毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

達磨寺 芸能の誕生 ほんとはそこまで書けなかったの巻

2008年09月18日 11時42分18秒 | 観光
 達磨寺はなんというか、とても気持ちのいいところであった。
 「お茶や冷たいお水があります。ゆっくりお休みください」と休憩所があったり、「いつからでもどうぞ」と参禅会のチラシがあったり、フレンドリーであると同時に信仰が根付いて生きている。
 鐘をつかせてもらう(これもご自由に)。ゆっくりと二回つくのがいいらしい。一度目は「自分の心が安らかでありますように」、二度目は「みんなが幸せでありますように」と。
 ああ、そうか、と思う。
 仏教の出発点は欲の否定だった。小乗仏教はそれを実践しようとする。それに対し、大乗仏教は、釈迦の言葉をその言葉通り実践するのではなく、その精神を守ることに主眼を置く。たとえば三衣一鉢なんて、インドだからできたことであって、言葉通り守ったりしたら北海道の仏教徒はみな凍死してしまう。同じように、小乗仏教(上座部)と違って、欲望を完全に消滅させようとはしない。そんなことを目標に掲げたら、みな仕事を辞め、出家しなくてはならなくなるだろう。そこで欲望を完全に捨て去るのではなく、その欲望の持つ生命力を生かそうとする。それも小さな欲なんかではなく。誤解されがちな「理趣経」も、あれは単純なセックスの肯定ではない。分別や善悪を越えた彼岸の話だ。欲にも分別なんてあってはいけない。だから、「みんなが幸せになりますように」なんだ。自他の分別など捨てて、みなと幸せになる、これが大欲なのだ。
 安らかな心と大欲。2つの鐘をついて、晴れ晴れとした気持ちに包まれた。観光に寺を訪れることがあるが、こんな風な気持ちになったことは珍しい。達磨寺に感謝。


 達磨寺本堂。北辰鎮宅霊符尊とある。だからここに登る階段の下に蛇と亀があったのか、と納得する。北辰は北極星や北斗七星のこと。いわゆる妙見様である。方位の四神のうち、北は玄武であり、その姿が亀と蛇(多くは蛇が巻き付いているのだが、ここは一対で玄武を表している)なのだ。この妙見様も日本の神と仏教とが溶け合い、独特の信仰の形をとっていたけれど、明治の神仏分離令でずたずたにされてしまった。熱烈な妙見信仰の持ち主にぼくの大好きな葛飾北斎がいる。彼は生涯いくつも画号を変えたが、その中の「戴斗」「辰政」「雷震」、いや一番有名な「北斎」も妙見信仰にちなんだものだし、彼が用いた印象は「亀手蛇足」、すなわち玄武であった。

 長くなってしまったので、「芸能の誕生」まではいかなくなってしまった。
 それはまた後日ってことで。
 なんだ、予告と違うじゃん、とお怒りの方もいらっしゃることでしょうが、なにとぞご容赦のほどを。
 では、次回「毎日が観光」、「今度こそ芸能の誕生について書けたらいいな」をよろしくお願いします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする