蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「最高裁初調査、殺人犯への量刑判断」―市民、もっと重くーに思う。

2006-03-17 01:09:43 | 時事所感
 3月16日(木)曇りのち雨、暖。

 14、15の両日、私のブログへのアクセスがいつもの倍になっている。びっくりした。「何だこりゃあ」と、アクセス解析で閲覧先のページをクリックすると、昨年、12月10日に投稿した、「相次ぐ幼児殺人事件―犯人には死刑を!」という記事であった。
 この中で私は、「山口の母子殺人事件」の判決の軽さに触れていた。それが、14日、この事件の検察側の上告審に伴う最高裁からの呼び出しに対し、被告の弁護人が出廷を拒否し大きく報道され、世人の関心を呼び、どうしたわけか有難いことに私の上記記事が「gooブログ」のサーチ、「山口母子殺人事件」というテーマで、100件中の筆頭に掲載されていたため、アクセス急増となったようだ。

 私の新参ブログには珍しく、「ボワール様、あゆみ様」からコメントとTBまでいただいた。(ありがとうございました。おかげさまで、こうして書く張り合いが出ます。)
 私は、この記事の前にも、11月27日付け、「木下あいりちゃん(7歳)殺害事件に思う」を、また、11月15日付けで『「罪と罰」について 高一女子殺害事件に思う』をアップした。
 特に、『「罪と罰」について 高一女子殺害事件に思う』は、少年凶悪事件での罪の軽さに日頃から危機感が募り、矢も楯もたまらず思いのたけを書いたが、こちらの方はあまりアクセスがなかった。これの方こそ本論のつもりであり、少しでも多くの方のお目にとまればと願い改めてご案内させていただく。

 と前書きが長くなってしまったが、今日は、またタイミングよく下記の記事を見たので思うところを書いてみたくなった。

 今朝の日経新聞、社会面に、最高裁初調査、「殺人犯した被告への刑罰は…市民『判決もっと重く』―裁判官と意識差鮮明―という報告記事が出た。

 それによれば、要旨、
 刑事裁判の判決はもっと重くてもよいー。殺人罪に問われた被告に対し、裁判官が考えるよりも重い刑がふさわしいとする市民が、事例によっては6割以上に上ることが、最高裁司法研修所が15日発表した意識調査結果で分かった。被告が少年の場合「成人よりも重くすべき」など、裁判官の“常識”とは逆の感覚を持つ人が多いことも明らかになった。
と、いうものである。

 報告書の事例では、「服役経験のある男が借金を取り立てにきた知人を刺殺したケース」について、裁判官は懲役10~12.5年とする者が46.3%に対して、市民では「より重く」とする者が63%(うち死刑:7.3%、無期懲役:18.9%)という結果だった。
 さらに、「被告が少年(十歳代)の場合」は、市民の25.4%が「重くする」としたのに、裁判官では「皆無」。裁判官の90%以上が、将来の更正に配慮するとの少年法の規定を念頭に「軽くする」とした裁判官の常識とは正反対に、少年による凶悪事件を背景に厳罰を求める傾向が鮮明になった。と、いう。

 これは、現行刑法が、刑罰の適用を実質的には裁判官の裁量の余地を余りにも大きく許しているからではないか?。裁判官はその仕事柄、次から次へと現れる凶悪事件に麻痺してしまうのではないか?。その一々について被害者やその家族の無念を自分の身に引き寄せて審理していたのではとても神経が持たなくなり、自己保存本能から、どんな凶悪事件でも抽象化してしまうのではないか?。そして誰が担うかもその効果も計り知れない「犯人の更生」を信じるふりして逃げるほかないのではないか?。

 肝心要の裁判官さまがこんなお考えの持ち主では、われわれのイラダチは未来永劫解消されるわけがなく、さらなる少年凶悪犯罪者を増殖、奨励しているようなものではないか?。

 これでは、日本の裁判官様は、少年凶悪犯罪志願者にとって、地獄の閻魔様ならぬ雲の上のお釈迦様である。しかし、そのお釈迦様でさえ、芥川の童話「蜘蛛の糸」では、地獄で蠢く極悪犯のカンタタをご覧になり、彼が一度だけ蜘蛛を踏み潰さずに助けたことを思い出されて助けの糸をさし伸べられたが、カンタタが彼の後を追う者を振り払わんとした瞬間、その本性をみてついにはお見捨てになられたのである。

