坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

如来さまがくれた娘

2012年06月05日 | 坊主の家計簿
 映画『神さまがくれた娘』はエエぞ。

 http://www.oaff.jp/program/compe/05.html

 娘を持つパパとしては、泣けて泣けてしょうがないんだが、「おまえ、この前も朝帰りしとったやないか」だったりするのだが…。

 今日は、学校。学校に行く前に少し離れた所にあるホームセンターでお買い物しなければならなかったので車で出かける。大きな通りに出るまで渋滞していたので「遅刻するかも」とハラハラしていたのだが、大きな通り(中央大通り)に出たら夕方にも関わらず車が流れていたので余裕で間に合った。課題発表の日だったので遅刻したらシャレにならん、事もないのだが…。私の発表は後半なのでそれまでに間に合えば良かったのだが、つか、それ以前に学校に遅刻するなよ。

 今回の課題はかなりやっつけ仕事になってしまった。せっかく勉強する機会を与えて頂いたのだが、他の事もあってナカナカ出来ません。本を読むのは疲れるし。

 Hi-Hiという漫才コンビは「パスタ巻いてる?」と聞いて来るが、「勉強してる?」に聞こえて来たりする。いや、筋肉痛が、でんなぁ…。もっとアクティブに動ければいいのだが、ナカナカそうは行かず、本を読む事も「疲れてるし、いや」と。iPhoneでゲームしたり、テレビをヌボーっと観たり、こうして酒飲んだり。
 私は専修学院という道場で学ばせて頂いて、その4年後別科に行った。間に4年間あったので、その4年間如何に勉強しなかったのか解っていたので、別科時代は勉強しまくった。で、卒業。卒業してからも全く勉強してなかったわけではない。そこそこはしていたのだが、なんせナマケモノであり、酒飲みであり、ゲームが好きであり、と云々。で、今は週に一度程の学校。学生である。「学生は勉強するのが仕事だ!」の学生である。幸いにして課題もあって、自習もやらなければならない恵まれた環境に居ている。

 つか、先輩のブログやTwitterなんぞを見ていると、法話の為に勉強してはる。「おお!スゲー!!!」である。つか、そうでないとイカンよなぁ…。

 通っている学校は6月で1年目が終わり。7月からは2年生。班も代わる。今、指導して頂いている先生とも別に離れるわけではない。クラスメートとも離れるわけでもない。少人数の学校だし、顔も合わせるが、それでも色々な事を班の中で話し合う機会は今日で最後。色々な刺激を頂いた。それぞれがそれぞれの問題意識があるから、別に行かなくても構わない学校に行っている。道を求めて居られる。経験や能力、やる気はそれぞれ。確かな事は間違いなくそれぞれに道を求めて居られる。
 竹中先生は私たち学生の事を菩薩と呼んでいた。京都にある仏教系各種学校合同でのスポーツ大会を「菩薩のスポーツ大会」と呼んでいたし。

 7月から、新しい班。新しい班で、殆ど喋った事がない方々とも一緒に課題を共有出来る。
 で、前回、課題の発表順は出席番号(五十音)だったのだが、新しい班でもそうなのだろうか?なら、私が一番になったりするのだが。で、今回やった歎異抄第三章の後半部分を前半部分に引き続きやる事になったりするのだが、今回で後半部分もやってしまった気もするので「何も出て来まへんよ」だったりするのだが、テキストを殆ど読まずに課題を仕上げてしまったので、まあ、深めるいい機会か。

 今回は『世のひとつねにいわく』である。『つね』が特に気になって唯識をサラッとやりたかったのだが、結局チラ見程度だけ。本を読み返すいい機会だったのだが、出来ず。まあ、こうして言い訳(自己保身)しようとする働きは『世のひとのつね』だったりするのだが。

【人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。】(ルカ福音書22章54-62)

