徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

江戸時代の生活 ⑪ -教育(藩校)ー

2010年02月07日 10時46分11秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の教育体制には、大きく分けて寺子屋、藩校、私塾があります。
寺子屋が庶民の教育を担っていたのに対して、藩校は、武士の教育が目的でした。
なお、私塾は、後日述べますが、専門分野の教育(蘭学、医学など)が目的でした。

武士を教育するのが目的である藩校は、ほぼ一つの藩に1校はありました。
内容や規模はまちまちでしたが、ほとんどの藩では、藩士の子弟を強制的に入学させ、庶民は入学出来ませんでした。

日本初の藩校は、寛文9年(1669年)に岡山藩主池田光政が設立した花畑教場だそうです。
江戸時代に入り、武断政治から文治政治へと転換し、武力より学問を重視する傾向から各地に設立しました。

藩によって違いますが、初等教育から始まり、武芸・儒学・兵学・漢学などを教えていたようです
藩校が全国的に広まったのは、宝暦期間(1751~64年)ごろ以降であり、多くの藩が藩政改革のため有能な人材を育成することを目的として設立された学校が多いようです。

  
   長州藩の明倫館               会津藩の日新館

藩校が盛んになるにつれ、地方文化の振興や、地方をリードする政治家や学者が出てきました。
代表的な藩校としては、会津藩の日新館、水戸藩の弘道館、長州藩の明倫館、薩摩藩の造士館などが有名です。

幕末には、国学や漢学に止まらず、医学、化学、西洋兵学等の学寮を併設し、現代の総合大学にまで発展してゆく藩校もありました。
しかし、明治維新以後は学制改革の中で廃止された藩校も多くあったのですが、生き残った藩校は、旧制中学校となりました。

その後全国に文部大臣の管理する官立高等中学校が開設され、旧藩や藩医学校の流れをくむ多くの学校が生まれ、それが大学にまで発展してゆきました。

例えば、仙台藩の明倫養賢堂は、現在の東北大学医学部となっています。
その他主な所では、松江藩の文武館などが統合され、現松江赤十字病院。
岡山藩の花畑牧場は現在の岡山大学教育学部。 
彦根藩の弘道館は現在の滋賀県立彦根東高等学校などで、その他にも現在小学校、中学校、高等学校が各地に残っています。

私立の高等学校では、藩校の名前を借りたものもあります。
例えば、秋田藩の明徳館は、その名前を借りて秋田明徳館高等学校などです。

ちなみに、江戸幕府直轄の昌平坂学問所は、現在の東京大学です。


江戸時代の生活 ⑩ -教育(寺子屋)②-

2010年02月05日 11時12分09秒 | 江戸時代とは・・・・・

寺子屋による初等教育の就学率は、農村部まで含んで70~85%と推定され、これは、当時では世界一で、1837年頃のイギリスの大都市でさえ20~25%、革命後のフランスでは1793年に初等教育を義務化したにもかかわらず1.4%だったようで、これらからして、日本の江戸時代の就学率が高かったことがわかります。

しかも、幕府には教育を管轄する役所はなく、お上の計画に則って作られたものではなく、庶民の自発的に発生したシステムだったようです。

ということで、寺子屋に関する記録は、幕府や藩の公文書にはありません。
また、決まった入学年齢があるわけでもなく、家庭の事情によってまちまちでした。

        

寺子屋の起源は、室町時代からと考えられています。
当時は、僧侶となる少年を対象とする教育と、武士の子供を預かって初歩的な読み書きを教える教育の二面性を備えていたようです。

それが、庶民の子供にも手ほどきを与える風習が一般化してきました。
それには、親の子供に対するしつけや教養の必要性が、一般庶民に広まり、それに経済的な余裕も多少は出来てきたのではないかと思われます。

寺子屋の先生、師匠の職業も地域によって違っていたようです。
明治初期、東京府が小学校設立のために寺子屋師匠に提出させた調書には旧身分が書かれており、多いのは農民や商人などの平民(町人)でついで士族でした。
また、千葉県の調査での師匠の職業は、僧職が多く、ついで農民、神官、医師です。
このことから、江戸では、町人が多く、農村では僧職などが多かったことが分かります。

