蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

民主党・国会対策委員長、渡辺恒三氏に思う。

2006-03-04 22:40:59 | 時事所感
 3月4日(土)晴れ、朝気温ー3度、日中は暖。

 メール迷走、民主党、責任とってか逃げたのか、野田国会対策委員長の後釜、火の玉御免の難産、辛苦の盥回し、挙句の果てに踊り出でたる人は何方と思いきや、シーラカンスか重文秘仏の渡辺恒三、元衆議院副議長とか。

 今朝のTVでの発表見て、これって何か遠い昔話にあったような、気がした。

 そうだ、平家物語「実盛最後」の段に出てくる斎藤別当実盛だ。
 『又武蔵野国の住人長井の斎藤別当実盛、御方(みかた)は皆落ち行けども、ただ一騎返し合わせ返し合わせ防ぎ戦う。…』とあり、木曾義仲を打つ積もりで大挙攻め寄せた平家方、攻め滅ぼすのが反対に倶利伽羅峠で有名な松明(たいまつ)牛に追い落とされて、ホウホウの体での逃げ戦、此処を最後の死に場所と殿(しんがり)勤めた斎藤別当実盛、惜しくも打たれて首実検。黒髪井戸で洗って見れば墨黒々と流れ落ち、見ればさらさら白き髪。
 この老将、若いときには源氏方、それが平家に助けられ、その平家がまたまた源氏に負け戦、自民党から新進党、その新進党から民主党へと昔も今もそっくりだ。

 「60を過ぎて、軍(いくさ)の陣へ向かう時は、髪・鬚を黒く染めて若く見せたいものよ。その訳は、若武者と先を争って駆け回るのもおとなげないが、老い武者と言われてバカにされるのも口惜しいからだ。」とか。昔の仲間に老いの身晒すは恥ずかしと白髪頭を墨で染めたる心意気、知りて涙せず者なかりけりとか。

 時に斎藤別当享年73歳、1183年5月21日戦死。対する渡辺氏73歳、1982年5月24日生まれ。輪廻転生、800年後の生まれ変わりかと思うほど、何たたる歴史の偶然か。

 平家物語が惜しんで詠う名セリフ、
 「朽ちもせぬ空しき名のみ留めおきて、屍(かばね)は越路(民主党)の末の塵となるこそ悲しけれ」の心境かと想像してみる。

 こうしてみると、攻める源氏の筈の民主党が、実は平家で、攻め滅ぼされて壇ノ浦の藻屑となる定めの近さが案じられる。嗚呼!やんぬるかな、やんぬるかな。

と、思うこの頃、さて皆様いかがお思いでしょうか。

さらば「前原民主党!」

2006-03-04 00:03:37 | 時事所感
 3月3日(金)晴れのち曇り、寒し。

 今朝の、TV「スーパーモーニング」で永田議員メール騒動一件落着(?)の景を見た。

 先ず、永田議員が武部大幹事長閣下の傍に歩み寄り、深々とその砕け腰をさらに何度か伸縮させた。次に、かたや前原代表も、おめでた鳩ぽっぽ時計(いつもは箱の中、都合のいいときだけ引っ張り出される)幹事長に促されるかに、小泉大宰相閣下の椅子に歩み寄り、こちらも深々おまけのうやうや最敬礼。

 受けての小泉独裁大宰相閣下はと見れば、満足げな余裕の笑みも豊かに「愛い奴、愛い奴、可愛い坊や」とばかりに、前原口軽お粗末お坊ちゃまの手をとり、大野党民主党党首閣下の肩をいとも親しげお気安にポンと敲いた。

 まあ、これがなれあい二大政党民主主義国家の欺瞞全開・崩壊の景といったところか?と、我が目を覆いたくなったが目に入ってくるものはいかんせんだ。

 僅か半年足らず前、9月17日、私はこのブログで「前原万歳!」と謳い上げた。党首選での力強く簡潔に自から生い立ちを踏まえ真に弱者のためになる政治を目指すと述べた。その言や良しと若き民主党党首誕生を寿いだ。それが、僅か半年も経たない今日、こんな戯文、駄文を弄することとなろうとは、源氏平家の壇ノ浦だ。

