの声も潤んだ。王監督も目元を拭った。初回、日本はキューバの先発投手の出来の悪さで4点の先制、幸先のいい出足をきった。
 しかし、底力を秘めたキューバからは一瞬の目も離せなかった、案の上途中1点差まで追い上げられたが、日本もさすがである。9回表に4点を追加し歴史的な勝利を収めた。よかった。日本代表チームの皆さんおめでとう!。

 このところトリノオリンピックでも振るわなかった日本男子の心意気を久しぶりに見せてもらえてうれしかった。

 そして、何よりも痛快なのは、13日の誤審審判に象徴されるアメリカの夜郎自大ぶりに一矢報いることができたことである。

 今の日本は、格差拡大の懸念もあるが、経済の復調への確かな足取り、その間一部で蠢動・増殖の気配があった輩もモグサすえられ檻の中、ここしばらくは感じられなかった先行きへの仄かな明るさがある。
 とにかく山家の隠居にとっては、春の桜前線が待ち遠しい。今回の快挙はそんな桜前線の前触れを思わせる。

 なんて言うと、「何とおめでたいお前はアホか」と、あさっての方から姿見えない礫が飛んできそうな気配もするが、根がおっちょこちょいの生まれつき、悲観してあれこれ心配するよりは、「やっぱりこんなものか」と後でがっかりするほうが身のためだ。

 それにしても、普段はあまり縁のないキューバという国、たいしたものだ。1100万人ぐらいの小国が、世界一の大帝国の喉下に付き刺さった鯵の小骨となっている。
 長年の経済制裁にも屈せず、それでいてカストロ独裁国家でありながら、粛清とか弾圧とかの血なまぐさく悲惨な話も、遠くて報道されないのか、事実無いのか余り聞かない。

 どこかの国と違って国民大衆が、によほどへそ曲がりが多いのか、根性があるのか、どうだろう。

 と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?。

―直線の川(釧路川)を再び蛇行に―いい話じゃないですか!

2006-03-21 02:14:54 | 時事所感
 3月20日(月)晴れ。風強く、夕方より寒気強まる。

 今朝の日経、社会面の小さな囲み記事が目を引いた。

 記事には、
『国内最大の湿原、北海道・釧路湿原を流れる釧路川の一部で、工事で直線化した川を元の蛇行したながれに戻す計画を、北海道開発局釧路開発建設部が進めている。
 水の氾濫などによって湿原本来の環境を復元するのが目的で、同部によると自然再生のために川の流れを戻す事業は全国で初めて。
 工費が十数億円と見込まれていることから「二重の公共工事」との批判があるほか、効果にも疑問の声が出ており、一部の自然保護運動関係者は反対を表明している。…直線化は洪水対策や農地整備のために実施され1948年に完成した。
 しかし湿原は五十年前に比べ面積が約二割減少、比較的乾燥した場所に分布するハンノキの数も増えるなど、乾燥化が問題として浮上。本来の環境を取り戻そうとの声が強まったことを受け川の復元が計画された。』、とある。

 一読、いい話だなと思った。確かに公共工事の二重投資かもしれない。しかし、もう五十年も経っているのである。当時はやはりそれなりの必要があり、良かれと考えて着工完成したものであろう。

 物事は、特に自然が相手では試行錯誤もやむをえないのではないだろうか?。改めるに憚かること無かれである。
 確かに、水の流れは、光琳の名画「紅梅白梅図」を見ても曲線が美しいのであって、何でも直線定規でサッと一本、線引きゃいいってものではなかろう。

 大体、戦後育ち(何て言っても私もその一人だが、無学の隠居に生意気言わせりゃ)の土木技術者は経済設計優先で、その場の自然環境に合った美しさ何てことは、端から計算の外なのではと思うがいかが?。

 この蛾遊庵の周り近所の田んぼでも、昔は曲線美の棚田の連なりが、今じゃ大枚かけての圃場整備事業のお陰で、どこもかしこも短冊切りのマッチッカク。どこを見ても何の変哲もなくなった。農業機器の大型化で、運転しやすいようにとの気持ちは分かるが、他所者が何か言うのもおこがましいが、もう少し大きな曲線取り入れて、折角残してくれたご先祖の苦心の跡を偲んでも、罰当たることもあるまいにと、ついつい思ってしまうのだが。

 と、まあ勢い余っての脱線くどくはお許しいただくとして、せいぜいまたぞろ、その工事の受注を巡って、五十年前の施工業者に随契とか、談合なんてスキャンダルが生じないよう祈るのみである。

 ところがこれにもたちまち反対者・団体が踊り出ていらっしゃる。お上のやることには、なんでも一言、箸の上げ下ろしにも、一口出さずには居られないお方かとついつい誤解してしまう。その方々にはその方々の言い分があるのだろうが、大方良いことであれば、それはそれとして素直に行政の取り組みを評価し、応援しても良いのではないのだろうか?。
 
 ところで、いたちの何とかか、珍しく良いこと言った大宰相が、移転検討を指示した、東京日本橋の上の首都高速道路も同じである。あんな不格好で鬱陶しい代物一日も早く取っ払ってもらいたいものだ。

 あれを見るたび地下の江戸っ子が「なんてえーざまでぃ。おいらの日本橋を台無しにしやがってぇ!。野暮の田舎っぺぇが、寄って集(たか)ってのやるこたぁー!。」とべそかき捻り鉢巻、茶碗で太鼓を敲いてはいまいか?。

 と、思うこの頃、さて皆様はいかが思いでしょうか?


WBC日米戦主審誤審に思う。ー何時まで続く敗戦コンプレックス!ー

2006-03-20 03:35:48 | 時事所感
 3月19日(日)曇り後晴れ、風強く次第に寒気戻る。

 今日のWBC韓国戦で日本は、6-0で勝利し、21日キュウバと優勝を争うこととなった。先ずはめでたしである。しかし、忘れられないのは先日の誤審じけんである。

 3月13日、WBC選手権試合、日米対戦において、アメリカの審判が誤審をした。その誤審に対して世界の王監督が抗議しても結果は覆らなかった。そこに私は、醜いアメリカ人を見た。堕ちたアメリカを見た。

 自分勝手な、相手の存在なんか眼中に無いのだ。自分の流儀が全てなのだ。問答無用で白昼堂々とイラクへ侵攻したのと同じ論理で押し通すアメリカを見た。

 しかし、こんな事態が生じた背景には、それなりの必然があったのだ。聞けば審判員10何人かの内6人がアメリカ人で日本人はたったの一人とのこと。

 何故、事前の開催協議の場で、公平に審判員を出すことを提案できなかったのか?。参加チーム各1~2名というふうにである。

 これと同様の事例が、お慰みの野球どころの話ではない、我々自身の生殺与奪にもおよびかねない数々の大問題について、関岡英之氏がその著「拒否できない日本」-アメリカの日本改造が進んでいるーで明らかにされている。まさに衝撃の書である。

 話は飛ぶが国連分担金だってそうだ、何故、常任理事国にもしていただけない日本が19.3%もの費用負担を毎年毎年、唯々諾々と律儀に払い続けてこなければならないのだ。

 これも先日の国会質疑において、麻生外務大臣が直ちには変更できないような気の抜けたビールのような返答をしていた。そこには正面切って是正に向けて取り組んでいこうとの気迫はカケラほども感じられなかった。
 次期総理の座を狙ってかの台湾何とか、大国中国なんかちっともこわくないぞとばかりに、強がってのつもりだろうが、相撲の珍技ネコジャラシもいいとこどっこいだ。

 これ全て、60年も前の敗戦コンプレックスのなせる業ではないのか?。「日本は負けたんだよ。だけどアメリカさんのお陰で、ここまでこられたんだよ。少々のことはしょうがないんだよ」、と。
 それはまるで、魯迅描くところの負け犬“阿Q”(=開放前の中国民衆の無気力さを象徴させた小説の主人公)が 金持ちの旦那なや、強い相手に罵倒されるたびに―『ただ他人とけんかをしたときに、たまに目をむいて、こういった。「おいらは昔は……お前なんかよりずっと偉かったんだぞ! お前がなんだってんだ!」』と、ぶつくさの独り言で自分を誤魔化しているのに他ならないのではなかろうか。

 おかしいこと不合理なことに対しては、たとえ相手がどんなに強くても,一矢報いる覚悟で、何故糾していこうとしないのか?。我々はいつまでこのように腰抜けで世界中からアホにされ、カモられていなければならないのか?。

 これも皆、押し付け憲法とかの前文の美辞麗句が、現実にはどこの星の世界のことかと思えるほど、世界中のあちらこちらでドンパチ絶えぬを見ても、見ない振りして未だに有難がっているおめでたさの為せる業では?。

と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?


「最高裁初調査、殺人犯への量刑判断」―市民、もっと重くーに思う。

2006-03-17 01:09:43 | 時事所感
 3月16日(木)曇りのち雨、暖。

 14、15の両日、私のブログへのアクセスがいつもの倍になっている。びっくりした。「何だこりゃあ」と、アクセス解析で閲覧先のページをクリックすると、昨年、12月10日に投稿した、「相次ぐ幼児殺人事件―犯人には死刑を!」という記事であった。
 この中で私は、「山口の母子殺人事件」の判決の軽さに触れていた。それが、14日、この事件の検察側の上告審に伴う最高裁からの呼び出しに対し、被告の弁護人が出廷を拒否し大きく報道され、世人の関心を呼び、どうしたわけか有難いことに私の上記記事が「gooブログ」のサーチ、「山口母子殺人事件」というテーマで、100件中の筆頭に掲載されていたため、アクセス急増となったようだ。

 私の新参ブログには珍しく、「ボワール様、あゆみ様」からコメントとTBまでいただいた。(ありがとうございました。おかげさまで、こうして書く張り合いが出ます。)
 私は、この記事の前にも、11月27日付け、「木下あいりちゃん(7歳)殺害事件に思う」を、また、11月15日付けで『「罪と罰」について 高一女子殺害事件に思う』をアップした。
 特に、『「罪と罰」について 高一女子殺害事件に思う』は、少年凶悪事件での罪の軽さに日頃から危機感が募り、矢も楯もたまらず思いのたけを書いたが、こちらの方はあまりアクセスがなかった。これの方こそ本論のつもりであり、少しでも多くの方のお目にとまればと願い改めてご案内させていただく。

 と前書きが長くなってしまったが、今日は、またタイミングよく下記の記事を見たので思うところを書いてみたくなった。

 今朝の日経新聞、社会面に、最高裁初調査、「殺人犯した被告への刑罰は…市民『判決もっと重く』―裁判官と意識差鮮明―という報告記事が出た。

 それによれば、要旨、
 刑事裁判の判決はもっと重くてもよいー。殺人罪に問われた被告に対し、裁判官が考えるよりも重い刑がふさわしいとする市民が、事例によっては6割以上に上ることが、最高裁司法研修所が15日発表した意識調査結果で分かった。被告が少年の場合「成人よりも重くすべき」など、裁判官の“常識”とは逆の感覚を持つ人が多いことも明らかになった。
と、いうものである。

 報告書の事例では、「服役経験のある男が借金を取り立てにきた知人を刺殺したケース」について、裁判官は懲役10~12.5年とする者が46.3%に対して、市民では「より重く」とする者が63%(うち死刑:7.3%、無期懲役:18.9%)という結果だった。
 さらに、「被告が少年(十歳代)の場合」は、市民の25.4%が「重くする」としたのに、裁判官では「皆無」。裁判官の90%以上が、将来の更正に配慮するとの少年法の規定を念頭に「軽くする」とした裁判官の常識とは正反対に、少年による凶悪事件を背景に厳罰を求める傾向が鮮明になった。と、いう。