  

寺子屋の教科書は、総称して「往来物」が多かったようです。
往来とは「往復一対の手紙・書状」のことで、日常生活の中で使われているもので、これによって、季節の挨拶や年中行事や人の付き合いなども教えていたようです。
「往来物」は、江戸の民衆にとっては実生活に即した教科書で、教科書の代名詞にもなりました。

その他に文字を学ぶ「千字文」、地名・地理を学ぶ「国尽」「町村尽」。
「四書五経」などの儒学書、「徒然草」「百人一首」などの古典が用いられていました。


江戸時代の生活 ⑨ -教育(寺子屋)①ー

2010年01月27日 16時25分31秒 | 江戸時代とは・・・・・

久しぶりに、江戸時代のことに書きます。
このシリーズは昨年の11月19日に江戸時代の食事を述べましたが、今回から「江戸時代の教育」について書いてみます。

江戸時代の教育体制には、藩校、私塾、寺子屋の種類がありました。
今回は、まず寺子屋のついて書いてゆきます。

この寺子屋教育は、今ある日本の教育だけではなく、科学、技術の発展基盤となっているのが、寺子屋制度にあったのではないかと言われています。
寺子屋は、江戸時代より以前からあったのですが、江戸時代には、広く一般庶民にも広がったことが、江戸時代の寺子屋の特徴なのです。
その制度は、世界にも注目され、日本ユネスコ協会連盟が実施しているのが「世界寺子屋運動」です。
国連もユネスコの主導で世界の子供たちが学校に通えるようにし、就学率の向上を計っています。

     
       今日の絵は”ガーベラと一緒に”  F6号

江戸時代の寺子屋では「読み、書き、そろばん(計算)」の基礎的な知識の習得にとどまらず、実生活のしつけや広く社会的なルールをも含め修身に必要とされる教育を総合的に行われていました。

1850年頃の日本の就学率は70~80%と言われ、明治初期には世界一だったそうです。
現在、世界でも行きたくても学校に行けない子供が7500万人もおり、学校に行けずに、大人になり、文字の読み書きが出来ない人たちの数は7億7600万人にも達しているということです。

江戸時代の寺子屋制度は、なにも幕府が制度を作った訳でもなく、支援している訳でもないのに、なぜこのように、寺子屋が一般庶民に行き渡ったのでしょうか?
このことを含め、次回はもう少し詳しく書いてゆきます。
(数値などは、平成21年7月15日付けの産経新聞を参照しました)


江戸時代の生活 ⑧ -食事③-

2009年11月19日 14時55分25秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の庶民の食事は「一汁一菜」ということを書きました。
ということをどこの書物にも書いてあるのですが、実際はどうだったのでしょうか?

天明2年(1782年)に刊行された「豆腐百珍」という本には、豆腐料理100種類の作り方が書かれています。
この時代に、料理書としてベストセラーとなったということは、食に関して一般的に関心が高かったということなのでしょう。
というのも、その後続々と料理本が出版されていることから、推測がつきます。

  

  書物 「豆腐百珍」    

「豆腐百珍続編」 「卵百珍」 「海鰻(はも)百珍」 「蒟蒻(こんにゃく)百珍」「長芋百珍秘密箱」などで、それらには、かなり手の込んだ料理の作り方が出ているのですが、板前さん向きと考えられており、一般家庭向きではなかったのではないでしょうか?