 されば思い切りよく「さらば前原お坊ちゃま」と一声放って、三度笠、春風遥かに飛ばしたいのはやまやまなれど、身を寄せる宛て無い哀しさやるせなさである。

 我が国、有権者数1億327万人から選びぬかれた(?)衆議院議員480人、僅貴0.0005%の人材がかくもお粗末何故なのか?。

 お隣中国、共産党の推薦が無い限り政治家になぞなろうたってなれないのなら分かるが、建前としては誰でも立てる我が国においておやである。

 せっかく先の証人喚問等で馬渕議員の快刀乱麻、拍手喝采、さあこれからと皆の期待高まる矢先、何血迷ってか、功焦ってかの、馬渕議員にお株取られては一大事とかの大チョンボとはこれいかにだ。

 見回したところ、江田憲司さんとか馬渕澄夫さんとかこれはと信じられる有志集って、真の新党立ち上げられないものか?と思うしだい。

 この国では矢張り二大政党小選挙区制は不向きなのではなかろうか?。

 我が国民性の良さは、白黒どちらかではなく、その境界線上のグレーゾーンを大切にするところにあるのではと思う。幽玄の美、禅的境地、八百万の神座ます国柄に思いいたすべきではなかろうか。

 そして政治に格好よさを求めるべきではないのだ。本当の政治とはオドロオドロシイ国民各層の相反する利害調整を根気よく誠実に行うことではないのか。そんな地味で泥臭いものが本来政治ショーなんかになる代物ではないのではないか?。

 その意味で、真に勝手ながら今じゃ、せめて恋しい岡田さんである。

 政治の堕落・国民の不幸は、このTV万能時代に何も彼もがショーアップされないではおかれない癒しがたい時代の病魔のなせる業では?。

 そして、この国では間違っても首相公選制などはとるべきでないと考える。政治TVショーの行き着くところ破廉恥漢・横山何某を大阪府知事に選ぶ選挙民が多数派なのだから。

 と、ぼやいて少しは憂さばらし。さて皆様はいかがお思いでしょうか?。


「きっこの日記」の危うさ?ー私的ブログ論ー(その2)

2006-03-02 15:13:43 | 時事所感
 3月2日(木)曇り後晴れ。

 昨日の続きを書こうと思い我がブログを開けたら、珍しく1通のコメントが寄せられていた。めったにないことなのでワクワクしながらクリックしてみた。

『 ブログってそんなもの(鶴田ふぁん) 
  あなた思い上がりもいいとこだよ
  きっこのほうがスジ通ってる   』

とあった。ガックリである。しばらく呆然と考え込んだ。“きっこ”さんのいうテポドン、ミサイル喰らったぐらいの衝撃である。

 何がといって、「思い上がりもいいとこ」と弾劾されたことにである。「高みの見物」がいけなかったのだろうか?。いや、そんな表面的な次元ではあるまい。
 鶴田ふぁん氏が敏感に感じ取られたのは、私のものの言い方、私がごときが文体なんて恐れ多いが、その醸し出す本人には自覚し得ない体臭みたいなものによるのかとも考えてみた。

 とにかく、主文だけの判決言い渡し文みたいなもので途方に暮れてしまった。私は小さいとき、祖母に叱られるたびに「何故?どうして?」と言い返して「ほんとにこの子は理屈ばかり言って、小憎らしい子だねー」としょっちゅう言われていたのを思い出した。
 そして、いささか戦意を喪失した。

 まあー、そんなわけで少しメロメロになりながら、あと少し昨日言い足りなかったことを書いてみたい。

 先ずもって、昨日の「Gyao」見積の結果、“きっこの日記”は何と“2億円!”の価値があるとか、本として出版すると、100万部は見込めるとか、すごいすごいすごいことである。