 これに関連してサイトを追っていたら、最高裁の呼び出しを拒否した安田弁護士について、”miyazakimanabu.com”で宮崎学氏が「弁護士安田好弘を擁護する」との記事をアップされていた。ちなみに安田弁護士は氏の友人とのこと。なるほど、これを読む限りでは安田弁護士の出廷拒否にも一応理があるように思った。

 しかし、私が宮崎氏の主張に異議を唱えたいのは、後半最後の件(くだり)である。
 宮崎氏は、『「ワシは自分の愛する女房や子供が殺された時、お上に犯人を殺してもらう(死刑)という思想そのものを良しとしない。毎度言うのもアホらしいが、大きな刑事裁判のたびに巻き起こる「早く終わらせろ、早く吊るせ」的な世論にまたも迎合する司法官僚とメディアの姿が露呈したと指摘しておく。』と、おっしゃる。

 しからばお尋ねしたい。『ワシは自分の愛する女房や子供が殺された時、…』どうされるのか?。まさかそんな「お上の手」を煩わせずして、ご自分で犯人に体当たり、ズドンかブスッかは知らないが、ご自身で処罰されるのだろうか?。

 それとも釈迦様かキリストにでもなったつもりで犯人の手とり足とり「やってしまったことはしょうがないよ。ただ、二度とこのようなことはしないでくれよな」と、優しく物分りよく、肩でも撫でてやるのだろうか?。

 また、もう一つ、少し古い日付(2000年10月7日)のものであるが、少年法「改正に」(案)に反対するとして自由法曹団の声明文がのっていた。

 
 これも要旨は、刑罰を重くしても少年凶悪犯罪は減少しない。将来性のある少年に対しては、家族、教育、地域社会など総合的な体制の整備こそ早急に行うべきである、との決まり文句が並んでいる。
 死刑廃止論、更生至上の少年法の精神、結構な話である。私も高校生の頃は、「死刑廃止論」を一生懸命読み、なるほどそうだ、“死刑=人為的、政治的、制度的悪”だと信じた。

 だが、その後40年背中の甲羅に少々の苔が生えるにしたがって、そんな書生論議、形而上論議、理想論議が虚しい木霊にしか聞こえなくなった。

 何故か、広島に原爆を落とされてみても、誰も罰せられず誰も罰しようとしない。前にも懲りず、帝国主義米国は世界中で戦争行為に血道を上げて、それを誰も阻止できない。この体たらくを見て、人間性オール性善説にも似た“母親のおっぱい”のような幻想を持ちえるだろうか。

 だからと言って私は人間全てについて性悪説をとるものではない。私が諦観してしまうのは、人間性のオドロオドロシさにである。
 人間性には二種類あるということである。
 もちろんこれは、一人一人の中にもある。しかし、その分量が問題である。大抵の人は、良いところ6分、悪いところ4分ではないか。それで人を殺すほどの悪いことはしないですんでいる。殺したいと思っても、いや待てよとブレーキが働く。
 ところが残念ながら、そうでないひとが少数だがいるのではないか。上記のカンタタのように良いところ一厘、悪いところが九分九厘。殺したいと思うとノンブレーキになってしまう輩。それは残念ながら天から頂いた生得のものではないか。

 人の命は短く儚い。根っからの生まれついての悪人かと思える凶悪殺人者に、後悔の時を与えて、罪を悔い別人格の善人に生まれ変われるのを待つのに、どれほどの時間があるというのか。

 一言に殺人と言っても、単純な喧嘩やいきがかり、正当防衛に近いものまで十杷一絡げに言うつもりはない。
 明白な殺意と意図をもって殺人を行う確信犯に限ってのことである。人を抹殺しようというその時点で、それは人間の形をした物体であって人間とは言わない何かに突然変異した異生物でしかないのではないか?。
 
 突然変異を遂げたものが、少々のオメデタイ人間のお説教を聞かせたぐらいで、もとの人間に立ち返るのは化学の時間に習った不可逆反応を可逆反応にするぐらいの不可能なことではないのか?。
 確かに営々と日夜犯罪者の更生に苦労されていらっしゃる方のお話をしらないではない。でも、その対象となるのは、まだまだ掬いようのある者ではないのか?。