 これは、現行刑法が、刑罰の適用を実質的には裁判官の裁量の余地を余りにも大きく許しているからではないか?。裁判官はその仕事柄、次から次へと現れる凶悪事件に麻痺してしまうのではないか?。その一々について被害者やその家族の無念を自分の身に引き寄せて審理していたのではとても神経が持たなくなり、自己保存本能から、どんな凶悪事件でも抽象化してしまうのではないか?。そして誰が担うかもその効果も計り知れない「犯人の更生」を信じるふりして逃げるほかないのではないか?。

 肝心要の裁判官さまがこんなお考えの持ち主では、われわれのイラダチは未来永劫解消されるわけがなく、さらなる少年凶悪犯罪者を増殖、奨励しているようなものではないか?。

 これでは、日本の裁判官様は、少年凶悪犯罪志願者にとって、地獄の閻魔様ならぬ雲の上のお釈迦様である。しかし、そのお釈迦様でさえ、芥川の童話「蜘蛛の糸」では、地獄で蠢く極悪犯のカンタタをご覧になり、彼が一度だけ蜘蛛を踏み潰さずに助けたことを思い出されて助けの糸をさし伸べられたが、カンタタが彼の後を追う者を振り払わんとした瞬間、その本性をみてついにはお見捨てになられたのである。

 これに関連してサイトを追っていたら、最高裁の呼び出しを拒否した安田弁護士について、”miyazakimanabu.com”で宮崎学氏が「弁護士安田好弘を擁護する」との記事をアップされていた。ちなみに安田弁護士は氏の友人とのこと。なるほど、これを読む限りでは安田弁護士の出廷拒否にも一応理があるように思った。

 しかし、私が宮崎氏の主張に異議を唱えたいのは、後半最後の件(くだり)である。
 宮崎氏は、『「ワシは自分の愛する女房や子供が殺された時、お上に犯人を殺してもらう(死刑)という思想そのものを良しとしない。毎度言うのもアホらしいが、大きな刑事裁判のたびに巻き起こる「早く終わらせろ、早く吊るせ」的な世論にまたも迎合する司法官僚とメディアの姿が露呈したと指摘しておく。』と、おっしゃる。

 しからばお尋ねしたい。『ワシは自分の愛する女房や子供が殺された時、…』どうされるのか?。まさかそんな「お上の手」を煩わせずして、ご自分で犯人に体当たり、ズドンかブスッかは知らないが、ご自身で処罰されるのだろうか?。

 それとも釈迦様かキリストにでもなったつもりで犯人の手とり足とり「やってしまったことはしょうがないよ。ただ、二度とこのようなことはしないでくれよな」と、優しく物分りよく、肩でも撫でてやるのだろうか?。

 また、もう一つ、少し古い日付(2000年10月7日)のものであるが、少年法「改正に」(案)に反対するとして自由法曹団の声明文がのっていた。

 
 これも要旨は、刑罰を重くしても少年凶悪犯罪は減少しない。将来性のある少年に対しては、家族、教育、地域社会など総合的な体制の整備こそ早急に行うべきである、との決まり文句が並んでいる。
 死刑廃止論、更生至上の少年法の精神、結構な話である。私も高校生の頃は、「死刑廃止論」を一生懸命読み、なるほどそうだ、“死刑=人為的、政治的、制度的悪”だと信じた。

 だが、その後40年背中の甲羅に少々の苔が生えるにしたがって、そんな書生論議、形而上論議、理想論議が虚しい木霊にしか聞こえなくなった。

 何故か、広島に原爆を落とされてみても、誰も罰せられず誰も罰しようとしない。前にも懲りず、帝国主義米国は世界中で戦争行為に血道を上げて、それを誰も阻止できない。この体たらくを見て、人間性オール性善説にも似た“母親のおっぱい”のような幻想を持ちえるだろうか。

 だからと言って私は人間全てについて性悪説をとるものではない。私が諦観してしまうのは、人間性のオドロオドロシさにである。
 人間性には二種類あるということである。
 もちろんこれは、一人一人の中にもある。しかし、その分量が問題である。大抵の人は、良いところ6分、悪いところ4分ではないか。それで人を殺すほどの悪いことはしないですんでいる。殺したいと思っても、いや待てよとブレーキが働く。
 ところが残念ながら、そうでないひとが少数だがいるのではないか。上記のカンタタのように良いところ一厘、悪いところが九分九厘。殺したいと思うとノンブレーキになってしまう輩。それは残念ながら天から頂いた生得のものではないか。

 人の命は短く儚い。根っからの生まれついての悪人かと思える凶悪殺人者に、後悔の時を与えて、罪を悔い別人格の善人に生まれ変われるのを待つのに、どれほどの時間があるというのか。

 一言に殺人と言っても、単純な喧嘩やいきがかり、正当防衛に近いものまで十杷一絡げに言うつもりはない。
 明白な殺意と意図をもって殺人を行う確信犯に限ってのことである。人を抹殺しようというその時点で、それは人間の形をした物体であって人間とは言わない何かに突然変異した異生物でしかないのではないか?。
 
 突然変異を遂げたものが、少々のオメデタイ人間のお説教を聞かせたぐらいで、もとの人間に立ち返るのは化学の時間に習った不可逆反応を可逆反応にするぐらいの不可能なことではないのか?。
 確かに営々と日夜犯罪者の更生に苦労されていらっしゃる方のお話をしらないではない。でも、その対象となるのは、まだまだ掬いようのある者ではないのか?。

 私の主張したいのは、誰がみても聞いても「これは惨いな。これでも人間のやることか」と思われるケースについてである。
 もう、十数年も前になるのであろうか?。東京の足立区だったかの悪がきが、集団で美しい女子高生を拉致監禁、暴行し挙句の果てが殺してコンクリート詰めにした事件があった。あの犯人たちが全員死刑になったとは聞かない。今、どこでのうのうとしているのか?。あの親御さんはどんな無念の気持ちで暮らしていられるのだろうか。思えば、こちらまで震えてきそうだ。

