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九十九里 または地獄の季節への誘い

2008年09月12日 07時53分01秒 | 観光
 いつの頃か忘れてしまったのだけれど、ものすごく気持ちのいい夏の夜をここで過ごしたことがあった。昼間の海水浴での適度な疲れが火照る体に心地よい疲労感を味わわせ、夕方から夜にかけての海辺が美しくてふるえそうだった。そのときぼくが抱いた十全な満足感。あれは唯一無比だった。いつかどんな形であれ、もう一度味わいたい、となぜか今年になって思う。「気狂いピエロ」を見ていたときだ。何度見たかわからないほど、何度も何度も見た映画。ラウル・クタールのカメラがすばらしくて、その中に入り込むことはぼくにとって快楽に等しい。最後、溝口健二の「山椒大夫」を引用するシーンにランボーが絡むとこも好き。
 「気狂いピエロ」を見ながら、あの満足感のヒントみたいなものを感じていた。あの海に行けば、もっと何かつかめるのではないか。
 それで矢も楯もたまらず、九十九里へ。
 ほんとうのことなんだけれど、ぼくは何の作為もなく、ただそのとき読んでいたからというだけで、野村喜和夫「ランボー『地獄の季節』」をカバンに入れて電車に乗った。ゴダールのことは考えたけれど、ランボーのことは考えなかった。電車で読んでいるうちに、その偶然に思い当たった。


 ああ、この川知ってる。この川にかかる橋の上にたたずんでいて、あの感覚が訪れたんだ。なぜ一人で橋の上にいたのか覚えていないけれど。でも、実はそれには大きなワケがあって、それを思い出すことで過去に起こった忌まわしい惨劇がよみがえってくる。ええ、そうよ、あなたのお父さんは事故で死んだんじゃなかったのよ、などと火サスを一人演じつつ歩く川岸。暑いっす。



 海っぽいお約束ショット。
 ところが着いてみて、海辺の変わりように驚いてしまう。砂浜の流出が問題になっているけれど、ここも例外じゃなかった。そのため、いろんなところに堤を作って砂が沖に運ばれるのを防いでいる。ぼくが子どもの頃は切れ目なく砂浜が続くたいそう美しい海岸だった。今は堤で細かく分断されている。仕方ないことなんだろうが、残念。



 道ばたにはコスモスが咲いていて、もう秋が訪れているんだなあ、などとしみじみする。

 秋だ、すでに! 
 ― だが、なぜ永遠の太陽を惜しむのか、おれたちが神聖な光の発見にこの身を捧げているのなら
 ― 季節の上に死にゆく人々からは遠く離れ。
                                                 アルチュール・ランボー「永別」

 一応、なんとなく、この旅はランボーと縁があるので。



 ランボー、そして「気狂いピエロ」と言えばやはり船に乗らないと。一度蘇我まで戻り、そこから今度は内房線で浜金谷へ。そこで久里浜行きの船に乗る。天気がいまいちでちょっと残念だけれど、十分に気持ちのいい45分間の船旅。



 久里浜港着。だんだん夕闇がたちこめてくる。
 結局あの感覚がよみがえることはなかった。それに、ぼくが一人で橋の上にいたわけがない。ここへ一人で来るのは、今日が生まれて初めてなのだから。それとも、あの感覚に襲われているとき、ぼくと世界は二人だけで他人を必要としていなかったからか。よくわからないけれど、自分の中になお自分にさえわからない記憶がある、ということは、なかなかの収穫だったと思う。これを耕すと何か生まれるかもしれないから。
 それにしても昔と姿を変えたとはいえ、九十九里は気持ちになじむすてきな場所だった。

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