ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

あらためて文学と向き合うための10作リスト・02 アンチ・ヒューマニズム

2022-03-26 | あらためて文学と向き合う。
 01からのつづき。


 ぼくは悲観的かつ過激な性格なので、根っこは反ヒューマニストである。人間を中心として物事を考えてはいない。早い話、いまの人類ってものはいったん滅んだほうがいいんじゃないか、とさえ腹の底では思っている。これほど文明が熟していながら、どうして軍事と縁が切れないのか。世界各国が軍事に費やしているマンパワーや経費や知的リソースをぜんぶ福利厚生に回したら、地球は明日にでも夢のような理想郷へと進化するだろう。人類のすべてとまではいかぬかも知れぬが、今と比べれば遥かに多くの人々が幸せに暮らせるはずだ。わかっていながらそれができない。今日もまた誰かが誰かの血を流し、弱者が苦難に晒されて、そのいっぽうで(ボブ・ディランが歌うところの)「戦争の親玉」どもが肥え太っている。どうにもこうにもしょうがない。
 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の世界的ベストセラー『サピエンス全史』に続く第2作『ホモ・デウス』(原著は2017年刊)には、「もとより人類は多くの危難を克服できてはいないが、とりあえず深刻なパンデミック(疫病の蔓延)や大規模な戦争に見舞われることはないだろう。そのていどには聡明になってきたと思う。」というようなことが書いてある。大外れではないか。これはハラリ氏がうっかりしたというよりも、人類のほうが氏の想定よりも愚かでありすぎたのだと思う。
 『サピエンス全史』は人類の過去(歴史)を論じたもので、『ホモ・デウス』は未来を論じたものだ。そのぶんだけSFチックといえる。AIによって齎される未来がけして明るい展望だけではないと予見されている。そこは反ヒューマニズムである。SFとは近現代の文学が産み落とした鬼子みたいなジャンルで、もともと反ヒューマニズムが身上なのだ。中学時代のぼくはSFが大好きだった(文字どおりの中2だったわけだ)。根に反ヒューマニズムの資質を抱えているからSFに惹かれたのだろうし、SFを耽読するなかでいっそうそんな資質が高じたともいえる。
 そのあと高校に上がってから改めて「純文学」の魅力に気づいた。純文学というか、このたび扱っているような「主流派(メインストリーム)」の文学といったほうがいいかもしれぬが、こちらはもちろんヒューマニズムに貫かれている。『戦争と平和』なんてとりわけそうだ。トルストイはまさしく人類愛のひとである。
 だからぼくにとっての文学ってものは、自らをヒューマニズムの側に繋ぎとめておくための装置だともいえる。偉大な作品を読むたびに、そこに描き出された人生模様に思いを馳せ、そのような作品を書いた作家の才能に敬意を抱く。そのようにして、人間という存在に対する信頼感を取り戻し、「いまの人類ってほんとは滅んだほうがいいんじゃないの?」という自分の内の猛毒を中和しているわけである。
 といったわけで前回からつづく「その02」だけれども、『戦争と平和』『自負と偏見』『赤と黒』『カラマーゾフの兄弟』の4作がすんなり決まった反面、あとの選出は難航した。
 ⑤『ミドルマーチ』 ジョージ・エリオット(光文社古典新訳文庫。廣野由美子訳)。
 近代小説を確立したのは世界に先駆けて「市民社会」を築いた英国といっていいと思うが、その英国からの2作目がこれ。しかしこの国から2人の作家を選ぶとして、ひとりがジェイン・オースティンなのはいいとして、もうひとりは本来チャールズ・ディケンズを選ぶべきところだろう。英国を代表する大作家ディケンズさんを差し置いて、知名度において日本では劣るエリオット女史をリストアップしたのはひとえにぼくの好みゆえだ。廣野由美子さんによって新しく訳出された光文社古典新訳文庫版の『ミドルマーチ』がたいそう面白かったのである。
 もうひとつ、とかく男性にばかり偏りがちな(男性作家の数のほうが圧倒的に多かったのだから仕方ないが)文学史の中から、どうにかして女性作家をひとりでも多くリストに加えたかったという理由もある。
 そうはいっても『ミドルマーチ』をご存じの方はどれくらいおられるだろうか。ウィキペディア日本版「ミドルマーチ」の項を引用させて頂こう(一部を改稿)。