 このような輩を生き延びさせて世の中にどれほどの益があるのか?。こんな輩をどこの何方が更生させうるのか?。
 さすれば、すみやかにこの人間世界からはご退場願うほかないのではないか?。

 自由法曹団とか宮崎大聖人先生は直ぐに更生更生と簡単におっしゃるが、大体、不登校に始まってニートに“おたく”とよばれる方々が周りで一生懸命働きかけたところでどれほどの効果があがっているだろうか。犯罪とは無関係なそれぞれの単なる社会生活不適応症にたいしてでさえ非常に苦心惨憺しているというのが現状ではないか?。

 それが、上記のような確信的凶悪殺人犯罪者に対して、どんな更生期待できるのか?。

 よく聞く。刑務所を出ても雇用してくれる所がないと。当たり前である。まともな人間でも雇用者にしてみれば様々な不安があるというのに、一度犯罪を犯した人間を家族でもない赤の他人が、「罪を憎んで人を憎まず」なんてオメデタイ呪文唱えて、一緒にそばに置いて起居を共にできるだろうか。

 人間の心のうちなんて誰にも不可視の闇の世界である。そこで何時、如何なる憤怒と暴力のマグマが噴出するか分からない不気味な存在ではないか。

 こんなことを言えば、直ぐに上記の自由法曹団や宮崎大先生からは、「お前は、ファシストか、前世紀の石頭か」と一喝されそうである。そして彼らは次のようにおしゃるのではないか?。
「いかなる凶悪犯罪者といえども、人権はある。国家による殺人である死刑制度は廃止すべきである。刑罰は応報ではない。罪を悔いて更生させ温かく犯罪者にも第二の人生を送らせてやるべきだ。それが真の社会正義というものだ」と。

 一体、私たちはいつからこんなに良い悪いのけじめをあいまいにして、利巧ぶり優しい人ぶるようになったのか?。

 思うに、暇あり、食う苦労なき学者先生が、書斎の空論、人間性を知らずして外国かぶれの新知識、これ有難がっての吹聴でここまで世の中フヤカシ人心惑わしたのではないの?。
 とにかく今の学者先生、全てとは言わないが、無学無学歴の山家の隠居が言うのもおこがましいが、なまじ物覚えがいいだけで、みんなあちらこちらの聞きかじり。さても盗んだその言葉、もっともらしくおためごかしのご高説。どれ聞いたところでみんな過ぎた事象のきりきざみ。つなぎ合わせの下手なパッチワークで、さも意味ありげの後講釈がほとんどだ。
 だから似非学者の戯言など今起こっている目の前の現実の問題解決なんぞには、どれもこれも○○の役にも立ちゃしない。

 近々僅かに100年ちょっとの今昔、私の曾爺さんの頃には、人殺しは磔獄門、十両盗めば笠の台が飛んだとか。最もこれは建前で、盗みの場合は親戚縁者が被害額を弁済すれば内々に罪一等を減じられたとか。江戸時代の人の方がものの考え方にケジメがあり大人の智恵があったのだ。

 スタンダールの名著、「赤と黒」の主人公、美貌の秀才ジュリアン・ソレルでさえも愛人を狙撃して怪我させただけでも殺人未遂罪に厳しく問われ、人権思想発祥の地、200年足らず前のフランスでギロチンの露と消えているのだ。

 それに比べて、現在の、サリン振りまき日本国家を我が物にせんとして白昼堂々何十人も死傷させた松本某の十年裁判の体たらく。江戸時代、桜吹雪の遠山金さんか、葵御紋のご老公にお聞かせしたら何と仰せになるだろう?。

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?。


「ライブドア・ショックにやられた!」―最終章―(さらばホリエモン!)

2006-03-14 20:02:13 | 時事所感
3月14日(火) 晴れ。朝ー3度、冬に逆戻りの一日、午後風花舞う。

 昨日、3月13日(月)、先週末予告されたとおり、「ライブドア」及び「ほりえもん一味5人」が証券取引法違反で証券取引監視委員会から告発された。これに基づき、ライブドア株も来月14日で上場廃止されることとなった。

 今朝のTV「スパモニ」だったかでコメンテーターが言った。「ライブドア事件これで終わるそうですよ。結局、泰山鳴動ネズミ一匹といったとこでしょうか」と。
 「きっこさん!、どうなったんでしょうか?」と聞きたいところである。するとたちまち「ブログ」って、そんなもんだよと何処かの誰かさんに軽くいなされそうだ。

 そして正午のNHKニュースで、民主党が、全国紙に党と永田議員連名とかで「武部様、ご次男様、国民の皆様ごめんなさい。」(?)とでも謝罪広告を出すそうな。これも桜(錯乱?)前線の前触れ愛(め)でてか、おめでたい話である。出すとこが間違ってませんかと眉につば付け訊いてみたいものだ。
 「イヤー私の方こそ天下御免で、一点の曇り無くお疑いお晴らしいただきありがとうございました。-○○党ー 大幹事長」とお礼の広告出さないのだろうか。

 ところで、私こと山家の隠居は、先週末3月10日(金)、日経の「週明け告発、ライブドア上場廃止決定的に」と報じられたのを見て、邯鄲の夢も儚く醒めやった。
 ただちにパソコンの前にすっ飛んで、寄り前状況を見た。55円あたりをうろうろしている。おまけに売り手は買い手の倍である。こりゃ駄目だと一瞬にして思った。

 上場廃止の株なんか未練たらしく、再上場もあるのでは、どこかの投資ファンドが公開買付競い合いで高値がつくのではと、手前勝手な観測してみても、どうなることかは、先日のカネボウで、足下見ての買い叩き、いやというほど思い知ったばかりである。
 所詮、株の世界はお金持ちが強いのである。そんなこと天地開闢以来の真理と頭じゃ分かっていてもクリックする手が言うこときかない情けなさ。