江戸後期には、「為御菜」という出版物が出ており、この内容には、一般庶民が食べていただろうと思われることが詳しく書いてあるそうです。

   江戸時代 料理屋風景

この書物は、相撲の番付に見立てて作ってあり、いわゆるランキング表なのです。
この欄外には、「日々徳用倹約料理角力取組」と書いてあり、要は安くて倹約の出来る料理を意識して書きならべたようです。

行司には、「沢庵」「ヌカ味噌漬け」「なすび漬け」「梅干し」などが並び、世話役として「でんぶ」「ひしお」「みそずけ」「日光唐辛子」などが書いてあります。

主催者は「みそ」「しょうゆ」「しお」の調味料が並んでおり、年寄という欄には「かつおぶし」「しおから」「なめもの」「ごましお」が書いてあります。

相撲番付では、西方、東方にそれぞれ大関、関脇以下の力士名が書いてあるのですが、この「為御菜」では、精進方魚類方に分かれてそれぞれの料理名が書かれてあります

「精進方」の大関には「八杯豆腐」うすく切った絹こし豆腐を軽く煮て、大根おろしをのせたもの)
関脇には「こぶあふらげ」(昆布と油揚げの煮物)
小結は「きんぴらごぼう」   前頭筆頭が「煮豆」
以下、「焼き豆腐」、「ひじき白あい」、「切干煮つけ」、「切りぼし煮つけ」、「芋がらあぶらげ」、「小松菜のひたしもの」
季節ものとして、<春>には、「けんちん」「わかめのぬた」「のっぺい」「たんぽぽの味噌和え」
<夏> 「なすのうま煮」「ささげのごぼう和え」「そら豆煮つけ」「たけのこあらめ」
<秋> 「若菜汁」「芋煮ころがし」「ふろふき大根」「とろろ汁」「あんかけ豆腐」
<冬> 「湯豆腐」「こんにゃくおでん」「納豆汁」「ねぎ南蛮」

「魚類方」の大関には、「めざしいわし」 関脇は「むきみ切干し」(あさり、はまぐりなどのむき身を切干大根と一緒に煮たもの)
小結は「芝エビからいり」 筆頭前頭は「まぐろから汁」
以下、「こはだ大根」「たたみいわし」「いわししおやき」「まぐろのすきみ」「しおかつお」

季節ものとして
<春> 「まぐろきじ焼き」「ひじきむきみ」「いわしのぬた」「かきなます」
<夏> 「芝エビ豆腐」「鯵たで酢」「こはだ煮びたし」「くじら汁」「どじょう鍋」
<秋> 「蒸しはまぐり」「芋煮だこ」「酢だこ」「にしん煮びたし」「焼き秋刀魚」
<冬> 「なまこ生姜」「しらす干」「さわらあんかけ」「卵とじ」

こうして見ると、ほとんどが現在の酒の肴のようです。
味噌汁と香の物と一緒にこれらの一品がつていたのでしょう。


江戸時代の生活 ⑦ -食事②-

2009年11月13日 11時09分18秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の食事は、初期が一日2食だったものが、中期以降は一日3食が一般的になったのですが、献立の内容は、一汁一菜で、おかずが乏しくビタミンB1不足によって「脚気」に罹る人が多く「江戸患い」とも言われていたようです。

おかずは一品だけでしたが、江戸だけではなく、山奥はともかく、地方でも行商人が旬の食材

を新鮮なうちに売りにくるので、現在の野菜や魚よりもおいしいものが食べられたのです

仏教の影響で哺乳類は、あまり食べなかったのですが、魚はよく食べました。
海や川で取れて食べられるものなら、魚はもちろん、タコ、ナマコ、昆布、海苔などを片っ端から食べていました。
お陰で、それらの加工品の技術が発達して、現在に引き継がれています。
江戸でも江戸湾内が豊かな海のお陰で、今のように養殖しなくとも良かったのです。

一時期、日本の食生活は、欧米に比べ貧弱と言って、肉類を好んで食べるようになっり、野菜を食べない傾向にあったのですが、最近は、体のためには、肉類より野菜を多く取るようになってきました。
栄養学的には、昔の質素な食べ物のほうが体に良いのでしょうが、体力から考えると、バランスよく適量な質、量が必要なのでしょう。

  赤穂の塩田風景

食生活で切っても切りはずせないのが、です。
昔から「米塩の資」と言われ、米と塩を買うための資金で、それが生活全体の意味になるほど、江戸時代の人にとっては、米と塩は貴重品でした。