 ミドルマーチ(Middlemarch, A Study of Provincial Life)は、ジョージ・エリオットのペンネームをもつ英国の作家メアリー・アン・エヴァンズが執筆した小説。1871年と1872年に8回に分けて発表された。1829年から1832年までの架空のイングランド中部の商業都市ミッドランドを舞台に、それぞれ異なった生活環境の中でともに理想に燃える二人の男女の人生の経緯を描く。副題に「地方生活の一習作」とあるように、ミドルマーチの住民を描きながら、多彩な人生模様と心の動きを描いて、人生について深く考えさせる作品となっている。エリオットは1869年から1870年に小説を形成する2つの作品を書き始め、1871年に完成させた。当初の評価はまちまちであったが、後年ヴァージニア・ウルフが、この本を激賞して以来、今では彼女の最高傑作、英国における偉大な小説の1つと見なされている。


 付け加えておくと、この小説は近年いよいよ評価が高まり、「英国における偉大な小説の1つ」どころか、2015年にBBC(British Broadcasting Corporation英国放送協会)が英国以外の各国の批評家たちに対して行った「偉大なイギリス小説」のアンケートで堂々の1位に輝いている(ちなみに2位と3位は、やはり女性作家のヴァージニア・ウルフによる『灯台へ』と『ダロウェイ夫人』)。ディケンズの『大いなる遺産』が4位であった。