 であれば今頃遅いが、三十六計逃げるが勝ち、「さらば、ホリエモン!」だ。

 直ぐに「売り」をクリック。たちまち約定、単価67円。1月11日の買値、699円の1割にも満たない体たらく。見事、わが愛する軽トラ「ロシナンテ」が、マッサカサマの一の谷である。

 実はこの前日、白樺湖からの帰り道、八ヶ岳山塊左にみて家路を急ぐ夕べ道、見通しの良い高原の一本道を走行中、とある無信号の交差点で、つい左遠くの青い道路案内標識が気になりひょいとそちらを見た瞬間、右から猛スピードで直進してきた車と出会い衝突し損ねたのである。相手の車は交差点の真ん中、こちらの車の鼻先で大きな弧を描いて走り抜けた。私は、一瞬急ブレーキを踏んで事なきを得た。ああ、これで一巻の終わりだったかと思うと、ゾーと総毛だった。頭では「もういつ死んでもいいな、ポックリ行きたいものだ」何て、日頃思ってはいても生身の身体は生きる方へ条件反射するらしい。

 そんな訳で、現実にはロシナンテもわが身も無事であれば、まあこれぐらいは、欲から出たサビと諦め眺めて炉辺の頬杖である。そして何だかサッパリはしたけれど、少し心残りのような寂しいようなメランコリーな気分におちいった。

 もう何十年も前、車の免許とったとき、「初心者マークがとれた頃が一番事故を起こしやすくなる」と有難いお説教いただいたが、株取引も同じである。

 一部上場の、大企業株をそこそこにいじっている間は、たいした波乱もなかったが、それじゃなんだか物足りなくて、「株はサプライズ」なんて知ったかぶりの赤鶏冠(とさか)。老いの身忘れ「信用取引」に首突っ込んで、新興市場や値動き激しいものをと追ううちに、たちまち足掬われた身の程知らずの足のちぎれた奴凧だ。

 以上、「ライブドア・ショックにやられた!」(1から9)一巻、お粗末の次第である。

 それにしても、毎日の新聞雑誌、広告欄の株取引のお勧めのすごいこと。これは、お金持ちの大旦那が、その日暮らしのなけなしの長屋の八さん熊さんに、やさしく手招き「おいでおいでの鴨のネギ」である。「一日15分、100万円を3000万!」カリスマ主婦だなんて、無責任もいいとこどっこい。そんな美味しい話があったなら、大宰相の格差論議も涼しい鯉の吹流しである。

と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?。
 
―追記―
 ところで、来月上場廃止となったなら、たちまちつるべ落としの秋の日見るかと思いきゃ、昨日も上がる、今日もまた76円とはこれ如何に。
 株価とは、所詮欲のお化けの突っ張り合いでしょうか?。
 なお、有難いことに奇特の方がいらっしゃり、「ライブドア被害者の会」を立ち上げられたとのこと。早速アクセスすれば、山家の隠居も被害者に該当すとのこと。早速会員登録してみたが、はてさて、いくら戻ってくるのかこないのか、お釈迦様の手のひらだ。

 「 欲の花 弥生の空の 霞かな 」

 「 春やよい 仇花で散る 彫絵紋(ほりえもん)」
                            ―蛾遊庵山人―


「栃東、出だしよし、頑張れ!。…そして円空仏のこと」

2006-03-12 23:10:14 | 日常雑感
3月12日(日)曇り時々小雨、暖。
 
 今日のような空模様の日は、何となく鬱な気分に心は湿り、何にもする気がしなくなる。ただぼんやりと居間の椅子から、庭先の萌黄色めく雑木林を見入るばかりである。それにこのブログに嵌ってからというものネットサーフィンが習慣となり、あっという間に夜中の1時、2時。おかげで翌朝は午前中いっぱいグズグズしてしまう。

 そんな具合で今日の午後もあっという間に夕方になり、ふと気がつけば5時。慌ててテレビの前にふっ飛んだ。
 待望の春場所初日である。
 リモコンをクリックするとハイヴィジョンのきれいな画像がたちまち目に飛び込む。

 画面では、垣添が時津海をあっというまにいい形で寄りきる。四角い顔に眉間にシワ寄せ、まるで円空(注記参照)の鉈彫りの仏頭と言った按配で、神妙に勝ち名乗りの手刀を切っているところだった。この垣添がまたいい。小さな豆タンクのような身体で大きな相手に不器用に、一途に万一文字にぶつかっていく。

 そんな中で、北の富士と舞の海の解説が聞こえてくる。この二人の解説、歯切れがよくて的確で、どの力士にも温かくて、いつ聞いても気持ちいい。

 替わる土俵は、普天王対岩木山、安美錦対琴光喜、いい取り組みが続く。缶ビールが美味い。

 と、思う間もなく、これも今日楽しみな一番、玉乃島対琴欧州。

 あれ!琴欧州の右足が何だ?。 引き摺るようにして土俵に上がった。
 3月2日、稽古中に右足膝靭帯を損傷して、佐渡が岳親方は大事をとって休場してはというのを、本人は取りたいとのことで、今日の土俵と、舞の海が解説してくれた。偉いものである。
 ハラハラして観た。つんのめりそうになりながらも気迫で勝った!。よかった。

(※ どこかの永田町のお坊ちゃまのように、天下の国会滅茶苦茶にしておいて、引っ込みつかなくなったらエッサカホイサッサト病院逃げ込むのとは天と地で、遠き故国ブルガリアに送金待っている両親のいる健気(けなげ)な身には、身体が動く限り、這いずってでも、休んではいられないのである。)

 そして、今日、何と言っても気がかりな一番。
 栃東対露鵬。
 行事軍配が返った。ガーっと両者頭でぶつかり合う。牛の角突き合いと思う一瞬、栃東押し出しの勝ちだった。先ずは綱へ一歩前進、おめでとう!。