 この評価に対して、きっこさんは、
『…現実の世界の話として、あたしが売る気になれば、この日記は2億円で売れるってことだ。…、やっぱり、この「きっこの日記」は、あたしの宝物だし、2億円だろうが3億円だろうが、売る気はない。それに、もし売ったりしちゃったら、アホの永田から、「お金で魂を売っているのは自分じゃないですか!」なんて言われちゃいそうな気がする今日この頃なのだ(笑)』
とある。

 こんな大ブログに対して、ブログ界のカリスマ様に対して、今や万余の篤い信者がいらしゃるかと思われる大教祖様のような方に対して、どこかの大会長様のようなお偉い方に対して、私がごとき山家の歯抜け隠居がイチャモンつけるなんて身の程丈のほど知らずにもほどがあるってもんだと心底思い尻ました。

 正直、「きっこの日記」は、その文体の軽やかなリズム感、コミカルなタッチ、つつましくそれでいてどこかちょっとコケティッシュさを感じさせる女性の一人暮らしを垣間見る楽しさがある。時々披瀝される俳句を通しての古典への造詣。そうした日常生活点描の中に突如、発信される衝撃的な時事ネタ、大マスコミであれば軽々に報じられないコンフィデンシャル情報の意外性と魅力がある。

 誰も知らない取って置きの嘘か本とか見極めのつかない熱々のホットニュース。これを他人様より早く知りえたという優越感はたまらないものがある。過日の耐震偽装追求の時はまさにそれだった。
 このような情報媒体は極めて貴重である。

 だからこそ、直ちには証拠を提示できない根拠の不確かな「面白ネタ」やヤバイ大物猛り狂わせねじり鉢巻湯気ホカホカと、「匿名ブログ規正法」なんて網被せられ、手鎖りウン日、罰金うん千両なんてことにならないよう、お気をつけになってはいかがかと心配するのである。
 そんなあぶないサーカス竿立ちしなくても「きっこの日記」は魅力十分だからである。

 それでも「ブログってそんなもの」と嘯かれるのであれば何おか言わない稚内である。

と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?


ー追記ー

 なお、最近、“きっこさん”のもう一つの魅力を見つけた。

 それは、「横山きっこ」のページ、「きっこ俳句集、猫の声、マリアの月」である。

 これを読むと、ある時期きっこさんが恋に落ちたようである。しかし、その恋にはどこか不倫(?)の陰が漂う(これは私の下司の勘ぐりか?)。当初、暫くはきっこの日記は時事だねとは無縁であった。それがある時期から急に過激になったのである。(注:このへんの詳しい分析は「松永英明氏のブログ」を参照していただきたい。)ということは、いつの頃か、“きっこ”さんが懇ろになったジャーナリストもしくは、情報屋さんか誰かが何らかの意図できっこさんのブログに相乗り、利用しているのではないかと貧しい勘ぐり案繰りしてしまうのだが…。



「きっこの日記」の危うさ?―私的ブログ論―

2006-03-01 17:31:06 | 時事所感
3月1日(水)雨、寒い一日。

 2月26日(日)付け、<「きっこの日記」は無料です1~4>で、“きっこ”さんが珍しく怒っている。直前に、週刊新潮や「サイパッチ」とかのブログで、“きっこさん”そのものの正体、書いてある内容の真否等についてあれこれ詮索されたり、ツッコマレたりに対する怒りの抗議のようである。

 きっこさんは叫ぶ。『「きっこの日記」は、あくまでもあたしのプライベートな日記であって、あたしが書きたいことを書くための日記だ。…あたしの自己満足のために書いている。読者のために書いているんじゃない。読みたい人はかってに読めばいい。あたしは、ジャーナリストでもマスコミでもなく、単なるひとりのヘアーメークだ。そんなあたしが、その日の気分で書きたいと思ったことをかいているだけの日記なんだから、その内容について、あーだこーだって反論みたいなメールを送ってくるのだけは、絶対にやめて欲しい。正直言って、ウザイ。あたしの書いていることが気に食わないんなら、二度と読まなきゃいいだけのことなのに、』と。