 と、ペトロを思い出したりするのだが、そうか、これを使っても良かったかも知れん。

 学校帰りにラーメン屋。クーポンがあったので今日は唐揚げ付き。帰宅すると部屋の電気は消えていて、娘とママが寝ようとしていた所。とりあえず娘の頭をなでなでして「おやすみ」「パパ、おやすみ」と、本日唯一の親子の会話。今後は知らんが、今の所、娘が私を無条件に受け入れて呉れている。娘に救われていたりする。
 今後は知らんが、今の所、娘にとってパパが善人だろうが、悪人だろうが関係なく、過去に何をして来たのか関係なく、「パパ!」と。「パパ!抱っこ!」と。まあ、タマにパパ嫌いモードになったりもするが、それでもすぐに「パパ!抱っこ!」と。

 如来の子。如来さまから預かった子どもではなく、キリスト教でいう『神の子』的な意味合いでの『如来の子』。まあ、今後は知らんが、「今後なんかどうでもいいくらいに」と言ってしまいたいのだが、「パパの靴下と一緒に洗濯しないで!」「パパのトイレの後はイヤ!」「パパ、酒臭い!」とか言われるのかも知れないが、そういう不安もあるのだが、それもこれもまずは無条件に私を引き受けて呉れているが故。嫌ってくれるわけだ。まあ、その時のパパがどういう風に感じるのかはその時次第だが。


 おまけの本日発表。言い訳はしたぞ(笑)



 歎異抄 第三章前半 
                         
※ 表題 『五濁の世、無仏の時』

※ 本文

 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。


※現代語訳

 信心の欠けた「疑心の善人(-価値)」でも方便化土に往生する、いわんや信心に篤い「他力の悪人(+価値)」の報土往生は当然だ。ところが世間の人は、「悪い人(-価値)」でも往生す、いわんや「善い人(+価値)」の往生は当然だ、と語っている。世間の人の考えはもっともなように見えるが、本願他力の趣旨に反している。なぜなら、「疑心の善人(-価値)は自力が不可能であることを理解せず、他力の信心を欠如しているので、弥陀の意志に反している(仏智疑惑の罪によって報土往生は叶わない)。しかし「疑心の善人(-価値)」が、自力の不可能なことを察知して他力の信心に帰入すれば、報土往生が可能となる。
( 平雅行氏『親鸞とその時代』160頁~161頁)

 善人でさえも、真実の自己になることができる。まして悪人はいうまでもないことである。ところが、世間では「悪人でさえ真実の自己になれるのなら、まして善人はいうまでもないことである」といわれている。このことは、一応、もっともなようであるけれども、阿弥陀如来の本願の御(おん)こころに背(そむ)くものである。
(親鸞仏教センター http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn05.html)


※ 語意・語注

(一) 本願他力の意趣にそむけり

【『往生論註』にいわれている。
 「つつしんで、龍樹菩薩の『十住毘婆娑論』をうかがうと、<菩薩が不退転の位を求めるのに二種の道がある。一つには難行道であり、二つには易行道である。
 難行道とは。五濁の世、また仏がおられない世において、不退転の位を求めることを難行というのである。難行である理由は多いが、略して、少しばかりあげて意味を明らかにしよう。一つには、かたちにとらわれた外道の善が菩薩の法を乱す、二つには、声聞が自利のみを求めて菩薩の大慈悲を行うことをさまたげる。三つには、人の迷惑を考えない悪人が他の人の修行を邪魔する。四つには、迷いの中の善果である人間や神々に生れることに執着して仏道の行を損なう。五つには、ただ自力のみであって他力のささえがない。このようなことは、みな眼前の事実である。これをたとえていえば、陸路を徒歩で行けば苦しいようなものである。
 易行道とは、ただ仏を信じて浄土の往生を願えば、如来の願力によって清らかな国に生れ、仏にささえられて、ただちに大乗の正定聚に入ることができることをいう。正定聚とは不退転の位である。これをたとえていえば、水路を船で行けば楽しいようなものである>といわれている。いまこの『無量寿経優婆提舎願生偈』に示された法は、大乗の中の極致であり、不退転の位に向かって順風を得た船のようなものである。
 <無量寿>とは、浄土の如来の別名である。釈尊は、王舎城や舎衛国において、大衆の中で無量寿仏の本願によって成就されたさまざまな荘厳功徳をお説きになった。そこで、その荘厳功徳のすべてをおさめた名号をもって浄土三部経の本質とするのである。後代の聖者天親菩薩が、釈尊の大いなる慈悲のお心から説かれた教えをいただかれ、経にしたがって願生偈をつくられたのである」】
(本願寺出版社『顕浄土真実教行証文類・現代語版』44頁~45頁 聖典167頁~168頁)

【いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊在世の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。】
( 本願寺出版社『顕浄土真実教行証文類・現代語版』529頁~530頁 聖典357頁)

【このごろは、自分こそが真の念仏者だというような振る舞いをして、善人だけが念仏することができるかのように考え、例えば、念仏の道場に、禁止事項を書いた紙を貼り、「○○のことをしたものは、道場に入ってはならない」などということは、ただただ外見には真面目な念仏の行者を装って、内心には虚きよ偽ぎをいだいているものではないのか。たとえ、本願に甘えて犯した罪であっても、それは人間には知り得ないほど深い必然性の作用なのである。】
(歎異抄十三章 現代語訳は親鸞仏教センター 
http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn17.html)



※ 関連語句&所感

「善人は居場所が与えられるが、悪人には居場所がない」という竹中智秀先生の言葉を思い出す。
 今回課題を与えて頂き、最初に気になった語句は『 世のひとつねにいわく』である。

 その『世のひと』の『悪人』は河田光夫氏が

【「悪人」は、常に他者が社会的に押しつける事から生じる観念である。】(河田光夫著作集・第一巻『親鸞の思想と被差別民』12頁)

と、端的に言い切られている。河田氏は当時『悪人』という言葉がどういう風に使われていたのかを研究し『悪人=被差別民』という結果を出して居られる(註・象徴的意味合いとして)。しかしながら、それだけでは不十分ではないか。信國淳先生は

『世間に抱く関心は必ず自己中心の善悪による関心である』
という言葉を残されている。社会での差別といっても、それは私(たち)が作り出しているものに他ならない。何か何処かに『社会』というものが存在するわけでもない。いや、『社会』というものが「存在している」と思わせるものが問題なのだが本題ではない。

 『世のひとつねにいわく』の『世』とは単なる『世』ではなく『五濁の世』である。阿弥陀経に『五濁悪世』と書かれている様に末法=五濁ではないが、「末法とは後がないという事」とある先生と語って居られたが、後がない末法であるが故により一層「それでよいのか?」と問われる。
 五濁とは

【「劫濁」ですが、「劫」は、「時代」という意味ですから、「劫濁」というのは、「時代の汚れ」ということになります。疫病や飢饉、動乱や戦争が続発するなど、時代そのものが汚れる状態なのです。
 「見濁」の「見」は、「見解」ということで、人びとの考え方や思想を言います。したがって「見濁」とは、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。
 「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。
 「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。心身ともに、人びとの資質が衰えた状態になることです。
 「命濁」は、命の汚れということですが、それは自他の生命が軽んじられる状態と考えられます。また生きていくことの意義が見失われ、生きていることのありがたさが実感できなくなり、人びとの生涯が充実しない虚しいものになってしまうことであると、今は解釈しておきたいと思います。もともとは、人間の寿命が短くなることであると解釈されてきましたが、それは命の年数が短くなるというよりも、精神の豊かさが薄らぐことを意味していると理解してよいように思われるのです。】(古田和弘『正信偈の教え~みんなの偈』より

 また、竹中先生は

【親鸞聖人は「何故、念仏なのか」について、その念仏の法が「時機相応の法なれば」と、繰り返し語られています。私たちは誰でも「時機的存在」なのです。そのため、その時代社会がどういう問題をかかえているのかによって、私たち一人一人が決定的な影響を受けることになります。だから、教法もその時機に相応するのか、しないのかによって、私たち一人一人が救われるのか、救われないのかを、左右してきます。
 聖人は私たち凡夫の生活する現場はいつでも「五濁悪時」であると、言いきられているのです。五濁とは、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁です。聖人は五濁について、とくに見濁と命濁とを重視されています。見濁とは私たちのだれでもが、その身に覚えのある「自是他非」の心のことです。それは自分自身が何をしても、例え人を傷つけ殺害することがあっても、仕方がなかったこととして正当化して、そのことを是とし、肯定する心のことです。その心は一方、誰かがどのような善いことをしても、それを讃嘆することができないで、否定的に評価してしまう心でもあります。それこそが「見濁」であり「自是他非」の心です。
 命濁とはその見濁によって、他人も傷つくことになり、結局はまた自分自身も傷つくことになって「自害害彼 彼比具害」していくことをいいます。聖人は「命濁中夭刹那にて 依正二報滅亡し」と和讃されています。このことは、私たちの見濁によって、縁ある共に生きているものが、「他非」され「他非」されて、その存在が否定され、排除されていくことを、問題にされているのです。
 最近、小学生の中で「死にたい」と思う小学生が激増していると、言われています。何故かというと、「僕がおってもおらなくても同じではないか」と、思いつめてしまうから、と言われています。小学生たちは自分自身の存在証明を自分ではできないために、誰かにそれを求めるのです。しかし、誰一人として真実、「君がいてくれなければ」と言ってくれる人がいないのです。そのため、「僕がおらない方が、いいのにちがいない」と、自殺しようとするのです。このことも私たちが日常生活の中で、案外、共に生きている身近な人に、「自是他非」の心を示していることを告げています。そのようにして、五濁の世は私たちの生活現場から、開け、ひろがっているといえましょう。だからこそ、親鸞聖人は、「如実言」としての「念仏して、共に生きよ」の本願の叫びを聞きなさい、と勧めているのです。】
(竹中智秀先生『「正信偈」を貫く本願の教え』より)

と。であるが故に『 世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。』と思いこんでいるのは五濁悪世を生きる私(たち)の日ごろのこころに他ならない。そして、そういう私(たち)が『善人は居場所が与えられるが、悪人には居場所がない』を作り出している。
 
 椅子取りゲームというのがある。ゲームとしては久しくやっていないが、ゲームでなく、日ごろの生活として椅子(居場所)の獲り合い奪い合いをしている。常にその場での居場所を与えられる居場所を奪える善人(勝ち組)になろうとし、居場所がない居場所を奪われる悪人(負け組)になる事を怖れる。
 親鸞仏教センターの現代語訳では

【 世間では「悪人でさえ真実の自己になれるのなら、まして善人はいうまでもないことである」といわれている。】

 とあるが、善人は堂々とし、悪人が堂々としていると「犯人はカツ丼をペロリを平らげた」と新聞に書かれるように悪人は怯えていなければならない。「あんた、自分がやった事を解っているの?」である。路上生活者は「あんた、ちゃんと勉強せんとあんな風になるのよ」と親子の会話で指差される。大谷専修学院の先輩僧侶である川浪剛さんは

【私の親父というのは、長く日雇い労働をしていた人で、物心ついたときからずっとそのことで悩んでいました。ご近所さんがヒソヒソ話をしているばかりか、祖母からでさえ「あんたとこのお父ちゃんは世間様に対して顔向けができひん人や」と言い聞かされてきました。】(『貧魂社会ニッポンへ~釜ヶ崎からの発信』220頁より)

 と、御自身が今現在日本最大の寄せ場・釜ヶ崎の人達との関わりの原点を振り返られて書かれて居られる。

 善人志向の生き方は窮屈であり、たまたま思い通りに生きれているとしても、所詮は砂上の楼閣である。