 結びは、朝青龍対雅山、今場所調子が今一つと言われながらも土俵に上がれば難なく雅山を仰向けにしてしまった。
 カメラのこちらに向かって、いつもの「どんなもんだい、俺様の相撲は、」と言わんばかり顔で目つきで手刀きった。

 そこで6時。TVを切る。今日の楽しみが終わった。缶ビールも空になった。さてと…

と、思うこの頃皆様はいかがおすごしでしょうか?。

(注記:円空の生涯について『洞戸村の円空』(洞戸村教育委員会発行)では、次のように記している。

 円空は寛永9年(1632年)に現在の岐阜県で生まれた。また円空が法の道に入ったのは寛文3年(1663年) 32歳の時と推定されている(上述した福永先生の説とは2年遅くなっている)。

 円空は伊吹山で修行を終え、薬草の知識を習得するなど修験者として衆生救済に自信を持って旅に出たのであろう(寛文6年)。だが、北海道で目にしたものは、和人に搾取されるアイヌ人の姿であり、弱いものは強いものから奪われるということが、ここでは更に過酷に行われる様子であった。虐げながらもなおも敬虔に神を敬うアイヌの姿は、彼に強い衝撃を与えたことであろう。そして自分の布教の対象となるのは、自分を守るすべとて知らぬ貧しい人々なのだと意識し、円空は彼らのために祈り仏像を作ったのではないだろうか。

 寛文9年(1669年)、明国から亡命して尾張藩主の知遇を得ていた張振甫が薬師堂を再建した。この時円空は東北からこの地方に戻ってきており、日光、月光、十二神将等を造仏して安置した。これらの像は円空仏のなかでも作風が異なっている。怪奇な表情をしたものがあり、体の部分に具利形模様がデザインされ彫られているものがある。これはアイヌのイメージが重なっているのではないだろうか。

 寛文11年(1671年)、奈良法隆寺の巡堯春塘から「法相中宗血脈」を授けられた。円空はこれを得る事を切望したらしい。やはり伊吹山平等岩修行僧という肩書きだけでは、幕府による宗教統制に縛られた現実の中では思うように任せないことが多く、その不満を解消するべくより根源的な進行へと進んでいったのである。円空は新しい肩書きを得てからも今までと何ら変わることなくその造仏活動を続けていった。

 延宝3年(1675年)には奈良県の大峯山に入り、厳しい修行を積んでいる。この修行で験力も高まり修験者としての自身も深まった。その充実ぶりは竜泉寺(名古屋市)や荒子観音寺の諸像に示される。その後関東を遊行し、人が顧みなかった木の端までにも仏性をみつけ、そこに仏を具現していく。そこには、裕福な人々にだけ仏の恵みがあるのでなく、価値がないと思われたものにも価値がある。つまり底辺に生きる者にもその存在価値がある事を示しているのである。

 元禄2年(1689年)、滋賀県坂田郡伊吹町にある太平寺で十一面観音を造顕している。これには次のような背銘が記されている。
  四日木切 五日加持 六日作 七日開眼  元禄二己巳年三月初七日  円空沙門 花押
これを見ると、1日目に木を切り、2日目には祈祷をし、3日目で仏像を完成させて、4日目に開眼供養を行ったとしている。1m80cmを越える大きな像にしては驚くべき早さである。

 その5ヵ月後、大津市園城寺の尊栄大僧正から「授決集最秘師資相承血脈」を受けると共に、自坊である関市弥勒寺を園城寺霊鷲院兼日光院の末寺に加えられている。元禄8年(1695年)、享年64歳にして入定した。

蛾遊庵記:昔のお坊様には何と偉い方が居られたものかと思う。今時の、ナムナム唱えれば幸せにしてやるとばかりに、信者の膏血溜め込んで、この国乗っ取らんかと思うほど、手下わっさか増殖し、それでも野心覚めやらず、我が子を世継ぎと噂聞く、燃やす醜念、老いの坂のどこかの大会長様とは大違い。嗚呼!
なお、円空の仏像の画像、[Google]で検索するといろいろ見れます。私も高山だったかで何体か実物を拝見しましたが、鉈で一気苛性に一木から刻みだされた像は迫力があり印象的でした。)

「きっこの日記」と「イザヤベンダサン」ーその正体探し?-

2006-03-11 01:09:44 | 時事所感
 3月10日(金)曇り時々小雨、薄ら寒い一日。

 このところ毎晩寝る前の楽しみにしているきっこの日記のアップが乱れている。年度末か何かでよほどお忙しいらしい。お疲れのようである。

 さて今日も待望の3月9日(木)分が一日遅れの感じでアップされていた。早速読んだ。
 今日のお題は「猫の鳴き声」。実に楽しい。たいしたものだ。さすが2億円の価値はある。慕いよってくる近所の野良猫の描写からいつの間にか源氏物語の世界へ「さりげに」(きっこさん風の言い回し?)誘い込んだかと思うと、そこにまた今話題熱々のホリエモンとタケベ大幹事長をこれも「さりげに」からませるあたり、その芸の細かく巧みなることまさに猫が舌噛むほど感服した。

 これほどの才能、匿名の中に仕舞っておくのは国民的損失(少し大げさでしょうか)ではないかと思う。最近の直木賞受賞作品なんかの比ではない。もうそろそろ正体見せていただければと切に願う。
 これだけのものを表で書けば、電気代にもガス代にも家賃にも困ることはあるまいにと、いらぬ心配してしまう。

 “きっこさん”が何者か?、毎日、方々でウォンティッドだ。振込み口座が男名義だから男性だと言う人も居る。
 しかし、私は、“きっこさん”が「女性」であることを確信する。文章の端々に滲み出ている様々な事物への感覚や日常の立ち居振る舞いは、とても男のものではないと感じるからである。

