3月19日(日)曇り後晴れ、風強く次第に寒気戻る。
今日のWBC韓国戦で日本は、6-0で勝利し、21日キュウバと優勝を争うこととなった。先ずはめでたしである。しかし、忘れられないのは先日の誤審じけんである。
3月13日、WBC選手権試合、日米対戦において、アメリカの審判が誤審をした。その誤審に対して世界の王監督が抗議しても結果は覆らなかった。そこに私は、醜いアメリカ人を見た。堕ちたアメリカを見た。
自分勝手な、相手の存在なんか眼中に無いのだ。自分の流儀が全てなのだ。問答無用で白昼堂々とイラクへ侵攻したのと同じ論理で押し通すアメリカを見た。
しかし、こんな事態が生じた背景には、それなりの必然があったのだ。聞けば審判員10何人かの内6人がアメリカ人で日本人はたったの一人とのこと。
何故、事前の開催協議の場で、公平に審判員を出すことを提案できなかったのか?。参加チーム各1~2名というふうにである。
これと同様の事例が、お慰みの野球どころの話ではない、我々自身の生殺与奪にもおよびかねない数々の大問題について、関岡英之氏がその著「拒否できない日本」-アメリカの日本改造が進んでいるーで明らかにされている。まさに衝撃の書である。
話は飛ぶが国連分担金だってそうだ、何故、常任理事国にもしていただけない日本が19.3%もの費用負担を毎年毎年、唯々諾々と律儀に払い続けてこなければならないのだ。
これも先日の国会質疑において、麻生外務大臣が直ちには変更できないような気の抜けたビールのような返答をしていた。そこには正面切って是正に向けて取り組んでいこうとの気迫はカケラほども感じられなかった。
次期総理の座を狙ってかの台湾何とか、大国中国なんかちっともこわくないぞとばかりに、強がってのつもりだろうが、相撲の珍技ネコジャラシもいいとこどっこいだ。
これ全て、60年も前の敗戦コンプレックスのなせる業ではないのか?。「日本は負けたんだよ。だけどアメリカさんのお陰で、ここまでこられたんだよ。少々のことはしょうがないんだよ」、と。
それはまるで、魯迅描くところの負け犬“阿Q”(=開放前の中国民衆の無気力さを象徴させた小説の主人公)が 金持ちの旦那なや、強い相手に罵倒されるたびに―『ただ他人とけんかをしたときに、たまに目をむいて、こういった。「おいらは昔は……お前なんかよりずっと偉かったんだぞ! お前がなんだってんだ!」』と、ぶつくさの独り言で自分を誤魔化しているのに他ならないのではなかろうか。
おかしいこと不合理なことに対しては、たとえ相手がどんなに強くても,一矢報いる覚悟で、何故糾していこうとしないのか?。我々はいつまでこのように腰抜けで世界中からアホにされ、カモられていなければならないのか?。
これも皆、押し付け憲法とかの前文の美辞麗句が、現実にはどこの星の世界のことかと思えるほど、世界中のあちらこちらでドンパチ絶えぬを見ても、見ない振りして未だに有難がっているおめでたさの為せる業では?。
と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?
今日のWBC韓国戦で日本は、6-0で勝利し、21日キュウバと優勝を争うこととなった。先ずはめでたしである。しかし、忘れられないのは先日の誤審じけんである。
3月13日、WBC選手権試合、日米対戦において、アメリカの審判が誤審をした。その誤審に対して世界の王監督が抗議しても結果は覆らなかった。そこに私は、醜いアメリカ人を見た。堕ちたアメリカを見た。
自分勝手な、相手の存在なんか眼中に無いのだ。自分の流儀が全てなのだ。問答無用で白昼堂々とイラクへ侵攻したのと同じ論理で押し通すアメリカを見た。
しかし、こんな事態が生じた背景には、それなりの必然があったのだ。聞けば審判員10何人かの内6人がアメリカ人で日本人はたったの一人とのこと。
何故、事前の開催協議の場で、公平に審判員を出すことを提案できなかったのか?。参加チーム各1~2名というふうにである。
これと同様の事例が、お慰みの野球どころの話ではない、我々自身の生殺与奪にもおよびかねない数々の大問題について、関岡英之氏がその著「拒否できない日本」-アメリカの日本改造が進んでいるーで明らかにされている。まさに衝撃の書である。
話は飛ぶが国連分担金だってそうだ、何故、常任理事国にもしていただけない日本が19.3%もの費用負担を毎年毎年、唯々諾々と律儀に払い続けてこなければならないのだ。
これも先日の国会質疑において、麻生外務大臣が直ちには変更できないような気の抜けたビールのような返答をしていた。そこには正面切って是正に向けて取り組んでいこうとの気迫はカケラほども感じられなかった。
次期総理の座を狙ってかの台湾何とか、大国中国なんかちっともこわくないぞとばかりに、強がってのつもりだろうが、相撲の珍技ネコジャラシもいいとこどっこいだ。
これ全て、60年も前の敗戦コンプレックスのなせる業ではないのか?。「日本は負けたんだよ。だけどアメリカさんのお陰で、ここまでこられたんだよ。少々のことはしょうがないんだよ」、と。
それはまるで、魯迅描くところの負け犬“阿Q”(=開放前の中国民衆の無気力さを象徴させた小説の主人公)が 金持ちの旦那なや、強い相手に罵倒されるたびに―『ただ他人とけんかをしたときに、たまに目をむいて、こういった。「おいらは昔は……お前なんかよりずっと偉かったんだぞ! お前がなんだってんだ!」』と、ぶつくさの独り言で自分を誤魔化しているのに他ならないのではなかろうか。
おかしいこと不合理なことに対しては、たとえ相手がどんなに強くても,一矢報いる覚悟で、何故糾していこうとしないのか?。我々はいつまでこのように腰抜けで世界中からアホにされ、カモられていなければならないのか?。
これも皆、押し付け憲法とかの前文の美辞麗句が、現実にはどこの星の世界のことかと思えるほど、世界中のあちらこちらでドンパチ絶えぬを見ても、見ない振りして未だに有難がっているおめでたさの為せる業では?。
と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?