てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.2.17.「てつがくに何を求めているのか?」

2024年03月17日 14時38分56秒 | 定例てつがくカフェ記録
2月17日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には13名、オンラインでは5名の計18名の方にご参加いただきました。





・今回のテーマは「てつがく」は平仮名にさせていただいて、ダブルミーニングというかいわゆる「哲学」ですね。哲学という学問に対して何を求めるのかっていうことと、この哲学カフェは福島をここでやってるわけですけども、その「てつがくカフェ」とか「てつがくカフェ@ふくしま」とかに何を求めるのかと。そういうようなことでダブルミーニングで「哲学」に何を求めるのかと言うことで、本日のテーマとさせていただきたいと言うふうに思います。

・あの哲学というものがなぜ必要になるのかということは、人間がまずいろいろ疑問を持つからではない。というのが始まりだと思いますが。「なぜ私がここに居るのか?」「なぜ世界があるのか?」ていう風な意味で疑問を持ち始めたことが哲学の始まりかなと思います。日々何も考えずにその日、その日流されて生きている方には哲学は必要はないのかなと。だから、自分自身が疑問を持つことが一番初めではないかなと思います。

・まず哲学の始まりという話いただきました。

・続けてそうですね、若い頃にいろいろ本読んだり、形而上学とか読みましたがもう五十年前のことでもう忘れました。その後も色々論理学とかチラチラとこう齧っては来たんですけれども。一番疑問に思ったのは「なぜあのこの世の中に悲しいことが多々あるのか?」ということ思って。まあ、若い頃ですから20代ぐらい?それを個人の力ではどうすることもできない。どうすることもできないけど、見てるしかないんだけれども、まあ悩んでどうにかしたいんだけど。多分ですね今回の石川県の被災でも、それなりの個人個人ができることはあると思うんですけれども。でも全世界の人々を救うことはできない。ということは、疑問に思って日々悩んか悩んだこともあります。ということをお伝えしたいと。

・今日は「哲学になにを求めているのか?」っていうことなんですが。要するに「哲学って何だ?」ということだと思うんです。で、色んな学問「哲学」も学問の一つかなということなんですけど、経済学にしろ法律学にしろ(学問の)対象があるんだと思うんですね。で、哲学の対象と何かというと「哲学だよ」って言われると、もうそうかなって気がしないでもないんですけど。まぁ、私はざっくばらんに言って哲学の対象っていうのは考え方っていうか、真相。神の問題も含めて「神ってなんだ?」というか。ちょっと前に神の問題を(てつがくカフェで)話し合いしたんだけど、世話人から「神が存在するのか?しないか?」非常に大きな問題、そういうの考える分野として「唯心論」ってのがあるって言われたんですけど。でそういう意味での神なんかも哲学の対象かなと風に思っているんです。だから大雑把に言葉の使い方として、東洋哲学とか西洋哲学とか、場合によってはギリシャ哲学色んな言われ方をするんですよね。法律学は法律を対象としてる。でも、法哲学っていうのもありますよね。学生時代に習ったような気もしないでも。あるいは経済学にしたって、ものすごく細かく行くと色んな風に分かれてるわけですけど。で、哲学についてはニーチェの哲学とか、マルクスだとか、あるいはスピノザだとかデカルトだとか、カントだとかヘーゲルだとか。まあ、そういうのを取り上げて、ヘーゲル哲学、カント哲学とか個人個人の考え方も含めて、哲学っていう風に呼んだりしてるわけだけど。まあ。大雑把に言って、考え方や思想を対象にしてるのかなというふうに思っているんです。哲学の役割とか哲学の狙いっていうのは、これも非常に曖昧な言葉ですけど「本当の事を追求する」。「本当の事ってなんだ?」っていうことになるとまた問題なんですけど、真実だとか事実とかいろんな形で言い換えられると思うんですけど。要するに「本当の事って何?」っていうことそれを主に追求するのかなというふうに思っております。

・ええ今日の「何を求めるのか」というのが議題になってますけども、結局「何を求める」っていうことは、あのうまぁ哲学の場合は「真理」が一応の究極の目標だと言われてはおります。それであの先ほど。ああ、前回ですか?前々回かその前か「神」についての対話もありましたけれども結局ね、哲学は心理を求めて神の神学、宗教神学は神の存在を求める。結局、それは自分が救われるということにつながる。というか、それを求めているのかなと。結局、哲学は心理を求めて、その心理によって自分自身が、まあ世界も合わせてかもしれませんが、救われるということ。宗教はまぁ、自分自身もまた世界も神によって救われるのではないかということを求めているのではないかと思います。