 ここで思い出したのが、もう30年ぐらいも昔になるであろうか、「イザヤベンダサン」の一連の著作である。
 一ユダヤ人の目からみた日本文明批評の書である。そこでは「空気」という言葉がキーワードとして一世を風靡し、その鋭く今までの日本人論になかった視点の新鮮さと洞察の深さで、「イザヤベンダサン」とは誰だ、何者か?と喧しかった。結局、イザヤベンダサンの正体は出版元の山本七平氏であったように記憶している。

 きっこさんの筆力からみて、すでに表で活躍されている女流作家か雑誌記者なのかもしれないと想像してみる。例えば林真理子さんとか。もっとも林氏は小泉大宰相とはお食事をともにされるほどの間柄とか、とても匿名でも小泉下ろしなんぞを画策されまい。
 又、表で原稿料の取れる方がわざわざ一文にもなりそうもない文章を毎日原稿用紙にして10枚前後も書き飛ばすような無駄なエネルーギー代謝をするべくも無いはず。

 ところで先日、「きっこの日記」3月5日(日)「春の宵にはぶらんこを」を読んでいて面白い発見をした。

 当日の日記に蘇東坡の漢詩「春宵」とともに、中国の古くからの春の行事である「寒食節」という言葉が出てきた。初めて聴く言葉で気になり、グーグルで検索した。
 すると、何と!、同日付けで現代俳句協会所属の俳人、松田ひろむ氏が、全く同じテーマで、引用の蘇東坡の漢詩も同じで、書いてあったのを見て驚いた。

 一瞬きっこ氏=松田氏とさえ思ったほどである。しかし、昭和13年生まれの松田氏がきっこさんとはとても思えない。だとすれば、同じ俳句に造詣の深い“きっこさん”が松田氏の記事を拝借してかヒントを得て書いたとしか考えられない。

 それにしても、我も我もと電波舞台に、表に出たがり、跳ね上がりたがる今、匿名の黒子被って、チクリ、ザクリと時の宰相の首狙い、誰だ誰だと世間の話題をさらうとは、粋で格好いいですねえ!。

 と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?

 ―追記―
 ただし、“きっこさん”の名誉のために付言すれば蘇東坡についても寒食節についても言及ははるかに詳細であった。
 今、これを書くに当たり再度、松田ひろむ氏の上掲文書に当たろうとしてグーグルで先日と同様に検索してみたがどうした訳か影も形も現れない。何故だろう?。

「栃東」綱取頑張れ、正念場だ!

2006-03-10 01:43:30 | 日常雑感
 3月9日(木)曇り後晴れ、やや寒し。

 つい今しがた、「NHKニュース10」で、有働アナの栃東直撃インタビューをチラッと見た。栃東の表情が何とも言えず好かった。着てる着物も何ていう縞柄かは和服に不案内な身には分からないが、とてもよく似合って品格を感じた。その表情、佇まいはすでに横綱の風格すら感じさせる。

 「荒川選手の金メタルに大いに触発された。筋トレを止めて土俵稽古に徹したらかえって体が柔らかく動きやすくなった。何よりもお客さんに喜んでもらえる相撲をとりたい」とのこと。いいこと言うよ。

 12日の初日が、待ち遠しい。山家の隠居にとって缶ビール片手のTV実況中継相撲桟敷は無上のたのしみ、これほどの贅沢はない。こればかりは、あとでのヴィデオでは番茶の出がらし夕べの味噌汁だ。

 そして楽しみなのが琴欧州!。栃東と琴欧州、どちらも好きで大困り。だが、ここは一番優勝決定戦で栃東と願いたい。

 今朝の「スパモニTV」で伺えば、お可愛い愛子様もことのほかお相撲が大好きで、「あさしょうりゅうかつのり」と平仮名でお読みになり、皇太子さまがお付きの職員と技の型をお見せされるのを大変喜ばれるとか。微笑ましくも日本の国技を愛されること曽祖父昭和天皇譲りでは…、今相撲人気の不振が言われる時に真に末頼もしいことである。相撲協会は愛子様を名誉総裁に推戴して、本場所ごとにお高覧願ってはいかが。

 それにしても相撲協会「外国人力士は一部屋一人限り」などとケチなことを言わずに来るもの拒まずでどんどん入れりゃあいいに。

 赤、白、黒、黄肌のいろ様々、まわし一つでぶつかり合う。「体の大も小もなく、気迫と技の切れ、一瞬の呼吸が勝負を決める。」琴欧州が語っていた。そこに今まで経験したことも無い面白さがあり惹きつけられたと。
 日本文化は、大陸各地で衝突し融合した様々な人種の智恵と技とが、巡り巡って大陸辺境のこの環日本列島で凝縮醗酵のうえに花開いた人類文化のエキスではないか?

 今以上に多様な国籍人種の力士が狭い土俵で、汗を飛ばして闘う様見りゃ、世界中に日本相撲ブームが沸き起こり、場所ごとに世界中から見物衆がわんさ来てくれ、観光ブームに外貨獲得、国際親善、日本文化の紹介と一石3鳥、4鳥夢じゃない。

 どこかの”AB型、俺が俺が障子破りの爺さん”が、東京に、千両箱、いくら積んだら、いつ来てくれるかもわからない、オリンピック招致にうつつを抜かす暇と時間があったなら、ジャパン相撲を世界に!と、打って出て、パリ、ニューヨーク、ロンドン、ローマ、モスクワと五大陸を股にかけてはいかがなものか。

 今日の土俵に、朝青竜に琴欧州、黒海、露鵬に白鳳が居なけりゃ、焚き火の残り火うす煙りでは?。

 残念ながら、今日び、質実剛健日本男児は夢幻か伝説か、マラソン、柔道、レスリング、スケートみても、気を吐いているのは大和なでしこ花盛りだ!。

 そのうち相撲の土俵からも、金髪、そり眉薄化粧にうつつを抜かすやわ男なんぞは、軽々土俵の外へ打っちゃりか?。
 そんな不甲斐ない大和男どもにカツを入れるにゃあ、外国人をどんどん入れて、少しはやわな尻でも頬っぺたでもパンパンひっぱたくほかないのでは?。

 と、思うこの頃さて皆様いかがお思いでしょうか?



