毎日が観光

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アプトの道1

2008年12月09日 00時23分56秒 | 観光
 新幹線の開通には在来線の廃止を伴うことが多い。
 碓氷峠を越える信越線も残念なことに廃線になってしまった。今はその一部がトロッコ電車として観光用に運用されていて、また、その隣には遊歩道がついている。
 鉄道っていうのは、ご存じの通り、鉄のレールの上を鉄の車輪で走っていくため、急勾配にはむいていない。すべっちゃうからね。そこでこの急勾配を登るために、線路の真ん中に歯形のついたレールを敷き、台車に歯車を付け、両者を噛み合わせて走るアプト方式が採用された。
 それにしても江戸時代からたったの25年で碓氷峠に鉄道を通してしまったことは驚嘆に値する。もちろん犠牲も多かった。横川に残る碑には500人(!)が殉職したと記されている。


 しばらく歩くと丸山変電所がある。国の重要文化財。以前はマニア絶賛のボロボロの廃墟だったが、修復工事が行われた現在、とてもきれい。左側の線路は旧信越線の下り(下りが碓氷峠を上っていくんだよね)、遊歩道はその隣の上り線路。



 現在遊歩道が続いているめがね橋まで5つのトンネルがある。この急勾配を登るため、機関車をもう1台連結して登っていった。蒸気機関車の場合、当然煙もものすごいことになる。そこで、1台は車両の真ん中、もう1台は最後尾に付けて、引っ張っていく、というより押していくことにした。真ん中の機関車には石炭の他、重油を燃料に加え煙を抑えていた、ということだが、大変だったようだ。
 こうしたトンネルには幕引き係という珍しい係がいた。列車がトンネルに入った直後、文字通りトンネルに幕を引く。こうすることによって、トンネル内に風が入ることを防ぎ、煙が前に流れないようにした。この幕引き係は勤務中はトンネル近くの詰め所に家族ぐるみでやってきてその任にあたる。子どもがトンネルで見張り、その間仮眠をとったりしていたようだ。
 こうした子どもたちの力も日本の近代化を支えた要素の一つと言っていいかもしれない。日本で最初の電気機関車が導入されたのはここ碓氷峠だった。ちなみに横川で釜飯がよく売れたのは、あそこで峠超えに備えて機関車を連結するので、停車時間が長かったため。

 次回に続く。
コメント (2)
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