コース順路:コース満足度★★★★ 4月21日
辻堂駅北口→大六天バス停→宗賢院→大庭神社旧跡→舟地蔵→大庭城址公園→裏門公園→熊野神社・市杵島神社→成就院→大庭神社→天神社前バス停→藤沢駅
事前に用意していたコース案内を手違いで忘れてしまい、急遽辻堂駅前の書店で地図を購入するはめに。
途中で道を間違えたりして、一緒に歩いた先輩には迷惑をかけてしまったが、訪れた所の良さで結果オーライという事に。
まずは室町時代(1505年)に開山の曹洞宗の禅寺、宗賢院を訪れる。
本堂前の龍骨堂に祀られている龍骨は雨乞いの霊験があらたかとされていて、「龍骨を箱に入れ、鷹匠橋(高名橋)の上でお経を唱えれば雨が降る」ということで、旱魃になると近くの村から龍骨を借りに来る人が多かったらしい。
寺を後に少し進むと、台谷戸熊野神社、大庭権現、地元では熊野権現とも呼ばれるている大庭神社旧跡に到着する。
鬱蒼とした木立の中に鳥居と狭い石段が結んでおり、境内の入り口に建つ立て札には、ここが式内社の「大庭神社」旧跡と書かれている。
道路の交差点にある「舟地蔵」は、台座が舟の形をしていることが名の由来となっている。
説明板を読むと次のような話が書いてある。
「北条早雲は大庭城の陥落を企てたが、付近一帯が沼地だったため城を攻めあぐねていたところ、地元の老婆から沼を干上がらせる術を聞き出した早雲は、情報の口外を恐れて老婆を切り殺したという。
この地蔵はその老婆を供養する為に作られたとの言い伝えがある。」
大庭城址公園は平安末期、藤沢から茅ヶ崎にかけて広大な大庭御厨(伊勢神宮へ供御を祀る地)を統治した大庭三郎景親の築城地であり、今も残る土塁、空堀跡など見所が多い。
一回りしてみたが、桜の樹木の造りが素晴らしく、その時期にはぜひ訪れてみたい公園でもある。
次に訪れた熊野神社(写真右)は北の谷熊野神社とも呼ばれている。
すぐ斜め横にある市杵島神社には、この地域を統治する加々爪氏によって苦しめられた農民達が、弁財天を勧請したところ悪政や凶作がおさまったという言い伝えが残っている。
成就院は文和年間(1352~1356)に山名伊豆守が開山した高野山真言宗の寺院で、本尊は愛染明王とされている。
古くは宝染寺と呼ばれ、大庭神社の別当をしていた。
この神社は大庭の総鎮守、相模式内十三社のひとつでもあり、天神を祀るため大庭天神社とも呼ばれる。
大庭景親が大庭城を築いた際に移した天満宮が維新のときに大庭神社と名を変えたとも言われている。
辻堂駅北口→大六天バス停→宗賢院→大庭神社旧跡→舟地蔵→大庭城址公園→裏門公園→熊野神社・市杵島神社→成就院→大庭神社→天神社前バス停→藤沢駅
事前に用意していたコース案内を手違いで忘れてしまい、急遽辻堂駅前の書店で地図を購入するはめに。
途中で道を間違えたりして、一緒に歩いた先輩には迷惑をかけてしまったが、訪れた所の良さで結果オーライという事に。
まずは室町時代(1505年)に開山の曹洞宗の禅寺、宗賢院を訪れる。
本堂前の龍骨堂に祀られている龍骨は雨乞いの霊験があらたかとされていて、「龍骨を箱に入れ、鷹匠橋(高名橋)の上でお経を唱えれば雨が降る」ということで、旱魃になると近くの村から龍骨を借りに来る人が多かったらしい。
寺を後に少し進むと、台谷戸熊野神社、大庭権現、地元では熊野権現とも呼ばれるている大庭神社旧跡に到着する。
鬱蒼とした木立の中に鳥居と狭い石段が結んでおり、境内の入り口に建つ立て札には、ここが式内社の「大庭神社」旧跡と書かれている。
道路の交差点にある「舟地蔵」は、台座が舟の形をしていることが名の由来となっている。
説明板を読むと次のような話が書いてある。
「北条早雲は大庭城の陥落を企てたが、付近一帯が沼地だったため城を攻めあぐねていたところ、地元の老婆から沼を干上がらせる術を聞き出した早雲は、情報の口外を恐れて老婆を切り殺したという。
この地蔵はその老婆を供養する為に作られたとの言い伝えがある。」
大庭城址公園は平安末期、藤沢から茅ヶ崎にかけて広大な大庭御厨(伊勢神宮へ供御を祀る地)を統治した大庭三郎景親の築城地であり、今も残る土塁、空堀跡など見所が多い。
一回りしてみたが、桜の樹木の造りが素晴らしく、その時期にはぜひ訪れてみたい公園でもある。
次に訪れた熊野神社(写真右)は北の谷熊野神社とも呼ばれている。
すぐ斜め横にある市杵島神社には、この地域を統治する加々爪氏によって苦しめられた農民達が、弁財天を勧請したところ悪政や凶作がおさまったという言い伝えが残っている。
成就院は文和年間(1352~1356)に山名伊豆守が開山した高野山真言宗の寺院で、本尊は愛染明王とされている。
古くは宝染寺と呼ばれ、大庭神社の別当をしていた。
この神社は大庭の総鎮守、相模式内十三社のひとつでもあり、天神を祀るため大庭天神社とも呼ばれる。
大庭景親が大庭城を築いた際に移した天満宮が維新のときに大庭神社と名を変えたとも言われている。