・私、あの哲学が何を求めるかっていうのはちょっと私お話ししないんだけども。あのー、デジタルクーポンってありますよね。スマホ持ってる人はデジタルクーポンを手続きして5000円で、で1500円とかね。あれさ、スマホ持ってる人は5000円で1500円、1万円で2,500円。それ全部さ、補助はさ税金でやってんだよ。いや、それは別に構わない。こっから私の言いたいことはスマホとかさ無い人ね。わざとそういうのない人ね。全くのゼロだよ。これはひどいじゃないですか?本当にひどい。補助はなんでも税金からやるよ。けどさ、スマホのない人はゼロだよ。ひどいよこれは。そして私もちょっとその話しをしたらば、みんなそれさ不満持ってさ。電話ジャンジャンいったみたいね。そして、初めて2回目にデジタルのあれ紙になったのね。前は紙クーポンだったんだよ。最初この人は二期目だからね今度。最初は紙クーポンだったんだから平等に。そして二期目選挙に受かった途端には、全くのもうこれはひどいよ。すべて税金でしょ?機械の無い人がゼロだって?ちょっとそれでジャンジャン苦情がいっぱいいったみたいね。それで2回目そうなったみたいね。紙クーポンでっていうこと。あれさ、なんにも言わないで黙ってね、お上の言ってることだから何でもハイハイって聞いてみな。そのまま行っちゃうから。あんまりキャンキャン皆が騒いだもんだからそうなったんだ。だからね、我々はね。まともな人選ばないとダメ、本当に。誰とは言わないけれども。野球だって監督が変わればチームも変わっかんね。トップが変われば変わるんだから、なんつったって。そう、私はね、モヤモヤをね。もう本当に私の言ってた事に対してね、あなた達はでどう思うか、そういうのも聞きたいですよ。本当になんでもかんでもうんうん。あのこの人はさあまあ、色々決める人がさ、もういいとこのまあアレだから、もう田舎のこっちに来ては皆逆に舐めて馬鹿にしてんだよね。そんなことしないからね。最後ちゃんと平等に紙クーポンでやったんだ。全くねえダメだまともな人を選ばないと。あとね、とても変だなと思うと騒がなきゃだめ、私一人でどうしようもないけど、みんなでガンガン騒いだからそうなったんだからね。私考えて。まあいろいろ考えて、これでもうすぐあと、あのね、なんか先進国だかなんだかね、日本はねまあ豊かなんだけど。自殺率がナンバーワンのね。自殺率ナンバーワンだよ。先進国だか世界だかなんだかで何か言ってたんだ。ラジオで言ってましたラジオ。結構ね、テレビだとね。案外制限されて本音は言わないんだよ。ラジオだと結構本音で言うんだ。市議会でだっけ?自殺率で言ってた。ねぇ?まあ、政治家はすごいと思う。政治家になって金が入ったら、もうそういう所に頭ばっかり行ってるから、そっちの方ににばっかり政治家は行ってんじゃないの、政治家は?30年間ずっと一般庶民の人がさ、全然戦前から豊かにならなくてね。だからなれの果てそうなったでしょ?政治家はね、もういい加減金取る方にばっかり頭行ってんだ。いかに国民のことを考えててとか、そうじゃないよ。まあ、あの政治の人見てて、分かるでしょ。だから、本当にもうそれを選んでいるのは我々だから、もうちょっと利口になきゃならないと思います。私、今三つ言いましたけど、これに対してまあね、いろいろ考えて。まあそれに対してどう考えているか聞きたいなと思いまして、終わります。

・デジタルクーポンが出てきて、めちゃくちゃ面白いなって思ったんですけど。まあ、実際そのスマホがないと言う点で政策の利益を受けるかどうかが決まってしまうっていうのは、デジタル化を推進していこうっていう政策の不備があるかなっていう。それをまあ、政治主導で行うか、公共の場で行うかわかりませんけども、まあ、スマホの復旧とかデジタル機器の利用を推進して行くという政策も含めて行うべきだったなって言うことは僕も感じております。で、でその後、広くまあ哲学というところに結びつけるのであれば、その政治の進め方ということについても、まあギリシャ哲学も然りですし、あとフランス革命当時ギュスターヴ・ル・ボンとかの辺りの人は民衆と政治の関係ですよね。その辺りもまあ、話してる人も結構いるので、今の話も全く哲学とは無縁ではなくて、関わりのある話かなと思って伺ってました。それで、自殺率が多いというところで、まあそこでもこう社会においてどう生きるかであるとか、社会における人はどういうものを求めているか、何をする人かっていうのを考えるっていうところも、やっぱりその哲学のフィールドにあがってくるのかなというふうに感じています。だからその辺り、ちょっと深めると面白いかなって思うます。

