3月2日(木)曇り後晴れ。
昨日の続きを書こうと思い我がブログを開けたら、珍しく1通のコメントが寄せられていた。めったにないことなのでワクワクしながらクリックしてみた。
『 ブログってそんなもの(鶴田ふぁん)
あなた思い上がりもいいとこだよ
きっこのほうがスジ通ってる 』
とあった。ガックリである。しばらく呆然と考え込んだ。“きっこ”さんのいうテポドン、ミサイル喰らったぐらいの衝撃である。
何がといって、「思い上がりもいいとこ」と弾劾されたことにである。「高みの見物」がいけなかったのだろうか?。いや、そんな表面的な次元ではあるまい。
鶴田ふぁん氏が敏感に感じ取られたのは、私のものの言い方、私がごときが文体なんて恐れ多いが、その醸し出す本人には自覚し得ない体臭みたいなものによるのかとも考えてみた。
とにかく、主文だけの判決言い渡し文みたいなもので途方に暮れてしまった。私は小さいとき、祖母に叱られるたびに「何故?どうして?」と言い返して「ほんとにこの子は理屈ばかり言って、小憎らしい子だねー」としょっちゅう言われていたのを思い出した。
そして、いささか戦意を喪失した。
まあー、そんなわけで少しメロメロになりながら、あと少し昨日言い足りなかったことを書いてみたい。
先ずもって、昨日の「Gyao」見積の結果、“きっこの日記”は何と“2億円!”の価値があるとか、本として出版すると、100万部は見込めるとか、すごいすごいすごいことである。
この評価に対して、きっこさんは、
『…現実の世界の話として、あたしが売る気になれば、この日記は2億円で売れるってことだ。…、やっぱり、この「きっこの日記」は、あたしの宝物だし、2億円だろうが3億円だろうが、売る気はない。それに、もし売ったりしちゃったら、アホの永田から、「お金で魂を売っているのは自分じゃないですか!」なんて言われちゃいそうな気がする今日この頃なのだ(笑)』
とある。
こんな大ブログに対して、ブログ界のカリスマ様に対して、今や万余の篤い信者がいらしゃるかと思われる大教祖様のような方に対して、どこかの大会長様のようなお偉い方に対して、私がごとき山家の歯抜け隠居がイチャモンつけるなんて身の程丈のほど知らずにもほどがあるってもんだと心底思い尻ました。
正直、「きっこの日記」は、その文体の軽やかなリズム感、コミカルなタッチ、つつましくそれでいてどこかちょっとコケティッシュさを感じさせる女性の一人暮らしを垣間見る楽しさがある。時々披瀝される俳句を通しての古典への造詣。そうした日常生活点描の中に突如、発信される衝撃的な時事ネタ、大マスコミであれば軽々に報じられないコンフィデンシャル情報の意外性と魅力がある。
誰も知らない取って置きの嘘か本とか見極めのつかない熱々のホットニュース。これを他人様より早く知りえたという優越感はたまらないものがある。過日の耐震偽装追求の時はまさにそれだった。
このような情報媒体は極めて貴重である。
だからこそ、直ちには証拠を提示できない根拠の不確かな「面白ネタ」やヤバイ大物猛り狂わせねじり鉢巻湯気ホカホカと、「匿名ブログ規正法」なんて網被せられ、手鎖りウン日、罰金うん千両なんてことにならないよう、お気をつけになってはいかがかと心配するのである。
そんなあぶないサーカス竿立ちしなくても「きっこの日記」は魅力十分だからである。
それでも「ブログってそんなもの」と嘯かれるのであれば何おか言わない稚内である。
と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?