現在では、塩が不足して健康を損なうよりも、取り過ぎで病気になります。
現在の多くは、岩塩から取れる輸入品ですが、当時は塩田での製法のため、時間も費用もかかり、高価で貴重品なのです。
江戸時代は、幕府が地元の産業として、奨励してきました。
そのため、山間部はともかく、海に面した藩では、その製法や販路などでトラブルが絶えなかったようです。
余談ですが、あの忠臣蔵の刃傷の原因の一つが塩のトラブルだったとも言われています。


江戸時代の生活 ⑥ -食事①-

2009年11月11日 11時19分47秒 | 江戸時代とは・・・・・

先日、農林水産省が、平成20年の食料自給率(概算)を発表しました。
それによると日本の食料自給率は、41%だそうです。(カロリーペース)
言うまでもなく、江戸時代の食料自給率は100%です。

では、この時代の食事は、一体どのようなものだったのでしょうか?
江戸時代の食事は、江戸前期は、朝夕二回(朝が午前8時頃なのですが、夕食は午後2時ごろから5時頃まで、説がまちまちです)で、「朝夕」という言葉自体が食事を表していました。

  江戸末期、庶民の食事風景

1日三食が一般的になったのは、江戸中期になってからと言われています。
赤穂浪士が討ち入り後、各大名家にお預けになった時、各大名家の記録に、朝、夕、夜食の3度出されていることが、記録に載っています。

つまり、「朝夕」に「夜食」を加えられ、それがやがて、朝、昼、晩の三食になったのです。
当時の江戸の庶民は、一般的に朝がご飯と味噌汁、昼は、朝の残り物で済ませ、夜がご飯、味噌汁と野菜の煮物か焼き魚などのおかずが一品程度だったと思われるそうです

大名家(柳沢家)の記録では、朝は1汁3菜、昼は1汁5菜、夜は1汁3菜と記録に載っています。 やはり、大名家と庶民とは、大きな違いがあったようですが、普通の武士階級は、一般庶民とあまり変わらなかったようです。

今から思えば、当時、白米は、贅沢だったように思われているのですが、江戸の町においては米は主食として庶民の間でも普及していました。
ただし、地方(田舎)では、それほど米が食べられたということは、ないようです。
地方から江戸に出てくる人の中には、白米が食べれる生活への憧れを抱いて出てくるものも少なくなかったようです。

「三白」と言われる代表的な食材がありました。
米、大根、豆腐で、この三食品は、一日の食事にかなりの頻度で登場しています。


江戸時代の生活 ⑤ -農民と年貢ー

2009年11月05日 13時51分03秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の前半は、国土の開発時期だった。
水田面積は、平安時代から室町時代を通じて約88万haであったものが、16世紀の中ごろから増え始め、17世紀初頭には200万haに増加し、江戸時代の安定期のもと、新田開発は加速され、18世紀には300万haに達しました。

現在の作付面積は240万haですので、日本国土の開発は、ほぼこの時期に完成していたことになります
土地の生産性も高く、19世紀のヨーロッパでは、一人の人間を養うのに1.5haもの土地が必要だったが、江戸時代では15人もの人間が養うことが出来たそうです。

このように生産性の向上は、人口の増加も生み、16世紀に1000万人程度だった人口が18世紀初頭には3000万人に達しています。
となれば、農民の生活も豊かなはずなのですが・・・・。

  江戸末期の水田風景

住まいにしても、間取りや部屋の広さに関していえば、現在と比較しても遜色はないようで、世界的にみても、同時期のアメリカの開拓民の生活は丸太小屋一部屋だったようで、イギリスでも19世紀になってやっと労働者階級の多くが4部屋に住むことができたそうです。

しかし、一般的に江戸時代の農民は、貧窮しており、お米などは、盆、正月でも食べられなかったのです。
幕府や藩主は農民たちが生活に必要な1年分の食糧と来年の植え付けに必要な種籾の量を引いて納めさせるというのが基本的な考えで「四公六民」とか「五公五民」とか言われていました。
その1年分の食糧のうち、米は換金し、米以外の麦やヒエなどを食べていたようです。