・今回参加は2回目になります。まず私の方から考えとしてお伝えしたいのが、二つ大きくありまして、一つが「哲学をするってどういうことなのかな」っていうことです。私は元々福島大学出身で世話人の倫理学の授業とか、あと哲学の他の先生の授業とかも受けたことがあるんですけど、哲学と倫理学ってなんかどう違うのかなっていうのが私よくわからなくて。哲学も専門で勉強してきたことはないんですが、道徳的なものとかとあと哲学するってどういう?違いがあるのかなっていうのがあんまり分からないので、まあそこを皆さんにお聞きしたいなって思ったっていうことと。あともう一つが、「哲学に何を求めるのか?」っていう今回の議題についてなんですけれども、自分のことについて言った時に考えられるのが、私の話になっちゃうんですけど、私は自分が分からないし、他人のことも分からなくて、自分と他人を理解するため、結局自分って何なんだろうとか、他人がわかんないから。わかることは絶対できないんですけど、でも、その足しにするために哲学するっていう行為、ちょっと本を読んだりとか、そういう本当に勉強ってほどではないんですけど、そういうことをしているんだろうなって。そして今、こういうふうにZoomを通して哲学カフェに参加させていただいて、皆さんのご意見とかを聞かせていただいて。じゃあ自分って何なんだろう、「どういう考えを持ってるんだろうっていうのを深めたいのかな?自分は」って言うふうに思っています。

・今日のテーマ「哲学に何を求めているのか?」ってこれ主語がないじゃないですか?だからいろいろ広いなあと思っているんですけど。まあ、でもやっぱり「誰が」によって答えは結構変わるもんだなぁっていうのが、まず最初に思ったことですで。またですね。この哲学がひらがなになってるっていうところも、まあ学問としての哲学じゃなくて、哲学カフェとかそういった試みについてもあるというお話ありましたけど。そうすると「哲学カフェ」とか、「哲学対話」と呼ばれるものに求めるものっていうのが、哲学に求めてるんじゃない場合っていうのも当然あるのかなと思うんですね。例えば、その人が集まる場を求めているので、別に哲学カフェじゃなくてもよかったとか。あるいは、そういう機会を求めている、そういう哲学的な話とか、ちょっとなんか小洒落た話とか、カッコつけた話とかをしたいな。人にかっこいい、頭いいって思われたいなっていう。そういう機会とか承認とかを求めたりする場合も、あるんじゃなかろうかと思うんですね。純粋にと言っていいのかどうか、分かんないですけど、哲学に求めているそういう気持ち、「哲学やりたい」「哲学的な話に触れたい」というので求めているのは、やっぱり知的な刺激を求めているんじゃないかなと思うんですね。で、それはなんなのかっていうと、やっぱり「分からないことの答えを何かしら求める」っていうのが人間の中には共通してあるんじゃないのかなって気がします。で、「分からないの答えを求める」っていうものなんだとするとですね。俺は分かってんだぞっていう人にはその欲求が多分ないんだと思うんですね。だから、分かってるつもりの人には哲学は多分魅力のないものなんだと思います。でも子供がまあ、三歳とかぐらいの子供が家の中のことがだんだん分かってきて。あっちに行ったらそのお水があるとか、あっちに行ったら遊ぶ場所があると。家の中のこと全部わかったぞといざ外に出てみると、知らない世界がそこに広がってるわけですね。で、幼稚園に行くとか、ご近所が広がっていって、いつも行く場所から今度かなり遠い場所に行く。大人になって見ると、近くのスーパーだったりするんですけど。でもちょっとした冒険だったりしますよね最初の頃。それが市内とか県内とかそういう風に広がっていくと分からないことだらけになっていて。で世界の他の国があるっていうことを知ると、さらに分からないことが広がって分からないことだらけは、もっと広がる。それを分かったつもりにならないっていうことをしないと哲学って何の意味もないのかなって言うような気がします。「哲学に何を求めているのか?」っていうのは、だから、分からないと思うことに対しての答え、純粋なその好奇心を満たすものなんじゃないのかなと思います。