「2016年東京へオリンピック招致」だって?

2006-03-08 23:58:40 | 時事所感
 3月8日(水) 晴れ、春のような暖い一日。

 今日、東京都議会は「2016年東京オリンピック招致」を賛成多数で決議したとのこと。

 石原都知事、この方も忘れられそうになると何か言い出さないでは居られない性格(たち)らしい。銀行外形課税に、トラックお尻のペットボトル、君が代斉唱・日の丸万歳懲戒処分、中国何とか、玉石混交今じゃ珍し荒物屋だ。

 会社売名、刺客志願の立候補、自社株吊り上げ、粉飾×粉飾決算・詐欺高騰、ついにトラフグ風船破裂して、今じゃ俎板の誰かをつい思う。

 せっかく九州福岡が名乗りをあげているのなら、そちらにまかせておけばよいものを、何思ってかの朝のお化けの世迷い事?。

 自慢の丹下都庁舎、早くも雨漏りするとか聞くに、世界のお祭り招くほど、そんなに税金じゃぶじゃぶ余ってるの?と、ついつい他人(ひと)の財布が見たくなる。

 上野のお山の青テント、空を見上げりゃ電線・蜘蛛の巣網だらけ、年がら年中モグラ工事のビル工事、幹線道路はノロノロ歩きの亀渋滞、やること一杯雨霰だ。

 もっとも敵は本能寺で、お題目がないとお上の言うこと聞かないうるさい都民のみな様向けての日本橋の首都高移転から、東京外環道路の建設まで一挙解決魂胆か?。

 どうせ山家の隠居には、この世にいるかいないかの10年先のことなんかどうなろうと関係無いとは思えども、生まれ育った所懐かしのついの一言、憎まれ口。

 と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?。
 

国会議員閻魔帳(その3)ー市田議員に涙するー

2006-03-08 00:19:35 | 時事所感
 3月7日(火)曇り後晴れ、暖。

 今日、午後、何気なくラジオをつけたら国会中継(参議院予算委員会)をやっていた。前半は自民党に始まって公明党と与党の小泉大宰相ヨイショ、べた褒め質問で聞くに堪えない。民主党も何だかの後遺症で蚊のなくようで耳に入らず、唯一迫力あったのは、共産党市田議員の岩国基地騒音問題だった。防衛施設庁長官の答弁の無責任さを一喝していた。

 やり取りを聴いていて市田議員のいらだちがよく分かった。防衛施設庁は自国民の生活の安寧と米軍の傍若無人な振る舞いとをどう天秤にかけてるのかと腹が立った。
 
 私も横田基地の直ぐ脇に1年ばかり住んでいたことがあり、米空軍機の騒音のすさまじさがいかなるものかは、身をもって味わったのでよくわかる。家の中で寝ていてもまるで顔スレスレに機体のはらで引き裂かれるかと感じるほどである。子犬を散歩に連れて出て、彼がおしっこしている時に突如グァンーとやってくると、していたおしっこを止めて屈み込むのが今も目にやきついている。
 
 こんな切実な問題が山ほどあるのにくだらないメール騒動で貴重な時間と国費を空費させた前原民主党のお粗末さ加減には改めてはらがたった。

 といっても私は、共産党は大嫌い人間である。しかし、市田議員の真剣さには耳をそばだてた。急いで卓上のパソコンのお気に入りから「国会議員名鑑ぶぶりすてら」をクリックし、さらに市川議員のホームページに跳んだ。

 そこのプロフィールのページに「母の句歌集に寄せて」という一文が目に付いた。読んで見て、たちまち涙が滲み出てきた。

 「母思い汲み置きくれし水槽の水一滴も無駄に使わず」

 父親を早く無くし兄姉弟と4人の子供を幼稚園の用務員をしながら立派に育て上げられた母への感謝と、一家で助け合う家族愛に満ちた文章だった。そこにさりげなく苦学して大学を出て共産党に入党された経緯も読み取れた。

 これを読みながら市田議員の質問に耳を澄ますと彼の国民を思う気持ちが付け焼刃でも政治家としてのポーズだけでないことが良く伝わってきた。

 「偉いなー」と心底思った。青年期の正義感、政治に対する憤怒を今に持続するその姿勢にである。それに反して、若い頃はその貧しさの中で感じた政治への怒りを、少々自分の生活が安泰となってきた今、すっかり鈍らせ己一身のことしか頭に無いわが身が、ほんとにけち臭く感じた。

 しかし、にわかに共産党に共鳴しようとは思わない。
 
はたからみているとどんな問題でも自分たちの考え方だけが唯一絶対といった押し付けがましさ。何かと言えば大企業から税金を取ればすむというかの安易な財政論議。
 そして何よりも、党内での異論を許さず代々のトップが下からの民主的な選出ではなくトップダウンで全ての役職が決められているかに感じる薄暗さ。
 人間は、おしなべて良いところが六分、悪いところが四分、そんな集団の寄せ集めでできているのではないかという大雑把さを認めないらしい厳しさ。

 などなど私のこれまでの先入観や偏見を払拭できないからだ。

 となると、次回の選挙で一体どこの党に誰に一票を投じればいいのだろうかと炉辺で頬杖、しばし思案の今日この頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?

 -追記―
 それにしても上記、「国会議員名鑑ぶぶりすてら」は便利重宝だ。国会議員とみればこれで検索、ホームページと辿るといっぺんにその素性が知れる(?)。
 しかも、「ぶぶりすてらポイント」簡易採点付が面白い。50点が真ん中なれど、これを超える先生が意外にすくないようだ。ちなみに市田先生の採点は、51.5点であった。
 まだ、ご利用されて無い方は是非活用されてはとお勧めする次第。