 私の主張したいのは、誰がみても聞いても「これは惨いな。これでも人間のやることか」と思われるケースについてである。
 もう、十数年も前になるのであろうか?。東京の足立区だったかの悪がきが、集団で美しい女子高生を拉致監禁、暴行し挙句の果てが殺してコンクリート詰めにした事件があった。あの犯人たちが全員死刑になったとは聞かない。今、どこでのうのうとしているのか?。あの親御さんはどんな無念の気持ちで暮らしていられるのだろうか。思えば、こちらまで震えてきそうだ。

 このような輩を生き延びさせて世の中にどれほどの益があるのか?。こんな輩をどこの何方が更生させうるのか?。
 さすれば、すみやかにこの人間世界からはご退場願うほかないのではないか?。

 自由法曹団とか宮崎大聖人先生は直ぐに更生更生と簡単におっしゃるが、大体、不登校に始まってニートに“おたく”とよばれる方々が周りで一生懸命働きかけたところでどれほどの効果があがっているだろうか。犯罪とは無関係なそれぞれの単なる社会生活不適応症にたいしてでさえ非常に苦心惨憺しているというのが現状ではないか?。

 それが、上記のような確信的凶悪殺人犯罪者に対して、どんな更生期待できるのか?。

 よく聞く。刑務所を出ても雇用してくれる所がないと。当たり前である。まともな人間でも雇用者にしてみれば様々な不安があるというのに、一度犯罪を犯した人間を家族でもない赤の他人が、「罪を憎んで人を憎まず」なんてオメデタイ呪文唱えて、一緒にそばに置いて起居を共にできるだろうか。

 人間の心のうちなんて誰にも不可視の闇の世界である。そこで何時、如何なる憤怒と暴力のマグマが噴出するか分からない不気味な存在ではないか。

 こんなことを言えば、直ぐに上記の自由法曹団や宮崎大先生からは、「お前は、ファシストか、前世紀の石頭か」と一喝されそうである。そして彼らは次のようにおしゃるのではないか?。
「いかなる凶悪犯罪者といえども、人権はある。国家による殺人である死刑制度は廃止すべきである。刑罰は応報ではない。罪を悔いて更生させ温かく犯罪者にも第二の人生を送らせてやるべきだ。それが真の社会正義というものだ」と。

 一体、私たちはいつからこんなに良い悪いのけじめをあいまいにして、利巧ぶり優しい人ぶるようになったのか?。

 思うに、暇あり、食う苦労なき学者先生が、書斎の空論、人間性を知らずして外国かぶれの新知識、これ有難がっての吹聴でここまで世の中フヤカシ人心惑わしたのではないの?。
 とにかく今の学者先生、全てとは言わないが、無学無学歴の山家の隠居が言うのもおこがましいが、なまじ物覚えがいいだけで、みんなあちらこちらの聞きかじり。さても盗んだその言葉、もっともらしくおためごかしのご高説。どれ聞いたところでみんな過ぎた事象のきりきざみ。つなぎ合わせの下手なパッチワークで、さも意味ありげの後講釈がほとんどだ。
 だから似非学者の戯言など今起こっている目の前の現実の問題解決なんぞには、どれもこれも○○の役にも立ちゃしない。

 近々僅かに100年ちょっとの今昔、私の曾爺さんの頃には、人殺しは磔獄門、十両盗めば笠の台が飛んだとか。最もこれは建前で、盗みの場合は親戚縁者が被害額を弁済すれば内々に罪一等を減じられたとか。江戸時代の人の方がものの考え方にケジメがあり大人の智恵があったのだ。

 スタンダールの名著、「赤と黒」の主人公、美貌の秀才ジュリアン・ソレルでさえも愛人を狙撃して怪我させただけでも殺人未遂罪に厳しく問われ、人権思想発祥の地、200年足らず前のフランスでギロチンの露と消えているのだ。

 それに比べて、現在の、サリン振りまき日本国家を我が物にせんとして白昼堂々何十人も死傷させた松本某の十年裁判の体たらく。江戸時代、桜吹雪の遠山金さんか、葵御紋のご老公にお聞かせしたら何と仰せになるだろう?。

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?。