・最初に今日のテーマが「哲学に何を求めるか?」ということだったんで。それは哲学っていうのは、他の学問も色々と対象に思ってるでしょう。だから哲学の対象って何かっていうことを言ったんですが。求めてるもの、哲学の対象は哲学かっていうと、なんか訳分かんなくなるんですけど。物事の本当のこと、真実とか事実とかって言い換えてもいいと、そういうものを求めるのかなと言うふうに思うんですが、今日のテーマ「哲学に何を求めるか?」ということで出されているわけですが、これについてはここに出席する、あるいは参加する人が、哲学それなり哲学というものを考えて、その哲学に何を求めるのかっていうことの意見を求められているのかなというふうに思ったんですが、先ほど終了が出てないんじゃないかということだったんですが、我々出席者が哲学について考えて、その哲学に何を求めるかっていう意見を求められているということ。あるいは視点を変えて、社会から見て哲学はどういうことを求められてるのかっていう、そういう考え方もできると思うんです。まあ、そういうことで主語の問題、哲学とか倫理の人が出てきたんですが。まあ、哲学と倫理の違い、まあ私やっぱり、単純な頭で考えて倫理というのは、いわば哲学の一つの分野と考えていいのかな?中身は人と人との関係で望ましい。それはダメなものも悪い場合も含んでいるわけですが、望ましいあり方を倫理学かなと考えています。ということで、倫理学は哲学の一分野と考えて良いのではないかな?世話人が倫理学の教授ということであれば、その点、哲学と倫理学の違いをどう考えなってるのか、お聞きできればいいなというふうに思ったんです。

