クラシック 名盤探訪

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生品神社、世良田東照宮、そして渋沢栄一の生誕地を巡る

2009年03月10日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★
JR深谷駅→新田乃庄→生品神社→世良田東照宮→渋沢栄一記念館→旧渋沢邸「中の家(なかんち)」→誠之堂・清風亭→加藤省吾碑→深谷城跡→国済寺

深谷市在住の姉夫妻を訪問する。
深谷市内や近郊の興味深い史跡をてきぱきと案内してくれ、とてもい楽しい一日となったことに感謝!
新田義貞旗揚げの地、そして家康先祖の地を訪れることが出来たし、近代日本経済の父とも称される渋沢栄一の立派な人柄を深く知ったのも嬉しいことだった。

この深谷駅の造りは東京丸の内駅舎を建築する際、深谷市に所在する日本煉瓦製造株式会社の煉瓦を使用したことにちなみデザインされたという。
かの荒船清十郎が運輸大臣在任時、当駅を急行停車駅に追加させたとして国会で問題化され、大臣をやむなく辞任したという逸話も良く知られている。
駅前にはこの地出身の偉人、渋沢栄一の銅像がしっかりと街を歩く人々を見守っている。
  

名物料理の煮ぼうとうを食べようと、新田氏の祖である新田義重の館跡(寺尾城跡)に豪族の邸を模して建てたという料理店「新田乃庄」を訪れる。
残念ながら生憎の休みで、向かい側の店に入る羽目になってしまったのだが。
「新田荘」は12世紀の中頃、中央の争いから東国へ下野した源義重によって開かれた荘園で、現在の新田郡ほぼ全域と太田市の西部を領域としたところ。
新田氏は清和源氏の一族で、源義家の血筋を継ぐ義貞は1333年、後醍醐天皇の命を受け、この生品神社で北条氏追討の兵を挙げたとされている。
 

義貞公が旗挙げを行った時はわずか百五十騎だったが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、十五日間で鎌倉幕府を攻め落としたという。
拝殿の前には、義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されている。
 

国指定の史跡にもなっている徳川氏発祥の地、世良田東照宮を訪れる。
もらった案内書きの由来のところを読むと...徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、「世良田」他5ヶ郷を譲り受けた子の義季である。
義季は5ヶ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、 徳川義季と称した。
その後9代目の親氏に至り、北朝の猛勢により徳川郷を追われ諸国を流浪の後、松平郷に身をよせ郷主在原信重に入婿し、松平親氏と称した。
それから7代を経て家康公が誕生し、三河一国を統一した25歳の時に松平姓から徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、徳川に復姓した。...となっている。
徳川家にとっては確かに由緒ある地とされているのが、これを読むと良く解る。
 

車は一路、深谷市内に戻り「渋沢栄一記念館」へ。
館内に入ると、嬉しいことに管理人の方が終始丁寧な説明をしてくれる。
「渋沢栄一氏は、近代日本資本主義の生みの親、また産業・ 経済界の父であり、大蔵省、第一国立銀行の初代頭取など兼任、教育機関の創立・育成、社会福祉に力を入れるなど、社会・文化事業にも貢献された。」
話を聞けば聞くほど、渋沢栄一氏の私欲にとらわれない数々の業績とその立派な人柄にとにかく感心させられる。
渋沢栄一生地、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」も見学する。
 

誠之堂(写真左)と清風亭(写真右)はともに、東京都世田谷区の第一銀行の敷地内に建てられていたものを移築復元している。
誠之堂は大正5年、渋沢栄一の喜寿を記念し、彼が初代頭取を務めていた第一銀行行員たちの出資により建築されたもの。
深谷のレンガを使用した英国農家風の建築で、大広間等の窓には中国風の美しいステンドグラスが施されている。
清風亭は大正15年、第一銀行頭取であった佐々木勇之助氏の古希を記念し、行員一同の出資で建築されたもの。
白壁に鼻黒レンガや黒いスクラッチタイルのアクセントやベランダのアーチなどが特徴のスペイン風の建築様式。
 

深谷城址公園に隣接している富士浅間神社の鳥居の横に、童謡「みかんの花咲く丘」の作詞者だった加藤省吾氏の碑が建っている。
碑には「...氏は昭和20年に両親の住んでいた深谷市に疎開したが,故郷の静岡に思いをはせてこの歌を作詞した...」という趣旨の文章が書かれている。
深谷城跡についてだが、この城は1456年(室町時代中期)に深谷上杉房憲が、古河公方の侵攻に備えて築城したと伝えられている。
徳川家康の関東入国後は、徳川一族や譜代家臣の居城であったが、寛永11年(1634)に廃城となったという。
今は深谷上杉氏の祈願社であった富士浅間神社の社殿を巡る池と水路に、往時の姿をとどめるのみとなっている。
 

深谷でも特に由緒ある寺といわれる国済寺を訪れる。
室町初期に北関東の諸豪族への抑えとして、この地に庁鼻和城(こばなわじょう)を築いたのが上杉憲英公、その4代房憲公の時に深谷城に居城が移され、庁鼻和城跡に深谷上杉氏の菩提寺として国済寺が建立されたのだという。
黒門、三門と呼ばれる歴史を感じさせる山門に目を奪われる。
 

新田義貞が軍旗を挙げたというクヌギの木、家康公の祖先の地、そして「みかんの花咲く丘」の歌碑など、思わぬ発見というか遭遇に嬉しい思いをした深谷市近辺の史跡巡りであった。