あらためて文学と向き合うための10作リスト・03につづく


あらためて文学と向き合うための10作リスト・01 外せない4作品。

2022-03-26 | あらためて文学と向き合う。

 今年に入ったら世界文学の古典的名作について論じようと思い、「あらためて文学と向き合う」というカテゴリまで作って昨年末から準備してたのに、『戦争と平和』について少し書きかけたところで、体調不良などで滞っているうち、プーチン大統領のウクライナ侵攻ですっかり気勢を殺がれてしまった。「文学に罪はない。」という言い方はできるし、「こんな時だからこそロシアの生んだ偉大な小説と向き合うことに意義がある。」という言い方もできるが、やはりこの状況下でロシアにまつわることを楽しげに語るのはどうにも気が引けるのだった。
 「あらためて文学と向き合う」のカテゴリでは、『戦争と平和』を皮切りに10本の作品を扱うつもりだった。『戦争と平和』ほどではないにせよどれも大物ばかりであり、相変わらず意気込みだけは立派である。そういえば「戦後短篇小説再発見を読む」のカテゴリも長らく中断している。ほかにも「いずれやります。」と言っておいて放りっぱなしになっていることが沢山あったと思うがどれくらいなのかは自分でもよくわからない。いいかげんな奴である。しかし「あらためて文学と向き合う」はごく最近の話なのだからこのままというのも落ち着かない。
 『戦争と平和』論は当面のあいだ憚られるので、今回は「論じる予定の作品リスト」および「それを選ぶに至った経緯」について述べたい。
 まず①、その『戦争と平和』だけれど、これは問答無用の即決だった。妥当な判断だと思う。評価の定まった古典的作品のなかでは、この長編を文学史上の最高峰に挙げる人はけして少なくないはずだ。ぼくとしては、高1の春にいきなり挫折して以来これまでの人生で何度か手を伸ばしながらも結局通読できなかった難物を克服する良い機会でもあった。望月哲夫氏の新訳が出て、これがすこぶる性に合っていて読みやすかったのだ。
 ②がジェイン・オースティン『自負と偏見』(新潮文庫。小山太一訳)。長らく親しまれた中野好夫訳に代わってのこれも新訳である。新しければいいってものでもないのだが、小山さんの日本語はいつも明晰で読みやすい。
 近代小説発祥の地ともいうべき英国からはまずジェイン・オースティンを選んだ。これもそんなに迷わなかった。1775(安永4)年生まれだからトルストイより50年ほど前のひとだ。作風はまるで対照的。さほど大きな題材は扱わず、日常の細部、感情のささやかな動きを緻密に描く。ネット上でどなたかが「トルストイが黒澤明ならばオースティンは小津安二郎」と評していた。少々荒っぽすぎる比喩かもしれぬが、ニュアンスとしてはそんなところである。
 「生きるための婚活」という普遍のテーマを扱っているゆえに、昔から根強いファンに支えられているし、小説史における女性作家の草分けということもあり(紫式部を除く)、近年になって専門家からの評価もますます高い。この人は外せないと思った。
 ③がスタンダールの『赤と黒』。大岡昇平訳。これもいくつか訳が出ているが、70年代に講談社版世界文学全集の一冊として出た大岡さんの訳である。これに関しては数種の訳を読み比べて厳選したわけでなく、家にあったものを選んだ。ぼくが20代の頃にはどの古本屋にも「文学全集」の端本が300円くらいで転がっていた。しっかりした装丁だから嵩張るのが難だが、貧乏な身にはあれはほんとに助かった。そのようにして手に入れた一冊である。
 そうはいっても大岡さんといえば戦後の日本を代表する作家であると共にスタンダリアン(スタンダールの研究家。あるいはマニア)としても高名だった。もともとスタンダールの翻訳や研究書から文業をはじめて創作へ移行していったのだ。丸谷才一流にいうなら「スタンダールの弟子」のひとりである。この訳は上下に分冊されて講談社文庫から出ていたが、今は絶版らしい。勿体ない。
 そしてまたトルストイもいうならばスタンダールの弟子なのだ。いかに彼が大才であろうとお手本もなしに『戦争と平和』は書けない。当時のロシアにはあの大作の導きになるような先行作品はなかった。スタンダールは1783(天明3)年生まれだからオースティンさんとおよそ同時代である。つまりトルストイの50年先輩。トルストイの頃のロシアはすべてにおいてフランスに範を仰いでいた。『戦争と平和』の中の「ワーテルローの戦い」の描出に当たって『パルムの僧院』の戦闘描写を参考にした……という話は有名だけれど、影響を受けたのがそこのところだけである筈はないのだ。
 村上龍のデビュウ作『限りなく透明に近いブルー』でも言及される『パルムの僧院』でもよかったのだが、より読みやすいほうということで、『赤と黒』にした。迷える青年ジュリアン・ソレルの苦難は現代ニッポンの若い世代にも共感できると思う。
 ④がドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』。上記3作と比べるといささか異色の小説なのだが、やっぱりこれも外せない。なにしろあの村上春樹が、『グレート・ギャツビー』『ロング・グッドバイ』と並べて「もっとも影響を受けた3冊」に選んでいる。発表されたのは1880(明治13)年ではあるが十分これは「現代小説」といっていい。少なくとも「現代小説の源流のひとつ」であるのは間違いない。
 日本では亀山郁夫氏が殊の外このドスト氏に拘って何冊も関連書籍を出しておられる。ぼくが選んだのもその亀山氏の光文社古典新訳文庫版である。今から10年前に出て、この手の古典としては異例なほどの売れ行きを示した。
 この4作は迷わなかった。ほぼ「スタンダード」といっていい。しかしそのスタンダードの中にロシアの小説が2作も入っているのはどういうことなのだろう。近代化の面でも文芸の面でも、あの国は常にヨーロッパ(西欧)に後れを取っていたはずなのだが。しかしその後進性ゆえに、同じく後発だった明治ニッポンの文学者にとってはちょうどよい規範となり、二葉亭四迷(1864/元治1~1909/明治42)を介して日本の近代小説はロシア文学の多大なる影響のもとに誕生したといっていいわけだけれども。



あらためて文学と向き合うための10作リスト・02につづく