・それは答えなきゃいけないだろうなと思っておりました。まあ答えるっていうか、僕なりの考え方ということですけども。哲学というのは、先ほど皆さんがおっしゃってくださっているように、その分からないものを求めて行く。だから、正にソクラテスは「無知の知」って言ったわけですけど、自分は知らない、答えを知らないんだと。皆その当時のソフィストと言えば、知恵がある者、知識のある者、知恵を持っている者っていう人たちがソフィストなんですけど、ソフィストたちは「自分たちは答えを知っているぞ」っていうふうに言ってたんだけど、自分は全然答えを知らないのに。それで、とある神殿の信託によってソクラテスが一番知恵があるんだっていう風に、そういう信託があった時にソクラテスは「でも、私は何も知らないのに」と。そこではたと考えて、「自分は知らないということを知っている」「答えを持っていない」「答えを知らないからこそ、知りたくてたまらない」と。だから、哲学は「フィロソフィア」っていうわけですけども、これ要するに知を愛するって何かっていうと知りたくて知りたくてたまらない、自分は知らないので知りたくて知りたくてたまらない。そういう意味じゃ心理とか本当のことを求めていくっていう営みが哲学の出発点にあったんだろうなと。で、僕は哲学っていうのはあまり良い訳語(翻訳)だと思っていなくて。経済学は経済を学ぶし、心理学は心理を学ぶんだけども、哲学の哲って何だろう?「聡い」とか「賢い」とかっていうような言葉なんですけど、もともと「希賢哲学」っていうふうに訳されたのは明治時代に。つまり「希」は希望、「賢哲」は要するには知恵ですね。知恵と賢さ、賢さを望む=「フィロソフィア」。まあ、賢さを望むっていう風に訳して「希賢哲」と訳したんだけど、それがまあ略されて「哲学」になったわけですが。「哲学」って僕意味分からないなっていうふうに思っていて。僕は「フィロソフィア」は「哲学」なんて言う変な言葉じゃなくて、「学問」って訳せば良かったんだと僕は思ってます。実際に18世紀19世紀の初めぐらいまでは全ての学問は「哲学」というふうに呼ばれていて。つまり、「ナチュラルフィロソフィー」「モーラルフィロソフィー」。全ての学問が「フィロソフィー」だったんですね。で、それは何かっていうと、正に皆知らないから、自分で考えて答えを提示するんだけども、その弟子たちはそれを信じるのではなくて、それをまた疑ってかかると。「本当にそうなんですか?違うんじゃないの?」と。で、また自分で考えると。だから、哲学は本当に哲学者の数だけ哲学があって、思想家の数だけ思想はあると。そうすると、その考えた人が沢山いれば、それだけ沢山のデカルトの思想やライプニッツの思想とか色んな人が沢山出てきちゃうわけですけれども、まあ学問をずっとそんな感じで、それまではそうだったんですけど、近代以降、学問がそれでも「皆が勝手に色々言ってるだけじゃダメでしょ」って話になって。やっぱり、データと言うか、つまり、私たちが見たり聞いたりできる私たちの経験によって、きちんと「確かめられる事だけでやっていきましょうね」っていう形になって、それが実証科学っていう話なんですけど、実証的にデータに基づいて観察したり、実験やったり、それに基づいて分かることだけは分かるようにしましょうと。それで、「見えない神様とかなんか、そういうようなもので説明するのはやめましょうね」と。それが実証科学っていう運動が起こって学問のあり方が実証科学によって全然ガラッと変わって、そっからだんだんこう「知」を積み上げていくことができるんです。皆分かってることじゃなくて、段々「知」を積み上げていくことができるようになったっていうのがまあ。16~17世紀ぐらいから始まったのかな。そういうのが、どんどん実証化が進んでいくと、どんどん発見がた沢山あって。で、発見が沢山あるともう昔は、哲学者ってのは全ての学問を全部やったんですね。『アリストテレス全集』なんか見るともう天文学から心理学から生物学から法学から、全部一人でやってるわけです。それはもうずっとカントもそうだし、ヘーゲルもそうで。18~19世紀の初めですかね、ぐらいまでは全ての学問は一人で全部やると。哲学者と呼ばれる人が全ての学問全部やるっていうふうにやっていたんだけども、ただやっぱそのヘーゲルのちょっと前ぐらいから、やっぱその凄く実証化が進むともう知識がどんどん積み重なって、それによってもあの一人でやりきれないっていう風になってて。じゃあ、もう「私はこれだけ専門になります」みたいに段々分かれていって。それが分業化ってことが起こっていて。それはつまり、学問が科目に分かれていく。つまり科学になっていくとで実証科学っていうのは実証できる。事柄や実験を通して実証できることできちんと積み上げていこうということになって。そうすると、その個別の一個が持ってるのが、まあ独立して、まだ全て学問が別だったんだけど、そっからだんだんこう色んな学問が実証化がうまく行ったところは、どんどんまあ哲学が独立して行ったっていう感じだと僕は思っています。で、だから結局今、現代の哲学というのは、その実証化できなかった部分。実証的に研究できなかった部分だけが残ってしまって。で、ついこの間までやっぱ哲学の一番主要な部分は認識論っていう「どうやって私たちは心理を知るのか?」「心理はどうやって知ることができるのか?」っていうことを考える部分だったんですけども、実は最近そこも実証化されてきていて。つまり大脳生理学とか認知心理学とかみたいなものは、どんどんは分かって、脳の中で何が起こっているのかっていうのは、昔は全くブラックボックスで分かんなかったんだけども、脳の中でどういう活動が起こってるかって言う脳の部位とか、その活動とかも分かるようになってきて。その認知の仕方、認識の仕方に関しても、もう結構実証的に分かるようになってきていてっていうような時代になってきて、だからそういう意味では哲学に残されているのは実証できないと言ってるのが、だんだん減ってしまってるんだけど、それでも実証できないと言っても、「神様いるのか?」っていうふうな経験を超えて、前世とか来世とか死んだと魂どうなるのかとか神がいるのかいないのかって話は実証的には分からない。私たちの経験によっては分からないわけで。そういう問いが残っているっていうのと、哲学と倫理学の関係で言うならば、倫理学は「私たちはどう生きるべきか?」とか、「何が正しいことなのかとか?」っていうのもこれも実証できない。つまりアンケートをとって、皆がどういう風に考えてるかっていうのは分かるんだけど。それはアンケートで何パーセント、何が正しいって考えるみたいなことは、実証的にデータを集めることができたとしても、じゃあ70%の人がこれが正しいって考えているからといって、それが正しいと言えるかっていうとそれは言えない。つまり、人間の生き方とかに関わってくることっていうのは、実は実証的には今の現段階においてはまだ「どう生きるべきか?」とか、「何をどんなルールを守るべきか?」とか「どんなルールに従うべきか?」っていうのも、今のところまだ分かっていなくて、そういうまだ実証できていないっていう問いが残っていて。だから、多分哲学の中で倫理学って、やっぱその哲学もも勿論実証ができなかったと意図して一つ大きく残っていて。倫理学も哲学の一部分だけど、「哲学」は別にその人間の生き方とか、それだけにかかってるわけじゃないので、さっきの「心理とは何か?」とか「神がいるのか?」とか、「時間とは何か?」とか、そういったような理論的な哲学問題ってのは、どちらかというと「純粋哲学」とか「理論哲学」と言いますけど。「倫理学」の方は、割とその人間の行動とか行為とかに関わってくるところと思っています。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

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