そこで、もっと農民を困らせたのが、年貢の徴収法なのです。
毎年、収穫量を見てその量を決める検見法ではなく、定免法という方法で年貢を徴収していました。
定免法とは、過去5年間、10年間という長期にわたっての収穫量の平均から年貢率を決められるものです。
これにより、幕府や藩主の収入は安定するのですが、豊作や凶作にかかわらず、決まった年貢を納めなくてはならず、これが、農民を困窮させた原因なのです。

その上、年貢を確実に徴収するために、五人組制度を作って支配し、反乱や犯罪を防ぐだけではなく、農作業や年貢の納入をも共同で行わせ、連帯責任を負わせたのです。 

これも、悪いことばかりではなかったようです。
お互いが監視し合うという悪い面もあったのですが、治安維持の効果もあり、相互扶助精神が養われ、祭りや行事の娯楽面をも共有することが出来たのです。


江戸時代の生活 ④ -地上の水道ー

2009年11月03日 13時55分04秒 | 江戸時代とは・・・・・

前回に述べましたように、江戸の町は、人工的に井戸を作り、下水路を設け、江戸の町の約60%は、これらの恩恵に与ったようですが、それ以外の人々はどうしていたのでしょうか?

藤沢周平の小説「蝉しぐれ」の冒頭の一節に、朝、寝起きに下級武士が長屋の裏口のすぐ前を流れる小川の水を飲み、顔を洗うシーンがあります。
(映画にもなったので、ご存じの方も多いことでしょう。僕も見ましたので、内容については、当ブログ2005年10月9日付けで)

  映画「蝉しぐれ」の一場面

そのような小川は、本流から幾本も街に引き、その引き込み水は、江戸時代に農村・都会を問わず、各地にあったようです。

洗濯などはそこから柵をきって溜め水にして行い、汚れた水は木や野菜を植えた畑に与えていました。
地上を流れる水道といってもいいのではないのでしょうか?

このような事が出来るのは、日本の河川が清浄だったから出来たことです。
つまり、日本列島の急峻な山岳から流れる川は、たいがい急流で、平野部でもかなりの速度で流れています。
川の水が美味しくて清潔な理由はここにあります。
この地形は日本独特で、世界的には、少ないのです。
多くの外国の河は、たいがい上流と下流の高低差が少なく、流れが遅く、淀んでいるようなのが多いのです。
日本にも例外があり、琵琶湖から流れる瀬田川は、淀川に流れるとほとんど動かず、日本でも希な例です。

話は違うのですが、現在、日本で普及している水洗トイレには、多くの機能をもっていますが、これが案外、諸外国には、不評なのです。
日本で旅行しても、ほとんどのホテルや旅館のトイレは綺麗で、ウォシュレットが完備されています。 ホテルだけではなく、最近は、観光地でも綺麗になってきています。
が、海外旅行でのホテルのトイレは、ただ水洗設備のみが付いているだけもので、それ以上なものはなく、単純な造りでした。
観光地でも、有料トイレが多くありましたが、特別綺麗とも、余計なものもなく、用がたせばよいと実に簡単なものが多かったようです。

清潔というものに対する感覚の違いと思われます。
しかし、最近の日本の川は、汚し続けてきました。
糞尿は有機物、適切な処置さえすれば、自然に与えるダメージは割合少ないものなのです。
一番、川を汚すのは、残り油、合成洗剤、工場汚染物で、そのまま汚水と流してしまう方が、自然にも人類にも決定的な悪影響を与えるのです。

清潔という性格だけが残って、源である河川を汚して、水を大切にしない現在の日本人は、江戸人からすれば、異郷の人間のように思っていることでしょう。


 


江戸時代の生活 ③ -上水道ー

2009年10月30日 16時41分14秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代には、当時世界一がいくつもありました。
18世紀初頭、人口約100万人の江戸は、当時世界最大規模の都市でした。
ロンドンやパリが50万人前後であったそうです。

