ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

22.03.17 ウクライナとロシアについて01

2022-03-17 | あらためて文学と向き合う。





 「文学に罪はない。」という考え方はできる。あるいは、もっと積極的に、「こんな時だからこそロシアの生んだ偉大な小説を読むことに意義がある。」という考え方もできる。とはいえこの状況下で、『戦争と平和』について楽しげに語ることにはやはり抵抗を禁じ得ない。間が悪すぎる。それもこれも、昨年末に準備を始めていながら一向に更新しなかった自分がよろしくないわけだが(体調とパソコンの調子とがともども優れないから仕方ないんだけども)、それにしても、何とも収まりのつかぬ気分だ。そういえば、日本を代表するロシア文学者で、『カラマーゾフの兄弟』の新訳で知られる亀山郁夫氏も、目下の状況を前にひとこと「絶望」と言っておられたが……。
 事態は時々刻々と動いており、ウクライナにとってもロシアにとっても世界にとっても悪い方向に進んでいる(としか思えない)のだけども、ぼくの癖として、こういう折には、より過去のほう、「起源」に近いほうへとアタマが向かう。とりあえず、前回の記事で紹介した黒川祐次氏の『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)に目を通してみた。「ヨーロッパの歴史」といえば教科書でも一般書籍でもとかく「西欧」が中心となり、東欧~ビザンツ帝国~スラブ方面の記述は甚だ薄かったから、ページを繰るごとに知識が増えていくようで面白かった。といってもこの本の初版は2002年だから、2014年のロシアによる(事実上の)クリミア併合についての言及はない。243ページに、「(ソビエト連邦の崩壊に伴うウクライナの独立によって)ロシア人はあれほど愛したヤルタの保養地も、ロシア軍の歴史とともにあったセヴァストーポリも失うことになるのである。」との記述がみられる。
 この記述から12年後、その「ヤルタの保養地」や「軍の歴史とともにあったセヴァストーポリ」を含むクリミア半島(の一部)を、プーチン大統領は、事実上奪還するのだ。
 ロシアとウクライナとの確執は、このクリミアひとつ取って見ても極めて入り組んでいる。
 「ヤルタ会談」で有名なヤルタも、軍港として名高いセヴァストーポリも、もとはウクライナの領土内だった。ただし、それは1954年以降の話で、かつてはロシア帝国の土地であり、革命後は「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」の領土だったのである。
 ソ連という名称につき、平成生まれの若い世代には補足が要るかもしれない。「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」とは、プーチン率いる今のあの「ロシア連邦(正式名称)」のほぼ前身である。その「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」を巨大な中心として、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)、ウズベク、カザフ、グルジア、アゼルバイジャン、リトアニア、モルダビア、ラトビア、キルギス、タジク、アルメニア、トルクメン、エストニアの15の国で構成されていたのがいわゆる「ソ連」であった。「米ソ対立の冷戦構造」という際の「ソ」とは、この「ソビエト連邦」のことだ。
 15国の顔ぶれをみてもわかるとおり、スラブ系のみならず、中央アジアの民も含んで人種は多岐にわたっている。かつての大日本帝国の「五族協和」ではないけれど、ソ連は多民族の協調を建前として謳っていたから、これらの国々の民族的な独立を認めたうえで、連邦に編入させていたのだ。民族主義を無理やりに抑えつけることはなかった。ただしもちろん、「社会主義」という絶対的なイデオロギーを奉じ、かつ、けっしてロシア及びロシア共産党に楯突くことがない、という条件の下で……であったことは言うまでもないが。
 1954年、時のソ連の最高権力者フルシチョフ……この人はウクライナ出身ではなかったが、終生ウクライナに好意的だった……が、「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」としてクリミアをウクライナ共和国に移管する。裏には様々な思惑があったが、いずれにせよ、「当時はウクライナが将来独立することなど毛頭考えられていなかったので、行政上の措置程度の軽い気持ちでなされた決定であっただろう。」(『物語 ウクライナの歴史』)。しかし、1991年のソビエト連邦崩壊により、ウクライナは独立し、クリミアもまたロシアの手から離れることとなる。返還交渉をしていれば……と同書を読みながらぼくはふと思ったが、考えてみれば当時の新生「ロシア連邦」はクーデター騒ぎなどもあって、とうていそんな余裕はなかった。
 「かつての強大なソ連の威信を取り戻す」ことを目標とするプーチン氏にとっては、クリミアの(事実上の)奪還は一つの所定のステップだったのかもしれない。世界はあのときもっと危機感を抱くべきだったのかもしれないが、今回みたいな正規軍を動かしての軍事侵攻ではなかったから、つい甘く受け止めてしまったのだろうか。
 それにしても、さらに時代を遡っていくと、この地域……というより所謂「西欧」からロシアに及ぶ(さらには北欧やらオスマン帝国やらイスラム圏やら中央アジアの草原までをも含めて)……に暮らす諸民族と諸国家が入り乱れての存亡を賭けた大曼荼羅には目が眩むようである。四方を海で隔絶された島国の住人にとっては、よほど想像を逞しくせねば届かないものだ。英国も島国ではあるが、アイルランドを抱えているし、何よりも大陸との緊張の中でアイデンティティーを形成してきた国であるから歴史が違う。
 ぼくたちに親しい作家のなかで、ロシアについてもっともふかく考察したのは司馬遼太郎だと思う。近代日本の形成を振り返るうえで避けては通れぬ「日露戦争」を描いた『坂の上の雲』は有名だけど、そのあとに書かれた『菜の花の沖』はそれほどの知名度はない。しかし、両作はいわば不可分であり、近代(明治)における日露関係を描いたものが「坂の上」だとすれば、それ以前、江戸期から幕末にかけての日露の関わりを描いたものが「菜の花」なのである。『菜の花の沖』はエッセイふうの叙述が多くて物語的な興趣に乏しいと評されたりもするけれど、「近代(明治)以前の日露交渉史」の解説とみるならこれほどわかりやすくて面白い読み物もない。そういう観点から読まれるべきものだろう。
 さらに、この『菜の花の沖』でみられた司馬さん流のロシア観、ロシア論の濃密な集成として、『ロシアについて ―北方の原形』というエッセイがあり、読売文学賞をとっている。これらはいずれも文春文庫に入っていて、電子書籍化もされている。
 『物語 ウクライナの歴史』を読むまでは、ロシアにまつわるぼくの知見はもっぱらこの『ロシアについて』に負っていた。






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