 しかし、この言い分は通るだろうか。”きっこ”さんにとっては通ろうが通るまいが勝手にしてくれだろうが、私には、”きっこ”さんが分かっていての強がりにしか受け取れない。

 以下、我が愛読する「きっこの日記」について私が感じた危惧を通しての、私なりの貧弱なブログ論である。

 ブログは、今や一つの立派な社会的な誰でもが無資力で参加し、発信できる情報媒体である。発信者、受け手は個々の個人であっても社会的な情報ツール、インフラとしては公器とみなすべきではなかろうか。

 その意味で、不特定多数の方々(公衆?)の目に触れることが前提のブログにおいては、「私のための私の日記=何を書いても勝手!」とはならないのではないか?。
 何も、書いた内容に厳正な責任を持てというのではない。文章を面白くするための誇張や諧謔は良い。

 しかし、事実の裏づけのないことは書くべきではないと思う。
 上掲のその3に記載されている、『去年の総選挙の時に、イノシシが武部ブタに何億円だかを渡した時も、バカ息子が受け渡しの窓口になって、2000万円だか3000万円だか抜いたって話は、バカ息子本人が彼女にベラベラとしゃべってるし、…』などになると、単なる風説の流布意外のなにものでもなくなってしまう。
 
 もし、この内容が事実であるならば、“きっこさん”がここに書いてあるように直接見聞したのであれば、しかるべく捜査機関でもマスコミにでも情報提供すべきではないか?。でなければ単なる犯罪行為の傍観者にすぎないことを自ら告白しているようなものではないか?。
 
 なぜ、“きっこさん”は、これは私のための私だけの日記といいながら、こんな社会だねを、それこそ事実とすれば大変な時限爆弾を仕掛けなくてはならないのか、理解に苦しむところである。
 MAXの宣伝や感想、俳句については何を書かれようとかってである。おっしゃるとおりである。そんなものに誰も文句をつけるものはあるまい。

 しかし、一度、政治家をはじめとして、他人を名指しかそれと分かる表現で揶揄したり事実不明のことを記載記することは許されるべきではない。渥美寅さんの名セリフを借りれば「それをやっちゃあおしめいよ!」である。ブログ民主主義の自滅。公権力の規制を招くことは火をみるより明らかではないのか。

 そこに自ずからなるルール、規範、自己抑制がなくてはならないのではないか?。
その自覚の有無が、これから発展途上にあるブログが民主主義社会の有力な情報媒体となりうるか、単なる興味本位の掲示板やチャット的なもので終わるかの境目になるのではないか。

 “きっこさん”は残念ながら、都合の悪いことになると、プライベート日記論に逃げ込んでしまい、読みたい人だけが読めば良いという。

 しかし、上記のようなセンセーショナルな記事を記載することは一目を引きたい、話題を呼びたい一心そのものではないか?。
 もしそれが動機で、「武部ブタ云々」なら他人事ではない。“きっこ”さんそのものが人間として、最低の部類に堕することとなるのではないか?。

 それが証拠に、今日、3月1日付けで、いつもの文体とは違う調子、まるで別人の口調で『パソコンテレビ「Gyao」(予告、22:15~ )で「きっこの日記」が、もし売るとすればいくらになるか値踏みしてもらうのを楽しみにしている、これまでがんばって書き続けてきたので…』とあった。“きっこ狐”の大尻尾といったところだろうか?。

 私も、せいぜい、一杯やりながら今大フィーバー中の「きっこの日記」にいくらの値がつくのか?。その値段、に対して、はたして”きっこ”さんがどんなコメントを打つのか高みの見物きめこみたいと思うこの頃。

 さて、皆様は何とお思いでしょうか?

 ー追記ー勿論、この記事、”ウザイ”と言われるのを処置で「きつこの日記」の”きっこ”さんにメールしたり、TBするつもりは毛頭ありません。おそらく私のような無名のブログなど所詮、”蟷螂の斧”でしかすぎないでしょうから。(この項、続くつもりです。)