ー追記ー
なお、最近、“きっこさん”のもう一つの魅力を見つけた。
それは、「横山きっこ」のページ、「きっこ俳句集、猫の声、マリアの月」である。
これを読むと、ある時期きっこさんが恋に落ちたようである。しかし、その恋にはどこか不倫(?)の陰が漂う(これは私の下司の勘ぐりか?)。当初、暫くはきっこの日記は時事だねとは無縁であった。それがある時期から急に過激になったのである。(注:このへんの詳しい分析は「松永英明氏のブログ」を参照していただきたい。)ということは、いつの頃か、“きっこ”さんが懇ろになったジャーナリストもしくは、情報屋さんか誰かが何らかの意図できっこさんのブログに相乗り、利用しているのではないかと貧しい勘ぐり案繰りしてしまうのだが…。
昨日の続きを書こうと思い我がブログを開けたら、珍しく1通のコメントが寄せられていた。めったにないことなのでワクワクしながらクリックしてみた。
『 ブログってそんなもの(鶴田ふぁん)
あなた思い上がりもいいとこだよ
きっこのほうがスジ通ってる 』
とあった。ガックリである。しばらく呆然と考え込んだ。“きっこ”さんのいうテポドン、ミサイル喰らったぐらいの衝撃である。
何がといって、「思い上がりもいいとこ」と弾劾されたことにである。「高みの見物」がいけなかったのだろうか?。いや、そんな表面的な次元ではあるまい。
鶴田ふぁん氏が敏感に感じ取られたのは、私のものの言い方、私がごときが文体なんて恐れ多いが、その醸し出す本人には自覚し得ない体臭みたいなものによるのかとも考えてみた。
とにかく、主文だけの判決言い渡し文みたいなもので途方に暮れてしまった。私は小さいとき、祖母に叱られるたびに「何故?どうして?」と言い返して「ほんとにこの子は理屈ばかり言って、小憎らしい子だねー」としょっちゅう言われていたのを思い出した。
そして、いささか戦意を喪失した。
まあー、そんなわけで少しメロメロになりながら、あと少し昨日言い足りなかったことを書いてみたい。
先ずもって、昨日の「Gyao」見積の結果、“きっこの日記”は何と“2億円!”の価値があるとか、本として出版すると、100万部は見込めるとか、すごいすごいすごいことである。
この評価に対して、きっこさんは、
『…現実の世界の話として、あたしが売る気になれば、この日記は2億円で売れるってことだ。…、やっぱり、この「きっこの日記」は、あたしの宝物だし、2億円だろうが3億円だろうが、売る気はない。それに、もし売ったりしちゃったら、アホの永田から、「お金で魂を売っているのは自分じゃないですか!」なんて言われちゃいそうな気がする今日この頃なのだ(笑)』
とある。
こんな大ブログに対して、ブログ界のカリスマ様に対して、今や万余の篤い信者がいらしゃるかと思われる大教祖様のような方に対して、どこかの大会長様のようなお偉い方に対して、私がごとき山家の歯抜け隠居がイチャモンつけるなんて身の程丈のほど知らずにもほどがあるってもんだと心底思い尻ました。
正直、「きっこの日記」は、その文体の軽やかなリズム感、コミカルなタッチ、つつましくそれでいてどこかちょっとコケティッシュさを感じさせる女性の一人暮らしを垣間見る楽しさがある。時々披瀝される俳句を通しての古典への造詣。そうした日常生活点描の中に突如、発信される衝撃的な時事ネタ、大マスコミであれば軽々に報じられないコンフィデンシャル情報の意外性と魅力がある。
誰も知らない取って置きの嘘か本とか見極めのつかない熱々のホットニュース。これを他人様より早く知りえたという優越感はたまらないものがある。過日の耐震偽装追求の時はまさにそれだった。
このような情報媒体は極めて貴重である。
だからこそ、直ちには証拠を提示できない根拠の不確かな「面白ネタ」やヤバイ大物猛り狂わせねじり鉢巻湯気ホカホカと、「匿名ブログ規正法」なんて網被せられ、手鎖りウン日、罰金うん千両なんてことにならないよう、お気をつけになってはいかがかと心配するのである。
そんなあぶないサーカス竿立ちしなくても「きっこの日記」は魅力十分だからである。
それでも「ブログってそんなもの」と嘯かれるのであれば何おか言わない稚内である。
と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?
ー追記ー
なお、最近、“きっこさん”のもう一つの魅力を見つけた。
それは、「横山きっこ」のページ、「きっこ俳句集、猫の声、マリアの月」である。
これを読むと、ある時期きっこさんが恋に落ちたようである。しかし、その恋にはどこか不倫(?)の陰が漂う(これは私の下司の勘ぐりか?)。当初、暫くはきっこの日記は時事だねとは無縁であった。それがある時期から急に過激になったのである。(注:このへんの詳しい分析は「松永英明氏のブログ」を参照していただきたい。)ということは、いつの頃か、“きっこ”さんが懇ろになったジャーナリストもしくは、情報屋さんか誰かが何らかの意図できっこさんのブログに相乗り、利用しているのではないかと貧しい勘ぐり案繰りしてしまうのだが…。