水道設備も世界一でした。
時代劇などでよく見る長屋の井戸は地下の木管の中を流れる水を、木管に開いた穴からくみあげる井戸だったのです。
神田川、井の頭池、玉川などのを水源とし高低差を利用して木管の中を流していました。
水の便の悪いところには、船で運んでいました。
当時の江戸の60%の人がこれで生活し、このように年中利用していたのは、江戸だけで、唯一ロンドンにも水道施設はあったものの、週3日ぐらいの時間制限をしていたそうです。

追々と連載しますが、その他の世界一であったのは、江戸の町の清潔さや寺子屋による初等教育の就学率の高さはもちろん、ソーラー面、リサイクル面、ボランティア面でも現代社会以上の素晴らしいシステムがあったのです。

下水道は、一部の地域では、もっと古くから整備されていたようです。
奈良時代の平城京から下水拠が発見されており、大阪城下町でも安土桃山時代に下水道が出来ていました。
しかし、現在の下水道の普及率は、先進国の中でも非常に低いのです。

神田上水、玉川上水、青木上水、三田上水、亀有上水、千川上水の6上水による江戸の水道は規模だけについては世界一であったのですが、江戸時代の水道が重力のみを利用した配水管であったのに比べ、ヨーロッパではすでにポンプによる圧力導、配水路が建設され、水道技術は大きく進歩していたようです。

     某大名屋敷にあった水道の遺構

また、フランスを中心とするヨーロッパ諸国では、水道だけではなく下水道も建設されていました。
しかし、それ以前は、排泄物を道路に投げ捨てており、川は悪臭を放っていました。
江戸時代の日本では、排泄物は堆肥としての商売が盛んで、道路を汚すことは少なく、江戸末期に外国からきた人々は、江戸の町の清潔さや、よく入浴をしており、着物もよく洗濯されていたので、その清潔さに感嘆したそうです。


江戸時代の生活 ② ー長屋ー

2009年10月21日 12時08分01秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸庶民の住居といえば、長屋、それも裏長屋を思い浮かべます。
当時、江戸の人口を100万人として、半分の50万人が武士で、残りが町人の人口になります。 がそのうち約30万人が長屋に住んでいたと考えられています。

長屋というのは、歴史的に見て、伝統的な都市住居として広く見られる形態でした。
お城でも多門櫓と称して長屋を塁上に造り、防衛の建物として威力を発揮していました。
又、城内や大名屋敷の敷地内のも長屋が作られ、家臣などが住んでいました。
御殿女中の住居も長局と呼ばれ、江戸城大奥での長局は戸別にトイレ・キッチン付きで2階建てで、長さは80mもありました。

  
    神田明神下の風景 遠くに長屋も   彦根城の多門櫓 お城の長屋
  明治初めの撮影です・・・

町民でも中層階級の商家などは、表通りに独立した店を構えていましたが、それ以外の町人や職人は、ほとんどが裏長屋の借家住まいでした。

落語などでも知られているように、裏町の長屋で密集した中での生活であったのですが、人情こまやかで、相互扶助的な生活をおくっていたようです。

江戸時代の長屋は、ほとんどが平屋建てで、玄関を入るとすぐ台所(土間、約1畳半)であり、部屋はせいぜい4畳半程度でした。

   島津家、大名屋敷の長屋門
                 現在は、品川駅前のホテルがあります

1棟分の間口が9間、奥行きが2間半を6等分したのが、1世帯の住居となります。
これが、江戸の「九尺二間」の棟割6軒長屋といわれるものです。
一所帯の面積は間口が9尺、奥行きが2間半、面積は約3.7坪(12.4㎡)

路地に共同トイレがあり、風呂はありません。(火事の危険性が高く、防災上の理由で禁止されており、入浴は銭湯を利用)
水は、共同井戸がありましたが、この井戸は地下水を汲み上げるものではなく、神田上水から供給されていた水道水の取り口なのです。

江戸での水道等については、次回に掲載します。